同人結社ブラックΣ
校門を出たら、日が少しだけ翳り始めていた。
夕暮れなんて呼び方は、今宵の僕には似つかわしくない。少しだけ光が細くなって、その中に影を落とす。黄昏刻と言うべきかな?
僕の、一番好きな時間。
光と闇が取って代わるその狭間で、僕も変わるんだ!
今日は大掃除が長引いたので、約束の時間に少々遅れてしまった。貴重な時間を奪われた上に、肉体的にもすごく疲れた。サボっても良かったんだけど……学校では、あまり目立つ行動は取りたくない。
どんな些細な事でも、違和感を感じられてはいけないのだから。
当然、これから向かう目的地も、誰にも知られてはいけない。一見、無用心に見えても、校門からずっと気を配っているんだ。
僕が、いつもの僕に見えるように。ただの平凡な高校生にしか見えないようにね。
僕が目指すのは、利用者の殆どいない寂れた公園。そこのブランコの裏側にある、マンホールだ。
間断なく周囲に気を配る。右、左、右。よしよし、誰もいないな。十分に確認し、そこだけはやけに新しいマンホールの蓋を引き上げる。
「よっ……と。ふぅ、重いなあ」
いつも思う事だが、非力な僕には、ちょっと辛い。ばれないように、と言うのはわかるけど、百八十度ひっくり返さないと開かない作りになっているんだ。
もっとも、こんな面倒な作業すらも、今の僕にとっては楽しい事なのだけれど。
「こんなとこ、他人に見られたら大変だよな」
何とかひっくり返した蓋の裏側には、ギリシア文字の第十八文字、総和記号Σ(シグマ)が銀色で刻印されている。
それを見て、僕は知らず知らずの間に笑いが込み上げてくるのがわかった。
意を決して、マンホールに突入する。蒸し暑い空気が、徐々に、ひんやりとした冷気に取って代わっていく。
ふふ、気持ち良い。
スロープを降りきると、外界と完全に乖離した世界が僕の目の前に飛び込んでくる。
不可思議に黒光りするトンネル。長い廊下も、円状にドームを形作る天井も金属質な寒色で統一されている。一歩進むたびにコツン、コツンと心地良い反響が響き渡り、その音が鳴るたび、僕の心に、静かに昂揚感が広がっていくのがわかる。
『更衣室』と張り紙された扉の前で立ち止まり、ドアノブを引く。
僕を取り巻く世界は変わった。僕も、これから変わるのだ。
平凡な高校生に過ぎない上沢 祐一ではなく。
本当の、僕に。
「ふふ……くっくくく」
高まる興奮に、笑いが抑えきれない。
僕はその部屋の中で、『変身』していた。
僕は、備え付きの鏡で自分の姿に見入った。
堕天使の如きマントに覆われ、漆黒のタキシードに身を包んだ、闇色の貴公子。銀の単眼鏡を輝かせるのは、悪の英知とエリートの自信だ。
ほんの十数分前、汗を垂らしながら必死で雑草を毟っていた冴えない学生の姿は、ここにはない。
これが、僕。
僕の名は、ウィザーブラッド。
秘密結社ブラックΣ三大幹部が一人。
高貴なる奇術師の異名を持つ、組織一の策略家。キザでニヒルでシニカルな闇の紳士。
「ふふん」
鏡の中の僕が、不敵に唇を吊り上げた。
ここは、悪の秘密結社ブラックΣの秘密基地。組織の構成員以外、誰一人ここの存在を知りはしない。
地上でのうのうと平和に暮らしている凡俗どもは、いまも自分達の足元で胎動している邪悪で狡猾な計画の事など、何も知らないのだ!
「ふふふ、はははは!」
笑いながら、僕は恐怖を振りまく凶鳥の如くにマントを翻し、風を切りながら更衣室を出た。
廊下の奥に見える、一際大きな赤い扉は最高幹部しか入れない会議室の入り口だ。どうやら、他の幹部は既に到着しているらしい。
僕はその扉にもたれかかるようにして、ゆっくりと背中で押し開けた。
「くくっ、おやおや皆さん、お揃いのようで」
部屋の中に見える相手をどこか小馬鹿にするように、僕は言ってやった。
「遅いぞブラッド。貴公はこの場をなんと心得ているのか」
間髪入れず、薄い銀の衣で身を包んだ美女がそう言った。
要所を中世の甲冑のようなパーツが覆い、鷹を思わせる鉄仮面で顔の上半分を隠した彼女の表情を窺い知る事はできない。が、毅然とした態度と清声から、その燐たる性格は十分に感じ取れる。
彼女は、裂光の騎士ことルミナブレイド。大輪を咲かせた悪の華。
僕と同じブラックΣ三大幹部一人にして、組織の紅一点だ。
「さあねぇ? 僕がいなければ始まらない会議なのですから、主役は僕なのでしょう? そして主役とは遅れて登場するものですよ、ルミナ。もっとも、レディをお待たせしてしまったことは謝罪しますがね」
僕は慇懃無礼に言い放った。この不敵さこそが、ウィザーブラッドの真骨頂なのだから。
「ブラッド! この最高幹部会が組織にとってどれほど重要なものか、貴公は理解しておらぬのか!」
ルミナブレイドは席を立って、腰から細剣を引き抜き、突き刺さんがばかりの勢いで僕に向ける。
彼女は一途な激情家だ。ふふふ、まったく笑わせてくれるよ。
「どうでもええじゃろうが、そんな事は」
コツコツ、と机を叩きながら、三大幹部最後の一人が面倒くさそうに口を挟んだ。
「アール卿! 貴公がそのような態度では」
「早く始めてくれんか。ワシにとってはこんな会議なんぞより、研究の方が重要なのじゃ。 貴様等の無駄な会話に割けるワシの時間はコンマ一秒たりともないのだぞ」
しゃがれた声でそう言うのは、半身を機械化した初老の男。
組織のブレーン、地獄の職能アールマイスターだ。もっとも、その頭脳は組織の運営よりも狂気の科学、不可能科学の完成に注がれているのだが。まあ、天才と狂人は紙一重、というヤツだ。自身で肉体改造した左手の巨大なカギ爪が、死神の鎌の如くに禍々しい弧を描いて僕を指差した。
「さあ若造。ぐずぐずせずに報告をよこせ。もっとも、聞かずとも結果は知れておるがな。ワシの開発した食人ゴミ箱は、計算通りに学校中の人間どもを食い尽くしたであろうよ、ひひ、ひゃははは!」
アールマイスターは生身のままの右手で頭を抑えるようにして、甲高い笑い声を上げた。彼は自分の発明を自慢する時、最高にハイになる。
「それでは……くっ、ぷぷぷ!」
だ、ダメだ。
僕は堪えきれずに笑ってしまった。
「ヌ? どうしたのだ若造?」
「いやいや、待ってよ源五郎さん! あんたハマり過ぎだって!」
「おいおい、祐一君。そりゃ言わない約束だったでしょ」
すると、ルミナブレイドが先程までとはまるで違った、女性にしては太い声で言った。
「だ、だってさ美奈さん……はははは!」
どうもツボにはまってしまったらしい。笑いが止まらないよ。
「そんなに笑っちゃ悪いでしょーが。でもアレだよね、食人ゴミ箱って何よ。全然センスないしぃ。英語くらい使っとけっての」
いけしゃあしゃあと言い放つ美奈さんには、別に悪意があるわけではない。ただ、こういう言い方しか出来ない人なんだ。
「ええい、だったら言わしてもらうがの」
アールマイスターが、いや、源五郎さんが大仕掛けのマスクを外して喋った。
ある意味、いかにも悪の幹部然としたマスクよりも数段凄みのある頑固親父の顔が現れる。
「お前さんらの格好も、相当のもんだぞ。いい年した若い者がそんな格好を」
「それもそーなのよ。この衣装、暑くて暑くて。今、何度よ?」
ルミナブレイドの仮面を脱いで、美奈さんの汗だくの素顔が表れる。こう言っては何だけど、美奈さんの素顔はそんなに可愛くない。というか、彼女が素顔を見せたせいで余計に暑苦しくなったような気すらする。
「あ? どうかしたの、祐一君?」
パタパタと胸元に風を送りながら、美奈さんは僕に投げやりな視線を投げてよこした。
「い、いや別に。まあ、さっきのは僕が悪かったよ。ゴメンゴメン。折角ノってたのにさ」
僕は円卓に座って力を抜いた。ふう、疲れた。凝って作ったから結構重いんだよな、このコスチューム。羽飾りのついた山高帽を脱いで、机の上に置いた。
我ながら、よく出来てるよなあ。
「でも、一回目にしては、大成功なんじゃない? 悪の秘密結社ゴッコ」
僕は、現実に戻った。
ウィザーブラッドではなく、上沢 祐一に。
無理して作っていた知的でシニカルなブラッドの表情も、自然に緩んでいるはずだ。
うん、目の前の二人と同様に。
「そうだな」
アールが、肩から腕全体を覆う作りになっている機械の爪を取り外した。床に置くと、ゴトリ、と重い金属音が鳴る。その造形美にこだわる姿勢はわからないでもないが、一体、どれだけの重さがあるんだろう。
ふぅ、と息をついて、源五郎さんは狂気の科学者から気難しい大工の顔に戻った。でも、僕は知ってている。源五郎さんがこめかみに皺を寄せている時は、本当は喜んでいる時だって。
「そうだよねえ。うんうん、良い感じ。これで冷房かかってりゃ言う事ねーけど」
ルミナが、見事な虹色のグラデーションを描く長い付け髪を取り外した。
凛とした威風を纏うルミナブレイドが、なんだか不思議な女の子の顔を取り戻す。
やっぱ、社長令嬢は違うなあ。知力も財力も兼ね備えて、見た目は、よく言えばぽっちゃり系、悪く言えば……いや、やめよう。で、性格はもう、見ての通りざっくばらん。僕と同じ同じ高校に在籍だけど、彼女が友達といるのを見たことが無い。まあ、彼女はそれを全然気にしてないとは思うんだけれど。
ある意味、メンバーの中で一番現実離れしている。外見も、内面もだ。
「うん、僕も楽しかった。半年間、コツコツと準備してきた甲斐があったよ」
みんなで現実に戻った後、僕は思い出していた。この、たった三人だけの悪の秘密結社ブラックΣの軌跡。
ああ、大変だったな。でも、すごく楽しくもあった。
みんなと偶然、アニメ特撮系ネットで知り合って。
僕は、そうだね、自分でオタクの意識はあった。変わった人間だと思ってはいたけど、他の二人はもっと凄いじゃないか。しかも同じ町に、こんなに近くに同志がいたなんて。
そして集まったのは三人だけとは言え、思いもよらない濃いメンバーばっかり。
「へへ、このアジトの出来。流石はその道三十年のベテランだよね」
「三十二年じゃ、馬鹿者めが」
源五郎さんが、少しだけ嬉しそうに反論した。町一番の頑固者で知られる源五郎さんが、特撮マニアで本当に良かった。この使われなくなったマンホールを改装して、内装を整えたのは殆ど彼の力だ。ただ、爆薬をやたらにしかけるという案は却下したけれど。美奈さん曰く、「八十年代の悪役じゃあるまいし」ってね。
それから、幹部と組織の設定を考えて。これが一番大変だった。みんな凄い思い入れがあるんだよなあ、悪の秘密結社に。
もっとも、僕も他人の事は言えないけれど。なにせ、僕が悪の秘密結社ゴッコの創案者なんだし。
でも、みんな、好みのキャラがバラバラで良かった。みんなが楽しくなければ、やる意味ないもんね。
「アタシ、子供の頃からこういうのをやってみたかったのよ。誰にも内緒で、友達だけで秘密を作って。ああ、感激だわ」
右手を頬に当て、うはは、と美奈さんが豪快に笑った。本当に嬉しそうな、気持ちの良い笑みだ。
今の美奈さんは本当に楽しそうだ。もちろん、源五郎さんも、僕も楽しい。
相当な時間と手間隙をかけて、デザイン通りにコスチュームを作った。剣や鎧なんかの小道具は源五郎さんが作ったから、出来は文句無しだ。裁縫は美奈さんがやった。まあ、そんなに上手じゃないから皆で手伝ったんだけど。
僕は、製作総指揮。図面から素材まで一から計画を立てた。五年間ずっと、演劇部とコスパで蓄積してきた知識を余す所無く投入したのさ。
二人にとっては、多分初めての体験だったろうね、『変身』は。みんな、最初は恥ずかしがってたけど……ふふ、僕は最年少だけど、この道では大先輩だ。指導の成果は今日の様子で一目瞭然。同じバカならノらなきゃ損々、ってね。
そうやって、三人で作ったんだ。
現代に、悪の秘密結社を。
ただ、何も悪事はしないけれど。そうこれは、あくまで秘密結社ゴッコ。
好事家だけが集まる、言わば同人結社。
同人結社ブラック狽セ。
でも、やるからには徹底的に、だ。結局は意識の持ち方一つで変わる。それはみんな一致していた。
最高に創造的な遊び。今夜はブラックΣの始動祝いだ!
※
「ぐわあああああっ!」
僕は断末魔の絶叫を上げた。派手に吹っ飛ばされ、頭から地べたに倒れ込む。
ちらりと横を見ると、ルミナとアールは既にやられていた。
くっ。これは潮時、か。
「ぐぅっ! く、くくく。やりますね。ですが、これで」
「うりゃあああっ!」
「わあぁいい!」
喚声を上げながら、僕、ウィザーブラッドを倒したヒーロー達が止めを刺そうと突っ込んでくる。
何てことだ、捨て台詞くらい吐かせてくれ!
「これで勝ったと思わな……いてっ、痛ててて! 降参、降参!」
「うりゃうりゃ! どうだっ!」
「えい、えいっ!」
ダメだ、全然聞いちゃいない。
まあ、無理も無いことだけど。楽しい時って、我を忘れてしまうものだからさ。
それに、相手は幼稚園児なんだし。
今日、僕達ブラック博O大幹部はボランティアで幼稚園に来ていた。子供達の遊び相手、それもヒーローゴッコの悪者役として。最近は毎週土曜日、いつも来ている。
ボランティアではあるけれども、これは僕達にとってもいい話なんだ。無心にヒーローになりきっている園児達は、悪の組織員にとって最高の相手役だ。何といっても、世の中に悪の幹部がいないように、正義の味方なんていないからね。ブラックΣ三大幹部にとって、ここは理想の戦場と言えるだろう。
それから……僕、上沢 祐一にとっては、もう一つ理由があるんだけど、さ。
「ぬりゃあああっ!」
「ぐっぼおぼぼ!」
ああ、思いを馳せる暇など、少しもありはしない。
相手は、いかんせん手加減を知らなさ過ぎる。こんな残虐無道なヒーローなんて、そうはいないよなあ。
いや、現代なら何でもアリか。
「どうだっ、まいったかワルモノ!」
「うぎゃっ、いてててて!」
園児達のリーダー格、ヒーローで言うならばレッド役を勤める男勝りのあやちゃんが思いっきり髪を毟ってくる。
おいおい、勘弁してくれよ。うわっ、マントを引っ張るなって! 高いんだぞ!
「はいはぁい、そこまでですよぅ」
本気でヤバイと感じ始めた時、パチパチと手を叩く音が聞こえた。同時に、ほんわかとした、間の抜けた優しい声も。
ああ、助かった。それは、悪の幹部たるこのウィザーブラッドにとっても一抹の救済だった。
保母の杉山 真澄さんが来てくれたのだ。
無情のヒーローも、甘えられる存在には弱いらしい。それは、昔からのお約束だよね。
大勝利を収めたヒーローたちは一方的な殺戮をやめて、真澄さんのもとへ一目散に駆けていった。
ああ、そんなに走ると……
「はぁい、そんなに急ぐと危ないですよ……むぎゅっ」
やっぱり。
真澄さんの華奢な体じゃあ元気一杯の子供達のタックルを受け止めきれず、間抜けな声を出して地面に倒れてしまった。
その一瞬、真澄さんの目と僕の目が合って、真澄さんはちょっぴり照れたように微笑んだ。
僕は、いやウィザーブラッドは皮肉に微笑んで見せたつもりなんだけど……
照れちゃって、喜びの表情は隠せなかったかもしれないな。
「あはは。良かったですねぇ、いっぱい遊びましたね。じゃあ、ちょっとお休みしましょうねぇ」
園児達はぺちゃくちゃお喋りしながら、遊戯室を出て行った。
「おにーさん、今日はありがとー。あやは、すっごくたのしかったの。また、あそぼーね」
何人かは残って、僕達にお礼を言ってくれた。その中には、さっき僕に思いっきり馬乗りになってマントを毟ってくれたあやちゃんもいた。
でも、そんなことは関係ないよね。やっぱり、嬉しいもんだ。
真澄さんは手を振ってそれを見送ってから立ち上がって埃を払った。僕達も、それにならう。
「いつもいつもすみませんねぇ。お忙しいでしょうに、あの子達の遊び相手になって頂いて」
それから真澄さんは僕達一人一人の前に立って、いちいちお辞儀をしてねぎらってくれた。
……なんだか、気恥ずかしいなあ。
改めて言う事でもないけれども。
真澄さん、やっぱり綺麗だよなあ。
年だって、多分二十ちょいだろう。ひょっとしたら、もっと若いかもしれない。
それに、その温和でおっとりとした笑顔は、作り物では絶対に出来ない。本当に優しくていい人なんだ。
僕は、やっぱり嬉しい。
こういう、包みこんでくれるような女性って、少し恥ずかしいけれど憧れてしまう。同じ女の人でも、美奈さんとは大違いだよ。
「いえいえ、こちらも好きでやってるんですから」
「ふん、子供なんてな、出来る間に出来るだけ遊んでおくべきなんじゃ。楽しい思い出は一番の財産じゃからのう」
美奈さんも源五郎さんも、満面の笑みを浮かべている。ただ、自慢のコスチュームは所々ずれたり破れたりしているけれど。まあ、名誉の負傷といったところかな。
「それに、あんなに喜んでもらって、アタシも嬉しいですよ」
ええっ! 美奈さん、あんた子供相手に本気になって泣かしてたじゃないか。
そんな僕の視線を受け流し、美奈さんは豪快に、真澄さんはしとやかに笑いあっている。
「そういって頂けると助かります。そうそう、大したものはりませんけれど、あちらでお茶を用意しましたから」
真澄さんは、いつものように僕達を隣の客室に招待しようとした。
その瞬間。
僕は覚悟を決めて、少しだけ勇気を振り絞った。
「これはこれは。陽光の如く麗しき姫君のお誘い、どうして断ることが出来ましょう。エスコートはこのウィザーブラッドめにお任せを」
僕は大げさにマントを振るって、忠誠を誓う騎士のように真澄さんの前に傅いた。
うむ、流石は闇の紳士ウィザーブラッド、普段の気弱な僕ではとてもこんなことは出来ないだろう。
「うふっ」
真澄さんは、最初はきょとんとしていたけれども、すぐににっこりと僕に微笑をくれた。
それだけで、僕の心臓は早鐘を打ったようにドキドキしてきてしまう。
……ちょっと不純な動機かな? 憧れの真澄さんに近づく為に、こんなこと。でもいいか。
何せ、僕は悪なのだから。
「あらあら、上沢さんったら。じゃあ、お願いしますね」
「光栄の極み」
僕は、真澄さんの手をとった。真澄さんの手は、黒いビニール手袋を通しても柔らかかった。
僕は山高帽を目深に被って、いそいそと茶室に向かう。それにしても本当にあっついなあ、この衣装。
う〜ん、幸せなのやら、何なのやら。
やはり慣れない事をやるものでは……すいません、女性の手を握るのは初めてです。
「こちらですよ。あら、祐一さん、どうかなさりましたかぁ? 何だか、動きがぎこちないですけど」
「お、お、お気になさらずに。ふ、ふふっ、今日の陽天は闇に生きるこの僕にとって、少々随分明るすぎるようですます」
ええい、だらしない!
僕は、高貴なる奇術師ウィザーブラッドなんだぞ!
……でもやっぱり、嬉しすぎて緊張しちゃう。
所詮、僕は弱虫の小心者だった。
「おや、ブラッド。貴様らしくもない。それは新手の魔術言語か?」
くそ、アールめ。この前のお返しか、やけに楽しそうじゃないか。
流石は悪だ。
そうこうしているうちに、小奇麗な休憩室についたんだけど。
「あら? 用意しておいたはずですのに……おかしいですねぇ」
ゆったりとした動きで、部屋を見回す真澄さん。いつもと同じマイペースだけど、本当に困ってるみたいだった。
「ええ、無いのお?」
露骨に失望を声に出す美奈さん。おいおい、何て無遠慮な女だ。しかもあんた、お茶の一杯や二杯で……
これは、良くない悪だな。
「ごめんなさい、本当にごめんなさい。すぐに用意しますからぁ」
ちょっとだけ、申し訳なさそうに姿勢を低くしたまま、真澄さんが慌しく走る。
「なぁに、構わん、構わん。大方、やんちゃ坊主が食ったんだろうて。子供の時は誰だって悪さをするもんじゃ」
それは、別に悪意を持っていったわけではないのだろう。むしろ、源五郎さんなりに真澄さんに気を使ったんだと思う。
でも、真澄さんの反応は素早く、そして激しかった。
「決め付けないでください!」
僕は一瞬、体がすくんだ。
真澄さんが、冷蔵庫を開けたまま、すごい形相で僕たちを睨んでいた。
「子供達が、そんな事する筈ありません! わたし達が信じてあげられないで、一体どうするって言うんですか……っ!」
悲しいような、怒ったような顔で。顔立ちが優しいから、全然怖くないけど。
けど、その瞳はすごく真っ直ぐで……綺麗だった。
僕は、こんな真澄さんを見るのは初めてだった。
「ごめん、なさい」
何故だかわからないけど、僕は謝っていた。僕は自分の事だけで一杯だったけど、あの頑固な源五郎さんも渋々謝っていたと思う。
真澄さんはにっこりと微笑んで、それから申し訳なさそうに顔を下に向けたままジュースを渡してくれた。
それは、すごく美味しかった。
でも、僕はこの時気付くべきだったんだ。
何気ないこの事件こそ、真澄さんの身に迫っている危険の前兆だった事に。
真澄さんが、怒っているだけでなくて、怯えていた事に。
※
「よしよし、誰もいないな」
学校帰りの暑い夕方。僕はある場所に向かっていた。
いつもよりも更に用心深く、細心の注意を払って行動する。
これは……そう、この特殊任務は他の二人にも知られてはいけないのだ。もしばれたならば、組織内における僕の立場は失墜してしまうだろう。そんなことは、この闇の紳士のプライドが許さない。
「あ〜、ワルモノのおにーさんだ!」
ぬあっ!
突然の声に、僕は心臓が飛び出しそうになった。
声の主は、例の幼稚園児の一人。リーダー格のあやちゃんだ。
なんか、このコとはつくづく縁があるなあ。
「あ、あやちゃんか。びっくりさせないでくれよ」
僕は、なるべく平静を保つように心がけた。
「なんなの〜、きょーも遊んでくれるのー? でも、もうみんな帰っちゃったよ?」
そりゃそうだ。むしろ、君がいるなどとは、僕にとっては大誤算だよ。
僕がなけなしの勇気と下心を振り絞って、二人っきりの時間を作ろうと思ってやってきたのに!
「ああ、そうだね。でも、なんであやちゃんはまだ帰らないのさ?」
「ん〜、とね」
あやちゃんは、上目遣いにはにかんだように笑みを浮かべて、自信満々に言った。
「あやはねー、せーぎのみかただから。せんせーを守ってるの」
それは……
ははは、困ったな。
「だったら、僕は入れないかな。なんといっても、ワルモノのおにーさん、だからなあ」
「……ううん」
あやちゃんは俯いて、弱々しく首を振った。その言葉は、なぜか沈んでいた。
と、幼稚園の扉が乱暴に開かれ、中から黒づくめの男が出てきた。
どうだろう、年の頃は三十くらい。よれよれの黒シャツとジーパンに、だらしなく伸びた無精髭。そして、何もかもに食ってかかりそうな、不満と敵意だらけの強面。正直言って、何も知らない僕でも良い印象は持てなかった。
そして、あやちゃんは露骨に悪意を剥き出しにしていた。それは、僕達と遊んでいるときには決して見せない、見たことも無い表情。あやちゃんには、絶対に似合わない貌だ。
「ワルモノめっ!」
小さい体で精一杯に叫んで、いきなりあやちゃんが男に走りかかった。
「またせんせーを泣かせにきたのっ! 今日こそはゆるさないんだからあ!」
な、なんなんなん……だ?
あやちゃんは、全速力で走っていった。小さい拳を握り締めて、思いっきり突っ込んでいく。
それは遊びじゃなかった。小さな小さなヒーローの、本気の戦いに見えた。
そして。
「ケッ……ガキが!」
黒シャツの男はたじろぎもせず、思いっきりあやちゃんに蹴りをいれた!
「きゃあ」
あやちゃんの小さな身体が、一瞬宙に浮いて、それからグラウンドに叩きつけられる。
「大人の話に首を突っ込むんじゃねえよ!」
そう言って、男は唾を吐き捨てた。
な、何て奴だ?
僕はすかさず彩ちゃんの側に走り寄った。
なんとか、大丈夫みたいだけど……
「ちょ、ちょっと……」
「ああ?」
そいつは、僕の事をまるで路傍の石でもみるかのように無関心な瞳で見下ろしていた。
「なんだ、お前。俺は今機嫌が良いんだよ、怪我しないうちにとっとと帰りな」
なにぃ!
とは言うものの、悲しいかな、僕の身体能力は一般的な高校生を大きく下回る。ケンカなんて、勝った事もないし……何より、情けなくなるくらい弱虫で小心者だから。
僕は、恐怖で震えていた。
悔しさのあまり、キリキリと歯を噛む音が聞こえる。僕を、何にも出来ない僕をじっと睨んで、そいつは蛇のようないやらしい笑みを浮かべた。
「そうそう。あんちゃんは賢いなあ。強い奴の言う事は聞いといた方が良いぜ、どうせヒーローなんかいないんだからよ、お嬢ちゃん。ぎゃはははは!」
高笑いを残して、そいつは去っていった。
僕は、何も出来なかった。
「う、くぅ」
「あ、あやちゃん! 大丈夫?」
あやちゃんは痛みに顔を歪め、苦しそうに息を吐いている。僕は、あやちゃんを抱えて幼稚園の中に入っていった。
ちょっと、重いな……失礼だけど。いやいや、そんなこと考えてる場合じゃない。
「真澄さん! 大変ですよ。真澄さん……?」
ああ、何てことだろう。
真澄さんは、泣いていた。
部屋の片隅で、縮こまって。怯えきった小動物のように、泣いていた。
僕は、真澄さんが泣いているところを、初めて見てしまったんだ。
すごく、胸が痛かった。
「あ……上沢、さん?」
真澄さんは、ぼぉっとした表情で僕達を見上げた。
「ああ、すみませんねえ。変なところ見られちゃいましたねえ。どうかしたんですか」
適当に、誤魔化すように言葉を並べ立てる真澄さん。
明らかに、様子が変だった。
「どうしたも何も……あやちゃんが大変なんです。変な男に蹴られて」
「え、あっ!」
僕の言葉に、真澄さんはびっくりしたように飛び起きて、僕達の方に走り寄ってきた。
「ど、どうしたんですか。大丈夫ですか。あやちゃん?」
あたふたと落ち着かなく動き回って、それでようやく、普段の真澄さんを取り戻したみたいだ……少しは。
「た、大変! 上沢ざん、手伝ってくれます?」
「は、はい」
僕は真澄さんと二人で協力して、あやちゃんをベッドに運んで寝かせた。
ベッドの上、あやちゃんは弱々しい声で真澄さんに語りかけた。
「ごめんね、せんせー。あやは、せーぎのみかたなのに。せんせーのこと……」
「はい」
真澄さんは手当てをしながら、心優しい笑顔であやちゃんに答えていた。
「先生は、わかってますよ」
真澄さんは、一生懸命に、そして優しくあやちゃんを気遣っている。
「あやちゃんは、先生の自慢のヒーローですよ。いつも守ってくれて、ありがとうです」
「うん……」
それは、僕にとって胸の痛くなるような光景だった。
こんなに小さな子が、何もわからずに憧れの人を守ろうと身体を張ったのに。
それなのに、僕は一体何を!
「祐一さん。あやちゃん、寝ましたから。隣に行きましょう」
無言のまま、僕達は移動した。
今は、真澄さんと二人っきり。当初の作戦は成功だ。でも。
「あの、真澄さん」
ちくしょう。
ちっとも楽しくないじゃないか。
ちくしょうっ!
僕は、拳を握り締めた。
「聞いちゃいけないのかもしれないけど、聞きますよ。あの男は何なんですか」
真澄さんは、すごく困った様子だったけれど、人の頼みを断れる人じゃないから……
だから、答えた。
「あの人……宮崎さんは、私の恋人、です」
「へ?」
「今、お付き合いしてるん、です」
僕は、声を失った。
とても、悲しかった。
真澄さんが、僕に嘘をついている事が。
あんな、人を人とも思わないようなヤツが、こんなに優しい真澄さんの恋人だって?
僕はバカだけど、バカでもわかる事だって、ある。
「じゃっ、じゃあ何で真澄さんは泣いてるんだっ!」
思わず、声が大きくなってしまった。責める気はないのに、そういう口調になってしまっていた。
真澄さんは、すごく困ったような、すごく悲しくなるような表情を作った。
「え、ええと。なんで、でしょうか」
その時、可愛らしいワルツが聞こえてきた。真澄さんの携帯の呼び出しだった。真澄さんは、焦って携帯を取り出し、ぼそぼそと小声で話していた。
その内容はよくわからないけれど、ごめんなさい、とか、すみません、とか、ひたすらに謝罪の言葉を連ねていた。
確かに真澄さんらしい言葉だけど、全然真澄さんらしくない。
相手のことを思って言っているんじゃない。
怯えてるんだ。
と、一言だけ真澄さんが声を荒げた。
「違います! 上沢さんは関係ないんです!」
その後で、前にもましての平謝り。
それで、僕にはわかってしまった。
「あはは。こうやって、とても熱心なんですよ。毎日毎日、電話をかけてくださって」
見られてるんだ、真澄さんは。
そして、縛られているんだ。
……あの男に。
「ストーカー」
真澄さんは、はっとした表情を浮かべた。一瞬、顔が蒼白む。
それを見て、僕の胸に、嫌な響きを伴って波紋が広がった。同時に、真澄さんが出来もしない苦笑いを浮かべる。
「だ、大丈夫ですよ。こうやって、自分からいらっしゃるのは、稀にですから。それに、仕方ないじゃないですか」
真澄さんは、もうどうしようもないくらいに、悲しい顔をして、悲しい声で……
僕は、辛くてどうしようもなかった。
「子供達がどうなっても知らないぞ、なんて言われたら。付き合うしかないですよ」
それって……脅迫じゃないか!
何でだ。何で、こんな事になってるんだ!
「あやちゃんが、あんなに小さな子が、あんなに頑張っているんですよ? わたしが我慢すればいいだけなんです。ほんの少しだけ、我慢すればいいんです」
それは……
それはそうかもしれないけれど!
僕が何も言えないままでいると、真澄さんはごめんなさいね、と首を振るった。
「嫌な話を聞いてもらって。本当にごめんなさい。今日の事は、忘れてください。勝手なお願いですみませんけれど、子供達に心配かけられないから。この事、誰にも言わないでくださいね。約束ですよ」
約束。
二人だけの、約束。
本当ならロマンチックな響きのそれは、酷く重たい枷だった。
僕は、それ以上は何も言えなかった。
またしても、僕は何も出来なかった。
※
「あやちゃんは僕が送っていきますから」
僕は、あやちゃんと手をつないで、幼稚園を出た。何か理由を付けてでも、その場を去りたかったから。
その場は、僕にとってあまりに辛すぎた。
かといって、無言のあやちゃんに面と向かって話し掛けるのも、負け犬の僕にとっては辛い事に変わりない。
けれど。
「あやちゃん、ごめんね」
僕は、なんとか声を振り絞った。
言わなくちゃ、いけない事だから。
僕は何も出来なかったんじゃなくて、何もしなかったんだから。
「僕、弱いから。あやちゃんみたいな勇気も無いから。情けないな」
僕の言葉になんて、意味はなかった。
あやちゃんは、僕の方なんて見ないで言葉を紡いだ。
「……ほんとーに」
子供は、いつだって真実しか言わない。
だから、あやちゃんのその言葉にはどうしようもない程の重みがあった。
「ほんとーに、せいぎのみかたがいればなぁ」
何でだろう。
何で、こんな純真無垢な女の子が悲しまなくちゃいけないんだ。
僕と同じように、無力感にうちひしがられて、無念の涙を噛み締めて。
「それは……」
それ以上、僕には続けるべき言葉が見つからなかった。
だって、僕にはわかってしまっているから。正義の味方なんて、本当にいないって事が。
どうしようもない。それが世の中のルールなんだって。
そんな僕が、あやちゃんに何が言える?
「ごめ……」
僕は素直に謝ろうとした。
けれど、あやちゃんはそれを遮って言葉を続けた。
「おにーさんもワルモノだけど。でも、あの人とはぜんぜんちがう」
「え……っ?」
今、なんて言った?
あやちゃんは、今なんて?
僕の心の中で、一瞬、黒く鋭いものが光を切り裂いたような気がした。
僕がよく知っている、アイツがその姿を現そうとしていた。
「おにーさんは、いいワルモノだもん。あやは知ってるもん。せんせーも、おにーさんの事、立派なヒトだっていつもいってるよ。あやだって、おに―さんの事、だいすきだもん。だから、気にしないでよ」
いいワルモノ。
悪。
僕の心の間隙から顔を出した闇の紳士が、僕の事を見下しているように思えた。
本当に下らない、モノでも見るかのように傲慢な眼差しで。侮蔑を込めた嘲笑を浮かべて。
そうだ。
このままじゃ、僕は本当に下らないクズ野郎じゃないか!
「いるよ」
ただ自然に、当たり前のように、その言葉は出ていた。
僕の、心臓よりも真中の真っ黒な部分が激しく蠕動しているのがわかる。
「正義の味方はいるよ。あやちゃんは、立派な正義の味方じゃないか。大好きな先生を守って、身体を張って、怪我までして」
「でも、あのヒトをやっつけないと。きっと、また来るよ?」。
「先生はいつも言ってるだろ? ケンカしちゃダメだって。正義の味方だって、ケンカはしない。あやちゃんの勇気は、もっと後の為に取って置くべきなんだ。わかるかい?」
「う〜ん、あんまり」
あやちゃんは、真面目に考え込んでいるみたいだ。でも、多分考えたってわからないだろうね。
悪の、存在意義なんて。
「だって、それじゃあ、いつも先生が泣いてばっかりだよ。そんなの……かわいそう」
「だから、さ。だからいるんだよ、ワルモノが」
そうだ。
そうなんだよ、ウィザーブラッド。
だから、僕は、自然と声に出していた。
優雅に皮肉、高慢極まりない態度で。
「全てを時に委ね、この高貴なる奇術師にお任せない。あの男は確かに許されません。が、ここから先は君のような正義の味方が手を出すべき領域ではないのですよ。悪には悪のやり方というものがあるのですから」
「おにーさん?」
それは一瞬の出来事だったから、僕の隣にいる女の子にはわからなかったかもしれない。
でも、僕は、その時。
「お礼を言いますよ、小さな英雄。この私に、再び悪の炎を灯してくださった事を」
ウィザーブラッドだったんだ。
「さあ、お家に着いたよ。一人で大丈夫だよね?」
「うん。あの……」
あやちゃんは振り向いて、不思議そうな表情で僕の事を見ていたけど、少しはにかんだように笑ってからこう言ってくれた。
「また、あそぼーね。ワルモノのおにーざん」
「ええ。もちろんですとも、我が生涯最高のライバルよ」
僕は、小さなヒーローに最大限の敬意を込めて、悪の紳士に相応しく慇懃に礼をしてみせた。
下げた頭の中で、僕は覚悟を決め込んでいた。
気付けば、もう日が翳り始めているじゃないか。
今は、光と闇が取って代わる狭間。
僕の、一番好きな時間。
「ふ、ふふふ」
ああ。
僕が、僕である事に感謝するよ。
※
「貴方達にお願いがあるのですが」
翌日。
ブラックΣは地下秘密基地にて緊急の会議を設けた。もちろん、僕の頼みで、だ。
「小僧、今日は随分と腰が低いな? だが残念じゃったな、貴様の頼みなぞ聞いておる暇はないわ」
「待たれよ、アール卿。我らが同志の言葉だ、まずは聞くのが礼儀と言うものではないか」
もちろん、他の二人はいつもの秘密結社ゴッコだと思っている。だから、いつもどおりに演技をしていた。
「貴方達のお力を、お貸し頂きたいのですよ。ある人物を倒すためにね。それも、秘密裏に」
僕は、なるべく平静を装っていた。
でも、やっぱり吹き出る汗の量が多いのは、改造を重ねて分厚くなったスーツのせいだけではないだろう。
「それは何者だ? 秘密警察の犬か、それとも小憎たらしい正義の味方を気取った若造どもか?」
「待て。闇討ちなど、騎士として最も恥ずべき行為。彼の者とは正々堂々、威信をかけた決闘にて倒さねば意味がない。ブラッド、貴公の姑息な策には賛同しかねるな」
二人とも、随分と上手くなったものだ。本来なら、とても良い展開だ。本来だったら。
でも!
「残念ですが……違います」
ああ、本当に残念だ。
「僕たちが相手にするのは、本物の人間、です」
そう言って、僕は帽子と単眼鏡を取った。上沢 祐一の言葉で、伝えなくちゃいけないから。
「お願いだ、美奈さん、源五郎さん。僕に、力を貸して下さい」
僕の、稀に見せる真剣な瞳に、二人は固まった。
「助けたいんだ……大切な人を」
僕は、何の躊躇いも無く真澄さんとの約束を破った。
真澄さんと二人っきりの約束なんて、これが最初で最後かもしれないけれど、僕は容赦なく踏みにじった。
なぜならば。
僕は、悪だからだ。
「賛成出来んな」
僕が全てを話してから、最初に沈黙を破ったのは源五郎さんだった。思慮深い、年長者らしい落ち着きをもって、源五郎さんは僕を直視した。
「危なすぎる。その、なんつった? ストック?」
「ストーカー」
美奈さんの突っ込みは、いつものように素早いけど軽快ではなかった。
「ああ、それだ。ワシにはよくわからんが、相当危ない奴なんじゃろ? 素人が手を出して良いもんじゃないだろうて。警察に通報するのが」
「それじゃ駄目だよ。何も証拠が無い」
僕は沈んだ気持ちを隠し切れなかった。
「でも、今はちゃんと法律出来てんでしょ? きちんと説明すれば」
「赤の他人の僕達が? そんなの、全然駄目だよ。話にならない」
「そ、か。じゃあさ、保母さん自身に警察に行って貰って」
「それだって、話に乗ってくれるまでどれだけ時間がかかると思う? それまでずっと付きまとわれて……きっと耐え切れないよ。みんな、わかってるだろ。真澄さんがどんなに繊細な人か」
それに、どんなに優しい人かも。
それがわかっているからこそ、みんなは口をつぐんだ。
「他人を疑ったり、憎んだりは絶対出来ないよ、真澄さんには。きっと、ヤツだって知ってるんだ。くそっ!」
「祐一君」
美奈さんは、机を震える手で叩きつける僕に沈痛な面持ちで語りかけた。
「私達、別に特別な力を持ってるわけでもないし、ましてや正義の味方でもないんだよ?ここでこんな事してても、何の解決にもならないよ」
「それは」
僕は、言葉に詰まった。重苦しい重圧が僕の喉元を押さえつけ、思考に弁を押し付ける。
わかってるさ。
僕が正義の味方じゃないことぐらい、言われなくてもとっくの昔にわかっているさ。
「うん。所詮は好き者の集まり、同人結社だからね」
でも、だったら何でここにいる?
何度も繰り返した自問に答えは出た筈じゃないか!
「仕方ないよ」
「諦めろ。あの娘は運が悪かったんじゃ」
仕方ない?
諦めろ?
その言葉を聞いたとき、どうしようもなく、僕の頭の中を違和感が渦まいた。
僕は、こんな台詞が聞きたくてここに来たわけじゃない!
僕は、机の上の帽子を勢いに任せて被った。
「諸君らはっ! それでも『ブラックΣ』の幹部か!」
そして、力の限りに、飛ぶように席を立ってジャンプし、流星のように机上に舞い降りる。
つまり、僕は二人を見下ろす形になった。
傲慢に、下らないものでも見るかのように、僕は二人を見下ろしていた。
それは、ウィザーブラッドの十八番だった。
「なっ?」
「あ、あんた、今はそんな事言ってる場合じゃ」
突然の事態に、二人は慌てふためいた。でも、僕は一向に言葉を止めない。
止めるつもりもない。
「何故に諸君らはこのブラックΣに身を寄せているのですか! 何の為の悪なのか!」
そして思いっきり机を踏みつける。その衝撃に、机が揺れた。
「子供の時からずっと思ってたんだ。正義の味方なんて無理だって。だって、僕は弱虫で小心者だから。誰でもかれでも助けてやれるヒーローになんてなれるわけないよ、そんな絵空事は大っ嫌いだった。でも、悪はそうじゃない」
止まらない。
何かが、僕を突き動かしている。僕の生きてきた、十七年間。そこで育まれ、そこでしっかりと根を張った悪の原種が、僕に力をくれていた。
「無理して周りに合わせて、自分を良い人に見せて生きていく。それは悪い事じゃないんだろうけど、僕にはそれも耐えられなかった。もちろん、そこから逃げる事も出来たさ。馬鹿ばっかりやってる不良どもや、今回のストーカーみたいに、他人にちょっかいかけて粋がってれば、そりゃあ楽しいだろうさ。でも、それも駄目なんだ。それは正義に面と向かう事の出来ない負け犬どもが、噛み付く振りをしてるだけ。ただの不正に過ぎない。そんなの、最悪にカッコ悪いよ」
何も出来ないくせにカッコばかりつけたがる。そのくせ力も何も無い。
なのに、プライドだけは人一倍。他人と同じ事なんてやりたくない。
そこには、ご大層な理由なんてないのだろう。
でも、僕は!
「だから、このウィザーブラッドは悪を求めた! 悪は自分の好きな事しかやらない。悪は自分の為なら何だって出来る!」
そうさ、何だって出来る。
真澄さんだって、救い出せる。
僕がほんの少しの勇気を持って、望みさえすれば!
「悪は退かない。正義に面と向かって主張する。そうして自分の存在を認めさせる。悪は全て自分で責任を取らなければならない、なぜならば悪は薄っぺらな正義の庇護、常識にもたれかかっていられないから。悪は自信に満ち溢れている。他の何者にも拠らず、己が信念だけに忠誠を誓っているから。だから、悪はカッコいい! 僕の、世間から見れば外れた思いを叶えてくれるのは、悪だけだったのさ!」
それは、僕と言う存在の再証明。
この十七年間。
僕は、きっと世間からみたらダメ野郎のクズ野郎だったんだろう、実際。
「確かに、僕らはテレビ番組の悪の秘密結社みたいに強いわけじゃない。組織だって、本当は何も無い。好きでやってるだけだ。でもね」
だが、それがどうした。
そんな事よりも大切な事が、絶対にある。
今なら胸を張って言える!
「好きでやってるからこそ、逃げちゃいけない事があるんだ。仕方ない、なんて言っちゃいけないんだ!」
逃げない。
僕は、僕は。
ブラック狽フおかげで。
ウィザーブラッドのおかげで。
「僕達の組織が同人結社に過ぎなくても、いや同人結社であるからこそ、僕達は悪の責務を果たすべきなんだ!」
真澄さんの、為に。
僕は、変われるんだ!
「何かの為でもなく、何かのせいでもない。僕は、ただ自分の悪を貫く!」
そこまで言って、僕は我に返った。自分で考えもしない事を口走ってしまってたんだ。
でもなぜだろう、妙にすっきりとして、心臓が高鳴っているのがすごく気持ちいい。
他の二人は、驚きの表情を張り付かせたままピクリとも動こうとしなかった。
「あ、ああっと、つまり何が言いたいかって言うと」
「ふむ」
しどろもどろになっている僕の思考を止めたのは、美奈さんだった。
その声は、すごく澄み切っていたんだ。ルミナブレイドの、燐としたイメージそのままに。
「思い出した。アタシ……私も、そのような記憶がある。我が剣友は皆、私の力に恐れ慄いていてな。上辺だけの付き合いで、誰も我が心を理解しようとはしなかった。直に理解したよ、私は生まれついての異能者だと言うことを。ふっ、どうしようもない血筋なのだがな」
美奈さん……
それは、自分の事を言っているんだろうか。社長令嬢として生きてきた、自分の事を?
間を取って、ルミナは剣を抜いて、天に掲げた。
「故に私は刻んだ。この剣に、私だけの真実を。私が他人と違う運命を背負わされていると言うのならば、宜しい。このルミナブレイド、その役目を演じきってやろうではないか、と。私が選んだのだ、異能たる悪の道、孤高の道をな!」
ふっ、と唇の端だけで笑う美奈さんの、その似合っている事と言ったら。
「ブラッド、貴公の想い人には私も恩がある……恩を倍にして返すのは騎士としての責務、そして怨を倍して讐するは悪の特権! せいぜい派手にやってやろうではないか」
にたり、と笑うその表情は、正に大輪を咲かせた悪の華。
美奈さんは、すごくカッコよかった。
「あ……」
僕は、なんと良い友達を持ったのだろう。いや、この瞬間から、僕と美奈さんは親友になったんだろうか。
「ふん、何をくだらぬことを言っておるのじゃ。これだから若い者は」
源五郎さんが、いかにもくだらなさそうに言った。自己中心的で偏屈な狂科学者、アールマイスターの声で。
「悪の存在意義なんぞどうでもいいわ、グダグダともったいぶった理由を付おって。要は貴様もワシ同様、好き勝手やりたいだけなのだろうが? ふん、そろそろ人体実験の材料が欲しかったところよ。消しても構わん人間がおるなら、それに越した事はなかろうてな。ぎょへへへ」
「ゲンさん、ちょっと無理しすぎ。あと、その笑い声はカッコ悪いって」
素早く軽快な突っ込み。源五郎さんは真面目になって答えた。
「ふん、まともな大人のやる事じゃあないわな。でも、止められるかよ。お前さん達みたいな活きの良い餓鬼どもをよ。ワシも、お前さんたちくらいの時は滅茶苦茶やったもんじゃ。ふ、ええのう。自分のやりたい事が好きなように出来るってのは」
源五郎さんは、ふと遠い眼をしてから、眉間に皺を寄せた。
「小僧。ワシは、悪い大人か?」
源五郎さんは、そのままの表情でそう言った。
「心配せずとも立派な悪ですよ、貴方は」
「ふふっ。そうだな。我々は……」
そこで、一息おいて。
僕たちは、誰が言うでもなく、その言葉を口にする。
「同人結社ブラック狽ネのだから!」
皆の声には少しの乱れもなく、完全に揃っていた。
そこからの行動は素早かった。
僕は全力を持って、宮崎の動向を探った。ヤツが行動する時間帯や場所なんかを……ストーカーをストーキングする、なんて、なかなか洒落た悪事じゃないか。
それに、絶対に言えないけれども真澄さんの家はすでに調べてあったから、楽だった。
他の二人は、それぞれ任務に勤しんだ。
源五郎さんは、大工の技術を最大限に発揮してのスーツの改良。頑強に各部を強化したり、武器になるようなものを作ったりしてくれた。ただ、あまりにセンスがないから、結局、後でさらに改装したんだけど。
美奈さんは、僕達に何をしているか言わなかった。だけど、期待してくれていいよ、なんて言ってた。なんだかわからないけれど、あの豪快でふてぶてしい笑みからして、自信は相当あるみたいだった。
それから、幾度もの作戦会議。結局決まったのは、作戦と呼ぶのも怪しいものだったけれどね。
でも、みんなが本当に一丸となって、作戦遂行の為に邁進していった。それはオママゴトじゃなかった。本物の、悪の組織の行動に違いなかった。
ブラック狽フシンボルマーク、狽ヘギリシャ文字の総和記号だ。
今、僕等のコスチュームには、狽象った黒く輝くメタル製のペンダントが貼り付けられている。
僕等は、同人結社ブラック狽ヘ、今こそその名の通り本当に一つになったんだ。
悪の誇りのもとに!
※
作戦決行の日は、瞬く間にやってきた。
やはり、平凡な生活を送っているもの達は、地下で進む我等が計画に何も気付いてはいないようだ。
それが証拠に、眼下を移動している憐れな犠牲者、ストーカー宮崎は、闇に紛れた僕の姿に全く気付いていない。
悪とは、闇に乗じて動くもの。
真夜中とは言え、まだまだ暑い。しかも、全身を隙間無くコスチュームに包まれて、熱が全身に篭ってしまっている。
でも、今の僕の心を焦がす熱量は、そんなものとは比較ならない。
獲物を捕捉した鷹のように。
毒牙を突き立てる毒蛇のように。
僕は、心を剣のように研ぎ澄まし、そして祈っていた。
誰に。
さあ、誰にかな?
「お待ちなさい、憐れなる愚者」
僕は、なるだけ冷淡に、そしてありったけの悪意を込めて、そう語りかけた。
電柱の上から、宮崎の背後に魔鳥の如く飛来する……というイメージで、手すりから手を離して飛び降りた。
宮崎は、何かと思って振り向き、そしてぎょっとした表情を浮かべた。まあ、当たり前だけど。
しかし、本当に驚くのはこれからだ!
「お初にお目にかかります、愚かなる道化よ。僕はブラックΣ三大幹部の一人、高貴なる奇術師ウィザーブラッド。本日は、貴方をご招待に参ったのです。今宵の夜空のように光無き、永遠なる嘆きの宴へね」
ウィザーブラッドはマントをはためかせて、優雅に言い放つ。
対して、宮崎は明らかに焦っていた。
作戦成功か?
「な、なんだ、お前……変態か?」
うっ……まあ、確かに。
だが、僕は引かない。
いや、引けない。
「変態? くくく、これは傑作! 貴方の目はどうやらガラス玉にも劣る劣悪品のようだ。いやいや、それとも脳がマシュマロにでもなっているのでしょうか。どちらにしろ、ロクなものではありませんね」
僕は演じる。
ニヒルでシニカルで、心に悪を住まわせた闇の紳士、ウィザーブラッドを。
そうしないと、折れてしまいそうだ。
だって……
目の前の男は、常識の通じそうも無い狂人なんだよ?
「ただの馬鹿か。相手するだけ疲れる。失せな」
宮崎はその場から離れようとした。当然、この先にある美奈さんの家に行くつもりなのだろう。
だが、僕はそれを黒霧の如くに先回りし遮った。
「おっと、失礼。お急ぎのようですが、貴方の如き道化を麗しの姫君と逢わせる事は出来ませんね」
相手の神経を逆撫でし、逆上させることに関しては天才的なのだ、ウィザーブラッドは。
「てめえ……」
「ああ、愛しきかな、優しき娘。美しきかな、愚者にも聖者にも等しく手を差し伸べる自愛の徒。それは誰の心にも一輪の花を咲かせるでしょう。ですがね、彼女は貴方には心を開いてはくれませんよ。だってそうでしょう? たかが保母さんフェチ如きが、高貴なるこのウィザーブラッドと張り合おうなどとは」
う〜ん、即興とはいえちょっとカッコ悪いかな。イマイチ。
が、反応は予想外のものだった。
「てってててめえ……」
宮崎は、がたがたと肩を震わせていた。
「手前に何がわかるってんだあ! 保母さんはな、保母さんはな保母さんはな……あの人は俺がやっと見つけた最高の素材なんだっ!」
やばっ、いきなり的中か? ちょっと小バカにしただけなのに……
「保母さんフェチだあ? 手前ごときに言われる筋合いはねえよ! ぶっぶぶちぶち殺してやらぁ!」
僕も、自分の好きなキャラとかバカにされるとむかつくけど、こいつのはそんなもんじゃないぞ。
ってゆーか、お前が変態じゃないか!
内心焦りながら、でも僕は不敵に哄笑した。
「はははは! 根は下品じゃないですか。実に結構! そうです、貴方などが僕と対等のステージに立てるはずがないでしょう! 道化は道化らしく、貴公子と姫君の愛を祝福なさい。それが貴方に出来る唯一無二の役目です!」
あわわわ。
油に火を注ぐとはこの事だった。
「こっここのガキがあ!」
「ふふふ、ついてきなさい。貴方の無残なる敗北を僕が華麗に彩ってあげますよ、最高のステージでね!」
僕は華麗にマントを翻し、闇の中を疾走する。
作戦開始だ。走れ走れぇ!
重たいけど、しかしなるべく優雅なラインを描いてマントを翻し、僕は闇夜を疾走する……ドタドタと。
つ、辛い。いつも運動してないからなあ。でも、時間一杯走らされる終りの見えない早朝マラソンよりはましか。
今日は、自分で決めたゴールがあるんだから。
全力で数分走り抜いて、なんとか公園に辿り付いた。
「ぜえぜえ……よくぞここま、で。はぁはぁ、ついて来ました、ね」
「息切れてんぞ、ガキぃ!」
宮崎は僕の言う事など聞かず、怒りに任せていきなり殴りかかってきた。
まただよ。決め台詞くらい言わせてよ。
って、そんな事考えてる場合じゃないか?
だが。
宮崎の拳が僕に激突する寸前、それよりも早く白銀の稲妻が走った。
「ってえ! な、何だあ?」
「貴様がブラッドの言っていた輩か。なるほど、小悪党に相応しい下卑た面構えだな」
闇を背負って現れたのは、艶美なる悪の華ルミナブレイド。多分、ゴミ箱の裏にでも隠れてたんだろう。
凄く美味しい登場シーンだ。
この日の為に強化プラスチックでこしらえたブレードを地面に突き立て、七色の髪を宙に泳がせて、華麗に魅せる。
「私はルミナブレイド。ブラックΣ三大幹部が一人、烈光の騎士」
「また変態か? お前、少しは自分の顔考えろよな、ブス」
ああっ!
言っちゃったよ、この人。
「ブ……! よ、余計な心配を。それよりも貴様、自分の立場がまだわかっていないようだな?」
「その通りじゃ」
車椅子に乗って、アールマイスターが現れた。両手でないと持てない、ドごつい大砲のようなものを抱えている。いつの間に作ったんだろうか。「全殺し砲」と金色のマーカーで書かれたそのセンスの悪さについては……いや、言うまい。
「ひょほほほ。我等三大幹部が一同に会するなど、数十年に一度の事なのだぞ。光栄に思えい、若造。このアールマイスターの不可能科学の実験台になれることをのう!」
「お前ら……」
流石に、宮崎は僕達の事を交互に見遣って警戒している。
それはそうだろう。こんな状況は、日常生活では滅多にお目にかかれないだろうからね。
「ふふふ。いいですよ。貴方には負け犬の顔が良く似合う」
三体一だ。
これならば、単純に数の優位に立てる。しかも、ルミナとアールはこの日の為に準備した凶器を持っている。
結局、僕らの立てた作戦はこれだった。
正に、悪ならではの卑劣極まりない戦略、悪魔の采配。
ただのフクロ叩きとも言うけれど。
しかし、これはこれでどうしようもあるまい!
「さあ、覚悟は出来ましたか?」
僕は単眼鏡に指をかけ、不敵なポーズなど決めた後で、宮崎に襲いかかった。
最高の瞬間、勝利の美酒を味わう時だ。
が、その時。
闇の中で、眩しく光る一筋の銀光が横殴りに走った!
「痛っ!」
何だ?
こんな痛み、今まで人生の中で味わった事すらないぞ!
「上等だよ……人の恋路を邪魔しやがって。いいぜ、まとめてぶち殺してやるよ」
闇の中でもわかる。
宮崎の手で光っているのは、大振りのジャックナイフの煌きだ。そしてそれを濡らしているのは……僕の、血?
見れば、僕の左腕からぽたぽたと赤いものが滴っているじゃないか!
じょ、冗談じゃないっ!
ちょっとは覚悟していたとは言え、ヤバすぎるよ!
「ブラッド!」
流石に、他の二人にも緊張が走った。
だが、宮崎が自分の力を誇示するようにナイフを振り回すと、間合いを取らざるを得ない。
「ああ? さっきまでの元気はどうしたよ。コイツ見てびびったかぁ? へっ、バカはテレビの中だけにしとけってこったな!」
宮崎は僕を狙って、ナイフを繰り出してくる。
なんとか避ける事は出来るけれど……ううう、左腕からドクドクと血が出ている。
「ひひゃひゃひゃ、格好だけだなおい!」
くそっ! 悔しいがその通りだ。
所詮、僕は格好だけだから。
僕はウィザーブラッドじゃないから。
本当のウィザーブラッドなら、こんなのどうとでもなるんだろうに。
ん?
いや、違う!
「ふ、くくくく」
そうだ、そうじゃないか。
僕は、ウィザーブラッドなんじゃないか!
「どうした、怖くて気でも狂ったかよ!」
「あ〜はっはっはっは! これは可笑しい!」
僕は、怪我など気にせずに思いっきり強がってみせた。
出血する左手を思いっきり振るって、宮崎を指差す。
僕は、ウィザーブラッド。
ブラックΣ三大幹部が一人、偉大なる奇術師。
その魔術はあらゆるものを捻じ曲げ、翻弄する!
「人間如きが私を傷付けられると、本気で思いましたか? 我が魔術は貴方の五感を侵し、望むがままの幻想を見せる。あなたの目には傷ついた私が映っているのでしょう。ふふふ、残念でしたね、それは幻ですよ」
僕は、両手を大きく上げ、悪魔の翼の如くにマントを広げた。
「これぞ我が魔術、ブラッドイリュージョン!」
「ブ、ブラッド?」
他の二人まで変な顔でこっちを見ているが……まぁいい。
ここがブラック博O大幹部・高貴なる奇術師ウィザーブラッド一番の見せ所だ!
「バカ言ってるんじゃねー!」
宮崎が猛進してくる。
だけど、僕は避けない。ブラックΣ三大幹部ウィザーブラッドにとってこんなナイフなんて避ける必要すらないからだ。
重い衝撃が走る。今度は右足だった。さっきよりも多量の血が噴き出る。がくがくと震えが来るのを、気合でなんとか押しとどめた。
ここが正念場なんだ!
「へへ、どうだ、これで……?」
「くくくくく!」
宮崎の目には、ナイフの一撃などものともせずに邪悪な嘲笑を浮かべるウィザーブラッドの姿が映ったのだろう。明らかに焦りと動揺が見てとれる。
「効きませんよ。ふふ、貴方の目にはどう映っているのですか。私が血を吹いて無様に倒れているのですか? はははは。これは滑稽だ」
はったり。
結局、ウィザーブラッドという存在自体、僕が作った虚像だ。
だったら、はったりで押し通す!
「う、嘘だ嘘だぁ!」
どすどすどす。
胸を何度も衝撃が襲う。はっきり言って、シャレにならない。
だけど、ここで退くわけにはいかないんだ。だって、それは僕が決めた事だから。
ちらっと、僕の脳裏に真澄さんの顔が映った。
それだけで、僕は!
「く、くくくく」
僕は弱虫で小心者でどうしようもないクズ野郎かもしれないけれど……
今夜の僕は違う。
僕は、変われた。
僕は、逃げない!
「はははは! 道化の舞ほど面白く、そして見苦しいものはありませんね。くくく、わかりませんか……?」
ウィザーブラッドは少しだけ優しく、憐憫を込めた口調で憐れな男に囁く。
それから、僕は力の限りに叫ぶ。
僕の、全てを乗せて!
「ここが貴様の限界なんだよ! 誇りも自負もなく、自分を高める事も知らずに他人を貶めるだけの下劣漢が! 貴様如きが僕を、誇り高き悪を越えられるわけがないだろうがっ!」
「ひぃっ?」
僕の怒声に怯んだ宮崎の腕を、後ろからアールのカギ爪ががっしりと掴んでいた。
「十分肝を冷やしたかの、小僧」
「では、死出の旅へと立つがいい。地獄への片道切符、代金は後悔と絶望だ」
何かが風を切る音が聞こえた。続いて、ごつんと言う鈍い音。強化されたルミナの魔剣が、宮崎の後頭部を直撃していた。
「うげっ」
情けない声を上げて、あっけなく敵は卒倒した。
「く、くくくく。あははははは!」
ウィザーブラッドが、敗者を蔑み罵倒する悪の凱歌をあげる。
ああ、気持ちいいな。
でも、もう限界だった。
闇が、視界を覆い尽くしていく……
※
「うわああああ!」
絶叫と共に、僕は目を覚ました。
恐ろしい夢だった。
全身をナイフでぶっ刺されて血まみれになって……ああ、そうか。思い出した。
「目が覚めたかの」
アールが、僕を覗き込んでいた。頬を打つ風がやけに寒い。どうやら、僕は公園で気を失っていたようだ。
「あれあれ! 僕、どうして生きてるの?」
見れば、綺麗に包帯が巻いてある。それに、手と足には傷があるけど、あれだけ刺された身体は全然……
「あれだけ大口を叩いておいて、そのザマとは。ふふん、貴公らしいな」
ルミナが、半身を起こしただけの僕を見下ろしながら、腹立たしくもどこか憎めない口調でそう言った。
なるほど。
外見重視で、改造を続けたおかげで僕のスーツは凄く肉厚になっていた。どうやらそのおかげで、本当にヤバイところまでは刃が通っていなかったらしい。
「あっ……」
それに。
僕の手に、スーツから外れた少し重たくて冷たいものが触れた。
狽象ったアクセサリーが、傷もつかずに僕の事を守ってくれたんだ。
「カッコだけでも役に立つ事もある、か。あ! あいつは」
「それは、だいじょーぶ」
美奈さんが、自信満々に語った。
「立派な犯罪だからさ。捕まえちまえば、こっちのもんよ。それに、うふふ」
美奈さんは、さも楽しそうに笑った。
僕は、背筋に悪寒が走るのを禁じえない。
「悪いお金の使い道もあるからね。私の事をブスって言った事、ずっと刑務所で後悔させてやるわあ」
「そ、そう」
ああ。美奈さんが内緒でやってたのって……
ルミナブレイドはカッコいい悪だったけど、美奈さんはモノホンだな。やばいワルモノだ。
「それはそうと、ほれ」
何故か、源五郎さんは意地悪な笑みを浮かべていた。
「勝者には栄誉が授けられるべきだ。それが己の力で勝ち取ったものならば、なおさらな。違うか?」
美奈さんも、同様に。
「え、えっ?」
その時、僕の肩を、誰かが優しく叩いた。気付いてなかったけれど、僕等の他にもう一人いたらしい。
「上沢、さん」
それは、柔らかくて、おっとりとしていて、筒も込んでくれるような、僕の大好きな声。
真澄さん……
僕が赤くなるのを見て、にたつく二人。
ええい、余計な真似をしやがって! どおりで包帯の巻き方が上手すぎると思ったんだ!
だが待て、ここで焦ってはいけないぞ、僕。
いやウィザーブラッド。
「おやおや、麗しの姫君。見ての通り、下らぬ賊めは懲らしめておきましたよ。ですが残念ながら、ダンスをご一緒することは出来ないようで」
真澄さんは、ふるふると首を振り、そして搾り出すように言った。
「ごめんなさい、ごめんなさい! 私なんかの為に、そんな怪我までして……!」
真澄さんは、泣き出しそうだった。
僕の、為に?
「おやおや」
僕は真澄さんの顔を震える手で抑えて、こちらを向かせた。
「貴女の心など関係ない。これは僕が勝手にやったこと。悪とは、他人を顧みないものなのですから。だから貴女が心を痛める必要など、微塵もないのですよ」
「で、でも」
僕は、人差し指を真澄さんの口に当てて、優しく言葉を遮った。
「貴女は優しすぎる人ですからね。わかっていますよ、誰よりも。でしたらこうすると良い。謝るよりも、笑うようにするのです。そちらの方が、たくさんの人……じゃないか、僕の為になるのだから」
僕はちょっと照れてしまって、そこで一端言葉を切った。
「何せ僕は悪ですからね、他人の事など考えていませんよ!」
それで真澄さんは、ようやく笑ってくれた。やっぱり、真澄さんには笑顔が一番よく似合うよ。
「ふふ、おかしいですね」
「喜んで頂けて光栄です」
ああ。
これが二人っきりだったら、もっと楽しかったろうに。
聖なる天使とはまるで正反対の二人が、にやにやしながら僕の事を祝福してくれていた。
でも、これはこれでいいかもね。
気が付いたら、空が白んできていた。
「おや、もうこんなに明るくなったか」
「闇に生きるワシらには、ちと厳しいの。帰るとするかの」
「……そうしましょうか」
僕は立ち上がった。
真澄さんを残したまま。一人きりで。
「上沢さん。あの、今回は本当に」
僕は、胸が痛むのを堪えて、言葉を吐き出した。
「誰ですかな、それは?」
そうだ。
決めるんなら、最期まできめなくっちゃ。
今回の事は『僕』がやったわけじゃない。
ルミナ言うところの栄誉を授かるのは僕ではなくウィザーブラッドの筈だ。
これは、僕自身のウィザーブラッドへの礼儀。
「私はウィザーブラッド。高貴なる奇術師。麗しの姫君よ、まだ貴女を狙う男がいるというのならば、それが例え何者であろうとも、我が闇の刃がその者を引き裂きましょう」
弱くて小心者で情けない僕を、こんなに素晴らしいステージに立たせてくれた、悪の紳士への礼。
それが、僕の悪としての責務なんだ。
辛いけど。
でも、今の僕は真澄さんに相応しくなんて……
「えっ、えっ」
真澄さんはちょっと困っていたけれども、やがて意を決したように大きく息を吐いて、こう言った。
「でも、それは無理です、よ」
それから、俯いて、涙を貯めながら、顔を真っ赤にして。
「だって、私は、カッコいいワルモノさんよりも、不器用で優しい高校生の方に……心惹かれているんですから」
真澄、さん。
真澄さんは、それだけ言ったらもう僕のほうを見れないみたいだった。
そんな真澄さんに、僕は、僕はどうしようもなく……
「くくく……はーはっはっはっは!」
言葉を詰まらせる僕を尻目に、ウィザーブラッドが高らかに哄笑を上げた。
悪の特権にして唯一の義務。
誇り高き悪のエリートは、その誇りゆえに自分に嘘をつくことは決してない。
自分の負けは、絶対に認める。
それは、彼の美学だった。
「妬けますねえ。だが仕方ない。貴女が認めたとあらば、僕は大人しく引くしかありません。悪には闇の世界こそが相応しいのですから」
ウィザーブラッドは、僕に皮肉な笑みを浮かべてくれた。彼なりの、それは祝福の印だ。
そうだ。
僕は、変われたんだ!
僕は、まだグラグラする身体で、でも力を振り絞って、真澄さんの手を取った。
「え、えっと。それじゃあ」
ブラッドと違い、不器用で小心者な僕の言葉で、真澄さんに僕の気持ちを伝える為に。
なけなしの勇気と下心を振り絞って。
「え、エスコートしますです、真澄、さん」
真澄さんは、僕を見上げた。まだ真っ赤な顔で、でも、僕の大好きな笑顔を浮かべていた。
「はい、お願いしますね、祐一さん……!」
夜が明ける。
僕が、僕に戻る時間。
でも、そう悪い気はしなかった。