G.A.M.E.

 

「くっだらねえっ! やってられっかこの馬鹿どもがっ!」
 俺はそう叫んで教室のドアを蹴破った。伊達に普段からケンカで慣らしているわけじゃない。俺の一蹴りで古臭い傷だらけのドアは風穴開けてぶち破れた。ガラスが割れて飛び散る音のおかげで、ちょっとは気持ちが晴れた。
「おいっ、黒木! どこに行く気だ、授業中だぞ!」
 くそったれの先公がいつもと同じことをいいやがる。ああ、全く嫌になるぜ。こんな状況でもいつもと同じ事しか言わないんだからな。
「授業だあ? アホかおのれは! その中古品の目ん玉ひんむいてよく見やがれ! 授業だ何だ言ってる場合かあっ!」 
 また怒りがぶり返してきた。なんでこいつらはこう馬鹿ばかりなんだ。いや、俺だって頭は悪いが、しかしこいつらほど馬鹿じゃない。
「さっきから何度も言ってんだろうが、外見てみろ、外! どうなってんだよ、フツーじゃないだろが!」
 そう言って俺は大股で教室の外に出て、廊下の窓をぶっ叩いた。
 そこから見えるのは、信じられない光景だ。ああ、本当に信じられない。夢みたいだ。夢だったらよっぽど楽しいんだろうけどよ。
 いつもなら、そこから見えるのは学校の裏庭だ。俺みたいな出来そこないしかいねえこの高校で掃除なんてだれも真面目にやりゃしないし、園芸部が使ってる花壇には雑草しか生えてない。ゴミだらけの箱庭、そんな意味が無いながらも日常的な風景がそこから拝めるはずだ。
 だが、今見えてるのはどうだ。ドぎつい極彩色のワンダーランドだ。嫌味なくらいに派手で綺麗な色で飾られた楽園だ。整いすぎてて気持ちが悪いぜ、完全に四角く区切られて色分けされているんだから。
例えば、見たことも無いピカピカの華はピンク、茎はビリジアン、葉っぱはイエローだ。それで、全く同じ形のそれが気持ち悪いぐらい綺麗に整列して、風も吹いてないのに全く乱れないリズムで動いてやがる。それらを囲んでいるのは完全に真四角な茶色い煉瓦。その向こうには少しの起伏もない平野が広がっている。本当は緑映える草原なんだろうが、視覚的には緑色のカーペットに過ぎない。
 こいつは……そうだ、ドット絵で描かれたテレビゲームの画面そのものだ。ただし、とんでもなくスケールアップされた、だが。
「どう考えても普通じゃねえだろ! おい、先公! 何とか言ってみろよオラ!」
 俺は倒れたドアを踏み砕いて、また教室に入った。何故か他の奴らは俺のことを不思議そうな目でみたり、または目を合わせないようにしている。
「もういい。そんなに俺の授業が嫌なら出ていけ。変な事をいって他の皆にまで迷惑をかけるな」
 諦めたように先公が言った。その、いかにも他人事な物言いに、俺は怒りすら通り越してどうでもよくなった。
「先生」
 そこで席を立った奴がもう一人いた。俺のクラスの最底辺、いっつも誰かに苛められてやがる先公の腰巾着、姫野だ。
「僕、気分が悪くなったんで、保健室に行っていいですか」
 突然、やけに日常的な空気が教室内に戻った。ざわざわと話し始めるやつら、教科書に隠して漫画を読み始める奴ら。まさに俺とは別次元にいるみたいだった。
「ん〜、仕方ないな。一人で大丈夫だな。おい、お前ら! 授業は静かに受けろ」
 何だそりゃあ。
俺は何ともいえない無力感にかられて、教室を後にした。もう一度廊下の窓の外を見ると、ゲームの画面みたいなそこは、先程と何の変化も無い。ただ、変な植物が揺れているだけだ。
 すると、俺の肩をぽん、と誰かが叩いた。振り向くと、それは姫野だった。
 何だ、この野郎。手前ごときが俺に何か文句があんのか。虫の居所が悪いなんてものじゃない俺は、姫野を殴りつけようとした。姫野は苛められる時に見せる、媚びたような卑屈な笑みを浮かべてこう言った。
「黒木君にも見えたんでしょ、この世界が」
 その一言を聞いて、俺は拳を引っ込めた。姫野は、今度はにんまりと人懐こい笑みを浮かべた。
「この世界って……お前」
 俺はようやく話の通じるまともな奴と会話が出来て、情けない話だが少し、いやかなり嬉しかった。
「ふふふ」
こいつが楽しそうに笑うのを見たのは初めてだ。それは、本当に楽しそうだった。
「ようこそ、黒木君。楽しいゲームの世界へ。『エスケイプ』の世界へ」


「んなこと信じろってのか、いいかげんにしろよ!」
 俺はこれ以上ないほど「レンガ」という色と形をした四角い囲いを蹴り飛ばした。少しも手ごたえが無く、実際俺の足もドット絵の煉瓦みたいな物もどうにもなっていなかった。
ピー、とパソコンの警告音のような不愉快な音が鳴って、俺の目の前に羽の生えたチビっこい女の妖精が現れた。そして、いかにも可愛らしいアニメ声優みたいな甘ったるい声でこう言った。
「BUU―! NPCでないオブジェクトを壊す事はできませ〜ん!」
 俺がぽかん、と口を空けている間、その妖精はパタパタと不自然に羽を動かして静止していた。秒間2コマくらいのアニメーションなので凄く不自然だ。
「BUU―! NPCでな」
「うるせえ! わかったからとっととどっかに行きやがれ!」
 俺がそう言って意思表示してやると、ようやくドット妖精は消えた。つまりきちんとダイアログ対話しろってことだろう。
「ああ、ごめんね黒木君。ちょっと君にはわかりにくいシステムだったかなあ。結構オーソドックスなタイプだと思うけど」
 姫野はにこにこと人のいい笑みをへばりつけて俺に話し掛けてきた。
「あっああ〜もう! 負け負け、俺の負けだよ。信じるしかねえよ。これがどっかのクソ野郎が作ったゲームの中だってことを、よ」
「うん。ありがとう」
 それはとんでもない話だった。いや、よくある話って言えばそうなのかも知れないが、少なくとも俺は実際にこんな目にあったことは無い。
 ここは『エスケイプ』っていうRPGの世界だって事だ。
俺はあれから姫野と一緒に学校を出た。建物から一歩でるや、もうそこは俺の知っている世界じゃあなかった。全部が全部ドット絵で構成された、二次元を無理やり三次元に組み直したような馬鹿げた世界。もう完全な別世界だ。学校はもちろん、いつも見慣れている購買やグラウンド、クラブハウスなんかも全部消えて失せていた。
『エスケイプ』ってのは説明書に書いてあると言う。姫野はこの世界で一ヶ月も暮らしてたらしい。
「突然、学校に連れ戻されるんだ。まだ一回だけで、その時の事は良く覚えてないけど。それで、何故かあっちじゃ全然問題なく時間が進んでるんだよね。もうここまで来たら何でもアリなんだろうけど」
 確かに、こいつは一回も授業を休んでなかったからな。少なくとも、俺の記憶の中ではそうだ。もっとも、俺が授業に出るのは稀なんだが。
「名前なんだけど、このゲームの目的なんだよ。『エスケイプ逃げる』ことが、このゲームの唯一の目的なんだって。何から逃げるのかは、書いてなかったけど……」
 得意げにそう言って姫野は目の前の空間を人差し指で押す仕草をした。
ぽんっ、と今度は軽快な音がして、半透明の本みたいなものが姫野の目の前に現れた。びっしりと文字が書かれている。もっとも、俺は姫野の正面にいるので、全部の文字は逆さまだ。何も読めやしない。
「ようこそ『エスケイプ』の世界へ! これは多人数参加型RPGです。世界に散らばる無限のイベントを楽しみながら、最終目的『エスケイプ逃げる』を達成してください……って、ほら」
「ほら、って言われてもよお」
 俺がぼやくと、またさっきの妖精が出てきた。
「『エスケイプ』はHELP機能満載だよ〜。わからないことがあったら何でも聞いてネ。説明書はいつでもどこでも開けま〜す。右手でボタンを押してネ。『エスケイプ』は」
「はいはい、わかったわかったありがとさん」
 俺はうるさい虫を追い払うように右手で妖精を追い払った。
「わからないことがあったら僕が教えるけど。黒木君も一回は読んだほうがいいと思うよ」
「おい、姫野。言っとくがな」
 遠足に来た小学生みたいにはしゃいでやがるこのモヤシ野郎に、俺は険を含んだ調子で言って聞かせてやった。
「この馬鹿げた世界じゃあ、お前は確かに俺より先輩かもしれねえ。こんなわけのわかんねえところに一ヶ月もいやがったんだからな。まあそこは認めてやるし、お前を頼るところもあるかもしれん。だがな、その知った風な態度はやめやがれ! 不愉快なんだよ!」
 思いっきり、ガンをたれる。しかし姫野は学校にいるときとはまるで違い、少しも怯まなかった。
「ああ、それはつまりこういうこと? いじめられっ子の僕が怖い不良の黒木君とタメグチを聞くのは腹が立つって、そんなつまらないことを気にしてるの?」
 それは俺にとっては挑発ととれた。
「お、お前よぉ〜……」
 ああ、言われたとおりだ。はっきり言ってこいつは俺より格下だ。いままでお勉強よりも殴り合いをしてきた俺にとって、これはかなりの侮辱だった。
「まあまあ、そんなに怒らないでよ、黒木君。君が僕の何を知っているのかわからないけれど、学校の僕とここの僕を一緒にしない方がいいよ。『エスケイプ』のヒメノはクロキよりよっぽど強いのだからね」
 突然、勇ましくテンポの速い音楽がどこからともなく流れてきた。戦闘のBGMだってのか、馬鹿馬鹿しい。
「それは俺にケンカ売ってんのか!」
舐めやがって。俺は怒りに任せて全力で拳を叩き込んだ。上級生も何回か病院送りにした、手加減無しの一発だ。もやしみたいな奴の身体はカミヒコーキのように吹き飛ぶ……はずだった。
 突然、俺の拳を炎が包んだ。いや、炎のイメージをしたドット絵、アニメーションする炎のようなものだ。ただ、その熱さは本物としか思えなかった。
「ヒメノは魔法を唱えた! クロキに十五ポイントのダメージ! クロキは火傷を負った!」
 例の妖精が俺と姫野の前に出てきて、いかにもシステム的な解説をしてくれる。まったく親切なヘルプ機能だぜ、反吐が出る。
「火傷は戦闘が終わるまで毎ターン、ダメージが入るヨ。アイテムや魔法で直さないとぴ〜んち!」
「うるせえっての! ちっ、こんなもん大したことぁねえ」
 俺はそのまま燃える拳を突き出した。それを姫野はすぅ、とかわした。それはきちんと相手の動きを理解した奴がパンチをかわすようなやりかたじゃない。なんというか、そのまま全身が右に少しだけずれて俺の拳を交わしたのだ。ありえない、不自然な回避行動だった。
「クロキの攻撃! ヒメノは素早くかわした! クロキは火傷で5ダメージ!」
「ぐああっ、なんだそりゃあ」
 馬鹿みたいな妖精の解説をよそに、手に焼ける痛みが走った。これは紛れも無く本物としか思えない。
「これでわかったでしょ、クロキ君。君はレベル1だけど、僕は何度も冒険してるんだよ、レベル15さ。見せてあげようか、僕のステータス?」
「ちっ……もう何がなにやら。おい、この火傷も治せるのかよ」
「うん。でも戦闘が終われば勝手に消えるから。もうやめようよ。どうやっても君は僕には勝てないから」
 くそったれが。悔しいが……ここは普通の場所じゃない。しょうがないんだ。
「ああ。わかった。参りましたよ!」
 すると自然に纏わりついていた炎のドットが消えた。
「クロキは降参した! 戦闘終了、ヒメノは3点の経験値を得た!」
 ああ、なんだこりゃ。なんでこんなところにいるんだ、俺は? しかもこんな奴に負けて悔しい思いをしなければならねえんだ?
「じゃあ改めて、ようこそ、クロキ君」
 俺の思いとは関係なく、姫野はやけに満足げだった。
「大丈夫、慣れると結構面白いよ? それにこれでやっとパーティが組めるんだし、ね」
 だが、ここで俺の知ってる人間は目の前のこいつだけだ。もっとも、他に人間がいるのかどうかすらわからないが。
とにかく、俺は馬鹿だが、損得勘定ぐらいは出来る男のつもりだ。
「けっ……もうどうにでもなれっての。はっ」
「ヒメノとクロキは仲間になった! やったネ!」
 妖精が短いサイクルで明滅しながら空に円を描いた。やけに高い音でファンファーレが鳴り響く。
俺は、もう文句を言う気にもならなかった。
「じゃあ、僕がわかってる範囲内で案内させてもらうね。そうそう、基本的にステータスとか所持金とかは全部ヘルプで見れるからさ。こっちに行くと街があるんだけど、でもその前にやりかけのイベントがあるんだけど、一緒に行かない?」
「もうどうでもいいっての。好きにしてくれや」
「ふうん。じゃあ、行こうか。こっちだよ」
 広大なドット絵の緑の草原を歩いていると、突然地面の色がくっきり茶色になったり、岩山みたいなドットが足元に出たりする。
 俺もかなりテレビゲームをやる方だが、自分の視点で歩くのは初めてだ……というか、これっきりにしたい。
「おう、姫野。こっちにいて腹とか減らないのかよ?」
「ゲームだからね。眠くもならないし、HP回復させると疲れも消えるよ。一応、宿屋に泊まると眠れるけど、全然実感ないなあ」
 何もせずに歩き回るのもつまらないので、一応話題をふってみる。なんだかこっちが尻尾振ってるみたいで嫌なんだが。
しかしなんだかんだ言ったところで、こんなイカれた場所で一人じゃなくて良かったと思っちまうところもある。
「街の奴らってのはどうなんだよ。やっぱり同じ事ばっかりいうわけ?」
「ゲームだからね。イベントが終わると台詞変わったりするけど」
「人間だからって仲良くお喋りするわけにはいかないわけな」
「それ以前にこのドット絵だから。違和感が強くてとても人間として接する事はできないよ」
 それは俺も少し思っていた。いかにもゲーム、という事を前面に押し出したような、違和感溢れる結構な世界だからだ。
「街にずっといるわけにいかないのかよ?」
「僕も最初はそうしたんだけど。本当に、すっごくやる事が無いから暇でさ。折角だからプレイしてみたら、結構面白いんだよね。レベルアップすると強くなるし」
「ああ、それはいいかもしれん」
 そうすればこのクソ生意気なもやし野郎の後をついて歩く必要もなくなるわけだしな。
 そんな話をしているうちに、また周囲の様子が変わってきた。黒を基調とした、いかにも悪そうな雰囲気。全体的に光量も落ちて暗くなった。
 そして、子供の落書きみたいに、異様に不自然なものが地面から生えていた。茶色いかまくらみたいなヤツだ。真っ黒な穴が空いていて、その先を見ることは出来ない。というか、穴ではなくて黒く塗ってあるだけだ。
「あれだよ。あの洞窟に魔物が住んでるんだって。一緒に倒そうよ」
「ま、魔物……」
 予想していたとは言え、あまりと言えばあまりの展開に俺は狼狽してしまった。
「大丈夫、大丈夫。なんとかなるよ。危なくなったら防御しててよ」
「う。あ、ああ」
 もはや、俺はそう言うのが精一杯だった。


果たして、魔物とやらは洞窟の最奥にいた。
この洞窟は大して広いものでは無かったんだが、ゲームとしてやると大した事無くても実際に歩くのとはえらい違いがあった。どこまでいっても全然変わらない、連続して同じ壁のドットっていうのは、ミラーハウスの中にいるみたいに気分が悪かった。姫野の奴は慣れたもので、ずんずん先に進んでいったが。
 それで、いかにもボスキャラというグラフィックの怪物が奥にいた。
でかさは俺より一回り大きいくらいで、でかいだけあって結構きちんとグラフィックが書き込まれている。とはいえ、やはり不自然なことに変わりは無かった。デフォルメされて牙の多い凶暴そうなライオンの口と、毒々しい蛇の尻尾が数パターンのアニメーションをしている。
「ああ、キマイラだね、多分。なに、びっくりした?」
「ある意味ビビった。んで、何なんだ、こいつを殴り飛ばせばいいわけか?」
 俺は不用意にそいつに近づいてみたが、魔物はお決まりのアニメーションをするばかりで全然動こうとする気配は無い。
「いや、これはRPGなんだから。ちゃんと戦闘しなきゃダメだよ。殴っただけで勝てるんだったら意味無いじゃない。また、妖精に警告されちゃうよ」
 確かにそれは嫌だ。俺は出しかけていた拳を引っ込めた。
「さっきの僕とやったみたいにやればいいよ。多分、黒木君は戦士タイプ、いや武闘家かな。とにかく、いつもみたいにやればいいよ。でも、ゲームだから」
「ああ、わかってる。別にこっちじゃケンカの腕なんざ役に立たないってこったろ」
 姫野は満足げに頷いた。くそったれが、むかつくぜ。
「じゃあ始めようか」
 姫野は慣れた手つきで見えないボタンを押した。姫野とやりあった時とは違う音楽が流れて、キマイラが動き始める。
「戦闘開始だね。僕が魔法をかけるから、黒木君は殴ってね」
「言われなくてもやる気は満点よ」
 姫野が両手を胸の前にかざすと、巨大な光球が形成された。チカチカと眩しい特殊エフェクトは、これほど間近で見るといくらなんでも目に悪いんじゃないかと思ってしまった。
 その光球が魔物にもの凄いスピードで直進していった。薄っぺらい爆発と、半透明の火線が集中し、耳に心地よい爆音が鳴り響く。
「ヒメノの魔法攻撃! キマイラに九十四ポイントのダメージ!」
 また、例のナレーションが入った。考えてみればおかしなものだが、俺はそれ以前に姫野の、いやヒメノの実力に驚いていた。強い……!
 だが、キマイラも流石にボスキャラを勤めているだけのことはある。姫野の魔法を喰らってもまったく動じず、牙を剥いて飛び掛ってきた。もっとも、ダメージを受けてもグラフィックが変わらないだけなのかもしれない。
 その鋭い一撃を姫野はかわした。いや、キマイラの攻撃は外れた。俺が殴りかかった時みたいに不自然に、だ。
 俺も見てばかりではいられない。渾身の力を込めて、キマイラに殴りかかった。相手は人間じゃないから、どこが弱いかなんかはわからない。ゲームのキャラグラフィックに弱点なんかないのかもしれないが、とにかく俺は本能的に顔面を狙って殴りかかった。
 キマイラはまったく避けようとしなかった。しかし、グラフィックがずれて、外れた。またナレーションが何だか喚いている。
「ああ〜もう! うっとおしいな、こいつ!」
「いや、仕方ないでしょ。君はまだLV1だからさ。敵は僕の魔法を喰らっても死なないぐらい強いんだ、当たらなくて当然だよ」
んな強え奴といきなり戦わせんじゃねえ。
そう言おうと思った矢先、キマイラのグラフィックに異変が生じた。くわっ、と口を開き、口腔内に赤々とした炎が湧き上がった。
「いけない、ブレスだ! 避けて黒木君!」
 そう姫野が叫んだ時には遅かった。渦巻く炎の嵐が遠近感を強調するグラフィックで迫ってきた。
やべえ。俺は次の瞬間に受けるであろうダメージを想像し、両手を防御姿勢に身構えた。
だが、俺には何の痛みも無かった。例のナレーションが事の顛末を伝える。
「キマイラはブレスを吐いた! ヒメノはクロキをカバーリング! ヒメノは45ポイントのダメージを受けた!」
 俺の目の前に、炎の直撃を受けた姫野がいた。そう、これはゲームだ。だが、俺が姫野に喰らった炎の痛みは本物だった。だったら今姫野の受けたダメージは……
「へ、平気平気。それより黒木君は大丈夫だったよね?」
 そういう姫野の顔にはじっとりと汗が滲んでいる。平気なわきゃあ、ねえ。
「姫野、お前よお」
「いいって。ゲームなんだから」
 そういって今までみたいに人懐っこく浮かべた姫野の笑みは、しかし明らかに無理して作ったものだった。
「それに、折角の仲間なんだよ」
 それで、もう俺の単細胞な思考はスパークしちまった。後先は考えねえ。
「おおおおおおおおお!」
 俺は叫んだ。心の底から。そしてがむしゃらにキマイラに殴りかかる。もうどうにでもなれだ、外した時のことなんざ考えていない、渾身の一撃だ。 
ジャストミート、命中だ。予想と違って、物を殴ったという強烈な手応えと満足感が広がった。どうやらこのゲーム、戦闘シーンには相当凝っているらしい。
「クロキの攻撃! 必殺の一撃! キマイラの急所を捉えた! キマイラは四十のダメージを受けた!」
 やったぜ、ざまあみやがれ。俺が暴力の余韻に酔っていると、すぐにキマイラのグラフィックは消えて失せた。ファンファーレが鳴り響き、また妖精が出てきた。
「戦闘終了! 生き残ったメンバーは40点の経験値を得た!」
 ナレーションはうっとおしいが、何だかんだといったところで勝利ってのは嬉しいもんだ。当然、負けるよりも、な。
「やったね、黒木君。流石じゃない」
 多分、姫野の最初の一撃が敵に与えたダメージの大半を占めていたんだろう。それでも無理して微笑む姫野の姿を見ていると、それが嫌味で言っているものじゃない、と本能的にわかっちまう。
 不良、なんて呼ばれてる俺は、そのくらいの単純思考しか出来ねえんだ。
「まあ、な。へへ、お前も凄かったぜ」
 俺は照れ隠しの意味もあって、話題を姫野に振った。姫野もまた、嬉しそうだった。
「うん。さあ、これでこのイベントも終りだ。黒木君もいきなりキマイラを倒したんだから、随分レベルが上がったと思うよ」
 実感は湧かないが、まあ、それはそれで喜ばしいことではある。
「なあ、姫野」
 見えないボタンを操作して回復魔法をかけている姫野に、俺は言った。
「その、何だ。あ〜あ〜、これからも……よろしく頼まぁ」
「うん」
 その時、俺は初めて、このゲームが楽しいと感じた。

 それからも俺たちは『エスケイプ』の世界を旅して回った。月日の感覚はまったく無い。どうだろう。例えるならばゲームにはまり込んでしまって、気付いたらああ、何時間も経っちまってた、って感じだ。まあ、例えと言うか実際にゲームなんだが。
俺も相当経験を積んで、ゲームの勝手もわかってきた。確かに姫野の言う通り、こいつはかなりオーソドックスなゲームのようで、慣れてきちまえばほとんどストレスなく楽しめるものだった。
 それに、結局のところこのゲームは相当面白い。レベルがあがって強くなる感覚。新しい街を見つけたときの喜び。未知の迷宮を攻略し、手ごわいモンスターと戦って打ち負かすのも楽しい。
 要はゲームっていうだけで、俺達くらいの年代にとっては楽しいもんだ。いつも何かにムカついてた現実と違って、自分の好きなように何でも出来るんだから。
成功の約束された世界で、奇妙な開放感に酔いながら、自分が主人公のゲームをいくらでも楽しむ。俺は『エスケイプ』の世界にはまりつつあった。
 それは、そんな奇妙な日常に慣れてきた時のことだった。
 俺と姫野はいつものように冒険をしていた。街でアイテムを買い揃えて、深い迷宮に潜っていった。そうそう、煩わしくセーブのことを考えなくてもいいってのも利点だ。ま、そんな事はどうでもいい。問題は……そのダンジョンの最深部、いつものようにボスの部屋にまで来た時だ。
 巨大な体躯がそこに寝そべっていた。俺の身長の3倍はある、黒い巨体。蝙蝠のような翼で身体を覆い、太く長く伸びた首の先に、鋭い牙が生え揃った獰猛な爬虫類の顔がついている。真っ赤に光る無感情な目が、俺達を見据えていた。
「ドラゴンだ……」
 姫野が俺の思っていたことを口にした。
RPGの定番、敵役の花形、最大の強敵。誰もがその存在を認知している怪物が今、俺たちの目の前にした――もちろん、それは他の造詣と同じく、ドット絵で描かれたゲーム内の産物だが、しかしその存在感はいままで出会ったヤツらと比べて飛び抜けていた。
「へっ、面白え。たまにはこんな奴ともやってみてぇなあ!」
 俺は見えないボタンを押して、戦闘に入る意思を見せた。闘志を鼓舞するアップテンポのボスキャラ用BGMがかかると、ドラゴンは鎌首を持ち上げ恐ろしい咆哮をあげた。
「黒木君、気をつけて!」
 俺は姫野の静止を効かずに突っ込んだ。度重なるレベルアップで、俺の素早さはヒメノを越える程になっていた。 
「おらああああっ!」
 あまりに巨大な目標ゆえに、狙いを定める必要すらない。怒号を発し、俺は拳をドラゴンの身体にぶち込んだ。手応えはあった。見た目には全く効いちゃいないが、これはゲームだから仕方が無い。その為のナレーションなんだからな。
「クロキの攻撃。しかしブラックドラゴンにダメージを与えられない!」
「なっ」
 俺は動揺を隠せなかった。少しも効いていないなんて、初めてだった。こいつは、相当の強敵だ……! 
「危ないっ!」
 姫野が叫んだ時にはもう遅かった。ドラゴンの巨大な前足が俺の頭上から迫ってきていた。避けられねえ。金属バットで頭を思いっきりぶっ叩かれたような、いやそれ以上の痛みと衝撃が走り抜け、俺は地面に突っ伏した。
「ブラックドラゴンはクロキを踏みつけた! クロキに357ポイントのダメージ! クロキは瀕死になった!」
 やべえ。全然動けねえ。骨が粉々になって内臓が飛び出しちまいそうだ。武器を持った十人相手のケンカでもこんなになったことはないんだが、な。
「黒木君っ!」
 どぉん。ドラゴンの足から振動が伝わってきた。姫野が攻撃魔法を放ったらしい。だが、ドラゴンは俺の上に乗っけた足をどかす気はないらしかった。
「クロキは踏みつけられて動けない! ブラックドラゴンはヒメノに喰らいついた! ヒメノは231ポイントのダメージを受けた!」
 ナレーション以外は何も聞こえない。だが、どうやら俺たちが全滅の危機に瀕しているのは間違いないようだった。
 そういえばこのゲーム、死んだらどうなるんだ? セーブもしてねえし、最初っから遣り直しか? それとも……
 嫌な考えが脳裏をよぎった時、新たなナレーションが聞こえた。
「レミーの暗黒魔法! ブラックドラゴンの生命活動を停止させた。ブラックドラゴンは死んだ!」
 突然、俺を押さえ込んでいた重圧が消えた。全身を襲う激痛はまだあるが、戦闘が終わるとすぐに無くなっていく。
「た、助かったあ」
 姫野が情けない声をあげた。腰が抜けたのか、情けないポーズで地面に這いつくばったままだ。
「ああ。だが、一体誰が……」
 姫野を助け起こして、俺はドラゴンのいた部屋を見回した。
「ふうん。私以外にもいたのね、このゲームのプレイヤー」
 そいつは部屋の入り口近くにいた。声の主は見慣れないブレザーを来た女。うちの生徒じゃあねえ。確か隣町の神宝高校の制服だ。 うちよか荒れてるところだが、そいつは一見してそんな風には見えなかった。ごく真面目な、どちらかというと地味な印象を受ける。外見には全く気を使っていないようで、髪も染めずにストレートに切りそろえただけ、化粧もアクセサリーも何もしていない。
 そして、そいつはドット絵で描かれてはいなかった。そう、俺たちと同じ、人間だった。
「キミ達も学生みたいね。私は怜美。『エスケイプ』での登録は黒魔道士で、名前はレミー。この名前の方が有名みたいだから」
「何だかよくわからんが、とりあえずありがとよ。俺達もあんたが初めて会った人間だ」
 一応、友好的に挨拶をしておく。なにせ貴重な人間なんだから。
「そう。よろしくね、不良君とメガネ君」
 だが、この女にはそんな気はなかったらしかった。
「いや、俺は黒木って言うんだが」
「悪いけど、私が認識しやすい名前で呼ばせてもらうわ。別にいいじゃない、ゲームの中なんだし、キミ達に迷惑かけてるわけでもないし」
 それはそうかもしれんが。とにかく怜美はきっぱりと言い放った。外見と反して、かなり気の強い女みたいだった。
俺が反論しようとしていると、姫野が突然大声をあげた。
「その制服……レミーって、ひょっとして宮崎怜美さん?」
「あら、メガネ君は誰かさんと違って人を知っているみたいね」
 姫野といい、なんでここには癇に障る奴ばかり来やがるのか。女じゃなかったら殴り掛かってるところだ……と言いたいところだが、やれやれ、こいつのレベルはさっき見せつけられたからな。
「おい、姫野。誰だそりゃあ」
「知らないの? まあ黒木君なら仕方ないか。パンドラソフトのレミーって言えば、ゲーム業界じゃあ超有名人だよ。天才高校生ゲームデザイナーにして天才高校生プログラマー、宮崎怜美。ラジオにも出てたじゃない」
 そんなの知るか。少しも興味ねえ。
「ライト。解説ご苦労さん、メガネ君。おわかり頂けたかしら、今時硬派の黒木クン?」
「けっ」
 可愛くねえ奴だが、とにかく俺達のパーティに新顔が入ったわけだ。
 むくれた俺を無視して、姫野と怜美は盛り上がっていた。
「うわあ、感激だなあ。僕、レミーさんの手がけたゲーム、大ファンなんです」
「そう、ありがとう。当然だけどね。馬鹿な大人が作ったゲームなんかより、面白いに決まっているもの」
「そうですよ。自由で奔放で、どうしたらあんな発送が出来るんですか?」
「私以外には無理ね。天才にしか出来ないから、もてはやされてるんだもの」
「うわあ〜、やっぱり言う事が違いますね! レミーさんはいつからこの世界に?」
「さあ? このゲーム、タイムカウントがないからわかんないわ。低レベルな、くっだらないテスト中に新作のネタを考えてたら、窓の外が凄い事になってたから。それからずっとこっちにいるわね。ま、そろそろ戻ってやってもいいかな? 私がいないと何にも出来ないからね、開発チームのド低能連中」
 ……もの凄え毒舌だ。しかも全然悪びれてねえ。とりあえず、この女が普通じゃないってことはよくわかった。
「じゃあよお、天才さん。これはどうなんだよ、この『エスケイプ』ってのは」
 俺はぼそりと質問を投げかけてみた。すると、意外にも真摯な口調で怜美は応えた。
「楽しいと思う。本当に良いゲームかどうか調べる為に色々やったけど、悪くないわ。でもね」
「何か、問題でもあるの?」
姫野が不思議そうに聞いた。
「これを作った奴……私にも作れないプログラムを地球上の誰かが作れるとも思えないけど、ゲームってものがわかってるとは思えないわ。私なら、こんなものは作らない」
「ゲームってものぉ?」
「そう。不良君には言ってもわからないかな? ま、これを作った何者かと私とは根本的に考え方が違うのかもしれないけど。ね、不良君、キミはなんでゲームをやるのかな?」
「ああ? なんだそりゃあ」
 怜美は俺にではなく、天井を仰いで言った。まるで、このゲームを作った奴に言い聞かせるように。
「ゲームってね、思ったより色んなものを消耗しないとできないのよ。お金や時間、目も悪くなるし思考力も磨り減る。他にもたくさんあるけど、多分言ってもわからないから言わない。ね、何でそんなに色んなものを失ってまでも、ゲームをやるの?」
「そりゃお前、面白いからに決まってるだろ」
 俺は当たり前の事を答えた。まさしく、当然の答えだ。
「シンプルイズグッド。そうね、私も楽しんで欲しくてゲーム作ってるわ。でもこのゲームは違う感じがするのよね」
「どっ、どういう事です?」
 姫野が焦った口調で口を挟んだ。
「まっ、それをこのゲームを作った奴に聞きたくてね。こうしてゲームをやってるわけ。キミ達はなんでこうしてゲームをやってるの?」
「なんでって言われても……」
「そんなの、面白いからに決まってるじゃないですか」
 姫野は何故か不機嫌そうにで言った。少し、怒っているようでもあった。その姫野を怜美はじっと見つめ、次に俺を見つめた。
「ふむ。まあいいか。ねえキミ達、私と一緒に来なさい。当ても無くぶらつくよりはいいでしょ。わたしと来れば、このゲームをクリアーさせてあげられるわ」
「何か、当てでもあんのか」
「まあね」
 怜美は自信満々に頷いたが、少しも笑みを浮かべてはいなかった。


 俺と姫野と怜美は、それからも旅を続けた。怜美の言葉どおり、クリアーを目指して。一応ながら、明確な目的が出来たわけだ。
とにかく、この世界はバカに広かった。しかし、飽きることはない。行く先行く先で様々なイベントや新たな敵キャラに出会い、とにかくプレイヤーを楽しませようとしていた。怜美が言っていた、ゲームってものが全然わかってない、なんて、到底思えない。
「全然終わらないな、天才さんよ」
 ラストダンジョンを思わせる、いかにもおどろおどろしい古城の中。今まで戦った中で一番強かった大悪魔王を倒した後、俺は怜美に話し掛けた。
「そうね」
 怜美はいつものようにさっぱりと言った。
「不良君、メガネ君。キミ達、このゲームに終りがあると思ってる?」
「え?」
 姫野が間抜けな声をあげた。
「終りがあるかって……じゃあなんでお前クリアーさせてやるって」
 怜美は有無を言わさず、俺の言葉を遮った。
そしていつもどおりの傲慢な調子で俺達に話し始めた。
「ゲームの終りって、普通は二種類あるのよね。ルール違反でゲームの世界から追い出されるゲームオーバーと、ゲームの目的を達成して迎えるゲームクリアー。やるに値しないゴミみたいなのは置いといて、普通ゲームはクリアーするまでやるものよ。クリアーするとゲームが終わると言ってもいいわ。さて、このゲームの目的は何だったかしら?」
 そう言えば忘れていた。説明書にしっかりと明記してあった、それを。
「『エスケイプ逃げる』こと……」
 俺は答えた。何故か、声が震えていた。
「何から? 恐ろしい敵から? それとも世界の破滅から? 違うわよね。ゲーム自体は誰でもわかるオーソドックスなファンタジーRPGなのに、この目的設定だけが異様なのよ。ああ、ゲームデザイナーの事を考えてあげて斬新といった方がいいかしら」
 俺も姫野も声が出せなかった。蛇に睨まれた蛙みたいに、圧倒されてしまっていた。
「終わるわけないのよ、このゲーム。『逃げる』なんて、出来るはずはないから」
「このゲームからは……逃げられない?」
 俺はなんとか意味ある言葉を吐く事が出来た。
「ライト。もうこの世界からは出られない。現実世界に戻る事は出来ない。このゲームに閉じ込められたのよ、私達」
 何の毒気もない口調が、逆に現実の残酷さを物語っていた。
「んな馬鹿なことがあるか! ゲームってな終わるもんだろが!」
「そうね。だから言ったのよ。私ならこんなゲームは作らない、って」
 怜美の答えはあっけらかんとしたものだった。姫野はずっと押し黙ったままだ。俺は怒りに任せて魔王の玉座を蹴り飛ばしたが、妖精が出てきて警告するだけだった。
「BUU―!」
「うるせぇ!」
 俺は妖精も殴り飛ばした。妖精はすごすごと消え去って行った。
「ま、そういうことよ。とは言え、今までと何が変わったわけでもないんだろうけれど。さ、次のイベントでもクリヤーしに行きましょうか、暇潰しよ、暇潰し」
「待てよ」
 俺は怜美を引きとめた。
「姫野はどうなんだよ。あいつは一回あっちに戻ったんだろが。そりゃ何でなんだよ、天才さんよ!」
「そんなの彼自身に聞けばいいじゃない」
「姫野! てめえ何も知らねえのかよ。何か知ってんじゃねえのか、ああ?」
 俺は怜美に言われた通り、びびった犬コロみたいに姫野に食いかかった。姫野は力なく首を振っただけだった。
「最低のクソゲーね。プレイヤーの意思を尊重できないゲームって。終わらせる気はないのよ。きっと、キミ達のピンチに私が通りかかったのも全滅を防ぐ為の配慮だったんでしょ。あ〜あ、くっだらない」
 いつもどおり穏やかで不敵な物言いだったが、それは怜美なりの怒りの表現だったのかもしれなかった。
 その時だった。突然、魔王の玉座の上空が、ぐねぐねとうねり始めた。それは、水面に写した映像みたいに歪んではいたが、明らかに学校の風景だった。ちゃちなグラフィックなんかでなく、明らかに本物の学校だ。
「これは……」
「同じだ、あの時と」
 姫野がぼそり、と呟いた。
「じゃ、じゃあ戻れるのか?」
 姫野は下を向いたまま首を縦に振った。じゃあ、こいつは……
「か、帰れるのか?」
「ふうん。そういう演出もアリ、か。私達のドラマもイベントの一つだったわけね。出来すぎよ」
 よくわからないが怜美は一人で納得していた。俺はとにかく嬉しくて、そんなことはどうでも良かった。
「よし、行こうぜ! 行ける時に行っとかないと、次はどうなるか」
 馬鹿みたいにはしゃいで、俺は飛び上がった。しかし、そんな俺を怜美の言葉が縛り上げた。
「姫野君は……行かないわ」
「な!」
 いつものように冷静な怜美の言葉。俺は耳を疑った。
「んなわきゃあねえだろ! おい姫野、とっととしろ。学校だぞ、学校! 帰れるんだぞ」
 姫野はゆっくりと顔をあげた。そして俺は久しぶりに見た。姫野がいじめられているときに学校で浮かべている、あの卑屈な笑みを。
「何でだよ」
 姫野は振り絞ったような声をあげた。
「何で帰ろうなんて言うんだよ! こっちにいた方が楽しいに決まってるじゃないか!」
「姫野?」
姫野は俺が伸ばした手を激しく振り払った。目には涙を貯め、今にも泣き出しそうだ。
「僕にとって、現実は最低だった。最悪だよ、学校に行っては虐められ、家に帰っても両親はいない。何もいいところなんてない。僕にとって一人っきりでやるゲームだけが、心を癒してくれた。現実から、逃げられたんだ」
 姫野は溜まりきった憎悪を吐き捨てるように、ただただ言葉を紡ぎつづけた。
「こっちに来て、すぐにわかった。このゲームこそ僕の望んでいたものだ。レミーさん程の人が、全然わかっていなかったなんてガッカリだよ。この『エスケイプ』は現実から『逃げる』ゲームだ。何もかも忘れて、ずっと逃げていられるゲームなんだ。最高だよ。だってそうだろう? そもそもゲームなんて、全部が全部辛いことから『逃げる』為のものなんだから。だってつまらないことより楽しい事のほうが、苦しい事より気持ちいい事のほうがいいに決まってるものねえ。黒木君もレミーさんもそうなんだろ? 現実から逃げたくて、でもどうしようもなくて、だからこっちに来たんだ」
 そうかもしれなかった。俺もただただ毎日がつまらなくてくだらなくて、だから少しでも面白おかしく過ごせるようにつっぱってケンカして反抗して、それでもどうしようもなかった。はっきり言って、こっちに来てからの方が楽しい日々を送れていた……と思う。
 怜美はどうなのか。一見、何の悩みも抱え込まないタイプに見えるが、しかしこの年でゲームデザイナーとプログラマーなんていう俺達とは全くの別社会に生きているのだ。俺にはわからない軋轢があってもおかしくはない。 
「僕はこのゲーム、二周目なんだよ。でもやっぱりいいゲームは違うよね、何度やっても楽しい。現実なんかと違って、いつまでも続けていたいよ。だから、僕はこのゲームをクリヤーはしない。いつまでもいつまでも『エスケイプ逃げる』を続ける。現実から逃げ続けるよ。それは悪い事なのかい?」
「姫野……」
 何か言わなくてはいけない。長い間共に冒険をしてきた仲間として。だが、俺にはかける言葉が見つからなかった。
 そんな俺の心を見透かしたように、姫野がにやりと笑った。
「黒木君、帰る必要なんてないよ。この世界にはうるさい大人も馬鹿な奴らもいないよ。何も縛るものなんてないんだ。くだらない責任感だけであっちに帰る必要なんかないんだ。一緒に、ずっとゲームをしてようよ」
「ひ、姫野ぉ……」
 ダメだ。何で俺はこう馬鹿なんだ。言いたい事が言えねえなんて。
「困ったものね、ド低能は」
 振り向いた俺を歩んできた怜美が殴りつけた。
「ほら、行くわよ。それとも、キミも残るの?  私はそれでも構わないけれど。だったら私だけクリアーね」
 何の言葉も出せなかった。ただ、怜美に殴られた頬の痛みは久しく忘れていた、作り物じゃない本物の痛みだった。
「メガネ君。キミの言ってる事、すごくわかるわ。無二の天才だって、逃げ出したくなることはあるもの。キミみたいな一般人は私よりもずっと辛い思いをしてるんでしょうね。私はキミがここに残ることに反対はしないわ。別に私が迷惑を被るわけでもないし。キミがいなくなっても私のゲームのファンはいくらでもいるんだし。でもね」
 怜美は俺を差し置いてずかずかと姫野に詰め寄った。
「私はイヤよ、絶対。負けるなんて、逃げ続けるなんてカッコ悪いじゃない。私は天才、宮崎怜美なのよ」
 相変わらずの傲慢な毒舌。俺が口を挟む隙なんて少しもねえ。だが、俺は怜美の本音を初めて聞いたと思った。そして、こいつのことを少しだけ理解できた。こいつも、もの凄えバカだ。
「さ、言いたかった事は言ったし。さっさとゲームクリアーしましょう。じゃあねメガネ君」
 怜美は宙空に空いた穴に向かって歩いていく。姫野は何も言わずに、その後姿を見守っていた。
俺は……怜美の後についていくしかなかった。
「そうだ、これもイベントなんだね。流石『エスケイプ』、意表をついた展開で飽きさせないなあ」
 怜美が歪んだ空間に飛び込もうとしたその時、姫野がそう言った。
「よくも僕の大切な友達の姿を使ったな。許さないぞ。僕の命にかけて倒してやる」
 それは虚ろな、悲しい声だった。何の現実味もない、空しい台詞だった。
「データロード……クリアーデータ・ヒメノ。レベル255」
 姫野がボタンを押すと、普通と色の違う真っ黒な妖精が飛んできてナレーションした。
「姫野……」
「メガネ君」
 俺と怜美はその異常な行動に気圧された。 
狂気じみた笑みを貼り付けたまま、姫野は見えないボタンを押した。今まで聴いたことのない、勇ましくも荘厳なBGMがかかる。まるでこれが最後の戦闘だとでもいうように。
「黙れ黙れ、それ以上僕の友達の声でしゃべるな!」
 姫野が繰り出したのは、虹色の爆発。眩いエフェクトが視覚を覆い尽くした。
「死ね死ね死ね死ね死んでしまえ! うははははは、サイコーだっ!」
 凶悪な力の塊が俺達に向けて放たれた。姫野の想いを、いや姫野だけの想いを叶える暴虐の力が。
「どいてなさい、不良君!」
怜美も暗黒の光を放ち姫野の攻撃を相殺しようとしたが、いかんせんレベルが違いすぎる。
「くっ……きゃあああ!」
 悲鳴をあげて吹き飛ぶ怜美。だが、何とか致命傷にはなっていないらしく、上半身だけを起こして俺に言った。
「いい? その、現実に戻れる扉だけは守るのよ。メガネ君はそれを狙ってる!」
「グダグダと死に損ないが……くたばれっ!」
 今度は虹色の嵐が迫って来た。この部屋全てを飲み込んでしまうような、とてつもない巨大さと勢いだ。だが、俺は真正面からその竜巻に飛び込んでいった。
「この……大馬鹿たれがっ!」
 全てを引き裂くような凄まじい嵐の只中で、俺は全身をバラバラに引き裂かれるような激痛をこらえながら、一歩、また一歩とゆっくり前進していた。嵐の向こう側にいる、姫野の目ん玉をしっかりと見据えながら。
「く、来るなあ! くたばれくたばれくたばれ!」
 姫野はさらに、銀色に輝く真空の刃を幾つも作り出して放った。それが容赦なく俺の腕や足を切り裂く。
「痛くねえ。痛くねえよ、こんなもん!」
俺はやせ我慢を吐いて自分を鼓舞した。そうしないとすぐにでも吹っ飛んじまいそうだったから。
「ひめのおぉっ!」
 なんとか上半身だけが嵐を突き抜けた。そしてそのままありったけの力を込め、姫野をぶん殴った。姫野は思いっきり吹っ飛んで、壁に激突した。虹色の嵐は消えていた。
「お前の言う通りだよ。現実はこんなもんよりもっと痛えよ。だけどよぉ、俺は頭悪ぃからよくわかんねえけどよ、やっぱりずっとこっちにいちゃいけねえ。ここは俺達のいるべきところじゃねえんだよ」
 姫野はぴくりとも動かなかった。でも俺にはわかっていた。奴には届いている、俺の言葉が。
「逃げる為だけに生きるなんて、空しすぎるだろうがよ……」
 俺は自分で言ってて自分でもよくわかりゃしなかった。ただただ、胸が痛かった。デジタルな処理によるダメージ痛みじゃない痛みだ。くそ、くそくそくそ。
「もういいわ、不良君。行きましょう」
 立ち上がった怜美はぱんぱんと埃を払って、あっけらかんと言った。
「てめえ、まだ!」
「人には人なりのペースがあるの! 私達は先に行く、メガネ君は少し休んでから後で来る! そんな事もわからないの、ド低能!」
 感情を剥き出しにした怜美の言葉に、俺は一瞬喪心してしまった。怜美は照れ隠しなのかぷい、と顔を背け、さっさと穴の中に消えていった。
「馬鹿な……戻ったところでどうしようもないのに。君達も絶対またこっちに帰ってくる。だって、どうせだったら楽しいほうがいいに決まってるんだ。『現実』なんていうクソゲーよりも、『エスケイプ』の方が百倍楽しいに決まってる」
 ぼそぼそと独り言を呟く姫野。俺は姫野の方を向かずにこう言った。
「こっちで待ってるぜ。仲間だろ、俺達」
 何で俺はこんなに馬鹿なのか、自分でも呆れちまった。
 とにかく、俺は『エスケイプ』の世界から逃げ出した。よく覚えてないが、薄れゆく意識のなかで俺はあの妖精の声を聞いた気がする。クリアーおめでとう、と。

 あれから一週間が経ったが、姫野はまだ帰ってきていない。
 また、以前どおりのくだらない学校生活が始まった。
 あれから何度か怜美と連絡を取ろうとしたが、思うように時間が取れないらしく、電話でしか話していない。
「結局、『エスケイプ』は私が思ってたよりもずっといいゲームだったのよ」
 怜美はその時そんなことを言っていた。
「私もメガネ君と同じ意見だったの。現実逃避の為のゲームだって。でも実際は違った。悔しいけれど、『エスケイプ』は私達みたいなのに喝を入れるためのゲームだったのかも。ふん、私も負けていられないわね」
 そして、最後に付け足すように怜美は俺に言った。
「メガネ君ね、そんなに心配いらないと思う。一回クリアーしたんだから、それは現実に立ち向かう勇気があるってことでしょう。それでも二周目に行ってしまったっていうのが、所詮凡人の悲しいところだけど。キミも気を付けた方がいいわよ、また逃げ込んでしまわないように、ね」
 怜美の言う通り、たまに、本当にたまにだが、教室の窓の向こう側にドットで描かれたあの世界が見えることがある。現実と比べてひどく魅力的な、あの世界が。
 そんな時、俺はきつく拳を握り締める。あの時の痛みを思い出すために。
 心地いい心の痛みは、こっちでしか味わえないのだから。
 『現実』という、苦しく難しいが、とかくやりがいのあるゲームをクリアーするのは、まだ大分かかりそうだぜ。

 

 

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