Passion Over Karma〜情熱機関〜

 

 

 燻った空が暗黒に蝕まれ、空気が醜く澱んでいく。空間自体が、酷い勢いで腐っていく。
 大破壊――人間の文明が終りを告げた日から連綿と続くそれは、雨が降る前に空が曇るのと同じ当然の自然現象。
 それは、視覚や嗅覚などの五感で感じられる現象ではない。さらに根本的な部分、言うなれば魂でしか感じ取る事の出来ない事象であった。
それを直感的に感じ取り、エリシアは僅かに肩を振るわせた。
「エレイン兄さま……」
 金髪の少女は不安げに、傍らに立つ長身の青年に話し掛けた。妹と同じ、輝くような見事な金髪。エレインは端正な顔を彩る物憂げなディープブルーの瞳で窓ガラスから外界を鋭視している。
 どこまで行けども同じ景色。移動城塞バールベリトのモニターから見下ろす世界は、常に灰と瓦礫の空虚な連続。人類の歴史において最も忌むべき大破壊の日から、変わらぬ風景。
 失ったあの日と同じ。もう、変えられない風景。
「来るのか」
 エレインの声は細く高く、中性的な美しさであったが、その中には断固とした強烈な意思が感じられる。双子の兄の言葉に少女は言葉少なに頷いた。
「西の方角……グレイヴを狙っていますわ」
 グレイヴ。国はおろか街や村と言った生活単位が破壊し尽くされ滅ぼし尽くされたこの世界で、人間が生きていけるオアシス。かろうじて機能する錬金機械――環境制御装置に縋って人々がコロニーを形成するその集落は、奴らにとって見れば格好の狩場。だからと言って、旧世代の遺産を捨てては人は生きていけぬ。そこは言わば生きながらに死を待つための、最後の楽園。ゆえに皮肉を込めて墓――グレイヴと呼ばれる。
「そうか。エリシア、陛下にお知らせしろ」
「兄さまはどうなされ……」
 エリシアは言葉を途中で切った。否、切らざるを得なかった。この朴訥で実直な、そしてその中に炎の激情を秘めた兄、エレインの意を汲み取ったからだ。
「心配するな」
 エレインは、一を聞いて十を知る直感的な妹の発言に、嬉しい反面哀しい表情を見せた。流れるような妹の長髪を手で優しく撫でてやる。
「わたしは一足先に出撃する。わたしは出来る事は全てやりたいのだ。それが、わたしが恥辱を偲んでここにいる理由なのだから。それに、陛下から賜ったこれもある」
 そう言って、エレインは左手を開いた。そこには、握り拳大の不気味な黒い玉があった。奇妙に脈動するそれは、まるで心臓のようでもあった。
それを見て、エリシアは恐怖とも憐憫ともつかない感情を宝石のような目に宿す。
「レクシード、悪魔の鎧。兄さま……」
 何度目だろう。たった一人の肉親である兄が死地に赴くのを見届けるのは。その度に、エリシアは言葉をかけてやる事しか出来なかった。
 しかも、今日の出撃は今までのものとはまるで違う。非人道的な魔道兵器を纏って、人間の天敵とも言えるものどもとの戦いに出かけるのだ。それは、避けられえぬ死への旅路と同意義であるのだ。
「どうか、ご自愛を」
「ああ」
お前まで一人にさせるわけにはいかない。
敢えて涙を見せない妹の悲痛な表情を心に刻むと、いつも通りにエレインは自分にそう言い聞かせ、部屋を後にする。手には、真っ黒な心臓のようなものを握り締めて。
 魔道科学の鬼子である移動城塞バールベリトは、魔獣の咆哮の如き駆動音を周りに響かせながら、荒廃した世界を突き進んでいった。

暗黒のいかづちが曇天を貫く。否、それは稲妻等ではない。空間が、その形に食われているのだ――闇としか形容しようのない、得体の知れない異空間が口を開いていく。
「悪魔」が出現する前兆。この世界が、明らかに異質なモノを迎え入れる際の、精一杯の拒絶の証。だが、それは断末魔の絶叫にも似て、酷く痛々しく、酷くおぞましい。
そして、それが姿を現す。
真っ黒な穴から、這い出るようにゆっくりと。徐々に増殖しつつ、こちらの世界にその肉体を定着させていく。
それは、本来ならばこの世界に存在し得ないもの、存在してはいけないものだ。
全体のフォルムは、人に似ている。均整の取れた筋肉質で男性的なプロポーションは、シルエットだけならギリシャ彫像のように逞しく、美しいとさえ呼べるかもしれない。
だが、その捻じくれた長爪はどうだ。蛇のような尻尾はどうだ。蹄のような硬質の踵は、山羊の如き捻じくれた角は……背中より生える、夜を凝集したかのような黒き蝙蝠の翼は、明らかにこの世のものではない。何より、一切の人間的な感情を映す事のない、瞳のない目玉が輝く頭は、酷く冒涜的な獣のそれではないか。
人に終末をもたらしたの。いかなる魔獣よりも邪悪で恐ろしい破滅の申し子、異形の魔人。
悪魔――ディアボロス。
それは人々の知りえる悪魔の偶像が、そのまま生命をもったかのような存在。ある種の滑稽ささえ備えた、神話の中だけの存在。
だが、空想の物語を飛び出し現実世界に姿を現したそれは、人間が創造する事など出来る筈もない、限りない邪悪と純粋な狂気を全身から放っていた。
そのディアボロスが、次から次へと暗黒の狭間から湧き出てくる。巣穴から狩りに赴く兵隊蟻の行列のごとく、切れ間なく空を覆い尽くしていく。その数は、少なく見積もっても百は下らなかった。
今だ増殖しつつある悪魔の群れは、目標に向けて降下を開始した。目標、即ち人間の血肉である。彼らにとって、人間は理想的な獲物に他ならない。その魂のレベルは絶対捕食者であるディアボロスと比較すれば取るに足らないものではあるが、この世界では最も上質なものである。そして、愚かな獲物は既に破壊し尽くされた住居を捨てずに、そこに縋り付くように生きているのだ。いつでも、そこに行けば哀れな犠牲者を望むだけ喰らえると言うわけだ。
 霊長たる人間の英知の象徴であった高層建築物――もはや倒壊し、風雨をしのぐテントとして使用される大聖堂や、あらぬ方向に捻じ曲がった錬金学研究塔、ひび割れ、何とかその機能を維持している環境制御棟等が目視できるまでに接近した時、先頭を行く悪魔は空中に一つの異物を発見した。
 それは、重力の鎖をまるで無視し、ひとり超然と虚空に佇むのは白き悪魔の騎士であった。ただし、それは大挙する悪魔の群れとは明らかに異質な存在。
人間が心の中に抱く事の出来得る、限界まで絞りつめた冷たく鋭いデザイン。無機質なと言うよりは機械的と言った方が良いかもしれない。
白銀に鈍く輝く甲冑の如き鋭角的なフォルム。所々に鋭く尖り、磨き上げられた凶悪な装飾が見て取れる。大きく張り出した4枚の翼は、決して生物にはありえない直線的な推進機関。  
その全身に漂うのは、剣や槍矛、斧に鎌に魔道砲――武器兵器凶器、忌むべき歴史の影で築き上げられたあらゆる負の文化のどれにも通じ、そして超越した死と破壊のイメージ。
 キィィィィ……
 耳障りな金切り声を上げ、悪魔はそいつを威嚇した。
それに答えるように、白き影が動いた。その刹那、悪魔から赤黒い体液が噴き出し、白銀の騎士を染め上げていく。魔騎士が驚くべき速度で先頭の悪魔に近づき、槍のように尖った五本の指で猛烈な貫手を食らわしたのだ。
「忌まわしきディアボロスども……」
 その白き影は、レインの声で唸った
「人間は、貴様達に貪られるがだけの存在ではない。私は貴様達に恐怖を与え、死を与えるもの。恐れるがいい、貴様達の王が一人の名を冠するこの悪魔の鎧――レクシード・アスタロトを。それを駆る我、罪業帝国ベルクマータの騎士エレインの名を!」
 そして、突き刺した右手を抉るように回転させる。その動作で、美しき外見を持つ鋭い装飾は、その使命を全うすべく荒れ狂う。すなわち、他者を傷付け苛む殺戮凶器の役割を。ディアボロスを滅ぼす責務を。
 エレインが右手を引き抜くと、血肉を撒き散らしながら絶叫とともに悪魔は落下していく。
 仲間を殺された怒りか、それとも狩りを邪魔された憤りからか、残りの悪魔が巨群をなして白い騎士に踊りかかる。
「そうだ……それでこそ、私がここにいる意味があるというものだ」
 エレインの冷たい声には、自嘲と喜悦が入り混じっていた。

 突然の空からの来訪者に、グレイヴに居を構える人々は総毛だった。
来訪者は、彼らにとって絶対の死を意味するディアボロス。記憶から消したくても適わぬ、最悪の簒奪者だ。しかも、それは無残に抉られ刻まれた死体。それが雹のように、次から次へと落下してくる。一体、いかなる現象が上空でおこっているのか。
このグレイヴは混乱の極みにあった。住人は未曾有の現象に右往左往した。あるものは飛来する悪魔の死体から身を守るべく廃墟の影に縮こまり、またあるものは神に祈り続けた。ただ、それはある意味では普段のグレイヴの生活と大差ないものかもしれないが。既に終末は去ったはずなのに、更なる脅威がこの街を襲っていた。

一際巨大な破砕音が響き渡ったかと思うや、壁をぶち裂き巨大な黒いものが部屋に突っ込んできた。ここは、グレイヴとその住民達の生命線とも言える環境制御装置中枢制御塔の地階。その内部を埋め尽くす高度な錬金機械や排気筒、自律型思考機械等雑多な物体の隙間に隠れ息を潜めていた幼子達と、そのリーダー格の少女メイは、覚悟していたとは言え眼前に現れた異形に驚愕を禁じえなかった。
それは、頭足類の肉体に爬虫類の頭をくっけたような、異形のバケモノであった。全身から腐った肉汁のような体液を撒き散らし、ずるずると蠕動している。
「ひっ……あ、ああ」
「ダメ! 見つかっちゃうよ」
 怯える子供達をぎゅっと抱きしめ、メイは何とか息を殺させる。怖いのはわかっている。それに、多分もう助からないのも。どうしようもなく、震えが止まらない。
メイの前に、さらなる怪異が追い討ちをかける。打ち抜かれた壁の空隙から、新たなる怪異がゆっくりと飛来したのだ。
(ああ、ここまでかな。あたしも、この子達も)
悲壮な覚悟を決めたメイの視界に姿を現すのは、新たなる白き悪魔。
だが、埃まみれの部屋に射すくぐもった光のなか降臨したその姿は、何故だか天使にも似て……
(なんて、キレイなの)
「アデレスタント貴族階級か。このアスタロトの一撃で消滅せぬとは大したタフネスだ。あれだけのヴァゼイル臣下階級を束ねているだけのことはある」
 返り血にまみれた魔騎士は、床に横たわるバケモノに向けて言い放った。振り下ろすその右手は鋭角な装飾が寄り集まり変形し、螺旋を描く長槍の如き姿形をとっている。
「レ、ク、シード……レクシードォォォ!」
 横たわる貴族階級の悪魔は人語で絶叫しながら、エレインに飛びかかる。鰐のように残虐な牙の生え揃った顎を限界まで広げ、両手を大きく広げて。
「人の造りし悪魔の鎧……我らに仇為す骸の棺!」
「そうだ。わかっているじゃないか」
 何かが砕ける音がして、部屋中に青黒い液体が飛び散った。アスタロトの手槍がカウンターで悪魔の身体をぶち抜き串刺しにしたのだ。
「ならば滅びよ、運命のままに。このレクシード・アスタロトに敵わぬ事がわからない貴様でもあるまい?」
 滅びをもたらす白き螺旋がディアボロスに突き刺さる。知力、生命力、闘争力すべてにおいて臣下階級を遥かに上回る貴族階級のディアボロスですら、たった数分で部下を全殺せしめたこの魔騎士の脅威的な戦闘力の前にはまるで無力であった。
 だが、貴族階級の悪魔は狡猾であった。彼ら以外にも部屋の中に何者かが潜んでいる事を認知したのだ。
 人間。その魂を喰らえば、この程度の傷はディアボロスにとって致命傷でも何でもない。生物とは決定的に違う彼らは、血や肉などと言った非能率的な栄養摂取ではなく、生命そのものの雛型とも言える魂を吸収し代謝することが出来るのだ。他者の生命をそのまま己の生命へと変換する能力。それは即ち、彼らディアボロスには定められし生命の終焉がないと言う事でもある。
 しかもこの数、この生体波動……人間の幼体であった。無垢なる子供の魂ほど、ディアボロスにとって好ましい養分はないのだ。
「何を企んでいる……?」
 悪魔の瞳に潜む奸智にエレインが気付いた時には、既に遅かった。飛び散った血肉の海と千切れた機械群に巧妙に隠した触手が高速で伸張、錬金機械群の陰に獲物を求め忍び込んだ。
「いけないっ!」
他の子供を瞬時に庇ったメイの身体に絡み付いていた。そのまま、少女は物陰から引きずり出され宙吊りにされる。異物だらけの廊下を無理やりに引き摺られ、メイは悲鳴をあげた。
「グググ。詰めが甘かったな、人間よ」
 メイは足を捕まれて宙吊りにされた。悪魔は少女の身体が自分と白きレクシードの間に来るように移動させた。
「ほう……なかなか美味そうだな」
 悪魔の冷たい瞳が、メイの若い肉体をねめ上げる。引き締まった肢体、大きな黒い瞳と肩口で短く切りそろえた栗色の髪は、いかにも意志が強そうな印象だ。遊びとは言え、獲物は楽しんでいたぶった方が気がはれる。壊すなら、美しいものの方がより楽しい。
「貴様」
 エレインは逡巡した。
 本来ならば、人質ごと真っ二つにしてしまうのが上策だ。相手は冷酷無情のディアボロス、どのみち人間の命など路傍の草ほどにも感じてはいない。ここで仕留めねば、貴族階級の悪魔はその再生力と増殖力を発揮し、このグレイヴは文字通り墓場と化すであろう。
 だが、エレインは甘いとわかっていながら、手を出せないでいた。アスタロトの真の力を以ってすれば、この悪魔を滅殺するのに数秒とかかるまい。だが、それでこの少女を見殺しにしてしまう事は――
(それでは、私はあの男と同じになってしまう!)
 先程まで悪鬼の如き手腕を振るった魔騎士が、こうまで陳腐な手で戦意を削がれるとは思っていなかったが、貴族階級ディアボロスにとってこの状況は最大の好機であった。幼い魂を吸って生命力に余裕が出来たならば、その命を盾に逃走するつもりであった悪魔は、この好機を逃すまいと長剣の如き牙を剥き出す。
が、その刹那。
 黒い旋風が吹きぬけた。
 そして、悪魔の心臓には深々と、真っ黒な大剣が突き刺さっていたのだ。
「ガ、グ?」
 一瞬の隙を見て取り、エレインは精神を極限まで研ぎ澄ませる。アスタロトの無機質な紅い瞳が輝くや否や、螺旋状の右腕が凄まじい勢いで伸張し、回転しながら悪魔に襲い掛かった。一瞬後、貴族階級の悪魔は脳天を串刺しにされ、それでもまだ動きを止めぬ螺旋槍によりバラバラの肉塊に引き裂かれる。その凄絶な最後は、絶対捕食者に断末魔の暇さえ与えなかった。
「レクシード・アスタロト。使いこなしてるみたいじゃねえか。流石は俺の右腕ってとこだな」
 皮肉めいた、野性的な声が地階への階段から浴びせられる。
「ゼラン陛下……」
 そこに立っていたのは、エレインと年の変わらない、黒髪の青年だった。軽めの鎧で要所を覆っている。その顔立ちはエレインと比べても見劣りしないほど整ってはいたが、それはエレインのような中性的な美貌と言うよりは、むしろ獣の精悍さだった。
その青年の後ろには、甲冑を纏った数人の近衛兵とともに、永続化された防護魔法のかけられた白い魔道服を来たエリシアもいた。
「兄さま!」
 兄の無事を確かめ、駆け寄ろうとする少女をゼランは腕一本で押しとめる。
「よぉ、エレイン。勝手に出撃するわ、派手に暴れまくるわ、好き勝手にやってくれたじゃねえか。まあ、トリは俺によこしたんだ、上出来だぜ。許してやらぁ」
 ゼランは、「陛下」などと言う呼び名にまるで相応しくない態度で、獣のような笑みを浮かべた。
「……?」
 一命を取り留めたメイは、今目の前で起こっている事が、何が何だか全くわからなかった。
 ただ、彼女の直感が告げる。
 荒廃した世界の灰色の毎日で暮らす自分よりは、彼らは輝いて見えた。
 
 レクシード。
 「超越の帝(Rex Exceed)」からとられたその名は、幸運にか不幸にか、生き延びている人間の心に二つの感情を抱かせる。
 即ち、希望と恐怖。
 レクシードは、人類にとってディアボロスに抗する最後の光明である。人間を核としその魂を動力として駆動する魔道鎧、究極まで進歩した魔道科学の最終形態たるレクシードの戦闘能力は、言語を絶する。間違いなく、人間の歴史において登場した各種の魔道兵器の中でも最強であり、その力は先程のエレイン駆る白銀の魔騎士アスタロトの戦果からも明らかである。
 現在、稼動出来る状態のレクシードシステムは世界に数機しか現存しないと言われている。それは、大破壊の際に超高位の悪魔、魔王級ディアボロスの軍団と交戦し大半が大破した事、ディアボロスの執拗な人類への攻撃により低下した文明レベルでは最早生産不可能な事等の原因によるが、それよりも大きな理由があった。
それこそは、同時に、ディアボロスが現世界に姿を現したこの地獄めいた状況を導いた原因でもある。
爛熟しきった果実は、その自重を支えきれず、根元から腐り堕ちる。霊長たる人間の文明は、まさにその轍を踏んだのだ。
 悪魔――ディアボロスがこの世界に姿を現し、六百六十六時間で世界を滅ぼし尽くした大破壊。悪魔をこの世界に呼び寄せたのは、行き場を見失った魔道科学なのだ。最強にして最悪の魔道兵器レクシードは、その結晶とも言える代物なのだ。
人造の神、いや悪魔とも言える最終兵器レクシードの完成。それと時期を同じくして現れ始めた人類の大敵ディアボロス。この二つは、何も知らずただただ暴威に弄ばれるだけの人々にとっては同列に忌むべき存在なのだ。

「これが、レクシード……本物、なの?」
 戒めを解かれたメイは、自分を救った鋼の天使に目を奪われた。
 彼女達グレイヴの住民にとって、いや人類全てにとって最も恐るべき存在である絶対の死神、悪魔ディアボロス。それをいとも簡単に圧倒し惨殺せしめた、白銀の騎士。
(なんて……キレイなんだろ)
 メイは、世界が大破壊を迎える前は錬金術師の家系であった。
錬金術師と言っても、その職能によって大きく二つに分類される。一つは研究を旨とし、新たなる技術や魔術式、新素材の開発に才を注ぐ錬学の徒。もう一つは、すでに開発され実用段階にある錬金機械、魔道具の生産、調整や運用に携わる、言わば技術職である。
彼女の家系は後者であった。幼い頃から父の工房で好奇心のまま見聞を広め、実際に父の仕事の手伝いまでするようになっていた彼女は、このグレイヴにおいても錬金機械に明るい貴重な人種として、この環境制御装置の調整に当たっていた。それはまた、彼女のような弱者がグレイヴで認められる最上の手段でもあった。存在価値があればこそ、彼女の一方的な言い分――自分と同じ境遇、大破壊にて親を失った子供達を皆で養うと言う住民への提言も聞き入れられていた。
(初めて見たわ。親父の言った通りだ。優れた機械は、技術屋にとって宝石と同じだって)
 幼い頃から無数とも言える魔道科学の産物に接してきた彼女にとって、半ば伝説に等しい存在である究極の魔道兵器レクシードは、誇張なしで眩く輝いて見えた。
「これはゼランディア陛下、とんだ醜態を晒してしまいました」
 そのレクシードが、人の声で喋った。中に人が入っているのか。鎧、というメイの直感は正しかったらしい。
「へ、いっつもふんぞり返ってやがるからな、テメエは。とっととそのヨロイを脱いで、悔しがる顔の一つでも見せやがれ」
 アスタロトの視覚センサー、紅い単眼が色を失うと、空間が急速に後退する。アスタロトの周囲を歪め、暗黒の顎が開く。
 それは、悪魔が現れる際に開く暗黒洞と全く同質のもの。部屋中の空気が怯え、急速に腐りきっていく。
 闇が白銀の悪魔を蝕み、少しずつその姿が薄れていく。完全に消滅した鎧の中から現れたのは、パンデモニウムで妹に別れを告げたままの格好、士官服姿の長身痩躯エレインである。エリシアは今度こそ兄に寄り添い、エレインは妹の肩に優しく手を置いた。
「ひええ〜」
 何が何やら、メイは感嘆の息を漏らした。殆ど予備時間をかけず異次元への門を開き、そして少しも後遺を残さずに閉じるレクシードの空間制御能力。あらゆる魔術式の中でも、他次元干渉は最も難度の高い部類に入る。それをこうも簡単にやってのける技術に驚愕するのは当然のことであったが、なおかつメイを驚かせたのは、あの悪魔を滅殺せしめた鬼神の如き騎士を駆っていたのが、虫も殺せないような優男であった事であった。メイは、それこそ悪魔のような男が出てくるかと思っていた。
「おいガキ。良かったな、命拾ってよ」
 そう、この男――ゼランディアと呼ばれた男のような。
 場の雰囲気や話の流れから、レクシードの青年と金髪の少女、それに大勢の兵士はこの男の部下なのだろう。だが、その態度はあまりにも野粗で獰悪であった。傲慢、と言う点では間違いなく人の上に立つ資質はあるのだろうが。ただ、一瞬で悪魔を打ち抜いた大剣を投じたその力量、この男もレクシードを纏う青年に匹敵する力を持っているのは間違いなかった。
「ガキ」
「メイ、だよ」
 傲慢に見下ろしながら声をかけてきたゼランに、言葉に出来ない不快感を抱いたメイは、そっけなく自己主張した。するとゼランは、さも楽しそうに快活に笑った。
「ああ、そいつは悪かったな、謝罪するぜ。さてメイよ。一つ頼みがあるんだがな。このグレイヴにいる奴ら、外に全員集めな。ああそうだ、死にてえ奴は来なくても良いからな、ククク」
「それってどういう……」
 メイは身震いした。この男、なんでこんなに楽しそうなんだろうか。
「済まぬな、少女。ここは我らの頼みを聞いてはくれないか」
 怪訝な顔をするメイに、エレインが声をかけた。メイはこくりと頷き肯定を示す。命の恩人の頼みを断れる筈はなかったし、彼らのする事には、何か重大な意味があるような気がしたのだ。
メイは、自分の直感と好奇心を優先させる性格の持ち主だった。
 そして彼女の直感に言わせれば、悪魔の群を全滅させ、自分の命を救い、レクシードまで所有するこの人物達の行動には、刈り取られるだけの命を長らせるだけのグレイヴの生活よりもよほど意味のあることに思われた。
「うん、わかった。みんな、出てきて手伝って」
メイは隠れていた子供達にもてきぱきと指示を出し、そそくさと塔を後にした。
その姿を見つめていたエリシアは、ぼそりと兄に呟いた。
「あんなに小さいのに……良い子ですね。まだ、あんな子がいる。素晴らしい事ですわ」
 しかし、そう言うエリシアの表情は凍りついたように無表情だ。
「ああ、そうだな」
 兄妹の会話を、さも詰まらなそうに聞き流すゼラン。
「おい、仕事はこれからだろうが。エレイン、兵をいくらか連れて行け。今のうちにディアボロスの心臓引っこ抜いて処置しときな。エリシア! お前は周囲の魔素反応に気を付けろ。この群の他にのディアボロスがいないとも限らねえからな」
「はい、陛下」
 二人は全く同時に返答した。

 数十分の後、グレイヴの住民は環境制御塔の前に集まっていた。その数は老若含め約百人と言ったところだろうか。グレイヴの中では、中の上程度の規模である。これだけの人数が無事に生命を維持していられるのは、このグレイヴの魔道機械が完全な状態ではないとは言え、未だに稼動を続けている故であった。
 自分達の命を繋ぎとめている魔道機械の管理を担う少女メイの頼みとあれば、住民達は話を聞くしかない。
 もっとも、彼らが大人しく従った理由それだけではないが。
先程の怪異――悪魔の死骸を降らせたと思しき張本人が何かやろうと言うのだ。閉鎖社会グレイヴでは、力こそ如実に全てを支配するのだった。
塔から何者かが現れた。ゼランとエレイン、それにエリシアである。ゼランは一歩前に歩み出て、群集に向かい半ば威嚇するように大きな声で話しかける。
「よお、墓場に吹きだまるクソども、初めて会うよなあ。俺はゼラン。ベルクマータ帝国第十三代皇帝、ゼランディア・バルィード・ベルクマータだ」
 一気にどよめく群集。
「罪業大国……ベルクマータ!」
 ベルクマータ。
超魔道大国の名を欲しいがままにし、かつてはこの世界の三分の一まで国土を広げた大国家。その苛烈にして過酷な執政は、内外に多くの敵を作りつつも、超越的なテクノロジーによってそれらを撃滅、懐柔させて勢力を拡大し続けてきた帝国ベルクマータ。大破壊以前、そこは間違いなく人類の歴史の中心の一つであった。
 ベルクマータとは、大破壊の日、最も早く歴史上から消滅した筈の国の名である。
 そして、残された人類の心に少なからぬ遺恨を残す名でもあった。
「大破壊の張本人が、今更何のようだ!」
 住民の一人、初老の男が叫んだ。それに触発されたように、何人かが糾弾の声をあげる。
「ああ? テメエ、今なんて言ったよおい」
エレインの制止も気にとめず、ゼランが凄む。
年の上では遥かに下の筈の青年皇帝の眼力は、しかし猛り狂った獣の如くに鋭く、住民は萎縮した。それでもなお、初老の男は噴き出る激情に任せ、言葉を何とか紡いでいく。
「しかし、あんたの国がやった事だろう。罪業大国の異名を持つベルクマータ。その忌々しい所業が神の怒りを買って奴らをこの世界に呼び寄せたんだ! この状況も、元を正せば全部あんた達の所為じゃないか!」
「はっ! 言うに事欠いて全部他人の所為だってか。テメエら、何のおかげで生きてられると思ってんだ? テメエらのどうでもいい命を活かしてるのこそ、その忌々しい所業の産物なんだろーが!」
 ゼランは巨大な黒剣を振るい、悪魔の血に濡れた切っ先で傾いた塔を指した。先ほど、エレインと悪魔が死闘を演じた塔である。
「あの中に詰まってる機械、知らないとは言わせねえぜ? 人間に最適な環境を作り出し、有害な物質をすべて排除し生存の為の食料や必要なエネルギーを無制限に作り出す環境制御魔道装置。それを根本から支えてるのがお前ら言うところの悪魔を呼び寄せるモノさ……お前らは皆、ベルクマータの開発したカルマドライブシステム罪業駆動機関に縋り付いて生きてるんだろうが!」
罪業駆動機関。
それこそ、隆盛を極めた人類の文明、魔道科学が最終的に辿り付いた究極至高のエネルギー運用システムである。
精霊力融合よりも魔素摘出よりも、遥かに高効率にエネルギーを抽出出来るシステム――レクシードをはじめとする高度に進歩した魔道機械の根幹をなす心臓部であり、そして、ディアボロスをこの世界に呼び寄せた最大の要因。
罪業駆動機関の最大の特徴は、そのエネルギー源である。有形無形に自然界に存在するエネルギーを抽出・変換する従来の方法とは一線を画す、そのエネルギー源とは……人の心なのだ。
人の心に内在するあらゆる感情。人は何かを憎む事ができる。人は何かを愛する事が出来る。喜ぶ事が、怒る事が、悲しむ事が出来る。しかも、感情には際限がない。
元来より、心を基幹とした魔術体系は存在していた。己の精神を修練により研ぎ澄まし、一種の物理的な力として行使する精神魔法。精神を自律他律的に操作し、無意識下の力を限界まで引き出す精神操作法。実用化された技術体系だけではなく、古より伝わる剣術武術における「獅子王心」「明鏡止水」のような奥義の抽象的な概念も、元を正せば人の心の力を本質的に利用したものだという事が出来る。
そういった、無限に噴き出す人の感情を魔術的にベクトル変換し、有形有益のエネルギーとする……専門的な知識や修練は必要ない。生活圏の人間の心から自動的に噴き出す「ちから」をそれ用に開発された錬金機械が収集・精練し、種々のエネルギーへと変換する。
人が文明を維持する為にはエネルギーが必要不可欠だが、罪業駆動機関は人と言うものがあり続ける限り何も消費せず無制限にエネルギーを生み出し続ける事が出来るのだ。
それはあらゆる物に応用可能であった。人工の明かりも炎も、天候制御や潮流操作といった自然環境の制御まで全てのエネルギーを一手に担う事が可能となったのだ。その利便性からこの機関の技術は急速に世界中に広まり、各国が独自に罪業駆動機関を開発・運用するようになるまで時間はかからなかった。
「こいつがなけりゃ、一日たりとも生きてられねえぞ、テメエら」
「ああ、それはその通りだろうさ。だけどな、そのありがたい装置の名前が全てを証明してるじゃないか。罪業駆動機関……ベルクマータ謹製ギルティンテクノロジー背徳魔道科学の結晶!」
 その言葉に、傲慢なる青年皇帝は一瞬、言葉を呑んだ。
「背徳、か。そうかもな」
 人の作り出すシステムには、最良という限界がない。更に良い物を突き詰めれば、どこまででも飛躍する。それは、霊長たる人の背負った傲慢な性なのかもしれない。
 例えば、夜を照らす街の明かりならば、より明るくより暖かく、上天に浮かぶ太陽の如くに。いや、太陽光よりも人間の需要に適った、より最適なものを人は望んできた。そして、魔道科学とその探求者はその貪欲な要求に全て応えてきた。
 罪業駆動機関にしても、それは同じであった。その存在目的は、より高効率で高性能のエネルギーを、より短期間により大量に生産する事である。研究者達はその更なる高みに導くべく、試行錯誤を繰り返した。その過程で、原動力となる「人の心」に、利用価値の高低があることが発見されたのだ。機関が収集しエネルギーに変換する過程にて、単位あたりでより高密度、高品質なものに利用可能であり、なおかつ人間が発散しやすい心の分類があったのである。
 怒り、妬み、嫉み、憎しみ……いわゆる、人の持つ負の感情は、駆動機関の原動力として他の感情よりも極めて優秀なものだった事がわかったのだ。人の英知の結晶たる新型エネルギー発生機関は、自律的に負の心を選択収集し、より高レベルのエネルギーを生産するように改良された。
人の負の感情を喰らい、人の文明の為に高品質のエネルギーを無限に吐き出す魔道機械。あまりに悪魔的なそのイメージは、開発国家であるベルクマータの悪評とも相まって、背徳魔道科学の申し子、罪業駆動機関機関等という禍々しく不名誉な名で呼ばれる事となったのである。
そして罪業駆動機関は、実際その名に違わぬ災厄を、生みの親である人類に見舞う事となる。
「確かにディアボロスをこの世界に呼び込んだのは罪業駆動機関だ」
 ゼランは、重々しく口を開いた。先程までの口調がまるで芝居だったかのように、その言葉は苦渋に満ちていた。
「人間の望むとおりに、際限なく負の感情を収集していった結果、奴らの世界への門が開いちまった。皮肉なもんだぜ。人間に永遠の繁栄を約束する筈の機械が、人間の文明に終りをもたらす破滅の門だったなんてな」
 それは、当初まったく予期し得ぬ事態であった。
 この世界以外にも、無数の世界があることは古来から知られていた。異界からのエネルギーを魔術式によって封鎖し、それを実際に魔力として流用する魔術体系も存在するし、異界に存在する鉱物や生物、果ては空間そのものを位相させ操作する召喚術も未発達ながら実在する。これらの魔術は超々高難度の技術であり、その原因は異界と現世界をつなぐ事の難しさでもあった。
異世界同士の関係は、無限に直列駆動する歯車のそれであった。即ち、噛みあう可能性はゼロではないが、限りなく無に近しく、また一度噛みあった歯車が今一度出会う可能性は絶望的、そして異世界同士が長時間隣接し合う事もない。特定の異界を見つけ出しこちら側との接触を保ったままにする事。それは例えるならば、たった一人で砂漠を歩き回り、視界を覆う大砂群の中からただ一粒だけの砂金を見つけ出し、更にそれを集め紡ぎ黄金の延べ棒を作成する事にも似ている。それほど多次元同士が接触する事は稀有であり、ましてや長期間に渡って通用口を開いておく事など不可能であった。
 それが、あちら側から接触を持ってきたのだ。それも、決して外れない強固な門を築き上げ、常にこちらの世界との接合を確保した上で強引にこちら側に入り込んできたのだ。その通用口の繋ぎ、触媒になったのが、際限なく溜め込まれた罪業駆動機関の原動力、罪であった。ディアボロスはそれを灯台の誘導灯の如くに認知し、この世界を発見する道標として利用し、更に異界同士を結びつける莫大なエネルギー源としてそのまま転化したのである。
 こうしてこちら側に降臨した異界の絶対捕食者は、その邪悪な姿形、人間とは全く異なる無情なる思考形態、猛烈な戦闘能力、何よりも人間を始めとするあらゆる生物を根絶せしめんとするかのような猛悪な破壊行動により、悪魔――ディアボロスの名で呼ばれた。
最初に悪魔が出現し、その餌食となったのは、もっとも罪を貯蓄していた国。つまり、もっともエネルギー需要量が高く、魔道科学の発展した大国家――ベルクマータだった。そして、莫大なエネルギー、つまりは罪を必要とする魔道兵器レクシードは、こちらへの道を探すディアボロスにとって最適の灯台であり最大の餌にもなったのだ。
 古き預言書にあるように、行き過ぎた人の罪が悪魔を呼び寄せたのだ。もっとも、罪も悪魔も、預言が幻視していたものとはかなり違ったのだが。ただ、大破壊後の世界が完全に救いようのない、と言う点においては同一であった。
「あの人……なんか、かわいそう」
 メイは、俯き黙ってしまったゼランを見て、そう呟いた。この男には良い印象を抱けないメイであったが、今目の前にいるのは、傷ついた小動物のように憐れな人間であった。
 だが、その直感が誤りであった事をメイはすぐさま思い知らされた。
「くっ、くっくくくく」
 搾り出すような、ゼランの笑い。俯いたまま、おかしくておかしくて堪らない、と言った感じで笑い続ける。
「まあ、終わったもんはしょうがねえわな。テメエでやった事にはテメエでケリつける。人の上に立つ皇帝としちゃあ、当たり前の事だよなあ」
(あ……)
 ゼランは真正面から、当惑する群集を見据える。曇りなく輝く琥珀の瞳、それはメイにとってレクシードと同じくらいに輝いて……
(なんでだろう。このヒト、今すごくキレイに見えた)
「テメエらは運が良い。こんな墓に住み着く必要なんざもうねえよ。感謝するんだな、これからは、栄誉あるベルクマータの臣民として迎えてやるぜ!」
「?!」
 わけがわからない。
 混乱と当惑が周囲を包み込んでいく。ベルクマータの臣民? 国もないのに、それはどういう意味なのか。このグレイヴを捨てろと言うのか? そもそも、これは最初からこの狂気じみた男のありもしない馬鹿げた話じゃないのか?
「我等は、パレスにて世界を旅している」
 ゼランに代わり、エレインが当惑する住民達に説明を続ける。
「パレスって、あの移動城塞パレス? レクシードに並ぶ、背徳魔道科学の最高傑作の?」
「ええ。なんでも知ってるのね、メイちゃん」
 メイの疑惑に、兄に寄り添うエリシアが事務的に応答する。
 メイは、これもまた好奇心の赴くままに父に聞いていた。まるでおとぎ話のような、自分で動く城、パレスの話を。
「バールベリト。我々が居住しているパレスの名前だ。同時に、現状ではベルクマータ本国にしてベルクマータ全国土と同意義でもある。あれこそが我らが新たな国、新生ベルクマータそのものだ」
 パレスとは、平たく言ってしまえば自力で動く城である。ベルクマータの魔道科学は、超巨大な罪業駆動機関を積み込む事で、想像を絶するまでのエネルギーを運用し、城塞自体を動かす事に成功したのである。それは全く馬鹿げた発明であった。が、居住する数百人の人間の生活を保障したまま、住人の心を動力とすることで半永久的に活動を続ける移動国家とは、正しく罪業駆動機関の存在意義をそのまま昇華したかのような存在でもあった。
パレスの建築には莫大な時間と経済力、そして並外れた魔道技術が要求される為、殆ど実用性には乏しかった。しかし、逆に言えば、パレスを所有し、実際に運用している国家は、対外的に大きな力を暗示する事が出来る。そう、壮麗絢爛にして剛健強固な居城が暗に果たす役割と同じように。故に、ベルクマータを始めとする魔道大国は、パレスの実用化に心力を注いだ。が、馬鹿げた発想に見合うだけの技術力を注ぐ事の出来た国は少なく、実際にパレスが稼動しているのを見たものはいなかった。
「あなた達を受け入れる準備は、既に完了している。無理にとは言わぬ。墓場と揶揄されようと、このグレイヴはあなた達が心血を注いで守り続けた故郷だ。離れる事に心を痛めるものもいよう。だが……」
「相変わらずまどろっこしいなテメエは。いいじゃねえか、本当の事言っちまえよ」
 ゼランがエレインを遮り、再び口を開いた。面倒臭そうに、だけど心のどこかで楽しんでいるように。
「どうせこの街は消えるんだ、それこそ跡形もなく、な。未練たらたら、女々しい性根も、それでバッサリおさらばさ」
「ええっ! それってどういう」
 メイの驚いた顔に、エリシアはただ哀しげな表情で答えた。
「ごめんなさい。でもこれが、あのお方のやり方なの」
 ゼランは右腕に嵌めた紅玉の腕輪を口元に充て、何やら呟いた。それは腕輪にはめ込まれた魔道具を覚醒させる為のコマンドワード命令呪韻であった。魔道具の覚醒を示す紅光を認め、ゼランはその魔道具、遠距離通信装置に話し掛ける。
「おう、ジジィか。俺だよ。ああそうだ、ベルクマータ皇帝閣下様だよ。もういいぜ。バールベリトを広域破壊形態にしてグレイヴに近づけな」
 ゼランはいつもの調子で、装置の向こうにいる人物に命令を下す。遠い声でしわがれた老人の恭順を示す返事が聞こえた。
「い、一体何を……」
「だから言ってんだろうが」
 ゼランは背中に納めていた大剣を振りぬいた。オーバーアクションで空中回転させながら宣言した
「このグレイヴをブッ壊す。テメエらの家も何もかも、粉々に破壊して塵にしてやるんだよ!」
 一際大きなざわめきの前で、ゼランは肉食獣のように獰猛な笑みを浮かべた。 
「な、何を勝手な事を」
 風を切る音とともに、大剣の切先がそう言った男の鼻面に突きつけられた。
「ああそうさ。ぜ〜んぶ、俺の勝手よ。だから、お前らがどうするかも勝手にしな。テメエら諸共ぶっ壊しても良いんだが、そこは慈悲深い俺様に感謝するんだな。ベルクマータの誇る、世界一頑丈な城に住まわせてやろうってんだからよ」
 地響きが近づいて来る。いまだ地平線の向こうに姿も見せぬのに、大地が鳴動し空気が震えている。
「そうこう言ってる間に来ちまったぜ。辛気臭え墓を木っ端微塵にする粉砕機、そしてお前らの住む新しいお家がよ」
 土煙を上げながら近づいてくる、巨大なる姿。それは、城と呼ぶにはあまりに奇怪で剣呑な代物だった。
 大地を喰らう巨大な怪魚。移動城塞バールベリトの姿はそれであった。縦に長く太く、全体的な印象は大型の輸送艦船に似ている。その上部にそびえる幾つもの長い影。無数の砲塔が針の如く背面から伸びだし、動力部と接続する太いパイプと相まって、それは怪魚の背鰭を形成している。側面には継ぎ目らしきものが見当たらず、磨き上げられた鏡のような魔法金属の装甲が連続していた。
敢えて城らしい部分を探すならば、何かのパロディのようにそのままの形を残した城門であろうか。緩やかな丘のように歪曲した前面のデザインからすれば、それは鯨のヒゲのような位置にあった。そして、その門にはベルクマータの巨大な紋章が意匠されていた。陽炎のように揺らめいた、猛々しい漆黒の駿馬。それが隆盛を極めた大帝国ベルクマータの紋章、影馬の紋章である。
「これはまた……今日はすごい日だよ」
 メイはもう、ため息をつくしかなかった。伝説に謳われる錬金技術の最高峰、幻のレクシードとパレス、しかも稼動状態にある実物を同時に見てしまったのだから。
 本当は、それどころじゃないんだろうけど。
 自分でもそう思うものの、やはり技術屋の血には嘘をつけない。
 だが、他の住人の反応はまた違っていた。
 沈黙。人は理解を越えたものを目の当たりにしたとき、呆然とするしかないものだ。
「肝を潰したか? まあ無理はねえわな。テメエらが世話になる家なんだぜ、そう固まるなよ」
 だが、バールベリトの姿はどう見ても、城郭というよりは要塞であった。
「し、しかし……」
 確かに、ここはグレイヴだ。何の保証もない、何とか生きていけるだけの場所だ。それでも、あんな狂気の塊のような魔道兵器に乗せられるよりマシなんじゃないのか? そのような言葉が人々の間で交わされた。
 突如、怪魚が潮を吹いた。
 否、無数の砲塔のうち一つから、何かの砲弾を放ったのだ。それは実体を持たぬ魔法弾であり、街には落下せずに雲の中に消えた。
「アシッドナイザーだ」
 エレインが冷静な言葉にて、群集に説明する。
「環境変更型の魔法が埋め込まれている。あれは、炸裂点より大型の魔法雲を発生させる。これより約三時間の後、ここを中心半径3キロメートルに渡り王水の雨が降りしきる事になる。それは有機物無機物の区別なく、あらゆるものを溶解し地に帰す、異法の雨。背徳魔道科学の生んだ広域殲滅魔道兵器だ」
驚くべき言葉にざわめく群集。
「ほらほら、まとめるモノまとめて城に入りな。居住区画までは俺の部下が案内してくれるし、ここでの生活についても説明してくれる。さ、死にたくなければとっととしな。二時間だけ待ってやる」
「ここに残って、故郷とともに滅び行くのも良い。この世の中、下手に生き延びるよりそちらの方が幸せかもしれん。だが、よく考えるといい。自分にとって、何が最良の選択なのかを」
 それだけ言って、ゼランとエレインは巨大な移動城塞に向かっていった。あたかも、そこが彼らにとって唯一の故郷であるかのように。
「メイちゃんは、来るわよね?」
 エリシアはずっと側にいた、協力的な少女に話しかけた。しかしメイは、返事に窮しているようだった。
「でも……あたしや、この子達みたいな子供が出来る事なんて」
「何か勘違いしてるみたいだけど」
 エリシアは、メイの頬を撫であげた。その掌は柔らかいけれど、すごく冷たかった。
「陛下は何の見返りも要求はしないわ。信じられないかもしれないけど、本当よ。それが陛下のご意志……助けを求める人には、分け隔てなく救いの手を差し伸べるの」
「え……」
「私達にしてくれたみたいに、ね」
 エリシアの表情は、何故か酷く哀しかった。

 パレス・バールベリトの内部は、まるでメイの予想を覆していた。
 これほどの巨大な魔道機械である。その殆どが動力とそれに類する錬金機械で追い尽くされているものだと思っていたのだが……巨大な魚の口をくぐった内部は、おとぎ話に出てくるような幻想の世界だった。
 門をくぐると、その中にまた一つの世界があるのだ。絢爛な城を中心に広がる広漠な街。それは大破壊以前の大都市を模したものであった。ただし、城以外の建築物はまるでない。本来ならば民の住む家々や各種の店先が並び、川が流れ街路樹が緑を謳うべき城下には、何の建物もないのである。メイ達グレイヴの住民が割り当てられたのは当然何もない城下の広場だ。確かに、ここにいれば風雨に悩まされる事もないのだろうが……
「食事は毎日2回支給される。パレスに内蔵された環境制御錬金装置により人間が生命活動を行う最適な環境が自動的に維持され、諸君らは故郷でのものと全く同じ感覚で生活できる。無論、人工的に昼夜も提供される。他に必要なものがあれば、自分達で何とかせよ。それがベルクマータ国民たる諸君達の、唯一の職務だ。諸君らには何らの義務もないが、何らの権利も有さない。ここでは有形の法はないが、著しく秩序をみなすと思われる行動を取った場合には、相応の罰が下される。それ以外は、基本的に諸君らで全て決めよ。つまりは、グレイヴでの生活と同じ。これがベルクマータ城下での生活の全てだ。以上」
 影馬の紋章が刻まれた甲冑に身を包んだ兵士が、一方的に説明を終える。
「ねーちゃん、ボク達どーなるの?」
 メイの弟分である子供達が、心配そうな目でメイを見上げた。
「うん、そうだねー」
 メイは、辺りを見回した。
 グレイヴの住民は、結局殆どがバールベリトに移住したようだ。メイは、全員の顔をしっているわけではないが、いくつかのグループに固まって会話している人々を見て、そう思う。結局、人間は一人では生きていけないのだ。
ならば。
「まあ、昨日までと大して変わらないよ、多分ね」
 でも、と口には出さずにメイは考える。やるべき仕事すらなくした彼女は、本当にここにいてもいいのだろうか?
 エリシアの言葉や、先程の兵士の話によれば、別段何もせずともこの国が養ってくれるらしい。しかしそれでは、どこか納得がいかないのだ。
「なるようになるよ、きっと」
 それでもメイは、子供達の前でつとめて明るい笑顔を見せた。
「へっ、中々楽観的だな。嫌いじゃねえぜ、そういう考え方」
「あ……」
 ゼランディア。いつの間にか、皇帝自らが城下に出てきていた。エレインもエリシアもいない。一人の兵士もつけずに、服装もグレイヴで見せた軽鎧と違い、簡素なものだった。
「よお、嬢ちゃん。ちょいとこっちに来な。聞きたい事がある」
「メイです!」
 からかわれているような気がして、メイは声を荒げた。
「いいですけど、でも……」
「別にいいぜ、そいつらも一緒で。まとめてご招待だ、ベルクマータ皇帝の居城にな」
「え?」
 この男の言う事は、いつも唐突で理不尽だった。

 ベルクマータ城――城の形をしたそれの正体を、内部に入ってメイは理解した。
 ここは、バールベリトの心臓部だった。城の体面を整えているのはその外壁のみで、内部は剥き出しの機械が蒸気や魔素を噴き出す駆動機関なのだ。無数の送気管やパイプ、レバーが無秩序に内壁から飛び出している。馬鹿馬鹿しいほどに巨大で複雑な、罪業駆動機関そのものだった。
「まあ、お茶するには向かない所だけどな。座れよ」
 張り出した何かのパイプに、そのまま腰を降ろすゼラン。子供たちは別室にて待たされている。
「はあ〜」
 だが、メイにはゼランの言葉は届いていなかった。夢見るような表情で辺りの錬金機械を物色している。
「すごいすごい! 流石はパレスの動力部。こんな完全な機関、見たことない!」
「ふん、良い度胸だな、テメエ。俺様の言葉を無視しやがって」
「あっ! ごめ……すいません」
 慌てて頭を下げるメイに、だがゼランは深い追求はしなかった。
「お前、魔道科学に興味があんのか」
 突然、ゼランが真面目な口調で切り出した。琥珀の瞳を少しも逸らさずに、少女を睨みつけたまま。
「は、はい……あたし、グレイヴで錬金機械の調整技師をやってたんです。あの、家が錬金術師の家系で、親父が腕の良い技師で。あたしも子供の頃からそういうのに興味があって」
 ゼランは、メイの言葉一つ一つを吟味し、時に首を下げて肯定を示しながら聞いた。
「そうか……もう一つ、聞いていいか?」
一通りメイの話を聞き終え、ゼランは話を切り出した。
「はい」
「お前、エレインが……ってもわかんねえか。あの白い騎士がバケモノを倒した時な。ディアボロスに食われかけてたろ?」
「いや……そこまでは」
 確かに、絶体絶命ではあったが。
メイは、あの時のことを思い出していた。バケモノの触手に捕まって、生命が吸い取られるような脱力感に苛まされて。
それがあのディアボロスの捕食方法だと、メイは知らなかった。
「ディアボロスってな、最悪の脅威だ。どう渡り合ったって、普通の人間じゃどうしようもねえ。もちろん、お前みたいなガキがどうにか出来る相手でもない。そんな奴にひっ捕まって、お前、少しも騒いでいなかったな? 恐ろしくはなかったのか?」
「それは……恐ろしかったです」
 思い出してみれば、殆ど何も考えられなかったような気がする。でも、その中でも考えた事があったのは確かだ。
「でも……あの、子供達がいたから」
「そりゃどういう事だ」
 ゼランの問いに、メイは言葉を選びながらゆっくりと答えた。
「何と言えばいいのか……あたしが泣き叫んでも、あの子達は怖がるだけだろうな、って。そうなったら、あの子達が可哀想だな、って」
「ほう。そいつは大層なことだ」
 ゼランの煮え切らないような態度に、メイは慌てて言葉を続ける。
「う〜ん、そこまで考えてたのかな、あたし? あっ! でも、負けたくはなかった。もう生き残れないだろうなって、諦めてはいたけど。でも、こんなバケモノに負けたくない。そう思ってた……です」
 メイは、少しだけ舌をだして、おどけた表情をした。ボーイッシュな少女によく似合った魅力的な仕草。
「勝てるわけ、ないんですけどね」
「成る程」
 ゼランは、なにやら得心がいったようだった。
「メイ」
 ゼランは、初めて少女を名前で呼んだ。
「お前さえ良ければ、ここで俺達の手伝いをしてくれないか?」
「え?」
 今、この傲慢な男は何と言った?
 自分に、頼み事をしたのか? 
「いや、無理強いはしねえさ。お前が決めればいい。俺の国ぁ、ちょいと技師が足りねえのよ、情けない話だけどな。お前、好きなんだろ、魔道機械をいじるのが。へっ、俺にはさっぱりだがな」
 ベルクマータ皇帝――獣の如く猛々しい大帝ゼランディア。だが、今メイの前で照れくさそうに頭を掻いて見せているのは、年相応の青年そのものだった。
「勿論、礼はさせてもらうぜ。お前と連れのガキども、この宮廷に部屋をあてがってやる。俺の部下が伝えたよな? 何か欲しければ自分で何とかしろって。つまり、そういう事だ」
「……喜んで!」
 自分の好奇心と、直感が告げていた。
 メイは、この男と出会った時に感じたものの正体を悟った。
 昨日までと大して変わらない、死を待つだけの毎日? 
「あたし、あたし頑張ります!」
「おおよ。決まったところで、この城を紹介してやるか。お前も見てえだろ、パレスの心臓部」
 すっくと立ち上がり、埃を払うゼラン。
 結局。
 この男は、何もかもわかっていたのかもしれない。
自分の事、あの子達の事。グレイヴの事。
 メイは、エリシアの言葉が思い出された。
(助けを求めるものには、分け隔てなく救いの手を差し伸べるの)
 淀んだあの墓場で燻っていた自分を、どうしようもない灰色の毎日に押しつぶされるだけの自分を、輝かせてくれるのだ、この人は。
「……でな、って、人の話聞いてるのかテメエ!」
 城の二階に上がる階段で、ゼランがメイに話し掛ける。が、それを階上からさらに大きな声が遮った。
「若っ! 一体何をなされておるのですか!」
 しわがれた老人の、切り裂くような怒声が城内に響き渡った。
「ジジイ……いきなり怒鳴んじゃねえっていつも言ってるだろうが」
 いかにも面倒臭そうに答えるゼラン。
 そこにいたのは、深い皺と真っ白な髭を蓄えた、杖をついた老爺であった。ぴっしりと整えた赤い礼服に身を包み、厳格そうなその瞳は老いてなお精力に満ち満ちている。
「ぬ、その女子は……若! 世界の命運を決定付ける会議を放っぽりだして、市井の者と戯れる時間なぞ若にはありませぬ! 若には若の為されるべき事がございまする」
「あ、あの……」
面食らった少女は、ゼランに説明を求めようとしたが、果たしてそれは自分に許された権限なのかどうか。
「気にするな。こいつはドーラヴ。ベルクマータ帝室顧問……一応、俺の後見役だな。耄碌してもおかしくねえ年だが、稀代の天才錬金術師でもある。このバールベリトやエレインのレクシードの生みの親なんだぜ」
 階段を下り、ゼランとメイににじり寄る老人。無言から繰り出される威厳と風格は、只の老人のものではない。
「女子。若の気まぐれに付き合いご苦労であったな。褒美をくれてやるゆえ、今日の事は忘れよ」
 メイが何か言いかけたが、老人は全く相手にしようともしない。構わず、ゼランに詰め寄った。
「若。これ以上関係ない者を巻き込むのはおやめくだされ。これは、我らベルクマータの民だけの問題の筈ですじゃ」
「関係? 大有りだよ、こいつだって俺の民だ!」
 ゼランは、一歩も引き下がらなかった。
「ジジィ! 技師が足りねえってテメエがぼやくから、使えそうなのを見繕ってきてやったんだろーが! なりは小せえが、あのグレイヴで連機械の調整をたった一人でこなしてた生まれついての錬金技師だぜ。ま、誘った理由はそれだけじゃねえがな。おいジジイ、まさか俺の目利きにケチ付ける気じゃねえだろうな!」
「なんと?」
 ドーラヴは何か考え込んでいたが、しばらくしてメイに話し掛けた。
「女子。このパレス、どう思う。正直に答えよ」
「すごいです。もう、ワケわからないぐらいに」
「ふむ。それだけか?」
「う〜ん」
 メイは、しばらく考え込んだ。何だろう、最初に門をくぐった時、何かを感じたのだが。
「あ、そうだ。最初に思ったんです、このパレス、地味だなって。本当は、もっとステキに出来ると思います。親父が言ってた、機械は使う人の心を映す鏡だって。だから」
「……よかろう。若、認めましょう。この者を本日からワシの下で働かせまする」
 ドーラヴは何か合点が行ったようだった。
「ワシはドーラヴ。大破壊前には世界でただ一人マイスター錬金術匠の称号を持っておったわ。女子、名は何と言う?」
「メイだよ」
 メイが答えるよりも早く、ゼランがぼそりと言った。
それは、メイにとってまったく意外だったし、少しだけ嬉しい事でもあった。
ドーラヴはその厳格な顔に似合わぬ柔和な笑みを浮かべた。
「ふぉっふぉっ! そうかそうか。メイ、これからはよろしく頼むぞ。このドーラヴの片腕として働いてもらうからの!」
「はいっ! よろしくお願いします、師匠!」
 ぺこりと頭を下げて、礼をするメイ。だけど、ちょっとだけ舌を出していた。ドーラヴにわからないように、そしてゼランにはわかるように。
「じゃ、しばらくブラブラしてな。物色してえモノも一杯あるだろ」
 メイと別れ、ゼランとドーラヴは二階の廊下を進む。機械の塊だった一階とは違い、二階はありし日の王城を彷彿とさせる造りであった。
「若……エレイン殿といいエリシア殿といい、才気溢るるものを見抜くその眼力、感服いたしましたぞ。ふふふ、ステキときましたか。素晴らしきは若さですな」
「当たり前だろーが」
 ゼランはさも当たり前のように、面倒臭そうにドーラヴに語る。
「俺が認めるのは、俺と同じ人間だけ。この腐った世界で、くだらねえ絶望に抗する事の出来る力……「罪」すら凌駕する人の心はな、「情熱」だけだ」
 それは、齢二十にも見たぬ青年皇帝の、偽らぬ本音であった。
 城の二階にある会議室は、バールベリトの上部に位置し、ドーム上の天窓から直接外界の風景が見えるようになっている。ベルクマータの象徴たる影馬の紋が豪奢に意匠された絨毯の上に、巨大な円卓が置かれているのは、様式美を尊ぶ帝室の懐古主義のあらわれだった。既に円卓にはエレインとエリシアが着席していた。ゼランとドーラヴを含むこの四人が、実質ベルクマータの意思決定を担っている。ここは、移動要塞バールベリトの頭脳とも言える場所であった。
「よし、報告しろ」
 ゼランは宝石類のはめ込まれた一際豪奢な椅子に座り込むと、円卓の上に片足を放り出し、傍若無人な態を堂々と晒した。
 いつもの事だった。エレインもドーラヴも、敢えて何も言わない。エリシアも、無表情に見ているだけだ。
「まずは、先刻のグレイヴからの移民についてですが……」
「予定にはなかったんだがな。くだらねえ道草食っちまったよな。ああ、くだらねえ、くだらねえ。ま、どうでもいいがな。別に急ぐわけでもねえし」
 ぶっきらぼうなその態度に、ドーラヴが咳き込んだ。それが気に入らなかったのか、ゼランはエレインの説明に耳を傾け始めた。が、聞いているのか聞いていないのか、つまらなさそうに時折相槌をうつだけだった。
「オッケーオッケー。これで我が新生ベルクマータには百二十五人の臣下が出来たって事だ。で、ドーラヴ、食料合成機の方は問題ないか?」
「それはもちろんでございます。このドーラヴめが調整いたしました罪業駆動機関は完璧でございまして、例えば従来の方法ですと幾許かの有機的な原料が必要だったものを……」
「難しい話はどうでもいい。どうせ俺にはわからねえから、あのガキにでもしてやれ。で、エレインよ、レクシードの調子はどうだ? 使い物になりそうか?」
「はい……」
 ゼランがレクシードの名を出した瞬間、二人の間に緊迫した空気が漲った。
「戦闘力に関しましては、陛下もご覧になられた通りです。レクシードの駆動時に核にかかる負担、つまりは私にかかる負荷についてですが、全く問題ない範囲内です。シミュレートよりは幾分過負荷ではありましたが、その程度の事はさしたる問題ではありません。ディアボロスに抗するに、十分な戦力と判断します」
「それだけか」
「いえ」
 円卓の向に座る皇帝に、エレインは卓上から頭を下げた。
「ゼランディア陛下。私如きの頼みをお聞き入れ頂き、過分な力を拝領下さり、感謝の言葉もございません。このエレイン、必ずや陛下のご期待に添ってみせます」
「エレイン兄さま……」
 兄の、痛々しいばかりの恭順。その中に潜むものを敏感に感じ取り、エリシアは呻き声にも近い声を漏らした。
「必ずや、悪魔どもをこの手で殲滅してご覧にいれましょう……!」
 そう言うエレインの瞳には、主たるゼランのものと同じ、獣のように剣呑な光が宿っていた。
「頼もしいな。俺の狙いどおりに行けば、ディアボロスどもはこのバールベリトに攻勢をかけて来る筈だ。その時は期待してるぜ、俺の右腕。さて、肝心の悪魔だがな。ドーラヴ、今回の戦闘でヤツラの心臓はどれだけ集まった」
「全部で百と七つ。その中で使用可能な状態のものは約半数ですじゃ。殺しても死なぬ悪魔の核が、完全に機能を停止してしまっていおるのです。げに恐るべきはアスタロトの性能、それを引き出すエレイン殿の技術と魔力、精神力ですな」
「そうか。それでどうだ? それだけあれば二機目のレクシードは起動できそうか?」
 ゼランはそこで一呼吸置いた。旧知の仲の老錬金術師は、次にかけられるべき言葉を理解していた。
「俺のレクシード……アスモデウスは」
「ははっ! それはもう。何卒、このドーラヴめにお任せあれ。陛下のご威光を知らしめるに十分な、悪魔どもの心胆寒からしめる超兵器を造りだして見せましょうぞ」
「ククッ……楽しみにしてるぜ」
 ゼランの笑み。それは極上の玩具を手にした子供の無邪気な笑いであり、獲物を見つけた狩人の笑みでもあった。
「では陛下。先の悪魔の群れについてわかったことについて、お知らせいたしますわ」
 ゼランの隣席に着するエリシアが、最後の議題を淡々と切り出した。
「総数百十一体。一体のみの貴族階級ディアボロスが他の臣下階級をまとめていた構図になります。これほどまとまった数の臣下階級が一固体に付き従う事例は、大破壊以降確認されていません。それで、時間操魔術による調査の結果、貴族階級ディアボロスにも臣従の印が見つかりました」
「つまり、何者かの飼い犬だったって事だな。貴族階級を顎で扱うような奴となると」
 ゼランが向けた視線に、エリシアは首肯を示す。
「セイタン魔王級ディアボロス。どうやらあの群れは子飼いの集団だったようですわ」
「魔王級か。ククッ、面白くなってきやがったな。となればいよいよ、俺達の目的地も近づいてきたってわけか」
 ゼランは交差した足を解き、両拳を目の前で打ちつけた。気合を拡充させる、お決まりの仕草だった。
「はい」
「ええ」
 場にいる全員が、めいめいに声を合わさせた。
「我らが目的……ダークスを破壊する為に!」
 悪魔、ディアボロスについて判明している事は驚くほど少ない。
 ディアボロスは何らかの社会的組織を持っているらしい。それが人間のような文明の形態を持っているのか、それとも蟻や蜂のような本能的な関係のものなのかはわからないが、ディアボロスにも確固たる上下関係が存在する。
 それが階級と呼ばれるものである。
 最も数多く確認されているのが臣下階級ディアボロスである。臣下階級ディアボロスは、全て似通った姿形を持っている。人間の身体を基調に、山羊の如き頭と蹄、背中には蝙蝠に似た翼、蛇のような尾を持ち、その特徴的な姿形からビーストヘッドとも呼ばれている。個体差はあるが、その生命力や闘争力はディアボロスの中では低い。ただ、一般の人間が手出しできるレベルのものではないが、一流の魔道科学にて鍛えられた装備を一流の戦士が持って相対すれば、倒せないレベルではないだろう。もっとも、そのような兵器と人間はこの世界にどれほど残っているのか知れないが。また、臣下階級ディアボロスは生命力を吸収する為に、他生物の血肉、特に知的生物のそれを好んで喰らう。これは、生命を魔力に変換する暗黒魔道において高度な生物を媒介とした方がより多くの魔力が得られるのと、本質的には同一の事象である。魔力や生命力の根幹となる部分は、生物ごとに著しく異なり、知的活動の活発な生物ほど優良なものであるとされている。
 貴族階級は、それら臣下階級の上位に位置するディアボロスの種別である。統計を取るほどの数が確認されていないのが現実だが、その姿形は固体により全く異なり、あたかも同一の生物ではないかのようにさえ思われる。エレインが相手取った異形の貴族階級ディアボロスは、その典型的な例であった。ビーストヘッドとはまるで違う外見を持っているのである。貴族階級ディアボロスの生命力・魔力・闘争力は、臣下階級のそれとは比較にもならない。大破壊の際にこの世界に現れた貴族階級ディアボロスは凡そ五十体程であるが、彼らはみな、一体で一国の軍隊全てを相手取り壊滅させるほどの力を有していた。また、貴族階級ディアボロスは血肉を介せずとも他生物の生命エネルギーを取り込む事が出来る。その方法もまた個体差があるのだが、メイを襲った固体の場合は触手で触れた相手より直接生命力を吸収する事が出来る能力を備えていた。ただ、何らかの嗜好があるのであろうか、犠牲者を残虐に貪り喰らう場合が多い。
 特筆すべきは、貴族階級ディアボロスは人間文化を理解しており、人語を解し人間の思考をある程度予測出来ると言う事である。その事から、貴族階級ディアボロスは他の臣下階級の統率にあたる事が多い。司令塔でありながら強大な戦闘力を誇り、奸智と力に長けた狂獣。それが貴族階級である。
 そして、最上位の悪魔が魔王級ディアボロスである。
 この世界に姿を見せた魔王級ディアボロスは全部で片手の指にも満たない。また、大破壊の日、主要な国家を直接攻撃して以来、その姿をこちら側に現してはいない。一体どれだけの固体が存在するのかは全く不明であるが、間違いないのは、どれも筆舌に尽くしがたい超絶の異能を誇っていると言う事である。この世界を終末へと加速させたのは、間違いなく彼ら悪魔王達なのだから。
 それら悪魔が、こちら側に出現する際に使用する異界を結合する門。いつ、どこに現れるかすらわからない文字通りの奈落への口は、しかし一つの決まり事があった。
 門を開き、固定するのには莫大なエネルギーが必要である。ディアボロスは、そのエネルギー源として、愚かな人間自身が用意した罪の力を使用している。しかし、それにもおのずと限界がある。固定化した異界の門を維持する為には、加えて更なるエネルギーが必要となるからである。通過した直後に門を閉じるのであれば、維持する為のエネルギーを最小に抑える事も出来る。故に、門を開いたままにしておく事はない。
何らかの理由が存在するのかは不明であるが、ディアボロスは長期間に渡りこちら側に滞在しようとはしない。大破壊の後、人間は絶滅することなく細々と生き延びている原因はそこにあった。予兆もなく突然現れ、狩りを行う悪魔はいても、現世界に居座りつづけるものはおらず、こちら側に現れた悪魔はいずれあちら側へと帰還してしまうのだ。
罪業駆動機関を再開発するほどの技術力も失われ、文明活動が維持不可能なほど疲弊しきった人類に、もはや大破壊以前のように無限とも言えるエネルギーを生産する術はない。それはつまり、悪魔にとっても門を開く為のエネルギーが調達できない事を意味していた。
であるのに、未だに悪魔はこの世界への干渉を続けている。
何故か? 
 その答えがダークスである。
 ダークスとは、暗黒の箱舟群(Dark ARKs)を意味する。ダークスは、言わば半永続化した異界の門である。
 魔道科学の弊害の一つに、魔術汚染というものがある。特定の波長の魔術式を連続して特定地域で使用し続けた結果、その地域自体が特定の魔力を帯びてしまう現象である。例えば、長期に渡り大気そのものを操作変更する魔術式を行使し続けた地域は、もう通常の大気組成に戻る事はなくなってしまう。古来「祟り」として研究者に恐れられた魔術式の暴走も、実質的にはこれと同じ事である。同じ魔術式を繰り返し使用しつづける事で、その空間自体がその魔術と同じモノになってしまい、制御が利かなくなるのである。それは傲慢なる魔道科学の本質である性質の任意転換が導きだした最終結末の一つであった。
 ダークスとは、悪魔達が開いた門による魔道汚染である。
 同一の空間座標に繰り返し門を開く事で、その空間自体を門と同一のものにしたのだ。無論、一度開くだけでも計り知れないエネルギーを必要とする異界の門である。連続していくつもの門を開くには、それこそ理解不可能な量のエネルギー、つまり罪が必要とされる。
 しかし、それがあったのだ。ベルクマータを始めとする超魔道大国は、対外的な関係も踏まえ、決して尽きない量の罪を貯蓄し続けていた。ディアボロスは、最初からその莫大な量の罪に目を付けていたのだ。大破壊最序盤の先制攻撃――申し合わせたように、同時刻に世界各地で起きた先制攻撃の際、目標に選ばれたのは人間界でも最大の国家ばかりであった。予期せぬ事態にろくな抵抗も出来ず、数時間にて灰燼と化した巨大国家には、未使用の罪がどれほど残されていた事か。ディアボロスはそれを用い、巨大な門を連続して開き、それをこの世界に定着・永続化させた。
それがダークスである。
ダークスとは、ディアボロスがこの世界に安全に出入りするための通用口に他ならないのであった。
「最初のダークス……へっ、懐かしき旧ベルクマータ帝都となるわけだが、そこまではどれほどかかる?」
「このバールベリトの速度を持ってすれば、このような辺境からでも前帝都まで一ヶ月はかかりませんぞ。無論、それまでにアスモデウスは完全な状態に仕上げまする。若が連れて来られた、優秀な助手に手伝わせますゆえに」
 ドーラヴが胸を張って答える
「しかしながら陛下。このまま直進するとなると、ダークスの前に大きな関門が」
 エレインが地図を円卓に広げる。その殆どは黒く塗りつぶされてしまっている。完全に破壊され、草木も生えぬ荒野と化した場所だ。エレインはそこを避け、旧ベルクマータ領の最南端を指し示す。そこは、血のように赤い丸がうたれていた。
「このポイント。マルーフ城があったトコか。白き理想郷、神に愛された地……確か、最後まで残って、ディアボロスに抗した国だったな」
 ゼランは思いを巡らせた。かつて自国の領土でありながら、魔道科学による隆盛、力による統制を嫌い独立した国の事を。結局、戦争までは発展しなかったか……
 その技術力の低さが幸いして、ディアボロスの攻撃の矛先となったのは大破壊最後の刻だった。もっとも、数分持ったかどうか。
「そうですじゃ。だが、今ではあそこは死の吹き荒れる荒地として知られておりまする。ディアボロスの砦――ダークスを守るように配置された悪魔の砦がそこにあると。噂の域を出ませぬが……バールベリトの霊圧探知機もその方角に強烈な妖気を観測しております。このまま行けば少なくとも三週間の内にぶつかる事となりまする。若、ここは大事をとって迂回なさるべきかと」
「はあ? なに馬鹿な事言ってんだよお前」
 ゼランは力いっぱい地図に指を押し付けた。そこは、今バールベリトが航行している場所であった。
「旧ベルクマータ帝都、つまりはダークスまで行く為には、こう真っ直ぐ行くのが一番早ええじゃねえか。そんなもん、誰でもわかるだろーが」
 自信たっぷりに、青年皇帝は野性味溢れる笑みを称えた。
「茨の道でも何でも、そこにあるなら行けばいいだろーが。どこに行っても茨だらけなんだよ、だったら全部刈り取っちまえばいいんだろーが!」
「ふっ……」
 半ば怒声にも近いゼランの言葉に、エレインは押し殺したように息を吐いた。
「なんだ、何がおかしい?」
「いえ、実に陛下らしいお言葉だと思いまして」
 その言葉が終わる前に、ゼランは席を立った。そのまま、隣に座るエリシアの二の腕を引っ掴む。
「はいはい、今日の所はこれでお開きにしようぜ。なってみなきゃわからねえ明日の事心配しても仕方ねえだろーが。俺ぁちょっと出てくるぜ。エリシア! ちょいと付き合いな」
「はい。ご一緒させて頂きますわ」
 慌しく二人が退室した後で、ドーラヴは大きなため息をついた。
「若にも困ったものですじゃ」
「ドーラヴ殿、胸中お察し致します」
 そういうエレインも、妹の事が心配なのだろうか、落ち着かないものがあった。
「ふふふ。若、今日は何か良い事でもあったのですかな? 先程も、こんな小さな女子を連れて参ってのう。楽しそうに騒いでおられたのじゃよ」
 ドーラヴの問いに、エレインは素っ気無く答えるのみだった。
「さて。では私もお暇させて頂きます。貴方が造られたアスタロト、使いこなすにはまだまだ修練が必要ですので」
 エレインはサーコートを翻し会議室を後にした。
「情熱、か……若もエレイン殿も、変わらぬのう」
 一人残った老錬金術匠は蓄えた顎鬚をさすって、一人会議室の片づけを始めるのだった。

 数日で、メイはドーラヴに教え込まれた仕事を完璧にマスターしていた。バールベリトに居住する百人を越える人間の生命を維持する罪業駆動機関の制御は、今や年端もいかぬ技師見習の少女の手に委ねられていた。もっとも、それは明朗な少女にとって何のプレッシャーにもなってはいなかったが。何せ、グレイヴでも同じ仕事をしていたのだ。彼女には、小さいながらも技師としての自負があった。
「メイ。そこの調整が終わったらワシの工房まで来い。お前に手伝ってもらわねばならん事があっての」
「了解でっす、師匠」
 備え付けの送音管からドーラヴに呼ばれ、メイはてきぱきと仕事を片付けてそのまま師の部屋に赴く。
 バールベリト内部ベルクマータ城一階。数多の超高度な錬金機械が駆動を続けるエンジン部の傍らに、ドーラヴの部屋はあった。
「失礼しま〜す」
 その扉を始めてくぐった時、メイは大いに感嘆した。外見とはまるで異なる大きさの、広大な錬金研究施設と魔道工房が、この小さな空間に内在していたのだ。それは、空間圧搾の魔術式によって作り出された擬似空間であった。そこには、高度な研究機材や、何に使うのかもわからないような装置が所狭しと並べられており、ドーラヴ曰く「人類最後の魔道科学の砦」というのも頷ける。
「あっ、これ!」
 部屋の中央辺りに、白い甲冑が立っていた。あの日、メイを救い悪魔の群れを滅ぼしたレクシードであった。
 あれから、何度かディアボロスとの戦闘があった。理由は知れないが、ゼランの目論見どおりにディアボロスはこのバールベリトを狙ってきているようであった。その度にエレインがアスタロトを駆り、圧倒的な力を振るって悪魔達を全殺せしめていた。
高度な魔道兵器であるレクシードは、甲冑の形態を取っているとは言え実質は錬金機械である。その調整は全て、この工房にて行われているのだった。
「そいつの名はアスタロト。ワシが作り上げた最新のレクシードじゃよ。恐らく、大破壊後に新造された始めてのレクシードじゃろうな。もはや世界の何処を探したところでここほどの機材の揃った工房はないだろうからの。レクシードの製造は、魔道科学の中でも最高の難度を誇っておるのだから」
「造ったって……これ、師匠が一から造ったんですか!」
 信じられない話だった。
 大破壊以前ですら、国家の全力を割いてなお創造が難航したほどの超魔道兵器レクシードを、この老人はたった一人で作り出したと言うのか?
「ワシとて、伊達で錬金術匠の名を有するわけではないぞ。ベルクマータの、いやさ人類の命運を分かつ最後の剣……ろくな機材もなく作業は多難を極めたが、失敗は許されなんだ。結果は、上々じゃったがな」
 そうは言うものの、ドーラヴの声には何故か幾許かの慙愧の念が聞き取れた。
 そんな事にはお構いなく、メイは、最高の魔道兵器を改めて見やった。
 その姿は、やはり美しい。日中では見えなかったが、騎士の甲冑を象った装甲版の各所には超高度な魔法印の数々が刻印されている。装着者の能力を飛躍的に増大させる呪印、有毒な物質から完全に隔離する護法印。空間に干渉し、攻撃を遮断する防御印。それらが絡み合う意匠は、正に芸術と呼ぶべきものであった。
 メイに天使を連想させた翼は、今はない。背部に仕掛けられた魔道機械によって作動する、一種のギミックなのだろうか。事によっては実体ではないのかもしれない。
 他にも興味は尽きない。少女は、時間が許す限り白き騎士を見ていたかった。まるで、自分がこの悪魔に魅せられたかのようだった。
「話と言うのはな、メイ。お前に手伝って欲しいのじゃよ。新たなるレクシードを、若がお召しになられる鎧、アスモデウスの製造を」
 メイは老人の提案に狼狽した。ただの技師見習が、最高峰の魔道兵器開発の手伝いをしろって?
「どうした、嫌か?」
「それは、やりたいですけど。でも、魔道科学の最高峰の開発なんて。あたしなんかが、何が出来るか」
「何、簡単じゃ。お前には才能もあるし、何より、若が認められたのじゃぞ? では早速取り掛かるか。ワシが作成した新型レクシードの超越的な性能の秘密、それは媒介にあってな……」
 話の最中に、突然扉が開けられた。外気が流れ込み、メイとドーラヴはそちらを見やる。
 そこにはエリシアが立っていた。顔面蒼白、汗も拭かずに流れるような金髪も乱れ放題。一見して、只事ではなかった。
「ドーラヴ様、大変なんです! 兄さまが、兄さまがっ!」
 普段の冷静な彼女からは考えられない剣幕で、エリシアは喚くようにドーラヴをはやしたてた。
「ふむ……思ったより早かったの」
「そんな、悠長な事を言っている場合じゃないわ! 兄さまが、兄さまが!」
「落ち着けい!」
 空気を振るわせる怒声。
 老練の術士の、どこにそれほどの胆力があるかと思われるほどの一喝にて、エリシアは自分を取り戻した。
「ドーラヴ様、メイちゃん……ごめんなさい、わたし」
「始まったのじゃな? レクシードを纏うものの宿命。リヴァース反転が」
 エリシアは今にも泣き出しそうな悲痛な表情で首肯した。するとドーラヴは、すぐさま道具類をまとめ始めた。
「メイ。そこにある機材一式、全部持って来い。エレインの部屋に行くぞ」
「師匠、一体……?」
「メイ。お前がこれから見るのは、愚かなる人間の性。人の身でありながら人を超えようとした、傲慢なる背徳魔道科学に対して我らが背負わねばならない十字架じゃ」
 ドーラヴの口調は、いつになく重々しかった。
「兄さま、ご無事ですか? 兄さまっ!」
 急ぎ足でエレインの部屋まで駆け上り、扉を開く。
 そこでメイが目にしたものは、全く予想外のものだった。
 中規模の結界発生装置がベッドの四方に仕込まれている。淡い青光に包まれて、そこに横たわっていたのは
「ディアボロス……!」
 そこに、あの優男の姿はなかった。
代わりにいたのは、獣の如き悪魔。
 牙を剥き出し、爪を掻き毟る、一匹の獣。狭苦しい結界を破壊し自由を享受しようと、悪魔は長く歪な腕を振りかざす。しかし、結界の生み出す見えない力に遮られ、それは適わない。狂った獣を思わせる獰猛な咆哮。
「これは、一体?」
「……これがエレイン殿じゃよ。これは、悪魔の鎧レクシードを纏いし者の宿命。人の魂が悪魔に食われる反転じゃ」
 ドーラヴは持ってきた計測器具で、エレインだったものの魔素反応を調べる。
「それでも、わかりません。師匠、レクシードって一体何なんですか。何で、エレインさんがこんな目にあってるんですか?」
「アスタロトはな、悪魔の魂を原動力にしておるのじゃよ」
 ドーラヴは少しも作業を止めることなく、そのままメイに話し始めた。
「悪魔の魂は、人間よりも遥かに高いレベルの魔力を持つ。その中心核である心臓をくり抜き、内在する超高密度の魔力をそのまま原動力とするのじゃ。絶対捕食者たるディアボロスの死に対する悔恨、憎悪の念は人間のそれとは比較にならぬ最高のエネルギー。死してなお、悪魔の心臓からはその念が延々と噴出し続けるのじゃ。本来ならば、レクシードは罪業駆動機関を介して装着者の心、罪を喰らってエネルギーとする。じゃが、それでは足りぬのじゃよ。確実に、ディアボロスの大群を相手取るには、従来のやり方では不可能じゃった。ディアボロスは人間の技術を、人間の心の力を利用し門を作り上げたが、ワシはディアボロスの魂の力を使い人間の最後の希望を作り上げた」
 ドーラヴは、そこで少しだけ手を休める。後に続く術式のためか、それとも自分のしたことを悔やんでの故か。
「それがあのレクシード。罪業駆動機関とはまるで訳が違う。最初から邪悪な力を、一部も削がずに邪悪なまま利用しておるのだから。無論、そんな悪魔の思念が篭った鎧を着込んで、無事でいられるはずはない。悪魔の魂は、人間のそれよりも遥かに巨大で屈強なのだからな。時とともに着用者の心は蝕まれ、じきに悪魔と化す。人の心を食いつぶされた、本物の悪魔にな。わかっておったのじゃ。わかっておって尚、ワシはアレを作り上げた大罪人」
老人とは思えぬ正確さ、そして速度で、ドーラヴは手腕を振るう。霊体切断メスを右手に、因子固定化装置を左手に、エレインにへばりつく悪魔の残留思念を分離していく。
「わかるか、メイ。アレを造るのに必要なのは技術なぞではない。自ら罪を背負い、他者にも害を為すような、不幸をもたらす魔の機械を己の手で作り出すという覚悟よ」
「そんな…そんな! じゃあエレインさんは!」
 当惑するメイの肩に手を置き、エリシアは寂しげに首を振った。
「兄さまは、それを知りながらレクシードの拝領を志願しました。悪魔の心になど負けない、絶対に自分は変わらないって。そう言われた兄さまの決意……わたしなんかが止められる筈ないわ!」
 普段は感情を決して表に表す事のないエリシアの絶叫。同時に、魔素反応が危険域を示す警告音が鳴り響いた。
「……予想以上に汚染が進んでおる。これは、一筋縄では」
 その時だった。
扉を蹴破る音が響き、一人の男が入室してきた。
「おい、エレインよお」
 ゼランだった。室内だと言うのに、戦闘用の軽鎧を着込み、あの黒い剣を携えている。
「陛下……」
 ゼランは鋼の篭手をしたままの左手で、エリシアの濡れた頬を拭う。
「エリシア、その涙は、まだとっておきな。愛する兄貴がお前の元に返ってくる、その時の為によ」
「へいか……ゼランさま」
 ゼランは鋭い視線でエレインだったものを睨みつけた。
「ジジィ。結界を解け」
「な! それはなりませぬ。今のエレイン殿の力はアスタロトの凝縮した魔素により、貴族階級ディアボロスにも匹敵致します。いくら若の命令でも」
 老人の言葉など耳に入ってはいなかった。ゼランは、真っ直ぐにメイに視線を移す。言葉はなくても、メイにはわかっていた。
 この人なら、やってくれる。
 そう、自分の直感が告げていた。
 メイは迷わず、結界発生装置のスイッチをオフにした。
「小娘! 貴様何ということを!」
「すまんな、メイ」
 ドーラヴの叱責を無視して、ゼランは言葉少なに礼を述べ、戒めを解かれた狂獣に相対する。
「エレイン……」
 悪魔は弓のように身体全体を引き絞った。それは、獣が全ての力を込めて獲物に飛び掛る前の予備動作。
「ゼ、ラ、ン、ディ、アア!」
 悪魔が、エレインの声で吼えた。
「オメエ、こんなトコで終わるつもりかよ? とんだ見込み違いだったな。何の為に恥を偲んで生きてきたんだ、ああ?」
 悪魔とは対照的に、不用意に何の考えもないかのように、どんどんと間合いを詰めるゼラン。背負った黒い大剣を抜き放ち、構えることもせずに前進していく。
「あの時、言ったはずだよな。全てが済んだら、望みどおり俺の命はお前にくれてやると。その代わり、その時までお前は俺の言う事を何でも聞く。男同士の約束だったろうが!」
「ゼランディア……、許サ、ナイ! オレノ、えりしあノ恨ミ……許サナイ!」
 エレインだったものは、長く歪な腕を振り上げた。
「馬鹿野郎が。許さねえのはこの俺だっ!」
 ゼランは剣を捨てた。素手で、人間のものではなくなったエレインの一撃を受け止める。ゴキゴキと骨が砕ける音が響き、血管が弾け飛び血が噴出する。
「俺との約束破んのは構わねぇ。俺が許せねえのは、こいつの!」
 振り返ったゼランの、そしてエレインの視線の先にあるもの。
 祈るように両手を胸で合わせ、だけど目は逸らさずに二人の一挙一動を見逃さずに見据える、金髪の少女。
 涙を堪えたその姿は、誰が見ても心痛める悲痛さに満ち満ちて。
「エリシアとの約束を破ってる事だ! お前だけを信じてた、たった一人の妹の本当の願いまで踏みにじって、お前は一体何がしたいんだよ! なあ、エレインよ!」
 血を噴出しながら、それでもゼランは止まらなかった。
 ゼランの魂の重みに押し潰されるように、エレインだったものは後ずさり始めた。悪魔と人間、そこには圧倒的な力の差が歴然とある。にも関わらず、ゼランは完全にエレインを圧倒していた。
「ウ、ゴォオオオオ!」
 絶叫とともに、悪魔はその場に崩れ落ちた。むき出した牙や鋭く伸びた爪が、もとの長さに戻っていく。
「悪魔、か……」
傷の痛みをものともせず、ゼランは大剣を拾いあげて、倒れたエレインの顔の真横に突き刺した。
「いつまでも、人間が手前らに好き勝手にされてると思うなよ! 俺の、いや俺たちの心の炎は、お前らを焼き尽くすまでは決して消えやしない。負けやしねえぞ!」
「ゼランさま」
メイには、見えたような気がした。炎のように全てを焼き焦がす、この男の魂の輝きが。
彼女の直感は、間違いを知らない。
 だが、それが限界だったのだろう。ゼランはそのまま倒れ、気を失っていた。
「若……お見逸れ致しました」
 ドーラヴが深々と、意識を失った君主に正式の礼を捧げた。そしてすぐさま、二人に指示を出す。
「メイ、エレイン殿を工房へ運べ。元素培養ポッドにて集中治療を施すのじゃ。エリシア殿は、若を頼みましたぞ!」
「はい!」
 二人の女性の声が、絶妙のハーモニーを奏でた。

工房にてエレインを救うべく、一通りの術式を終えた後、メイは複雑な心境に陥っていた。
目の前にある、白銀の甲冑。これが天使の如き威光により自分と、大勢の人々の命を救った。
同時に、その着用者の魂を犯し、人である事すら辞めさせようとしたのだ。今はベッドの上で安らかな寝息を立てているが、先程までの恐るべき光景をメイは忘れる事が出来ない。
「師匠。あたし、わからなくなっちゃいました。魔道科学……それって、人を幸せにするものなんですよ、ね」
「いいや」
 錬金術匠の解答は短く、それ故に有無を言わさぬ説得力があった。
「奇麗事ではないのじゃよ。技術とは、それ自体善でも悪でもない。人は傲慢な生き物よ。自分だけの快楽を求める為に、敵対する者を苛み滅ぼす為に様々な錬金機械を生み出してきた。その一方で、人の心を和ませ豊かな生活を生み出す為の技術も、同じくらいに生み出されてきた。昔から使い古されたように言われとる事じゃろう。要は使う者の心根次第、機械は人の心を映す鏡」
 ドーラヴは、自分の創造物でありながら、そこに超然とそびえる悪魔の鎧をいとおしげになで上げる。
「その、アスタロトも? だって、それを使った人は皆、悪魔になっちゃうんでしょう? そんなの、良い錬金機械の筈がない。あたしだって錬金技師よ、奇麗事じゃない部分だってわかるわ。武器は、相手を殺せば、振るった人の目的は達せられる。皆を幸せにする事は出来ないけれど、それでも使う意味がある。でも、この鎧は違う。誰も彼も不幸にしていくだけ。そんなの、使う人の心なんか関係ない。それこそ奇麗事じゃない。こんな機械、悪魔と同じじゃないの、師匠!」
 メイの問い。その真剣さにうたれ、ドーラヴも腰を落ち着けて会話を交わしていく。
「成る程のう。ならばメイよ、今度はワシが問おう。エレイン殿は、自ら望んでアスタロトを身に付けた。最後に待つ運命を知った上での。そのエレイン殿の覚悟、これは善なのか、悪なのか? 自分の魂を捨ててまで戦う事を選んだエレイン殿の心の中に、邪悪な何かが潜んでおったと言うのか?」
「そんな……そんな質問、卑怯よ!」
「答えはイエスじゃ。どんな人間にも、悪魔は住んでおる。ディアボロスのような怪物ではないぞ。もっと狡猾で、恐ろしく奸智に長け、魂をそのまま暗黒へと引きずり込む悪魔がの。ワシら錬金術師がしてきた事とは、人間の中に潜む悪魔の欲求を叶えてきただけなのかもしれんな」
「じゃあ、じゃああたし達がしてきた事はなんなのさ。やっぱり、魔道科学なんて、悪魔を呼び寄せただけの、人を滅ぼす為だけの背徳科学だったの!」
 錬金術匠ドーラヴは、無言で首を振る。
「お前が誰かを幸せにする為に機械を作るのならば、それは確実に幸福を運ぶ。魔道科学とはそういうものじゃ。レクシードも同じ。ワシの造ったアスタロトで、エレイン殿が振るった力で、ただの一人でもよい、幸せになった者が一人でもおれば、それで良いのじゃよ」
「でも、でも!」
 確かに、自分を含めあのグレイヴの住民達は結果として助かった。だが、その代わりにエレインが不幸になり、兄を案じてエリシアが悲しむ……それでいいのだろうか?
 否。そんな事、メイには納得できなかった。
「君は……優しい、な」
 突然かけられた声の主はベッドに寝かしつけられていたエレインだった。
「エレイン、さん?」
「目が覚めたか」
 エレインは横たわったまま、自分を救った老人に目線で詫びた。
「迷惑をおかけしました……恥ずかしい話です。未だに意識がはっきりしません」
「まあ、わかっとった事じゃからの。どうしようもないわ。無理せずに、今は休むべきじゃろう。ただ、礼を言うべきはワシにではないぞ、わかっておろうな?」
「はい」
 エレインは、ばつが悪そうに呟いた。
「さて、それではメイ。後は任せるぞ。ワシは他にする事があるからのう」
 主のいなくなった部屋で、エレインはメイにゆっくりと話し始めた。言葉を自分の思いとおりに紡ぐ事事態、簡単な事ではないようであった。
「メイと言ったね。君は本当に優しい子だ。妹に、似ているよ」
「そっ、そんな事」
 自分はあんな美人でもなければ、上品でもない。命の恩人に突然とんでもない事を言われて、メイはちょっとだけドキドキした。
「ふっ、そういう事ではないよ。君は妹と同じに、優しすぎるんだよ。優しくて、それに……すごく我侭だ」
「わがまま……?」
 思いもよらぬ事を言われて、すかさずメイはエレインに問うた。
「盗み聞きみたいでばつが悪いが、ドーラヴ殿との言い合い、聞こえてたよ。君、ずいぶんと負けず嫌いだろう? 意外かもしれないけれど、エリシアもそうなんだよ。他の人が頑張ってるのを見ると、自分も負けたくない、それよりも頑張ろうって思ってしまうんだ。違うかい?」
「……」
 そうか。
 言われてみればそうかもしれない。最初にバールベリトに来た時、感じた違和感。ただ養われるだけの生活を享受する事への不平。それは、そういう事かもしれなかった。
 自分に向かい合うメイに、エレインは、先程までの狂態がまるで嘘のように、実直で誠実そうな瞳を向けてくれた。
「頑張ればいい。自分の出来る範囲で頑張ればいい。そうすれば、必ず報われるさ。我侭な自分を納得させられるのは、頑張った自分だけなのだから。私如きが言えるのは、それだけだ」
 なんだか、難しくてピンと来ない。
 だけど……
 だけど、メイにはこの優男が、どうにもステキに感じられた。
「じゃあ、エレインさんも、自分のできる事をやっているだけ? 嘘です、無理してますよ、どう見たって」
 メイは、もう何の遠慮もなく思った事を言った。
ゼランにそうしたように。
「ああ」
 エレインは、その言葉をあっさりと認めた。
「やはり、な。妹にも同じ事を言われたよ。悔しいかな、私は非力だ。頑張って出来る事がないなら、無理をするしかない。それが、私が出来る唯一の事だから。こんな馬鹿な兄のせいで、エリシアには苦労をかけているけどね」
 あ。
 メイは直感で感じた。この優男が、どことなく皇帝ゼランと似ていると。
 同じくらい、キレイだと。
「じゃあ、さ」
 メイは、自分でもよくわからないまま言葉を吐き出した。
「あたしも無理して、いいかな?」
「もちろん」
 エレインは、無理して笑みのような表情を作ったが、すぐに咳き込んでしまった。師たる主が不在の今、メイはすぐさま、出来る限りの知識を動員して治療に当たった。
 その、他愛無いけれど人の役に立つ充実した時間。
メイは、こんな馬鹿な人間ばかりのこの国が、ものすごく好きになってしまっていた。
 部屋の真中に佇む白銀のレクシードが、この空間にやけに不似合いであった。

翌日。
一通りの日課を終え、工房に顔を出したメイは、清々しい貌をしていた。
路傍に咲く名もなき野花のように凛とした表情。この明朗な少女本来の貌。
それを見て、この部屋の主が一人ごちる。
「ふむ、吹っ切れたか。いいのう、若さというのは」
「師匠、さっさと始めましょうよ。あたし、覚悟しましたから。無理します」
 メイの、それは自分なりの宣誓だった。師匠に通じたのかどうかはわからないが。
「ふ……ならば、教えてやる。レクシードの動力部が悪魔の心臓だと言うのは覚えておるな? このアスタロトは、合計で四十もの悪魔の心臓を埋め込んである。無制限に極大の魔力を要求する大喰らいだからのう」
つまり、エレインは四十体もの悪魔の残留思念と戦っていたということになる。それがどれほど肉体と精神に負担をかけるのか。メイにはまるで想像もつかない。
「若の望む鎧は、このアスタロトを遥かに上回るバケモノよ。メイ、その時間停止槽に入っておる心臓、全部でいくつじゃ?」
「えっと……百四十、です」
「それを、全て使用する」
「なっ!」
 驚きに言葉を失ったメイに、ドーラヴは淡々と話を続ける。
「アスモデウスと言うのはな、アスタロト同様悪魔王の名前じゃ。まあ、名前が実際の兵器に影響を及ぼすわけではないがな。世界の終末が書かれた下らん預言書があっての。若が幼少のみぎりにご興味を示したものじゃ。この強いバケモノを自分のものにしたい、とのう」
「……わかるような気がするなあ」
 あの皇帝なら、何を言ってもおかしくないとは思う。
「その本に出てくる悪魔の王、その一柱の名がアスモデウスじゃ。伝説では三本の首を持つ軍神じゃったが、若が望まれたのは通常のの三倍の戦闘力を持ったレクシード」
「だからって、百四十もの悪魔の心臓を」
 メイの追及を、ドーラヴは片手で制する。
「お前の言いたい事はわかるぞ、メイ。エレイン殿のあの姿を見た後では、な。だが、これは若が自分でおっしゃった事。ワシはベルクマータ帝室顧問として、若の期待に添うのみじゃて」
「ゼランさまが、自分で……」
(無理をするしかない)
 エレインの言葉が思い出される。あの、氷のように冷静な男があんなことを考えていた。それならば、獣の如く猛る若き皇帝は、どれほどの事を心中に刻んでいるのだろう。
「わかりました、師匠! あたし、精一杯やらせてもらいます」
 その日の間、殆ど休憩も取らずに錬金機械と睨み合い、ゼランのレクシード開発に従事していたメイは、ふらふらとベルクマータ城の内部をさ迷っていた。
 全身が疲れきっていた。でも、嫌な疲れではない。
 むしろ、心地良いくらいだ。グレイヴでの生活では得られなかった充実感が、ここにはあった。
「あ、メイちゃん。こんばんは」
 庭先に出てみると、エリシアの声がした。兄の回復を祈っていたのだろうか、下半身を下ろし、両手を握り締めていた。
ふらふらと、おぼつかない足取りでエリシアに近づくメイ。
「あら、メイちゃん。疲れてるみたいだけど?」
 心配してくれているのだろうが、エリシアの表情に変化は見られない。
「うん……でも、これは自分で選んだ事だから。納得してる。グレイヴにいた時より、よっぽど充実してるんだ」
 パレス内壁、ドーム上の天井に浮かぶ満天の星空。それは、環境制御装置が投影しているまやかしの星々に過ぎない。それでも、星は見る者を心安らかにする。
 これも、魔道科学の一端ではあるのだ。とても小さいけれど、それでも、自分のやっている仕事の成果だ。
 メイは、そんな思いをはべらせた。
 あれから、グレイヴからの移民は城下に自分たちの町を作り始めていた。皆が団結したというわけではないだろう。が、城内に何人もの人々が建物を作る資材の交渉にやってきているのをメイは見ている。環境制御や食料製造に回すエネルギーを、物質変換に回して欲しい、と。
 人は、一人では生きていけない。
 そこに人がいれば街が出来る。当然の事だ。何かを創り出すのが大変なのも、当然な事だ。
人の造った町を、メイの造った星々が眺める。
ステキな事だった。
「みんな、無理してるんだ。ちょっと考えればわかるはずなのにね、こんな世界で他人を守る事が、どれだけ苦しい事か。生きるだけで精一杯で、そんな事もわからないでいた。ちょっと余裕があるからって、子供達を庇って、それだけでいい気になってた。あたし、なんて馬鹿だったんだろう」
「そう、ね」
 そう言うエリシアの瞳は、なんとも哀しげな光を宿している。
「自分を幸せにする事ですら、夢のような話なんですもの。それなのに、陛下はたくさんの人々の為に戦っている。それに、兄さまは。兄さまの本当の願いはわたしの……」
「があ〜あ、全く、退屈でしょうがねえぜ」
 城からかけられた声が、エリシアの言葉を遮った。
「陛下」
「ゼランさま!」
 城の入り口に身体をあずけた青年皇帝は、悪童のような、小気味いい笑みを浮かべた。包帯で右腕全体が包まれているが、それでも、少しも弱々しさは感じられない。
 鎖で繋がれた猛獣のようだ。
「何だ何だ、女二人で秘密の話か? 俺も混ぜろよ。毎日毎日ジジィのむさ苦しい顔しか見てないと、気が狂っちまうぜ」
「丁度よかった。ゼランさま、一つ聞いてもいいかな?」
 メイは、歩み寄るゼランに、遠慮なく聞いた。
「何でゼランさまは、こんなに苦しい旅を続けているの……?」
「そうだな」
 ゼランは、少し考え込んだ。目を瞑って、大きく息を吐く。
「結局、この世界に悪魔を呼び寄せたのは俺の国だ。あん時、俺はまだお前ぐらいのガキだったけどな。あの日の事は絶対に忘れねえ。忘れられるものかよ。悪魔の前で、俺は為す術もなかった。日頃から鍛えてた剣の技も、悪魔の前じゃあクソの役にも立ちやしねえ。悔しかったぜ、目の前で、親父やお袋がくたばってくのを見せつけれれるのはよ。ピイピイなくしか出来なかったよ。俺は、あの時完全に絶望しきっていた」
「ゼランさま」
 メイは、何か言おうとしたが、止めた。
 この、獣のように気高い男は、慰めなんて期待してもいないだろう。自分だって、そうだったのだから。
「へっ、勘違いするなよ。俺は復讐の為に戦ってるわけじゃあねえ。まして、世界を破滅に導いた罪深き帝国の後継者として、不幸な人間どもを救ってやろうなんざ、これっぽっちも思っちゃいねえ。俺が戦ってるのはな」
 ゼランも、メイがしたのと同じように、人工の星空を眺めた。
「誰の為でもねえ。俺の為だよ。あの日、絶望に負けちまった俺を見返す。もう二度と負けねえ。負けねえ為には、勝ち続けるしかねえ。倒すべき敵は腐るほどいるんだからな」  
ああ。
 この人は、なんてキレイなんだろうか。
 こんなに自分というものを持っていて、こんなに自信に満ち溢れていて。
 こんなに負けず嫌いで。
 こんなに我侭な自分を、どうやれば納得させられるかわかってるんだ。
「俺のくだらねえ意地の為に、何の関係もねえ奴らも随分巻き込んじまったがな。ジジィも、俺についてきた城の連中も。エレインも、エリシアもそうだ。グレイヴの奴らだって、俺がこんな無茶な計画を立てなければ、ずっとあそこに住んでいられたんだぜ? 俺こそ、人間の中で一番我侭な男かもな。ま、我侭が許されるのが王族のいいトコなんだが」
 ゼランは、少しだけ決まりが悪そうだった。何か、含むところがあったらしい。
「ゼランさま。無茶な計画って」
 そう言えば、自分はそれが知りたくて話しているのだった。ゼランがバールベリトで旅をする、本当の理由。
「……まあいいか。教えてやるよ。俺はな、悪魔どもを全部狩りだしてえんだよ。一匹残らずブッ倒して、この世界から叩き出してやる。今、このパレスはダークスに向かってる。そこは、悪魔どもがこっちに来る為の通用口さ。手始めにそいつを潰す。こいつは悪魔と人間の戦争だ。だが、人間には戦う力が残ってねえ。だから、俺がやるのさ」
「だからって……そんな簡単に」
 全部のディアボロスを倒すって……
 そんな事、子供でも考えない!
「そんな顔すんじゃねえよ。何度も言うけどな、俺は自分がやりたいからやってるだけだぞ。奴らは自分に正直みてえだからな。あいつらのエサ、つまり罪と人間だが、それを全部一所に集めるんだよ。全世界を回って、動いている罪業駆動機関を全部ブッ壊して、生きてる人間を全部このパレスに集める。そうすりゃ悪魔どもはここを狙うしかないだろーが。ついでに、親父の野望だった世界制覇も出来るってもんだ。その暁には、全ての人間がベルクマータ国民になってんだからな」
「すごい、話ですね……」
 それだけ言うのが限界だった。
 ゼランは、さも当然のように言葉を続けていく。 
「無謀も無茶も承知の上よ。だから、ジジィには迷惑をかけてる。あいつだって、あんなバケモノみてえな鎧、造りたくはねえだろうさ。だけどな、戦力は絶対に必要なんだよ。それ一つだけで全部の悪魔を相手取れるような絶対的な人間側の武器、レクシードがな。悪魔の魂を着込んで、バケモノに成り果てても下手引くのはそいつ一人。俺もエレインも、とっくに覚悟は出来てるぜ。パレスの中の奴らには、怪我一つさせねえ。これが、俺の戦争だ」
言葉をなくしたメイ。
これを計画と呼んでいいのだろうか? なんて、なんて大雑把で馬鹿馬鹿しくて無茶で無鉄砲な話なのだろう。
 だけれど、なんて熱のこもった、なんてこの男らしい発想なんだろう!
 ゼランは、メイの沈黙を呆然だと解釈した。
「けっ、だから言いたくなかったんだよ。大体、べらべら喋るのは好きじゃねえんだよな、女々しく」
「すごい!」
 メイは、心から叫びあげた。
「すごい、すごい! ゼランさまなら、出来るような気がする……ううん、絶対に出来るよ!」
 メイは、はしゃぎ回りたい衝動にかられたが、溜まった身体の疲れがそれにブレーキをかける。
「……俺の話を聞いてそう言った奴は、お前だけだぜ」
 ゼランの目線に、メイは微笑でもって答えた。
「でもねゼランさま、一つだけ違うよ」
 メイは改まって、ゼランに語りかける。ゼランはおう、と答えて話に耳を傾ける。
「ゼランさまはは自分の為にやるって言ったけど、それで何人も巻き込んでるって言ったけど、それは間違い。巻き込んでるんじゃない、みんな、みんな自分でやってるんだよ。みんなが自分の為に、これって、結局みんなで頑張ってるのと同じじゃない? ゼランさまの戦いは、みんなの為になってるよ。ゼランさまは強いからわからないかもしれないけど、みんなの心を、背負ってるんだよ」
 メイも、孤児達の未来を背負っていた。
 エレインは、エリシアの想いを背負っている。
 そして、この誇り高い皇帝ゼランは……
 満天の星空の下に生きる、数え切れない人々の思いを全て背負っているのだ。
「あたしも、頑張る。ゼランさま一人に背負わせられないから、あたしも頑張ります。師匠だって、きっとわかってる。だからもう少しだけ待っていて。最高の鎧を、みんなの心を乗せたゼランさまの為の最高のレクシードを作り上げるから」
「わたしもですわ、陛下」
 エリシアがゆっくりと、柔らかな声でゼランに語りかける。
「騎士である兄さまと違い、何の取り得もないわたしを侍女に取り入ってくださった。兄さまと一緒にいられるようにと。わたしも、兄さまも、陛下には言葉に出来ない程感謝しています。自分を認めてくれる人がいる。自分に出来る事がある。……これほど、人間として素晴らしい事はありませんわ。陛下、それが適う世界をあなたが下さったのです」
 表情は冷たいが、それはエリシアの本当の言葉だった。
 言いたい事は同じ筈なのに、なんでこの人が言うとこんなに決まるのかなあ。
 メイは、少し不公平だと感じた。
「へっ」
 ゼランは鼻で笑った。でも、その表情は満足げだった。
「くだらねえ。余計なモン背負わせやがって。礼を言うぜ。これで、もっと無茶が出来るってもんだ」
 ゼランは包帯を力ずくで破り取った。まだ傷は癒えてはいない。外気に触れた裂傷が激痛を与えるが、ゼランはまるで表情には出さなかった。
「もう、剣は扱えるな。ククク、楽しみだぜ。アスモデウスを纏って、悪魔どもをぶち殺すのがな」
「陛下……ご自愛を」
 エリシアが冷静に言った。
ゼランは無言で、それに応えた。
 
「陛下。緊急事態です。陛下!」
 それから二日後。エリシアの呼び声でゼランは眠りを妨げられた。
「何だ、朝っぱらから」
 口調はふざけているが、その目は少しも笑ってはいない。既に、ゼランは臨戦体制にはいっていた。薄着の上からマントを羽織っただけの格好で、ゼランとエリシアはバールベリトの頭脳たる会議室へと向かう。
「ディアボロスの群れです。その数、三百以上、その内貴族階級も五体確認されています。悪魔群は今尚その数を増殖させつつバールベリトを空中より包囲しています。」
「成る程」
 ゼランは、バールベリトの外界認識モニターから外景を伺った。
空が、黒い。
当然だった。それは、空ではなかったのだから。天を覆い尽くすのは、数え切れぬディアボロスの群、群、群。冒涜的な獣の顔と夜の翼を持つビーストヘッドが、曇天の空を覆い尽くしているのだった。そのうち何匹かはバールベリトの近くに飛来し、獲物を追い詰めるような周回運動をしている。
「悪魔の砦……噂は本当でしたな」
 ドーラヴが送音管からパレス内各部の兵士達へ命令を出しながら、ゼランに告げた。
「それだけダークスが近い、と言う事でしょうが……何ともはや。あれだけの数の一斉攻撃、このバールベリトの結界式干渉壁でもどれだけ持つ事か。こちらも応戦しておりますが、いかんせん状況は不利になるばかりですじゃ」
「エレインは?」
 ゼランの問いに、エリシアがゆっくりと首を振る。
「まだお身体が……それでも出撃するとおっしゃいましたが、どう見てもレクシードの邪念を抑え込む事は不可能です。今は、薬で眠っていらっしゃいます」
「そうか……」
 嘲笑う死の如く、空を飛び交う悪魔の翼。邪悪な造形を持った爪が、牙が、モニターに突き刺さっては青き結界に弾き返される。それを繰り返す度、青光は徐々に、しかし確実に輝きを鈍らせていた。
 その様子を見て、ゼランは獰猛な笑みを浮かべる。
 獲物を見つけた肉食獣のような、まさに悪魔の笑み。
「ジジィ! アスモデウスは使えるんだろうな!」
 ゼランは拳を握り締める。何かが、身体を期待に打ち震えさせる。
「それはもちろんでございますが……若? まさかいきなり実戦で使用されるおつもりですか!」
「当然だろうが」
 ゼランは吼えた。
「出せ。俺の鎧。俺だけのレクシード、アスモデウスを!」
「はい!」
 絶妙のタイミングで勢いよく部屋に入ってきたのは、メイだった。その手には、大事そうに丸い何かを持っている。玉石のように鈍い光を放つそれは、金属質な光沢を放ちながらも心臓のように規則的な脈動を示していた。
「悪魔どもが来たんでしょ? これを使う時が、来たんですね!」
「おうよ」
 ゼランは少女から奪い取るようにそれを手にした。ぞっとするほど冷たく、それでいて柔らかい。
「この中に、ゼランさまの望まれたものが、あたし達の想いを乗せたもう一つの悪魔が眠っています。ゼランさまの為だけに造られたレクシードが。使用する際には、胸に着けて命令呪韻を唱えるだけです。そうすれば、ゼランさまの情熱を喰らって、最強のレクシード、アスモデウスが姿を現します」
 メイは、「罪」でなく「情熱」と言った。
それが、この男の最大のエネルギーだから。
 ゼランも、それは気に入ったようだった。
「そいつぁいい。へっ、情熱か。有り余って困ってたところだ、存分に食わせてやるか!」
 そう言うや、空間移転の魔術式を発動させ、ゼランはその姿をかき消した。

 臣下階級ディアボロスの群は、集団意識とでも言うべき一つの意思に束ねられていた。それが命ずるのは、接近するもの全ての排除。群れを束ねる上位ディアボロスの意思は、そのまま群れの意思となる。マルーフ城跡――悪魔の砦に出現する悪魔は、全て上位他我に支配されていた。
 だから、突然空間が歪み、恐るべき姿を現した新たなる侵入者にも特別の感慨を抱く事はなく、別段特別な行動をとる事もなかった。巨大な移動城塞と同じに、集団で嬲り、破壊するだけの対象。それ以上でもそれ以下でもない。
 それは、ある意味では下級悪魔どもにとって幸福であったかもしれない。悪魔の霊的本能は、既に感じ取っていたのだから。
 新たなる侵入者の放つ、畏怖にも似た圧倒的な威圧感を。
 悪魔の鎧。第二のレクシード・アスモデウス。
 それは、同じレクシードでありながら、アスタロトとはまるで異質なモノであった。
 アスタロトの外見を流麗な魔騎士と呼ぶのならば、アスモデウスのそれは猛り狂う邪戦鬼だった。
 全体的に人間離れしたフォルム――一際目を引く、異常に肥大し張り出した肩鎧は巨竜の頭骨を思わせる。胸鎧も篭手も、著しくバランスを欠いたド級のボリュームを誇り、その人外の力を誇示するようであった。指は一本一本が鋭く節に分かれており、巨大甲虫の脚がそのまま生え出ているようにも思われる。上半身の異形に比べれば、下半身は大人しいものであったが、太さを保ったまま鋭く尖った膝や爪先は、あまりにアンバランスで獰悪な印象を与える。背面より伸びる、バランサーの役割を果たす長大な九つの尾は、鎖鞭めいた凶悪な外見と相まり、まるで自身を縛り付ける鎖のようにさえ見えた。巨体を重力のくびきより解き放つ超級の推進機関である六枚の翼は、ビーストヘッドのそれと同じく蝙蝠の翼膜に酷似している。ただし、その大きさはずば抜けており、それ一枚だけでも悪魔と同じか、それ以上の巨大さを誇っていた。翼骨の端より映える鉤爪は、蝙蝠のそれとは明らかに違い、死神の鎌の如く伸びている。禍々しく歪曲し、何本もの歪んだ角が伸びでた兜。その悪意と敵意に満ちた形状は、撒き散らす死のイメージと直結し狂獣の骸骨を思わせる。そこから覗くメインセンサー、生物で言うところの目は全部で三つあり、血と同じ色を煌々と輝かせていた。
 その全身を彩るのは、淀みなき黒。ぬばたまの夜の色、ベルクマータの影馬の色、そして皇帝ゼランディアの髪の色。
 黒き狂戦士アスモデウスはゼランディアの声で雄叫びを上げた。
 それは、狂神の産声であり軍神の怒号であった。
「うぉぉぉぉぉ!」
 六枚の翼をはためかせ、黒き獣が宙を爆進する。触れるものを全て切り裂き、打ち砕きながら。
アスモデウスは、全身これ凶器の塊だった。角も、刺も、爪も、尾も。全てそれ自体が、触れるもの全てを蹂躙し破壊し尽くす、圧倒的な魔力を内包する超魔道兵器であったのだ。戒めを解かれた黒き旋風はとどまる事をしらず、臣下階級ディアボロスは一瞬の内に原形すら残さず消え去っていく。
「ククク……ハハハハ! 最高だぜ、ジジィ、メイ! こいつは最高の錬金機械だ。少しのズレもなく、俺の意思の通りに動きやがる。生まれついての俺の兄弟みてえだ、なあアスモデウス!」
 止まらない。どんどんと加速していく。どこまでも、どこまでも。
 狩る者と狩られる者の立場は、今や完全に逆転していた。初動が送れた分、悪魔どもは圧倒的な劣勢に陥っていた。その動きの軌道すら見えぬ狂戦士が踊るように飛び交うだけで、悪魔の数は確実に、そして急速に減少していく。
「立て直せ。敵は人間の造った命亡き器。絶対捕食者たる我らディアボロスが倒せぬ敵ではないわ。動きの鈍い移動城塞は後回しにしろ。全力を持ってしてレクシードの動きを止めるのだ」
 巨大な蜥蜴のような姿をした貴族階級ディアボロスが檄を飛ばす。この群れを指揮するリーダー格の一人である彼は、何人かの臣下を精神支配し己が意思の通りに動く傀儡とすると、それを黒き狂戦士に向かって特攻させた。
 絶妙の時間差攻撃を仕掛けてくる数体のビーストヘッドを相手取るアスモデウス。圧倒的な力量でそれを悠々と捌ききるゼランだったが、命を捨ててでも狂ったように攻勢をしかけてくるその執念に、ついに一撃を許してしまう。精神のくびきを解き放たれた悪魔は、自分の肉体すら破壊し尽くすほどの強烈な力でアスモデウスに突きかかった。
 刹那、鮮紅の光が視界を支配した。アスモデウスに埋め込まれた呪印に封じられていた防御型魔術式が、その力を解き放ったのだ。
 紅き光を浴びて、ベルクマータ皇帝に立てついた悪魔は泡沫のように焼け爛れていた。
「無茶な呪印を彫りやがって。これは、ジジィの仕事じゃあねえな。メイの仕業か。俺まで目が潰れるかと思ったじゃねえか!」
 紅い光の衝撃で、視界はまだ完全に戻ってはいないものの、ゼランが意識を途切れさす事はなかった。悪魔のものよりもなお太い右腕――いや、前肢とでも呼んだ方が適切か――を俊速で繰り出し、絶叫をあげ続ける悪魔を掴み取る。ブチブチと何かが千切れる小気味良い感触が、アスモデウスを通してゼランの脳に直接伝わってくる。
「確かに……芸のない魔法盾よりは、よっぽど俺向きでステキな防御方法だ!」
 凶暴な衝動の赴くまま、恐るべき力で肉を引きちぎる。引きちぎられた大量の肉塊は、尚も更なる圧力を加えられて凝集し、絞り粕となって弾け飛んだ。
「ケエエエエエッ!」
 奇声とともに、必勝の策が破られた貴族階級ディアボロスが襲い掛かる。噴き出た悪魔の血肉と紅光によって、全く近く出来ない位置からの完全な奇襲であった。身長よりも巨大な戦斧を振りかぶり、蜥蜴を思わせる上級悪魔が上空から急降下する。
 振り降ろされた戦斧を両手で受け止めたもの、悪魔の一撃はアスタロトの巨躯を押し込める程のパワーであった。ゼランは舌打ちすると、一瞬の才気でもって体を入れ替え、なんとか間合いを取り直す。重力に縛られない三次元の戦いならではの転機。しかしそれはまた、経験したはずのない未知の戦闘空間での、人間離れしたゼランの野獣めいた直感が可能とした妙技でもあった。
「ちったぁできる奴も出てきたか。クク、ぞくぞくしてきたぜ!」
 アスモデウスは、背面より伸び出る尻尾型のバランサーの一本を右腕で掴み、そのまま全力で引き抜いた。流れるように尾が引き抜け、それは硬質な異形の鞭となる。所々が鋭く尖った、打ち据えるのではなく引き裂きちぎる為の鞭に。
 アスモデウスは己が力を顕示するかの如くに、頭上でその鞭を振り回した。風をも引き裂く奔流は真円を描きながらも、その大きさは一つに定まる事はなかった。長く短く、自在に収縮する魔道兵器。その余波を受けた下級悪魔は、触れただけで切り刻まれ肉塊と化していく。
「おらよっ!」
 限界まで力を出し切り、伸びきった鞭をそのまま振り下ろす。それは目視不可能な一本の闇色の爆流と化し、その軌道にあるもの全てをなぎ払いながら突き進む。
 幾多の部下を盾にし、その威力を削ごうと試みたる貴族階級ディアボロスであったが、それは全くの無駄であった。全く速度を落とさずに突き進んでくる鞭を振り落とすべく戦斧を振るう悪魔。だが、それよりも早く闇色の流れは悪魔の胴体を刺し貫き、続く衝撃があがく本体を木っ端微塵に消し飛ばす。
「あばよ、冷血ヤロー。他人を踏み台にしてる時点で、テメエは三下確定なんだよ、ははははは!」

「すごい……!」
 メイは、自分が開発に携わった悪魔の鎧と、それを完全に使いこなすゼランの戦いに、簡単の呻きをもらした。
ゼランの出撃より一時間も経たぬ内に、すでに悪魔の群はその数を五分の一以下に減じていた。指揮をとっていた貴族階級ディアボロスも全て討たれ、この戦いの趨勢はもはや決まっていた。
「流石ですね、師匠の最高傑作と言うだけのことはあります!」
 メイは、アスモデウスの生みの親であり、敬愛する錬金術匠に敬意を込めて話し掛けた。 
ゼランとアスモデウスの鬼神の如き活躍により、バールベリトの防衛体制も一段楽していた。老獪な指揮をとっていたドーラヴは、額に溜まった汗をふき取りながら、愛弟子の問いかけに答える。
「いや、アレはお前の作品じゃよ、メイ。ワシではああは造れなんだ。お前が信じている若と、ワシの知っておる若は、残念ながら違ったでのう」
そういう老人の姿は、少しだけ寂しそうであった。
「ふふ、げに素晴らしきは若き情熱、か。あれほど使い手の事を心配せず、それでいて使い手の事を考えている錬金機械を、ワシは見たことがないわ。メイ、錬金術匠たるこのドーラヴが認める。お前は、間違いなく最高の錬金技師じゃ」
「えへへ」
 空気が軽くなっていた。絶対の危機を乗り切り、希望の光が確実にバールベリトを祝福していた。
だが。
「寒い……」
 心細いエリシアの声。少女は、両手で身体を支えこんでいた。
「何か、何かが来ます。途方もなく巨大で、途轍もなく恐ろしい何かが」
 エリシアは、立っているのも厳しそうであった。ぺたんとカーペットの上に座り込み、荒い喘鳴をあげる。
「エリシアさん、一体どうし……師匠?」
 振り返ったメイに、ドーラヴは険しい顔で事態を説明する。
「エリシア殿とて、ここにおるのは兄君を慕って故のことだけではない。彼女は元々感の鋭い女性での。修練の末、神がかりとも言える感知能力を手に入れた。バールベリトのいかなるレーダーよりも、彼女の直感は頼りになる」
 ベルクマータの為、いやエレインのためにか、エリシアも無理をしてきたのだろう。
 メイにも、それは何となくわかっていた。そうでなければ、情熱の溜まり場の如きこの場所で、あれほど気品に溢れた、逆に言えば他者に左右されない自身を貫く事など出来ないだろうから。エレインが言っていたではないか、エリシアも我侭で負けず嫌いだと。
 たまたま、それが形としてわかりづらかった、ただそれだけの事なのだろう。
「このパレスが今まで大事無かったのも、お前のグレイヴがディアボロスに襲撃されるのを未然に防ぐ事が出来たのも、全てはエリシア殿のおかげじゃ。だが、今までこれほどの反応を示した事は皆無じゃった。となると、これは」
「あ、あああああ!」
 ビクリと身体を仰け反らせ、苦しそうに呼気を吐くエリシア。
「き、来ます……氷のように冷たい、邪悪な意思の集合体が、巨大な竜の姿をしたディアボロスがっ!」
「ものども! 第一級臨戦体制じゃ、環境制御と火器制御に回しておった全エネルギーを全て防御に集中せい!」
 エリシアの声に耳を貸しながらも、ドーラヴは再び送音管に怒声を飛ばす。
 メイに支えられ、何とか立ち上がったエリシアは、際限なく噴き出る冷たい汗が白い魔道服を濡らすのも構わず、最後の啓示を下した。
「ディアボロスの君主が、魔王が来ますっ!」

 残る最後の数匹に止めを刺すべくアスモデウスが鞭を振るおうとした、その時だった。
「この感覚……!」
 ゼランは目に見えぬ、空気の流れの変化を感じ取っていた。
 いつの間にか、猛烈な妖気が渦を巻いていた。今まで相手にしていたディアボロスなど比較にならない、ケタ外れの威圧感。その妖気はあまりの密度に物理的干渉を及ぼし、数百のディアボロスの血と肉を巻き上げるほどの竜巻を発生させた。
 悪魔の血肉で彩られた、ドス黒い暗黒の渦が、猛烈な勢いで回転を始める。
「レクシード」
 それは、美しい女性の声であった。が、同時に恐るべき獣の唸り声でもあり、竜の咆哮のようでもあり、また死者の嘆きですらあった。複数の魂が狂気の合唱を重ねた、冒涜的な他重奏。それが、暗黒の渦のなかから現れつつある何者かの声であった。
「こいつは、いよいよお出ましかよ」
 ゼランは最後に残った悪魔の頭を軽々しく握り潰すと、血色の竜巻に向きかえる。いかようにでも対応できるように、強化された全神経を集中させる。
暗黒の渦が徐々に回転を弱め、中から巨大な何かが姿を現し始めた。
最初に姿を見せたのは、知性宿さぬ獰猛な鰐の頭部であった。だが、それは邪悪に捻じくれ、この世界のものの筈はない、正に悪魔的な造形を誇っている。邪悪な鰐頭は、それだけでも小さな砦並みの大きさがあった。続いて、同様に巨大な複数の頭部が渦からこちら側ににじり出てくる。獰猛な魔狼の頭。無機質な妖虫の頭。無数の目玉を蠕動させる異形の頭蓋骨も現れる。それらは全て、恐ろしく太く長い蛇の胴に繋がれていた。
地を響かせる振動とともに、その本体が渦を引き裂きながら出現する。圧倒的な質量を誇る巨大な胴体は竜のものに似ていた。背中には、翼の如く肥大した背鰭がびっしりと生え揃っている。それを支える太く逞しい足は、全部で八本。どれも、馬鹿でかい鉤爪を何本も供えた肉食獣のものだ。それらは全て、光もないのにぬらぬらと照り返る群青色の鱗に包まれていた。ちぐはぐで混沌とした、邪悪な頭を乗せた四つの蛇胴は全てこの一つの胴体に繋がっているのだった。
バールベリトを遥かに上回る。山のような巨体。それは、圧倒的な異形を誇る群青色のヒュドラ多頭竜であった。
「悪魔の骸を纏いし者よ、お初にお目にかかる」
四本の異形の竜が蛇体を捻りながら寄り添い、、まるで蓮の花のような形を作った。その中心部よりまろびでる花精の如く、いま一本の蛇胴が姿を現した。
最後の蛇首に乗っているのは、人間の女の上半身だった。人形を思わせる、退廃的に白いその肌は毒花の如き背徳的な妖美を孕んでいる。能面のような顔に引かれた紫色の唇の端が、ついと吊り上げられると、それだけで背筋が寒くなるほどに顔全体が冷酷に歪んだ。
「そしてさらばだ。愚かにして勇猛なる人間の戦士よ」
 魔竜の中心部たる妖美な女が名乗る。聞くものに死と破滅を告げるその名を、見るものを絶望させる狂美を纏った笑みを浮かべながら。
「我が名はレヴィアサン。数多のディアボロスを束ねしジーベントルツェン七大悪魔王が一人、ニード嫉妬のレヴィアサン」
「七大悪魔王……レヴィアサン」
 魂すら押し潰すような、その異形の恐怖に立ち向かい、ゼランが吼える。
「けっ、面白え!」
 ゼランの裂帛の気合に呼応しアスモデウスの三つの瞳が凶光を放つ。己に数倍する巨大な敵を相手取り、ゼランは己が魂が怒張していくのを感じ取っていた。
「借りは返させてもらうぜ。俺達人間の、そして俺の! テメエら悪魔どもに受けた傷、百倍にしてよぉ!」
 ゼランの魂を、原動力たる「情熱」を受けて、忠実なる悪魔の鎧アスモデウスが猛り狂う。六枚の翼を限界まで広げきり、身体全体に弾けんばかりの力を漲らせる。その全てを開放し、異形の悪魔王に向かい突進する。
「うおおおおおおお!」
 それ自体が破壊的な凶器であるアスモデウスの鉤爪が、更に姿を変える。間接が無くなり指同士が接合、マニピュレーターとしての機能を破棄し、武器として生まれ変わる。それはスケールこそ違え、ゼランが愛用する黒き大剣そのものであった。
 鰐の首が、それに応じて伸びた。次いで、魔狼、妖虫、髑髏の首も緩慢に動作を開始する。中央の妖女だけは動かない。あの笑みを張り付かせたまま、微動だにしなかった。
 アスモデウスの一刀は黒き閃光と化し蛇胴の一つにぶちあたる。山をも断つその一撃はしかし、何の効果も挙げてはいなかった。
傷一つ無い。この魔王のぬらめく鱗は、一体どれほどの硬度を誇っているのか。いや、超魔道兵器レクシードの渾身を込めた一撃は単純な硬さで耐えられる代物ではないはずだ。目に見えぬ霊素すら圧搾し粉砕する筆舌に尽くしがたいパワーに加え、剣自体にも切れ味を数倍に高め、更には触れたものの物体構成を狂わせ自壊に導く呪詛めいた魔法印が刻まれている。およそ、この一撃に耐えられる物体などある筈が無かった。
魔王の鎧とも言える外皮にも、異法めいた防護の結界が張られているのだった。それも、人間の魔道科学では到達し得ないレベルの、強力な結界が。
「流石は、七大魔王ってことか」
ゼランの正面に回った知性持たぬ鰐の顔は牙を剥き出し、邪悪に哄ったかに見えた。魂消るような大音量の咆哮とともに地獄の門の如き顎を開き、蛇胴をうねらせながらアスモデウスを噛み砕かんと猛烈な速度で突進する。暴力的な破壊力にアスモデウスの防御印が即座に反応するが、口内にみっしりと生え揃った鋭い牙の一本一本はたやすく結界を打ち破り深々と黒き甲冑を串刺しにした。鰐はそのまま恐るべき力で顎を閉じ、獲物を粉々に砕こうとする。
「ぬぅぅぅ!」
 ゼランは全身に走る激痛をものともせず、全ての力を持ってそれに抗った。上下から加えられる破壊の力に、こちらも力づくで応じる。
 だが、そこにはどうしようもない力の差が存在する。実際、持ち応えたのは一瞬だけであった。地獄の顎が無慈悲にも閉じられ、アスモデウスは呑み込まれた。
 ぐるりと踵を返し、再び四つの首が蓮の花を形作ろうとしたその時。
「レクシードか。なかなかやる」
 中心の妖女が笑みを張り付かせたまま呟く。
 鰐頭の脳天が震え、爆ぜた。逆流する滝のように噴出する体液の流れに乗って、黒い影が飛び出す。全身にゼランのものとも悪魔のものともわからぬ血肉がこびり付き、その姿に更なる威容を纏わせた漆黒の狂戦士アスモデウス。その六枚の翼全てが、狂気じみたスケールの黒い大剣へと変化していた。目前の女に向かい、六本の剣がカチカチと鳴り響く。
「どうだバケモノ! この鎧はなあ、そう簡単には壊れねえ。俺には負けねえ理由があるんだよ!」
 満身創痍であるにも関わらず、ゼランは吼えるのを止めない。迫り来る死を追い返し傷を癒す治癒の魔力が全身に働いているが、魔王の圧倒的な殺傷能力の前には何の効果も挙げてはいなかった。ゼランはアスモデウスの中枢に命令を送り、防御に回すエネルギーを全て攻撃に転化させた。
 細かく振動する鰐の頭に着地すると、アスモデウスはそのまま右腕を突き刺した。深々と鱗を切り裂き肉を打ち抜かられ、鰐はだらしなく口を開き大量の血を吐き出す。アスモデウスは剣を引き抜くのではなく、抉りながらもぎ取って再び構えた。
「悪魔の骸を纏うたとは言え、人の身で我の一部を破壊したか。よかろう、我自ら相手をしてくれる」
「もったいぶりやがってよお」
 アスモデウスは主の凶暴な意志に従い、目前の敵めがけて空を裂き身を躍らせる。百を越える悪魔の骸に込められた罪のエネルギーが、ゼランの意志の元に束ねられ力となっていく。
「どの道、テメエ達は皆殺しだっ!」
 爆発的な速度で飛翔するアスモデウス。
 それを、冷淡とも言える笑みを張り付かせたまま見据える妖女の称える狂美の表情。それは絶対上位に位置するもののみが甘受する事を認められた、劣る者が足掻くのを嘲笑う支配者の愉悦に他ならなかった。
「愚かな」
 魔王レヴィアサンが呟くと、その瞳が蒼白い輝きを放った。
その一瞬にて、全てが凍てついた。
 世界は色を失う。青く白く染め抜かれ、大地も空も、ディアボロスの数多の死骸も移動城塞バールベリトも。全てが完膚なきまでに凍てついていた。
 それは、凍結の魔法とはまるで次元が違うものだった。
周囲の熱を奪ったのではない。熱量と言う世界法則自体を捻じ曲げ破壊し、周囲のあらゆる熱エネルギーを消去したのだ。それは、結果として極寒の世界を招く。
熱の一切存在しない世界。故に、本来ならば凍てつくという現象は正しい表現ではない。そこには温度差などと言うものは存在しないのだから。だが、現に全てのものは凍り付いていた。この世界の支配者たるレヴィアサンを除いては。
 これこそが七大悪魔王レヴィアサン最大の異能であった。
 アスモデウスは、今正に剣を振り下ろさんとした姿のまま、女蛇の眼前で動きを停止いていた。
時間すらが凍りついたようだった。指一本動かす事すら――否、思考を巡らせる事すら酷く困難だ。猛烈な眠気、死の女神の抱擁のように甘く危険な誘惑に何とか抗おうと足掻く。だが、上手く精神を集中させる事が出来ない。どうしようもなく冷たく重い鉄枷をはめられたかのように。そして、そのまま底なしの湖底に落ちていくかのように、身体も心も言う事を聞かなかった。
「この、クソったれ、が……!」
それでも、ゼランは滾る本能のまま、必死で意識を保とうとする。倒すべき敵がその視界にある限り。そいつに向かって突き進み、そいつを破壊し尽くすまでは、止まる事など出来はしない。
必死の思いに答え、アスモデウスが少しづつ、少しづつ動き始めた。だが、魔王の残る三本の首、異形の竜蛇どもがもがくレクシードに巻きつき喰らいつき、破壊せんとする。
「人には人の歩むべき道がある。運命に従い家畜の如くに死んでいけばよいものを。何故、勝てぬとわかっていながら立ち向かう? 何故、不可能とわかっていながら足掻く? 何故、自ら苦痛の道を選ぶのか」
 嘲るような口調で魔王が語る。蕩けるような表情には、これ以上ない喜悦が浮かんでいた。
「決まってんだろ、が」
 全身を包む苦痛。防御印は一つも作動せず、鎧に与えられた打撃はダイレクトにゼランの肉体を苛んでいた。だがそれ故に、ゼランの意志は冷たい忘我の淵より完全に覚醒していた。
「それが、俺の道だからだ!」
 六枚の翼剣をはためかせ、戒めを解かんと暴れ狂うアスモデウス。だが、今のレクシードには最早それを成すほどの力は残されてはいなかった。
渾身の反撃も空しく、力及ばぬアスモデウスに、残された首の上に乗った妖女が顔を近づける。
「わからぬ。もっとも、愚かな人間の思考など、わかろうとも思わぬが。貴様は今ここに消滅する。この世界からも、我が記憶からも跡形もなく、な」
 大きく口を開く魔性の女。その内部から破壊的な白い光が膨張する。圧倒的な魔素の凝集であった。
「久方ぶりの余興であった」
 それが発射された、その時。
 宙を舞う白銀の輝きが神速で飛来し、アスモデウスを戒める竜蛇の一匹、魔狼の頭部をそのまま撃ち抜いた。戒めの緩んだ一瞬の隙を見計らい、アスモデウスが壮麗な翼の舞を見せる。全てを引き裂く黒い旋風と化したアスモデウスは、限界を越えて酷使した翼剣の二枚を犠牲としながらも妖虫の首を切り落とし、残った力を全て振り絞って光線の直撃を回避する。
「ほう」
 首の二つを同時に失いながらも、魔王レヴィアサンは余裕の表情を決して崩そうとはしなかった。飛来した新たな敵の姿を認め、舌なめずりする。
「悪魔の骸が二つ、か」
 済んでの所で一命を取り留めたゼランは、持てるエネルギーの全てをアスモデウスの修復に傾けた。無論、ゼランは全身にいくつもの致命傷を負っている。骨が折れ内臓が潰れ何処を動かしても全身を連鎖的に激痛が苛む。処置を施さねば命も危ういだろう。だが、野獣の如き青年皇帝の闘争本能は保身よりも、まず目の前の敵を倒す為の力を取り戻す事を優先したのだ。
「……遅えじゃねぇか。待ちくたびれた、ぜ」
 血を吐きながらも、悪態を付くゼラン。そんな彼に、優雅で中性的な、涼しい声が応える。
「申し訳ありません、陛下」
 黒鉄の狂戦士と並び、そこに超然と佇むのは、白銀の魔騎士アスタロトの姿であった。

「兄さま。いつの間に!」
 尽く機器が凍り付いている会議室。ベルクマータの象徴である影馬の紋章も、今や只の悪趣味な氷細工へと変化してしまっている。氷点下の極寒と化した部屋の中で、エリシアは宙に浮かぶアスタロトの姿を認め、驚きの声をあげた。
 移動城塞バールベリト内部は、混乱の極みにあった。
 魔王レヴィアサンの巻き起こした地獄の寒波は、それも一つの熱エネルギー集合体である干渉壁を無効化し、パレス内部を完膚なきまでに叩きのめした。
 城外では、完成して間もない家屋の殆どが凍結・崩壊し、また住民も多数が凍死していた。本らならば全滅して然るべき損壊であったが、ドーラヴのとっさの判断により、環境制御装置に多大のエネルギーを割く事により、何とか最悪の事態だけは脱したのであった。
それでも市街の状況は陰惨を極めていた。砕け散った彫像のような死体や、反対に生者と全く区別はつかないものの、その生命活動は当に停止してしまっている死体。運良く生き残っても、身体の一部が完全に凍結し壊死してしまったものもいた。それでも、まだ生命の灯火の残るもの達はこの緊急事態に団結し、事態を収拾すべく活動している。自分達の生きる場所を守る為に、必死で戦っているのだ。
 バールベリトの心臓部たるベルクマータ城も、当然のように無事では済まなかった。常に強大な干渉壁に包まれている罪業駆動機関も、各部が凍結、または損壊し、十分なエネルギーが得られないでいた。それでもまだベルクマータが沈黙しないでいられるのは、重要な駆動機関を守る為に命を投げ出し、名誉の戦死を遂げた勇敢なベルクマータ兵達のおかげだった。
 心臓部同様、バールベリトの頭脳である二階会議室も大打撃を被っていた。殆どの計器類は凍りつき機能を停止、かろうじてモニターだけが生き延びている。
 メイとエリシアは辛うじて無事であった。
悪魔と化したエレインを捕縛したものと同様の干渉壁発生装置を、ドーラヴが全開で作動させたからである。もっとも、それは使用者に大きな負担をかけていた。錬金機械は、貯蓄された罪業が無ければ、他の何かから不足分のエネルギーを調達する。レクシードにおいては悪魔の思念、そしてこの場合においては老錬金術匠の心と生命のエネルギーであった。
「エリシアさん……」
 意識を失ったドーラヴの看護をしながら、メイは立ち尽くすエリシアに、声をかけられないでいた。エレインがそのままでも危険な状態である事は、術式を手伝った自分自身よくわかっている。
心を蝕む悪魔の思念を振り払い、人間として戻ってきたエレインは、それだけで莫大な生命力を消耗していた。言わば、自力で死から蘇生したようなものなのである。歩くだけでも大事なはずだった。それが、再び着用者の魂を極限まで圧迫する悪魔の鎧アスタロトを纏って、恐るべきディアボロスの王と戦おうとしている。それは無謀を通り越して自殺行為以外の何者でもなかった。
それを自身の目で見つめる実の妹。エリシアの心境はいかほどのものなのか、窺い知ることは出来ない。
「……エレイン兄さまは、絶対に約束を破りません」
「え……」
 エリシアは、泣いていた。
「わたしと兄さまは、ずっと二人きりで生きてきたわ。兄さまは、いつでもわたしを守ってくれた。エレイン兄さまは一度も嘘をついたことは無いの。わたしを悲しまないように。わたしは、兄さまの言う事ならどんな夢物語でも信じられた」
 凍傷を起こしかけている右足を引き摺って、モニターに近づくエリシア。出来るだけ近くで、兄の勇士を目に、心に焼き付ける為に。普段は無表情なこの少女は、兄の事となると内に秘めた激情を紡ぎだす。
「兄さまは、誇り高いお方。自分を極限まで追い詰めて、修練を重ねて、それでも尚、その先にあるものを追い求めて。兄さまは、全部、背負ってるから。何も出来ないわたしの分まで、無理して頑張ってくださってるから。そんなエレイン兄さまを、わたしは……愛しています」
 それは、いつもエリシアがエレインに言えないでいた魔法の言葉だった。いつもいつも、エレインは自分に心配するなと言って出て行く。昔も、今も。
そんな兄に告げるべき、それはエリシアの本当の言葉だった。
「兄さまはわたしを一人にしないと誓った。わたしは信じています。だから、兄さまは絶対に死なない。わたしの愛するエレインは、絶対に負けません!」
「……うん」
 その時、会議室の扉が開いた。新たな入室者は小さな影だった。
「ねえちゃん。ボク達にも出来る事、あるんでしょ!」
 それは、グレイヴで同じ時を過ごした孤児達だった。みな、酷い怪我を負っている。だが、その目は少しも絶望していない。
 信じられるものがある。
 そこには、希望を生む光の星々が灯っていた。
「みんな……!」
 メイは、予想もしない、でも最高に頼れる援軍の到来に胸が一杯になった。
負けない。
 負ける筈がない。
 ちっぽけな、でも大切な何かを背負った人間が、悪魔なんかに負ける筈がない!
(頑張って。エレインさん、ゼランさま! こんなに、こんなにたくさんの人達が頑張っている。ゼランさまが与えてくれた世界で、輝く為に! あたし達も負けない。だから、だから!)

 アスモデウスは、殆ど無傷の状態にまで回復していた。折れた角や翼は脱皮するかのように抜け落ちると、瑞々しい輝きを放つ新たなる器官が生え揃い、全身に刻まれた裂傷や風穴も見る見るうちに修復していく。生に執着する悪魔の魂を最大限に鼓舞する事により莫大な再生力を引き出したのだ。
「よし……」
 レクシードの拳や翼が己の殺意に応じて起動するのを確認し、ゼランは再び死線の只中に身を投じんとする。
「陛下、お体は」
「間抜けな質問すんなよ」
 右腕を螺旋槍へと変化させ、既に臨戦体制にあるアスタロトを駆るエレインへ、ゼランは吐き捨てように応える。
「テメエと同じくらいには動くぜ。それで十分だろうが。それに見なよ、野郎も無事じゃねえようだぜ?」 
ゼランの言葉の通り、悪魔王レヴィアサンも無傷ではなかった。五本の首のうち、三本の首を失っているのだ。あるものは巨大な風穴を開けられ、またあるものは根元から切り刻まれて、滝のように体液を流出している。己が血によって、魔竜の全身を覆う群青色の鱗は赤黒い色へと染め上げられてしまっていた。残った異形の髑髏が主を守るように蛇腹をくねらせながら妖女に寄り添う。白磁の狂美が無言で指令を下すと、最後に残った異形の頭部は無数の目玉を回転させながらレクシードに向かっていく。
その外傷にも関わらず、魔王レヴィアサンは帝王の余裕を持って趨勢を楽観していた。
 たかが人間の造った騎士が一体増えたところで何の意味があろうか。確かに、ディアボロスの魔力を捕縛し収束させた魔道鎧の戦闘力は相当なものだ。並みのディアボロスではダメージを与える事すら難しいだろう。現に、それ一本で貴族階級ディアボロス数十体に比肩する能力を持ったレヴィアサンの首を三本まで落としている。魔王にとって、これは生を受けて以来初めての恥辱とも呼べる経験であった。
だが、とレヴィアサンは考える。
自分は七大悪魔王が一人。下等な生体ピラミッドの遥か上方に位置する絶対捕食者ディアボロスの支配者。偉大なる悪魔王は、猫が鼠をいたぶる嗜虐性を持ってして愚かな人間どもの相手をしてやっているに過ぎないのだ。それを、このムシケラどもは何か勘違いしているらしい。
ならば教えてやらねばなるまい。身の程の違いと言うものを。矮小な人間の限界と言うものを。
「やれ」
 迫り来る異形の髑髏。そこに群がる無数の眼球、焦点があっておらず、それぞれちぐはぐな方向を回巡しているそれが、周囲の空間を歪めつつ剣呑な光を湛え始めた。それは、視線の先にあるものを無差別に破壊する邪眼の発動を示す魔力光であった。一つでも都市を破壊し尽くし灰燼と為す邪眼の魔力。異形の髑髏は有する邪眼の数は無数であった。
 最後に残った、いや残した髑髏頭は他の首とは次元が違っていた。他の首は飾りのようなもの。力量の違いすぎる相手を嬲る為の言わば遊具に過ぎない。だが、この異形の髑髏だけはレヴィアサンの信頼に足る、本物の武器と呼べる異能を備えた頭部なのだった。
 焦点の定まらない無数の眼球から、ありとあらゆる方向に邪眼の魔力が放たれる。無限射程を誇る魔の死線に射られたものは、有機物であれ無機物であれ、ぐずぐずに腐敗し溶解していく。
 迫り来る異形の恐るべき力を目の当たりにしながら、二人の間には切迫した様子は無かった。
「久しぶりだよな。お前と肩を並べて戦うのは」
「ええ」
 むしろ、旧来の半身が会したような、そんな温和な雰囲気さえ思わせる。
「じゃあ、やるか!」
「はい」
 だが、二人の男が着込んでいるのは悪魔の鎧レクシード。あらゆる魔道兵器の遥かに上をいく、究極の殺戮機械。
 白銀の魔騎士アスタロトが残像を残しながら移動する。速度を最大に保つが為の直前的な飛行。しかし、エレインは発狂寸前に精神を追い込み、風を切り音を貫く際どい角度で軌道を次々と変化させながら、髑髏の顔面に迫る。無造作に飛び交う不可視の魔力を紙一重で見切るアスタロト。紅き単眼の残光は、まるで悠久の大河の如くに美しいラインを描いていた。
「覚悟」
 上半身ごと右腕を大きく振り絞り、必殺の一撃を繰り出すアスタロト。モーションは無謀なまでに大きかったが、その速度はまるで理解を越えるものだった。何かが破裂する音が響き、異形の髑髏の首には螺旋階段の如き傷跡が深々と刻まれたいた。
「おらぁっ!」
 間髪入れず、アスモデウスが低空から倶風を纏って上昇する。アスタロトの遥か下方、魔騎士の影に黒き巨体を隠してここまで接近してきていたのだ。六枚の翼剣に加え、両手に構えた黒い大剣を猛然と振りかざし、蛇腹を引き裂きながら上へ上へと飛んでいく。
 まだ生きていた邪眼の視線が、全てアスモデウスへと向けられる。幾筋もの魔力が一つに寄り集められ、上昇を続ける鎧を粉砕せしめんとする。
「遅えよっ!」
 六枚の悪魔の翼が極限まで開き、それから一度だけ羽ばたいた。闇色のグラデーションを描き重なり合う翼の軌道が、高度位相魔法の六重奏となり、爆発的な速度をアスモデウスに与える。
 視線よりも疾い、光すら越えた飛翔。
 邪眼の魔力に捉えられるよりも尚早く、アスモデウスの大剣が真下から異形の頭蓋骨を真っ二つに切り裂いた。異形の髑髏は声にならぬ断末魔をあげる。ついに魔王レヴィアサンの首は黒き狂戦士の手により単なる肉屑と化したのだった。
 そのまま上空まで一気に駆け上り、そして降下する黒き巨体。白銀の騎士も調子を合わせ、手槍を突き出したまま直進する。
 目指すは、最後の首。
 白磁の如き女の上半身を乗せた、魔王レヴィアサンの本体。
「ほう。屑どもの分際でなかなかやる」
 レヴィアサンの人形のような顔に、冷たい怒りの表情が浮かんでいた。世界法則をも捻じ曲げる魔王の怒りの波動は、それだけで十分な破壊の力へと転化される。レヴィアサンの眼前に無数の氷柱が現れ、暴力的に荒れ狂う雹の嵐が巻き起こった。
「人間……このレヴィアサンの真の力を受けて死ねる事を光栄に思え!」
 それらは全て、飛来する二体のレクシードへとぶつけられる。熱量を全て遮断する、回避も防御も不可能な超絶魔弾。先程のように広範囲に拡散させていない為、有効範囲に限界はあったがその分威力は更に凶悪になっていた。
「芸が尽きたか、バケモノ!」
 隊列を入れ替え、今度はアスモデウスが先行した。大きく大剣を振りかぶり、そのまま一気に振りぬく。発生した剣風は破壊の魔力の塊だった。魔王の異能と正面からぶつかりあい、力ずくでその威力を殺ぐ。
「愚かな。我が力をそのような駄戯で振り払えるとでも思っているのか」
「愚か? 百も承知だ馬鹿野郎!」
 次から次へと間断なく射出される氷の魔弾は、到底裁ききれるものではなかった。その幾つかがアスモデウスに被弾し、黒い狂戦士は白く凍ていていく。だが、それでもゼランは剣を振るいつづけた。そして、一際大きな衝撃を放つや、アスモデウスは全てのエネルギーを翼に集め、神速で氷嵐の只中へと突っ込んでいく。
「もう、慣れたぜ。テメエのチャチな水芸なんぞ、痛くも痒くもねえ!」
 アスモデウスの翼から、鏡面状の小さな黒いものが射出された。人間の脳の数百倍の演算能力を持つ錬金機械が、少しの無駄も無くダメージを最小に殺ぐように計算した、ピンポイントの結界子であった。先の剣舞は、これを体内で生成する為の時間稼ぎとデータ収集の両方の役割を担っていたのだ。
 野獣の気高さと、狩人のしたたかさを併せ持つゼランの戦闘センスの賜物であった。
「抜けたぜ!」
 嵐を突っ切り、アスモデウスが黒剣を振りかざす。正確に、人形のような女の首筋を狙って。
「図に乗りおって……!」
 圧倒的な速度と絶妙な角度で振り下ろされる剛剣を、女は片手で受け止めた。華奢な人形を思わせる外見などまるで無意味だった。爪を立てられたアスモデウスの大剣にヒビが入り始める。その細身でアスモデウスすら凌駕する、驚くべき腕力であった。
「愚かなる者よ、その魂に刻むがいい。我は王。我は支配者。我は七大悪魔王レヴィアサンなるぞ!」
 女の顔に瞬間、険が走る。その刹那、両の瞳が蒼く燃え上がり、光が収束しアスモデウスを撃ち抜いた。力を落としたアスモデウスの巨躯を、妖女は片手で放り投げる。
「そうか。だが腐れた悪魔王の名など、覚えてやる義理は無い」
 エレインの声は、魔王の真後ろから聞こえた、
 妖女の動作後の一瞬の隙を突き、白銀の騎士が背面に回りこんでいたのだった。その右手は、無数に枝分かれした螺旋を描く禍々しい異形の槍と化していた。
「滅びよディアボロス。我が名はエレイン。、白きレクシード・アスタロトの使い手だ!」
 アスタロトは、全身の力をその先端に乗せて妖女の頭にぶち込んだ。白煙が巻き起こり、その場から何も見えなくなる。身を守る時間も魔力を発生させる暇さえも無かった筈だ。
 だが。
「どうした? 効かぬぞ、レクシードォ?」
 煙の中から現れたのは、傷一つついていない白磁の柔肌。しかも、アスタロトをさしたる脅威とも感じていないのか、妖女は後ろを向いたままであった。
「馬鹿な……完璧だった筈。そうだろう、アスタロト!」
 アスタロトの単眼が光を放ち、第二第三の連撃が繰り出される。だが、そのことごとくがレヴィアサンの白い肌にかすり傷一つ付けることが出来ないでいた。
「残念だったな、白きレクシードの騎士。これで終いだ」
 振り向いた妖女の口から青白い光が迸る。それは憑かれたように攻撃を繰り返しているアスタロトに直撃した。
「エレイーン!」
 ゼランの叫びも空しく、凍てついた魔騎士は地へと落ちて行く。
「貴様達では我に勝てぬ。勝てぬ理由があるのだよ、悪魔の骸纏いし愚者ども!」
 高速で振り降ろされた魔竜の尻尾が全力でアスモデウスを打ち据える。アスモデウスは先の打撃によって動きを封じられてしまっていた。六枚の翼を楯状に展開し、辛うじて一撃を受け止めたゼランだったが、そのダメージは深刻だった。
 追い討ちをかけるように、上方から氷槍の雨が降り注ぐ。同時に、勝利を確信したレヴィアサンの哄笑も。
「凍てつけ。ひれ伏せ。絶望しろ! 貴様達人間がどう足掻いたところで、我らディアボロスに勝つことなど出来ぬのだ!」
 
「兄さま……!」
 エリシアは祈るように両手を合わせ、しかし真っ直ぐに戦いを見守っていた。どれほど愛するものが傷つこうと、決して目を逸らさない。彼女もまた、戦っていたのだ。
「無理、じゃ……」
「師匠? 気が付いたんですね!」
 聞こえるか聞こえないかの音量で、ドーラヴが弱々しく語り始める。
「いかに、レクシード二体でも、魔王級ディアボロスの結界を打ち抜くことは出来ぬ。先程のエレイン殿の一撃で、それがようやくわかった……」
 メイや子供達助けを振り払い、ドーラヴは杖を頼りに立ち上がった。
「レクシードを動かす原動力はディアボロスの魂。その力に拠っては、魔王に仇名す事は不可能なのじゃ。レクシードの放つ超絶の力が、彼の悪魔王に相対する時のみ極端に低下しておった。下位ディアボロスの魂には悪魔王に対する絶対の忠誠心が刻まれておったのじゃ。いかに若が、エレイン殿がそれをコントロールしようとも、死してなお続く彼奴らの暗黒の絆を断ち切る事は適わぬ。それはディアボロスの魂そのものを形作る元型とも言えるものじゃからの。悪魔の力に頼った時点で、ワシは既に負けておったのか……!」
「師匠……」
 メイは、師の表情に只ならぬ覚悟を感じ取った。同時に、何か嫌な空気も。
「なれば、アレを使うしかあるまいな」
 老錬金術匠の顔には、今まで見せた事の無い苦渋の表情がありありと見て取れた。
「メイ、肩を貸せ。ワシを工房まで連れて行け……」
 メイは、師の言葉に従った。この場は、子供たちが何とかしてくれている。エリシアもいる。
 出口まで来た時、ドーラヴは振り返らずに一人呟いた。
「エリシア殿、さらばじゃ。短い間じゃったが……楽しかったよ」
 その哀しい言葉で、メイには、これからこの老人が行う事が、直感的にわかったしまった。
 だが、今だけは……その直感を信じたくは無かった。

 異空間に隔離されていてなお、ドーラブの工房は魔王の超凍結呪の被害を被っていた。自慢の錬金機械の幾つかは粉々に破砕し、白い残骸と化してしまっている。
「師匠?」
 部屋を出てから一言も口を聞かない老人に、メイは恐る恐る語りかけた。だが、ドーラヴはメイの言葉など意にも介せず、機械の森と呼べるこの工房の最深部まで進んでいく。メイは、ついて行くしかなかった。
 メイが入る事を決して許さなかった、工房の最奥に、それはあった。
「久しぶりじゃの。我が不肖の息子よ。出来る事なら、二度と会いたくはなかったものじゃが」
 それは、人間一人が入れる大きさのポッドだった。エレインを治療した元素培養ポッドと似ている。だが、メイは何故かこの機械に棺桶のような死のイメージを感じとった。
「見るのだ、メイ。これこどワシが自分の才能と魔道科学の底なしの可能性に溺れておった時分に持てる力の全てを持ってして作り上げた、背徳魔道科学の落とし子。錬金術匠としての最後の作品……ソウルクラスターじゃ。ワシも若かった。いや、幼かったのじゃ。更なる技巧、更なる技術のみを追い求め、幾多の魔道兵器を作り上げたワシは、後に背徳魔道科学の父とまで呼ばれるようになった。そんな中で、こいつは生まれたのじゃ。現存するあらゆる兵器――レクシードすら凌駕する最狂最悪の魔道兵器として」
 ドーラヴは、順番にリミッターを解除していった。その間中、ドーラヴは震えていた。震えながら、たった一人の弟子へ過去の思いを告白していった。
「人の心に宿る最高のエネルギー……罪を利用したのが罪業駆動機関。罪とは負の感情に他ならぬ。が、負の感情の中にも上下があるのじゃ。もっとも強力な負のエネルギー、それは死への恐怖。不可能とわかっていてもなお、抗う事を止められぬ生命の最後の命題。レクシードを動かしておるのも、死を呪う悪魔の思念。だが、それではあの悪魔王は倒せぬ。ならば、この最悪の魔道砲にて打撃を与えるしかない。人の魂を捕縛し拷問し、死を恐れ憎む負の感情を極限まで引き出す。そこから導き出される莫大なエネルギーを超密度の魔力弾として放つ、このソウルクラスターをな」
「人の魂を弾丸に……じゃあ、師匠!」
 メイの直感は、やはり的中してしまった。
どうしようもない表情を向ける弟子に対し、ドーラヴは優しく笑った。それは、厳格な錬金術匠師が弟子に送る、最初で最後の笑みだった。
「性能と引き換えに何かが犠牲になる、これがワシの信じた魔道科学の限界じゃ。限界を知った老人の価値など、もうないわ。だがなメイよ、お前は違う。お前は、ここから先、無限に続く可能性への鍵を既に手にしておる。行くがいい、メイ。ついぞワシの成しえなかった領域まで。若もおっしゃっておられたでの、全てを為すのは人の情熱じゃと!」
 白煙を上げ、長い年月封印されていたポッドが開封される。煙の向こう側に、僅かながら凶悪な影が見え隠れする。回転鋸、極細針、巨大万力。それは、中に入るものを苛み負の感情を引き出す為の様々な拷問器具だった。
ゆっくりと、しかし確実に、一歩ずつ踏みしめるようにポッドの中に入るドーラヴ。
「師匠! いかないで、師匠! こんなの、こんなの間違ってるよ!」
 メイは、震える足を押さえつけ、必死で老人に追いすがった。
「そうじゃな……間違っておる。だからこそ、お前達が変えていくのじゃ。メイ、若を頼んだぞ」
 それが、稀代の錬金術匠、ベルクマータ帝室顧問、背徳魔道科学の父ドーラヴの最後の言葉だった。
ドーラヴは縋るメイを吹き飛ばし、ポッドの門を閉じた。
直後、凄まじい勢いで工房中の罪業駆動機関が起動し始めた。今まで何の為に使うものなのか全くわからなかった部分も、造られてから一度も使用されていない機械も全てが起動する。
メイは理解した。
これらは全て、人の魂を一欠けらも残さず搾り取る、ソウルクラスターの補助機関だったのだ。ドーラヴが触らせたがらなかったわけだ、こんな、最悪の機械を……
「師匠」
 メイは、ポッドの真横にある、人の背丈程もある巨大なレバーに近づいた。これが、最後にして最悪の背徳魔道兵器ソウルクラスターの、最終リミット解除装置だった。
 つまり、これを引く事は、ポッドの中に入った老人の命を消し去る事と同意義であった。
メイは、一人で巨大なレバーを引く。
重い。華奢な少女の身では、降ろしきる事は難しい。
(だけど、あたしがやらなくちゃ……!)
これは、これから少女が背負わなければならない重さ、師の熱き魂の重さのほんの一部に過ぎないのだから。
「罪業駆動機関、フルドライブ。ソウルクラスター、発射……っ!」
 涙は流さない。
 それは、今流すべきものではないのだから。

 移動城塞バールベリトの前面部分、律儀に城の門を象った怪魚の口腔が開いた。開いた門の先にあるのは、ベルクマータ市街ではない。位相空間に隔離されていた古の魔道砲が、そこから姿を現した。
 その邪悪な造形。かつて、自分こそが支配者であると信じた傲慢な人間の奢りの結晶が、そこにはあった。破壊のみを生み出す兵器にも関わらす、上品な芸術品のように意匠を施された、極彩色の尖塔。
 それがソウルクラスターであった。
 その先端から、巨大な高エネルギーの塊が発射される。それは一瞬の出来事だった。一瞬で、その魂の弾丸は悪魔王へと肉薄し、残された蛇の身体、妖女の下半身へと撃ち当たると、音も光も無く爆ぜた。それは、全てのエネルギーを超純粋な破壊の為だけに集約している故であった。
「ぐ……ごああああああ!」
 人外の絶叫が響き渡る。
 結果は明らかだった。
 いかな打撃を持ってしても傷一つつかなかった悪魔王の白い肌が、赤黒く焼け爛れていた。直撃した蛇腹は、見るも無残に焼け爛れ、それだけはやけに白い骨を外気に晒している。
「こ、これは……グググ、人間にもわかっている奴がいたらしい」
 自分を焼いたものの正体を本能的に理解し、醜く傷を負ったレヴィアサンは賞賛の声を上げる。死への恐怖をそのまま破壊のエネルギーに転化した、忌むべき魔道兵器。それは魔王の誇る超級の防護結界をも無効化したのだ。
「だが、この程度では死んでやれぬな。さて、このレヴィアサンを楽しませてくれた礼をしてやるとしようか!」
傷ついた魔竜が山のような身体を動かした、その時だった。
「ぬああああああああ!」
 怒号が響いた。
 地表から壮絶な勢いで駆け上がってくるものがいた。白き騎士と黒き戦鬼。それぞれが渾身の力を込め、空いた風穴に身体ごとぶち当たり、肉を掴んでは引き裂き骨をもいでは打ち砕く。結界の張られていない肉体内部を死に物狂いで攻撃され、さしもの魔王も苦悶のうめきを上げた。
「ぐがあああああ!、おのれ、おのれムシケラどもが! 再生が、再生が追いつかぬ!」
 魔王を中心に、暗黒の渦巻きが発生する。それは、レヴィアサンがこちらに出現した際に発生した魔力の奔流と同じもの、つまり異界へと転移する門であった。
 レヴィアサンは形振り構わず蛇胴を振るい、しがみ付くレクシードを振り落とす。その実、もはや限界を当に過ぎていた二体のレクシードは、為す術も無く振り落とされた。
 傷ついた肉体を門の中に埋没させながら、悪魔王は最後の言葉を投げかけた。
「覚えておくぞ、レクシードの担い手。この我、嫉妬のレヴィアサンに傷を負わせたこと、必ずや後悔させてくれる!」
 そして突然、何事も無かったかのように門は閉じ魔王は姿を消した。
 だが、その暴威の程は周囲を見れば明らかであった。
七大悪魔王レヴィアサンとの戦い。
この日、ベルクマータ国民の実に半分がその命を失ったのだった。

荒廃した大地を、移動城塞バールベリトが駆けて行く。
周囲を取り巻く超高密度な魔素の影響だろう。岩や樹木はあり得ない方向に奇怪に捻じ曲がり、日の射さぬ空は曇天を通り越してコールタールの如くに蠢いている。
悪魔の門、ダークスが近い証明であった。
その荒野を、損壊が修復しきっていない移動城塞が突き進んでいた。
「そうか。とうとうくたばりやがったか、ジジィ」
 メイの報告を受け、ゼランはそう呟いた。そこには何の感慨も聞き取れない。
 当然だった。
 ゼランにとってドーラヴの死は、そういう次元の話ではないのだ。
 メイと同じように。
 あれから三日三晩、ゼランとエレインは元素培養ポッドの内部で治療を受け眠り続けた。生きている事が不思議なほどの重傷。肉体の疲労は魂さえも疲弊させる。意識を失いながらも強靭な精神力で悪魔の魂と戦い続ける二人を救う為、困窮の極みにありながらベルクマータ唯一の錬金技師はその手腕をいかんなく発揮し、二人の命と精神を取り留めたのだった。
「ご苦労だったな、メイ。部屋に戻って休んでろ。寝てねえんだろ?」
 労いの言葉をかけられながらも、メイはその場を動こうとはしなかった。
「……何で、何でゼランさまはそんな風でいられるんですか」
 メイは、肩を震わせながら聞いた。
「辛く、ないんですか」
 ふっ、と息を吐いて、皇帝は語った。
「辛えよ。ジジィには言いたい事も、聞きたい事もまだまだ沢山あった。それが、眼を覚ましたらいきなりいなくなっちまってたんだからな。辛くて堪らねぇ。泣き叫びたいくらいにな。だけど、そうしたところでどうなる? これから先、何が待ってるかもわからねえのに、今を嘆いたところでどうなるよ? そんなことを気にしている暇があるんならな」
 ゼランは、獲物を追い求める野獣のような光をその目に宿した。
「突き進む。ジジィの分まで、死んだ奴らの分までな。それが俺の決めた生き方だ」
「そう、ですね」
 入り口から、細い美声が囁いた。
「全く、貴方らしい答えですよ」
 エレインだった。ゼランと同様に、全身包帯まみれになっている。
「人の生き死にすら意に介さない。さすがは罪業大国ベルクマータ皇帝だ」
 いつもとは何かが違う。だが、悪魔に魂を掌握されたわけでもない。何か、溜め込んでいたものを吐き出すような口調。これは、エレインと言う一人の男の嘘偽りのない本心だった。
「エレインさん」
 只ならぬな雰囲気を感じ取り、何か言おうとするメイを、ゼランは無言で制した。その様子、有無を言わさぬ迫力を纏わせている。
「何を言いにきた、エレイン」
「陛下の臣下として申し上げたい事がございまして」
 ゼランへと歩み寄るエレイン。
「我々はドーラヴ殿を犠牲にして生き延びた。その結果、悪魔の群を一掃し、悪魔王にまで傷を負わせる事に成功しました。結局、あの時と同じだったわけだ」
 エレインは冷たく言い放った。
「あの時か……」
 ゼランの言葉に、エレインが続ける。
「わたし達の暮らしていたグレイヴがディアボロスに襲われた時です。あのグレイヴは、殆ど大破壊以前の状態まで修復していました。住民達の尽力の賜物です。放浪者だったわたし達兄妹は、住民に歓迎されてはいなかったが、ディアボロスとも渡り合える技と魔道装備を見込まれて、なんとか暮らしていた。周りのに溶け込む事が出来ずとも、わたしにはエリシアがいました。だから、あそこはわたしにとって小さな幸せの巣だったのです。だが!」
 エレインの声は、憎悪と怒気にまみれていた。
「あの日、貴方はグレイヴにいる沢山の人達を見殺しにして、街ごと魔道砲で消し飛ばした! あのグレイヴに避難を勧告したならば、人間を狙うディアボロスの群は拡散してしまいますからね。奴らをひきつけておくには餌が必要だった。貴方は安全なパレスの中から攻撃命令をしただけだった。グレイヴの人間を、人々が縋る罪業駆動機関を、貴方は悪魔を引き寄せるダシに使ったんだ!」
 エレインは、涙を流さずに泣いていた。誇り高きベルクマータの騎士が、本心を剥き出して、そこから際限なく溢れ出る痛みに耐えて泣いていた。
「私とエリシアは何とか一命を取り留めた。思えばあの頃からエリシアの能力は開花し始めていたのでしょう、私達は一番被害の少ない場所に逃げる事が出来た。貴方はそんなエリシアの能力と、ディアボロスとも渡り合う私の力が欲しかった。だから助けたんだ、利用する為の道具として。現に私は地獄のような修練を積み、悪魔の鎧を駆る騎士としてこの国の剣となり、そしてエリシアは幾度もの人体改造によってその能力を無理やりに増進させられ、この国の耳となった!」
「……そうだ」
 ゼランは認めた。その表情には少しの曇りもない。普段の、ふざけた調子もない。一人の男としての貌がそこにはあった。
「レクシードを持たなかったあの時の貴方の行動が、間違っているとは思わない。ディアボロスどもを滅ぼす。その悲願の為には、あのような行動も当然なのかもしれない。私とて悪魔は憎い。だが、貴方はそれ以下の人間だ! 私は決して忘れない。あの時の光景を、視界を覆い尽くす焼き払われた街を、原型を留めない隣人達の最後を、ただむせび泣くだけだった妹の姿を。小さな小さな希望を打ち砕かれ、笑顔をなくし壊れてしまった心を! 私達兄妹は、あの日からずっと、貴方への憎悪だけを糧に生き長らえてきたのだ。屈辱を偲んで、貴方を憎んで!」
 部屋は静謐に包まれた。
「言いたい事はそれだけか。今まで何度も聞いたぜ」
 ゼランの言い振りに、再びエレインが食って掛かる。
「貴方は! 腹心の一人が死んだというのに何とも思わないのか! 貴方の為にその命を賭けたのだぞ。わたし達兄妹のような不幸を背負わせ、それで死んでいったものに」
「相変わらず女々しい野郎だなテメエは!」
 エレインを一喝し、ゼランは怒声を上げた。ビリビリと空気が振動するのが、メイにもわかる。
「だから言ったろうが! 全てが済んだら俺の命をくれてやるってな。何なら今やるか? この身体もいつまで持つかわかったもんじゃねえ。バケモノみてえな鎧を着こんで、バケモノどもと戦って、いつ人間やめちまうかもわからねえ。だったら、今の内に殺しとくか、ああ!」
 凄い剣幕だった。今にも本気の殺し合いが始まってしまいそうな。二人の発する凄まじい威圧感によって、メイは少しも動けないでいた。
「仕方がなかった、とは言えねえ。言い訳も出来ねえ。お前達兄妹の幸せを、ジジィの命を、数え切れない人間の生活を奪い去ったのはディアボロスなんかじゃねえ、この俺だ。俺の我侭が招いた事だ。俺はこの身体が動く限り悪魔どもをぶっ潰し、ぶっ壊し、ぶっ殺し続ける。それで何人の人間が不幸になるかはわからねえ。だが、全部が終わったら、全ての責任は全て皇帝たるこの俺がとる!」
 途轍もなく長い時間がそのまま過ぎたように想われた。瞬間、エレインが殺気を納める。先程までの突き刺すような空気が嘘のように引いていく。
「……止めておきますよ。これでも私は騎士だ。約束は違えません。この世界に救う悪魔どもを全て殺したならば、その後に改めて命を戴きに参ります」
 平気で恐ろしい事を口にするエレイン。その口元には、微笑さえ湛えていた、
「陛下……その時まで、その命、お大事になさって下さい」

 廊下でエレインを待っていたものがいた。エリシアである。
 妹の、何とも哀しげな表情を認め、エレインは力なくうなだれる。
「すまない、エリシア。わたしは、お前との約束を守れそうにもない。あの男を殺す事は、私には出来ない!」
 そう語るエレインの口調は重く、弱々しい。
「あの獣のように獰猛で気高い男に仕えたいのだ。私は、一人の男として陛下に惹かれてしまっている。当の昔にわかっていたのだ、この世界を救えるのは、陛下の情熱だけだと。すまん、エリシア。不甲斐ない兄を恨んでくれ。お前から笑顔を奪い取ったあの男を討ち、お前の心を救ってやるという約束、わたしは守れない。あの男の下で、お前の為に働ける事が、今の私にとっての全てなのだ……!」
 兄の下に駆け寄り、抱きしめるエリシア。
「兄さま。もう、もういいんです。わたしはもう、十分に救われています。兄さまがどれだけわたしの事を想って下さっているか、どれほど優しいお方か、このエリシアはわかっているつもりです」
 壊れるぐらいにきつく、きつく兄の身体を抱きしめる。自分より二周りは大きいはずの鍛え上げられたその体躯が、今はものすごく小さく儚いものに感じられる。
「兄さまの滾る想い……兄さまだって、陛下と同じに世界を救いたいのでしょう? それを、わたしの為に埋もれさせてはいけません。兄さまは、もっと大きな事が成せる方なのですから。兄さまも、この灰色の世界を輝かせることの出来るお方なのですから。わたしと同じように、沢山の人を幸せに出来る刀のですから!」
 エリシアは、うなだれるエレインの頬をなで、真っ直ぐに正すと、その瞳を真っ直ぐに見つめた。
「戦ってください。誰の為でもない、兄さま自身の心、兄さまの情熱のままに! それが、貴方の妹の願いです。それが、今のエリシアの幸せなのですから……!」
 エリシアは、何とか笑おうとしてみせた。だけど、意志に反して顔は哀しみの表情しか作らない。偽りの仮面を嵌められているかのように。
 エリシアは、勇気を振り絞る。人の心を、情熱を糧に。
 魔法の言葉を唱える為に。
「兄さま……愛しています」
 笑った。
 一瞬だが、華のような笑顔が、そこにあった。
 エレインの目には、涙が浮かんでいた。
「エリシア……ありがとう」
 あの時から、どれだけの時が経ってしまったのだろう。心壊れた兄と妹が、憎悪を糧に生き永らえてきた、狂った時間。
 そんなものは、この一瞬に比べれば、塵のようなものに過ぎなかった。
 
 城内をけたたましい警告音が鳴り響いた。
環境制御装置に回されていたエネルギーがカットされ、バールベリトの周囲に強固な干渉壁が形成される。
「いよいよだな」
 会議室の円卓には、軽鎧を着込んだゼランとエレイン、そしてエリシアとメイが集結していた。
「圧倒的な魔素反応です。空間が歪曲して強制的に他の次元が干渉しています。これがダークス……」
「エリシア、ディアボロスの数は」
 エレインが言葉みじかに聞いた。
エリシアは深呼吸すると、目を瞑った。
その感知能力をフルに起動させ、予知といえるレベルまで感覚能力を増強していく。
「臣下階級、なし。……貴族階級、三十体」
「へっ、少数精鋭ってわけだ」
 ゼランが、大剣を弄びながら言う。
「ただし、ダークスは異界との門。いつあちら側からディアボロスが現れるかわかりません。それに、この感覚……魔王級が一体。レヴィアサンです」
「もとより覚悟の上。ご苦労だったな、エリシア」
「はい」
 珠のような汗を浮かべながらも、エリシアは兄に向けて笑ってみせた。
「ステキな笑顔……」
 メイが、ついついボソリと呟いてしまった。あまりに調子外れのその台詞に、一瞬、場が和む。
「じゃあ、行くとするかあ」
その口調は、これから死地に赴く者として、あまりに軽々しかった。
 それが、ベルクマータ皇帝ゼランディアだった。
「兄さま、ご自愛……いえ、がんばってください!」
「あたし達も頑張るから、お願いだよ、ゼランさま」
 二人の想いにささえられ、ゼランとエレインは再び、悪魔の心臓を握り締める。
「任せな」
「任せろ」
 ベルクマータの皇帝と騎士は、そうやって死地へと赴いていった。

 旧ベルクマータ本国領。
 そこは、現界にありながら、半ば異界と化していた。
 ダークスから流れ出す異界の瘴気によって周囲は汚染され、この世界のものではない物質で出来た奇岩や動物とも植物ともつかない妖物があたりに点在している。そこに人間の大都としての面影は、もはや残ってはいない。
 瘴気漂うその只中を、高速で飛翔するものがいた。
 漆黒の邪戦鬼アスモデウスと白銀の魔騎士アスタロト。
 あらかじめバールベリトの接近に気付いていたのだろう、貴族階級ディアボロスが群を成してレクシードに襲い掛かる。
「エレイン!」
「陛下!」
 白と黒の旋風が入れ替わり立ち代わり閃く。
アスタロトとアスモデウスの連携は障害たるあらゆるディアボロスを完膚なきまでに破壊し尽くしていった。その軌道上にあるものを全て粉砕し、驚くべき速度で突き進んでいく。
何体のディアボロスを倒したのだろうか。何処までも続くかと思われた修羅道も、ついに終点を迎えようとしていた。
周囲の魔素が一気に濃度を増す。目標が近いのだ。
「見えてきたぜ」
「あれが……ダークス」
 それは、混沌の渦だった。
 ありとあらゆる色彩と造形が一緒くたになった巨大な間隙。それが、隣接する空間との隔たりなく、何の脈絡もなく突然空中に浮遊しているのだ。微妙に輪郭を崩しながら、臓腑のように蠢く暗黒洞。それが異界との門、ダークスであった。
だが、その前に、彼らを阻む最後の障壁が立ちはだかっていた。
「よお、バケモノ。逢いたかったぜ」
 アスモデウスが血に濡れた大剣を正眼に構える。
「今度こそ滅ぼしてくれるぞ、ディアボロス!」
 アスタロトは螺旋状の右手を引き、突撃の体制に入る。
「来たか、レクシード」
 応じて、二人を阻む最後の悪魔が口を開いた。
 七大悪魔王、嫉妬を司る魔竜レヴィアサン。
その本体たる妖女の首は元通りに再生していた。あのダメージが嘘だったように、風穴の開いた蛇腹も、純白の妖女の肌も、傷一つ残さず回復している。
だが、その姿は以前と全く同じものではなかった。破壊された四本の首は、代わりに新たなる妖物が備え付けられていたのだ。
 真っ赤な、血のように真っ赤な薔薇の花。その花弁にはびっしりと鱗が生え、中央からは蛇の舌がちらついている。その不気味な魔妖植物が四本の蛇の胴体から這え出ているのだ。植物と爬虫類の両方の特質をもったそれは、どちらにも存在しない奇怪でおぞましいイメージを放っている。
 その四本の首がうねり広がり、妖女を中心とする悪魔の華を開かせた。
「これは何の異能も持たぬ、ただの飾り。貴様達の処断は、この我、嫉妬のレヴィアサンが直に行ってくれる」
 中央の首のみが真っ直ぐに伸び、両手を大きく広げた。あたかも、攻撃を誘っているかのように。人形のような白い女性の肢体が露になり、レヴィアサンは恍惚の表情を浮かべた。
「遊戯の時間は終りだ。悪魔王の全ての力を持って、貴様達を消去してくれる!」
「行くぜ、エレイン!」
「はっ!」
 二人は同時に仕掛けた。華麗な白銀色の残光を残しながらアスタロトの螺旋槍が唸りを上げて妖女の左胸に迫る。
 だが、魔王レヴィアサンはエレインの一撃を軽くいなした。絶大な貫通力を誇る長大な槍の先端を、なんと細い右手の指一本でとめてしまったのだ。
 アスモデウスが側面より斬りかかる。漆黒の大剣で持ってして、妖女の脇腹から肩口までを一気に切り裂かんとする。
 妖女は、今度はただ待つだけではなかった。空いている左手に冷気が集中し、細く長いクリスタルの剣を作り出す。レヴィアサンはそれを逆手で掴み神速の剣撃を繰り出した。光よりも速いアスモデウスの斬り込みを凌駕する、悪魔の剣技。アスモデウスの左手が根元から吹き飛んだ。
「ゼラン陛下!」
 今度はアスタロトの番だった。槍を食い止めている指が変形し、無数の牙の生え揃った巨大な蛇の頭と化した。否、それは指先より放たれた冷気によって生を得た仮初の氷蛇であった。それがアスタロトの槍に喰らいつき、腕を飲み込みながらアスタロトの頭部に迫る。エレインは咄嗟の判断で氷蛇の噛撃を回避する。その代償として、エレインは右腕を根元から切断される形となった。
「これで借りは返したぞ、人間」
 妖女は薄い唇を吊り上げ、酷薄な笑みを貼り付けた。
「けっ。意外と執念深いな。ケチケチすんなよバケモノ。首の一本や二本くらい、気前よく渡しやがれ」
「ほざけ下郎」
 邪竜の咆哮が響き渡る。悪魔王の異能によって作り出された氷雪の嵐が妖女を中心に吹き荒れ、二体のレクシードを破壊していく。
 アスモデウスもアスタロトも、その暴威に身を任せるしかなかった。
「はははははは! 死ね、ムシケラども!」
 ディアボロスの君主、七大魔王レヴィアサンの戦闘能力は正に圧倒的であった。

「やっぱり、無理だ。あのレクシードじゃ、レヴィアサンには勝てない……!」
 モニターから戦いを見守っていたメイは、アスモデウスとアスタロトが持てる性能の半分も引き出せていない事を痛感した。魔王との敗戦から更に改良を加えたはずの超魔道兵器は、レヴィアサンの前ではまるで赤子のようなものだった。
(だったら、やるしかない)
「エリシアさん。後は頼みます」
 エリシアの返事を待たずに部屋を飛び出し、メイは急いで階段を駆け下りる。目指すは、師の残した魔道工房最深部。
 そう。
 メイは、あの禁断の魔道兵器、ソウルクラスターを使おうとしていた。
 リミッタ―を外す度に、周りの補助動力が駆動音をあげ始める。それは、棺桶のような魔道機械が喜悦の嬌声をあげているようだった。
「師匠……師匠の残したこのコ、使わせてもらいます」
 メイの心を、死の感覚が満たしていく。堪らなく怖い。
でも、とメイは自分に言い聞かせる。
「あたしは、間違わない」
目の前にあるのは、人の魂を喰らって破壊の力へと転化する魔道兵器。人の罪を喰らって動く、背徳魔道機械。
それに向かって、メイは話し掛ける。
「あたしは、人を幸せにする為にあなたを使う。あたしの師、錬金術匠ドーラヴの最後の子供。あなただって、背徳魔道科学の申し子だなんて、呼ばれたくなかったよね?」
 白煙を上げて、ポッドが開く。入るものの魂を虜囚とし際限なく苛みエネルギーを搾り出すソウルクラスターの貪欲な顎が。
 巨大なレバーを倒してから残虐な造形のその内部へ、メイは少しも恐れずに足を踏み入れる。扉は閉じない。何があっても逃げ出さないと決めたから。
「あたしの力をあげる。だけど、あたしがあげるのは恐怖なんかじゃない。あたしの心。ゼランさまを、みんなを助けたいという想い。罪じゃない、情熱よ!」
父はいつも言っていた。機械は、使う人の心を映す鏡だと。
師は教えてくれた。幸せを願えば、必ずそれは手に入ると。
 だったら。
映して、この想いを。
適えて、この願いを。
 冷酷な駆動音とともに、ソウルクラスターは魂の吸引を始める。
「あっ! あ、ああああああ!」
 全身に激痛が走る。肉体の隅々まで剃刀で切り刻まれ、肉をもぎ千切られ骨を砕かれる熾烈な痛み。それは肉体を越えて、精神までも犯すほどの痛み。死の痛みだった。
「ま、負ける、もんかあっ!」
 メイは、決して逃げ出さない。喘鳴をあげながら必死に堪えるメイの肩を、誰かが優しく叩いた。
「わたしも、いいかしら」
 エリシアだった。いつの間にかメイを追ってポッドの中に入ってきていたのだ。
既にエリシアにも過大な負荷がかかっている。エリシアは端正な顔を苦悶に歪ませながら、それでも、じっと我慢していた。
「ええ……っ!」
 魂をも凌辱する悪夢の激痛の最中、メイとエリシアはぎゅっと、手を握り合う。
 それだけで、痛みが半分になった気がした。
「がんばって……負けないで!」
 その想いを粉々に砕かんと、死の尖兵が音を立てて二人の魂にむしゃぶりつく。
 痛い。苦しい。死んでしまいそう!
 それでも、二人は決して逃げない。溢れる想いが、二人の魂そのものだから。
 絶対に、砕けはしない。
 絶対に、尽きはしない。
「行け……」
 メイは、残った気力を振り絞って叫ぶ。
 溢れんばかりの情熱を乗せて!
「行けええええええええっ!」
 
彼方より、巨大なエネルギーが接近してくる。小賢しいムシケラを己が手で完全に叩き潰し、悦に入っていた魔王レヴィアサンは、それを感知するとすぐさま向きを変えた。
これもまた、悪魔王たる自分に屈辱を味あわせた人間どもの下らぬ知恵の結晶。叩いてやらねば気が済まぬ。
「なんと進歩のない」
 レヴィアサンは歪んだ笑みを浮かべ、異能の力を眼前に集中させていく。無数の雹が重なり合い、一つの巨大な氷の鏡を作り上げた。
「てめ……まだ、勝負はついてねえだろ、が」
 地面に這いつくばっていたアスモデウスが、何とか立ち上がった。片腕を失い、凍てつき動く事すらままならないレクシードが、ゼランの気迫だけで動いていた。
「悪魔め……」
 アスタロトも、無残なまでに損壊したその身体を引き摺りながら、未だ魔王に食い掛からんとしていた。
「まだ動くか。もはや飽いた。死ね」
 魔力を結集しようとした妖女が、ふと動きを止める。その人形のような顔に邪悪な笑みを浮かべて。
「面白い余興を思いついた」
 レヴィアサンの念一つで、巨大な氷の鏡はぐにゃりと向きを変えた。
「あの魔道砲、我が力を持ってすれば消し去る事など造作もないが……ふふ。貴様らに向けてやろう。仲間の死の力で以って死を享受する。ふふ、人間に相応しい、なんと愚かしい末路なのだ!」
 不可視の魔道弾が氷の鏡に撃ち当たった。あらゆる物理法則を無効化しエネルギーの通り道を逸らせる魔王の氷鏡によって、ソウルクラスターの超魔法弾は向きを変え、地面へと曲進する。
 その先には、アスモデウスとアスタロトがいた。
 その性質そのままに、爆発も起こさず、全ての破壊力はレクシードに向けられる。
「ふふふ。実に愉快な余興……!」
 それ以上、レヴィアサンは言葉を続けられなかった。
 アスモデウスの巨大な黒剣が、その胸を深々と貫いていたのだ。
「な、何! 一体何が起きたと」
 更に衝撃が魔王を襲った。下腹部を貫く螺旋槍が背面から飛び出してきている。アスタロトであった。
「貴様達……一体!」
 咄嗟に氷の長剣を振り、アスモデウスに斬りかかるレヴィアサン。だが、それよりも速くアスモデウスの六本の巨大な翼剣がレヴィアサンを貫いた。
「こいつはいい。力が漲ってくる」
「同感です、陛下」
 螺旋を回転させながら、アスタロトは手槍を引き抜いた。風穴から大量の内容物を拭きこぼし、妖女が身悶えする。
「何故……何故だ! 下級悪魔の魂如きでこの我を傷付ける事など……!」
 そこで、レヴィアサンは見た。
 漆黒のレクシード、アスモデウス。
白銀のレクシード、アスタロト。
 今、それを動かしているのは、死せる悪魔の邪念ではなかった。
 ソウルクラスターから放たれたエネルギーを、レクシードは受け止めたのだ。
 茜色に輝く、眩いばかりの生の奔流。悪魔王にはついぞ理解できなかった、人間の魂の源。
 ゼランディアの。
メイの。
エレインの。
 エリシアの。
 人間の持つ、最大のエネルギー。
 情熱が悪魔の鎧を包み込み、動かしているのだ!
「馬鹿な……人の心如きが、悪魔の力を上回るなど……! 認めぬ! このレヴィアサンは認めぬぞ、貴様達劣った生物如きに我に抗う力があるなどと!」
 氷の長剣に持てる力の全てを注ぎ込み、魔王は巨大な氷の鎌を作り出す。もう、その貌は人形のそれではなかった。怒りを剥き出し悪鬼の表情で、激情のままに鎌を振りかざして悪魔王はレクシードに襲い掛かる。
「……なんだ、テメエも怒れるんじゃねえか」
 アスモデウスが、六枚の翼を背面で束ねる。全ての情熱を溜め込み、爆発的な踏み込みを行う為に。
「だけどよ。こと情熱にかんしちゃあ、悪魔如きに譲るわけにはいかんなあっ!」
 鎌をへし折り肉を引き裂き、アスモデウスの大剣がレヴィアサンを両断する。黒き旋風が駆け抜けた後、妖女の姿をした悪魔王の頭脳は真っ二つになっていた。
「がああああああ!」
 アスモデウスの背後で、悪魔王の断末魔が響き渡る。
「覚えときな、悪魔王。俺はゼラン。ベルクマータ皇帝ゼランディアだ!」
 巨大な青色の爆発が巻き起こった。この世界にありえないものが消滅する事によってもたらされる爆発は、悪魔王の亡骸だけでなく異界の門をも同時に消滅せしめるほどの威力であった。
「陛下!」
 全てのエネルギーを使い切ったアスモデウスを、アスタロトが支える。爆発よりも速く、その場を離れる。
「今なら、簡単にやれるぜ、エレイン」
 安全圏まで脱出したところで、ゼランがエレインに言った。
「馬鹿ですか、貴方は」
 エレインが静かに応える。
「いや、間違えました。馬鹿ですね、貴方は」
 そう言うエレインの声は、どこかエリシアの声と似ていた。

「やっぱりステキね、あなた」
 メイは、ソウルクラスターの冷たいポッドを撫でた。
 全身を泥のような疲労感が覆っている。でも、それは不快なものではない。
自分に出来る事は全てやった。無理をして、我侭な自分を納得させる事でしか得られない、最高の充実感が身体を覆っていた。
「ありがとう。あたしの想い、映してくれて」
 勿論、只の機械が何も語る筈はなかった。
 エリシアも意識を回復した。エリシアはふらふらと立ち上がると、突然自分の頬を思いっきり張った。
「陛下と兄さまが、帰ってきます。わたし達でお迎えしないといけません」
疲弊しきっている筈なのに、エリシアはそんな様子を少しも見せない。
「これから、もう一頑張りですわ」
「うん!」
 誰かの為に頑張れる。
 それは、彼女達にとって最高の幸せだった。

 ダークス消滅のニュースは、パレス内部を大いに沸かせた。
 盛大に祝祭が催され、城下は始めての賑わいを見せていた。
 皇帝ゼランも、ベルクマータ城のテラスから城下の賑わいを見やっていた。
「陛下」
 テラスに来たのはエレインだった。いつもの士官服ではなく、帝室のパーティで使用するスーツを着込んでいる。
「よお、エレイン。どうだ、一杯やるか」
「いえ、結構です」
 薦められた酒杯を断ると、エレインはゼランと並び城下を見下ろした。
「なんか、いいよな」
「そうですね」
 言葉は少ない。だが、共に死線をくぐった二人の男の間には、大して言葉など必要ないのだった。
「俺にも、お前の気持ちがようやくわかったような気がするよ」
 ゼランは城下を見やり、そう呟く。
「守らなければいけないものがある。いや、守りたいもんが、か」
「陛下」
 エレインは、ゼランの酒杯を受け取り、一気に喉に流し込んだ。
「それは、ステキな事です」
 一瞬の後、ゼランは思わず吹き出した。
「お前、誰かに似てきたか?」
「いえ。そんな事は」
 あくまで冷たく振舞うエレイン。その名を呼ぶ妹の声が、廊下から聞こえてきた。
「では陛下、また。わたし達も楽しんでまいりますので」
「言うねえ」
 すっと礼をし、それとわからないギリギリの急ぎ足でエレインはテラスを後にした。
 入れ替わりで、慌しく少女が入ってきた
「ゼランさま、ゼランさま!」
メイだ。今日の為にエリシアがドレスを見繕ってくれたのだが、なんだか気持ちが悪いので辞退して、普段の作業着のままである。しかも、顔は油まみれだった。
「はい、プレゼント! 子供達と一緒に工房で造ったんだ」
 そう言って、メイは鉄で出来た長方形の箱をゼランに手渡した。
「なんだあ? その妙ちくりんな機械は? お前、ジジィの工房だって無限に材料があるわけじゃないんだぜえ?」
ゼランが手にすると、箱が開いて中から小さな人形達が出てきた。そして、心地良い音楽が流れ始める。
それは、オルゴールだった。
どこかで見たような、ちぐはぐな五人組みの楽隊が優しい音楽を奏でるオルゴール。みんな、幸せそうな笑顔の表情で、のびのびと楽器を弾いている。
 見るものを少しだけ幸せにする。メイからのステキな贈り物。
ゼランと、そしてドーラヴへの贈り物であった。
「まったくよお。頼むぜ、うちの錬金術師サマよ。なんだこりゃ、間抜けなツラしやがって。どうせならもっとカッコ良くだな」
「えっへへへ〜」
 メイは、ぺろりと舌を出した。
 とは言うものの、ゼランはそのオルゴールがいたく気に入っていた。
(こんな風に、何気なく人が暮らせる世界。無理せずに、笑いあえる世界。へっ、面白え。これは当分、頑張らねえとな)
 心地良い音楽に浸りながら、一人、再び熱き覚悟を決め直す。
ふと疑問に浮かび、ゼランはメイに質問した。
「おいメイ。こいつはどうやって動いてんだ? ゼンマイか何かか?」
「へへ、それはねえ……」

 このオルゴールを動かす駆動機関。
それは、罪業駆動機関と全く同じ原理でありながら、悪魔を呼び寄せる背徳のシステムではない。
 人の、もっとも熱く輝く感情によりて未来へと進む機関。
 故に、ベルクマータの錬金術匠メイの作り出した機関は世界復興後にこう呼ばれる事になる。
情熱駆動機関、と。

 

 

 

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