聖天使ユミエルアナザーストーリー
影魔騎士団編
第一話 ルイン・オーバーチュア 後編

  夜も更けて公園には続々と仲間である犬猫たちが集まってきた。皆クロから美央が攫われたことを聞き、朝から必死で探し回ってくれた。
 しかし、戻ってきたものが一様に悄然とした様子だったということは、いずれも無駄足だったということか。
 クロ自身も何一つ手掛かりが掴めないまま気ばかり焦る。
「すまねぇ、クロの兄貴。こっちもダメだった。嬢の匂いすら見つけられねえ」
 ブラッドハウンドのゲンが申し訳なさそうに身を竦めながら帰ってきた。嗅覚に絶対の自信を持つゲンですら辿れないということは屋内にいる可能性が高い。
 だが、天宮家関連の建物は市内に無数に存在する。そのどれであるか畜生の身で知ることなど出来ようか。
 チビの死だけでも陰鬱な出来事なのに、よりにもよって己の眼前で天宮一族に美央が攫われてしまうのを阻止できなかったのは、クロにとって何とも許しがたく、もしもう一匹自分がいたならば即座に喉笛を食いちぎっているところだ。
「潮時、だったんじゃないの? なんだかんだいってあの娘は人間だもの。人間の元で暮らすのが一番だよ」
 シベリアンハスキーのメリーが諦めの言葉を呟く。十歳を超える彼女は仲間内でも最年長でクロも一目置く存在だった。
 なるべく彼女の意見は傾聴するようにしているが、今の言葉には承服しかねる。
「人間なぞ他人を踏みにじることしかできん生き物だ。そんな奴らの元で暮らすのが美央にとって幸せだというのか」
「だから言ってるじゃない。そもそもあの娘は人間だって。人間を否定することはあの娘を否定することだよ」
「美央は違うっ! 美央は俺たちともにあろうとしている。人間を捨てて獣として生きていこうとしている」
 そうでなければあのようにエクリプスへと堕ちてしまうものか。あの姿は美央が獣へと憧れを抱いていることの証左だ。
 彼女にそこまでさせたのは同じ人間だ。そして彼女を支えて続けたのは獣である自分だ。
 それこそがクロの誇りなのだ。
 同時に美央と共に過ごしたこの三年間が無意味なものだとは思いたくなかった。野良の獣として生きてきて、美央は一度足りとも不満を零さなかった。いつだってクロと一緒にいようと毎夜のように言ってくれた。
 だからあの娘は獣なのだ。人間だと認めてはいけない。
 だがメリーはそんなクロを鼻で笑う。
「ふん。そうして人間嫌いを気取ってるけど、あんただって人間の下で飼われてたんだろ。その人たちはひどい人だったのかい」
 その言葉にはクロも二の句を継げなくなった。鈴鳴家に貰われてからの二年間。最も幸せな時間にはいつも美央の両親がいた。
 美央と変わらぬ愛情を受け、家族の一員として扱われた。
 その事実を否定することは出来ない。クロの記憶の中には確かに善良な人間という存在が刻み付けられている。
「あたしもね、前は人間に飼われていたよ。シベリアンハスキーが流行ったときがあってさ、たいそう可愛がられたもんだ。でも時代が変わっていまじゃこの有様さ」
 自嘲するメリーの瞳に郷愁の色が浮かんだ。遥か遠くの場所、今は昔の時代を思い浮かべているのだろう。
「最初は恨んだりもしたけど、あの時あの人たちがくれた愛情は間違いなく本物だったって気づいたのさ。ただ変わってしまっただけ。時間は心までも連れて行くんだ」
 いかなる者でも年月には勝てない。メリーという老犬の歩んできた時間の重みを前にしては、クロの言葉などあまりに軽すぎた。
 自分がいくら理屈を捏ね回そうが揺らぎの無いものがメリーにはある。果たしてそれを覆すほどのものをこちらは持っているだろうか。
「諦めろというのか? そしてそれが美央のためだというのか?」
 もはや感情論に堕していることを知りながら、それでもクロは食い下がる。ここで引き下がれるほど自分は素直ではない。
 なによりそれでは美央に会えなくなる。その一点だけがクロの行動理由なのだから。
 しかし年経たメリーはクロの暗部を的確に見極め抉る。
「自分でも分かってるんじゃないのかい? あんたはあの娘欲しさに意図的にあの娘の世界を狭めようとしてるんだろ。傍を離れるのが怖いから、人間を憎ませて自分の――獣の側に置こうとしてるんだろ」
「違うっ! 俺は美央のためにそうしている」
 痛いところを突かれ、つい言葉尻に怒気が混じり攻撃的になった。その若さに呆れたといった風情でメリーは首を振る。
「何が違うってんだいっ!? あの娘のためというならあの娘の年でこんな生活をしていることを何とも思わないのかい!? あんたはあの娘のためと言いながら、その実自分のためにあの娘の未来を奪っているじゃないか!? いいよ、あたしら獣はさ。あたしはもちろん、あんたも十年もすりゃお陀仏だからね。だけどあの娘はこれから何十年も生きていくんだよ。あんた、このままの生活がいつまでも続くなんて本気で思ってるのかい!? ほらっ! 言ってごらんよっ!」
 まさしく正論だった。自身に対する欺瞞を暴かれクロは小さく呻く。見ない振りをすれば逃げ出せると思っていた現実。だがメリーによって残酷に提示されたそれは、自分が如何に愚かしく救い難いのかを雄弁に物語っていた。
「あたしは別にあんたが憎くて言ってるんじゃないよ。むしろ逆さ。あんたとあの娘に助けてもらわなけりゃあのまま飢え死にしてただろうからね。だからこそ、あの娘のことを本気で心配してんさ。あの娘の未来をあんたに付き合わせる義理はないからね」
 メリーの啖呵が胸に痛い。
 美央のためだと忠犬面して、その本性は獣のくせに人間を求める忌まわしい化け物だ。
 美央が欲しい。彼女の笑顔を、声を、温もりを、好意を。全てを自分のものにしたい。叶うならば女までもと願ってしまう己の醜さを自嘲する。
「メリー、いちいちお前の言うとおりだ。そんなことは最初から分かってるんだ。だけどな、お前の言うことは聞いてやれない。聞きたくても聞けやしないんだ」
 今更何を誤魔化すというのだ。この魂はとっくに腐り切り、望むは自身の欲望の成就のみ。
 美央を人にしてはならない。自分と同じ獣として永遠に野に生きるのだ。
 そのためならばこの力を使うことに何の躊躇いがあろうか。
「――あんたっ! 何だよ、それはっ!?」
 驚愕に震えるメリーの声で、クロは自身の影が蠢いているのを自覚した。どうやら既に影魔の力が抑えきれなくっているようだ。
 周りの獣達もクロの変化に恐々として、知らない生き物を見る目でクロを見ている。
 それも仕方ないだろう。何しろ目の前にいるのはあらゆる命を脅かす怪物なのだから。
「哀しいかな、メリー。俺は獣ですらない。自身の影に囚われた卑しき化け物なんだよ」
 ああ、そうだ。何が『自分と同じ獣』だろうか。自分も美央もそんな高尚なものなんかじゃない。
 この世に在ってはならない影の使徒、エクリプスだ。
 だからこそ共にいるのが相応しい。互いを求めるのにこれほど都合のいいことがあるだろうか。
 自分と美央は同じなのだ。人でも獣でもないエクリプス。こんなに嬉しいことはない。
 さあ、彼女を迎えに行こう。障害となるものは全て蹴散らし、壊し、殺して、引き裂け。
 影がクロを包み込み、巨大な魔犬――ガルムエクリプスが姿を現す。獣たちはその姿だけで威圧され、尻尾を丸めて縮こまる。
 怯える彼らに目もくれず、ガルムは公園を出ようと一歩踏み出した。だが勇敢にもクロの前にメリーが立ち塞がる。
 その目に映る自分の姿を名づけるとすれば――『狂犬』――この言葉が相応しい。
 悲しみに泣きながら、欲望の開放に薄ら笑いを浮かべる赤い巨犬。どうやら自分はとっくに狂っていたらしい。
「待ちなよっ! そんな姿でどこに行こうってのさ」
 恐怖で震える身体を叱咤して、彼女は自分を止めようとしている。恐らくは朧気ながらもガルムのしようとしていることを察したのだろう。
 その思いやりは嬉しいが、影魔と化した今となってはそれすらも鬱陶しいだけだ。残された理性が辛うじて会話を許した。
「......復讐さ。俺の飼い主と、美央の......いや、偽るのはやめよう。だいぶ先延ばしにしていた俺自身の復讐さ」
 それだけ言うと、前足でメリーを払い除ける。怪我をしないように手加減したつもりだったが、数メートルも地面を滑ってしまった。
(やれやれ、これでは奴らに手加減は出来そうもないな)
 自分が犠牲にしようとしている人間たちには同情するつもりは無かった。
 考えることは美央のこと。そしてそれは自身の下劣な欲望に直結している。
(美央、すぐに助け出してやるからな)
 業深き魔犬が今、夜に駆ける。
 
 
 またあの夢だ。
 三年前、全てが失われたあの日の夢。
 悪夢はいつも同じ場所から始まる。
 その日も美央は学校から帰るとすぐにクロと一緒にいつもの公園へと向かった。真っ白なブラウスに紺色の吊りスカート、上着の左胸には三年生の黄色い名札と、制服のままなのは着替える時間が惜しいからだ。
 右手にリード、左手にバケツを持って足取り軽く美央は行く。バケツの中には遊ぶためのボールや粗相を始末するためのスコップやビニール袋などが入っている。
 クロは先行することなくぴったりと美央の横に着いていた。
 二歳にもなればシェパードの力は十分に強く、もしクロが自分勝手に歩き出せば美央は簡単に引っ張られてしまうだろう。
 けれどクロが勝手な動きをしたことは今まで一度も無い。みだりにマーキングしたり、粗相をすることも無い。初対面の人間や牡犬相手に唸ったり吠えたり、噛み付いたり、そうしたことも全くしない。
 だからクロは躾がいいと良く褒められる。けれど美央はどうしてそれが褒められることなのか分からなかった。
 美央はクロに躾をしたという感覚は無い。ただして欲しいこと、して欲しくないことを言って聞かせただけだ。クロのほうからも、して欲しいことして欲しくないことを聞いてそれを互いに守っているだけのこと。
 別段クロでなくても他の犬でも美央にかかれば等しくいい子だ。どんなに躾の行き届いていない犬でもちゃんと話せば分かってくれる。もちろんこちらも相手の要望を聞いてあげることも忘れてはいけない。
 そんな風にして動物を手懐ける美央にいろんな人が聞いてきた。
 ――どうしてサインを出していなくても、そんなに詳しく犬の気持ちが分かるの?
「......だってこの子がそう言っているもん」
 ありのままに応えても誰もまともには取り合ってくれなかった。大人たちは表向きは美央を褒めてくれても、裏では色々と言われていることを知っていた。彼らに飼われている犬や猫たちが教えてくれるからだ。
 一度、そのことを口に出してこっぴどく怒られた。
 ――根も葉もないことで人のことを悪く言っちゃいけません。
 どうやら動物たちの証言は証拠にはならないらしい。そのことを覚えてからは迂闊に動物たちの言うことを話すことは無くなった。変わりに人間たちと話すことも苦手になったになった。
「なあ、美央。こうして俺と散歩してくれるのも嬉しいけど、たまには学校の友達と遊んだほうがいいんじゃないか」
 そんな美央を心配してクロが気を回す。まだ二歳、人間年齢に換算しても美央とそんなに変わらないくせに、最近妙に兄貴風を吹かせ始めた。
「やっぱり美央もそっちのほうが楽しいんじゃないか? 俺の散歩ならお母さんに連れてってもらうからさ」
「..................別に楽しくないもん。クロと一緒にいるほうがずっといいもん」
 動物たちは素直に何でも話してくれるのに、人間は嘘を着いたり隠したりで美央の頭を混乱させる。そんな調子だから友達付き合いも上手く出来ず、学校でも一人きりでいる。
 美央にとってクロと一緒に遊ぶ時が一日の中で一番好きな時間だ。
「学校、楽しくないのか?」
 美央はただ頷いて答える。
「......なんだかそれは寂しいな」
「? 美央にはクロがいるよ?」
「でも人間の友達とかも大事だろう。美央は人間なんだから」
「犬だってクロは友達で仲間で家族なのに......」
 そんなに人間同士で付き合わなければ駄目なのだろうか。
 だったらクロと同じくらい仲が良くて、クロと同じくらい大好きな人間がいる。
「アリスお姉ちゃんがいるもん......だめ?」
「アリスだけじゃだめだろ。友達は多いほうがいいんだ。犬の世界でも仲間は多いほうがいい」
「むー、美央よくわかんない」
 上からものを言われてちょっと不貞腐れてみる。両親やアリスに子供扱いされるのは気にならないのに、クロだとちょっと腹が立つ。
 鈴鳴家に来た頃はころころとした可愛い子犬で、美央に甘えてくる弟分だったはずなのに。
 公園に着くと先に来ていた犬たちが一斉に美央たちのほうへ駆け寄ってくる。
 最近はどこの公園もペットに厳しく、犬を遊ばせる場所は近場にはここしかない。だから近隣の住民たちが皆ここへ愛犬を連れ来て、ちょっとした犬の集会場のようになっていた。
「おー、美央だ。美央が来たぞ」
「いらっしゃい、美央ちゃん。今日は何して遊ぼうか」
「聞いてくれ、お嬢。ラッキーの奴に子供が三匹生まれたんだ。男の子が一匹、女の子が二匹だ」
「ねぇ、クロ。あんた最近また大きくなったんじゃない? もう子どもじゃないのかしら、ふふ」
「おいこら。俺の女に手を出してんじゃねえよ、シェパード野郎。つか、てめえこの前俺の縄張り荒らしただろう。くそ、いつでも勝負してやるぞ」
 学校には友達はいなくても、ここでなら美央は人気者だ。どの犬も尻尾を振って美央の来訪を喜び、中には嬉ションを漏らすものもいる。
 犬たちの間での美央は正にアイドルとでもいうべき人気ぶりだ。
 美央に群がる犬達に本来ならクロが離れさせようと邪魔するのだが、そのクロも牝犬達に囲まれて動くに動けないでいる。
 その様を遠巻きにして見る飼い主たちの声が美央の耳に入ってくる。
「うちの子、またあの子の所へ行ったわ。勝手に行かないように徹底的に躾けたのに」
「あんなに犬が懐くなんて普通じゃないわ。気持ち悪い」
「あの子が犬としゃべっているのを見たの。わたしたちがするような簡単なものじゃなくて、人間同士でするみたいに細かなやりとりなのよ。わたしの家のことまであの子知ってるって分かったときは気味が悪くて仕方なかったわ」
 美央が犬たちと戯れるのをいい顔をしないどころか、嫌悪や忌避するような飼い主たち。飼い犬達の興味や愛情が美央に行くことを好ましく思っていないのは明らかだった。
 ――やっぱりあの子は悪魔の子なのよ。
 いつだったか飼い主の一人がそう言った。
 その頃から美央の来る時間に散歩させる人が極端に減った。今来ている人たちの中にも美央が来ると飼い犬を引っ張りながら帰ってしまう人がいる。
 美央の周りにいるのは動物たちで人間は避けていく。
 だったらどうして無理やり人間のほうへ歩み寄らなければならないのだろうか。自分を好きでいてくれるのは動物たちだ。そして美央も動物たちのほうが気心が知れている。
 時々ふと思う。どうして自分は人間に生まれてきたんだろうと。
 もしも生まれ変われるのなら動物になりたい。例えば気ままに生きる、気高くも愛らしい猫などいいだろう。
「美央? 急に黙り込んでどうしたんだ?」
「ん......なんでもない」
「そうか、なんでもないのか。ならそろそろみんなと遊ぼう。いつもみたいに楽しくな」
 美央に聞こえた飼い主たちの会話が、人間より聴覚に優れたクロや他の犬達に聞こえていないわけが無い。
 それでも美央を楽しませようと聞こえない振りをして遊びに誘ってくれる。
 そんな彼らの心遣いが嬉しくて。その度に美央の心は獣へと揺れ動いていく。
「............とってこーい」
 大きく振りかぶって投げたボールは思い切り地面に叩きつけられた。

「ふふ、相変わらずのノーコンだな。結局まともに飛んだのは一回だけ。それも足を縺れさせた失敗のやつときたもんだ」
「むー............クロ嫌い。つーん」
 帰り道、クロにノーコンっぷりを散々に笑われて美央は脹れっ面でそっぽを向く。ボールがまともに飛ばなかったのは事実で、しかも途中からは犬達にぶつけてしまう有様だった。なので、途中から美央のボールを避ける遊びに変わってしまった。しかも美央の狙った相手ではなく、無関係の方向にいる犬達が、である。
 それがまた、旗から見ると犬にボールをぶつけて遊んでいるとしか見えないので、飼い主たちが更に眉を顰める結果になった。
「全く人間どもは愚かだな。俺たちが面白がっているのに気づけないくせに、犬を虐めるんじゃありませんだとさ。美央が俺たちを虐めるはずがないだろう、なあ」
「......ちゃんと飛ばない......なんで?」
「人の話はちゃんと聞け」
 右手をじっと見つめて美央は悩む。運動神経は自分では悪くないつもりだ。足は男女問わず学年で一番速いし、跳び箱や鉄棒、縄跳びだって殆ど完璧にこなせる。
 お稽古のクラシックバレエも上達が速いと褒められる。その分ピアノのほうは全く上手くならず、いつまでたってもバイエルが終わらないのだが。
 それは置いとくとしても、球技、特に投擲のコントロールがてんでだめなのだ。
「まあ、なんだ。それも個性だと思えば」
「............やっぱりクロ嫌い」
 そんなやり取りをしながら辿り着いた我が家が見えてきた時、突然クロが牙を剥いて唸り始めた。
 見れば家の前に何台もの黒ベンツが止まっており、物々しい雰囲気に満ちている。
「何か分からんが危険だ。引き返したほうがいい」
 クロの言葉に頷いて美央は自宅から離れようとした。
 だが、それを阻むかのように一台のリムジンが二人の背後で止まった。
 降りてきたのは美央の良く知る二人だった。
 一人は美央の父である鈴鳴泰治。もとより線の細い学者のような優男だったが、今は憔悴仕切った様子で今にもその場に崩れ落ちそうだった。
 落ち窪んだ眼でしきりに何事かを呟き、いつもの優しい笑みではなく侮蔑と憎悪の混じった敵意ある視線で美央を見ている。
 そしてもう一人は天宮財閥総帥の天宮将悟。イギリス人とのハーフだからだろうか日本人離れした恰幅のよさで、鋭角に尖った顎とぎらついた眼が猛禽を思わせる。泰治とは対照的に満面の笑みを浮かべているが、やはり美央を見る眼に暖かさは無く、むしろ忌々しさが滲み出ていた。
「やあ、美央ちゃん。クロの散歩の帰りかな」
 眼を細めて相好を崩し、深く張りのあるバリトンで親しげに話しかけてくる。そのままバスケットボールでも掴めそうな大きな手が美央の頭に乗せられ、くせっ毛を直すかのように優しく撫でられた。
 しかしその眼はやはり笑っておらず、今にも美央の頭を握りつぶさんとしているようにも感じられた。
 不機嫌でありながら間違いなく上機嫌。内に潜む卑劣な獣性を押し隠す気品と風格。海千山千の男ならではの複雑さを幼い美央が解することは不可能だった。
 優しいおじさんとして接すればいいのか、怖いおじさんとしてみればいいのか分からず、戸惑いで美央の身体が震え始める。
 クロは今にも飛び掛らんと身構えるが、泰治が美央の手からリードを取り上げるとしぶしぶ彼の足元に伏した。
「ちょうどよかった。これから美央ちゃんの将来に関わる大切なお話があるからね。さっき車の中でもお父さんとその話をしていたんだ。さ、早く家に入ろう」
 実の父親のように美央の肩を抱いて、将悟は鈴鳴邸へと足を踏み入れた。そこには一切の遠慮がない。何度も家族ぐるみで訪れている場所とはいえ、自分の家であるかのような気安さでドアを開けて靴を脱ぐ姿に強烈な違和感を覚えた。
 家の中は見知らぬ男たちでいっぱいだった。明らかに堅気ではない彼らが何者であるのか、この時の美央はわからなかったが、その後ヤクザと呼ばれる人種であることを知った。それもいわゆる経済ヤクザと呼ばれる人種である。
 彼らの恐ろしさは暴力性もさることながら、上場企業をも凌駕する経済力と、巧妙に表社会に溶け込み日本社会の一部としてしっかり食い込んでいる日常性にある。彼岸の存在ではなく、誰もが係わりを持ってしまう可能性のある闇。金のあるところには確実に彼らは存在する。
 そうした禿鷹達に鈴鳴邸は占拠されてしまったのだ。
 しかし、将悟にはそんな彼らを恐れる様子は微塵も無い。いかに幼い美央でも将悟が彼らと何らかの繋がりがあることは理解できた。
 男達の嘲るような視線に曝されながら、将悟とともにリビングへと入った。
 そこでは母の麻衣子が数人のヤクザに囲まれて蹲るようにソファーに座っていた。
「やあ、伊丹君。だいぶ待たせてしまったね。ほら、この子が娘の美央ちゃんだ。社長の泰治君はまだ表だね。ああ、麻衣子さん。お久しぶり、元気そうだね」
 将悟はまず、母の向かいに腰を下ろしていたヤクザに声をかけた後、麻衣子の肩に手を置いて顔を覗き込むように挨拶をした。
 だが母は胡乱な瞳で将悟を一瞥したきりそのまま興味を失い、外界の全てを遮断するように膝の間に顔を埋めてしまった。
「......この人たち、誰?」
 母の様子がおかしいことに気づきながらも、美央は知らない大人たちがいる不安から麻衣子にしがみ付いた。
「......んでよ......」
 呻くような声が漏れ聞こえた。
「......おかーさん?」
「なんであんたなんか生まれたのよっ!」
 ヒステリックな叫びと共に、麻衣子がものすごい力で美央を突き飛ばした。美央の身体はソファーの前に置いてあったガラステーブルへと突っ込み、凄まじい音が家中に響いた。
 灰皿の灰が舞い、ガラス片が飛び散った。
「......おかーさん......どうして......」
 頭がじんじんと熱く、血が出ているのが分かった。おそらく今の衝撃で出血したのだろう。
 だがいきなり母に突き飛ばされた驚きのほうが強く、痛みなどほとんど感じない。
「あーあー。ひでえなぁ、おい。会社潰れて家が破産だからって餓鬼に当たるなよ。そりゃ、欲しくも無いもん産まされたのが嫌なのは分かるけどよ。ほれ、大丈夫かい? いらない子のお嬢ちゃん」
 明らかにこの状況を楽しみながら伊丹と呼ばれたヤクザが美央を抱え挙げた。知らない男に身体を触られるのは嫌だったが、今はそれよりも母の言葉が気になった。
「お、おかーさん......美央がいらない子って......嘘だよね......」
 何かの間違いだと言って欲しい。そんな娘の縋るような言葉を、母は完膚なきまでに拒絶した。
「いらない子よ! 欲しくなかったし、産みたくも無かったわよ! あんたさえいなければこんなことにならなかったのに」
「やめないか、麻衣子。子どもに当たってどうする」
 物音を聞いて慌てて入ってきた泰治が、麻衣子を止める。しかし、発狂した彼女は感情の爆発に任せてとてつもない事実を暴露した。
「何よ、今一番この子殴りたいの、あなたじゃないの? だって美央はあなたの子じゃないんだから」
「っ!」
 突然の受け入れ難い告白に美央は言葉を失う。
 自分が父の、泰治の子どもではない。互いを想いあう両親の愛の結晶として生まれたと信じていた幼心を踏みにじる衝撃だった。
 両親の愛を受ける資格の無い、いらない子、生まれてきてはいけない子。
 まだ幼い美央にとって自分が不義の子であることは、自身の存在価値を否定するのに十分な理由だった。
「......う、そ......おとーさん......美央、美央は......」
 救いの言葉が欲しかった。母の戯言だと否定して欲しかった。だが父は無言で目を逸らしてしまう。
 それは百の言葉よりも雄弁な肯定。更に止めとばかり伊丹が決定的な事実を告げる。
「嘘じゃねーよ。お嬢ちゃん、血液型ABだろう? でもパパの血液型はO型なんだぜ。知ってるか? 片方の親の血液型がOだったら、絶対にABの子どもは生まれない。じゃあ、お嬢ちゃんは誰の子どもなんだろうねぇ。パパの子どもじゃないってことだけは確かだねぇ」
「やだぁっ! やだやだやぁだぁっ! 違うもんっ! 違うもんっ! 美央、おとーさんの子だもんっ! おとーさんは美央のおとーさんだもんっ!」
 パニック状態になった美央はひたすら泣き喚き、伊丹は面倒くさそうにしながらもしっかりとその身体を捕まえていた。
 泰治は世界全てに詫びるような沈痛な面持ちでうつむき、逆に麻衣子は自分は被害者で他は全部加害者だと言わんばかりに苛立っていた。
 そんな中で将悟は笑みを崩さず、むしろ喜色を満面に浮かべている。
「おや、もうこんな時間だ。本当なら立ち会いたいところなんだが娘と食事の約束があってね。そろそろ迎えに行かなくては。それじゃ処分は任せたよ、伊丹君」
「処分......だと?」
 不穏な言葉を聴きつけて泰治が顔を上げた。
「君たち三人の命で、何百という社員とその家族が救われる。君の会社の負債を全部肩代わりして、その上残された者達の面倒まで見る。慈悲深いにも程があるね、自分でも甘すぎると思っているよ」
 わざとらしく肩まで竦めて将悟は部屋を後にした。
「そういうわけで、早速お仕事に取り掛かろうか。天宮さんが警察に根回ししてくれてね、一家心中という筋書きだから」
 泣き疲れ、途切れ途切れにしゃくりあげる美央を床に下ろし、伊丹は部下に合図する。荒縄をもった屈強な男たちが鈴鳴家の面々に迫る。
「......おかーさぁん......」
 具体的にどうなるかは分からなかったが、自分に危機が迫る恐怖から美央は麻衣子に縋りついた。
 あれだけ拒絶されたとしても、本能的に子は母の庇護を求めてしまうのだった。
 虚ろな眼に美央の姿が映り、そっと首元に母の両手が置かれる。
 このとき美央は無邪気に母の抱擁を期待した。たとえ不義の子であっても、たとえ望まれぬ子であっても、最後の最後で母は母でいてくれると信じたのだ。
 だがしかし、人間の現実は少女の幻想を残酷に打ち砕いた。
 いきなり母の面相が鬼女と化し、娘の細首を凄まじい力で締め上げた。
「お前のせいよっ! お前が生まれなければ何もかも失わずに済んだのよっ! 死ねっ! 死ねっ! どうせ殺されるんなら、あたしが今すぐ殺してやるわっ!」
「......っおか......さん、やめっ......くるし......」
 気道を圧迫されて息ができず、母の腕に爪を立ててもがき苦しむ美央。だが、麻衣子の力は緩むどころか娘の抵抗する姿にすら怒りを覚え、ますます力を強めていく。
 突然のことに伊丹たちも唖然として棒立ちになったままだ。
「ずっと目障りだったのよっ! ろくに笑いもしゃべりもしないっ! イヌコロとばかり遊んでて暗くって近所の目が恥ずかしいしっ! だいたいお前のせいで碌にエステや旅行にもいけなかったのよっ! 優雅なイタリアンのランチも、終末のライブも全部なくなった! 返しなさいよっ! あたしの時間っ! 充実したあたしらしい時間をっ! その命で償えっ!」
 自分勝手な台詞を叫びながら体重をかけ首を押しつぶすようにして締め上げる。頚骨に負荷がかかって軋むのが自分でも分かった。
 既に美央は白目を剥いて舌を突き出し、泡を噴いて失神する寸前だった。
 呆気に取られていた泰治が我に返り慌てて止めに入る。
「麻衣子っ! 離せっ! 美央からその手を離さないかっ!」
「うるさいっ! 今更偽善者ぶるんじゃないよ、寝取られ男がっ! あんたが下手な投資するからあたしの人生設計がめちゃくちゃになったんじゃないか。いらないんだよ、こんな餓鬼っ! 今すぐあの世へ行けっ!」
 眼を血走らせ、身体の動きだけで夫を突き飛ばす。霞む視界の中でよろけた父の首に伊丹がロープを巻きつけるのが見えた。
 死。殺される。父も、母も、そして自分も。
 嫌だ。死にたくない。嫌だ嫌だいやだいやだイヤダイヤダ――――。
「――――ぃゃあああああっ!」
 叫びと共に跳ね起きた美央は、そこで悪夢が終わったことを知る。
 そして自分がいるのは鈴鳴邸のリビングではなく、シルクのカーテンの下りた天蓋付きの豪奢なベッドだと気づく。
 息は荒く、身体は寝汗でぐっしょりと濡れて、淡い水色の生地が透けるほど水分を吸ったネグリジェが身体に張り付いて気持ちが悪い。
「......むー。べとべとしてて、や......だ???」
 おかしい。自分はチビの仇を討つためにサソリの化け物と戦っていたはずだ。まさかの反撃を受けて肩を刺されたがその後の記憶が定かではない。
 肩が出ているのを幸いに右肩を見れば、いつの間にかしっかりと包帯が巻かれ手当てされていた。
 試しに動かしてみると、痛みはほとんど無く筋の突っ張りなども感じられない。記憶の中では二度と肩が使えなくなるかと思うほどの大怪我だったと想うのだが。
 そういえばあのサソリの化け物はどこへいったのだろうか。まさか彼が手当てをしてくれたとは到底思えない。
 それにここはどこなのだろうか。自分がここにいることが悪意なのか善意なのか、それが分からないことには久しぶりの柔らかなベッドも落ち着けない。
 ひたすら美央が訝っているとドアの開く音がして誰かが部屋の中に入ってきた。
 恐らく美央をここに連れてきた人物か、少なくともその関係者だろう。果たして敵なのか味方なのか。近づいてくる足音に美央が緊張で身を強張らせていると、カーテンに背の高い影が映り、一呼吸置いた後、勢い良く開かれた。
「おはよう、美央。よく眠れたかな?」
「――――っ! なんで......なんでクロウお兄ちゃんが......」
 アリスと同じように兄と慕った天宮クロウがそこにいた。アメリカにいた期間が長かったこともあってアリスほどには一緒にいた記憶は無いが、それでも慈愛に満ちた、包み込むような眼差しはよく憶えている。
 良くおんぶや抱っこ、肩車などをしてもらい、時には膝の上で眠りこけてしまうこともあった。
 だがそれもあの日までのこと。
 どんなに美しい思い出があろうと天宮家の人間であることには変わりない。両親の会社を潰し、その絆を引き裂き、そして二人の命を奪った。拾った週刊誌に載っていた『鈴鳴物産乗っ取り』の全貌という記事よれば、全ての図面を引き、指揮を取ったのは眼前の天宮クロウだという。
 先ほどの夢で感じた理不尽さへの怒りがふつふつと湧いてくる。
 躊躇うことなく美央はバーストエクリプスへと変身してクロウへと飛び掛った。
「シィイイッ!」
 だが、電光石火の一撃であったのにもかかわらず、クロウは僅かな身体の動きだけでいとも容易く躱してしまった。必殺の一撃はカーテンを引き裂いただけに終わる。
「くぅっ、それならっ!」
 ベッドの外に躍り出たバーストは、今度は下から刈り取るような攻撃を見せる。
 万物を切り裂く必殺の五本の爪はベッドの足を見事に切断したが、クロウの軽やかなステップの前に掠りもしなかった。
「これならどうっ!」
 上下前後左右斜め。飛び上がり、回り込み、駆け回って、突いて、引き裂く。当たれば確実に仕留められる攻撃であることは、躱されるたびに破壊される家具や調度が雄弁に物語る。
 しかし一撃たりとも掠ることすら叶わぬのでは意味が無い。
(......美央の攻撃、全然当たらない?)
 パワーやタフネスはともかく、敏捷性に関しては絶対の自信がある。少なくとも人間相手に遅れを取るはずがない。
 ないのだが、現実にはエクリプスであるバーストを、人間であるはずのクロウが完全に見切っていた。
「......だったら」
 今度はわざと一撃を空振る。バーストの真価である空間切断能力が、次元の裂け目を生み出した。すかさずその中に飛び込むと、無の空間の中を泳ぎ、クロウのすぐ正面に躍り出た。
 息がかかるほどすぐ近くにクロウの顔がある。年頃の少女ならばその美貌を前にして呆けてしまうかもしれないが、生憎と美央には縁遠い感情だ。何より憎い相手の顔となれば殺意以外ものなどあるはずがない。
 虚を突かれたのかクロウが眼を見開くが、既に遅い。バーストの右手の爪が細く滑らかな喉に目掛けて伸びる。
 クロウの背中に黒い翼が広がった。
 同時に無数の触手がバーストのスピードを超えて影から伸びて絡みつく。
「――っあ!」
 慌てて空中で体勢を変化させ、少しでも右腕をクロウへと突き出す。しかし、触手に巻き付かれ頬を掠ることしかできなかった。それでもさすがの切れ味で傷は皮膚を破り、白い肌に相対的に鮮やかな真紅の血が流れる。
 だが、バーストにとってはその成果を喜ぶ余裕などなかった。
「真壁君が丹念に解毒し千切れた筋繊維や神経を繋いだおかげとはいえ、たった二日寝ただけでここまで動けるとは......素晴らしい回復力だ」
「......エクリプス......クロウお兄ちゃんが......」
 天宮クロウがエクリプスだとは予想だにしなかった。なるほど、それならばバーストの攻撃を躱し続けたのも頷ける。
 だとすれば今のこの状況は非常に危険だ。全身に巻き付いた触手が力を込めれば全身の骨を折ることなど容易いだろう。バーストのパワーでは力ずくで戒めを解くことなどできない。
 自慢の爪も手首を拘束されてしまっては無力と化してしまう。
 まただ。またしても自分の力に頼りきって相手の仕掛けを視野に入れていなかった。バーストエクリプスの能力がどれだけ優れていても、どれだけその使い方を熟知していても肝心の相手が見えていなければ勝負にならない。
 歯噛みする思いでバーストは己の未熟さを呪う。
 石膏のようなクロウの左手がバーストの頬に触れ、その後の苦痛を予想して身を竦ませる。しかし触手やその他の危害は加えられず、青く深い瞳がバーストを映す。
「世の中には三種類の人間がいる。私の利益となる者、障害となる者、無価値な者。利益となる者は愛し、障害となる者は排し、そして無価値な者は支配する。おめでとう、美央。お前は私の利益となる者だ」
 そう言うと、クロウは右手の親指に頬の血を付けると、バーストの小さな桜色の唇に塗り始めた。
「んむうっ! んんーっ、むーっ」
 憎き相手に唇を触られる不快さに首を振って逃れようとするも、左手一つで押さえ込まれ真っ赤な血のルージュが施された。
「くくく、三年会わないうちに随分と可愛く成長したな。少し背伸びさせて口紅をつけてみたが、なかなか似合うじゃないか」
 両親の仇の血のルージュなど気持ち悪くて仕方がなく、褒められても何一ついい気分にならない。
 とにかく舌で舐め取ってしまおうと僅かに口を開けた瞬間、クロウの唇がバーストに重ねられた。
「――っぅんんん!」
 一瞬何が起こったのか分からなかった。粘っこい血の臭気と唇に触れる柔らかな温もり。まだ初心で幼く恋愛方面に全く関心の無い美央でも、ファーストキスに関しては神聖で清らかなものであると年頃の少女らしい憧れを抱いていた。
 それを両親の仇である男に強引に奪われた。そのショックでバーストの思考が停止している隙に、クロウは歯列の間に巧みに舌を滑り込ませてくる。
(やぁ......お兄ちゃんの......入ってきて......気持ち悪い......)
 拘束された黒猫は唯一自由になる尻尾を激しく揺らして嫌悪感を露わにする。
 熱く弾力に溢れた圧倒的な存在感。他人の舌が自分の口の中で無遠慮に動き回る。舌だけでなく吐息と唾液も一緒に流れ込み、その熱さにくらくらとした。
 何とか侵入を阻もうとこちらも舌で反撃しようとしたが、逆にクロウに絡め取られて舐り上げられる。
「んむー、ふむっ、んー、んんーっ......んんっ、んみゅ......にゅ......ふぅ、っふー! ......くむ、んむぅ......んみゃぅ、ちゅ......」
 舌の裏をなぞり、巻き取るようにサイドからまき付き、更には激しく擦り合わせる。子どもの耳にも卑猥なぴちゃぴちゃと淫靡な水音が漏れ聞こえた。
 キスという形の口内陵辱。クロウの舌によって少女の小さな舌は激しく嬲られ、押しつぶされ、擦り上げられ、犯される。
「......ゃん、ちゅ......ちゅぷ、んにゅ......ふみゅ、んんっ......」
 抵抗しようとちろちろと舌を動かせば、すぐさま力と技で屈服させられた。時には上顎に押し付けられて身動きをとらせてもらえず、また時には無理やり上下左右にめちゃくちゃに動かされ、そのたびに胸中に生まれるのは敗北感となぜかのぼせる様な感覚。
「んぅっ......ん、ちゅ......ちゅむ、んく......くぅんんっーっ! んんっ! ひゅっ、にゅぅうううっ!」
 そしてアクセントに舌を吸われると、脳内で淡い色の火花が散り、全身の神経がぴんと強く外に引っ張られる。軽く連続で舌先を吸われたり、唾液ごと根元から一気に強く吸引されたりと玩弄されっぱなしの舌は甘い痺れが走り、既に己の意志では動かなくなっていた。
 ならば舌を噛み切ってやろうとするも、唇同士で優しく甘噛みするように揉まれると力が抜け、頭がぼうっとしてくる。
(はみゅぅ、美央のおくち、ましゅまろみたい......ふにゅふにゅってやわらかくて......おにいちゃんのはぷにゅってしてて、ぐみみたいで......くせになっちゃう)
 自分の唇の意外な感触を知り、少女影魔はうっとりした表情を見せ始めていた。頬は上気し心臓が痛いくらいに張り詰める。大きなネコミミは反り返り、尻尾もカールを描いて明確に快楽を感じていることを知らせていた。
「ふみゅぅ、ちゅぷ......んじゅ、んく......にゅぅううんっ、にゅぅ......ちゅぶ、んう......」
 既に思考は定まらず、気が付けばクロウの舌に甘えたくて仕方がなかった。もっと我侭に激しく口の中を虐めて欲しい。舌が壊れて話せなくなるほどぐちゃぐちゃに嬲って欲しい。
(へ、へんだよぉ......美央、おにいちゃんにおくちいじめられて......いやなのに、やめてほしくないよぉ)
 理性は両親の敵として拒絶しているのに、唇に感じる温もりに抗えない。すでにバーストの口唇は性器や乳房を越える性感帯として目覚め始めていた。
 クロウのキスは舌以外をも責め始める。歯の裏をなぞりながら歯茎を刺激し、流し込んだ唾液をバーストのものと攪拌する。他人の唾液なのになぜか甘く感じられ、思わず飲み込んでしまう魔猫の少女。
(ふにゃ、ぁあ......のんじゃった......美央、おにいちゃんのつば、ごっくんしちゃった)
 バーストがしっかりと嚥下したことにクロウは満足げな表情で、ご褒美のつもりなのか優しく頭を撫でる。
 本来なら触れられるなどもってのほかなのに、今は嬉しくさえ思い自分からクロウの唇を求め始めた。唇同士が押されて潰れ、その弾力で何度も形を変える。
 クロウもまたバーストに答えて、まだ拙い動きの少女の舌を翻弄し始める。
「はぁ、んふぅ......じゅる、んく......ぷぁ、きゅぅ......んみぃ、みゅうぅ......」
 それはまさに舌という名の赤い軟体動物同士の交尾。そこだけ別の生き物と化し、舌が舌を押し倒し、抱きかかえ、愛撫し、蹂躙し、そして繋がる。
(きもちいい......キス、きもちよくていいよぉ......美央、キスすきぃ......されるのもするのも......みお、キスであたまこわれちゃうよぉ)
 いつか二人の舌が唾液で蕩けて一体化するのではないか思うほどに激しく互いに絡み合い、擦り合わせ、その営みは二人分の口の中さえ狭すぎた。
 二人の唇から二人分の唾液が次々と滴り落ちて、それ気づいたバーストは一滴も逃すまいと強くすすり上げる。
「じゅる、ちゅ......ちゅる、んぷぅ......みゅぅ、んん......じゅぷ、んむ......」
 クロウは更に左手でバーストの項と喉を摩り、右手で頭を撫でながら耳にも指を這わす。
 背骨の中がぶるぶると震え、風を纏った電流が脳天から尻尾の先まで何往復も駆け巡った。
「んみゅぅうううっ! んく、きゅぅうんんんっ! ぴみゃっ、ひゃうう......きゅみゅぅうううっ!」
 耐えられない。耐えたくも無い。ひたすら甘い快楽を貪り、クロウの前に舌を差し出す。今口の中を蹂躙されることは、脳の中を嘗め回されているも同じ。とまることなく溢れる唾液と白い悦楽の並に溺れてしまいそうだ。
(はみゃあああっ、とみゅぅっ! とんみゃうぅう......キス、よすぎれ、美央のあらまとりょとりょになっひゃうよぉおおおっ!)
「ぷひゃあああっ――っはみゅんむぅううう! んんくっ、くむぅうううんんんっ! ふみゅ、じゅる、んく、くにゅ、んにゅ――――みゅぅんんんんんっ!」
 遂に意識がミルクの海に叩き落された。まるで脳と胸で生じたスパークを行き渡らせるかのように全身を痙攣させ、バーストは自身二度目の絶頂を迎えた。
 クロウが唇を離すとバーストの小さな舌も引きずり出され、二人の間に何本もの唾液の橋がかかる。
 クロウは口元を拭うと息を整えながらバーストの顎に指を這わせた。
「美央、お前には煌翼天使対策の切り札となってもらう。我ら騎士団の最大の障害を排除するために、その力を存分に振るえ」
 仇の命令をバーストは拒絶しなかった。しかし、頷きもしない。
 ぼやけた視界の中で先ほどまでバーストを可愛がったクロウの唇が動いていた。憎き相手に唇の純潔を奪われ、その責めに敗北し屈服した。それでも辛うじて僅かに残った理性がクロウの言葉を、意味を解する前に聞き流すようにしていた。
 もし今服従を誓えと言われたら、一も二も無く従ってしまいそうで、小さな燻りとなってしまった復讐心が最後の抵抗を試みたのだ。
 とにかく今は意識を落とそう。そうすればクロウの僕となる最悪の選択は避けられる。
 どこか冷めているもう一人の自分がしたような気がすると、スイッチの切れたテレビのようにぶつりと意識が途切れた。
 
 
 イデア論という考え方がある。
 たとえば我々が三角形を描くとしよう。どれほど正確に描いたとしても、その三角形の角度や辺には歪みが生じ完全な三角形とはならない。
 ではなぜ我々はそれを三角形と呼べるのか。言い換えるならば、なぜ我々はこの世に存在しない全く歪みのない三角形を想起することができるのか。
 古代ギリシアの哲学者プラトンは唱える。
 真に完全な三角形が存在する世界があり、我々はその影を見ている。だから完全な三角形を想起できるのだと。
 その世界をイデア界といい、この世のあらゆる事物はイデア界の影である。そして善のイデア、美のイデア、徳のイデアの三つのイデアこそ尊ぶべき最高のイデアである。
 ならばそのイデアの世界には悪のイデアは存在するのだろうか。一変の清らかさも無い完全なる邪悪。人が悪を為しえるのはそのイデアに感化されているのだ、と唱えることは可能だろうか。
 いや、恐らくそれはできないであろう。イデア論の根底にあるのは善悪の二元論だ。善と悪は対立する事項であり、善で無いものは悪である。善が完全なものとするならば、悪とは欠落であり、完全な悪というものはありないからだ。
 では完全なる欠落は完全なる悪といえるのか。
 イデアが善であり光であるならば、その対となる悪と闇が存在していても良いのではないか。
 天国があれば地獄があるように、天使がいれば悪魔がいるように。
 時空の狭間に深き闇に包まれたもう一つの御座市があった。それは影魔騎士団の拠点たるゴモラエクリプス。澱み、穢れ、腐敗した影魔の都。
 その町並みは御座市に酷似していたが三つの点で大きく異なっていた。
 一つは建物の外観である。シルエットこそ御座市と同じだが、窓は割れ、屋根は朽ち果て、壁には不気味な染みが建物を食らうかのように蠢く。
 二つ目は街路に人の姿はなく、異形の怪物――エクリプスが徘徊していること。腐臭が蔓延する中、欲望の影達が御座市から攫ってきたのであろう女を犯し、あるいは殺し、更に暇なものはどちらがより優れているかその身を省みることなく競い合う。
 三つ目は市内中央――MIKURAビルの所在地に巨大な城がそびえ立っている事である。
 本来のMIKURAビルを遥かに凌いで聳え立つ黒き巨城。高さにして三倍、敷地の広さはビジネス街全てを覆いつくしてなお広がりを見せている。
 もはや山とでも言うべきその威容は近くで見るといっそう呪わしいものとなる。
 まず門扉は同心円状に鋭い牙が幾重にも連なる奇怪な生物の顎を模し、その口の収縮によって開閉を行っている。
 漆黒の城壁には人間を始めとしたありとあらゆる生物が闇によって塗り固められ、何とか逃れようともがき苦しむために不規則な脈動を繰り返す。
 十の巨大な尖塔は無数の細い尖塔が螺旋状に絡み合って出来ており、まるで生き物のように互いを締め上げながらぎちぎちと嫌な軋みを響かせてる。しかも絡み合う尖塔同士の間に何か挟まっているのか、肉や骨が潰れる音とうめき声、そして血と肉が搾り出されていた。
 廊下や回廊の床は無数の骨が敷き詰められ、それを筋繊維が固定し、絨毯代わりに透けるほどに引き伸ばされた人皮で覆っていた。
 狂気という言葉すら陳腐に思える異常な空間。
 背徳の極みのようなこの魔城を稲生皐月は一人、逃げるようにしながら奥へと向かっていた。
 年は十代の中ほどで、この場に似つかわしくない柔和な雰囲気を持っている。目元は深く垂れ目気味で、艶やかな黒髪を髪留めで上げて纏めていた。
 小柄な身体を包む天恵学園の制服から、アリスと同じ一年生であることがわかる。だが幼さの残る童顔と華奢な身体に似合わず、制服の胸元は豊かに膨らんでいた。
 乳鞠の大きさはハンドボール大で、Fは想像に難くない。服の上からでもその弾力と張りの満ち具合が分かるほどだ。
 皐月が動くたびにぷるんとたわわに揺れる様は、まだ未成熟な容姿と合わさってアンバランスさゆえのコケティッシュさに溢れていた。
 逆に彼女から闇に堕した者が持つ険というものを感じることは難しいだろう。むしろ、エクリプスを目にする度に目を見開いて小さく悲鳴を上げている様子は、普通の少女と同じでさえある。
 しかし、ゴモラエクリプス内にいるということは、当然皐月もまた騎士団の一員である。
 騎士団長レイヴンエクリプス直々にこの魔都へ召喚されたということは、何やら重要な任務が待っているに違いない。
 そう思うと皐月は責任の重大さに足が震えてくる。はっきりいって自信が無い。騎士団の中でも最弱のエクリプスだと自覚している。
 そうと知っていながらわざわざ自分を指名して呼び出すとは、レイヴンの信頼の表れなのだろうか。
 そんなことを考えながら回廊を曲がると、二体の影魔の姿があった。
 ウミウシと人間を無理やり融合させたようなフォルムのシースラッグエクリプスと、狒々をモチーフとしたドリルエクリプス。
 どちらも気が荒く皐月にとって苦手な相手だ。手持ち無沙汰なのか、壁にもたれて猥談で盛り上がっている。
 幸いまだこちらに気がついていない。気づかれないようにそっと引き返そうとしたと皐月だったが、偶然視線を彷徨わせたドリルと目が合ってしまった。
「お、おぉ? ......げへへ。久しぶりじゃねえか、ハーティーエクリプス。ちょうど暇してたんだ。俺らの相手をしてくれよ」
 皐月の影魔時の名を呼びながら、下卑た笑みを浮かべドリルたちが詰め寄ってくる。格上の二人に気圧され、自然と壁に押し付けられるような格好になってしまった。
「あの、すみません。わたし、クロウさんに呼ばれてるです。そこを通してくださいです」
「つれねえなぁ。そんなの後でいいじゃねえか。たくさん気持ちいいことしようぜ」
 先約があるので丁寧に断りを入れるが、彼らは聴く耳を持たない。ドリルの生臭い息がかかり思わず顔を背ける。
 素直に話を聞いてくれる連中ではないとわかっていた。そもそも物分りがいい人間が影魔になるはずが無いのだ。それでも易々と彼らの欲望の餌食になることを皐月は良しとしなかった。
 身を捩って逃れようとするも、意外に素早い動きでシースラッグが制服の隙間から手を入れてきた。
「そのでけえおっぱい、最近揉まれてなくて寂しいんだろ? カップが変わるくらい俺たちがたっぷり可愛がってやるよ」
 シースラッグの腕先が無数の触手へと枝分かれし、皐月の乳房をブラジャー越しに愛撫し始めた。
「ひゃあああぁんっ! ダメですぅっ! おっぱいはぁ......んふぅっ......弱いんですぅ」
 冷たく滑る軟体が這い回るおぞましさ。だが乳房全体を細かな漣のように刺激され、性感が脳に快楽を送ってしまう。
 皐月の胸は小学校の終わり頃から急激に膨らみ始めた。男子の好奇の視線に曝されるのは恥ずかしかったが、なによりそのころから異様に乳房の感度が上がってきたのが一番の悩みだった。
 胸は小さいほど感じやすいというのは、皐月の場合には当てはまらないようだ。
 僅かな布のずれでも軽く電気のような刺激が奔った。ちょっとぶつかっただけで足に来てしまうほど感じてしまう。適当なブラを着けてしまうと一日中、胸を弄ばれているのと変わらない状態に陥ってしまう。
 たぶんそれは心理的な要因が大きいのだろう。胸に注目を集めてしまうが故に自分自身も乳房に意識を集中させてしまい、それが僅かな刺激を脳内で何十倍にも変換してしまうのだ。
 もともと恥ずかしがり屋な性格からくる高い羞恥心は、性的刺激に罪悪感を覚えさせると同時に、それが変質した背徳感によってより強い興奮を感じてしまうのだ。
 そう自己分析してみたところで何が変わるというものでなく、肌に張り付く軟体が動き回るたび甘い刺激が入って声が裏返る。
「ひひっ、あのすかした野郎と違っていいだろ? まったく女も抱かねぇクズエクリプスが団長なんて反吐がでるぜ」
「そうそう、大して強くもねえくせに偉そうに指図しやがって。次、俺らに舐めたまねしたらぶっ殺してやろうぜ」
 根拠無き全能感に浸るエクリプス達が気勢を上げたとき、割って入った者がいた。
「誰が誰を殺すのかな?」
 噂をすれば影の言葉通り、影魔騎士団団長レイヴンエクリプスその人が場に姿を現した。
 その途端、シースラッグ達の哄笑がぴたりと止み、不満を露わにした険のある雰囲気が滲み始める。
 しかしレイヴンはそんな空気などまるで読まず、そもそもシースラッグ達などそこにいないかのように皐月にだけ視線を合わせていた。
「皐月、そんなところで何をしている? 早く私のもとに来るようにと言っただろう」
「はいっ! ごめんなさいですっ! 今すぐ――っきゃっ!」
 これでやっとレイヴンのところへ行けると思った皐月だったが、シースラッグがその腰を引き寄せて己の腕に収める。
「残念でした、レイヴンエクリプスさんよぉ。ハーティーは今から俺たちと遊ぶんでね。さっきも俺にデカ乳揉まれてアンアン鳴いてたぜ」
「顔だけインポ野郎よりも巨根でテクニシャンな俺たちのほうがいいってよ。ぎゃはははっ」
 シースラッグの挑発にドリルが下品な笑いを被せる。己の器の小ささを露呈していることに気づかず、そのくせ他者をことさら馬鹿にするその態度に温厚な皐月もさすがに苛立ちはじめた。
 もし彼らがエクリプスでなくただのチンピラだったら、影魔の能力で懲らしめていたところだ。
「皐月もまたくだらない連中と関わったものだな......体質か?」
 半ば呆れた様子でレイヴンが彼らを一瞥すると、血気盛んなエクリプス達は敏感に反応する。
「ああ? てめえ、文句あんのかよ? いいぜ、だったら勝負してやるよ」
「言っとくけど俺らちょーつえーから。泣いて土下座すんなら勘弁しとくぜ」
「やれやれ。寄せ集めとはいえ、知性も品性も力も無い輩がこうのさばると見苦しいな。入団資格でも設けるか」
 レイヴンなりに望ましい騎士団像というのがあるだろうか、額に手を当て嘆息する。最弱でありながらこんなことを思うのもなんだが、皐月の目から見てもこの二対の影魔は実力的に騎士団に相応しくない。
 だが、本人たちはそうは。思っていない。
「てめえ、調子に乗んなよっ! 俺らはオメガ様に忠誠誓ってっけども、おめえを団長だって認めてるわけじゃねえからな」
「ま、オメガ様も力を無くしてただの餓鬼だって話じゃん。てめーぶっ殺した後、俺らでマワして騎士団の実権握ってやんよ」
「ぎゃはっ。そん時ゃ、ハーティー、お前を俺ら専用の肉奴隷にしてやるぜ。毎晩可愛がっていい思いさせてやるからな」
 余りに身の程知らずな発言が繰り返されるので、何だか冷めてきてしまい、シースラッグの愛撫も感じなくなってきた。
「そろそろ皐月を返してもらっていいかな? 私は忙しいんだ」
 そしてレイヴンも付き合いきれなくなってきたのだろう。皐月達の方へと一歩踏み出した。
「や、やんのか――――ひっ!」
 背中の黒翼が大きく広がり鋭い眼光が光を放つ。ただそれだけのことでシースラッグ達は竦み上がってしまう。
「......あっ」
 その隙にレイヴンは皐月の腕を取って傍らへ。そのまま不貞の輩へ何を仕置きするわけでもなく、廊下の奥へ皐月を促す。
 残されたエクリプス達は呆然としたまま動かない。レイヴンに気圧され、そのまま魂が抜けてしまったようだ。
「あ、あの、助けてくれてありがとうございますです」
「君に用があったからな。必要だと思うことをしたまでだ。礼には及ばない」
「それで、団長さん。わたしは何でここに呼ばれたですか?」
 皐月は気になっていた召喚の理由を訊いた。レイヴンは立ち止まることも振り返ることもなく、呟くように言った。
「確か皐月は子供が好きだったな。保育園の手伝いをしていたとも聞いている」
「はい、そうですけど。それが何が関係あるですか?」
「うむ、実は君に子守を頼みたい」
 レイヴンの口から漏れた意外な言葉。エクリプスの巣窟たるゴモラエクリプスには似つかわしくない響きだ。
「こ、子守ですか? ここにそんな小さい子が......その子もエクリプスなんですか」
「そうだ。年は確か......君より四つか五つ下だな。なかなか気難しい子でね。短い間だが女の子同士仲良くしてやってほしい」
 皐月より五つほど下ということは子守という年ではないかもしれないが、ゴモラエクリプス内ということを考えれば充分に幼いといえる。しかも女の子とくればついついその子の安全を危惧してしまう。何せ文字通り魑魅魍魎が跳梁跋扈しているのだから、
(誰かが支えてあげないとその子、不良になっちゃうです。皐月の責任は重大です)
 その場に立ち止まり拳を握り締め、一人盛り上がる皐月だったが、そんなことには一切構わずレイヴンはさっさと行ってしまう。
「はわわ、待ってくださいですぅ〜」
 慌ててダッシュで追いかけた皐月だったが角を曲がったところで、レイヴンが立ち止まっていたために、そのまま彼の背中に頭から激突してしまう。
「ふぎゅっ!」
 普段から鍛えているのかそれともエクリプスだからか、皐月がぶつかってもレイヴンはよろけもしなかった。反対に、突っ込んだ皐月の方は撥ね返されて尻餅を着いてしまう。しかも尾骨を強かに撃ちつけてしまい、脳天にまで衝撃が走る。
「ふぎぃ〜、痛いでふぅ〜。鼻とお尻を打ったですぅ〜」
「さっきから君は何をやっているんだ?」
 涙目で鼻と尻を摩る皐月の姿に流石のレイヴンも呆れた様子だったが、その手は気遣うように皐月へと差し伸べられている。
 それはレイヴンの育ちの良さによるものか、それとも皐月に対する好意なのか。
 そんなことで悩みながら遠慮がちに掴むと、レイヴンは何でもないことのように軽々と皐月の身体を引き上げた。細身の身体に似つかわしくない力強さに、鼓動が少し大きくなった気がした。
 レイヴンが立ち止まった部屋は貴賓室。
 どうやら件の少女はそれなりに丁重に扱われているらしい。
(はわわ、びっぷですぅ〜。皐月、失礼しちゃわないか不安でたまらないです)
「入るぞ、美央」
 レイヴンがドアを開けると、荒れ果てた室内が目に飛び込んできた。椅子やテーブル、箪笥などの家具はあちこちが切断され無残に床に倒れている。
 まるで猛獣でも暴れまわったかのように、カーテンやベッドのシーツ、壁紙も引き裂かれ、破壊された調度品の残骸や破片があちらこちらに飛散していた。
 見たところ部屋の中のものは全て新品か良く手入れの行き届いたアンティークのようだが、これほど壊されてしまっていてはもはや粗大ゴミと変わりなかった。
 天蓋が崩れ落ちたベッドの上に少女が一人寝転がっている。いや、寝転がされているという方が正しいだろう。
 皐月が思っていたよりも彼女の身体は小さく、可愛らしい黒猫の耳と尾のおかげで恐怖は余り感じない。しかし、それが物語るのは彼女が自分やレイヴンと同じ異形――エクリプスであるということだ。
 触れるだけ折れそうな華奢な両腕を、異様なまでに頑強に作られた――皐月の知識にあるものより二倍以上大きく、奇怪な装飾が一面に施された――手錠が後ろ手に拘束していた。
 そのため少女は立ち上がろうにもバランスが上手くとれずにのたうつばかりで、その度に鳴る金属の擦れあう音がまるで少女を苛んでいるかのようだ。長時間もがいていたからであろう。ネグリジェは捲くれあがり、その下のドロワーズが露わになる。思わず女の子がなんてはしたない、と呑気な言葉が出掛かったがそうした空気ではないので何とか押し留めた。
 悪戦苦闘する少女の口からは苦痛とも怨嗟ともつかぬ低く細い呻き声が漏れていた。
 あまりの光景に声も出せずにいると、こちらに気づいた少女が殺気を込めたぎらつく眼で睨んできた。
「ひゃっ!」
 いくら見た目が幼く可愛らしくてもエクリプスはエクリプス。気圧された皐月は身を竦め、思わずレイヴンの後ろに隠れてしまう。
 少女の視線がレイヴンと合う。その途端、その可愛らしい顔が怒りではなく羞恥で紅潮した。口をパクパクと動かし、頭を隠すように丸まってしまう。
「......あ、あの......あの子......どうして手錠なんかしてるですか?」
「ひどく暴れるので大人しくさせるためだ。特にあの両手は危険でね、被害が出ないように嵌めたんだ」
 幼い子供に手錠をかけるなど皐月には考えられない所業だったが、レイヴンの返事は犬を繋いでおくのと同程度の軽さだった。恨みがましい少女の唸り声など全く聞こえていないかのようである。
「そんなのひどいです。今すぐ外してあげてくださいです」
「それは出来ない。団員が一人、あの爪の餌食になっている」
 人身に関わるといわれては皐月には返す言葉が無い。なるほど、確かにそれならば安全性のために手錠をかけるのは理に適っている。
 それでも小さな少女の身体に大きな手錠というのは受け入れ難い。そんな皐月の心理は見透かしているらしく、レイヴンは皐月の肩を抱き、視線をしっかり合わせながら優しい口調で言った。
「しかしだ、皐月。私には美央を傷つける気は毛頭ない。手錠をしていても不自由を感じさせないように君を呼んだんだ。君には食事や着替えはもちろん、美央にとって必要なことを全て任せたい。何が必要で何が必要でないか。それは君の判断で決めるといい」
 そして大きく重い鍵を皐月の手に乗せる。
「もちろん、この手錠を外すことも」
 それから細部にわたってあらかた説明をしたレイヴンは、それで皐月も少女のことも済んだとばかりに早々と部屋を出て行った。
 するとレイヴンがいなくなったことを確認した少女は再び唸りもがきだす。
 手伝いやお手本など無く、本当に皐月にこの少女の世話を任せてしまうらしい。全て任せるということはどうやら放っておかれると同義なのだと気づき、
(皐月は少し大人になりましたです)
 などと感傷に浸っている場合ではない。
 残された皐月は当然、唸りながらもがく少女エクリプスと二人きり。その戦闘力は部屋の中を見れば一目瞭然で、並みのエクリプスでは到底太刀打ちできない。もちろん腕に全く覚えのない皐月では秒殺は確定である。
 そんな猛犬ならぬ猛猫と同じ檻の中に入れられたとなれば当然、やることは一つしかない。
「ええと、初めまして。稲生皐月です。確かお名前は美央ちゃんですよね」
 深々と頭を下げて、まずは最初の挨拶。挨拶のきちんとできる大人になりなさいと、祖母はまだ幼い皐月を抱いて言ったものである。
 しかし、何故か少女は怪訝な顔をしてこっちを見ていた。何かに興味を持ったときに猫がする表情にそっくりだ。元の輪郭が丸っこくて眼が大きくておまけにネコミミまで付いているものだからますます少女は猫に似てくる。
 それにしても何故こんなに変なものでも見るような眼をするのだろう。
 もしかして名前を間違ってしまったのだろうか。だとしたらこれほど失礼なことはない。
「え〜と、美央ちゃんで合ってるですか」
 そう訊くと小さく頷く。しかし、相変わらずその表情は怪訝なままだ。
 もしかしたら充分にお辞儀が出来てなくて呆れられたのかもしれない。
 失礼の無いようにもう一度丁寧にお辞儀すると、今度は怯えるように後ずさりされてしまった。
(はう〜。嫌われちゃったです。所詮、皐月は不束者でお嫁にも行けないダメな女の子なのです)
 しかし、ここで挫けてはいられない。
 レイヴンから美央の世話を任されたのだ。それに応えるために全力を尽くさねば。
「何かして欲しいことあるですか? わたしに出来ることだったら何でも言ってほしいです」
「..................手錠外して」
 少女が求めたのは至極尤もな要求だった。そして皐月には手錠を外すことも許可されている。
 だが、いくらなんでも許された途端に外すのは心理的に抵抗があった。
「そ、それはちょっと......団長さんはああ言ってたですけど、いきなり外すのは良くないです」
 皐月が断ると拗ねてしまったのか、美央はぷいっとそっぽを向いてしまった。
 状況も状況だが、美央もまたなかなか気難しい性質のようだ。
 しかも初対面である。あまり社交的ではない皐月はどうしたらのいいのかわからず、人差し指同士を交差させながらしょげ返ってしまう。
 美央は美央で威嚇はしないが、尻尾が何度もベッドを叩いている様子から相当にご機嫌斜めであるらしい。
 二人の間に気まずい沈黙が流れる。
 先に歩み寄りを見せたのは意外にも美央のほうだった。
 芋虫の様な匍匐前進で恐る恐る皐月の元へと来ると、おずおずと口を開いた。
「......お姉ちゃんも美央やクロウお兄ちゃんと同じエクリプスなの?」
「はいです。でもわたしはただの役立たずですけどね。美央ちゃんはネコさんなんですか〜、可愛いですね」
「..................そんなこと............ないもん」
 褒められ慣れていないのか、美央は恥ずかしげに顔を赤らめて俯いてしまう。それがまた可愛らしく、母性本能を擽られた皐月は優しく美央の頭を撫でた。
「ううん、美央ちゃんはとっても可愛いですよ。なでなで」
 美央は始めのほうこそ擽ったそうに身を捩っていたが、すぐに大人しくなって皐月に身体を摺り寄せてきた。
 まだまだ幼いこともあってか、一度懐くと結構な甘えん坊の一面もあるようだ。
 頭を撫でるだけでなく抱きしめてスキンシップを図ってみると、皐月の乳房をクッション代わりにして体重を預けてくる。
 それがまた愛おしくなって暫くの間そうしていると、小動物の泣き声のような音が聞こえてきた。
「............にぅ、その、お姉ちゃん......ごはん」
 美央もやはり女の子であるようで、腹の虫がなったのが気恥ずかしいらしく、消え入りそうな小さい声で空腹を訴えた。
「はい、任せてくださいです。美味しいの作っちゃうですよ。好き嫌いとかあるですか?」
「ん、ピーマン嫌い」
 エクリプスといえど味覚は普通の子供らしく微笑ましい。
「そうですか。じゃあ、それ以外で何か作ってあげるです」
 レイヴンの説明では貴賓室から少し離れたところに簡単な炊事場があったはずだ。部屋を出て探してみると果たしてすぐに見つかった。
 電気コンロに電子レンジ、オーブンまでも備え付けられている。炊飯器は保温状態で溢れ出す生活観が逆に異様であった。
 御座市からこちらに生活拠点を移すエクリプスは多いが、漠然と抱いていた影魔騎士団のイメージとそぐわない気がする。
「この食材、誰が用意したんですかね?」
 備え付けの冷蔵庫のやけに充実した中身に驚き呆れながらも、早速その恩恵に与ることにする。
 豚肉のいいのが入っていたのでこれで簡単なものでも作ることにした。
「出来たです〜。皐月特性カレーピラフとオニオンスープ。冷めないうちに早く持っていくです」
 出来立ての熱々を急いで美央のところへ持っていくと、両腕を後ろに拘束されているにもかかわらず、器用にも行儀よく椅子に座って待っていた。
「はい、美央ちゃん。あ〜んですよ」
「......あ、あ〜ん」
 手錠を外すわけにはいかないので皐月が食べさせてあげようとすると、照れながらも素直に口を開けてくれた。
 スープは少し熱いので皐月がふぅふぅして冷ましてやる。
「美味しいですか?」
 そう訊くと何度も頭を縦に振って雄弁に答えてくれた。
(あの子も無事に生まれてくれたら、こんな風な関係になれたですかね)
 自分がエクリプスと化す原因となった命を美央に重ね合わせてみる。
 レイヴンが何故この少女をここに置いているのか。そこに存在するであろう悪意からは眼を背け、皐月は刹那の安らぎに没頭し始めた。
 
 
 その日、悠美は恵理子に連れられ第三校舎五階にある風紀委員会室の前にいた。天恵学園の全ての委員会は、その活動拠点としてそれぞれ専用の会議室が割り当てられている。
 その恩恵に一番与っているのが風紀委員会で、素行の悪い生徒の呼び出しや持ち物検査で没収した品物の管理などで大きく役立っている。
「ごめんね、悠美。委員でもないのに付き合わせちゃって。後で埋め合わせしなくちゃね」
「いいよ、別に。ちょっとした整理整頓ぐらいたいしたことじゃないから」
 顔の前で両手を合わせて謝る恵理子に悠美は恐縮する。
 生徒から没収した品物が多くなってきたので、ここらで捨てるなり、返却するなり考えなければいけない。
 だが先の大災害のせいでほとんどの委員の都合がつかず、恵理子は委員でもない悠美に手伝いを頼んだ。
 部外者である悠美の手を借りることを恵理子は申し訳なく思っているようだったが、悠美はそれだけ自分のことを信頼しているのだと、逆に友情を再確認していた。
「そうね。先にアリスが仕事してるからほとんど終わってるかも」
 冗談めかして恵理子は委員会室のドアを開けた。
「アリスー、悠美が応援にやってきた――えええええっ! ちょっとなにやってんのっ!?」
「な、なに!? 恵理子ったら大声出し――ひゃあああああっ! あ、アリスさん、それって!?」
 一歩部屋に入った途端に驚愕する恵理子。いったい何を見たのかと恵理子の肩越しに悠美も部屋を覗き込み、そして同じように驚きで言葉を失ってしまった。
「あ、一之瀬先輩。すみません、まだ片付けは終わっていませんわ」
 そんな二人に気づいたアリスがぺこりと頭を下げる。その動きに合わせて亜麻色のツインテールが柔らかに揺れた。
 妖精のような美少女だけあって、ただそれだけの動きでも充分に神秘的な雰囲気を漂わせるのだが、それを台無しにしてしまうものが彼女の手に握られている。
 コンドーム。避妊具の代表選手にして家族計画のキャッチコピーも秀逸な紳士のエチケット。
 天使のように可憐で清楚なお嬢様という、アリスのイメージと最もかけ離れたものがいかなるわけか彼女の手元に存在しているのだ。
(な、なんでアリスさんがそんなものを? あれ? でもアリスさんだから? あんなに美人なんだし彼氏さんがいてもおかしくないよね。わたしよりよっぽど大人びてるんだもん。そういえばこの前、好きな人がいるみたいな様子だったし......)
 状況を上手く把握できず思考が混乱する悠美。恵理子も口をパクパクさせながら何とか言葉を搾り出す。
「あ、アリス。なんでそんなものを持ってるの? 風紀委員自らが学園の風紀を乱すようなこと――」
「恵理子先輩はこれをご存知なんですか。だったらちょうどよかったですわ。これっていったい何なんでしょうか?」
「へ?」
 破廉恥な後輩を叱りつけようとした恵理子の目が点になった。
「没収品を整理していたらこれと同じものが大量に出てきて。使用目的が分かりませんので困っていましたの。見たところゴムで出来ているようですけど......」
 伸ばしてみたり縮めてみたり、ためつすがめつするアリスは興味津々なご様子だ。
「指貫に似てはいますがここまで指の大きな人がいますかしら? それに先っぽにはへんな物も付いていますし。でも指貫が没収されるはずがありませんわね。と、いうことはこんなにたくさんあるからには流行のオモチャか何かなんでしょうか?」
「そんなん流行るかーっ! あ、でも流行ってるともいえるのかな?」
 思わず突っ込む風紀委員長。どうやら本当に知らないようで、ああ、人間育ちが良すぎてもだめなんだな、と悠美は奇妙な達観を抱く。
「ねえ、悠美。可愛い後輩にあれが何なのか教えてあげて」
 毎度この調子なのか諦め顔で恵理子が悠美の肩を叩いた。
「な、なんでわたしなの?」
「ん? コミュニケーションってやつ?」
「そんな半疑問系で言われても......」
「あのー、お二人とも。どうして生暖かい目でこちらを見てるんですの?」
 悠美も恵理子も教えるのを恥ずかしがり、結局コンドームだと言うことを教えない方向でいくことになった。
 整理整頓は一時間ほどで終了し、後は和やかにお茶にすることになった。
 家事は苦手なアリスだったが紅茶を入れるのだけは上手く、ウバ茶の芳醇な香りが会議室に広がった。
 薄い陶器のティーカップに牛乳と一対一で割り、砂糖をたっぷり溶かす。お茶請けはシンプルなビスケット。
 ハイソな雰囲気の漂う英国式のティータイムに、埋め合わせはこれで充分かなと悠美は思った。
「うーん、おいし。香りは強いのにそれが嫌味にならないなんて、いい茶葉はやっぱり違うのね」
「でもビスケットはちょっと味気ないね。塩とバターがきいてるけどもう一つ足りないというか」
 茶葉に比べてビスケットのグレードは明らかに落ちる。既製品、それも安値で大量に販売されているような機械的なビスケットは、自分で作ることもある悠美にとってはいささか不満だった。
 どちらもアリスが用意したものなのだが、どうしてこうも違うのだろうか。
「あら。でしたら悠美先輩には、このビスケットを美味しく食べる方法を特別に教えて差し上げます」
 悠美の心中を察したアリスが悪戯めいた笑みを浮かべた。普段から済ました表情で大人びて見える彼女だが、稚気に溢れたその笑顔が自分と年の変わらない女の子だということを教えてくれる。
「ビスケットをこう紅茶に浸けてから食べるんですの。三秒ほど数えて......はい、悠美先輩、あ〜んしてください」
「ええっ、ちょっと恥ずかしいよ。恵理子も見てるし......うぅ、あ〜ん」
 いささか気恥ずかしかったが、そうした茶目っ気がアリスなりの親愛の証であることはこの数日でわかってきたことだ。
 そのことが嬉しくて、悠美は言われたとおり口を開けた。
「んんっ? うそ......すっごく美味しい」
 紅茶でふやけたビスケットが口に入った途端、起こった味の変化に悠美は目を見開く。
 バターの素朴さとウバの優雅さ。一見相反するように思われる二つの香りが互いを引き立てあい、頭の中まで香りに包まれているように感じる。
 そしてビスケットに含まれる塩気が砂糖の甘さを強調し、蕩けるような幸福感に思わず顔が綻んだ。
「ね、美味しいでしょ」
 悠美の様子を見てアリスが満足そうに訊いてくる。口を開けば香りが逃げてしまいそうだったので悠美は無言で頷いた。
「味のしっかりしたビスケットでは紅茶の香りが薄れてしまいますし、柔らかいものでは崩れてしまいますの。だから安物ですがこのビスケットが一番と言うわけです......いささか下品な食べ方ですけど」
 最後の方でアリスの声が小さくなる。なるほど、ドーナツやパンをコーヒーや牛乳に浸す食べ方をダンクと言うがそれは下町の文化であって、アリスの所属する上流ではやはり良い顔をされないのだろう。
「わたしは好きだよ、この食べ方。肩の力が抜けてるっていうか、気さくっていうか」
「でもあまり人前でやることじゃないですし......悠美先輩に失礼だったかも」
「じゃあさ、何かこうセレブ〜って感じの紅茶に飲み方ってある? 私たちでも簡単に出来るやり方で」
 育ちのせいゆえか己の稚気に居たたまれなくなったアリスに、恵理子が助け舟を出す感じで訊いた。
「セレブですか......簡単かどうかは分かりませんが。ちょっと待ってください」
 アリスの思考が切り替わり、席を立って茶器の入った戸棚から小さな瓶を取り出した。中には蜂蜜色のジャムらしきものが入っている。
 次に新しいカップを三つ出して、今度はストレートで紅茶を入れた。
「それでは一之瀬先輩、悠美先輩。このジャムを一匙入れて、よくかき混ぜてからどうぞ」
 何のジャムかアリスが言わなかったので、悠美と恵理子は恐る恐るジャムを入れる。
 そしてよくかき混ぜて紅茶を口に含んだ。
「わぁ、素敵っ」
「これは確かにセレブって感じ。なんだかお姫様にでもなったみたい」
 広がったのは甘いバラの香り。黄色いジャムはバラのジャムだったのだ。香りは甘いが味の方はそれほど甘く無いため後味もすっきりとしている。
 天上界の飲み物だと言われたら信じてしまいそうな優雅さを持った組み合わせだ。
「最近ではネット通販でも取り扱っていたりもしますから、悠美先輩も気にいただけたなら探してみてはいかがでしょうか」
「あれ、いつからアリスは悠美のこと名前で呼ぶようになったの?」
 悠美とアリスの関係の変化に恵理子が気づいた。両者の顔を見比べにんまりとする。
「水臭いなぁ、もう。あたしのことも名前で呼んでよ......恵理子お姉さまぁんって」
「......恵理子、アリスさん引いてるから」
「ま、冗談はさておいて。あんたたち思ってたより早く仲良くなれたわね。あの娘の時はちょっと壁があったけどね」
 胸の奥に刺さる刺がずきりと疼いた。それは触れてはならない記憶。忘れてはならない記憶。羽連悠美が背負う大きな十字架。
「あの娘? 誰ですの、その方は?」
「ほら、アリスも知ってるじゃない。あたしとよく一緒にいた、風紀委員の仕事も手伝ってくれたりした......誰だっけ?」
「私に聞かれましても......悠美先輩以外にそんな方いましたっけ?」
 そんな娘いた?
 ああ、なんと残酷な言葉だろう。新野瞳という存在を、最も近しかったであろう彼女たちが忘れてしまっている。
 その原因が自分にあることがとても哀しく罪深い。
 新野瞳が悠美の前に本性現すまでのあの僅かな幸福な日々、あのような時間を彼女たちは送っていたはずなのだ。
 悠美は知っている。恵理子にとって瞳がどんなに心強く、気が置けない友人だっただろうかを。
 そして簡単に想像できる。アリスにとって瞳がどれほど頼りになる、優しい先輩だっただろうかを。
 不器用でそれゆえに自分も他人も傷つけてしまった哀れなエクリプス。
 あのことは確かに悲劇だった。けれどだからといってその記憶を奪う権利が自分にあったのだろうか。
 そしてアリスにはあんな優しい言葉をかけられて嬉しかった。それなのにその記憶もまた同じように封じている。記憶を失った彼女は、二度とあの言葉を自分にかけてはくれないだろう。
 そして自分はどちらの記憶も持ったまま、二人に優しさに甘えて友達面してこの場にいる。
 なんと愚かしくも浅ましい真似をしているのか。
 居た堪れなくなって悠美は席を立った。
「ごめん、ちょっと用事思い出したから帰るね」
 突然のことにきょとんとするアリスと恵理子。そんな二人を背に悠美は逃げるようにして会議室から出た。
 そのまま振り返ることなく帰路に着く。
 あれほど友達を求めていたのに、笑顔の日々を送りたかったはずなのに。
 何故だか独りになりたくて、無性に泣きたくなって。
(ごめんなさい......恵理子、アリスさん、そして新野さん......わたしには眩しすぎるよ)
 背負うと決めたはずの十字架が重く圧し掛かる。優しさゆえに少女は罪の意識に苛まれ涙が次々零れて頬を伝う。
 この涙は拭き取ってはいけない。この心は慰めを求めてはいけない。悠美自身が向き合い乗り越えなければならない試練なのだから。
 明日笑うそのために悠美は今だけ思い切り泣くのだった。
 
 
 悠美が出て行ってからしばらくして、アリスと恵理子は会議室を出た。何だか気まずい空気の中、どちらも一言も話さずようやく出たのはさよならの挨拶だけ。
 恵理子と別れたアリスは校門の前で立ち止まった。
 振り返れば羽連母子が住まう礼拝堂が見える。夕日に照らされたその姿は荘厳でありながら、アリスにはどこか寂寥や哀切が感じられた。
「悠美先輩、泣いてましたわね」
 会議室を出る時に悠美の目元に見えた雫。あれは何の涙だったのだろう。自分と恵理子の会話の途中から考え込むように押し黙ってしまい、そして自身を責めるような険しくも哀しい表情になって帰ってしまった。
(もしかして私、悠美先輩を傷つけるようなことを言ってしまったのかしら)
 だとしたら今すぐにでも謝りたい。そして彼女の支えになってあげたい。
 だが、悠美のあの様子では今日はもう会わない方がいいだろうし、それにそうすることで悠美の触れてはならない部分に触れてしまうことが怖かった。
 知り合ってからまだ僅かしか経ってないが、アリスは悠美のことを口下手ではあるけれど陽性の人間だと思っていた。
 しかし、時折見せる陰のある表情にはっとなる。まるで自分の何倍もの時を生きてきた大人のような、数多の修羅場を抜けてきた戦士のような、素朴で純情そうな少女とは正反対の世界の人間に見えることがあった。
 恵理子が言外に仄めかすには、悠美と真理とは血の繋がった親子ではないらしい。それが原因かどうかは分からないが、少なくとも平坦ではない日々を送ってきたことは間違いない。
 だとすれば知り合って間もない自分が、そんな過去に土足で立ち入るような真似をしていいのだろうか。
(私、悠美先輩の優しさに甘えてしまってるのかも)
 悠美のことは大好きだ。社交性の部分が違うだけで恵理子と同じくらいアリスにとって優しくて頼りがいのある先輩だ。
 だからといって悠美にとって自分が良い後輩だとは限らない。自分の好意を相手の好意に置き換えてはならない。
 悠美が求めてこない限りアリスは一線を越えてはいけないのだ。
 だから待とう。悠美が自分を友達だと認めてくれるその日を。初めは一方通行でもいい。彼女のことを想う気持ちさえ忘れなければ。
 そう心に決めてアリスは校門へと向き直った。
「やあ、アリスさん。ちょっとお時間よろしいですかね」
 嫌な相手がそこにいた。派手なシャツを着た、いわゆる業界人然とした男。大手芸能プロダクションのスカウトらしく、去年から時折アリスのところへ勧誘に来るのだ。
「以前お話した件、考えていただけましたか? ほら、タレントデビューの件」
 挨拶もそこそこに気持ち悪いほどに馴れ馴れしく話しかけてくる。
 兄のクロウがその実績とルックスでメディアに取り上げられるようになったので、その妹というのが話題になると思ったのだろう。
 それは分かるのだが、こちらにそんな気は毛頭無いので毅然とした態度で拒絶する。
「考えるも何もあの時はっきりお断りしたはずです」
「そうですね〜。でもね、後になって考えが変わったなんてよくある話じゃないですか。それで、あ〜、あの時断らなきゃよかった〜、って後悔するんですよね」
 腰は低いが、その裏には自分の話を聞かない人間がいないという根拠無き傲慢さが見え隠れしている。
 いかにもこちらのためにしてあげているかのような物言いは、どうやったら真似できるのか知りたいところだ。もちろん真似する気などこれっぽっちもないのだが。
「私の考えは変わっていませんし、まして後悔なんかこれっぽっちもしておりません」
「でもね、せっかく有名になれるチャンスですよ。スポットライトを浴びて、みんなから憧れの目で見られて。スターの人たちともお友達になっちゃったりして」
 この男は誰もが芸能界に憧れるとでも思っているのだろうか。あまりテレビを見ないアリスでも好きな俳優の一人か二人ぐらいはいるが、別段会いたいと思わないし、まして同じ舞台に立つなどとは考えたことも無い。
 第一ちやほやされることなど幼い頃から慣れている。中学時代はそれこそ一日中取り巻きに囲まれた生活を送っていたのだ。
 しかし大勢で群れるのが好きでなかったため、天恵学園に入ってからは意識的にそうした人間を避けるようになった。
 その結果、お高くとまっているとの陰口もあるが静かな学園生活が送れている。悠美との出会いなど、冗談のようなお姫様扱いをされていた中学時代には望めなかっただろう。
「アリスさんのそのスタイルと顔なら、アイドル路線もいけますよ。歌はお得意で? 雑誌の表紙を飾ったりドラマや映画に引っ張りだこになりますよ」
 男の舌は止まらない。耳が悪いのか、それとも日本語とは別の言語で育ったのか、アリスの返事は耳に入っていないようである。
「興味ありません。お引取りください」
 言葉に険が篭る。そろそろアリスの堪忍袋も限界に近づいてきた。しかし、先ほどから無神経な男がそれに気づくはずも無い。
「またまた謙遜しちゃって。大丈夫ですよ、知り合いにあの有名音楽プロデューサーがいますから。ほら、聞いたことあるでしょ、今流行ってる――」
「すいません、ちょっといいですか」
 不意に聞きなれた声がアリスの背中から割って入った。振り返ったアリスの顔が驚きと喜びに溢れる。
「主水先輩!?」
 主水竜生。天恵学園最上級生でアリスと同じ風紀委員を務めている生徒だ。実直で正義感が強く、恵理子と並んでアリスが最も頼りにしている先輩である。
 日焼けした浅黒い肌と短く刈った髪、背は高く胸板の厚い筋肉は制服の下からでも分かる。太い眉と彫りの深い顔立ちは雄雄しいと形容するのが相応しいだろう。
 真面目で熱意溢れる風紀委員の鏡のような男だ。
 そんな男が、アリスが絡まれているのを見過ごしておくはずがない。
「なんだよ、今こっちは話中なんだけど」
 スカウトの男の態度が明らかにアリスのときとは変わり、チンピラ紛いの威圧的なものになる。どうやらそちらのほうが地のようだが、主水は臆した様子も無い。
「貴方、天宮さんの保護者じゃないですよね。それにうちの学校の関係者でもなさそうだ。もし部外者なら、うちの生徒に変なちょっかいかけないでくださいよ」
 アリスを背中で庇いながら主水が前に出る。体が入れ替わるとき、主水の帯びる熱気と臭気に兄には希薄な男性を感じた。
 不快ではない。むしろ兄が中性的、絵画的過ぎるのだ。
 同年代男子の確かな存在感に触れ、アリスの胸には不思議な高揚が生まれていた。
 日ごろから鍛えているのだろう。一八〇後半の長身はがっしりとした筋肉で覆われ、その広い背中には奇妙な安心感があった。
「ああっ!? かんけーねーだろ、てめーにはよぉ」
 自分より年下、しかも学生と見て舐められまいと声を荒げるスカウトの男。だが元の声が高く、しかも腹に力が入ってないものだから、ふにゃふにゃとしたなんとも締りの無いものになる。
 逆に主水の方は低く深い、落ち着いた声で対応した。
「関係ありますよ、彼女は俺の後輩なんですから。貴方こそさっきから天宮さんが嫌がってるのに気づかないんですか?」
「ガキがっ! 仕事の邪魔してんじゃねぇよっ!」
 いきなり切れた男は学校という場も弁えず主水へ殴りかかった。
 主水の左頬へフックが飛ぶ。
「ってぇっ!」
 だが悲鳴を上げたのは男のほうだった。手首を傷めたのか、その場にしゃがみ込み、歯を食いしばって右手首を摩っている。
 主水は微動だにせず静かな声で言った。
「一発殴って満足か? 満足したならとっとと帰れ」
 男としての格が違った。アリスの目にも主水とスカウトの間にある人間的な力の差が明確に見えた。
 動物の世界と同じである。圧倒的に格上な主水にはこれ以上スカウトは抗うことは出来ない。
「くそっ、ふざけやがって」
 捨て台詞を吐いて逃げるように立ち去るスカウトの男。なんとも情けないその様子とは対照的に、主水は特に感じた風も無いようだった。
「程度の低い奴だな。天宮さん、怪我は無い?」
「いえ、私には......先輩っ! 血がっ!」
 振り返った主水の右頬に傷を見つけ、アリスは慌ててハンカチを取り出す。主水の頬に当てると細かな刺繍の入った白絹に真っ赤な血が滲んだ。
「ああ、指輪なんかしてたから切れちゃったんだ。別に平気だよ、昔から頑丈さだけが取り柄だから」
 屈託無く笑う主水だったが、それが余計にアリスを恐縮させる。
「私のためにここまでしなくたって......本当にすみません」
「天宮さんもそんなに畏まらないで。先輩後輩だろ。困ったときはいつでも頼っていいから」
 そんな台詞を気負いも無く自然に言ってのける。だがそこに軽薄さは感じず、しっかりとした重みが乗っていた。
「それじゃ、これ洗って返すから」
 ハンカチを取ろうとして主水の手がアリスの手に触れた。
(大きな手......お兄様とは違いますわ)
 太く力強く、皮は厚くて節くれている。女性的なクロウのものとは全く違う男の手だ。
 そう思うと急に主水に異性を意識してしまい、主水に触れられたことが恥ずかしくて赤面する。
(や、やだ......お、男の人がこんな近くに......)
 アリスが主水の血を拭おうとしたために、今二人の距離は互いの身体を皮膚感覚で感じられるほどに近い。
 鼓動が早く大きくなっている。放課後ということで辺りは静かで、主水が耳を澄ませば聞こえてしまいそうだ。
 自分では初心ではないつもりだったが、身内以外の男性にここまで近づいたことはなかった。
「天宮さん?」
 主水がその気なら、アリスの華奢な身体はその太い腕で簡単に抱きすくめられてしまうだろう。
 主水の大きな身体が怖くて、けれどもどこか頼もしくて。緊張と興奮。クロウに感じるものとはまた違う胸の高鳴り。
 今まで感じたことの無い感情の正体は......。
「天宮さんっ!」
「――――っは、はいぃっ! な、なんですか、しぇんぱいっ!」
 主水に大声で身体を揺すられ、驚きのあまり声が裏返る。
「どうしたんだ? 急にぼーとしちゃって」
「い、いえ。ちょっと、その......」
 何か言い訳しようとするが、パニック状態になって何を言えばいいのか、そもそも何を言い訳するつもりだったのか、分からなくなる。
「なんだか危なっかしいなぁ。気をつけて帰るんだよ、天宮さん」
 小さな子供を諭すようにぽんぽんとアリスの頭を叩くと、主水は校門を抜けて家路へ向かった。
「あ、あの主水先輩っ! その......ええと......ありがとう......ございました。助けていただいて嬉しかったです」
 少しはにかみながらアリスは主水の背中へ深く一礼する。
 それを背中で聞きながら主水は右手を上げて応えた。
 大きな後姿がしだいに小さくなって消えていくのをアリスはいつまでも見送っていた。

 

 

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