パニッシュメント・メモリー

第三章 解き放たれていく過去


 ―これでわかったでしょ! こいつは、口先だけの性悪ヒロインなのよ!
 ――…違う…違う…っ!
 ―こいつに思いしらしめてやれ、たっぷりとな…っ!
 ――や、やめろぉぉぉっ…貴様らぁ…っっ! 何をしてるのか、わかっているのかぁぁぁ…っ!
 ―貴女は幸せを守存在ななんかじゃない。貴女は幸せを壊す存在。貴女が動くたび、周りの者が巻き込まれて、不幸になるのよ!
 ―――っふざけるなぁぁぁぁぁっ…っ!! それは貴様のことだろうがぁぁぁぁぁ……っっ!!
 ―今日はこれで勘弁してあげる。でも明日も、明後日も、同じように踏みにじってあげる。私がどんな思いをしてきたのかをね……アハハハハハ………
 ―――無価値ぃぃぃぃぃぃぃぃぃぃっっ……!!!
  ―……私、誰も救えないんだ…………ごめんなさい、ママ…私、駄目な天使です……も、もう…
 ―――! …ちがぅぅっ…違うっっ! …あんたは…あんたはぁぁぁっっ…!
  ―もしかして、恵理子の方が幸せを与えてくれる? ずっと戦わせる、ママよりも?
 ――ちがうっ…! ママはそんなそんな事を望んじゃいない! ママは―
 ―私が教えてあげる…幸せになることがどう言う事かを…
 ――止めろ糞蛆っ! 彼女を壊すなぁぁぁっ―――やめろぉぉぉぉっ!!
  ―これが幸せ…いい…もういい…ずっと、こうしていたい…幸せでいたい……
 ――っっ! 違うっ! 違うぅぅっっ!! そんなものが幸せであるはずがなぃぃぃぃっっっ!!
 
  ―ずっと、このままでいたい……ずっと、このまま………―「――ちがああぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁっっっ!!」
 壊れ、二度と戻らなくなってをゆく者を必死に止めるような声。その叫びと共に、刑人は意識を覚醒させた。
「―っっ!…………はぁ……はぁ……はぁ……」
 絶望の悪夢から解き放たれたかのように、刑人は乱れた息を整えながら、意識を覚醒させてゆく。
 まず目にはいったものは光。まるで闇の中からにじみ出されるような、そんな感じのままに視界に光が入ってくる。
 次にその視界に入ってくるのは花柄模様の大きな毛布。それをじっくりと見てみると…それは布団だった。
 どうやら自分はこの布団、ベットで寝かされていたらしい……
 自分の居場所を確認した刑人は顔を上げ、自分の周辺を見まわした。
 そこはまた変わった風景――いや、刑人の認識と一致しないだけなのだろうか。部屋の色こそ下地を使っているが、細かいところでアクセサリーなどの装飾が施され、整えられていた。まるで女性が、慣れない飾り付けを整えたあとかのように。
 少しして、刑人はここが女子の部屋だという事を悟る。どうやらここで眠っていたようだ。
 …自分は何故こんなところで眠って…いや、苦しんでいたのだろうか? 必死になって、意識を喪失する前のことを思い出してみる。
 ―確か植物の影魔…そう、プラントエクリプスといったか…そいつを消して…それから…………そうだ、確か「弓原」が異様に構うから、一端「排除」しようとして………
 その後の考えに行き着いたとき、刑人はベットに頭を突っ伏した。
 ―……そうか。また「発作」が起こったってわけか…
 その答えに辿りついたとき、その後の答えも流れるように出てきた。
 あの後、自分の起こした「発作」によって倒れたのだ。その「発作」は今の自分にとって、どんなにあがいても逃れない持病なものであり、苦痛となって常に肉体を襲っている。その苦痛が不定期の間隔で、全身を引き裂く程に…時として意識が飛んでしまうほどに増大し、体を蝕むのだ。絶え間ない悲しみと絶望と共に。
 恐らく、意識が吹き飛ぶほどの苦痛が心身を襲い……無防備な状態のままに、ここに担ぎ込まれたのだ。そして、このベットに寝かせてくれた。
 それなら、この場所に連れて来たのは――
「……はは…………ずいぶん突拍子なお目覚め、だね……」
 その言葉に刑人は驚き、声のした方を向く。そこには――尻餅をついてM字に足を曲げたままの記子が、引きつった笑いを浮かべている所だった。
―わからない。彼女は自分を何故助けたのか? 殆ど縁のない自分を…
「…全く、一体どういうつもりだ?」
 絶叫の後から少し……記子によって差し出されたホットミルクを少しほど飲んだ後、刑人は鋭い目のままでベットの横に座っている記子を問いただすように語った。
「どうって…なにが?」
「俺を助けた事だよ……何故助けた? 俺がどんな奴か、あの時にしっかりと見たはずだが?」
 そういって刑人は自分の腕、その漆黒の衣を見せるように向けた。
 今の刑人は「ワースエクリプス」…すなわち「漆黒の魔法使い」のままであり、その姿のままで寝かされていたのである。
「……関係ないよ。命の恩人を放っておく事なんて出来るわけないじゃない」
「恐ろしくないのか? この俺が…」
「う〜ん………あの後、ここに来るまでに警備員に見つかる事のほうが怖かったかなぁ?」
「……おいっ」
「ってのは冗談だけどね」
 ちょっとおどけで見せた後、記子は俯き、そのまま語り始めた。
「……………………確かに怖いよ。あんな目に合って、あんなのを見せ付けられて…………刑人君寝かせた後、身体が震えたよ……怖かった…………」
 ベットに置いた手が小さく震えていた。先ほど体験した事に対する恐怖が今になって滲み出してきているのだろう。なにしろわけもわからずに異形の者に襲われ、処女を奪われる形で身体を踏みにじられたのである。常人なら生涯のトラウマになる出来事である事には違いない。
 しかし…少し震えた後に上げたその顔には、恐怖に打ちひしがれたものではなく、いつも記子が見せる普段の笑顔であった。
「でもね…あの化け物に酷い事された後に刑人君、助けてくれたでしょ? 怖いことを思い出す度に、その事も思い出してね……そしたら、怖い思いが安らいでいくんだ。まるで夢だったかのように……うぅん、刑人君が全て戻してくれたから、もう本当に『夢』といっても差し支えないんじゃないかな………」
 そう言う記子の顔に少しの影が落ちる。それでも記子は語るのをやめない。
「あの時、もし刑人君じゃなかったらきっと立ち直れなかったと思うの。他の誰かが助けてくれても私、ずっとこの事を引きずっていたと思う………そんな苦しみから救ってくれた人を放っておくほど、私、人でなしじゃありませんから」
 そうやって言い終えた記子の視線は、何時の間にか刑人の方をずっと向いていた。その瞳は助けた事に対することへの後悔など微塵も感じさせないほどに純粋なものであった。
「……………………お前のような奴が、こんな場所にやってくるなんてな………」
「え?」
「何でもない。………………助けてくれたことは礼を言う。ありがとう………」
「え……あ、うん………」
 先程とは違う、穏やかな顔で礼を言う刑人に思わず照れてしまう記子。そのまま互いに言葉を詰まらせてしまう二人。
 しかしその雰囲気も、すぐにまた鋭く睨む様な顔に戻った刑人の語り掛けによって遮られた。
「……確か、何故自分があんな目に状況になったのかを知りたかったんだったな」
「えっ?」
 刑人の突拍子の言葉に、記子は思わず呆けてしまう。しかしすぐ視線を刑人に向けた。
「…………うん。あの茎のような化け物って一体……」
「―――後悔しないな?」
「……………えっ?」
 更なる刑人の突拍子な質問に、呆けてしまう記子。
「後悔って……」
「それ程衝撃的な事実を今から話すと言う事だ。ハッキリ言えば、もう後戻りは出来ない。信じるにしても、信じないにしてもな……………それでも、聞きたいか?」
「…………………………」
「聞いて………後悔しないな?」
 くどいまでに念押しする刑人の迫力に、思わず後ろずさりそうになる記子。しばしの静寂が部屋を包む。
「…………………………………………………………………うんっ」
 しばらく微動だにさえ出来なかった記子だが、やがて意を決したように、力強くうなづいた。
「……もっとも、いずれは聞かせるつもりではいたんだけどな。この学園の連中に…」
 記子のその返事に対する刑人の言葉、それを紡ぐ口元が笑みに緩んだ――そんな風に記子には見えた。
「じゃ、じゃあ…」
「――――だが、その前に…」
 その言葉に期待を膨らませた記子を静止するかのように、刑人の手が彼女の前に突き出される。
 手の平が記子の前で止まった後、その手が水平に曲げられたかと思うと…部屋のライトに照らし出された、ベットに掛かっている刑人の影に、叩きつけられるかのように置かれた。
「…むぅぅううん……っっ!」
 その影に何かを念じる刑人。その手からは、腕に掛けて何らかの黒い靄のようなものが流れ込んでいた。
その靄が止まった時、刑人の手が離れた…その瞬間、その影の部分からは黒い物体のようなものが生まれ始めていた。
「ひ……っ!」
 その異様な光景に、その場から一歩身体を引く記子。しかしそんな事に構うことなく、その影からは黒い物体のようなものが生まれつづける。
 そして黒い物体が一定の質量に達すると、今度はそれが歪み始め……一つの姿へと形成した。
 それは一つの…いや、『一人』の影であった。その影の固まりは、人間の姿に形成していたのだ。それはまさに影のような黒い『人間』だったのである――目のある部分に一つの巨大な眼があるのを除けば。
 部屋の光を遮るようにベットの上で揺らいでいるその影人間は、その場所で何かを待っているかのように聳え立っていた。
「行け。学園の周りにいる影魔の様子を探るんだ」
 その刑人の言葉を言い終えると、影人間はその身体を大きく震わす。そして身体を前に屈ませたかと思うと、自らを映し出す影…刑人が映し出す影に溶け込むようにして消えていった。
「あ、あれって…刑人君の力…?」
 先程現れた影人間に驚きを隠せぬままに、記子は恐る恐る尋ねてきた。
「あぁ。影魔の力で生み出した、意思も無き人形…俺の分身みたいなもんだ」
「え……………エクリ、プス…?」
「そう……欲望という人間の邪悪な意思。その意思に蝕まれ人間である事を止めた者達。それが影魔(エクリプス)と呼ばれる存在。今さっき君を襲った『茎』の化け物も、元は人間なのさ…」
 その言葉を皮切りに、刑人は語り始めた――自分は…影魔とは何なのかを……――――――――――――――――――――
「じゃ、じゃあ…その影魔っていうのが、以前にもこの学園で問題を起こした――そう言う事?」
「そういうことだ。そして俺は、その出来事を暴こうと挑もうとしている影魔…ワースエクリプスと自分では名乗っている」
「ワース(Wrath)…それって、怒ってるって事…だよね」
「まぁな……あらゆる憤怒と憎悪を力にして、欲望を満たすために動いているわけだ。間違っても『正義の味方』のもつ性質ではないな」
 自分の手に平を見つめたまま自虐的に呟く刑人に、記子は更なる疑問と、多少の畏怖を感じていた。
 彼の言う事が本当なら、最初に会った頃の彼の態度にも、先程の彼の戦い方にも納得がいく。まるで怒りや憎しみを常に抱え、それを爆発させて叩き付けるような戦い方だったのだから。しかし…もしそうなら、彼はこの学園に対して怒っている事になる。彼は何に対して怒りを覚えているのだろうか?
 そう考えたとき記子はふと、初日に彼に手を引かれた時の事を思い出した。確かあの時、自分は急に手を掴まれて連れて行かれた。それはそう…恵理子と話していた時。
「ねえ…その怒りって、一之瀬さんに対して向けているの?」
 その疑問を尋ねた瞬間、刑人の視線が一気に鋭さを増した。その刃を思わせるような視線に、記子は「ひっ」っと恐怖の言葉と共に引いてしまう。
「…………やはりわかるか…」
「そりゃ初日に会話を邪魔されたからね………でもどうして…」
 何とかその恐怖に耐えながら、その理由を聞こうと刑人を見据える記子。そんな記子を見た刑人は視線をそらすようにベットの方へと俯きながら、独白のように語った。
「……あの『糞蛆』は、自分の幸せのために多くのものを踏みにじってきた女なのさ…」
「糞蛆って……」
「学校ではあんな風に善人ぶってはいるけどな……かつては『無価値』と共に、この学園を牛耳っていた性悪女なんだよ…っ!」
「ちょっちょっと…! 無価値っ、糞って…そんな言い方……っ!」
「酷いと思うか? しかし、あれらはそれだけの事をしたのは事実なんだよ……ついでに言うと、ここの連中もな…っ!」
「そんな……っ! ここで一体なにが会ったっていうの……っ!?」
「………」
 気落ちしながらも言葉を続ける記子に、しばし無言を貫いていた刑人。しかしその後に自分の服の胸元あたりを弄り始め、一つの円盤を取り出した。
「これを見れば、殆どの事がわかる……この学園で、どんな惨劇が起こったのかもな」
「これって…DVD、だよね?」
「あぁ…ここの再生機は?」
「え? あ、うん…それならそこに……」
 記子が指差したDVD再生機を向いた刑人は、ゆっくりとベットから降りる。そしてその場所へと向かい――彼女の方を再び向いた。
「………………俺は、本来無関係者である君には………少なくとも今は、これを見せたくはない。これを見ることは、今までの人間への認識を崩壊させる可能性もあるからな……」
 そう言い終えた刑人のその眼には、悲哀が滲み出ていた。それはまるで戻れない道へ進む自分を押し止めるかのような、彼自身の必死の歯止めのようにも思えるようなものであった。
「それでも………見たいか?」
「……………………」
 彼の念を押すような選択の言葉……しばし俯いた後、顔を上げた記子は口を開いた。
「…私も、今はこの学園の生徒よ。全く関係無いとは言えないわ……!」
 それが彼女の出した答え……その顔には今だ不安が残っていたが、覚悟を決めたような口ぶりであった。
「…わかった。ならこっちに来るんだ」
 その覚悟に、刑人も覚悟を決めた。再生機の前に座り込んで立ち上げ、そのまま起動させてから、手に持っているDVDを入れた。それに吊られるかのように記子もまた再生機、そしてテレビの前へとやってきた。
「……もし見るのがいやになったら、好きな時に止めていい。君にはそれが許されている…」
「え………うん」
 不吉さを感じさせるような言葉に少々気圧されしながらも、覚悟を決めるかのように息を飲む記子。そんな様子を見ながら、刑人は目の前のTVを付け、そのまま後ろに下がった。
「始まるぞ……」
 その言葉と共に暗転したままの映像を通して、かつての悲劇が語られ始める――
――――――――――――――――――――
 『ボチンッ!』
 その音と共に、TV映像が暗転した。そのスイッチボタンには少女の指が置かれている。
「…う…うぅっっうぅ……ぅぅうぅ…………」
 TVのスイッチから指を落しながら、記子は俯いたまま唸り声を上げてたまま動かない。
 ――…『水着陵辱』でギブアップか……初めてにしては良くもったな………
 そうやって彼女の限界を見届けた刑人は、彼女の前に陣取って再生機を止めてDVDを取り出した。
「…………これ………本当に起こった…出来事……なの?」
 DVDを片付けている刑人の耳に、記子の擦れた声が響く。
 あまりの衝撃的な内容を突き付けられて、打ちのめされた身体を動かす事が出来ない状態なのだろうか…その後ろ姿は、先程の陵辱された時の彼女よりも、絶望に打ちのめされているようでもあった。
「残念ながら本当にあった現実だ。かつてこの場は、一つの陵辱場だったのさ。歪んだ欲望に引き起こされた、な――」
 必死になって言葉を紡ぐ記子とは対照的に、刑人は抑揚の無い冷静な声でそう告げた。
「もっとも先程の場面は、彼女の受けた陵辱のほんの一端に過ぎない。実際にはあれとは比べ物にならぬほどの陵辱が長きに渡って展開されているがな」
「………この子……この後、どうなったの……?」
「―簡潔にいうなら……」
 記子のその言葉に、刑人の言葉がどもる。しかしそれも一瞬のことであった。
「この後クラスの男子全員に奉仕させられ『おちんちんが大好きな変態雌犬』と認識させられ、あの二人にに力を封じられ、散々に踏みにじられた後、今まで生きた意味や誇りの全てを踏みにじられた挙句、『踏みにじられて馬鹿にされ快楽に溺れる事が幸せ』と認識を歪められ、心を壊され――」
 刑人の言葉は続く。しかしその声に抑揚が生まれてきていたのが、記子には伝わってくる。
「あの糞蛆の奴隷として堕ちて、その次の日にあの無価値に戦いを挑んで倒したものの、その戦いのせいで、この学園生徒全員から『無慈悲な殺人鬼、幸せを壊す悪魔』という間違った認識を完全に植えつけられ、糞蛆の悪行の全てを闇に葬むった。この学園にいる者達の記憶を消去する形でな……。そして心が壊れた『おちんちん奴隷の殺戮鬼』のまま、今もどこかをさ迷っている――そんなところさ」
 最後には再び抑揚の無い声に戻った…そこで、独白ともいえる彼の説明は終わりを告げた。
「このDVDには、その光景が全て映し出されている。その『陵辱した相手』側から見た光景がな。無論、先程よりもっと酷い内容だから、ここでへばっていたらこの先の内容はとても見れないがな…」
「…刑人君はこの事に対して怒ってるの? この女の子が酷い目に合ったから…?」
「何故そう思う?」
「…彼女の事を話す時の刑人君、苦しそうだったよ……」
 そう言いながら刑人のほうに顔を向ける記子。そのの目には、今にも流れそうな程に涙が溜まっていた。映像の中で、踏みにじられて壊されてゆく少女の事を哀れんでいるのだろう。そして、他の少女達の事も…
「……俺は全てに対して、怒りを覚えている。これを起こした連中だけではない。それに目を瞑っていた連中をもな」
「っ!」
 刑人の言い放ったその言葉の意味、記子にはわかってしまった。知識不足ゆえに言葉には言い表せなかったが、彼の怒りがこの学園の者達にさえも向けられている事に。
「駄目っ! お願い止めてっ!」
 必死の形相になった記子の手が、彼の服を掴んだ。
「っ!?」
「そんな事したって、余計に悪くなるだけだよ! こじれるだけだよ!」
「…………あぁ」
 その言葉の意味を刑人は瞬時に理解した。自分がこの学園の者達に、力を持って復讐しようとしている…そう記子が勘違いしている事を。先刻、刑人の力を目の当たりにした記子だからこそ、そう思うのは当然ともいえた。
「勘違いするな…そう簡単に力を振り回すものか。俺だって、それが分からないほど馬鹿ではない」
 そう吐き捨てながら、腕を取っている記子の手を振り払った。
「じゃあ―」
「それはあくまで最後の手段だ」
「……え?」
 刑人の不意の言葉に、思わず呆けてしまう記子。
「俺は自分のやり方で、この一件に関わった者達を裁く……ただそれだけだ」
「…だから! それがいけないの!」
 悲痛に顔を歪ませながら、彼の肩を手を掴んで迫る記子。
「やられたからやり返す! そんな風に痛みをぶつけ合って苦しんで……そんな事、本当にさっきの子が喜ぶとでも思っているの!?」
 そういって映像に出てきたこの女の子を引き合いにしてまで、必死になって止めようとするツインテールの少女。今の彼女は誰かが苦しむ事が起こるのを止めたくて必死だった。
 しかしそんな彼女の思いも、今の刑人に届かない。先程に見せた刃のような視線をもって、刑人は口を開く。
「なら聞くが…お前は本当の純真な子が踏みにじられ壊されて、狡賢い奴が幸せになる――それでいいと言うのか? 」
「記憶は皆消されているんでしょ!? 過去の傷を無理やり掘り起こして拗れ――」
「他に記憶を呼び覚ます連中がいるとしてもか?」
「っえ!?」
 その言葉に驚く記子をから目を逸らさず、刑人は先程DVDを片付けた服の胸元あたりを指差しながら言葉を続ける。
「このDVD、どうして存在していると思う? そのあまりに淫猥な内容により、影魔達が欲しているからだ。そして欲情する影魔達によってこのDVDは少数、編集式ながらも量産された…影魔へと誘惑するための道具としてな。
現在影魔の連中…少なくとも、かつて俺がいた場所の連中は皆、ここの惨事を知っているってわけだ。
いくらそんな連中からでも、噂として流されれば、どうなって行くと思う?」
「そ、それは…っ! その…」
 その意味が分からない記子ではない。そんな事になれば、事の真偽に関わらずその者の人生は大きく振りまわされてしまう。
「それに、そんなものでは影魔達は満足しない。自らの縄張りからは動かないはずの影魔達の中にもここの…いや、天使である先程の少女の噂を聞きつけて求めてくる連中も出始めている」
「そんな……!」
 記子にはもう先程の威勢はなかった。この学園の周りがそんな状態だと聞かされて、流石に強く出ることができなくなっていたのだ。
 そんな彼女の事など梅雨知らぬかのように、刑人の言葉は更なる驚愕をもたらしてゆく。
「――いや、どうやら更に性質の悪い影魔達がここに集まりだしてきているのが現状か」
「っ!」
 その言葉に記子が驚愕した直後、刑人に伸びていた影が再び蠢き出す。
 その蠢いていた影が再び形を成し始め、やがて人の姿を形成し、一つの大きな目が見開かれた。それは先程、刑人の影から生み出された『影人間』であった。
「あ、貴方……」
「どうだ? 周りの状況は」
 急に現れた影人間に呼びかける記子など気に止める事も無く、影人間は問いかける刑人の言葉に答えるかのように、影人間はその身体を一瞬震わした。
 次の瞬間、影人間の影で作り出された身体に様々な映像が映し出されてゆく。
「きゃあっ!? こ、これ……っ!」
 影人間が映し出した映像に、またしても記子は心臓が飛びでそうになる。今日一日でもう、どれだけ驚かさてきたのか、もう分からない。
 だが、今度のは彼女が驚くのも無理は無かった。影人間が映し出したのは、ほぼ全てが異形の者であったのだから。
『キリギリス』、『蟹』、『海老』、『虎』、『蟻』、『羊』、『パンダ』……あらゆる生物、いや生物に告示した、先程の『植物』のように禍禍しく変化した者達が、学園の場所と思しき所に滞在しているのである。
 先程は教室の暗さも合ってその姿が今一つ掴めなかったが、影人間のハッキリと写された姿を見つめると、記子はその禍禍しさに、身を引いてしまう。
 その肌色、体格、そして股間についている男根……それを確認した時、記子は思わず頬を紅らめ、顔を両手で隠してしまう。
「なるほど…植物の記憶からかなりの数が潜伏しているのはわかっていたが、これほどとは…」
 刑人は一目見て、一人で納得したかのように呟いた。
「ねぇ…刑人君、これが…影魔?」
 両手で顔を隠しながらも、その指の間で見つめている記子は刑人に問うた。
「あぁ。こいつらが欲望に蝕まれた者のなれの果て、影魔」
 影人間が映し出す映像を見まわしながら、刑人は記子の問いに答える。
「この様子からするに――どうやら周りにはもう七十体近くはいるようだ」
「なっ!? 七十………っ!!」
 流石にその数に、心臓が飛び出しそうになる。一体だけでもあれほどの恐ろしさを秘めた化け物が、大勢で学園の周りに潜んでいるというのだ。まるで不良の集まりにたった一人で囲まれたような錯覚を覚え、記子は身体の震えが止まらなくなっていた。
「心配するな。少なくともこいつらは動く事は無い。今の所はな……」
「……どういうこと?」
「影魔というのは欲望に忠実だ。その欲望のせいで、やる時はいつも徹底してしまう。もし彼らが一体でも動けば…少なくとも、現状なら必ず大騒ぎになる」
 その言葉に、記子は先程自分が犯された時の事を思い出した。あの時も、相手は自分の意見など全く意に介さなかった。そして、目の前にいる少年もまた……
「だが、これだけの数がこうも動きがないのは、彼らにしては不自然……つまり強大な力を持った者が命令で彼らを抑え付けているって訳だ」
「! あの人達よりも、更に強い人達がいるの…?」
「化け物の姿を晒したままで存在しているのは、欲望という影の自分に飲まれただけの下級連中だ。影魔には、影の自分をその意思で支配し、人型の形態を持つ事の出きる上級型が存在する。恐らくはその上級影魔が何体かいるはずだ」
「上級影魔って、刑人君のような…?」
「俺の場合はそれすらも外れた――………………………っ!!」
 刑人の言葉が途中で途切れる。それと同時に目が驚愕に見開く。
「どうした……あ……!」
 説明を急に途切れさせた刑人の驚く表情に、記子もまた刑人が見ていた方を向いて……彼女も驚いた。
 彼が見ていた二つの映像――そこには異形の者と共に、しかしそれらとは明らかに違う、二人の少女の姿があった。
 片方は高貴さと美しさを兼ね合わせた、まるで王国の姫君のような雰囲気を醸し出す少女であった。あきらかにこの場にいることが間違いな少女が、眉一つ動かさずその場に立っていたのである。
 しかし、記子が驚いたのはもう一人の少女であった。
 種類こそ違うものの、彼女もまたとびきりの美少女であった。可愛らしい幼顔の上に括られているリボンがふわふわと揺られている。そして華奢な身体に、見事に整った制服。
 記子は彼女を見た事がある……いや、先ほどその姿を確認したばかりだった。そう…彼女は黒衣の少年が見せたDVDの映像、その後半辺りに登場してきた少女――
「これって……羽連さん、だよね…?」
 そう…まさにDVDに登場してきた少女そのものだったのだ。しかしその彼女が何故ここにいるのか。
 やはり彼の言う通り、彼女は完全に性の虜となって影魔となってしまったのか……
その事を聞こうと、記子は恐る恐る刑人に尋ね――
「違うっっ!!」
「っっひっ!」
 その言葉と共に、刑人の目が一気に鋭さを増し…その白目部分が一気に赤くなる。今までに無いほどの憤怒と殺意にを帯びた目と表情、そぼ雰囲気に記子は魂をそのまま引きぬかれそうな感覚に襲われそうなまでの恐怖に襲われていた。
「…………………あっ…………あっ…………っ!」
「……っは! すまない! 大丈夫かっ?」
 あまりもの恐怖に全身が振るえ目に涙が溢れ出した記子を見て、刑人は自分の怒声が彼女を恐怖を与えてしまった事に気付き、急いで肩を揺さぶって呼びかける。
「……………………………………う………うん…………大丈夫………」
 無理をしているのは分かっているが、それでも記子は何とか微笑む。
「…あまりこっちを見るな。恐怖で狂っても知らないからな」
 何とか記子の安堵を確認した刑人は、自分の顔を見せぬようにして、再び影の写す映像に目を向けた。
「刑人、君………………………………………………………………………さっきの、違うって言うのは………?」
 何とか恐怖が収まり、冷静さを取り戻した記子は背中を向けたままの刑人に改めて問うた。
「……俺も流石に、本当に彼女がここにいるのかと思ったよ………」
 それは先程までとは違う、弱々しい返答だった。よほど先程の怒声を後悔してしまったのか……しかし次にはもう、先程の抑揚の無い声で話はじめる。
「だが、やはり違う。常人には分からないが、彼女はあきらかに別人…影魔の一人が変化した紛い者だ。あのプラントの持っていた情報は確かなようだな」
「…どうして、そんな事が分かるの? 情報って……」
「それは――」
 それを答えようとした時、刑人は映像を見つめたままで動かなくなる。
「…? どうしたの、刑人君?」
 そのままで動かなくなってしまった刑人を、再び記子は肩に手を置き揺さぶる。
「ねぇ…刑人君。…刑人君ってば!」
「これは……間違い無い……っ!」
 その呟きを、記子は聞き逃さなかった。
「…間違い無いって………なにが…?」
「…今映像に映っている影魔達…その十体くらいが何かやっているのは分かるだろう?」
「うん……なにか、黒いものを地面に流し込んでいるように見えるけど…」
 確かに記子が見ている映像に映った影魔達、その中には両手を地面につき黒い波動を地面に流しているものがいた。
「あれは、結界を作るために流し込んでいる影の魔力だ。奴等はあの女型の影魔を中心に、この学園を覆うように影魔達を配置して、結界を形成しようとしているのさ。ある呪力の発動の為に」
「なっ! …それってどういうものなの!? 皆に被害とか――」
「――これは本来、今日からでも俺が作り上げる筈だったものだ。実害はないが、ここの人間全員に影響がある」
 いったい何を仕掛けられるのか分からず、事実を問おうとした記子に答えるかのように、刑人の説明が部屋に響く。
「……それってつまり……どんなもの?」
「俺が作り上げると言うことは、俺の目的に必要なものだったという事だ。
俺の欲望は、ここの連中を裁く事。しかしその為にはここの連中の記憶を甦らせる必要があった。記憶の無い者を裁いても意味はない。
つまり……! 俺の作ろうとしていたこの結界は――記憶復元の」『ウォンッッ!!』 刑人の言葉が終わる前に、地面に手を置いている影魔達の昏き光りが一気に増大する。
それと同時に、刑人達は脳の方に微弱ながらの電撃が走り始める。
「きゃっ! な、なにこれ……頭が…っ!」
「くぅぅぅっ…や、奴等…かなり無理に魔力を流し込んでやがるなぁっ…!」
 二人は頭を抱えたまま、目の前に火花が飛び散るのを止められずにうなってゆく。
「くぅぅぅぅっ! こ、これは――」
 そう言う刑人の目の前で、かつて自分が影魔に堕ちてゆくときのことが垣間見え出していた――
――――――――――――――――――――
 ある病院の一室。隔離されているものと思われるその場所で、一人の少年が苦しみにのた打ち回っていた。まるで何かと戦っているかのように…
 
 彼の心の中では、二つの意思――そのどす黒い方が、透明な方の意思を覆い尽くそうとしていた。
 ―…俺の力を受け入れろ。俺と一緒になれば、どんな女も犯し放題、好きな事をし放題だぞ?
 ――……
 ―俺を利用するだけでもいいんだ…俺の力はお前にとっても有益だ。なんせ色々と力を組み込まれたんだんだからな…そうだろう?
 ――……
 ―下らない良心に惑わされる理由なんかないだろうが? お前を裏切ってどん底に落として『殺した』人間を庇う理由なんて無いはずだぞぉっ!
 ――……あぁ、そうだな。
 ―フッフッフ…物分りが早い奴だ。それではさっさとと混ざり合おう…俺達を踏みにじった奴等を殺して、殺して、殺しまくってやろうぜぇぇっ!!
 ――…確かに、許せない奴を、今にも殺してやりたい気分だよ…っ!!
 今にも食われそうな片方の意思が、そう言い放った時――その意思への侵食が止まり……先程まで侵食していた方が逆に侵食し始めていた。
 ―なっ! 何だ、この力はっ!?
 ――……まさか僕の中にあいつらと同じ…ここまで心が醜くかったとはな……っ!
 ―馬鹿な! 俺が…『影』の俺が…逆に蝕まれているだとぉぉっ!?
 ――……確かに憎い、僕をこんな風にした連中を…身勝手な人間を…………だが! 今は僕は僕を――いや、貴様(おれ)自身が憎いっ!!
 ―待て、よせ! ここで俺を殺してしまえば、いずれはお前も――や、止めろぉぉぉっっ!! 
 ――しねぇぇぇぇぇぇっ!! 虫けらぁぁぁぁぁぁぁっっ!!
 ―ぎゃっっああああああぁぁぁぁぁぁ―――――――――――っっ!!
 その断末魔と共に、どす黒い意思の塊は霧散…完全に消滅した。そして残ったのは……どす黒くも無く、しかしもはや透明でもない、禍々しくも純粋で透き通った闇の霞が一つ残っただけであった――
――――――――――――――――――――
「―――うっ………」
 目の前に景色が戻る。女の子の部屋の景色が。
「うぅぅ……どうなった…? …記子…っ?」
 一体どれだけの時が過ぎたのか。この影響はどこまで響いたのか。同じように精神を干渉された記子は大丈夫か。
 そんな事が頭に、そして心に不安がよぎる。瞬時に周りを見渡して―
「くぅぅ…ちょっと、頭に響いちゃったな…」
 先程と同じ場所で、記子は抱えた頭を振っているところだった。その状況を見るに、どうやら心配するほどの事にはならなかったのは確かなようだ。
 それを確認すると同時に、安堵の溜息を漏らす刑人。
「記子…よかった………」
「刑人君………………ありがとう………心配してくれたんだ……」
「無関係な者が苦しむのは見たくないからな…」
「………………………もう少し気の聞いた言葉を吐くとこだよ、そこ……」
 気の利かない刑人の言葉に、流石の記子も少しだけムスっとふてくされた。
「すまないな。こんな性格なもので………それよりも頭のほうは大丈夫か? 記憶は…」
流石の刑人も、先程の結界の力で記子の脳に異常が来ていないか心配だった。
「うん……………………実はね……さっき、昔の事を思い出したの」
「…さっきの記憶干渉の影響でか…」
「うん。それでね――」
 彼女の言葉が一瞬詰まる。もしかしたら、昔の辛い過去の出来事を思い出しているのか――
「――昔大切にしていたクマさんのイヤリング、どこに置いたか思い出せたんだ」
「……はい?」
「子供の時に、お母さんが買ってくれた大切なイヤリングだったんだ。でも、どこに置いたか忘れちゃってあきらめてたの。もう昔の事をなのに、思い出したらなんだか嬉しくって」
「そ、そうか…」
 先程まで恐怖に震えていたり、必死に自分を止めようとしていたのが嘘のように…記子は喜びの表情を絶やさぬままに身体を震わせていた。
 どうやらその場での表現力が強い子であるようだ。思ったほどの心痛にならなくてほっとしてはいるが、流石にどう話しかけていいのかわからず、刑人は表情を崩したまま傍観していた…
「で、刑人君はさっきので、何か思いだしたの?」
「え? あ、あぁ……大した事ではない。昔、影魔に身を堕とした時の事をな…」
 不意に話しかけてくる記子に思わず対応が遅れてしまったが、勤めて平静を保ちつつ刑人は先程思いだしたの記憶の事を話した。
 かつて見せ付けられた、薄汚い欲望に彩られた愚かな連中と同じ自分の姿。そんな「自分」に対して芽生えた怒り。そして自分自身の『殺害』……「ワース」誕生の瞬間――
「……ごめん…嫌な事聞いちゃったね…」
 刑人の告白を聞き終えた記子の表情が再び影を落としてしまった。流石に言い気分になれる無いようではなかったのだろう。しかし刑人は気にしていなかった。今の彼にはこれからの事のほうが重要なのだ。
「別に嫌な事ではない。それに、その一件があったから今の俺がある。むしろ感謝しているくらいだがな。
……それよりも、これからが大変だぞ?」
「え? ……あ、そうか…………」
「そういうことだ。今君が止めようとした事の一つ……俺がやろうとしたことが、結果的には通ってしまった。
そして学園の周りには大量の影魔。周囲には、薄汚い過去の幸せに溺れる人間達……」
「…………」
 いつもの睨むようなの表情に戻った刑人の宣告ともいえる言葉に、記子は息を呑みながら聞く体制を取る。
 それはまるで、これからの過酷な運命に戸惑う子羊のように震えていたが、立ち向かう姿勢は崩れなかった。
「現実からは逃げない、と言う事か……なら覚悟だけはしておけ。少なくとも、明日は学園内は騒然となる」
「……分かった…」
「ならいい………………今日は、助けてくれた事には感謝しているよ」
「………うん、どういたしまして」
 話し終えた刑人は立ち上がり、自分の部屋へと戻るために、玄関の方へと踵を返した。記子もまた、彼を見送るために立ちあがり、彼に付いて行く。
「――明日の学園の状況を見て君は…………いや、なんでもない」
「…………」
 その部屋を出る前に足を止め、ふと呟いた刑人の言葉に、記子はただ彼の背中を見つめる事しか出来なかった――


――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――

 次の日、学園内は騒然としていた。
 最初は徐々に、次第に回りに、そしてうわさたちとなって生徒たちに横行し始めた。
「なぁ……先日の朝のことを覚えているか?」
「…え? あぁ…そのことか……思い出さすなよ…怖ぇだろうが…」
「あ、あぁ…すまん。あんなの、普通は思い出したくないわな…」
 登校がてらに会った、二人のクラスメイトたちの会話は恐怖に震えていた。
――――――――――――――――――――
「まったく、人は見かけによらないって言うよねぇ」
「人は…あぁ、あの女の子のこと? 確か、はむ…」
「名前なんてどうでもいいわよ。まったく、可愛い顔して飛んだ噛ませ女だったわね」
「おいおい…いくらなんでも…」
「いや、あながち間違っていないと思うぞ? あんな女王様気取りの服着て、見せびらかしていたのかな?」
「知らないわよ。全く…本当、迷惑な話。何様かは知らないけど、化け物同士の殺し合いなんて別の所でやって欲しかったわ」
「確かに…あの様子だと、平気で俺たちまで巻き込みそうだったもんな…」
「どうせ他のところでも、あんなふうに化け物を殺すのを愉しんでんでしょ? とんだ性悪女よね…」
「でも…それだったら、前に写真部が掲載していたあれはなんだったんだろう?」
「二面性を使い分けているのかもよ。あるいは、甘い顔して近づいて相手を殺しているとか…」
「やめやめ。もうやめようよ。あんな殺人鬼、思い出すだけ馬鹿ってもんよ…」
「そう…………かも、ね…」
「おぉこわこわ……」
 ある教室の一角における、クラスメイトたちの会話。今、学園においてはこのような会話が横行していたのである。
――――――――――――――――――――
 そして、別の会話もまた横行し始めていた。
「おい、どうした?」
 机でうつむいている男子生徒を見かけて、別の男子生徒が声を変える。
「あ、いやぁ…ちょっとな…」
「あぁ…もしかしてお前………いやぁ…実は俺もそうなんだよ…」
「お前もか? まぁ…あんなふうにペロペロしてもらったんじゃなぁ……」
「最高だったようなぁ…あの子の舌。可愛い顔して……またあんなふうにやってもらいたいなぁ…へへ」
 互いに俯き合う男子二人。だがその目は欲情に歪み、手が股間の…腫れあがっている部分に置かれている。
「俺は彼女の……あそこに…入れたいなぁ……気持ち良いんだろうなぁ……」
「あ、でも…彼女って、他人を平気で殺すんだろう…近づいたら……」
「大丈夫だよ…あれの姿を見たろう? あんなエッチな姿をして…きっと堪ってるんじゃないか? お願いしたら案外、かもよ? ぁあ…俺、思い出すだけで我慢できねえよ…」
「おいおい、お前…こんなところで……」
「心配いらねぇさ…他の連中も、同じこと考えてるって……」
 その言葉に、思わず周りを見回す男子生徒。彼が見つめたその周りには…同じように欲望の眼差しに歪んでいた男子生徒が多数存在していた。それはまさに欲情した雄の群れであった。
「み、皆考えてるのは同じって事か…?」
「そういう事……あぁ…またこっちに来てほしいなぁ……ハハ……」
「確かに…あんな可愛い悪魔なら、やってほしいよなぁ…へへ……」
 ……その日の2−Aの教室においては、現在このような会話と視線が横行していたのである。
「な、何……? 今日の男子…キモ…」
 その光景に、女子生徒たちは恐怖で身を引いていた…
――――――――――――――――――――
「…どうしたの、啓子?」
「う、うぅん……何でも…」
「そう? 顔色悪いけど……」
「何でもないんだったら! あっち行ってよ!」
「っ! ご、御免……」
 また別の教室においては…否、学園内における一部の女子生徒はかつての絶望に身を震わせていた。
(…何でよ……なんで今更、あの時のこと思い出すのよ! あんな…汚らわしい物が私の中に…いやぁぁぁっ!)
 ―彼女はかつて、学園内にいる不良達に陵辱された女子生徒の一人であった。かつて学園を牛耳っていた影魔の姦計により、一人の女子生徒に近づいた女子全てがレイプされた…その記憶が鮮明に蘇り、苦悩の記憶として苛ませていたのである。
今、学園内における『陵辱された』女子生徒の一部がこのような状態に陥っていた…
(いやぁ…! 助けて…誰が……いや…こんなこと…知られたら…イヤァァァァッ!)
――――――――――――――――――――
「違うっ! あの子はそんな人じゃない!」
 昼休み――学級会議室において、ポニーテールの少女…一之瀬恵理子は必死の形相で訴えかけていた。
 最大の親友…ある意味恋人ともいえる少女である羽連悠美。その彼女が今、畏怖と欲情、そして非難に晒されていることにいてもたってもいられず、生徒会室に訴えかけてきたのである。
 親友でありかつての事件の関係者…加害者とも言える彼女にとって、今の状況は本当にいたたまれないものであった。その状況に気づいてすぐ、皆を説得するために訴え始めていたのだが…誰も耳を傾けようとはしなかった。
 それは彼女が逆に信頼あるものであったこと…次期生徒会長候補が『化け物』とつるんでいるなんてありえないという先入観。そして先日の一件がそれ程に衝撃的なものであることの裏付けでもあった。
 そんな様子を見た恵理子は、風紀委員という立場ということを利用して、なんとか生徒会から真実を訴えようとしていたのだが……
「しかしなぁ一之瀬さん…君は知らないからそんなことを言えるんだよ。彼女が、人質に捕られていた女子生徒に躊躇なく抹殺したところを。
あんなのを見せられて、はいそうですかと納得しろというほうが無理なんじゃないか。」
「それは、きっと悠美にも何か考えが…大体、彼女が殺したっていう女子生徒が誰かなんて…その死体だってまだ見つかっていないんでしょ!?」
「それはそうだが…仮にそうだとしても、あんな校則違反バリバリの女王様気取りの変態女みたいなのが、まともな精神を持ってるわけないと思うんだけど?」
「な……何ですってぇぇっ!」
「ひっ!?」
 あまりに心無い言葉…親友に対する侮辱に、恵理子の顔が普通と怒りに歪む。その形相に話していた副会長のプレートを胸に翳した生徒が恐怖で後ろに引いた。
「………一之瀬さん…なんで、そんな女に肩入れするんだ?」
「決まっているでしょ! 私の友達だからよ! 友達じゃなくても…こんな純真な子が非難に晒されて、黙ってられるわけないじゃない!」
「オイオイ…冗談だろう? あんなヒロイン気取りの変態と友達? もうちょっとマシな嘘をついてくれよ」
「だから! ヒロイン気取りじゃなくて、本当のヒロインなの! 彼女は皆を守って―」
「……なぁ一之瀬、お前…彼女になんか脅されてるのか?」
 必死に訴える彼女の言葉をさえぎって、その場にいた別の男子生徒が恵理子に呼びかける。
「…えっ?」
「今のお前異常だよ…そいつと何かあったのか知らねえけど、そんなに守ってやるほどの相手なのか? もうちょっと落ち着いたらどうだ」
「な…ふざけないでっ! あんたに彼女の何が判るって言うの!?」
「っそ! そりゃぁそうだが…どっかいった奴のことよりも、今いる連中を守ることのほうが大事なんじゃないのか?」
「そ、それは……!」
「ほら、お前にいつも引っ付いていた…瞳って言ったか? 今日はどこにも姿が見えないようだが、一体どう………まさか、彼女を人質に捕られているのか?」
「な…違う! そんなんじゃ―」
「一之瀬…俺達、仲間だろう? 何かあったら協力するぜ。今まで助けてもらった分、ここで返し――」
「だから! 違うっていってるでしょうっ!」
 ついに耐えられなくなって、絶叫を上げた恵理子。その悲鳴に、廊下にいた生徒達も体が竦んでしまう。
「どうして………………どうしてわかってあげられないのっ!?」
 その言葉を最後に、恵理子は脱兎のごとく部屋から飛び出していった。その光景を、男子二人はただ呆然と見据えていた。
「はぁっはぁっはぁっはぁ――きゃぁっ!」
 向こう見ずに走るも…思わず足を滑らせてこけてしまう。勢いで眼鏡が外れて地面に落ちてしまった。
「いったたたた…………あ…眼鏡…」
 落とした眼鏡を探そうとして…目の前に眼鏡が置かれた手を差し出される。
「あの…一之瀬さん…これ……」
「あ…委員長……ありがとう…」
 眼鏡を取ってくれたのは、同じクラスの委員長であった。彼女は気付かずに自分のクラスの前を走っていたのである。差し出された眼鏡を手にとってかけながら、恵理子は立ち上がった。
「どうしたの……物凄い勢いで走っていたみたいだけど…」
「う…うぅん。なんでもないよ……あっ! それよりも―」
「おぉ、一之瀬! ちょうど良いところにきてくれた!」
 用件を話そうとしていた恵理子の言葉をさえぎるかのように、他の男子生徒が声をかけてきた。それに合わせて男子数名が恵理子の前に現れる。
「きゃぁっ! な、何よ。皆そろって…」
「あぁ…いや……実は俺達…一之瀬に用事があってな…」
「用事ってな……………っっ!」
 その用件を聞こうとして、恵理子は彼らの表情に思わず後ろずさる…欲情に歪んだ視線を目の当たりにして。
 その場にいた男子全員…恵理子に眼鏡を取ってあげた委員長ですらも、下卑た視線に歪んでいたのである。それが何を意味するのか…当事者として関わった恵理子には痛いほど分かっていた。
 男子更衣室で、彼女を男子達の慰み物にして辱めた自分にとっては。
「その…お前と付き合っていた……その…悠美ちゃん…なんだけどな……なんとかして、もう一度合わせてくれないかな………」
「あ………あ………っ」
 さすがに大っぴらには公言できなくてもじもじしていたが、皆が異質な威圧感をもって恵理子に迫っていたのである。
「学園の連中には内緒にしておくからさ……頼むよ…な?」
「そうそう……俺…あれを思い出すと、我慢できなくてさ……俺達と恵理子の中じゃないか…」
「僕も…あのときのように………また、僕のものの…弄って欲しいな…ヘヘ……」
 自分の勝手な欲情を漏らし始める男子生徒たち。その心のうちには、かつて更衣室で起きた出来事が鮮明に過ぎって―
「っっやめてっっ!!」
 その状況に、悲鳴を上げて拒絶す恵理子。余りの声の大きさにその場にいた男子はもちろん、回りの生徒達もそのほうを向いた。しかしそんな状況を気にすることもなく、恵理子は俯いたまま体を震わせる……そして涙を溜め込みながら、怒りに顔を歪ませて男子達を睨み付ける。
「皆…みんな………自分勝手すぎるっっ!!」
 そんな捨て台詞を吐きながら…走ってきた方向へ再び逆送する恵理子。あまりの事にその場にいた全員はなす術もなく、ただ呆然見続けていた。
(どうして…どうして皆、悠美のことを信じてくれないの!? どうして…!)
 皆が悠美のことを蔑み恐怖する…そんな光景に恵理子はただ混乱しながら、泣きながら走ることしか出来なかった。いや、そもそも今日という日が異常であった。朝起きた時、瞬時に脳裏を過ぎったかつての記憶。
 操られていたとはいえ、一人の親友とともに彼女を踏みにじって愉しんだ日々。彼女達の闇を見ながら、何も出来ずに流された時。そして永遠の別れを止める事の出来なかった自分の無力さ……
 幾ら自分を責めても責め切れない……最愛の親友が自らを賭けて消してくれたその時の苦悩を、何故皆が思い出しているのか。そして皆がその事を責めるばかりで、彼女の想いを全く認めようとしない。
(御免なさい、悠美…! 私……皆を、止められない…っ! どうしたら…どうしたらいいのっ!?)
 様々な疑問と悲痛に頭の中がぐしゃぐしゃになりながら…恵理子はただがむしゃらに、逃げるように走ることしか出来なかった……
――――――――――――――――――――
「なぁ…今日、主将は一体どうしたんだ?」
「主将? そういえば…今日は一日中落ち込んでいたなぁ…」
 放課後…学園のグラウンドで自主練習をしていた部員二人は、自分の部活の主将である藤本が元気がなかったことに訝しがっていた。
「う〜ん…多分マネージャーの件で悩んでるんじゃないのかな……ほら噂になっているあの一件…マネージャー、酷い合わされたからなぁ」
「あのヒロイン気取りの性悪女のか? 確かに…あの女のせいでマネージャーが踏みにじられたからなぁ……」
「それだけじゃねえだろ…あの朝に、囚われたマネージャーにあんなことしやがって…くそっ! 思い出すだけで腹が立つ!」
「全く――ってあれ? でもあれって……そんなレベルですむ問題だったか? 確かあの時…」
「あぁ!? そんなことはどうでも良いだろ! くそっ! あの女……こんなことなら、あのときにもっと痛めつけとけばよかったぜ!」
「…そうだな。性悪女の分際で、やられたことを逆恨みしやがって…っ! 今度あったら、あの腐ったケツの穴、二度と使えないくらいに捩じ切ってやろうぜ!」
「いや、尻の穴だけじゃねぇ…身体中の穴という穴を犯しぬいたほうがいいだろうな」
「ん? 待てよ……あの女、どうせ汚い身体なんじゃねえか? だったら俺達のまで汚すことはねえだろ。あの女如き、このバットで―」
『皆〜。今日はもう上がりだよ〜』
 二人の思考と表情がどす黒いものに塗りつぶされようとした時、グラウンドに少女の声が響き渡る。その声に二人がハッとなって声のした方を見ると、そこにはショートカットの少女がボードを持って皆に号令していた。
 結城望――彼女もまた、嘗て起きた陵辱の惨劇に巻き込まれた被害者の一人である。そしてその首謀者に関係の道具として弄ばれた女性でもある。
『あ…マネージャー…』
「皆御免ね……藤本君、どうも元気がなくって。今日はこの辺りで上がっていいから」
「そ、そうですか…あの…主将、そんなに元気無いっすか?」
「うん……ちょっと、あることで悩んでいるみたい…」
「あ、あの…それって、マネージャーのこ―」
「馬鹿っ! お前、もう少し考えてから―」
「あ、いいのいいの。私、あのことはもう気にしてないから…それじゃあ私、藤本君と明日の打ち合わせがあるから。また明日ね」
 そう言い終えた望は踵を返し、野球部の校舎のほうへと歩を進めた。
「なぁ…もう止めにしようぜ、この話」
「あぁ。あんな糞女の話題でマネージャーを振り回すのも馬鹿馬鹿しいからな…止めだ、止め」
 そう言いながら、後者の更衣室のほうへと向かい歩き出す。……この一件をその場で話していたのはその二人であったが、今いる野球部員の殆どは同じ考えであった。
(ケッ、あんな性悪女…どっかでくたばっちまえばいいんだ)
(いっちょ前に天使の姿をして、中身は最悪のやつだったよな…関わるとろくなことがない)
(あの女、締め付けだけはよかったなぁ…どうせどっかの馬の骨ともよろしくやってんだろうよ)
 このように自分達が助けられたことにも気付かず、天使を蔑む考えは野球部員に蔓延していたのである。
 ただ二人…野球部の部室に佇む場を除いて。
「藤本君…」
「………」
 部屋に入ってきた望が心配そうに声をかけたその先には、机の凭れ掛かりながら頭を抱えている一人の少年がいた。藤本と呼ばれたその少年の表情は、まるで少年のものとは思えないほど、苦悩に歪んでいた……
――――――――――――――――――――
 話を遡る事少し――その日の昼休み……屋上にて。
『バタンッ!』
「はぁっ…はぁっ…はぁ……はぁ……はぁ……やっと見つけた…こんなところにいたんだ…」
 今まで走ってきたとでもいわんばかりに、記子は必死に荒げた息を整えながら陽の照り付く外へと出てきた。そのままお目当ての人物を見つけ、腰に手を当て呼びかける。
 建物の上に足を降ろして座っている少年に向かって。
「捜したよ…もう! ……今周りの皆がとんでもないことになって――ひっ!」
 文句の一つも言わんと刑人に近づこうとして、記子の全身に恐怖が迸った。瞬時に恐怖に顔が歪み、全身が硬直して後驚愕に震えてゆく。
 他人から見れば一瞬何の漫才をやっているのか分からないような行動であったが、そうなるのも当然のことであった――少年の怒りに歪んだ顔と、その奥に潜む真紅に染まった鋭い目を向けられれば…
「あ……あ…っ! あ……あが……っ!」
 その表情はまるで鬼…とても可愛らしい素顔を持った少年ができるようなものとは思えないものであった。しかもその睨む視線は、只ならぬ威圧感を発していた。
 その目に睨まれるだけで、まるで魂を抜かれるかのような絶望と恐怖が全身を支配するのである。まさに蛇に睨まれた蛙の様に、記子は全く動くことができなくなっていた。
しかし…
「……お前か…」
 自分の元にやってきた人物が知り合いであることを確認した刑人。目の色が人間のもつ本来の白き瞳に戻ってゆく。表情も幾分穏やかになり、いつもの多少不機嫌な彼の顔になった。
 それと同時に、記子は金縛りから解き放たれたかのように膝から地面へと崩れていった。
「っっかはぁ! ……はぁ…ああぁ……っ! はぁ……はぁ……」
 金縛りから解かれたように、記子は崩れた場所で空気を貪った。それほどまでに刑人から放たれていた威圧感は凄まじいものであった……怒りの感情から放たれているものは。
 その恐怖から少しでも逃れようと必死に呼吸を整えていた記子の両肩に何かが乗せられる。
「はぁ…はぁ………あ…刑人、君?」
「大丈夫か…?」
 記子がふと顔を上げてみると、建物の上から降りてきた刑人が肩を掴んで揺さぶっていたのである。異性の急な、しかも表情同士の接近に記子は思わず顔を赤らめてしまった。
「あっ! う、うん、大丈夫……だよ」
「そうか」
 思わず顔を背けてしまった記子の状態を見て大丈夫だと見た刑人は、彼女の方から手を離し、再び空の方を向く。何とか立ち上がった記子も彼の背中を見た。
「…今の学園は異常だ、とでも言いに来たのだろう?」
「…あ、そうよ!今日の皆、昨日と感じが全然違うの。まるで別人みたいで、怖い…」
「だろうな。というよりも、知らない者がこの雰囲気を正常というほうが問題だろう」
 そう呟きながら刑人はため息を一つついた。
 その日の学校が始まってからというもの、記子は授業を除いて刑人の姿を見かけなくなっていた。まるで授業が終わった瞬間に消えてしまったかのように。だがそれよりも彼女は教室内での級友達の変化に異様な感じ……恐怖と悪寒を感じざるをえなかった。まるでその場にいるだけで、女性としての危機を本能で感じるほどであった。最初の授業を受けていたときにはそれがなんなのかは分からなかったが……授業が終わって、休み時間が始まったっ時にその理由が分かった。
 その日、談笑する男子と女子は完全に分かれていた。というよりも男子連中が女子に隠れるかのようにこそこそしていたと言った方が正しい。それがなんなのか分からず、思わずその場に近付いて…記子は見てしまった。まるで獲物を見据えて欲情する獣のような男子生徒達を。
 心ここに在らずといったふうに、互いにこそこそ話し合う男子――まるでその場にいるだけで獲物にされそうな雰囲気は、昨日に陵辱された恐怖を思い出させるのに十分なものであった。
 本能的な恐怖を思い出させるその光景から離れ、今度は女子のほうへ逃げると…今度聞こえてきたのは、震えるような恐怖の会話。
 まるで何かに対する畏怖と軽蔑。まるで温かみの感じられない言葉が連ねられていることに気付いて、更なる恐怖に襲われそうになる。しかもその会話を聞いているうちに、それはある一人の人物――昨日の夜にTVの中で見た一人の少女に対して向けられていることに気付いたのである。
 この事が昨日見せてもらったDVDと関係があることが分かった記子は刑人に話を聞こうとして…刑人がいないことに気付いた。
 教室の周りを捜してもどこにもいない。外を捜してもどこにもいない。そうこうしている内に、次のチャイムのがなって教室に戻ると、その席には刑人が戻っていた。
 今度はちゃんと聞こうとして、授業が終わってそこを見るとまたいない。どこを捜してもいなくて、授業のために戻るとちゃんと刑人がいる……そんなことを繰り返しているうちに、いつの間にか昼休みになってしまった。
 そして昼休みにもいなくなってしまった刑人を捜して、屋上までやってきて……今にいたる。
「―って! そのことを聞きたくてずっと捜してたのに、どこにもいないんだから!」
「それは悪かったな。だがそんなことに対応しているほど暇がなかったものでね」
「へぇぇっ……誰からも気付かれないようこそこそするようなことが、それ程重要なことなのかしら?」
「あぁ」
 つれない刑人の反応にジト目になる記子。だがそれを気にすることもなく刑人は左手を空にかざし、まるで振り払うかのように空を凪いだ。瞬間、手に染まった血が宙へと降り注ぎ…瞬間、その血が生き物のように飛び立つ。
「…え!?」
 その独特な美しさを醸し出している光景に記子は一瞬見惚れてしまう。だがそれも次の瞬間、血の流れが弾けて空へと溶け込み元の空へと戻るまでであった。
 次の瞬間、頭のなかで何かが固定されたような感覚を受け、記子は頭を抱えたまま戸惑った。
「な…何? これ…」
「これでいい…」
 戸惑った記子に対して、刑人は納得のいったようにため息をついた。
「これで、いよいよ後戻りできなくなったな…」
「…どういうこと? 一体何をしていたって言うの?」
「記憶保護……このあたりの人間に対して、今張り終えたところだ」
「記憶、保護……?」
「事が終わった後…もし俺の策が成功した時、この能力が重要になってくる……とだけ言っておく」
「?」
「…俺に聞きたいことがあったんじゃなかったのか?」
「あっ! ………今のこの学園で皆が話してるのって、昨日見せてくれた『羽連悠美』って女の子のことだよね…」
「……そうだ。今では完全に畏怖と欲情の対象として、学園の噂になっているな」
「で、でも…一体どんなことをやったら皆、あんなになるっていうの!?」
 その場にいたときの恐怖を振り払うかのように、記子は悲鳴を上げる。まだ浅いとはいえ、仲良しになり始めていた級友達の変貌ともいえる状態を否定するかのように。
 それほどまでに――昨日まで明るくて優しかった皆が、たった一日で陰湿で欲情で悪意をこそこそと話している――今日のその光景を記子は信じられなかったのである。
 実際、今もなお別の世界に放り込まれたような錯覚さえ覚えていたのである。両腕で自分を抱きながら、記子は顔色を悪くしながら俯いてゆく。
「私……今のあの人達、怖い………」
「だろうな…あんな陰気な世界、好き好むのは影魔くらいなもんだ」
 震える記子など目にもくれずに、刑人はただ単に言い放つ。しかしその後に、記子の方を向きながら紡ぐ言葉は、ずいぶんと柔らかなものであった。
「もっとも、それだけ酷い出来事があったことの裏返しでもあるな。そしてここを牛耳っていた影魔の姦計が陰険で悪質だったってことだ。……まぁ、余り気にしないことだ。別に君が責められているわけでもないだろう」
「それは確かにそうだけど…………刑人君はこうなることが分かっていたの?」
「…あぁ。あの子が受けた屈辱の日々の記憶をそのまま持ってくるようなものだからな。今この状態とて、俺の中では想定の範囲内だ」
 そんなふうに言いながら…刑人の顔が次第に歪んでゆく。
「…実際の現場は、想像異常に醜悪で禍々しいものだったけどな……っ!」
 必死に抑えているようではあるが、それでも明らかに怒りを露にした声で刑人は話し続ける。それは明らかにこの学園の生徒たちに対しての怒りであることは記子にも分かっていたが、それでも彼が放つ『怒り』は恐ろしい。
 本能的な恐怖を引き起こされるとでもいうのだろうか…何度見せられても、やはりこれは慣れるものではないものだった。
「そ、そんなに怒るんだったら…やらなければよかったじゃない……」
「…やったのは俺じゃないんだが…」
「結果的には一緒でしょ! もう…学園をこんな風にして、一体どうするつもりなの…」
 半ば呆れ顔になる記子に対し、本来の表情に戻りつつも真顔のままで刑人しばらく見つめ…決意を持って話す。
「昨日も言った筈だ。この一件の裏側にある内容全てをここの連中に…公開できる者に話すと」
「……刑人君には悪いけど、今は何を言っても皆聞いてくれないと思う…」
 あくまで真剣に自分の考えを述べる刑人に対して、記子の表情は芳しくなかった。教室だけでなく、ここに来るまでに様々な人が噂していたのを耳にしていた記子には、この状況を覆す術等どうしても考えられない。
 ましてや非難されている人を救うためにというのなら、これは明らかに選択ミスといえる。逆に圧倒的多数の波に飲まれて、封殺されてしまうのが落ちだろう。
「今の皆に、彼女のことを擁護したって無駄………確かにそうだろうな」
「え?」
「実際…今、その壁に阻まれて焦っている奴がいるからな」
 そういう刑人の言葉の意味がわからない記子に、刑人はパチンッと指をならす。その瞬間、太陽を通して移された彼の影が盛り上がるように形を成し始め、人の形を成す。
 そして影人間…記子が昨夜であったものと同じ影の塊が、俯いた状態で現れた。その影の胴体辺りが震え…一つの画像が映し出された。まるでTVのような光景の中には、ある一つの部屋での出来事が映し出されていた。
『違うっ! あの子はそんな人じゃない!』
「…一之瀬さん…」
 その後ろ姿…昨日でもあれほどお話ししていたポニーテールの少女が必死になって叫んでいる姿を見つめている記子に、刑人は説明を続ける。
「今影を通して、彼女の状況を伝えている。どうやら事の重大さに気付いて動き始めたようだ…」
 そういう刑人の言葉は穏やかであったが…次第に目が刃のように鋭くなってゆく。そして次に発した言葉の中には、殺気すらも含まれているようにも思えるものであった。
「自分の悪業がばれて、楽園と奴隷…そしてなにより自分の尊厳を失うことが恐ろしいか……どこまで腐ってやがる…っ!」
「なっ!?」
 刑人の履き捨てるかのような台詞の意味が分からず、記子は素っ頓狂な声を上げた。そのまま刑人のほうへと詰め寄って怒鳴り始める。
「貴方、何を言っているの? これのどこが腐っているの!? 彼女…必死になって悠美って子を守ろうとしてるじゃないっ! どうして……どうしてそんな事を言うの!?」
 本当にどうしてそんなことを言うのか…怒りと悲しみに歪んだまま、肩を掴んでまで記子に詰め寄った。普通の者なら余りの気迫に恐怖で後ろずさるところであったが、刑人は鋭い目を変えぬまま、微動だにしないままに呟いた。
「前にも言ったが、あいつ等が性悪連中だというのは紛れもない事実……少なくとも俺の中ではその事実は変わらないっ…! …あのDVDを全て見ていない君には、そのあたりの『闇』はまだ分からないだろうがな…」
「分からないわよ! そんなにDVDの内容が大事なわけ!? そんなものがなくったって、許せないのなら面と向かって話し合えばいいじゃない! この弱虫っ!!」
 叫び終え、記子は罵倒しながら刑人を睨んだ。悲痛にも見えるその怒りの形相は、向き合おうとしない……逃げているように見える刑人に対する苛立ちでもあるのだろうか。
 そんな少女の叫びに、刑人を一旦目を瞑った。そして多少の沈黙の後眼を開き呟く。
「…………そうだな。確かに俺は弱虫だ。憎い敵とも顔を合わさず、こうやって影でこそこそ策を練っている…弱虫といわれても仕方ない」
「…じゃあ…」
「だがな……本来影魔というのはそういうものだ…!」
 記子の喜びも束の間…刑人の眼が瞬時に鋭くなり、いつもの怒気の孕んだ声が放たれる。その迫力に睨んでいた記子は簡単に気圧されてしまった。だがそんな記子の様子を気にすることもなく、刑人は語り続ける。
「欲望に溺れて本能に忠実になったものたちの成れの果て…例外なく自分の考えに閉じこもってしまって欲望のために動く。たとえどんな影魔としてもな…そんな影まである俺が、何を言われても考えを変えることができると思うのか?」
「そんな…でもっ!」
 なおも食い下がろうとする記子に対し、次に刑人から出た口調は…なぜか冷静なものであった。
「…それに例え俺がここで引いたとしても、一度流れたこの奔流はもう止まらない」
「…え…どういうこと?」
 刑人の口調の急な変化に、記子は出鼻を挫かれたかのように一瞬呆けてしまう。しかしそれに臆することなく、すぐに気構えた体制になって刑人の話を聞こうとする。
 しかし刑人はそれ以上語ることをしなかった。ただその手を水平に上げ、人差し指を一点の方向に向ける。記子がその行動が一瞬分からず、釣られるようにしてそちらのほうを向いた。
「…?」
 記子が向いた方向には先程の『影人間』が今だその場で立ち尽くしていた。太陽に怯えるように俯いていたその影人間は、今だその胴体に映像を映し出していたのである。
 だが…映し出されていた映像は、先程とは違う――別の趣旨において、異常な光景が映し出されていたのである。
 {うんぅ…くちゅっ……ぷはぁ……どう、ですか…? …気持ちいい、ですか……?}
 {あぁ…すげぇイイよ……それにしても、君って本当におちんちんが大好きなんだな…}
 {やぁぁ……そ、そんなこと………ない、で……あ、あむぅぅ…}
 映し出された映像の中……学園と思われる建物のを背景にした、おそらくは学園内にある茂みの一角。普段は人気のないその場所では、数人の生徒らしき人影が屯していた。
 建物からは死角になっているその場所で、三人もの男子生徒らしき人間が一人の女子生徒を取り囲むようにして立ちすくんでいたのである。そして、取り囲まれているその女子生徒はその場で正座して男子生徒の股間…既にいきり立っている肉棒達を懸命に愛撫していたのである。
 影人間が映し出していたのは、今この学園の一角で行われている痴態の光景だったのである。
「なっ!…ちょっと、何を映してるのよっ!」
 その光景がどういうものかを理解した記子はすぐさま顔を紅潮させて、影人間の映し出す映像を何とか消そうと両手を押し当てようとする。しかし影人間の胴体はまるで実体がないかのように、するっと記子の腕をすり抜けさせてしまった。そして影人間も胸にある映像も、何事もなかったかのように投影を続ける。
 その後も続く痴態の光景に、記子は顔を紅らめながら両手で顔を覆う。そして指の間から刑人のほうを向いて睨んだ。
「刑人くんっ! これがさっきの話とどういう関係があるのよっ!」
「…その奉仕している女性の姿をよく見てみろ。見覚えがあるはずだ」
「えっ! ちょっ…………………………もうっ!」
 刑人のそっけない答えに半ば怒りつつも、記子は恐る恐る指の中から影人間の映し出す映像に眼を向けた。
 {それにしても…あはぅっ! こんな近くで隠れてたなんて…気付かなかっ…あぁっ! はぁ…はぁ…!}
 {ほんとだ、よ……僕達…運、いいよな……あぁぁっ! また、会えるなんてよ……はぅぅっ!}
 ズボンのファスナーから反り立っているペニスを小さな掌で刺激され、男子生徒たちの言葉も弱くてたどたどしい。若くて未熟な肉棒は、カリや裏筋といった的確な部分を責めてくる掌の刺激にただ流されるままに動き回っていた。
 しかも手コキしているものでさえその状態なのだから、奉仕している少女の前にいる男子…小さな口唇の中で包まれ刺激される肉棒の悶えようは半端ではなかった。
 {くぁぁぁっ! あぁ…! ほ、他の皆は性悪女、とか…言ってるけど…! こんなにエッチな子が、悪いわけ…ないよな…あぁぁあっ!}
 その口が小さいのか、咥えられているのは半分程度でしかなかったが、柔らかくて暖かい口内奉仕に加えられている肉棒は脈動を激しくさせながら、円を描きながら悶え動くしかなかった。
 そんな魅惑的な快感に、三つの肉棒はただただ流されるままに悶えまくっていた。
 {ふぁむ……ふ…ふれひいでふ……はむ…くちゅぅぅっ……!}
 その三人に奉仕している少女もまた必死になって、目の前の肉棒達を愛してゆく。その性戯は決して上手とは言い切れなかったが、健気に…しかし恥ずかしそうに行うその姿は性感を昂ぶらせるには十分すぎるものであった。
 そんな痴態が続いているうちに、男根を咥えられている男子の身体が小さく、そしてだんだん激しく震え始める。
 {あぁぅぅっ…! お、俺…っもう、だっ駄目…、だっ…! ――がぁぁぁぁぁぁっ!}
 口内に咥えられている肉棒が限界を迎えて暴発する。亀頭の割れ目からスペルマが解き放たれ、少女の小さな口内を奥底から勢いよく汚す。しかしそれが口の外に出ることはなかった。男根を咥えている少女がその白濁を飲み下していたのである。
 {っ! んぐぅっ! …んぐぅっ、んぐぅっ…! うぐぅぅっ……むぅぐぅぅ……っ}
 解き放たれた欲望を、一滴残さず飲み干してゆく少女。その表情こそ真っ赤で羞恥に悶えてはいたが、雄の欲望を飲み干してゆく姿はそれを感じさせないほどにいやらしいものだあった。飲み込んでいくその音は小さいはずなのに、映像を通している記子たちに聞こえるくらいに迫力があったのだから。
 その光景が何秒k過ぎて、射精が終わりを告げたのを確認すると、少女は緊張を失い始めた男根から口を、そして顔を離す。口から離された男根は精液と唾液にまみれ恍惚としていやらしかった。そしてそのペニスから離れた口からは、完全に飲みきれず溢れ出した残りの精液が唾液とともに流れていく…
 {んぐぅぅ……はぁ…はぁ…はぁ……}
 {あぁ…っ! はぁ…はぁ……っ! はぁ……気持ちよかった……ありがとな…}
 痴態が一つの区切りを終え、射精した男子もそれを飲み干した少女も荒げた息を整えてゆく……その光景を影人間から映像越しに、今だ指の間から見据えていた記子は顔を真っ赤にしながら羞恥に震えていた。
(凄い…男の子ってあんなふうに…………じゃなぁぁいっっ! もうっ! これのどこが、今回の事件と関係があるっているのよ……っ!)
 保健体育の授業や女友達からある程度のことは聞いていたが、実際に男女の営みを…それをリアルで眼にするのは初めでだった。その光景に、羞恥にまみれながら思わず見入ってしまったことに心の中で叫んでしまう。そして、その光景を見せる刑人の意図が分からず怒りを隠せなかった。
…だが、その羞恥も怒りも、あることに気付くまでであった。
(……あれ? でも確か…この少女、どこかで……………………………………………………………あ……っ!)
 先程まで羞恥でまともな思考が働かなかったせいでわからなかったが、よくよく見るとその少女には見覚えがあった。直に面識があるわけではない…むしろ、昨日初めて見たと言ったほう正しい。それに記子が気付いたとき、映像の中の少女は奉仕の続きを催促されていた。
 {なぁ…そろそろいいかな……俺、もう我慢できねえよ……}
 {ぼ、僕も……早くして欲しいよ………お願いだ…悠美ちゃん}
「っ! …やっぱり……!」
 呼ばれた少女の名前に、顔を隠していた両手を下ろしながら記子は驚愕した。映像の中で男子達に奉仕しているのは、記子が昨日、刑人が見せたDVDの中で陵辱されていた少女――羽連悠美だった。
 無生地のリボンを頭に付け、飾らない素朴な制服を着た…それがとても魅力を引き立たせていたとても可愛い子。そして「光翼天使」というものに変身して異形の者と戦っていた少女戦士。そして…様々な相手から様々な陵辱を味合わされていた美少女。
 その彼女が、人知れぬ草陰の中で男子生徒たちと恥知らずな行為に溺れていたのである。
 しかも彼女の淫猥な祝福を受けていたのは、記子の顔見知りの人達…2−Aの男子生徒だった。三人とも嘗ての知り得た行為の再来に顔は欲情し、幼さゆえの媚びた魅力を振りまいて肉棒に触れ合う雌犬を見るように彼女を見下ろしていたのである。
 {…そ、そんなに慌てないでください……ちゃんと全部、しますから………あ……あむぅ…っ}
 手の甲で口から溢れた精液を拭きとりながらそう告げた少女は、緊張している肉棒に再び小さな手を添え扱き始める。さらにその片方に顔を寄せ…一瞬顔を強張らせ紅潮させるも、ゆっくりと片方の男根を…その亀頭から飲み込んでゆく。
 {はぁうっ! あぁ…あっ…! き、気持ち…いい…くぅぅぅっ!}
 突然に美少女の口付けを受け、男子の片割れが激しく悶える。女神の祝福から来る激しい快感…それに呼応するかのように、腰使いも先程よりも激しくなる。
 {ず、ずるいよ…僕だって、悠美ちゃんに…口でしてっっあぁうっ! して欲しいよ…あぁっ…!}
 {むちゅ…ちゅっぱ……ご、御免なさい……ちゃんと、します………はぁ、む…んぅぅ……うぅ…ッ}
 {ひぃぃぃっ! い、いいよ悠美ちゃん…っ! もっと…もっとっっおぁぁあぁっ!}
 {お、俺も……あぅぅっ! 俺のほうも、もっとして……くっっくぅぅぅぅっ!}
 残された二つの男根を交互に、美少女の唇がゆっくりと包んでは扱き立てる。その心地良い快感に、二つの男根は急速に絶頂へと導かれてゆく。
 {へへ……本当にエッチなことが好きなんだな、悠美ちゃんは…もしかしてまた、このまま精液浴びて、イっちゃったりしちゃうかもな}
 {っ! やぁぁ…そ、そんなこと………ど、どうか…このことは、ここの皆には……}
 先に射精を終え、その場を傍観していた雄の揶揄に、幼顔をさらに紅潮させながら思わず腰を振る少女。その光景を楽しみながら、その男子は加虐心をそそられながらも告げる。
 {心配するなよ。君が酷く言われているのは俺達も知っているからな。ここで一之瀬を見に来たことは誰にもいわねえよ…その代わり、また機会が出来たらうちのクラスの男子をまた可愛がってくれよ。皆君のことが忘れられなくてさ…}
 {や、やぁ……わ…わかり、ました…………あむ…むちゅうぅ…んぅぅっ……}
 半ば脅迫ともいえるその提案に、羞恥に顔を紅くしつつも少女は奉仕を再開する。その手と唇を合わせ奉仕を行うその表情は、羞恥に悶えつつも…次第に、雄の臭いに欲情し溺れ始める雌犬の色が濃くなってゆく…
(そ…そんな……こんなことって…!)
 その痴態の光景を、『影人間』が映す映像越しに視聴していた記子の心は悲しみに満ち溢れていた。
 今この場には軽蔑と畏怖の意思が溢れている。そして人間の本能でもある「欲情」さえも…そして、その被対象者である純真な少女は今かつての級友達の男根と戯れ、溺れている。それは傍にいる少年の告げたことが真実であることの裏付け…それはつまるところ、彼の述べる意見が正しいと言うことの裏付けでもあるのだ。
 ……確かに今の学園の者たちは異常だ。必要以上に他者に恐怖し、嫌悪し、それに欲情している。そしてそれを否定・反対する意見を受け付ける気配は全くない。まさに「数の力」を肌の奥底まで感じてしまいそうなほどである。
 だからと言って彼の言う断罪が許されていい筈はない。多くの人を不幸にする行動が許されるはずがない。だが、そう言い切れるだけの自信と理念は持ち合わせてはいない。この歪んだ状況を修正するだけの知恵も力も…
 ただ吼えるだけで本当は何も分かっていない――自分は何も出来ないのである。記子はそんな自分に、そしてこの状況にただ絶望しながら、目の前の光景を見据えていることしか出来ないのである。
(……………………………って、あれ? でも、確か………)
 そんな光景を見据える中で、記子はふとあることを思い出していた。それは昨日、初めて刑人からこの学園の経緯を聞いている途中でやってきた……そう、同じように目の前にいる影人間が映しだした映像。その光景を語る刑人の紅い瞳――
「ね、ねぇ…刑人君。この、目の前にいる『羽連』さんって……」
「そう。昨日の奴と同じ…映像の中にいたあの連中の一人、『紛い者』だよ。ついにあちら側も動き始めたというわけだな」
………どうして忘れていたのだろう……
 そう…刑人はもはや彼が言う『悠美』なる少女が戻ってきたことを伝えるためにこの映像を見せたのではない。『悠美』の姿を模様した『紛い者』が学園内で暗躍しだしたことを伝えるためにこの映像を見せたのである。
 その時の映像をしっかりとこの眼で見て、説明までしてもらいながら…余りの衝撃の連続で思考そのものが停止していたのか、そのことをすっかり忘れてしまっていたのである。
(私……なんて失態……やっちゃったんだろう…)
 もう両手は力が抜けたまま下にぶら下がっていた。刑人に対する悔恨が様々な状況を理解させる意思を失わせていたのか、影人間が映し出す映像をただ見つめることしか出来なくなっていた。
 {かぁぁっ! おっ俺…もう、我慢っ出来な……で、でるっ!}
 {ぼ、僕も…出ちゃうっよ…あああぁぁぁっ!}
 獣のような叫びとともに、二人の男子が限界を迎える。男根から白濁が解き放たれ、一つは少女の唇内を、もう一つは掌を飛び越えて少女の幼顔を征服してゆく。
 {ふぐぅっ! …んぷくっ…んぐっ…んぐっ………くっ…! ぷあぁっ…………はぁ…はぁ……}
 勢いよく噴出された欲望の塊を何とかして飲み干し、射精が終わったところでゆっくりと口の中から肉棒を引きぬく少女。その間にも、もう片方の男根は残りの欲望を解き放とうと彼女の頬へと擦り寄ってきた。
 {悠美ちゃん…俺にも…口で……}
 {あ………ちゅっ…んちゅ……あぁ……}
 頬を犯される行為に多少困惑しながらも、『悠美』はゆっくりとその男根を口に含み、残った精液を吸い出すかのように吸い上げてゆく。それを終え、同じようにゆっくりと引き抜いた。
 後に残ったのは、その純真な幼顔を汚され、飲み込めなかった精液を口から溢れさせた、羞恥と…恍惚とした表情をした一人の雌犬だけであった。
 {はぁ…はぁ……さすがエッチな悠美ちゃんだぜ…本当に気持ちよかったよ……}
 {そ、そんな…エッチだなんて…やぁ………あ、あの…このこと、恵理子には……}
 掌でゆっくりと頬などについた精液を取り除きながら、正座した少女はその場にいる男子達に寄り添うように懇願する。それはまるで甘えて媚びているようにも見えなくもなく、かえって哀れみを誘う…
 {分かってるって。俺達もこんな恥ずかしい事、言えるわけないしな……それよりも、また――}
 『ブチンッ』
 跪いている少女の前にいる少年が告げる言葉が終わるよりも早く……影人間の映していた映像が、まるでTVの電源を落としたように途切れた。
 映されている映像が終わると同時に、まるで金縛りから解放されたかのように記子は身体を痙攣させる。なんとかその震えが終わったあと、記子はゆっくりと顔を動かして刑人のほうを向いた。
 刑人は俯いたままで屋上にある階段のドアにもたれ掛かっていた。……そして記子が自分の方を向いた時、それを待っているかのように俯いた顔を上げる。
「…と、いうわけだ。既に敵は動き出している。もしここで俺が引いたとしても、昨日に見た影魔連中七十体以上がこの惨事を…いや、『あれ』一体だけでも、もっと酷い方向へと持っていくのは確実というわけさ。
 昨日あの連中を見た時点で、簡単に想像できる事だ」
 いつもの口調そのままに、刑人はもたれ掛かった身体を起こしながら、非情な現実を少女に告げた。
 「もっとも、下級影魔は姦計を回らす知恵は持ち合わせていないからな。実質的に警戒すべきは、既に潜入している上級影魔二体…というところか」
 ただただ状況を見据えるように呟く刑人。そのため息一つ付く刑人の語り…その中にある疑問が、記子との会話の再開であった。
「…え? 二体って…」
 何とか声を上げた記子の問いに答えるかのように、刑人は再び『影人間』のほうを向く。それに釣られて記子が向いたその先では、今だその場で待機している『影人間』がその胴体に別の映像を映し出していた。{あっはぁぁぁっ! どうですのっ、私の膣中はっ!? っ気持ちいい、ですのぉ!?}
{あぁ、ハィっ! とっても、気持ちいいいっすっ! た、たまんっねえぇっ!}
 それは闇の奥…様々な物が回りに置かれているのが確認される中、大小の人影二つがその場で蠢いていた。
 一つは男性…がっちりした体格を体操服で身に纏った、ハッキリするなら醜い部類に入る容姿の男。明らかに体育会系に相応しいような男子生徒であった。
 そしてもう一人は…ブロンドの長髪に、整えられた容姿を持つ美少女。スレンダーな身体つきながらも、まるで年相応を感じさせない大人びた風貌。何より彼女から醸し出される雰囲気…世相でいう「上流階級」が身に纏うオーラがその状況を全て異質なものにしてしまっている。
 ……そんな「美女と野獣」ともいえるような二人が……事もあろうに、昼下がりにおいて情事に耽っているのである。
 しかもそれは、普通の男女が行うような性交ではなかった。その女子生徒を四つんばいの状態にし、顔を地面に押し付けながら片方の腕を引っ張り、背後から肉棒を勢いのままに叩きつけていたのである。
 まるで野獣に食われる餌の様に、女子生徒が犯されていた…もし会話の内容を聞いていなければ、明らかに強姦といえる光景である。
 だが暴力的なプレイとは裏腹に、主導権を握っているのは明らかに女性の方であった。地面に擦り付けられている麗顔からは笑みが零れ口からは涎が流れている。
 開いているほうの腕で男子の腕を掴み、小さな乳房に導いては揉まれ具合に悦び、男根をくわえ込んでいる桃色の花園はすでに愛蜜が太股までびっしょりと流れている。
 それなのに、行為に対してはまだまだ余裕たっぷりに身体をくねらせているのだ。快楽に震えているはずなのに、その偉大さをもって男性をその腰で屈服させる…そんな風に身体を震わせていたのだ。
 そして反対に、何度もその欲望の塊を叩きつけているはずの男性の方が、逆になきそうになりながらその女子に媚びるように鳴いていたのである。
{ハァッ、ハァッ! …わ、私のっ、お願いをっっ聞いてくださるならっ! この身体…好きなだけ、食べてもいいんですのよっ! あっはぁぅっ!}
{ほ、本当ッすかっ!? き…聞きますっ! 俺っオレっ、麗魔さんのいうこと…あぁぁぁっ! あぁぁぁぁっ!}
{あっあぁあんっ! っうれしいですわぁぁっ! ではっっ、学校の皆さんに…一之瀬、さんのことをっ! もっと…もっとっ!}
{はぃぃぃぃっ! ちゃんとっ、部活の皆にも…応援するようにっ! 伝えておきますぅぅぅっ! あぅぅっぅぅっ!}
{そうですわぁぁぁっ! その際は…あの『悪魔』のことを、さりげなく――ぐぅぅぅぅぅぅっ!}
{わかってるッスっ! ハァッハァ…性悪、女の噂を…ちゃんと流したらっ――うっがぁぁぁぁぁっ!}
{そう、そうですのぉぉっ! それが多ければ多い程――あっっ? がっ、あぁはあぁぁぁぁぁっっ!}
 何かを言おうとした少女…麗魔と呼ばれた少女は、不意にブロンドの髪を掴まれ、引っ張られながら身体を海老反りの体勢に持っていかれる。まるで背骨を今にも折りそうなほどに捻じ曲がった身体は、しかし雄の乱暴な性行為を受け入れてゆく。
 今だ成熟しきっていないように見える双丘の片割れはごつごつした手に握り潰されそうなほどに揉みくだされ、無駄な肉の一切ないお腹の部分は、突き出してしまいそうなほどにその肉棒の先端を形付かせていた。それでいてなお、彼女の花園からは…まるで処女を散らされたかのような血と共に、それ以上の恥蜜を流していたのである。
 そしてその尊さを感じさせる幼顔は、苦痛と…歓喜の混ざった表情で行為を楽しんでいたのである。
{あ――ぐぅぅぅぅぅっ! すごぃぃぃいぃっ! 壊れてっしまいそうですわぁぁぁっ!}
{がぁぁぁぁっ! だ、ダメッスッ! オ、オレ…もうっ! 限――んぅぅぅぅぅっ!}
 肉棒の高まりが限界を迎えようとしていることを伝えようとしたとき…海老そりになっていた麗少女が身体を後ろし倒すようにして、その可憐な唇を男性の唇と重ね合わせてきた。小さな身体が壊れてしまいそうな程の激しい行為の中にも拘らず、重なり合うその口は舌が絡みうほどに激しく濃厚であった…
{んっ、ちゅぅぅぅ…ちゅぱっ! はぁぁぁぁっ、はむぅぅぅぅぅっ! んっ……むぱぁぁぁっ! だ、だめですわっ! もう少しっだけ、まってくださいぃぃぃぃっ! わたしも、いっしょにぃぃぃぃぃっ!}
{わ、わかったッスぅぅぅっ! …け、けどっ! 麗魔さんて、こんなに綺麗なのにっ! どうしてっこん――んむぅぅぅっ!}
 自分のような、少なくとも女性にもてるようなタイプではない人間に、どうしてここまでしてくれるのか…ふと思い立った疑問を口にしようとしたが、重なり合う唇によってその疑問は閉ざされてしまった。
{んちゅぅぅぅ…ちゅぱっ! だめっ! わたしのことは、きくだけやぼってものですのよぉぉっ……あぐぅぅぅぅっっ、はぁぁあぁぁぁぁっ!}
{あぁっぐぅぅぅぅっ! す、すいませんっ! オレ、よけいなことをっ――あがぅぅぅっ! うぐぅぅぅぅぅぅぅっ!}
 欲望の根源を内なる肉壁によって締め上げられ、それでいて雄のとしての絶頂を許されず、男はただむせび泣きながら少女を力ずくで辱めてゆく。そんな男子の身体に手を回しながら…硬骨な笑みを浮かべる少女は、激しくも甘い声で囁いてくる。
{いいん、ですのぉっ! だから――あぁはぁぁぁぁぁっ! だからっ、もっとっ!もっとたべてくださいぃっ! っっはぁっっ、っくぅぅぅぅぅっ! っわたしも、きもちいいですのぉぉぉぉぉぉぉっ!}「やめてぇぇぇぇっ!」
 余りに淫猥で、それでいて暴力的なその光景に先日強姦されたことを思い出し、記子は耐え切れず悲鳴を上げながら崩れ落ちる。その光景を見届けた刑人はその映像を消去し、その影人間を再び自分の影へと溶け込ませる。
 そして記子の震えがとまるのを、ただその場でじっと待ち続けた。
「……………刑人君は…私にあんな映像を見せて…一体何が言いたいの…?」
 ある程度と落ち着き、何とか声を出せるようになってから…記子は弱々しくも刑人にたずねた。
「…俺が引いたとしても他の影魔が」
「そんなことを聞いてるんじゃないっ!」
 刑人の言葉を、しかし望まぬ答えに記子は拒絶する。
「……これを見せて、刑人君は一体私にどうさせようというの…!」
 記子には刑人の言いたいことが分からなかった。こんな淫猥な行為を…そして嘗て起こった惨劇を自分に見せ、悲痛と絶望を皆に叩き込むその意味を。自分が昨夜、その影魔に犯されたことを知っていながら…必要以上にその惨劇を生で見せ付けた。
 そんなことをしても、拒絶されるのは当たり前なのに。もし今自分が、この場面を見せたことを言いふらせば彼自身が破滅するのは当たり前なのに。そうまでして見せる意味はないはずなのに。
 なのに……なぜ彼はこんな映像を自分に…いや、人間達にそんなにしてまで見せ付けようというのか?
「…別にどうこうするつもりはない」
 だが、語りだした刑人の言葉はあくまで、いつもの怒気が含まれたものだった。
「オレはあくまでここの連中のしたことを告発する。『真実』を…過去も、今も、ここで行われていることを語るだけだ。 今はそのことを誰も聞こうとはしないだろうが、いずれ機会がもうすぐ訪れる。皆が耳を傾ける可能税があるその機会にかけて…
 そしてここにいる全員…いや、周りにいる人間達がそのことを知る義務がある。…確かにそれでここの連中に訴えたいものはある…だが、それらを告発という形に含めるつもりはない」
 告発自体が裁くことになるのだから――そういいかけて、刑人はぐっと言葉を飲み込んだ。そう言い放つ自体、感情論になると思ったから…そして一つ咳を入れた後に、言葉を改めなおす。
「オレが『告発』し終えた後…その事実をどう捉えて動くかはここの連中次第。そのことを悔やむもよし。逆恨みするもよし。けれど、人間達全員がその苦悩と絶望を胸に生きていかなければならない。
 それだけのことをこの学園にいる者たちは行った――その認識だけは改めるつもりは絶対にない…ッ! しかし、それを感情だけで言い放つつもりはない……そういうことだ」
 言いながら空を見上げる刑人の目には、常に宿る怒りの目と同時に…明らかな決意が宿ったものであった。そして再び視線を記子のほうに向けた刑人は一言ずつ宣告してゆく。
「俺はここにいる連中を…人間達のしてきたことを許さない。だから何があっても人間を、ここにいる連中を裁く。告発にせよ…虐殺にせよ…例え何が邪魔しようとな。そしてそれらの全てをもって、過去の罪業を断罪する。そして過去に失われたものを取り戻すだけだ」
 拳を握り締めながら、まるで自分に言い聞かせるようにして刑人は宣告を終えた。そして改めて記子に話し始める。
「これからどうしたいのかは…自分で決めろ」
「…え?」
「オレがこの学園を裁くにせよ、あいつらがこの学園を使って何かを企みを起こすにせよ…どのみち学園が無事に済むことはない。そしてそれを止められるかもしれないたった一人の少女は、今どことも知れぬ霧の中……つまり今、この流れの末路を止められるものは誰もいない。
 そんな中で、真実の一部を知ったお前がどうするのかを……俺はとやかく言うつもりはない。唯の一生徒として自然の流れに任せるなり、ここに危険を感じて数日の間身を隠すなり…ここで話したことを誰かに、あの糞蛆に話して戦う術をとっても構わない。
 ただし…もしこのことを他に話して戦う術を取るつもりなら、俺は全力を持ってそれを迎え撃つからそのつもりでいろ――もし先程の視聴の意味を促すのであれば、それが答えだ」
 そんな風に、まるで一方的な宣告ともいえる発言を促した刑人は、ゆっくりと記子のほうに進みその場で膝を折る。
「確かに君は部外者だ。そして……いや、たとえどんな相手の願い出もあっても俺は聞くことは出来ない。そんな『怒り』をもって相手を裁くことが、オレの欲望なのだからな……!」
 そう語る刑人は、呆然としていた記子の肩を掴んで立ち上がらせる。「きゃっ」という言葉とともに立ち上がった記子が、何とか立てるのを確認した刑人はその肩を離し…彼女から離れて、そのまま建物のドアへと向かう。
 そしてドアに辿り着いた刑人は、振り向いて言い加える。
「………君には本当に感謝してる………じゃあなっ」
 振り向きざまにその顔が一瞬だけ、怒りが解けて穏やかな…可愛らしい顔になった――そんな風に記子には見えた。だがそれもすぐに開けられたドアと共に隠れてしまう。 そして少年はその奥へと身体を向かわせ――
「―――――――――――――――待ってぇッ!」
 記子は思わず叫んでいた。彼がその闇の奥に身体を預ける寸前に……
 記子はなぜ、思わず叫んでしまったのか分からなかった。けれどなぜか叫ばなければいけないと思った。そうしなければ真実に向き合えなくなる…そして二度と彼に会えなくなる。そんな脅迫的な不安が急激に爆発してしまった。
 確かに彼の向かい合う真実は余りに残酷で、淫猥で、とても常人が向き合えるようなものではない。実際彼が自分に見せてくれたものだって、汚らわしくて厭らしくて…そしてとても辛いものだった。もし何も知らされずに見続ければ、人間不信になってもおかしくない。事実、今だにショックが抜け切れていないのだ。
 でもここまで教えてもらって、それを見続けることを放棄する……今はそのほうがとても罪深く、そして卑怯なことのように思えてならなかった。今自分は真実を見据えることが出来る立場にいるのにそこから逃げる…それは先程刑人に言い放った『弱虫』そのものではないか。
 それに、今ここで刑人を離してしまったら……もう二度と真実を語ってくれない――そんな気がする。先程の事だって、自分の『知りたい』事だけを教えてはくれたが、『知らなければならない』ことは教えてくれなかった。
 そこには…今だ自分を部外者扱いし、必要以上に関わらせないようにしている刑人なりの優しさが垣間見えてはいる。しかしそれがなぜか無性に腹が立つ。ここまで関わらせておいて、いまさら関係ないなんていわれて理不尽ではないか?
 だから、自分はもっと彼と向き合わなければならない。もっと彼と話して事実を…そして彼すらも見据えていないかもしれない真実と向き合わなければならない――そんな思いが、叫んだ後に沸いてくるのだ。
「……なんだ?」
 さすがに大きすぎる叫びのために刑人も身体を止め、再び記子の方を向いた。記子は今だにショックが抜け切れていない表情であったが、記子は必死に前を向くような視線を刑人に向けてくる。
 少しの間見詰め合っていたが…記子の口から語られたのは、刑人の想像だにしなかったものであった。
「…刑人君……さっき、これからは自分で動いて良いって行ったよね? だったら……私にもその『告発』を手伝わせてっ!」
 
「…なっ!?」
 この申し出には、さすがの刑人も驚かざるを得なかった。いくらなんでも異常である。アレほど衝撃的な、しかも不純過ぎる真実を見せられて、普通はそれを見せた相手に嫌悪感を抱くものだ。それなのにこの少女は自分から離れようとするどころか、更に自分に近づこうとしている。
 …確かにここで起こった惨劇をこの学園の連中に叩きつけるという最初の意思は変わらない。しかし彼女は部外者だ。事実を知る権利はあれど義務はない。自らを境地に追い詰めるこんなことに付き合う理由はないはずだ。
 そんな絶望への道に、なぜ彼女がこれ以上関わろうとするのか?
「…お前、今自分が何を言っているのか分かっているのか?」
「うん…少なくとも、あなたが思っているよりは分かっていると思う……!」
 刑人の更に昏く淀んだ問いに、記子は怯えながらもまっすぐな瞳で彼の目を見つめていた。それはこれから知る事実への、そして様々な者達への恐怖…しかしそれを最後まで見据えていたいという彼女自身の決意の炎が燻っていた。
 彼に手を貸すということは人々を不幸にすることに手を貸すということ――それは他者を踏みにじるという、彼が嫌う人種と同じになるということ。そんなことに手を貸して、彼が喜ぶとは思えない。そしてそれを行っている刑人自身が、気付かずに拒絶していることも。 
「でもね…せっかくここまで教えてもらって、ここでリタイアしろだなんて……それって、あなたが嫌っているここの生徒達になれって言ってるのと同じなんじゃないかしら」
「っ!?」
「確かにね…私も、これ以上こんな不条理で汚らわしい現実、見るのはとっても嫌……でもね、それが嫌でここから逃げ出したら、そんな卑怯な人種になるって事だよ…。どっちが嫌といわれたら、そっちのほうがずっと嫌。
 それなら最初に言ったとおり、真実を全部見たいよ。それが、例え他人を傷つけることになろうとも……悲惨な現実から逃げて、のうのうとしているの方がもっと卑劣よ! ッて…アハハ…刑人君の性格が移っちゃったのかな…」
 思わず苦笑してしまうも、記子はすぐに真顔になって刑人の方に向き直る。
「……私に、あなた達影魔を止める力なんてない。でも…やっぱり人の心を傷付くのは見たくない! だから手伝いたいの…!」
 必要以上に人の心が傷付かないように。人の心が汚い部分と向き合えるように。そして、彼に必要以上に他人を傷つけさせないために……自分の力では所詮場を引っ掻き回す程度のものでしかないかもしれないけれど、それでも真実を最後まで見通し、それで人々の…彼の重荷を少しでも軽減できるのなら、他者を貶める卑怯者になってもいいのではないか?
 ―元々、何かを知りたいという知識欲が人より強いことはよく指摘される。……記子という名のせいでもあるのだろうか? 時々そのことで、自分が呆れることもある。
「…………」
 刑人はずっと記子の様子をみていた。何を考え、どうしてそんなことを言ったのかを見極めるために。一分、二分……ずっとその考えを読み取ろうとして、その瞳の置くにある思いを感じるために。
 刑人には他者の心を読み取る力は使える。しかしそんなものは使う気は起きない。ただ自然に流れる形で、その鋭くなった視線をずっと捕らえるように見ていた。
 ……そして、刑人の口からため息が漏れる。
「………オレは誰とも馴れ合う気はない。少なくともこんなこと、誰かに手伝わせるつもりはない」
 先程と変わらぬ口調で、ただ淡々と伝えることを伝える。しかしその身体はドアの奥ではなく、屋上の日の光に再び晒しだす。
「ただ、利用出来るものは利用する…それが影魔だろうと人間だろうと。…せいぜい、その覚悟でくるんだな」
 ――それが刑人の答えだった。再び閉めたドアの前にもたれかかって、溜息をつくかのようにそういい捨てた。
「刑人君……」
 その言葉を聴いて…記子は嬉しくなった。どんな形にせよ、自分が手伝うことを認めてくれたのだ。同時に、彼が今だに自分を引き離す意思が残っていることに寂しさを感じていた。
 ――先程の彼の言葉…それは裏を返せば「全て自分のやったこと、こいつらは利用されただけ」と言い張って、全てのことを自分の中で背負い込もうとする腹積もりの言い回しなのだ。
 ……きっとそれは、彼に残された「人間」としての理性…いや、きっと彼自身が持つ本来の性格なのかもしれない。他者の悪業を憤憎すると同時に、必要以上に他者を裁かない。そして関係ない者には関わらせない…それが彼が今持つ『優しさ』なのかもしれない――驕りともいえるかもしれないが、そんな風に彼女には思えてならなかった。
 ………今だにこれから来る真実への恐怖はぬぐえないけど、それから逃げたいとは思わない。
 彼自身のしていることから他者を…そして彼自身の苦悩を少しでも拭う為に。そして真実と…彼自身も目を背けている真実とも目を向けるために、ようやく記子はスタート地点に立ったばかりなのだ。
 ――――――――――――――――――――
「さて……改めまして。これから一体どういたしましょうか。 刑人エクリプス様?」 
「…ワースエクリプスだ……全く。どうして君はそう喜怒哀楽が激しいんだ…?」
 さっきまでの欝な状況はどこへやら…再び戻ったツインテールの少女の明るさに、少年は半ば呆れたように呟く。しかしその身体は屋上の鉄棒に倒れ掛かり、その眼はグラウンドの方を見据えていた。すでに、次にどうすればいいのかを見据え始めているのだろう。
「うぅぅん……性格だから、かな? まぁそれよりも、これからどうするかよね……何とかして、皆に真実を伝えなくちゃね」
「俺がしたいのは『通達』じゃなくて『断罪』なんだが……ハァ。いずれにしても、お前の出番はまだないぞ? 少なくとも、そうする前にやらなければならないことは山ほどある」
「…え? それってどういう…」
「さっき君が言ったように、今俺達がこの真実を…仮にあの子のことを庇い立てするだけしても誰も聞きはしない。更に状況を悪化させるだけだ。彼らの耳を塞いでいる『思い込み』を叩き壊し、今の状況を聞き入れさせるにはそれだけの時と場所、そして心を打ちのめすだけの『衝撃』がなければな」
「そ、そんなに大変なんだ………で、でもそれだけのものをどうやって用意――あっ!」
「君はどうやら勘がいい。そう、『生徒総会』における次期生徒会長選挙だ。そこで全ての決着をつける。ここの連中とも、あの糞蛆とも…そして無価値とも、全て……
 だが最悪なことに、今それに挑むには準備が……まだ足りない…」
 溜息混じりにそういう刑人の放つ雰囲気が、次第に苦悩と焦りに変わっていくのが記子にさえも感じられた。それだけその言葉の重大性が分かったからだ。 
「足りないって……どういうこと? 一体何が足りないっていうの?」
「証拠だよ。過去の惨劇を証明するだけの確定的な物的証拠がまだ見つかっていないんだよ。状況証拠や部分的な物証は見つかってるんだけどな……」
「そんな……で、でも。状況証拠はたくさん見つかったんでしょ? それならそれを元に―」
「この一件はそんなものでは、相手の心に通用しない。ましてやハッタリとか引っ掛けは逆手に取られて一巻の終わりだ。少なくとも、相手の言い訳を完全に封じるだけの十分な物証が必要なんだ」
 記子の提案を、刑人は一蹴する。その程度の事はもう何度もシュミレーションしたからだ。無論、そのことごとくは失敗に終わっている。
「そ、そう……でも、それなら何で今まで――」
「探したっ! もうこれ以上ないくらいに! 思い当たる場所は全てっっ!」
 何で今まで捜さなかったのか――そんな言葉を連想した刑人は思わず苛立ってしまい、その目を見開き少女の方を向いて叫んでしまった。その迫力に記子がドキッとなって後ろに一歩引いてしまう。その光景に刑人はハッとなって、バツが悪そうにまた元の方へと向いた。
「……すまない。つい苛立ってしまった……」
「うぅん…いいよ。…そうだよね……刑人君がそんな重要なもの、今まで捜してないわけないもんね…」
 別に記子はそれ程驚いていなかった。むしろ今までに見せた「怒り」としての本質を表した方が怖い。そんなものを何度も見てきたせいなのか…彼の八つ当たりなど、言うほど怖くなかったのだ。
 本当は別のことを聞こうとしていたのだが……それに敏感に反応してしまうほど、今の彼は焦っているのだろう。言葉を間違えたことを少し反省してしまう。
「あ…でも、昨日私に見せてくれたあのDVD。あれが物証にならないかな?」
「あれは……確かに今までの内容を収めたものだが…あれだけでは駄目だ。『実はプレイの録画なんです』って言われれば、軽罪には処せても、本質的な追求にはならない。あれを物証として使うのであれば…少なくとも、主犯の諮問とかが付いている代物でなければ辛い」
「……そこまで手詰まりなら…もう証拠なんて、残っていないんじゃ……」
「いや…っ! 物的証拠は必ず残っている。断定は出来ないが、確証ならある…!」
「えっ……どうして…そんなことが分かるの?」
 先程とは違う少年の力強い返答に、さすがの記子も首を傾げて尋ねる他なかった。彼ほどの力を持ったものがそれだけ捜して見つからないというものがまだ残っている――そんなことをどうして言い切れるのか、と…。
「今回の一件の主犯であるあの無価値――おっと、この言い方では分かりづらいか。あの『新野瞳』とも『ウジャドエクリプス』とも呼ばれていた大馬鹿者にとって、あの子…『羽連悠美が壊れた』後の事は…まさにイレギュラーな展開だったからさ」 
「……?」
「あの無価値女は、自分の悪事を棚に上げ、自らの存在を否定したあの子のことを憎んでいた。そして親友と呼んでいたあの糞蛆が、あの子の方へいったと勝手に思い込んだことも含めてな。だから最初は……君も昨日観た通り、あの子を殺すために現れた。『償わせてやる』等と勝手きわまる事をほざき、散々嬲り倒した挙句な…っ!」
 そうやって説明してゆく刑人の気配が、次第に『怒り』の感情に蝕まれ始める。凄まじくも決して乱れない…それでいて鋭く射抜く威圧感に、記子は再び身体を震えだすのを止められなかった…
「け、刑…人…く、ん……ッ!」
「だが、あれはあの子を殺さなかった……気を失う瞬間まであの糞蛆の名を叫んでいたことを更に根にもってな……その糞蛆が危機に陥ったときに、何の出助けもしなかった分際で……ッ!」
 説明に回っていたはずの刑人の言葉が、次第に怨念の篭った独り言になってゆく。それに合わせ彼の周りの空気が重苦しくなり、彼が掴んでいる柵の一部がヒビ割れてゆく。次第に怒りの感情に苛まれている彼に反応し、増大する影の力が外へと飛び出そうとしているのだ。
「……そうだ…あの無価値如きが……あの子の尊厳を踏みにじって……ぶち壊して…ッ! 何の価値もないやつが、あの子から価値を奪った挙句に…何の苦しみもなく、のうのうと楽死にしやがって……ッ!!」
 更なる怒りの感情が増大し、彼の身体から黒き影の力が噴き出してゆく。彼の周りの風が次第に荒れ始め、だんだんと揺らめく影が大きくなって――
「―――刑人君ッ!!」
 不意に彼の名を呼ぶ声。その声に、怒りに顔を歪ませていた刑人はハッとなって周りを見渡す。見回した彼の目に入ったのは、その場で必死に立っていたが、息を切らしていた記子の姿だった。
 傍にいて、彼の放つ影の衝撃をまともに受けていた記子は、今まで以上の重圧に身体が悲鳴を上げ……しかしそんな中でも必死に声を上げ彼の名を叫んだのだ。
 息を切らしながら必死に立っている彼女の姿を見て、今自分のしたことに気付いた刑人は彼女に駆け寄って、その肩を掴んで支える。
「……すまない…」
 自分の持つ影は、ただの人間にとってはそこにあるだけでも重圧を与えるものだ。それを思わず解放してしまった…彼女に対する負担はいかほどのものか。今までの一人の時はともかく、こんな場所で他者と話しているときにそんなものを漏らしてしまうのはいかがなものか。自分のやってしまったことに悔恨の念を抱きながら、刑人は記子に謝罪する。
「ハァ…ハァ……ハァ……もう、一体どこの世界に、説明の途中で怒りまくる馬鹿がいるのよ…」
 さすがの記子も、刑人のこの性格には呆れざるを得なかった。仮に「怒り」が彼の影の本質だとしても、一つの物事も満足に説明できないというのは何事か。
「こんなんじゃ…例え証拠がそろっても、総会で自滅するのがオチだよ…」
「…全くだ……やはり、自分にはこんな探偵紛いの思慮は向いていないのだろうな…」
 記子の指摘に、さすがの刑人も自虐的に笑うしかなかった。元々、憤怒にまみれ易い今の性格においてはこんなふうに思慮や知略を巡らすのには向いていない。影魔になって多少賢くなったが、それ以上にその怒りを自制する意志が弱くなってしまっている。そのあたりは刑人自身も気にしているのだが、今の彼自身の力の源であるだけにどうにもならないのだ。
 記子の状態が安定したのを確認した刑人は、しかし今度は背を向けるのではなく、その場で顔を俯かせてうなだれてしまった。どうやら落ち込んでしまったようだ。
「……もう、いいから。さっきの説明の続きを聞かせて。またキレそうになったら呼びかけてあげるから」
「…わかった」
 記子の諭しに、何とか体勢を立て直した刑人は再び説明の続きを始めた―― 刑人が言うには、その新野瞳という少女は、悠美という少女を壊すために影魔の力を使ってこの学園の人間を、時に盾に、時に利用し、加害者に仕立て上げる。そして少女の女としての、いや人としての尊厳をものの見事に粉砕して嘲笑っていたのだそうだ。
 そして邪悪な影魔姫はそのこととはまた別に、外の世界のほうでも彼女を辱め、尊厳を踏みにじるための策を巡らせていた。すでに身も心もボロボロにされた彼女に、この世界にその居場所などないことを教えるために。
 ――当時『イビルアイ』を名乗り学園内の不良を操っていた彼女は、様々な陵辱の場をその意識に記憶していたのだそうだ。そして彼女は、その記憶した陵辱内容をDVDなどに念写して、不良達やそれらと関わりのあった者、そして周辺の影魔に売り渡していたのである。
 自らが表立った事を極端に嫌う瞳は、その役割と利益を全て不良達に譲渡していた。そうすることで、不良達の悪行が知れても自身のことがばれる事がないからだ。ただし、影魔に売り渡す場合は自身の影を通し邪眼を使って売り渡していたが。
 そうやって学園内における陵辱記録を一つ一つに分け、現実だけでなく映像越しにおいてさえも学園内の少女達が踏みにじられるのを楽しんでいたのである。恵理子という少女と交流した者達、彼女と親しくなり、嫉妬を抱かせた者達ものたち全てに。
 無論そこには悠美という少女のものも含まれている。
 瞳が最も憎んで嫉妬した彼女には特に淫猥で、彼女を苦しめるような内容にして壊した上でその映像を裏で流そうとしていたのである。しかもその内容が余りに加虐心をそそるものだったので、瞳は思わずそのDVDの未完成を「悠美の存在意義を踏み躙った日」の夜に念写、恵理子と一緒に楽しみながら鑑賞していたのである。
 …しかしそれは結果的には流れることはなかった。
 恵理子の手によって最終的に壊れきってしまい、影魔にまで堕ちてしまったその天使…いや堕天使は、その壊れた意思のままに瞳を潜んでいた影魔ごと惨殺。さらに一つ問題があったものの、その虐殺という影の欲望のままに抹殺したのだ。
 瞳自身としては恵理子共々、まだまだ彼女を奴隷以下の玩具として弄ぼうとしていただけに、その予想外の展開に対応しきれなかったのだ。
 …そして恵理子の奴隷のままに壊れてしまった堕天使は、その御主人様の人生を危ぶむものを消すためにこの学園にいる者達の記憶を消したのである。それがその御主人様の狙いであったことを知らずに…いや、例え知っていたとしても。
 そんな経緯があって、彼女が学園の者達や影魔に陵辱された内容を納めたDVDは日の目を見ることなく、しかしこの学園のどこかに眠っているというのである。この学園で起きた他の陵辱内容が記されたDVDと共に。
 そしてそれらは全て、彼女らの悪事…まさにその中核となりえるもの。刑人はそれを、今自ら持っているDVDの映像によって確信した。だからこそ刑人は、自身を偽るようなことをしてまでそれを求めたのである。
 刑人は最初、その性格からして彼女の部屋にこそそれがあると思っていた。そして転入前、この学園に始めてやってきたあの夜に侵入してして捜索したのである。すでに無人となり、埃をかぶっていたその部屋に。しかし影人間を動員してまでの捜索は項を奏さず、結局はそこにはないと断念するしかなかった。
 そしてそれからも刑人は心当たるところを捜した。不良達のアジト、報道部部室、恵理子の部屋、体育館、果ては野球部部室やプールの男子更衣室にまで捜索を延ばしたが、手がかりさえも見つからぬままに現在に至っているのである… 話を聞き終えた記子は、刑人の苦悩が少しだけ分かった気がした。彼はここに入る前から必死になって考えていたのだ。この学園に住まうもの達を裁く方法を。その非道さを伝える術を。
 彼の中にあり、その身を焦がしてやまない「憤怒」という感情を必死に抑え、悠美という少女をどうすれば救えるのかを自分なりに考えていたのである。おそらくは…夜の寝る間さえも惜しんで。
 だがそこまでして動き回って見つからない証拠は見つからない。それで苛立ちは募る。
 そして新たなる影魔たちがこの場所にやってきた。おそらくは更なる混乱を齎すために。それで更に怒りと苛立ちは募る。
 変わりゆく局面と決戦までの残り少ない時間…そんな時に重要なものが揃えられず、彼の焦りは湧き上がり抑えている怒りは今にも飛び出しそうになっているのかもしれない…だから先程のようにちょっとしたことでも、彼の中にある怒りが吹き出てしまうのだ。
「…だが、ここまで捜して見つからないのではな……やはりこんなまどろっこしいやり方は俺の性には会わなかったようだ……」
 そう言い放った刑人の口調が低くなり、再び彼の影が揺らぎ始めた。
「フ…フフ……やはりここはやってきた影魔共々…まとめてその業を……」
「――刑人君…!」
「――……あ。………………………っく、またか…」
 これで何度目になるのだろうか。こうやって説明している合間にも、刑人自身が怒りに塗れ始め、それを記子が呼びかけて正気に戻す。そうやって少しずつ話を進め、ようやく終わったところであった。
「ハァ…とにかく、刑人君としてはなんとしてもその証拠を見つけたいんだよね?」
「そうだ。悠美すらも見落とした……あるいは、本当に夢想かもしれないものを…」
 溜息混じりに質問する記子に対し、疲れてしまったような顔をしながら、刑人はただ呟くしかなかった。自らの怒りを制御してもらいながら話すのは、彼自身にとっても大きな負担だったのだろう。
「うーん……」
 記子は今までの説明から、これからどうすればいいのかを考えていた。
 もし彼の言うとおりなら、残された時間は少ない。もし生徒総会というこの機会を逃せば…信仰といってもいい程に恵理子を信頼する今の学園の者達は、彼女の悪事ともいえるこの事実を今後一切信じないだろう。そしてその張本人である瞳はその罪を償うことなく、逆に悠美という少女は永遠に悪魔として罵られる事になる。
 そしてそうなれば……刑人の憤怒をもう止める術はなくなる。昨夜見たあの狂気と力を、今度はこの学園の全てに振りまくだろう。それだけはなんとしても避けなければならない。無論、力で彼を止めるのは無理なことは、昨夜の彼を見たときに本能的に分かってしまっている。
 あるいは、今ここに来ているいる影魔達に助けを請えば何とかなるかもしれないが…その歪んだ欲望で、相手の心を踏み躙るような連中に頭を下げてはいけない…昨日の陵辱されたことを抜きにしても、その思いは変わらることはない。
 だからこそ今協力を申し込んだのだ。彼がそんな破壊と絶望を振りまくのを止めるために。
 だが…もし手助けして証拠を手にしたとしても、今の彼の状態では総会でまともに話す事はできないだろう。彼の怒りは彼自身の叫びを潰してしまっている…それもこの場で了解済みだ。少なくとも、彼にはその怒りを制御できなければお話にならないだろう。無論刑人もそれを理解していて、何とかしなければと焦っている。
 ……捜索と制御。今の刑人がしなければならないものであり、どちらに転んでももう片方が成り立たない行為。協力したいと願う記子にとっては、その片方を支えなければならないことになる。なら……
「ねぇ…刑人君。いっそのこと、総会の日までその怒りを吐き出し続けたらどうかな? 刑人君らしく」
「……それで、もしここにいる影魔達に知れたらどうなると思う? 奴等は、自分達の意に介さないことが起これば何をしでかすか分からないぞ」
 記子の思い切った提案を、刑人はあっさり一蹴した。その程度のことは上級影魔位になれば分かることなのだ。ある程度の力を放つ物を、離れた場所からでも察知できるのだから。
 だがそんな一蹴を意に介することなく、記子は話し続ける。
「そんなこといって、何もしないの? 暗い場所でイジイジしているのが刑人君の趣味なわけ?」
「……違うッ!」
 その挑発的な言葉に、刑人は思わず記子を睨みつける。しかしその程度の怒りなどもはや記子には通じない。怯むことなく記子は続ける。
「うん、私も違うと思う。私もね、刑人君はもっと行動的だと思う。小さな失敗を恐れて萎縮するような怒りの持ち主じゃない。もっともっと大きな力と、それに見合うだけの意思を持ってる……だからこそ、いちいちばれるの恐れてコソコソするより、いっそ広告してみたら? その怒りを」
「……………」
 その言葉に、刑人はずっと記子を睨みつける。記子も刑人を見続ける。そして……
「……一本取られたな」
 やがてふっと目を瞑り苦笑しながら、刑人は口を割る。
「…奴等ににこちらの気配を探られるわけには絶対に行かない。だがその『課題』を乗り越えられれば……! 乗り越えられるなら、それもいいだろう…」
「…うん…っ!」
 その刑人の決意に、記子は嬉しく思えた。どんな形にせよ、刑人が少し前進したように感じたからだ。
「だが…利用できるものは利用するのが今の俺のやり方。君が思ったような結果になるかどうかは…残念だが約束できない。それだけは言っておく」
「あらら……やっぱりそうなるのね」
「仕方ないだろう? 他者と自分の望みが完全に一致することなどそうないんだからな。それよりも、俺にそんなことを提案するのなら…」
 刑人の言葉に、記子はあくまでにこやかに答える。その決意をこめた眼をもって。
「分かってる。刑人君の証拠探し…私がやるわ。刑人君の残った難問を、私も一緒に考えるから」
 彼が今までしてきたことを、かわって行おうと彼女は言っているのだ。例えそれが今いる学園の友達を裏切る行為だとしても…刑人を手伝いたい。そして観てみたのだ…その先にあるものを。そして救いたい。様々な破滅の軌跡から。
「俺が必死になって捜しても見つからなかったものを、君一人でか?」
「ちょっと馬鹿なことを言わないで。考えるのは刑人君も一緒だよ? 私はその捜査役。あくまで刑人君の代わりなんだから」
 その辺りは記子も弁えている。刑人以上の考えを持っているとは思っていない。「二人で考えればなんとかなる」という素人の甘い考えは抜けきれていないが、それでも刑人が一人で苦しみよりはずっといいことだと分かっていたのだから。
「………どうやら、これ以上の論議は無駄なようだな…」
 さすがに、刑人ももう弁論の余地は無かった。素人相手に、ここまで言い負かされては立場が無い。そこまで追い詰められていた自分に呆れると共に…自らを助けようとしている記子を嬉しく感じ、しかし心の奥では本来なら無関係者である彼女を巻き込んでしまったことへの自責の念に苛まれてしまう。
「当たり前です。そもそもこんなこと、一人でやろうとすることに無理があったんです。それでいて失敗したら暴れようなんて……その性格で言い勝とうなんて百年早い!」
 そんな刑人のことを知ってか知らずか、記子は制服から盛り上がる双丘を張って刑人に言い張った。その体勢から微笑む姿は、まさに勝ち誇った人間の姿勢だ。そんな相手に、刑人は苦笑を…心の中に悲しみの影を落とした微笑を溢すしかなかった。
 そんな姿をしばらくした後、記子は刑人の手を掴んで語りかける。
「……私も一緒に頑張るから……絶対に自棄を起こしたら駄目だからね……ッ!」
 様々な意味の込められた言葉。愚考と欲情が渦巻いているはずのの学園内に、わずかに残った良心の懇願のようにも聞こえる言葉。それが『断罪者』の心に…少しだけ猶予の空白が生まれる。
「フン……君に指図される言われは無い。…だが、まだまだ諦めるのはないんだがな」
 強い信念の言葉を向けられたにも拘らず、刑人はついつい悪態で返してしまう。しかし、ほんの一瞬だけ…その目が微笑んだような、悲しむような、そんなふうに緩んだ――記子にはそんなふうに見えた……
 『キーンコンーカンコーン。カーンコーンキーンコーン』
 一つの時間帯の変更を告げるチャイムが学校内に響き渡る。それを聞いた記子は昼休みが終わろうとしていることを知った。
「じゃあ、そろそろ行きましょうか。授業、始まっちゃうよ」
 そういって扉の方へ向かおうとする記子の手を、刑人はなぜか止めた。
「……どうしたの、刑人君。今は授業を―――」
「…いや、実は…………言いにくいんだが………………ここは別々に戻ったほうがいい……」
 なぜか口ごもる刑人の表情は渋い。先程までの間に何か不味い事でもあったのだろうか? それがなんなのかも分からず、記子は刑人の話すことが分からず問いただす。
「…なに? 何か問題でも起きたの? ……もったいぶらずに教えてよっ!」
「いや…それほど大したことでもないんだが…」
 詰め寄る記子に、刑人は話そうかどうかしばらく迷っていたが…やがて意を決して彼女に重大な事実を伝える。
「実は………………………今のは昼休み後の予鈴じゃなくて、五時間目の始まりを告げるものだったんだが……」
――――――――――――――――――――
「――もうっ! 刑人君の馬鹿ぁッ!!」
 学園に再び迎えた夜の闇。
 月夜の僅かな光がその場を照らす中で――記子は一人絶叫を上げていた。ここにはいない男友達…今は『相棒』とも言える者に向かって。 あの後、必死になって教室に戻った記子であったが…展開は散々であった。その場にいた教師の機嫌が悪かったのか…刑人共々、遅刻した罰として廊下に立たされる羽目になってしまったのだ。
 しかもその後、クラスの女生徒からは「二人って…もしかして付き合ってるの?」とか詰め寄られ、欲情に塗れ始めている男子生徒からはいやらしい視線を向けられる羽目になった。
 しかも話を聞こうとする生徒は皆彼女の方ばかりを問いただそうとし、刑人の方に聞くものは極少数であった。初日以降、他の生徒からは多少怖い印象を与えている上に、刑人自身この話題に関わろうとしないからだ。おかげで八方塞のままに話題の的を独り占めする羽目になったのである。
 まさにラブコメ漫画のようなゴシップ展開に、記子はもう恥ずかしくてどこかに消えてしまいたかった。
 それでも夕方には皆からの変な誤解を解いたものの…今度はこの二日よりも多く出された宿題を始末しなければならなず、それが終わったのは夜の20時過ぎ。
 やっとのことで憂いをなくして、いざ初捜索…と息巻き寮を飛び出し校内に来てみれば、その扉の前から漆黒のローブを纏った『魔法使い』の姿が現れてびっくり。
「……こんな夜にうろついてどうするつもりだ? …もう今日は部屋に帰れっ! いいなっ!」
 驚いて尻餅をついたままに、今にも殴りかかりそうな視線で睨みつけられ心臓を押しつぶされそうになりながら…脅し文句を履き捨てられてまま、さっさと影の中へと消え去れてしまったのである。
 結果として……コケにされ、晒し者にされ、散々な目に合わされた挙句、相棒からは脅しで黙らされた…記子の本日の午後は本当に散々たる結果になってしまったのだ。
「うぅぅ…いくらなんでも、あんな言い方無いじゃない…! …酷いよ……私だって頑張ってるのに……っ! 」
 ドアの外で何とか膝座りの体勢に持っていった記子は、昼とは違う、昨日のような拒絶と威圧の混ざった刑人の態度に、悔しさと悲しさで心を震わせていた。
 確かにこんなにも時間がかかってしまったのは自分の勉強不足かもしれないけれど、そんな状況に陥ったのは刑人に責任があるのだ。それなのに何の呵責の無いままに『帰れ』などと…薄情にも程がある。
 しかし、なんかそう考えてゆくと……彼女の心に、このまま引き下がれるものかという怒りの念が沸々と込み上げてくる。
「うぅ……………もうっ! こうなったら…絶対に後悔させてあげるんだからっ!」
 また何かの危険を匂わせるかのような相棒の警告に、しかし記子はそんな態度に激昂する。それは先日、あれほどに悲惨な陵辱を受けたことなど全く感じさせないものであった。――あるいは自分の対する暴行に対しては楽天的なのかもしれない。
 そんな後ろめたくなることよりも、記子にとって目の前の理不尽な仕打ちのほうが腹に据えかねているのだ。
「私を置き去りにしたことっ! ぜっったいに後悔させる! ……待ってなさいよ、刑人くんっ!」
 半ばキレた状態のままに、立ち上がった記子は僅かな光の照らす夜道を走り始めた。自分の思い当たった、目的の場所へと――
――――――――――――――――――――
「ハァ…ハァ…ハァ……やっと付いた………ハァ……ハァ……」
 ようやく目的の場所に辿り着き、記子は膝に片手を突き、吹き出てくる雫を拭い上げながら息を整える。そして落ち着いたところで、自分の愚かしさを嘆くことになった。
 ――うぅ、体が汗ばんでくよ……ここまで急ぐこと無かったのにぃ…… 
 さすがに感情のままには知ってしまったのは不味かったようだ。いくら私服に着替えているといっても、汗が身体から噴出してきて気持ち悪いのである。こうなったら早く終わらせてシャワーを浴びたいところだ。
「…ふぁぁぁぁっっ――っっはぁぁぁぁぁ…………よしっ! それじゃ、始めるとしますか…」
 大きく深呼吸し完全に自分を落ち着かせた記子は、自分に言い聞かせるかのような合図と共に、目的の場所へと足を踏み入れる――自分のいる場所とは別の女子寮の入り口へと。 刑人の話を聞いて、記子は腑に落ちないところがあった。
 確かに刑人の頭脳は凄いと感じる。いや、影魔という存在の頭脳が凄いというべきなのだろうか。それは昼休みに彼の話を聞いているときに実感した。もし彼の手にかかったら、自分が何かを隠そうとしてもあっという間に見つけられてしまうだろう。
 だが、だからこそ分からなかった。そんな千差万別に状況を見極めることが出来る刑人が、なぜもっと重要な場所に目を向けないのだろうかと。
 最も、記子とてその時は刑人の推論に半ば聞き惚れていたのでそれを責める権利は無い。これに気付いたのは、トラブルばかり続いてようやく自室に戻った後なのだから。
「もうっ! 皆であんなふうに聞きにこなくてもいいじゃない…っ! したい事だってもっといっぱいいあったのに……ハァ…。今日はほんと、災難だったなぁ………………災難?」
 そう……災難だ。どんな人間も、災難に巻き込まれればそれに対応することに気を向け、今まで手をつけていたことになど気にする余裕が無くなる。
 彼は、無価値と蔑んていた瞳という女性はトラブルに巻き込まれ、そのすぐ後に殺されたといっていた。なら彼女が手をつけていた悪行も、そのトラブルに対応する方に気を向けている間は全てを中断せざるを得ないのではないか。
 そしてそれが悪行を続けている途中であったなら? トラブルに追われてそれを回収する暇が無かったら?
 ここまでくればもはやただの思い込みかも知れないが、そう考えるなら彼の捜索した場所に必要なものが存在しないのも当然なのではないだろうか。
 最も「だったら捜してるものはどこにあるんだ」といわれても答える術はない。その辺りが記子の知識と知恵の限界ともいえたが、おそらくそれは誰の頭にも思い浮かばないだろう。
 ただ、記子の脳裏の中では「もしかしたら、思いもよらない場所に刑人の捜しているものがあるのではないか」という考えでいっぱいだった。
 もしそうなると…最悪の場合、学校全ての場所を探さなければならないだろうが……ともあれ、記子はまずその辺りから捜すことにした。
 そして記子が最初に目を付けた場所……それが女子寮にある一つの部屋――すなわち『羽連悠美が過ごしていた部屋』である。
 別に深い理由は無い。「とんでもない場所」と、今日学校であれだけ悪評され刑人が心に秘めた「羽連悠美という少女」の、頭に刻まれた二つ記号をあわせたら思わずその場所を思い浮かべたに過ぎないのだ。
 悠美という少女の部屋のある寮は、寮を出る前に新たに出来た学友からそれとなく聞いて確認した。聞いた瞬間に怯えたような顔をして、早く終わらせようとしていたことが印象に残る程だから間違いない。
 そして記子は、真実を知る手掛かりを捜すために、昨日あれ程の恐怖が渦巻くことを思い知らされた夜の闇へと飛び出してきたのだ。刑人の警告に逆上した頭のままで…… 刑人に何を言われても、ここまで来たらもう後戻りは出来ない。寮の中へと侵入した記子は、何も気兼ねすることなくその寮の通路に足を踏み入れ――
『ドクンッ!』
「っ!?」
 その通路に出た瞬間、余りにも思い重圧が記子の身体…いや、魂に圧し掛かってくる。
 ――な………これ……っ! 
 その余りもの重圧、いや重さだけではない。それは感じたことのある重圧。身に刻み付けられたことのある重圧だからこそ…記子はそこから一歩も動けなくなってしまう。
 だがそれは刑人が放つ憤怒の重圧ではない。もっと根本的な…女性が感じてはいけない危険信号とも言うべきか。
 そう――それは先日教室で感じた感覚。あの「植物」に身体を破壊されるかのような陵辱を受ける前に感じたあの感覚。女性としての尊厳を破壊されるような絶望的な感覚。
 そんな本能的な恐怖が寮の奥…いや、この寮全体を包んでいる。そんな恐怖を感じた記子の身体は震えだす。暑さで滲み出ていた汗は次第に冷や汗へと変わってゆき、先程まで突発的怒りは消え頭が冷えてゆく。
「あぅ…ぅ…っ!」
 ――怖い――逃げろ――近づくな――先に進んではいけない――殺される――犯される――犯される――犯される――
 そんな本能的警告が記子の心に呼びかける。まるでその先が夜の僅かな光さえも届かない通路奥の闇に、踏み躙られた身体は記憶した恐怖を思い出し、それを心に伝えているのだ。
 ――……あぁ…ぁぁ………………………ぁくっ……くっっ!
 必死に訴えかける身体からの泣き声を、しかし記子は心で抑え付ける。
 ――…何よ! このくらい…刑人君の怒った顔に比べれば、どうってことないんだから…っ! …ないんだから……っ!
 自身から生まれた恐怖を、別の恐怖…今日まで散々睨んできた刑人の怒った顔を思い出す形で、何とか心を奮い立たせる。記子にとっては彼の睨みのほうがもっと本能的恐怖を刈り立たせる。それに比べれば…そんなことを必死に思うことで、心の震えを必死に抑えようとする。
 立ち止まってその恐怖を頭の中で何度も過ぎらせ……次第に記子の顔からは恐怖の色が消えてゆく。
「…ハァ…ハァ……ハァ…………………………何とか、落ち着いた…………………よし……っ!」
 何とか自分の心を落ち着かせた記子は気合を入れなおすように掛け声を上げ、未だ重圧の蔓延する寮の通路に足を一歩踏み入れた。そしてゆっくりと、ゆっくりと、少女を待ち構えている奥の闇へと足を踏み入れる。
 だが彼女の身体は、未だ恐怖を訴えるかのように震えが止まらず、歩の進みは先程と比べても明らかに遅いものであった……
「ハァ……ハァ…………もう、何で、こんなに…息ぐるしいっ、の……あっ…ハァ……ハァ…」
 なんとか中央の階段を上って、ようやく二階に辿り着いた時点で記子は壁に手をついて立ち止まる。
 部屋の周りに漂う重圧は、記子の体力を確実に奪っていた。それ程広い寮でもなく、またそれほど歩いたつもりも無いのに…身体がもう悲鳴を上げ始めている。
「…ハァ……これって……やっぱり、影魔の仕業…かな…?」
 その場で冷や汗を掌で拭いながら、記子は今更ながらに思い起こしていた。
 考えてみれば、いくら暗くて怖い場所だからといってここまで周りの空気が重苦しくなることは無いのだ。刑人の話も加えるなら、明らかに何らかの力が働いていると考えるべきだったのだ。
 あるいは刑人の仕業かもしれなかったが、感じうる重圧は刑人が放った怒りの重圧とは異なるもの…身体に纏わりつくような、嫌悪感が強く滲み出るような重苦しいものであるだけに、彼のものではないと記子は感じていた。
 そして…もしそうなら、この近くに影魔がどこかにいると思っていい。だとしたら、自分はその影魔の近くにいることになる。否、すでに影魔達が自分の事を見ているのかも……
 そう思ってみれば、さっきからこの周りで何かしら人の気配さえも消えていたような気がする。
「…っひ!?」
 瞬間、記子は何かに見られている…そんな悪寒を感じた。それはまるで今日の男の級友達がしていたような…欲情の視線。あの時は決して自分に向けられているわけではなかったのに、その怖さは肌で感じるほどであった。
 そして今、それは明らかに自分に向けられている――そう考えた途端、記子の脳裏に昨日受けた陵辱の光景が鮮明に蘇る。あの時は最初そんな気配は全く感じられなかったが、気付くまもなく退路を絶たれ、あっという間に「植物」の化け物に身体を玩ばれ、自らの『始めて』を無理やり奪われてしまった…
 あの時は刑人君が全てを無かったことにてくれたが、今の雰囲気は昨日の状況に似ている。感覚こそ違えど、少なくとも記子には同じように感じられる。
 このまま行けば、自分はまた……
 ――や、やっぱり…刑人君の言うようにおとなしくしてしてれば、よかったかな……
 もしかしたら、刑人はこの状況を確認していたから自分を脅していたのかもしれない。その彼の忠告を無視するようなことをして、自分の馬鹿さ加減を記子は後悔してしまう。だがここまで来てしまったらもう後の祭りだ。 
 明らかに今の自分は、虎穴に入れられた羊…記子の心が恐怖と悪寒に満たされたじめる。
『―パチャッ』
「っ!?」
 不意に後ろから足音が聞こえた。人影の無い筈の、しかし死角となっている階段の下から、明らかに人の足音が聞こえた。いや、果たしてそれは人の足音なのか。なぜならそれは靴の足音ではないのだから。まるで濡れた肌で地面のコンクリートの上を歩いたような音が、今の彼女の耳に聞こえたのだ。
『……パチャッ…………パチャッ………パチャッ……パチャッ…』
 次第にその足音が大きくなってゆく。その足音がこちらに近づいてる証拠だ。その異様な音に、記子の心が恐怖と悪寒で更に震え上がる。
「あ…あぁ………ああぁ…」
 身体は全く動いてくれない。余りの恐怖に身体が萎縮してしまっているのだ。無論心もまた恐怖に支配されようとしている。だが―
 ――本当に…影魔なのかな? ちょっと、見てみたいかも……
 自らの身に危険が迫っているかもしれないのに、とんでもないことを考えてしまう記子。だが今の記子の心を満たすのは恐怖や悪寒だけでなく、この状況の真実を知りたいという知識欲が湧き上がっていた。
 あるいは忠告を聞かなかったことを、刑人が怒って脅かしているのかもしれないという甘い期待がどこかに残っているのかもしれない。そんなことあるわけ無いのに。あるわけ無いのに…
『……パチャッ………パチャッ……』
 そうこうしている間に、もうすぐそこまでやってきたかのような大きさで足音が近づいてくる。逃げるにしても顔を出すにしても、ゆっくり考えている時間はない。無駄な足掻きかもしれないが、このまま立ち止まっていては…また犯され、殺される。
「う…うぅ……うぅぅっ!」
 動かなければならないのに。動かなければいけないのに。身体がちっとも動いてくれない。昨日はまだ逃げるだけのことが出来たのに、今日はそれすらも出来なくなってしまっている。それほどまでに影に、闇に恐怖を抱いてしまったのか。それとも…
 ――だ、駄目…っ! くるっ! 私…このまま…っ!
 足音は目前にまで迫っていた。ここまで近づかれては、今から逃げるにしてももう遅い。それなのに身体は動かない。このまま自分は、迫ってくる闇にまた身体を引き裂かれてしまうのか……
『パシャッ……………………………………………………………………………』
 来た――そう思った瞬間。
 足音はすっかり聞こえなくなった。あの恐怖を駆り立てる奇妙な音が一切聞こえなくなった。
「………………………………………………………………………?」
 不意に聞こえなくなった足音に、さすがに記子も拍子抜けする。一体どうしたのだろうか。てっきりその姿を晒して、襲ってくると思ったのに。
「…………………っ!」
 まさか、すでに自分の身体を絡め取っているのでは? こちらの意識とは違う方向からは別の何かで、襲おうとしているのではないか。昨日の植物の影魔のように。
 そんな恐怖が脳裏に過ぎった瞬間、記子は全力で周りの様子を見回してみる。何かしらそれらしいものが既に自分を囲んでいるのではないか。
「……………っ!……………っ!」
 だが、それらしいものは何も無い。月光だけが照らすだけの場所で視界は悪かったが、それでも先程と比べても不自然なところは無かった。
 それでも安心は出来ない。こうやって油断させておいて、あるいはどこかから強襲してくるのではないか。
 だか暫くたっても、何も起きる気配は一向に無い。さすがに記子も、こうなると恐怖や悪寒よりも疑問のほうが大きくなってくる。次第に身体の恐怖も収まり始め、自らの意志で動き始めることが出来るようになって来た。
 そうやって金縛りから解かれた記子は、先程音のした方…自分のいる場所からは死角になっている階段の裏側の方へゆっくりと歩み寄る。
 そしてそっと、階段の反対側に顔を出してみて……
「………どういう、こと………?」
 記子は、何の異変も無いその場所を見て、ただ呆然と目を丸くするしかなかった――

――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――

「……あの馬鹿…動くなと言ったのに……っ!」
 昏く淀む、闇の中。
 周りをスライムのような粘々とした何か…悪意の塊のようなものが辺りで淀んでいる中、刑人はその隙間から見える少女の姿を見て苛立ちの声上げた――魚のような肉と血でその手を濡らして。
 影の世界――そこは人の世界とは紙一重に存在する世界。
 人の心の奥底に住まうもう一人の「人」、すなわち影魔の元となる「影」の意思が住まう世界。そして人を止め影魔となったものたちが時として身を置く光届かぬ世界。
 そこでは人の意思によって抑えられた影の意思達が、紙一重の世界で自らを縛っている自分の『光』を飲み込もうと虎視眈々と淀めき、人を止めた影魔達か時としてその闇を徘徊する。
 力の大小はあれど、その闇の世界では無数の影の意思が常に互いにぶつかり合い捏ねりあい肥大し、時として力の弱い影が強い影に飲み込まれ更に肥大化する。
 また時として粘々とした影が魔物の形となってこの暗き闇の世界から消える――それは新たなる影魔誕生という意味。
 そして時として、人の姿をした影魔がその悪意を吸収し力を得てゆく。
 そこは悪意の集う場所。力あるものが全てを制し、互いを常に攻撃しあう安らぎの無い世界。そして全ての魂がその半分を囚われる果てしなき闇。
 辺りに蠢く影こそが「光」となるこの世界において、刑人は立ち尽くしたままその光景を見つめていたのである…蹲る三体の影魔達の中心で。
 メタモルエクリプスが学園に潜入して以来…学園の回りは異形の姿をしたものたちで溢れていた。
 無論影の住人である彼らの数が、夜を迎える頃には…人気が全くない場所を余すところなく潜伏していたのである。その配置はまるで学園を包囲するようなものであり、一斉に動けば学園など一溜まりもなく乗っ取れられてしまうだろう。
 最もそんなことになれば大事件になるのは明らかな上に、上級影魔という指導者がいる以上そんな単純な侵略ですむはずはない。その証拠に、彼らの大半がそこで止まってしまい、動く気配が感じられない。
 だがそれでも、刑人は気付かれぬよう影魔達の動向に目を光らせていた。計略がなんなのかは察していたが、欲望の塊である影魔の全てが上の命令に素直に従うとは思えないからだ。
 辺りに影魔がいることも許せないし、醜悪な学園連中がどうなろうと知ったことではないが、今は場が乱れては困るのだ。最悪、もしその横暴をあの子が気付いたりでもしたら…自分の戦いはそこで終焉になってしまうのだがら。
 そして案の定、数体の影魔が学園に侵入してきたのである。その全てが自らの欲望に耐えられられなくなったというような顔をしている連中が様々な場所へと現れたのである。
 今ここで暴れられるのは迷惑であった……仕方なく、自身を晒す危険を承知でそいつらを始末することに決めたのだ。
 しかしそこで記子の存在は問題になった。確かに昼休みに様々なことを決めたばかりだが、影魔達の動向がはっきりしていない今ははっきり言って邪魔だった。だからあんなふうに脅して追い返そうとしたのだが……やはり実力行使に出るべきだったかと後悔してしまう。
 それもよりによって影魔にとって獲物といえる女子生徒が集う場所になぜやってくるのか……彼女はここにくるまでに三体もの影魔に目を付けられ、今にも襲われようとしていたのである。
 結果的にはおとりとなって影魔達を燻りだせたことになったが…無関係者を巻き込むのを嫌う刑人にとってそれは逆に苦痛であった。吐き捨てるように呟きはしたが、心のうちから沸き上がる怒りは記子よりも、襲おうとした影魔達やこのように利用する羽目になった自分に向けられたものだった――
「………あぁ、くそっ!」
 周りの「影」がまるで怯えたように蠢く中、沸き上がる苛立ちを吐き捨てながら記子の無事を確認した刑人はその光景を閉じた後、先程この世界に引き込んだ『鰤』へと近づいてゆく。
 魚のような姿に手足が生えた程度の影魔だったが、その左半身はまるで無知な者が魚を無理に切り倒したかように引き千切られていた。身体の半分を失った『鰤』はまるで陸に上げられたかのようにピチピチとくね回し、引きちぎられた身体から紅い体液を撒き散らせていた。。
「お……お前……こんなことして…ただで、済むと……思ってる…の…っ!?」
 目の前に来た『魔法使い』の殺意的な眼光と威圧感、そして身体を削られた苦痛と恐怖で声を震わしながらも、『鰤』は気丈な態度を崩さずに威嚇してきた。影魔である事の傲慢さが、目の前の少年に圧されている現実を受け入れられないでいたのだ。
「思ってはいないさ…! たが痛い目を見るのと引き換えに、そこにある肉の塊を大量に増やしてやるだけだ…!」
 『鰤』の震える声に刑人は怒りを滾らせた口調のままに、後ろにいる二体の影魔…あまりに見るも無残な姿で蹲っている『蜥蜴』と『針鼠』を横目で見据えた。
 『蜥蜴』は見るからに異常な状態のままに息絶えていた。両肩から骨が出るほどに全体を圧縮され、子供の握り拳ほどもある半径の穴を体中に開けられ、左腕は引きちぎられた証を晒したままに血の涙を流している。
 そして足元には長い紐のようなもの…彼自身の舌が叩き付けられる様に転がっており、その周りでは切り刻まれた鱗の後が散布していた。彼を中心に血の池が形成されいる辺り、その時に起きた惨劇が尋常なものではないことを物語っている。
 対面側の『針鼠』は一見するとただぐったりと尻餅を突いているだけのように見える。しかし身体中から突き出している、子供の腕ほどもある針の先端はどれもが尖ったものではなく、血と肉を染み付かせた太いギザギザなものになっていた。
 …そう、本来突き出されているはずの突起の大半がその本体へと突き刺されていたのである。しかも針鼠の下半身…彼の性器がある場所は無残にも抉り取られ、一回りも大きな針が代わりとなって突き刺されているのだ。
 身体の内側から針を出す針鼠が逆に針の筵にされるという滑稽な筈の光景は、本人の口から漏れる虫のような喘ぎも加わって、更なるおぞましさを引き立たせる。
 その場にいるものからして、全て刑人の仕業であるのは明らかだったが、一体どうしたら人の姿をしたものがここまでのことが出来るというのか。常人なら発狂しそうな狂気の光景と力を目の前にして、『鰤』は恐怖に全身を震わせていたのだ。
「いや……屑である影魔共など、肉塊すら残す価値もない…っ!」
 そんな『鰤』の姿を忌々しく睨みつけ、吐き捨てながら目を真っ赤に血走らせ、ゆっくりと向かってくる魔少年。その近づいてくる憤怒という悪意に、『鰤』は恐怖という絶望で相手の全身を支配される。 
「ひっ!? …く、くるなぁぁぁぁぁっ!」
 迫りくる刑人のへの恐怖に耐え切れず、『鰤』は自らの股部分を刑人のほうに向ける――次の瞬間、晒された彼女の秘部と呼べる場所から大量の卵が発射される。本来『鰤』の奥の手である自らの意思が詰まった卵子達は、受け入れた雄の精子を浴びて自らの手駒になる子供鰤を大量に作り出すものである。
 そして自らの意思によって捻り出し、影の意思による強力な酸の入った袋にして使用することも出来る。大量に吐き出されたそれをまともに食らえば、常人はおろか並みの影魔でも骨すら残らない――
 『バシュッ! バシュバシュバシュバシュバシュバシュバシュバシュバシュバシュッ!』
 だが、それらの全てが『魔法使い』に届くことなく破裂してゆく。彼の内から放たれる圧倒的な覇気がそれらを弾き返しているのだ。結界と化した彼の周りで、生まれるはずだった生命の基が次々と酸の水となって地面に叩きつけられる。
 …やがて卵の発射が止まり、後に残ったのは『鰤』の直前にまで流された酸の泉だけだった。
「あ……あぁ…………」
「変に欲望を剥き出さず、逃げもすれば少しは長生きできたものを……」
 ピチャ…ピチャ……シュウゥゥゥ……ッ
 力尽き、残された秘策のさえも防がれてしまったことで絶望に支配されてゆく『鰤』を見つめ、酸の泉にブーツを焼きながら歩み寄る『魔法使い』。そして傍までに来たその魔法使いは、右手に持つエメラルドの錫杖を『鰤』の方へと向ける。
「醜悪な影魔が……『食べられる』側の痛みを少しでも味あわせながら消してやる…っ! 恐怖を塩代わりにしてな……っ!」
 そう吐き捨てながら、刑人は杖の先に炎を灯らせてゆく。それが意味するのは――焼くこと。すなわち目の前の鰤を焼くか焙るかして無残に食べることを意味する。刑人はその肉をもって、その影魔が相手にしてきたことの「痛み」を叩き込もうとしているのだ。
 痛みを教え諭すのではない、あくまで怒りと憎しみだけが衝動となってそうしようとしているのだ。刑人にとって――ただ一人を除いて――影魔の命など虫けら同然の価値でしかない。
「笑わせないでよ…お前も…同じ、影魔でしょうが…」
「あぁそうだよ。お前等に勝手に醜く変貌させられ、自分の欲望(怒り)に逆らえなくされた同じ醜悪な影魔さ。だからこんな風にした…いや、その醜悪さを見せ付けてくれた貴様らも、そしてここの人間どもも残らず断罪してやるだけ…っ!」
「それで『正義の味方』気取りなことをしてるってわけ…? ハハッ、ちゃんちゃらおかしいわね…ッ! まるでこの学園にいる恵理子って子と同じじゃない!」
 ビクッ。
 その言葉に刑人が一瞬震え、そのまま硬直してしまう。まるで何か言われたくないことを言われて、心を抉られて震える子供のように黙りこくってしまう。
 ――まるでこの学園にいる恵理子って子と同じじゃない――恵理子って子と同じじゃない――恵理子と同じ――――――同じ――恵理子と同じ――恵理子や瞳と同じ――糞蛆や無価値と同じ―――
 まるでリフレインするかのように、刑人の頭の中はその言葉一点でいっぱいになっていた。もう目の前など見えていない、暗闇の中で刑人は更に沸き上がる衝動に我を忘れ始めてゆく。しかしそんな刑人の様子など目にも入らず、まるで命を使うかのように『鰤』は雑言を続ける。
「はっははっっ、とんだお笑い種! 怒りだ何だ言っても、結局は認められたいだけのいい子ちゃんなだけじゃない! まぁいいわ! 精々正義の怒りを振りかざして、自己満足に――」
 『ッッズブジュウウゥゥゥゥッ!』
「っっ――――――――――――があああぁぁぁぁぁっっ!!」
 次の瞬間、その雑言は絶叫に取って代わられた。まるで断末魔の叫びの如く、『鰤』は耳障りな悲鳴を上げる。
「――ふっざけるなぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁっっ!!」
 そして刑人もまた、その悲鳴に負けないくらいに叫んだ。まるで堪っていた怒りを全て吐き出すかのように絶叫しながら、苦しみに跳ね上がる『鰤』に突き刺したものを押し込んでゆく。
 刑人の左手…杖を持っていた方の反対の手には、『針鼠』の身体から出ていた針の一本…すなわち、彼の陰茎といえるものが握られていた。その陰茎を目の前にいる『鰤』の…口にではなく、その瞳孔に突き刺したのである。
 急な貫きに、本来瞳孔のあった場所は硬質な物体に押し潰され、許容できる質量を超えた肉片が外へと弾き飛んでゆく。その針のように鋭く剛直な陰茎で本来犯すべき場所ではないところを犯され、周りの僅かな光すらも失わされ…その余りの衝撃と苦痛に、絶叫を上げる地面に転がりまわる。
 だがどんなに暴れまわっても、少年の右手にある杖で同時に腸を貫かれ、二箇所を串刺しにされ動くに動けない。陸に上げられたイキのいい魚のよりも激しく跳ね回りながら『鰤』は逃げられない苦痛と絶望にのた打ち回ってゆく。
 その『鰤』を串刺しにした杖と巨針を持ち替えた刑人は、その生贄を軽々と持ち上げると…一気に目を細める。
「俺がっ、あんな奴等と一緒なわけがあるかぁぁぁぁぁッ!っ!」
 『ボゥンッッ!』
 その叫びと同時に、持ち上げた生贄を一気に地面へと叩きつける。その衝撃は余りに凄まじく、叩きつけられた『鰤』は耐えられずに爆発するかのようにその身体を四散させる。誰もが一目で分かるほどの粉殺である。
 後に残ったのは、串刺しにされた…つい先程まで生命として動いていた証を流す肉塊を先端に残った二つの棒だけだった。その下ろした二つの棒を…刑人はまたすぐに持ち上げ、そして再び地面へと叩きつける。
「あんな、あんな、あんなっっ! あんな糞蛆とッ! 無価値とっ! 俺がっ! おれがぁぁぁぁぁッ!」
 既に相手が絶命してもなお、刑人は言葉を区切るたびに二つの棒を地面へと叩きつけては持ち上げ、そしてまた叩きつける。…死してなお相手に制裁を加える刑人の表情は既に悪鬼のように変貌し、腹の底から吐き出されるような叫びは身を引き裂かれそうなおぞましさを感じさせる。
 そして叩きつけられる部分からは――影の世界に地面があるのかどうか彼には分からないか――クレーターのようなが開けられ、衝撃波が巻き起こる。
 ……もはや刑人は怒りに我を忘れていた。自分の立場の危うさも忘れ、噴出したものを叩きつけるかのように怒りを吐き出していた。突きつけられたある一言に対して。
 別に誰かに認められたいための愚行だと罵られたわけではない。自分のしていることなど本当に誰も…例えあの子でさえ理解してもらえるなど思ってはいなのだから。ましてや正義の味方気取りと罵られたわけでもない。本当の正義など消失し、真にそれを持つものは踏み躙られ消される…もはや存在しないのと同じ、だから信じない。
 ならなぜ怒るのか……それは同じとされたから。自分の今最も嫌う連中と同類…糞蛆と罵る恵理子と無価値と蔑む瞳、そいつらと自分が同じと同じといわれたから。あの子の明日を奪った連中と同じと言われたから。
 …許せなかった。身を引き裂くほどに、絶対に――
「あの子を踏み躙り追放した連中とっ! 何も償っていないあいつ等とっ! 一緒になど、同じなわけがあるかぁぁぁっ! うあぁぁぁぁぁあああぁぁぁぁぁぁぁっ――!」
 …もはや地面に叩きつけられるほどの肉塊がなくなったにも拘らず、二つの棒が拉げ砕け散ることも気にせず、魔少年は身を引き裂くような叫びを上げながら手荷物物を地面に叩き続けてゆく――
――――――――――――――――――――
「…………」
 再び、月の光が道を照らす中。
 記子は、今だに寮の通路をゆっくりと進行しているところであった。最も、ゆっくりといっても先程のような亀の如き進行ではない。ちゃんと普通の速度で寮の扉を確認しては目的の場所を探しているのだ。
 先程まで自分の身体を押し潰そうとしていた重圧は先程の一件から既に感じられなくなっており、もう普通に歩くことは出来るようになっていた。怖くないといえば嘘になるが、もう恐れるほどではないのだから。
 けれど今はまだ夜の最中。ここで騒音を起こして、寮にいる女子生徒を起こして騒ぎになっては自分が女性でも問題になる。だから音を鳴らさないような速度で次々とドアの掛札を調べながら、目的地を捜していたのだ。
 だが、今の彼女の表情は芳しくなかった。その可愛らしい肌には一筋の汗が長々と垂れ、口元は困惑に歪み、眼は困ったように上釣りになっていた。それでも周りに意識を集中させながら、一つ一つ丹念に調べ上げながら目的の場所を探そうとしてゆく。
 ………そんな彼女の足が止まる。ピタッとその場で、しゃがむでも何かに凭れ掛かるでもなく、ただ呆然するかのように立ち尽くす。それは疲れたとも、何かを思い出したかのようにするでもない…けれど、諦めの感じにしては少し違う。
 まるで何かに困ったかのように、ただ呆然ながら……人差し指で頬を軽くかき始めながら、ただ独り言の如く呟く。
「…………………よく考えたら私…その子が住んでた場所、知らないんだっけ……」
 そう。よく考えてみれば、頭に血が上らなくとも本来捜すべき「羽連悠美が住んでた部屋」を彼女は知らないのである。元々その場所が怪しいと決めていたのは彼女の独断であって刑人の考えではない。だから場所なんて聞いているはずがない。
 女子寮がここともう一つの場所であり、自分のいた場所にはそれらしい場所がないと思ったからこっちの方へ来たのだが…それがどこでどんな特徴がある部屋なのかを知らずに捜そうなど、無謀にも程があるではないか!
「……どうしよう…」
 無知もさすがにここまでくると、自分でも呆れてぐぅの根も出ない。…仕方がない、ここは一旦引き返してもう一度調べなおすしかないのか。あるいは刑人を探し出してその場所を…
 いや、刑人は自らの怒りを静めるために他の影魔と交戦中で忙しいはず。それに先程のような重圧な雰囲気がその証なら…刑人の足手まといになっては駄目だ。
 つまり自分で調べるしか、今の記子には残されていないのだ。…そうだ、こんな時間にここで何をしているのかと叱責されるだろうが、管理人に教えてもらうのが一番早いではないか。ただ闇雲に、ここで当てもなく捜していても始まらない。
 悠長に考えている暇はない今…それが最良の判断と考えた記子はくるりと踵を返し、もと来た道を戻ろうとする。
 ………………………のね………………
 っどきっ!
 不意に、どこからともなく聞こえた何かの声に、記子は心臓を跳ね上がらせて硬直した。
 ――な、何…っ?
 それはまるで掻き消えてしまいそうな程の小さなの声…それもテレビのノイズによって途切れさせられているような響きを、しかし記子には確かに聞こえた。…いや、脳に響いたといった方が正しいのか。まるで頭に直接響くような響き声に、記子は心臓を高鳴らせて硬直した。
 ――……また、影魔…なの? …でも、雰囲気が、違う…
 夜の暗き闇の中、その『響き』は記子の心に確かなる恐怖を響かせている。だが、記子はそれに対しては身を引き裂かれるような危険信号を感じなかった。
 先程までの身体を押し潰すような重圧は感じはしないのだが、変わりに『知ってはならない秘密を守るための向かい風』のようなものを感じるのだ。そのまま立ち尽くしていなければ、自らその場を離れさせてしまうような…まるで魔法のようなものを。
「………」
 記子は立ち尽くすままに、その声のするほうをじっと見据えていた。なぜこの声が聞こえたのかは分からない。でもこれは何かの切欠ではないだろうか。
 確かにこの感覚に釣られたからって、自分の求めるものがあるという保障はどこにもない。けれど直感というべきなのだろうか…それに導かれれば、きっと新たな道が…刑人にも、そして学園の皆にも為になる…そんな気がする。
 無論これが影魔の仕掛けた罠という可能性がないといえば嘘になるのは自身にも分かることだが、だからといって何の手掛かりがない今は、この切欠に導かれてもいいと思う。
 でも……怖い。怖いといっても、行ったらまた酷いことをされるという恐怖ではない。それは、きっと『知る』ことへの恐怖。ここから先に行ったら、後戻りできないような衝撃的な事実が待っているのではないか…そんな恐怖に身体が動かせずにいるのである。
 事実も情報も、まだ何も掴んでいないというのに…それが手に入るところまで来て、本能が躊躇しているのだ。知りたい…怖い…怖い…知りたい……そんな鬩ぎ合いが、先程の声を認識したときからずっと心で行われていて…
 《…………恵理………………達………か……》
 また響くその響き声。間違いない、どこからが声が聞こえる。相変わらず聞き取りづらい声ではあったが、今度はハッキリと聞こえた。しかもそれはただの声ではない…間違いなく聞き覚えのある声だった。そう、それは昨日見せてもらったHな…否、悲惨な状況に晒された一人の女の子のもの――
「羽連…さん?」
 間違いなくそれは、昨日聞かせてもらった少女の声のものだった。機械越しでしか聞いてはいないが、あれほどの衝撃的な映像の主役だったからよく覚えている。それがこんなところで聞こえてくる…明らかに何かあると見て間違いない。
 あるいは、刑人が昨日今日見せてくれた『紛い者』というのが誘っているのかもしれないと一瞬思った。…でもそれも違う。直感といってしまえばそれまでだけど、人の気配というか、生命の気配のようなものが感じられない。
 それこそテレビの中から聞こえる擬似的な声のようなもの……つまり、影魔とはまた違うもの――
「もしかしたら……………………………………………よし……」
 もしかしたら、私達の捜し求めていたものがあるかもしれない――そんな甘い期待を胸に、記子の足は頭に響く方向へと向いた……
――――――――――――――――――――
「……ふぅ………ここ、ね………」
 テレビのノイズのような声を頼りに、大きな音を立てることなく捜索する事しばらく……記子はある一つの部屋のドアの前に足を止めていた。そしてその場所で頭を上げる。
 そこは名札の無い寮の一部屋。寮の端にある、今は誰も使用していない部屋。誰も使用していないというのは…人の気配が感じられないからだ。
 先程までの部屋は…学園の寮として機能しているのだから当然なのだが、声だの明かりだのといった、そういった人の気配が必ず存在していた。しかし目の前のドアに奥にある部屋からはそれが感じられない。
 しかし目の前の扉の奥からは明らかに聞こえる。先程からの声が。
 《明日……また恵理子と、お話出来るかな…そしたら――》
 そんな響きが聞こえては途切れ、途切れては聞こえてくる。それは場所によって場全く聞こえなくなり、そして場所によってはより鮮明に頭に響く。そうなれば、最も聞こえやすいところがその中心…すなわち発信源となる。
 その発信源、頭に響く声が最も聞こえやすい場所を探して歩き回り…そしてようやく、この場所に辿り着いた。調べた限り、響く声はこの場所が最も鮮明に聞こえてくるのだから。
 しかもこの声は、周りには聞こえていないというのか…どうにも自分にしか聞こえていないのだ。どうしてかは分からないが、考えてみればこんな途切れ途切れの響きが周りに聞こえていたらそれを咎めに誰かが出てきてもおかしくない。
 それなのに寮の周りは騒動の無い穏やかなもの。まるでその事が起こったことに気付いている状況は一つとて感じないのだ。まるで最初から何も聞こえていないかのように…周りを歩いて、先程と変わらない状況を確認して分かったことだ。
 ……この先に何かある。それが自分の求めているものなのか、それとも悪意ある者達の口なのか。確実に分かっているのは、ここを調べなければ先には進めないし、何より忠告した刑人に申し訳も立たない。
「……………さて…っ!」
 決意したかのように呟いた記子は、ゆっくりとドアノブに手をかけ……そしてノブの鍵穴に、自分の中指程の長さもある小さな針を通す。そして四錠している部分を探すようにゆっくりと指を動かしてゆく…
 彼女の隠れた特技の一つであった。元々探求欲の強い彼女は子供の頃探偵ごっこで色々と「お勉強」したことがある。
 このピッキングもその一つであった。探偵の心得とか何とかで、必死に勉強した事は今でも覚えている。最もそんな技術が平穏な生活において役に立つはずもなく、結局は宝のもち腐れのままになっていた。
 だからそれが、今ここで役に立つとはさすがの記子も予想しなかっただろう。特技の一つでも勉強した自分に感謝したくもなる。
 だがこんな技術、一歩間違えば立派な犯罪である。それが私欲の為のものではないとはいえ、やはり罪悪感が湧き上がるのも事実だ。
 嬉しさと後ろめたさ…その葛藤に揺れながら、その葛藤を楽しみつつ物事に集中する――記子もまた優しい子であると同時に、悪い子でもあるのだ。
 『ガチャンッ』
 鍵穴に針を入れてから少し…奥に入れた針を手のひねりで上げる、それと同時にドアノブの中で何かが動いた音が響く。それは寮の鍵を開閉めするときと同じ音。
 そのドアが開いたことを確認し、記子はゆっくりと針を鍵穴から引き抜き、それを終えるとそっと立ち上がる。そしてドアノブを握る手に力を入れると、ゆっくりドアを開けた。
「…お邪魔しまーす……」
 ご丁寧にも挨拶を交わしながら、記子はドアの奥を覗き込む――そこには微かに映る立体としての面影と、先が全く見えない暗闇が目の前に広がっていた。
 一目見た限り、自分の下宿している寮と構造は変わらない。目の前には靴を脱ぎ捨てる場所から始まり、台所を繋ぐ廊下を経ていくつかの部屋へと通じている。
 目の前の靴置き場から台所までは、開けたドアから漏れ出る光がまだ場所の輪郭をくっきり教えてくれるものの、奥の部屋は全て更なる暗闇に遮られて窺い知ることが出来ない。まるで全てを飲み込むかのように怪しく胎動しているようだ。
 それでいて人の気配は全く感じない。それどころか自分を除いた生命の痕跡が感じられないのである。
 普通の人間ならもちろんのこと、この場にいる記子ですら背中にゾッとするような寒気を押さえきれない。多分普通なら入ることをためらうだろう。だが…
 《でも……もし、私の本当の…姿を、知ったら………》
 先程から頭に響いてくるその声は、間違いなく奥から聞こえてくる。その声に導かれ、その正体を知りたくて、そこにあるものを欲してここまで来たのだ。
 もう後には引けない。記子はゆっくりとドアを閉めながら靴を脱ぎ、手に持ったまま部屋の廊下に足を踏み入り、そっと部屋の奥へと歩みだしてゆく。
 部屋の中は人が住んでいないにしては埃が少なく不快感は感じられない。それは依然住んでた人間…羽連悠美は人並み以上に几帳面で綺麗好きという証であったことを記子に教える。
 だがそれを感心する間もなく、記子はあっという間に目的の部屋へと到達する。そして、そっと部屋の中を覗き込んだ……
 部屋の中もこれまた大きな特徴は無い。構造も机やベッドの配置も自分の部屋と同じで必要最低限の己が置いてあるだけだ。それ以外に物が散らばっているものはなく、あくまで人が移り住む前の寮の姿――
「――………………っ!」
 違った…ただ一箇所だけ。他は何も手を付けられていないはずのこの部屋においてただ一箇所。窓際に設置されている大きなベットの上に――いた。ベッドの中で横たわる一人の少女が。
 その姿を確認して、記子は声にならない驚愕の声を上げる。
 …その子は女子高生というよりも、中学生といった方がしっくりくるかもしれない。その容姿は女子が見ても感嘆するほどに可憐で幼く、その身体は容易く砕けてしまいそうなほどに華奢だった。そんな女の子が一人、パジャマ姿で寝ていたのである。
 間違いない…記子はその少女を一目で悠美という子だと認識した。しかしその悠美という少女は…否、そこにいた『人間』には違和感があった。
 なぜならその子に気配を感じないから。
 おそらくはどんな人が見ても、それを実物とは思わないだろう…それが分かるくらいに身体が透けていたのだ。その肌は愚か、来ているパジャマですら何かに照らし出されているような透明感と光に包まれているのだ。
 おそらくここにいるのは本当に生きているものでは無い。何かしらの力によって生み出された立体映像か何か…少しの間『彼女』を見つめていた記子はそう判断した。
 そうでなければこんな暗闇の中、自分が部屋に侵入してきたことに気付かないわけが無い。いやそもそも、ここまで暗い場所においてそこまで彼女の姿が分かるわけが無い。未だこの部屋は暗闇に閉ざされているのだから。
 ベットの上にいる彼女の周りから照らし出される、彼女自身と認識させるだけの微かな光だけが今この場を照らす全てだ。カーテンなども閉じられていることもあって、それ以外の場所は未だ目が慣れず見ることが出来ない。つまり記子が今視認しているのは、ベットの上の場所だけなのである。
 《言えない…やっぱり私……言えないよぉ……》
 ベットの中で何かに苦悩して悶える彼女の姿を見る限りでは、こちらに何の影響も与えず感じ取ることも無いようだ。そんな情景にほっとしたのか、記子は緊張の糸を解きほぐし、ゆっくりと部屋に入ってベットの近くまで歩み寄る。
 おそらく今ここで流れているのは、かつてこの場所であった事実。それがなぜ『再現』されているのかは分からないけど、きっと何かがこの場に残っておりそれを再現しているのだろう。ならばそれを見届けてからでも遅くは無い。かつてこの場所であった事実…目の前の少女がなぜあそこまで避難されなければならないのかを。
 そう考えた記子は、ベットの傍に立ったまま流れゆく少女の光景を傍観し始めた。
 だが、目の前で『動いている』少女はそんな少女の考えなどお構いなしに……先程まで呟いていた言葉が途切れると、身体から漏れる淡い光を次第に薄らがせ、そして消えた。
「っ!? ちょ、ちょっと…っ!」
 その意表をついた流れに、記子は声を上げて止めようとしたが遅かった。既にベットの上で動いていた幻影は消えていたのである。
 何の前触れも泣く、少女の幻は消えた……その物語のあっけない幕切れに、記子はただ呆然と立ち尽くして――そのベットからまた人が現れる。
「っきゃあっ!?」
 当然といえば当然なのだが、その不意打ち的な人間の登場に記子は驚き、ドスンと尻餅をついてしまう。だが現れた人影はそんな記子の様子など気に留めることもなく、ベッドの上に何かを乗せようとしていた。
 その不審な行動に記子は訳が分からず、その人物をよく見てみる。するとその人物もまた現実のものではないことを知った。……当然だ。その人物もまた、全身が淡い光に包まれていたのだから。
 つまりその人物もまた『何か』が自分に見せてくれる幻影だったのである。その人もまたこの場で録画しているDVDのように動き、ここで起きたことの一部始終を伝えようとしているのだ。
 だが、記子が本当に驚いたのは別のこと……その幻影として映し出されている人物が、自分もよく知っているものだったからである。整った顔立ちに眼鏡をかけ、髪を一束に纏め上げた一人の少女――
「………恵理子、さん……」
 それは紛れもなく一之瀬恵理子であった。今日のゴタゴタを除けは、転校してきたばかりの自分に良くしてくれた子で本当に世話になったと思える。確か刑人の話では悠美という子を最も踏み躙った一人といっていたが…このような場面を見るに、やはり彼の話が全てとは思えない。
 記子もまた、その辺りの分別はつけているつもりだった。刑人の心から沸き上がる憤怒を見るに、彼女の内側にある醜悪さは確かなものなのかもしれない。けれど彼女にも慈愛の心はある…寧ろそれが彼女の本質なのかもしれない。それを刑人も分かってくれたら、あるいは…
 だが、今はそのことを考えている余裕は無い。何とかして立ち上がった記子は、今この場で起ている光景を食い入るように見つめてゆく。
 《…ふぅ……これで一段落ってとこか………》
 目の前に映る恵理子は、ベットのシーツを掛ける様にしながら定位置に戻していた。そこで横たわるものを優しく包むかのように…そこで眠る少女、羽連悠美を包むかのように。
 《まさか、本当に正義の味方だったなんて………そして………私を、助けてくれた………》
 そう思いに耽る恵理子の顔は、母親とも姉ともいえるような優しい微笑みでそこに眠る少女を見据える。何を想っているのかは分からなかったが、その表情を見るだけでもその少女のことを想っていたのは明らかだった。
 《ありがとう…悠美………本当に……ありがとう…》
 そして、感嘆の想いで泣きそうな声で呟いた恵理子は次の瞬間…眠っている少女の唇と自分の唇をゆっくりと重ね合わせる。自分を救ってくれた事への最大の賛辞なのか、それとも愛が芽生えたことへの証なのか…美少女同士の口付けあう姿は、傍から見ている記子さえも思わず頬を赤らめてしまう程に背徳的で、それでいてとても美しかった。
 だが、そんな光景も長くは続かなかった。口付けあって少しした後…二人の姿は淡い光を消失させながら消えていった。……またしても、一つのベットが残るだけだった。
「…………」
 その光景を見て、記子はこれが何かの力による過去の投影であることを認識した。それが影魔の力であるのかどうかは判断できなかったが、この場で何かの力と意思が自分の頭に働きかけているのは間違いないと判断したのだ。なら、それを見届けるのもまたここまで来た自分の権利であり責務。
 先程の二つの光景を見てそう確信した記子は、自らの心にこの投影を刻み付けるため意識を集中させる。その集中力が高まってくる最中に…次の場面が来た。
 ……今度の場面もまた、悠美という少女がベットの上でいる場面だった。ただし座るような形のまま、シーツを腰に当てたまま、深刻そうな表情になっていたのである。
 《恵理子……まさか…敵の手が………………………誰っ!?》
 何か深刻そうに考え込んでいた表情が、はっとなってこちらを向く。それは先程までの華奢で儚い面影はなく、何かと戦うための強い意志を秘めた戦う女の顔であった。
 それが不意に向いてきたのだから、記子はドキッとせずにはいられない。過去の幻想であるはずなのに、こちらを睨むかのような険しい表情は…刑人とはまた違う形で怖かった。
 だがそんな記子の事など御構いなしに、目の前の少女はこちらを睨みつけたままにベットを離れる。そして臨戦体勢のままでいることしばし……今度は、記子の目の前を不意に何らかの丸い物が覆い尽くす。
「っきゃあっ!? …あいたたた……」
 睨みつけによる金縛りからの不意打ち的な意味不明な物体の視認に、またしても尻餅をついてしまう記子。連続的な打ち付けの痛さに、記子は目じりに涙を浮かべてしまう。
 …だがそんな記子の喧騒も、今目の前に起こっている出来事を止める理由にはならない。記子が撃ち付けた尻を擦っている間にも、目の前に丸いものと悠美が会話を交わしてゆく。
 《フフフ……恵理子なら心配要らないよ。僕の手の中でゆっくりと眠っているよ。僕の手の中でこそ、彼女は安らぎと幸せを得られるんだ。なんたって彼女は僕のものだもの》
 《ふざけないでっ! そんな勝手なこと、誰にも決める権利は無いわっ!》
 《まぁいいさ。彼女を返して欲しかったら、今夜学校の屋上にきなよ。そこで決着をつけようよ……君も僕を捜していたんだろう?》
 《…分かった。必ず行くわ……でも言っておくっ! もし恵理子に何かあったら…あなたを絶対に許さないっ!》
 《最初から許すつもりなんて無いくせに……まぁいいや。じゃ、待ってるからね》
 会話の終了を確認したその丸いもの――位置の悪い記子はそれが目玉の影魔とは分からなかった――は、そのまま地面の影に入り込むようにして消えていった。そしてそれを見届けた悠美は、何かを決意したかのように眼を見開き、ベットの横にあったテーブルの上の十字架を手にとって…願うようにそれを掲げる。
 《光よっ! 私に希望の――》
 そして何かの願いの叫びを放とうとして……また彼女が消える。そして何も乗っていないただのベッドだけがそこに残る。
 ……先程のは彼女が戦いへと赴く時の場面だったようだ。経緯からして、敵の大将との一騎打ちを挑まれたのだろう。そして悠美という少女はこの機を逃さずその場へと向かっていったに違いない。
 だが。記子はその戦いがどんな戦いであるのかを知っている。今の場面は、昨日刑人に見せても絶った過去の映像の一場面に酷似している…というよりその話と繋がっている…そう感じたからだ。
 記子の記憶、彼女が昨日見たDVDの内容が正しければ…この悠美という少女は、再び天使の姿へと変身して戦いを挑むも邪悪な姿をした女性の心理作戦に嵌って捕まり敗北してしまう。そして――
「……あぅ…っ」
 そこから先の内容を思い出し、記子は頬を紅く染めながら俯いてしまう。何しろその内容は余りに淫猥で、そっちの方面に疎い少女に対して刺激が強すぎるから。そして、天使の少女に余りに過酷な仕打ちであったから。何しろあんな激しいのは……
「っやぁ、ん……」 
 その内容を思い出していまい、記子は真っ赤にしてしまう。そしてそれ以上の回想は流石にマズイと判断し、再び目の前の幻影に眼を向けた。今必要なのは古い過去ではなく、目の前にある伝えられる過去なのだ。
 ……「その内容に女性としての興味をそそられるのが恥ずかしいから」、というが本当の理由なのは心の内にしまっておく。誰もそれをうかがい知るものはいないのだから。
 そんな思春期の少女の葛藤が心の中で描かれる中、再び周りの感覚が僅かな異質のものを交えてゆく。どうやら次の投影が始まろうとしている様だ。
 次に出てきたのは…またしても羽連悠美という少女であった。不意に記子の後ろから現れ、そのベットへと身体を埋めてきたのだ。
 だが…その姿は先程とは違っていた。その服は見るも無残なほどにくしゃくしゃになり、髪に巻きつけられたリボンもしわくちゃになっている。そして、うつ伏せに埋もれさせていた身体を回し…
「…ひっ!」
 記子は驚愕する。その涙に暮れた痛ましい表情を。先程までの強い意志が秘められたものとは正反対の、まるでこの世に絶望したかのように歪む幼顔がそこにあったのだ。
 《……うぇっぐ……恵理子………えりこぉぉぉ………………ぅわぁぁぁぁぁ……………うぇっぶぐっ! げぶっ、げふっげふげふっ! ……………えり、こぉ…………》
 涙を流しながら、恵理子の名を呼ぶ悠美という名の少女。失われた何かを求めるかのように泣き叫ぶその姿は余りに哀れで、幻であるはずなのに何とかしてあげたい気持ちに駆られてしまう。
 泣きじゃくりながらうずくまり、時には吐き出すかのように嗚咽する痛々しいその姿に耐えられず、思わず記子は少女に手を差し伸べようとする…だがその手は届かない。
 何度触れようとしても、その手は少女の身体をすり抜けてしまう。どんなに頑張っても、救いの手はその少女には添えられない。何故ならそれは幻影だから……何かの力が少女に見せる過去の幻だから。
 だからその幻は少女の手など嘲笑うかのように消え去ってゆく…次第に泣き苦しむ『悠美』の映像は次第に消えてなくなり、再び静寂が場を支配する。
「……」
 その状況を見つめ、記子はただ呆然とするしかなかった。一体どんな仕打ちを受ければここまで打ちのめさせられるのか…断片的にとはいえ、それを見た記子は背筋に冷たいものを流さずに入られない。
 しかしそんな少女の混乱など構うことなく、新たな映像が映し出される。記子が見つめていたベットの中から、再びあの悠美という少女が映し出されたのだ。
 今度の映像もまた悲惨なものであった。パジャマ姿でベットに埋もれていたその子の頬は真っ赤に染まり、柔らかそうな肉肌は大量の汗と…涙でびっしょり濡れており、発熱しているのは明らかだった。そして表情は先程よりも更なる苦悶に歪み、何度もうわ言を上げ続けている。
 《うぐっく……っ! もうっ許し、て…っ! …ごめん、なさい……ぐぁぁぁっ…! ごめんっなさい…ごめんなさい……ごめんな…ぐぇっっがばぁぁ…っ! あぐぅぅぅ…っ!》
 悪夢を見ているのだろう…何度もベットで呻き声を上げながら悶え苦しんでいる少女は余りに哀れで、同姓として見ていられなくなりそうなほどにいたたまれない…まさに絶望を体現しているかのような姿だった。
 その惨状に苦しむ少女に、記子はそっと手を添えてあげる。例え過去のものでも…それが何の意味を成さないことは分かっていても、目の前で苦しむ少女をこれ以上そのままに出来なかった。
 絶望と悪夢にうなされる『悠美』に置いた手を握り締め、ただ安否を願うように祈る記子。だがその祈りを遮るかのように、また別の者が姿を現す。
 《あらぁ…これはまた随分とうなされてるわねぇ。楽しい夢でも見てるのかしら…悠美ぃ?》
 そこに現れたのは恵理子…薄明るい光を身体から放っているその姿から、過去が投影する役者として登場してきたようだ。そして学生服姿からして、授業を終えた後にこっちへ来たことが見てとれる。
 だが…そこにいる恵理子は、記子が知っている彼女と全然違っていた。あれほど明るく屈託の無い優しい微笑みはそこにはなく、あるのはくっきりと浮かぶ悪意に歪んだ笑み。
 まるで溝に捨てられたものを見るかのように苦しんでいる少女を見下し、おぞましさすら感じる口調で語りかける。その姿は、先程見ていた恵理子とは別人とすら思える。
 《まぁ、私たちの間を掻き乱してくれた当然の罰だからね。精々苦しむだけ苦しんで、さっさと壊れちゃえばいいんだけど……っ!》
 ――ゲシッ!
 さもつまらなそうに呟きながら、恵理子はベットの脇を蹴り上げる。幻影なだけに音もなくベットも揺れることは無かったが…それなりの勢いで蹴り上げたのは眼に見えて分かるほどだ。
 しかしそんな揺さぶりも、絶望に苦しむ親友には届かない。そして『恵理子』もまたそんなことに興味を示さず、ただ悪意に歪んだ視線で苦しむ少女を除きながら吐き捨てる。
 《まぁ、楽しむ前に壊れても面白くないんだけか。…それじゃ、楽しみながら壊してあげるわね……フフ、クフフフフ……》
 腹の底から響かせるようなおぞましい笑みを含ませながら、苦しむ友人など気にすることなく恵理子はその場を離れていった。それを合図にしてまた周りにいた幻影達は霧のように消えていった。
「………っ!」
 その余りにも悲惨な光景に、記子は置いた手を引っ込めることすら忘れるほどにただ呆然とするしかなかった。今まで信じていた者の余りの豹変にただショックを隠さずにいられなかった。
 今さっき見た人物…あの眼鏡にポニーテールの髪をした少女は間違いなく恵理子だ。まだ数日しか付き合っていないはずなのに、転向してきた自分に親身になって接してくれるあの優しい笑顔は忘れようも無い。
 けれど先程映像に見た恵理子は…刑人が吐き捨てていた性悪女そのものだ。他者を娯楽の道具としか見ていないような濁った眼差しに、苦しむものに追い討ちをかけるような仕打ち…ただ見ているしかなかった自分ですらも怒りが込み上げてくる。確かに刑人が怒りに狂うのも無理は無い…例えどんな理由があったにしても、あんなことをしていいはずは無いではないか。
 だから…分からない。どっちが本当の彼女なのか。親身になってくれたあの優しさに嘘があるとは思えない。けれど、今の悪意に偽りがあるとも思えない。もしかしたらあれこそが、刑人が言っていた「影の意思」ではないかという考えにもいたりはするが、衝撃的な事実に混乱する記子にはそれ以上の考えが及ぶことがなかった。
 そうこうしているうちに、また声が聞こえてきた。昏く、けれど何かしら生暖かいもの声が、今度は後ろから直接響いてきた。
(また…なのっ…!? こんなに早く見せられても…困るよ…っ!)
 さすがの記子も連続の投影には辟易してしまう。こうも連打でショッキングな出来事が続くと堪らないものがある…次はどんな悲劇が待っているのかと思うと、流石に眼を背けたくなりそうだ。探求欲が強い記子だからそれに耐えられるが、常人だったら間違いなく不愉快になってその場から逃げているだろう。
 だが動き出した役者達は見物人の都合など待ってくれない。記子の心中など構うことなく、声のするほうから再び人が現れる……リボンを髪に結んだ少女、羽連悠美が。
 《…………………………フフフ……ハァ………》
「…えっ?」
 ゆっくりと現れたその少女は、ゆっくりとベットの羽毛へと身体を埋もれさせる。それは先程見た、絶望に打ちひしがれた光景と似ているものだった――だが埋もれさせた中から垣間見せる表情は、先程の絶望したものではなく…なんというのか…何かしら、適った欲望に浸透している…そんな悪意が僅かに読み取れる。
 先程までの純粋なだけだったのとは違い、昏く淀んだ感情がその口元から漏れることに、記子は少なからぬ恐怖を感じていた。その眼が髪に隠れていればなおさらだ。
 《ありがとう…恵理子……私…まだ、戦える……っ! こんなにも……繋がってることが嬉しいなんて………》
 紡がれる言葉は先程同じ凛としてるのに…笑みに歪んだ口から発せられる声に恐怖を感じずに入られない。暗闇の真っ只中にいるだけに、更なる深い意味を持っているかの如き重さで記子の脳へと響かせてゆく。
 《私…戦うから…恵理子の幸せを守るから………………だから………………だから……》
 そこまで言い放ち……彼女は独り言を止めてしまった。何かを考え始めたのだろうか…それとも眠ってしまったのだろうか…それは分からないが、ただそのまま動かなくなってしまったのは見て取れた。
 そんな彼女の停滞に記子は暫く見つめていたが、それが何の動きも見せなくなったので、どうなったのかを見るためにそっと顔を寄せてゆく。あるいはこれで終わりなのかもしれないが、投影されている少女が消える気配がなかったので、その姿もまた何かを伝えようとしている現れではないかと考えたからだ。
 そしてこの少女の心境の変化を伝えてくれるに違いない。それが刑人の言うものと同じなのかどうか……あるいは、それ以上のことが分かるかもしれない。自分にも、少しはそれが分かるから……
 ゆっくりと…ゆっくりと…寝そべっている少女の顔に近づく。暗闇の中でありながらハッキリと映し出されている表情の奥に何があるのか…悪いと思いつつも、ドキドキしながらそれを覗こうとする。
 あと少しでそれがどんなのかが分かる……あと少し……あと少し……
『バシュゥゥンッ! ――ドンッ!』
「っっきゃぁぁあっ!?」
 その時。髪の奥に隠れた少女の表情が覗けるまさにその時だった。
 まるで肉を無理やり引き裂くような轟音を響かせながら、彼女の後ろの暗闇から棒状のようなものが飛び出して、屈んでいた記子のお尻を直撃したのである。不意に現れた衝撃に吹き飛ばされ、記子はベットに埋もれる形になる。
「っっ!? …っ! ……っ!!」
 余りの不意打ち、そして突発的な衝撃に何が起こったのかわからず、声も上げられぬままに記子は突きあげられた痛みに尻肉を掴んだままのた打ち回る。それがどれだけのものかは、ベットの上で暴れまわる彼女を見れば窺い知れる。
 そして、地面の暗闇から現れた棒状のようなものはゆっくりと全身を現してゆく。エメラルド色の長身に、こびり付いているかのような肉片と溢れるほどに流れている血の色……そしてそれを掴んでいる人の手。
 そして全身像を現した棒…杖の形をしたそれを掲げる手の先には漆黒の服装をした腕が現れ、次に円状の帽子が這い出してゆく。そして――
「お前……ここで何をしている?」
 もう片方の手に人間の大人ほどもある鼠の頭を抱えた刑人が漆黒の地面から這い上がりながら、呆れたとも怒っているとも取れるような口調で記子に問いかけてきたのだった…
――――――――――――――――――――
「もうっ! いくらなんでも酷いじゃないっ! あんなの――っっあ痛たたたっ……」
 再び、月夜の光が部屋を照らし出す中。記子はベットの上で蹲るようにしながらお尻を擦っていた。杖で突き上げられた痛みが今だ引かず、恥ずかしい体勢のままに目尻に涙を溜めて訴えるしかない彼女の姿が痛々しかった。
「………すまない…」
 流石にその状態の記子を見て非があると察した刑人は素直に謝る。刑人とて、こんなことになるとは思ってもいなかったのだ。
 しかし次にはもういつも通りの表情に戻り、父親が叱るような重い口調で刑人は問いかける。
「だが、君こそなんでここにいる? 俺は大人しくしてろっていったはずだぞ…」
「うぅぅっ……だって、だって刑人君…酷いんだもん…あんなに怒鳴って……あんなに…」
 その相棒のどもった口調に何を言ってるのか分からず、更に問いかけようと刑人は更に詰め寄ろうとして…
「そっ、それにっ! 刑人君はまだまだ修行が足りないの! まだまだ調べるところが残ってるじゃないっ!」
 次の瞬間、真っ赤になっていた顔を上げた記子の荒声に刑人は驚いてしまう。その思わぬ反撃に一瞬戸惑ってしまうも、少女の言葉に不可解さを覚えすぐに言い返す。
「…なんだと?」
「そうじゃないっ! たとえばここ…羽連さん、だよね? その子の部屋を調べた…って言わなかったじゃない。ここ、彼女の声が聞こえてくるんですけど…」
「声が…っ!?」
「うん…この寮でずっと、響いていた声。もしかして刑人君、聞こえてなかったの? …あ、でもこの寮に入ってから聞こえてきたから分からないか…」
「……」
 今だ腰を抑えた体勢のままに見据えてくる記子、その表情に一筋の汗を流しながらその目を同じように見つめる刑人。暗闇の静寂の中、時が止まったかのように互いが互いを見詰め合ったまま動かない。
 その時が暫く流れた後…沸き上がる憤怒の気配と共に、刑人の口が静寂を打ち破る。
「……ここは…あの子の絶望が染み付いている…来たくはなかったが……っ!」
 そういう刑人の表情が悔しさと辛さ、そして悲しみの混じったものに歪む。その表情の奥にどれほどの思いが込められているのか…記子はその表情に計り知れないものを感じていた。
「その声、ここから聞こえてきたんだな?」
「う、うん。それでね……」
 その問いに答えるように、記子は先程までの状況を説明した。この中心から聞こえてきた『彼女』の声、そしてこの場で起きた過去を伝えるような…まるでDVDを見せられていたかのような映像の投影。そしてそのクライマックスの直前に刑人にお尻を突付かれたことを文句つきで伝えた。
 それを聞き終え、何かを確信した刑人は立ち上がると、記子の座っているベットの周りを調べ始めた。ゆっくりと、丹念に、まるでそこに何かがあることを知っているかのように。
 その行為に多少の不気味さを感じてもただじっとしている記子。しかしそれに気にすることなく、刑人は真剣な眼差しでベットそのものを捜索してゆく。
 そして…ベットの下方、その裏側に刑人が手を伸ばした瞬間、刑人は何か違和感を感じた。
「ん…っ」
 それを掴んだ瞬間、まるで確信したかのような表情をすると同時にそれを引っ張り出す。それが刑人の、そして記子の目に晒しだされる。
「…ひ…っ!」
 刑人が引き出したそれ……まるで眼球に触手が生えたような干物が、陸に揚げられた瀕死の魚のようにぴちっぴちっと手の中で跳ねまわっていた。それを見て、記子は生理的な嫌悪が込み上げてしまう。
「そ、それ……」
「使い魔……俺の使い魔と同じものだ。おそらくこれが録画の代わりを果していたんだろう。なるほど…見つからないわけだ」
 強張った表情で訪ねてくる記子を前に、刑人はまるでそれから何かを探ろうとするように見つめながら説明し始めた。
 ……それは刑人が『無価値』と最も忌み嫌っている少女、すなわちウジャドエクリプスの使い魔であった。彼女にとっては使い魔をこのように使用することなど造作も無いことなのだ。
 しかしその彼女が滅んだことでこの使い魔も力を失った…本来ならそれで消え去るはずのそれは、まるで化石のようにこのベットの裏側に張り付いていたのである。
 そして記子が見た投影はこの使い魔の仕業。おそらくは近くで影魔が放った影の力を無意識に吸収し…けれど主が死んだことで、(本当に)偶然にも壊れたかのように自身の機能を果たしていたのだろう。
 その使い魔が監視・視録していたのは、間違いなく「羽連悠美」。休み無く自身の得た記憶を垂れ流すように、嘗て一人の少女がここで起こした出来事を伝えていたのである。
 それはまるで自身の存在を訴えるかのように、そして…まるで主を裏切るように……本当に偶然な形で、その使い魔は自身の能力を機能させていた――刑人はそう推測したのである。
「そっ、それじゃ…ここにあったのってそれだけなの? 他に何かはっ!? …………はぁうぅぅぅぅぅ……っ」
 必死な顔で尋ねる記子は、けれど刑人の首を横に振る姿を見て、まるで空気が抜けてゆく風船のようにベットの上に突っ伏してしまった。せっかく見つけた手掛かりが、結局は役に立たないと分かったから当然だろう。
 もっとも人外の力で幻影を見せる時点で、それが人に受け入れられるものになるとはなりえないだろうが……
「幸先よく見つけたと思ったんだけんどなぁ……やっぱりそう簡単には…」
「…いや、そうでもないぞ?」
 がっくりとして打ちようとした記子の言葉をさえぎるように、刑人の力強い声が部屋に重く響いた。
「…え?」
 その意味が分からず、ベットに埋もれさせていた顔を上げる記子。その視線の先には、昼に見た苦悩に苛まれたものとはまさに真逆といえるような、自信と悪意に満ちた妖しげな表情をした刑人の顔が合った。
「とんでもない掘り出し物だ…もしかしたら、これで一気に事が進められるかもしれない……本当に、君の言うとおりだったな…俺もまだまだ修行が足りない」
「それは、どういうこ…あ、いたたたた…っ」
 刑人に問おうとする記子だったが、彼にやられた腰がまた痛み出して言葉が紡げない。四つん這いのまま尻を撫でる記子を尻目に、刑人は…笑うのを止めていた。
「もっと早く…あるいは彼女の事に目を…………いや、それでも俺には無理だったか。……いずれにしろ、ようやく体勢が整う……待っていろ……っ!」
 窓のほうを向きながら、刑人は誰にとも付かぬように吐き捨てる。睨む形相から吐き捨てられたその宣戦布告は誰に向けられたものなのか…それは彼自身にしか分からなかった。――――――――――――――――――――
「あっはぅぅぅっっ! そうっ、そうですのっ! 欲望のままに、わたくしのなかで、貴方のものをぶちまけなさいっ! はやくっ、はやくぅぅぅっ!」
「うぁっ…! ひゃめっ、ひゃめてく……くぁぁぁぁっ、でる、でるぅぅぅっ!」
 ――深夜の学園、そこから離れた一つの公園の中。
 人通りの全くと言っていいほど無い離れた一角で、一組の男女が半裸のままに身体を重ね合わせていた。…いや、それを重ね合わせているというのか。
 肌を重ね合わせているスレンダーな麗少女は、相手の男性が苦しみと悦びに悶えるのを楽しむかのように、小悪魔の笑みを浮かべながらその腰をくねり回しているのだ。まるで甘えるように、それでいて相手を支配することの喜ぶように妖しく腰を、その結合させている性器同士を刺激する…その快楽の程は双方の悶えている表情を見れば疑いようも無い。
 だが快楽を貪っているはずの片割れの少年は、その快楽に抵抗するかのように歯を食いしばって必死に耐えていた。まるでその快楽を受け入れてはいけない…そう自分に言い聞かせるように耐えるその姿は健気ではあった。だが目の前の少女の膣中が齎す悦楽に耐えるには…彼は余りに若すぎた。
『どぴゅるっ! どぴゅるぅぅぅぅっ!』
 少年の必死な抵抗も空しく、麗少女の中に自身の欲望が解き放たれる。耐えていた分だけその噴出した汚濁の量は上乗せされ、麗少女の子宮や膣を埋め尽くす。そして同時に互いに身体を激しく震わせ、悦楽に屈した喜びを露わにする。
 その後…ぐったりとなった男女の恥蜜が互いの結合部分から溢れるように流れてゆく。それは情けないくらいに浅ましく、それなのにどちらも一つの言葉では表現しきれない美しさが存在していた。
「――ぁあああぁぁぁぁっっ! ……はぁっ…はぁっ…はぁっ…! …あぁぁっ……凄い、ですわ…貴方のも…私を壊そうと、こんなに…っ!」
 妖しさを含んだ蕩け顔を晒しながら、その麗少女はしなやかに腰をくねらしながらそっと男子の唇を奪う。下の口と上の口、両方からその男の全てを吸い取るように動きながら、少女はそっとその少年に甘い誘惑を囁く。
「ふふ…どうでした? 私の御味は…天にも昇る気持ちでしたでしょう? 少なくともあんな女より、ずっとよろしかったと思いましてよ…?」
 そういって少女の顔が、自分達の横にいる女性に対して向けられる。しかしそれは先程の媚びた魅力と尊大さから来る自愛が含んだものではなく、まるで下賎なものを見るような蔑むような視線へと変えて。
「っひ!? …ひゃ…み、みなひへ…ひゃぁうぅぅ…っ!」
 その表情を向けられた女は、恐怖と羞恥、そして絶望に顔を歪めさせ…いや、その表情は最初から恐怖と絶望に歪んでいたのかもしれない…その身体に無数の蟻を這わされていては。
 その女性は犯されている男子の彼女であった。本当ならこの場で彼氏と肌を合わせるのは彼女だった。しかし…唇を重ね合わせていた際、突如合われたドレスを纏ったお姫様のような少女に二人の中は引き裂かれ、どこからとも無く現れた無数な蟻によって破廉恥な姿のままに弄ばれているのだ。
 まるで意思を持ったようなその蟻達は、真っ先に服を引き裂き、下着を破り、肌にその歯型を残し、そしてM字開脚という恥ずかしい体勢のままに肢体を歯と舌で貪っていたのである。
 既に胸峰も女陰も晒された状態のままに、女としての恥ずかしい部分を得体の知れない昆虫に体中を弄ばれる…それがどれほど恐ろしいことか。しかもそれが大事な彼氏の前でされる…それがどれほど辛くて恥ずかしいことか。
 得体も知れぬ少女に大事な彼氏を寝取られ、こんな蟻共に身体を弄ばれる、それだけでもあらゆる点で人生最悪の日になってしまっているのに……
「やぁぁぁ…っ! みなひっ…ひゃぁぁぁっ! やは、ひもちいぃよぉっ…! …こんなの、やはのにぃぃっ! ふごふ、いひのぉぉぉぉぉ…っ!」
 無数の蟻によってあらゆる性感帯を弄ばれる彼女は、苦痛だけではなくそれを上回る快感美に翻弄されていたのである。おぞましいだけな筈の蟻愛撫の気持ちよさの程は、下の口に密集している蟻達が流れる蜜に溺れているのを見れば疑いようも無い。
 突き出されている舌にも大量の蟻によって弄ばれている中、女性は味わったことも無い官能への困惑に髪を振り回しながら泣き悶えていたのだ。
「フフ…無様ですこと。…ねぇ、あんな下賎な者よりも私の方が、ずっと気持ちいいでしょう…?」
 無数の蟻に弄ばれる女性を尻目に、その麗少女は、高貴さを醸し出す微笑みで抱きついている少年に甘く囁き…同時に、肉棒を包み込んでいる秘部を更に締め上げる。その包み蕩けさせる快感は、並の人間とは比べ物にならないほどのものであった。
 その快感美に悲鳴を上げる少年の頬を擦りながらその少女は、しかし小悪魔的な口調で囁き続ける。
「私の下に従って下されば、いつでもこの快楽を差し上げますわ……さぁ…私と一緒に……」
「だ…だまれっ、売女…っ! 誰がお前なんかの…言うとおりに、なるもんか…っ! 彼女を、はなせぇぇぇ…っ!」
 余りに甘美な雌の誘惑を、しかし少年は必死になって払いのける。例え目の前にいる少女がどんなに美しくとも、与えられる快楽がどんなに甘美なものでも、彼にとって目の前にいるものは人外の力を持つ化け物に過ぎない。
 そして彼にとって愛すべき女性は、今もなお蟻達によって痴態を晒されている女性なのだ。だが……
「…フフフ…そんな風に必死に抵抗する殿方も素敵でしてよ。いいですわ…気の済むまで抵抗なさってくださいな」
 拒絶されたにも拘らず、少女の余裕の笑みは崩れることは無い。むしろそれでこそ落とし甲斐があるとでもいわんばかりに、腰の動きを再び再開させる。
「うぐっ!? …くぅあぁぁあぁ…っ!」
「時間はたっぷりありますもの…ゆっくりと…たっぷりと、その気丈な心をほぐして差し上げますわ…あはぁぁぁっ!」
 それは絶対の自信。まるで少年の心は自分のものだとでも言わんばかりの口調で、麗少女は抱きこんでいる少年を更に卑猥に責めたててゆく。蟻に責められる女性の嬌声をバックに更なる痴態を展開させてゆく。
「あはぁぁぁっ! あぁぁっ、いいですわぁ…っ! もっと、もっと気持ちよくなって――っ!?」
 その時少女の背筋に寒気が走った。同時に身体が地面に倒れるように横になる。次の瞬間――
『――っどしゅっ!』
 肉を引き裂く音。嫌な音が響いたと同時に、少女が先程いた場所…すなわち少年の胸辺りに、真っ黒な棒状のようなものが突き刺さっていた。余りに一瞬で何が起こったのか分からなかった少年だったが、胸に何かが刺さったのを確認した瞬間、目の前が真っ暗になってゆく。
 …それ少年のこの世の最後に見たものであった。麗少女と同じように倒れ、力なくぐったりとなり……後に残ったのは、胸から血を流している人だった肉塊のみだった。
「仕事もしないで…何男誑し込んでるのよ、麗魔っ!」
 その声と共に悦楽が急速に冷めながら困惑する麗少女…麗魔に対し、後ろから現れた一人の少女が叱りつけてくる――眼鏡をかけた、ポニーテールの少女が現れる……そう『一之瀬恵理子』に。
「…ちょ…それはこっちの台詞ですわ! せっかくまた素敵な殿方に出会えましたのに、なんてことしてくれますのっ!」
 その姿を確認した麗魔は秘部から男根を引き抜きながら身体を起こすと、怒りも露に彼女に食って掛かってきた。しかし恵理子は、そんなことも露知らずのように舌を出して更に食って掛かる。
「ふーんだ、アンタにとっちゃ男なんて皆一緒でしょうに。それよりも、こんなところで何油売ってるのって聞いてんのよっ!?」
「そんなことは決まってますわ。やるべきことは終わりましたから、また優雅なひと時を――」
「――っっぃぃいいやぁぁぁぁぁぁぁっ!」
 口論争が始まろうとしたとき…蟻の大群によって悦楽に弄ばれていた女性の悲鳴が木霊する。目の前で愛しき男性を寝取られ、瞬きする魔にその命を奪われてしまったのだ。悲しみと絶望で叫ぶのは当然であった…だが。
「やぁぁぁっっはあぁぁぁっ! イ、イクぅぅぅっ! イっ、イクのっ…いやぁっ! いやいやいやいっ、っいやあぁぁぁぁぁぁぁぁっ!」
 その時にはもう絶頂の寸前だったのだろう。その悲痛と絶望すらもアリ達の愛撫が齎す快感美となって、その女性は絶頂へと追い込まれてしまった。下の口からはしたなく絶頂蜜を噴出してその場にいた蟻達を吹き飛ばす。
 そして何度も群がってくる蟻達を震えるアクメで震える身体で振り払いながら、絶頂と絶望で女性は泣き叫んでゆく。
「ひゃぁぁぁぁ…っ! …ふそっ…っうそよぉぉぉぉぉっ! こんなこほっ、いやぁぁぁぁぁっ! あぁぁぁぁっ!」
「……あぁもう、騒がしい方ですこと…!」
 絶頂の余韻も覚めぬままに悲しみと絶望に叫び始める女性の叫びが煩くて、怒りと煩わしさで麗魔はその美貌を歪ませる。楽しみを奪った相手に対する怒りも後回しに、喚き散らす女に指を向ける。
「…アントアズ・スラッシュ…っ!」
 麗少女は憎々しげに言い放ち指をパチンッと鳴らす…次の瞬間、先程まで彼女の身体を弄ぶようにしていた蟻の数が更に増大し、悲鳴を上げる女の全身を蝕んでゆく。
 先程まで悶えるだけだった女性も、その余りの苦痛に悲鳴を上げながら激しくのたうち回っていた。だがそれも最初のうちだけ……
「っっぎゃっああぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁっっ――………」
 すぐさま一際激しい悲鳴を上がり全身を震えさせると、その女性はそのままばったりと倒れて動かなくなった。そして倒れる女性に蟻達は更に群れあがって……次第に女性より蟻の数の方が質量的に大きくなってゆくように見える。
 ……少したった後、蟻の群れが女性のいた場を離れてゆく…その蟻が離れた処にはもう何も残っていなかった。本来「人間」という質量があったその場所には、髪の毛はおろかその痕跡すらも何一つ残っていなかった…先程の蟻の大群によって全て食い尽くされてしまったのである。女王蟻の命によって。
 ――アントアズ・スラッシュ。それは影の力で生み出されたり影響を受けた「働き蟻」によって標的をこの世から完全に抹消する麗魔の命令。獲物が無残に食い殺される光景を見下す…女王蟻こと「クルルマニーエクリプス」に相応しい技であり、余りに惨めで残酷な死を標的に与える悪魔の業であった。
「…たく、最後まで耳障りな女でしたこと……って、それよりも! 私が一体何をし忘れたというのですの!?」
 食い荒らされた女性の後を興味も無く一瞥したあと、麗魔は再び恵理子へと食って掛かった。せっかくの楽しい時間を邪魔された麗少女はややヒステリックな口調で獲物を奪った眼鏡少女を睨みつける。
 だがそんな態度など気にすることなく、恵理子もまた同じように不機嫌で言い返してゆく。
「何がじゃないわよ! 学園周りの監視はアンタに任せるって言ったのに、全然してないじゃない! 下っ端の何人かがどっかに行っちゃったまま戻ってきてないのよ!?」
「知りませんわよそんなこと。むしろ好きにやらせてよろしいじゃありません? 私には貴女のその姿のほうがよっぽど怠けているように見えるのですけど」
「私のはいいのっ! 今はこの姿の方が色々と好都合なのよ…っ!」
 その言葉の意味が分からず麗魔が首をかしげていると、ぶすっとむくれた恵理子の影の部分からアメーバのようなどす黒いものが現れる。それらが山のような形状をしたと思った途端、中心に目のようなものが現れ、そこに映像が映し出される。
 そこには一人の少女が映し出されていた。この学園の制服に、ポニーテールの髪型をした眼鏡の少女……それは明らかに、その場にいる『一之瀬恵理子』と同じ顔、同じ姿をしていたのだ。
 しかしこちらの方は今この場にいる恵理子と違って、表情に焦燥の色が滲み出ている。それでいて、何かのために必死になっている一人の少女。まるでその場にいる少女とは明らかに違う何かを秘めているのは確かだった。
「ふぅぅんっ? これが今貴女が『演じている』人物というわけですか…それでメタモル? この方と、今の私がしていることと、一体どういう関係があるっていうんですの?」
 汚濁を噴き制服を来ている少女の低い声に、そこにいる「恵理子」…メタモルエクリプスはやれやれと苦笑しながら説明をし始める。その表情は、嘗て映し出されている彼女が悪意を曝け出したときと同じものであった。
「全く…彼女はね、今無意味な説得に行っている最中なの。親友を救う、なんて愚にもならないことをね……ちゃんと計画の中で話しておいたはずだよ?」
 彼女の言うとおり、映像にいる『一之瀬恵理子』…すなわち本物の一之瀬恵理子は今必死になって、自身の信頼できる級友達に最愛の親友である悠美の汚名を晴らすために協力して貰うよう回っている最中だった。
 嘗ての学園に起きた一件を思い出した皆の悠美に対する認識は余りに酷いものであった。
 その汚名を晴らすために必死に訴えはしたが、汚名は晴れるどころか逆に哀れまれて余計彼女の尊厳を潰してしまい…たった一日で恵理子の心は悲しみと苦痛で荒れてしまった。
 それでも、彼女は諦めなかった。今学園における、自身の信頼できる友人に打ち明けて汚名を晴らす協力を要請するよう必死に頼み、そしてそれが終わったあとは自身が犯した悪事の証拠を必死に集めているのだ。
 もう生徒会選抜総会による生徒会長の推薦などどうでも良かった。例え学校全ての風評に逆らおうとも、それで人生を潰されようとも、彼女は親友を救うために必死になって動いていたのだ。
 ……だがそれで本当にその親友が、影魔達の仇敵が報われるなんてことになってしまっては困る。少なくとも、ここにいる『恵理子』にとってはそうであった。
「だからちょっと級友達に、含みをつけたしをしてきたってわけ。皆ちょっと上手く囁くだけで転んでくれたわ、笑えるくらいに…」
 メタモルはもしここの皆が記憶を蘇らされればこういう展開になり、そして最重要人物の恵理子がそう動くことを最初から予測していた。だからこちらも最小限の干渉で確実に恵理子の努力を軽々と潰してきたのだ。
 例を挙げるならその級友の元に「その少女、実は「悠美」ではなく「瞳」のことだったんだよね」という含みを持っていたと言い直しに戻ってきたとか……そうすることで、揺れ動いていた級友達の悠美に対する認識を元の木阿弥に…いや、それ以上に悪いものにするために。
 まぁ彼女のやる気がここまで強いものだったことにはほんのちょっと驚いたが、それは『恵理子』という人物になることが出来た彼女にとっては逆に喜ばしいことであった。
 いずれにせよ今の恵理子の行動はすべて筒抜けであり、そして彼女の行動は全てが無駄に終わるほか無かった。証拠なんてものを影魔達が残すはずが無い……恵理子の行動は影魔達にとっては滑稽以外の何者でもなかった。
「彼女は『あの子』の重要な玩具として利用価値があるんだから……どっかの性悪女なんぞに、人生潰されてたまるかってのよ」
 にやつきながら『恵理子』はまるで自分が恵理子なったかのような口調で、その映像にいる恵理子に吐き捨てる。確かに、状況であれ彼女は現在において利用価値の最も高い存在だ。上手くすれば、自分達の手を汚さず人間たちの手で仇敵の天使親娘を始末出来るのだ。
 そしてここで自分達が動いている事は、まだ光翼天使共は気が付いていない。計画の成功は間違いないのだ。友人でもあり、自信の主でもあるものから気まぐれにとはいえ受けた命令の成功は――自分の部下が、ちゃんと動いてさえくれれば。
「ったく。それほどに大事なこの時に…貴女ときたら仕事はしないわ、部下は放任するわ、挙句の果てには無関係な場所で男漁りするわ……全くお偉い所生まれってだけで威張りくさった上に、怠けるだけ怠けて……それでいてよくもまぁ太ら」
「……また切られたいんですの? ……言われなくても、ちゃんと『寄生蟻』は男子の皆様に植え終わりましたわよ」
 『恵理子』の悪態の付く口に怒りの手刀を向けながらも、麗魔は吐き捨てるように呟いた。それを聞いた『恵理子』の口が笑みで歪んだ。映像と同じ少女が醸し出すものとは思えない、邪悪な笑みだ。
 だが対照的に、麗魔の気高さが溢れている表情からは、渋ったような雰囲気が滲み出ている…明らかにその実行を渋っている表情だ。
「なんでこんな手を使わなくてはなりませんの? …私、人形には興味ありませんのに…っ!」
「仕方ないじゃないの。これが出来るの、アンタと私しかいないんだから。そ・れ・に。私はホラぁ、こうやって、主役として舞台に立たつ為のお勉強をしなければいけないものぉ。だから、裏方の役目はアンタのし・ご・と」
 明らかに相手を見下したような言い方。しかしそのことを理解しているのか、それとも切っても無駄だと分かっているのか、麗魔はただ舌打ちしながら視線を背けた。
「…っほんっと、頭に来る方ですわねぇぇ…っ!」
「ハイハイ文句言わない。事が終わったらここの雄どもはアンタの好きにしていいから、さっさ服を着て下っ端を捜してくるっ!」
 麗魔の怒りを軽くあしらいながら、『恵理子』は動かない同僚を小馬鹿にするように囃し立てる。同姓に囃し立てられる屈辱に苛立ちを更に募らせながらも、麗魔は自身の影をアメーバのように動かしながら、身体に付いた汚濁を拭い始める。
 そして同時に、傍にあった男性の遺体を影の塊に飲ませる。そしてそのまま、自身の影の中へと沈めていった。
「――――っ!?」
 その時、麗魔の動きが止まった。まるで何かを察知したかのように全身を硬直させ、そのまま震えだしてゆく…弾みで来ていた制服の上着をその場に落としてしまう。
「? …っちょっ、ちょっとどうしたのよ麗魔っ!?」
 その動きに、流石の『恵理子』も何が起こったのかわからず、麗魔の首元を掴んで揺さぶった。普段の彼女が…人が普段見せないような震えに、流石の『恵理子』も一瞬だが惑ってしまった。
 だが…麗魔の口から紡がれた言葉が、彼女の動揺を確定的なものにする――!
「……そんな……………ありませんわ……私の仕掛けた寄生蟻の反応が…私の可愛い働き蟻の一匹が!」
「っ!」
 震える麗魔のその言葉に、『恵理子』は決定的な動揺を促してしまう――その言葉の意味が分かってしまったからだ。
 麗魔の生み出した寄生蟻…他者の脳の中に侵入し、神経器官に干渉して取り付いた相手を洗脳することが出来るそれは彼女の力で生み出された子供であり、彼女の力の一部である。
 麗魔の絶対的な命令のもと、この学園に存在する男子全ての脳に侵入しているそれらは全て麗魔の影の意思に繋がっており、それらに何か大きな異変が生じると消失と共にその異変を女王蟻であり麗魔へと伝わる。
 だが基本的に脳に侵入したそれを除去するには手術するか、さもなくばその者が死にでもしない限り不可能であり、基本的にここにいる人間では決して出来ないことなのだ。
 無論それらは自身の配下の影魔にも仕込まれていることであり…許可無く浮気することを許さない麗魔の拘束者として機能していたのである。 
「ッちょ、麗魔…それって、単に出て行ったなんてことはないよね?」
「ありませんわよ! 私の可愛い働き蟻が…しかも私の愛しい針鼠様に寄り添っていた子ですもの!」
 無粋に問いかけていた『恵理子』に憤慨を隠すことなく吐き捨てる麗魔。…彼女の言う針鼠というのは刑人に無残に殺された『針鼠』の影魔のことである。その影魔が殺された場所が影の世界という余りに異質な場所であったために、流石のそこから這い出た寄生蟻の所在に気付けなかったのだ。
 そしてその寄生蟻が這い出るということは、取り付いていた本体が死んでしまったということを最もよく意味する。それは主であり母である麗魔が最もよく分かっていることだ。
「ありえませんわ……どうして……どうして…一体何者かが『針鼠』様を…私の働き蟻を殺したというんですの…!?」
「…………フフン。そんなに決まってるじゃない」
 自身の愛しい部下の一人と働き蟻一匹を殺されたことへの憤りと悲しみに震える麗魔の呟きに、すぐさま冷静さを取り戻した『恵理子』は得意げに呟いた。それは殺したその犯人を颯爽と見抜いたことを誇示している証であった。
「っ! …一体、誰ですの!? それは一体っ! 誰が殺したって言うんですの!」
 その美しい幼顔を悲しみと憤りで歪めながら睨んでくる麗魔を、その豊満な胸を張って自慢げに威張りながら『恵理子』は答える。
「――ユミエルよ、ユ・ミ・エ・ル。私たちやあの子の忌々しい宿敵である天使様……ククク、まさかこんなにも早く嗅ぎつけるなんて。流石に『私』の親友よね〜」
 少女が放つものとは思えない悪意ある微笑を浮かべ、『恵理子』ことメタモルエクリプスは親友という名を貶めるかのように麗魔へと語った。
「…ユミエル……!」
「そうよ。現在において私達影魔に刃向かい、そして滅ぼすことが出来るって明らかに分かってるなんて奴、彼女くらいしかいないじゃないの」
 彼女の言うとおり、現在において影魔と明らかに敵対しているのは彼女達を除いていなかった。今の影魔王が生誕する前から、彼女達の系統は常に我々影魔の前に立ちふさがってきたのだ。
 そして現代の光翼天使である少女にとって、今自分が演じている少女は何よりもかけがえの無い親友。あるいはその身に降りかかる危険を察知してやってきたのかもしれない。
「…となると、年も考えずでしゃばる人もいるってことになるわね…ふふ、なんかこれって、面白くなってきたんじゃない!」
 そんなわけの分からないことを一人呟くメタモルエクリプス。だが彼女には分かっていた。その憎き天使の隣には、彼女が『母』と慕う女性もいることを。
 我らが王を産み落とした身でありながら、愚かにもその王に歯向かうという愚行を犯すシスターが。そして育てた娘からも『全て』ではなくなっているというに、それでも無駄な愛を注ぎ続ける愚かな女性が。
「私達を警戒して姿を現さないのかしらね…? それとも私たちが見つけられないのかしら? フフ、まぁ…いずれにしたってそんなことは無駄なのにね。せいぜいその親友を目の前に無駄な足掻きをするといいのよ…アハハッ!」 
 彼女達が犯人と目星を付けた所で、メタモルはその狙いもついていた。今の学園を取り巻く状況を考えれば、もはや隠密裏にことを処理するのは不可能だと考えているのであろう。となれば、自身を囮に影魔自身をおびき寄せそこから一気に殲滅するつもりなのだ。嘗て、その少女がこの学園で自身を晒したように。
 だがそれは自身達という親玉の居場所をつかめていない証拠。だから下級影魔達を相手にして、自身達をおびき寄せようと言う策略…いや浅知恵であろう。なら、その手にわざわざ乗ってやる必要は無い。
 彼女の最大の弱点であり、切り札は既にこちらの手の中…彼女の目の前で再びその天使を絶望させてやろうではないか。その親友が更なる高みに登りつめるその日に。
 意外なアクシデントさえも、彼女にとっては小さな誤差に過ぎない。頭の中でその誤差の修正と、更なる絶望へのシナリオ基盤を構築し…メタモルの口が笑みに歪んだ。
「まぁでも一応、その確認だけはしておくとしますか……行くわよ、麗魔っ! ……麗魔?」
 自身のその直感の確認と、今後の対策を配下の者達に伝えようとする為にこの場を去ろうと、メタモルはその同僚を呼びかける。しかしその同僚…おこりのように震えているその姿に、一瞬だけメタモルは驚きを隠せなかった。
「ちょ…麗魔?」
「…許せませんわ……許せませんわよ……光翼天使共…っ!」
 華奢な身体を震わせる少女の表情は、しかしその幼顔は憎しみに歪み、その柔らかそうな唇からは紅き水が流れるほどに歯が立てられ、人を射殺せそうなほどに瞳は鋭くなっていた。
「何処か馬の骨とも代わらぬ雌の分際で……私の大事な配下を…殿方を手にかけるなど…絶対に許せませんわ……!」
 彼女にとっては、自身が抱え持つ配下は手足の如く動く自分の忠実な手下であると同時に、自身も求める大事な者達でもあるのだ。それを、よりにも寄って女性に殺された…それは図らずも他の女性に男を奪われたことも同じ――それは女王蟻である彼女にとって絶対に許せない屈辱。
「見てなさい……っ! 必ず捕らえ、その肉を引き裂いてあげますわ…! そして死ぬまで…いえ、死してなお影魔達の手で犯しぬいて差し上げましてよ…っ!」
 月夜も入らぬその闇の中で、討たれた配下の無念を受けついだかの如く、麗魔はただ憎悪という影を煮えたぎらせていた――
 ……もし、もしここで彼女達がもう少し冷静になっていれば。メタモルはもう少しだけ先入観を抑え手入れば、麗魔がもう少しだけ憎しみを抑えていれば。
 その影魔は討たれたことに関し、すぐさまそのことが天使の手ではないということを、僅かに流れる『影』の意思から感じ取っていたに違いない。そしてそこから刑人の存在が知られ…全てが彼女の、そして影魔王の手の平の上に乗せられていただろう。
 その点では刑人もメタモルも、互いに力を、そして認識を見誤っていたといえるだろう。
 いずれにせよ……刑人は『ユミエル』によって、再びその身を救われたのである――
――――――――――――――――――――
「まさか…こんな場所に、こんなものがあったなんて……」
「………………」
 深遠の闇とも思えるような奥底の中で、淡く光る影のような光。そこで記子はただ感嘆の言葉を呟くのみであった。
 そこはまるで小さな図書館であった。ありとあらゆる本が本立に収納されていた――いやそれらはよく見ると本ではなく、シールが張られた入れ物…DVDやVHSが収納されていた物が収納されている。
 そのDVDは、刑人が所持し、記子にみせたDVDと同じもの。…つまりそれは、通常のものとは違う異質、そしてリアルな事実を映し出した人の記憶の結晶。
 そしてその部屋の中心にはテレビとDVD、そして触手のような異質な物質が纏わりついていた。そしてそれらの全ての先端に、吸盤のような何かが付けられていた。まるでその人に取り付いて、その心の奥底を吸い上げようとするかのように。
 それらは今、ただ地面に横たわっているだけであったが、その艶具合から生命の脈動があるのは間違いなかった。それは今だこの部分が機能しているという何よりの証であった。
 ……ここは、嘗て行われていた陵辱を映像として納める魔の映像展、嘗て学園を牛耳った一人の影魔が生贄達の惨めな姿を収納した場所だった。その影魔自身が自身の存在を認識するために、そして部下達に彼女たちを更に嬲り者にさせるために愉悦感に浸るために。
 そして……ここは今もなお、その録画場としての機能を果しているのだった。
 刑人と記子は誰にも気付かれぬようにあの部屋から出た後、その使い魔を泳がせるようにして、その後をただ付いていき…そしてこの場所の辿り着いた。
 目玉の使い魔…主の死とともに異常をきたし、狂ったビデオのように見取った出来事を再生し続けていたそれは、刑人の手によって本来の力と、使命を果たすように仕向けられた擬似的な命を植えつけられ、その意思のままに自分が向かうべき場所へと向かったのである――刑人が想像にも付かなかった、思いも寄らぬその場所へと。
 そしてこの場所に辿り着くと同時に、それはテレビの回りにある触手の先端に自身の目の部分に吸盤を貼り付けると……その影の力を吸盤に吸い上げられ、そのまま吸われるようにして消えた。
 その後に残ったのは…その使い魔が今まで見続けてきた記憶を、画像に映し出したテレビだった……
「これって…全部、この学園で起きたことを記録してるんだよね」
「…あぁ…それはまず間違いない」
 一つ一つ、その内容が書かれた箱の分析を見据えながら刑人は呟いた。その筆跡…綺麗に書かれているようで、それでいて怨念と、そして嫉妬の篭ったような字。その字を見るに…それが刑人の最も憎む少女のものであることが、刑人にははっきりと分かった。
 そしてそれこそが、ここにあるものが過去に起こった出来事を記した記録…それは嘗てここで起こった罪の証であり、そして刑人が求めていたものであった。
 だが…記子はその大量の過去の映像を目の前にして、一つの疑問が浮かび上がった。
「でもどうして…どうして、こんなものを残しておいたんだろう? 新野さんって人…これじゃまるで……」
「自分の痕跡を残しているようで、らしくない…そう言いたいのか?」
「え? あ、いや…うん……確かに、そうなんだけど…」
 途切れた言葉の後…まだ自分の考えを言葉に出来なかったことを先に口に出され、記子は一瞬戸惑った。けれど記子自身、ここという存在がある自体が理解しきれなかった。
 それは刑人の言う瞳という人物像との違和感。あらゆることを裏から操作し、それで証拠を一切残さない…表立って行動しない人物が、このようなあからさまな証拠を残すようなことをするのだろうか…と。
 だがその答えを、刑人は戸惑いもせずに吐き出していた。
「それこそが、あの無価値の無価値たる所以だ。自身の欲望に逆らえなかった影魔である何よりの証なんだよ」
 刑人は無価値がこれを残していた理由がその傲慢にあると見ていた。それは自分を神と見据え、他者を見下すことこそが本当の欲望であった愚か者の傲慢さ。だからこそ、その証となるこれらの一つ一つを捨てられなかったのだ。他者が踏み躙られる場面を目の辺りにし、自分より惨めな相手がいることに悦びを感じて。
 悪事を告発する恵理子達を手助けする名目で使用したビデオに登録していただけだったのかもしれない。しかしそれがだんだんエスカレートしていった。それらを今度は不良の藤堂に任せることによって…それらを裏から垂れ流すことによって、獲物が更に踏み躙られるということに更なる欲望の充実を満たしていたのだ。自分から恵理子を奪おうとし、自分の惨めさを曝け出させた憎き女に対して。
 そしてもしばれたとしても、それらの全てが藤堂達不良の責任に出来るようにして…自分の逆恨みを存分に晴らしていたのである。
 全くもって、救いようもなければ真に許しがたい…否、認識することすら許してはいけない存在のすることだと、刑人は自身の唇を歯で切りながら感じ取っていた。
「だが…それにしても、ここのこれらは一体どういうことだ?」
 怒りに震えながらも、しかし刑人はある程度のところで唇から歯を離したところで、自身の内にあった疑問を口にしてみる。
「どういうことって…どうしたの? 何か問題でもあるの?」
「ここにあるものが、特に目の前にあるテレビが動いていること自体が問題だ。…一体誰がここを動かしている? ここの存在を知り、そして利用している奴が他に存在する…っ!」
 痛々しく流れる血を舐めとりながら、苦々しく吐き捨てる刑人の言葉に記子はハッとなって見渡してみる。確かに言われてみればそうだ。多少埃っぽくなっているものの、ここは明らかに整理されていた…それは何者かに手を付けられていたということを裏付けいている。
 嘗てのこの部屋の主の瞳や藤堂は既にいない。本来なら忘れ去られ、埃だらけになって全てが朽ち果ててもおかしくないこの場所で…よりによってテレビが付くほどの電気が流れることは、無人のままでは絶対考えられない。
 それは今だこの場所を…悪意が詰まった場所を利用とする意思が動いているという証。
「た、確かに………で、でもっ! それは今回のこととは余り関係ないんじゃ――」
 記子が刑人の疑問に際し…けれどその事と、刑人がしたいと思っている『告発』との関係が見えず、それを口に出そうとして……
「――おいお前等。ここで一体何やってんだっ?」
 その邪険にする言葉が、少女の言葉を遮る。そして二人を驚愕に震えさせ、その声の方に向かせる――そこには、背中にバックを抱えた一人の男が、不審そうな目で刑人達を見つめていたのであった。
「オイ、聞こえなかったのか? 人の家に何土足で入っているだって聞いてんだよ、あぁ?」
 刑人達に訝しがって話しかけてきたのは、いかにも不摂生なその男だった。中途半端に不精髭を生やし、縁の薄い眼鏡をかけ、分厚いコートで実を覆った中肉中背の、まるでテレビに出てくるような無法者のジャーナリストという感じであった。
「あ…それは、その…あの…」
 人の家で何をしているといわれて、記子は流石に身を引いてしまう。先程まで他人の部屋に泥棒紛いで侵入していたことなど忘れたかのように、モラルを問われあたふたと困惑して……そこに刑人が守るように腕を割り込ませてくる。
「…お前、影魔だな? お前こそ、こんな所で何をしている?」
 腕を割り込ませた次の瞬間に刑人の言葉…その言葉に記子も、そして今度は目の前の男もまた驚愕の表情を禁じえなかった。
「影魔だとぉ!? ………………あぁ、なんだ同類かよっ。…まったく、びっくりさせるなよなぁ」
 その言葉を聞いたとき、最初その男は品定めするかのように刑人と記子をジロジロと睨みつけていたが、やがて何かを察したかと思うと、やれやれとでもいうように首を振り出した。
「一体誰から聞いたのか知らないがなぁ、ここは俺の敷地なんだよッ! もしここのが欲しいんなら…それなりの『コレ』をもってきなぁ。すぐにダビングしてやるからよぉ」
 そういって、そのジャーナリストは親指と人差し指の先を合わせる。それは明らかにDVDに対する料金を要求しているものであった。しかし次にその指を離したかと思えば、ニヤニヤと下卑た笑い醸し出し記子の方を見つめる。
「…なんならそっちの姉ちゃんを代金代わりにしてもいいんだぜ? へっへへっ…可愛い玩具を連れているってのに、ずいぶんと好き物だなぁ手前も…」
「…ひっ! そ、そんな…私……」
 不意に嘗め回すような視線を向けられ、記子は頬を暗き闇に見えそうなほどに顔を紅くしてしまう。男のおぞましい視線から思い出される影魔からの陵辱、刑人の玩具などといわれたことに対する妄想で、暗さと恥ずかしさで、表情が重いものになりはじめる。
 そんな女性を辱める男の前に、立ちはだかるかのようにして刑人が立ちはだかった。
「そんなくだらない話を聞いているんじゃない。何故ここにいるかと聞いている…ここは元々別の奴の敷居のはずだっ!」
「……っち、つまんねぇ奴。――んなこと知らねぇよ。おっ死んっじった奴のものを何に使おうと勝手だろうが。早い者勝ちなんだよ」
 あくまで事実を追求する刑人に、つまらないように舌打ちしたその男は、刑人達を押しのけてTVの前に向かいながら、ぶっきらぼうに経緯を話し始めた。
 ――それは刑人が想像したとおり、瞳は女性達の陵辱現場をダビングするために東堂共に用意させていた場所であった。彼女はただ歪んだ欲望のためだけに、その内容を他の不良や影魔達に売りさばかさせていたのである。
 その時に仲介役として申し込まれたのがこのジャーナリストだった。既に影魔であった彼は最初相手の弱みを握って辱めると言う楽しみの為に色々と活動をしていたが、あるとき瞳の使用していたこの場所のことを知って侵入し……当の昔に察知された瞳に捕縛される。
 普通なら即その場で抹殺されるところを、その隠蔽能力を見た瞳の気紛れよって見逃されることになる。しかし二度と変なことを起こされないように脅しを付けられ、ここにあるDVDを無給で配送することを強要してきたのである。
 データの中身も拝ませてもらえない上に無給という無慈悲な要求にも、その強大な力の前にしぶしぶ従うほか無かった彼だったが、暫くして現れた少女天使の登場により、状況に変化が現れる。
 最初は屈服させたその女の醜態をあらゆる影魔にばら撒けという命令にしぶしぶ従うほか無かったが、初めておこぼれに預かれるような条件を提示されたことで抑えられていた欲望が燃え上がり、目覚しい結果を残すことに成功した。
 しかしそれを終えた後…戻ってきた場所には脅迫していた憎い相手はおらず、代わりに屈服させていたはずの天使がいるのみ。最初はその場を離れることも考えたが、相手の弱みが沢山あること事と、ここのことを知っているのが自分だけということに気付いた。
 そして現在、この場の新たなる主としてその利益と彼自身の欲望を満たすための道具として利用されていたのである。
「……酷い…っ!」
 その経緯を聞き、記子は涙目のまま、口を手で塞いだまま嗚咽するしかなかった。目の前にいる男の行いが、否この場所の存在自体がなんともおぞましい……ただ他者を辱めるだけの存在が、今もなお人知れず機能している、ただその事実が。
「あぁ? 馬鹿か、姐ちゃん。俺達影魔が他者のことなんて考えるわけないだろうか。他者が食われることなんぞ、俺達の世界じゃ日常茶飯事なんだよ…って無駄話が過ぎたか。俺はこれから用事があるからよぉ、邪魔をするんならさっさと帰れ」
 一通り話し終えたそのジャーナリストは、しっしと二人を払うように手を振りながら、目の前にあるTVとDVDレコーダーを操作し…既に入っていたDVDを取り出す。そして別の所からDVDを取り出してレコーダーにいれると…次に自分のバックに手を入れる。
 そのままバックの中を弄り、何かを掴んだ表情をした途端、そのままバックから手を取り出す――その手にはまるで何かの肉の固まり…そう、まるで干からびた脳みそのようなものが握られていた。
「――ひっ!?」
 わずかな光の中からでさえ分かる程のおぞましいほどの物体に、記子は恐怖の嗚咽を漏らしてしまう。それが何なのかまでは分からなかったが、生々しさを際出させるそのフォルムが生理的嫌悪を呼び起こさせる。
「おっと。お前等、ここのことを知っているみたいだからなぁ。へっへっへ……おいそれとこれを見せるわけにはいかねえな。何しろ久しぶりに拾い上げれた大人気ものの新作なんでな」
「…大人気のもの、だとっ?」
 その男の思わせぶりな話し方に、刑人は嫌な予感を過ぎらせた。それはまさに直感といってもいい…見たくは無い、でも決して見なければいけない、そんな悲痛の予感がの心に過ぎってしまう。しかしそれでも彼は表情を崩さず、その男の次の言葉を待つ。
 そして次に男の口から出てきた言葉は。
「そうそう。俺達影魔に仇名す、あの憎い天使の親娘のエロものよ。しかも今回は――」
 ――っ!!
 恐れていた答えだった。聞きたくない答えだった。『天使の親娘』というは彼の知りうる限り…そうでなくても、今の世の中でそういえるのは自身の知ってるあの二人しかいない。
 しかもその『エロもの』ということは、影魔達に陵辱されたということ。あの薄幸の二人が、しかもあの偉大な聖母が付いていながら負けて犯されたのだ。その惨劇がそこに、その目の前の脳みそに……そう思った瞬間、刑人はもう手を出していた。
 内容が言い切られるよりも早く男の首を捕まえ、今にも絞め殺さんばかりの勢いでその男の身体を持ち上げる。その表情は既に鬼の如き怒りのものになっており、手の甲には血管が浮き出るほどに力が込められていた。
「け、刑人君っ!?」
「ぐがっ!? てっ、手前っ何しやがるッ!」
 その行動に、二人が声を上げた。そして同時にその場の周りにある闇の中から、あらゆる触手らしきものが這い上がり一斉に刑人に襲い掛かる。それは男の使う触手であった。刑人の傍若な行為に怒りと、そして生命の危険を感じた男は有無を言わさず刑人を殺そうとした。
 だが――バシャッっという音と共に、彼を襲う触手が彼に届く前に破裂してゆく。何度も何度も襲ってみても、それらの全てが破裂するように弾き返されてゆく。
 それは彼の力の余波だった。今彼が放つその怒りの気…それだけでその触手達は攻撃する前に吹き飛ばされていっているのだ。そしてあっという間に、彼を襲おうとする触手は全て消失してしまう。
「……なっ! て、手前……一体……グガァ…ッ!」
 その悲惨なまでの結果を見て、男はただ唖然と…否首を絞められることにもがき苦しみながら、目の前の男を見つめていた。そしてその強大な力を目の当たりにして、本能の方は恐怖していた。その強大な力は嘗て自分を蹂躙していたあの憎き女のものを連想させるものだったから。そんな相手に、悔しいが自分が勝てるわけが無い。
「………よこせ……」
「な、て、てめぇ…何言って…」
「その内容物を俺によこせと言っているんだっ! 今すぐ渡して立ち去るかっ、それともこのまま絞め殺されるかっ、今この場で選べすぐにっ!」
 そう叫び上げる刑人の手に更に力が篭る。その怒りと憎しみがこもったその力は、今にもその男の首を握り潰してしまいそうなほどに強く、そして痛々しかった。だがそんな手によって、男の顔はだんだん蒼白になってゆく、口から泡を吹き出して…
「やめてっ! その人が死んじゃうっ! もうやめてっ!」
 その痛々しい行為に絶えられず、記子がその手を必死になって引き剥がそうとしてきた。いくら相手が影魔でも、問答無用に殺そうとする刑人の行為が見てられなかったのだ。そんな記子の泣きそうな叫びと引き剥がそうとする細い手を見て、ハッとなった刑人も次第に手の力を緩めてゆく。
 そして力の抜けた手の中からその首が外れ、男は糸の外れた人形のように地面へと横たわった。そのまま肺の中で無くなりかけた酸素を貪りつくしてゆく。
「がはぁ…ッ! ごほっ…ごほ…ごぉっ、がハッ……っ!」
 その惨めにのた打ち回る男に対し、刑人の横暴を止めた記子はその傍で膝を下ろすと、その男の顔にそっと手を当てて汗をふき取ってあげてゆく。
「御免なさい、大丈夫ですか……」
「ぶはぁっ…ぶへぇ…はぁ……ハァ……っ。 あぁ……助かった……」
 自分を犯した連中と同類にであるにも拘らず、記子はその男の安否を確認してほっとした。例えどんな相手であろうと、今のように軽々しく命を奪われてはいけないのだ。ましてや、今のはこちらの方に非がある。
 相手から品物を手にするには、ちゃんとした対応と誠意を見せなければならない――荒かった男の呼吸が落ち着き体勢を立て直すと、記子は改めてその男の前を向き、頭を下げて告げる。
「あの……さっきのようなことをして言うのもなんですけれど……お願いです…ッ! 貴方が手に入れたっていう親娘のそれ……私達に譲ってください…っ」
 誠意の篭った声色に、彼女の真剣の度合いが分かる。刑人のような考えではないにしろ、彼女もまた真実を皆に伝えるために必死なのだ。例えそれで目の前の男に辱められても、それで目的に近づけるなら……
「グハァッ……わ、わかった…やる、やるから……早く、そいつを引き上げさせてくれ…」
 だが以外にも、返ったのは順応な対応だった。相手が相手だけに身体を弄ばれることを覚悟していただけに記子は拍子抜けしてしまう。
「え…?」
「そいつ……危険だよ…今、凄ぇヤバイ目をしてた…目的のためには…全てを蹴落とすこともいとわ…ひッ!」
 怯え混じりに吐き捨てるその男は、刑人の睨むような視線に気付いて供するしかなかった。嘗てこのようなタイプに屈服させられていたから分かるのだ。自身の目的のためなら、他者の命など消すことなど何とも思わない…目の前の影魔もまたそれと同じ。
 そんな相手にはただ機嫌を損ねないようにやり過ごすしかないことを。
「……そんな化け物に、これ以上いて、ほしかねぇ…すぐ、作ってやるから……さっさと、この場から離れてほしいっです、ハイ」
「この場を去るのはお前もだと、さっきも言っただろうが…っ!」
 刑人の睨みに次第に男の声に怯えが混ざったものになり、態度も矮小になってゆく。しかし刑人はあくまで代わらぬその意を伝える。その高圧的かつ殺意的なまでの言動に、男の恐怖が急速に上場してゆく。
「ハイィッ! 作ります、作らせていただきますぅぅっ! ひぃぃぃぃっ!」
 殺意の篭った目が更に鋭くなったことに、生命の危機を感じたジャーナリストは悲鳴を上げながら目の前のテレビの前に座り、触手を掴んで脳みそのような者を触手の先端に飲み込ませてゆく。
「……けい、と…くん…」
 今だ刑人の殺意の篭ったその視線に、記子はその身も凍るような恐怖と、言いようの無い悲しみに再び覆われていた。
 先程は一時的な感情の高ぶりから思わず手が出てしまったが、怒りを叩きつけるやり方が刑人の心の伝え方だということだというのは今日一日を見ていても分かる。そして先程の首締めだけで、自分には分からない多くのことが二人の間で伝わったことがわかる。
 だがそれが単に暴力のみで、力のみで解決するだけの、自身の思いとは程遠く昏いものであることに言いようの無い空しさを感じずにはいられないのだ。
 どうしてこんな風に力だけで物事を進めようとするのか。どうして相手を苦しませるようなやり方しか出来ないのか。どうしてこうも自分勝手にしか意見を通そうとしないのか。その者達の中にはその者達のルールがあるのは記子にも分かる。だが……
「…そんなやり方…やっぱり、間違ってる……暴力だけじゃ何も伝わらないよ……」
 ただ自身の怒りを相手に叩きつけるしか術を知らない刑人のやり方がどうしても分からなくて、でも怒りに歪む刑人が怖くて、ただそれだけを刑人に伝えるのが精一杯だった。
「………」
 その少女の悲哀に、しかし刑人は何も答えず、ただ男のすること苛立ちを隠しながら待ち続けるだけだった……

――――――――――――――――――――

 その後、私達は…ジャーナリストの人から新しく出来たDVDを貰った後、その場から離れました。作って貰うのに時間は掛かりましたが…私達にとってはあっという間で、でも余りにも長く感じた時間。
 まるでその場に一日いたかのような感覚に襲われそうなほどに重い空気に包まれた一部屋での時間。暗闇と殺意と恐怖が満ちた中で、私は正常な意識を保つのがやっとでした…。
 DVDを焼いてくれた人は、私達よりも先に出て行きました。私は荷物を整えてからでもいいって言ったけど、「そんな化け物の近くにいるなんて」って怯えるようにして。何も持たず、出て行くように。
 ……いくら悪いことをしているといっても、いやらしい目で私を見ていたとしても…やっぱり可哀想。せめて、荷物くらいは持たせてあげるべきだった……。
 でも、もう彼はどこにもいないんです。もう彼に何もしてあげられない……御免なさい、ジャーナリストさん…。

 けれど、私にそんな悲しみにくれる余裕はありません。その後刑人君に…その…おんぶされるようにして私は刑人君の部屋に戻ってきました。
 あ……別に男女の関係のようなものじゃないですよ? 「どうせ足手纏いなら、動かれるよりこうする」って刑人君が無理やり………それに、そんなことを意識する余裕もまたありません。
 むしろそこからが大変なのです。何しろ私達は学園の皆に、ここであったことを伝えなければいけないのですから。
 刑人君の怒りをぶつけるようなやり方には賛同できないけれど、「真実と向き合ってこそ人は前に進める」という想いは私も同じなのですから。だから…私は刑人君と……

 けれど…ようやく始めることが出来たその準備は……少なくともその為に必要な「真実」の内容は、今回のこととは関係ないけれど、けれど今回の事実を裏付けるもの。
 ……まさか…あんなことが……貰った録画DVDの内容が、あれほどに酷いなんて…悲惨なものだったなんて……
 それを見終えた後、私は泣いてました。その場で固まったまま、涙が止まりませんでした。余りにもの悲しさに声を出すことも出来ませんでした。
 私でさえそうでしたから、刑人君の苦しみは察するに余りあるものだったと思います。見終わった後でも変わらぬままの表情でしたが、立ち上がった後に見せた後姿は……目に見えて分かるほどに小さく、そして泣いている様に震えていました。
 何より自分の掌に爪を立てて流していた血が、彼の眼の代わりとなって涙を流していたのです。
 それは悠美さんがあんなことになった後でも彼女の元に駆けつけられない辛さ…どこまでも救いようのない展開を変えられなかった自身の無力さ。刑人君のせいじゃないという私の言葉は、その日彼の耳に届くことはありませんでした。
  
 そしてそれ以降、私達は表立って動くことはありませんでした。
 刑人君が昨日の時点で目的のものを手に入れていたのもあったけれど、学園を包囲している影魔達のせいで動くことが大っぴらに動くことが出来なかったのです。
 そうでなくても実際二日連続で影魔に狙われ、そのことを刑人君に言われるまで気付かなかった…普段通りにしていろという刑人君の言葉に、私はただ従うしかありませんでした。
 もちろん、目的を諦めたわけではありません。私達は放課後、気付かれないように来るべき日に備えて、必死になってこの事実を訴える手段を計画しました。
 もちろん来るべき日というのは生徒会長を決める総会。今生徒達が最も関心のある舞台でこの出来事の裏側を訴えるんだけど………刑人君、相手のことを非難しすぎ。
 相手に思いを伝えるには真剣にならなければいけないのは分かるけど…自身の怒りをぶつけるだけの告発方法なんて速攻で止めるしかありません。
 だから私は女子生徒代表として、彼の伝えたいことをちゃんと伝えられるように色々指導し、指導されながらも彼の計画を形作っていきました…それで心が傷付く人が少しでも減ることを、その傷が小さくなることを願って。
 でも、刑人君っていつ寝てるんでしょう? 私の知りうる限り、いつも彼は起きていて何かをしていて…いつも寝不足でとても辛そう…でも寝ることを勧めても「悪夢しか見ないからいい」といって聞こうとしません。
 確かにあれを見て、無理に寝ろなんて言うのは酷だけど…近くで見るといつも無理してて、自分を追い込んでいるようで……本当にいつも辛そう…彼が休まったときってあったのかな…?
 
 でも同時に、この時期ほど私達女性…いえ、2−Aの女子生徒にとって辛い時期もなかったと思います。その頃から既に男子達に異変が生じ始めていたのです。
 ある者は表情を常に口元を気味悪く歪ませていたり、ある者は近くの女子をいやらしい目で見回したり……とかく女の子を欲情か何かの対象としてみるものが次第に増えていったのです。
 それは私が見てきた影魔達や、映像の中でみた男達がしていた欲望に染まった視線…その視線で嘗め回されるのが辛かった……そしてそんな男子達の行動に女子達は、その心痛のはけ口を、この場にいない羽連さんへとぶつけていきます。
 「あの子が去ってから男子が皆おかしくなり始めた」とか「殺人鬼と付き合わされた恵理子がかわいそう。彼女を弁護するなんて…きっと何か脅されてるんだわ」とか、なにか悪いことがおきては彼女のせいだというのがクラスの中で蔓延するようになったのです。
 しかもその風潮は私達のクラスだけでなく、この学園の全てで広まっていました。それが学園に潜む影魔達の仕業も含まれているのも分かっているのだけど…
 事実を知っている私にはその噂が…悪意が渦巻いてゆくことがとても辛く、でもそれに何も手が打てなくて、耳にする度に胸を締め付けられる思いでした。ましてや刑人君の心境は如何ばかりなものだったでしょう…
 
 でも何かに打ち込んでいると、日が立つのは早いものです。あっという間に時は過ぎ去り、気が付くと『生徒総会』の当日の朝を迎えていたのです――


――――――――――――――――――――
 
 いつもの朝。学園が迎える雲のない晴れ上がった朝。
 日常においては特に変わることなく迎える平日の朝…しかし学園においては重要な一日。それはこの日を境として学園に新たなる統率者を誕生させる日。
 今年度の新たなる生徒会長を決めるための生徒総会を、今年もつつがなく迎えることが出来たのである。
 つつがなく迎えたといっても、それを迎える生徒達の関心の度合いは高まる一方だ。そしてそれらの殆どは一之瀬恵理子に対して向けられている……なにしろ本日の主役なのだから。
 今回の総会は、会長に関していえば出来レースだ。実際、人の為に自らを省みずに悪を追求し平和を守り、学園で『正義の味方』と称えられる風紀委員長を支持する生徒は圧倒的に多く、始まる前から彼女が会長として圧されるのは公然の秘密といっても良かった。
 この日を向かえる前に親友の一人が亡くなった事を哀れむ者も多く、しかしそれでも前に向かおうとする彼女の後ろ姿に惹かれる者も多い。
 不良達から学園を守っただけでなく、最近では学園に到来した殺人鬼を追い払ったとも噂され、もはや彼女が会長になることに誰も異論を疑う余地はなかった。
 そんな理由で、表面上は熱気に包まれた…しかし駆け引きも何もない形骸的な総会が始まろうとしていたのである。
 ……だが、学園に住まう者達は知る由もなかった。
 この総会こそが闇に生きる者たちにとって決戦ともいえる日……長く、辛く、そしてそこにいる者達全ての今後を決定付ける一日になろうとしていることに。

 
  *  *  * 

「………」
 『生徒総会』、そう黒い太字で書かれた看板の前に一之瀬恵理子はただ佇んでいた。
 目の前に聳え立つ体育館、その玄関の前では体育館に入場してゆくクラスの人間を横目にただただ呆然と佇んでいた。目の前にある体育館の玄関に入ることを躊躇うように。
 今の彼女にとって、目の前にある体育館は監禁部屋にも等しき場所になっていた。ほんの少し前までならそんなことはなかっただろうに…今の自分はまさに籠の鳥といっても過言ではない、そう感じていた。
 
 ……彼女は記憶が戻ったあの日から今日まで、最愛の親友を救うために奔走していた。生徒の皆が彼女のことを蔑み、恐れ、そしていやらしい眼でしか見ないことが何よりも耐えられなかった。
 しかもそれは自分に一番の責任がある。彼女を貶めたのも、その張本人に手を貸したのも、そしてその娘も苦しめたのも。それだけではない、ここに住まう女子生徒達を不良達の手で辱めたことに対し、責任は重大だ。
 そんな自分に生徒会長になる資格はない。まして悠美に対する貶めの烙印が剥がせない渦中で、会長になんてなりたくない。
 けれどいくら訴えても、悠美への批判は収まるどころか増大の一歩を辿るばかり。今に至っては自身を会長に押し上げる理由として「殺人鬼を学園から追い払った英雄」が上げられていることからも明らかだ。
 それが第三者からの干渉によるもの…そのことに気付かないほどに、今の恵理子は憔悴しきり、己が無力さに打ちひしがれていた。今の彼女は、ただ祭り上げられる傀儡の王の気持ちをただただ痛感していたのである。
「……悠美……」 
 ただ一言、親友の名を呟く……自分のことをこんなにも愛し、そして互いに理解しあった親友の名を。その親友が今之ほどにまでなく貶められ、あらゆる尊厳を認めてもらえず、そして自分の踏み台として利用されようとしている。
 確かに彼女ならそのことを喜んでくれるだろう。その為にどんな苦しみも背負って自ら堕ちることも厭わない。でも…だからこそ、そんないじらしい子がこれ以上貶められるのが耐えられないのに。
 どうして誰も止めないの? どうして蔑み踏み躙るの? どうして彼女のことを分かってあげられないの? どうして私なの――自分は正義の味方じゃない、唯の無力な人間なのに。彼女のほうがずっと慈愛に満ちて、自分よりもずっと正義の味方なのに。
 …いつの間にか誰かに手を引かれ、体育館へとその身体が飲み込まれてゆく。けれど今の恵理子にあるのは……
「…悠美…私……もう、どうしたらいいのか…わかんないよ……っ」
 親友の対する悔恨の念と自身への無力感…そして生徒の意思という荒波に対する恐怖――それだけであった……

 
  *  *  * 


「準備はいいわね、麗魔?」
「言われなくても……でも貴女にしてはずいぶん雑でいい加減な作戦ですわね?」
 天恵学園の内にある礼拝堂…嘗て一人の少女天使が最後の最後まで影魔達に嬲りつくされた場所。その礼拝堂の中では今、青いリボンをした清純そうな少女と学園の制服を着た高貴さを醸し出す少女が椅子に座っていた。
 それは恵理子ほどではないにしろ、表と裏で学園の注目の的になっている二人。男子達を虜にしそのカリスマと魅力で平伏させている麗魔と…非難と批判と悪評の的になっている少女、羽連悠美――もちろん本物ではない。
 それは彼女の姿と意識を模したアメーバの影魔であるメタモルエクリプス……二体の上級影魔が今この場で、この総会でどう動くかの最終的な打ち合わせをしていたのである。
「心配ないわ。今日の日の為に、生徒の皆に色々とちょっかいを出してきたんだもの。仮に『私』が邪魔をしても、もう既に手遅れだから…後はシナリオどおりに動くことのを高みの見物をしてればいいだけなんだから」
「…私の配下を虐殺したその憎き『私』も、これで本当に現れるのでしょうね?」
「『私』の大切な親友が苦しんでるのに、出てこないわけが絶対無いわ。大丈夫…絶対に駆けつけるわ…わざわざ自滅するために」
 悠美に変化しているメタモルエクリプスは、その清純そうな幼顔を悪意に満ちた笑みで歪める。それは禍々しい本質を曝け出した、彼女に相応しい笑みであった。何しろ自身が描くシナリオにわざわざ踊りに来てくれるのだから、これほど面白いことはない。
 その邪悪な笑みに、横で見ていた麗魔はただ溜息をつくほかない。確かに彼女の仕組む姦計は一級品だ。いい加減なように見えても、それは状況の流れを読み緩急を加えたスパイスに過ぎない。結果として残るのはいつも、彼女の思い通りに運ばれた物事だけとなる。
 幼馴染として、その辺りの心配はしていないつもりなのだが…この本性を垣間見せるような笑みを見る度に、どうしても心配と不安が過ぎってしまう。何しろ彼女の姦計は、時として自分まで平気で貶めるとこもあるのだから。
 だが…今回はそれとは別に、他の不安がどうしても離れない。なにしろ配下を殺した憎き天使が、この数日において姿を一つも見せていないのだから。確かにメタモルが彼女を貶めていることもあるかもしれないが…それでもおかしい。何か出れない理由が他にあるのだろうか…?
「……そろそろ行かなくて言いの? 麗魔、確か恵理子の推薦者なんじゃなかったっけ…?」
「えっ? …いけませんわね…確かにそろそろいかないと……でも女の方を援護するなんて…本当に気が乗りませんわね…」
「そんなこと言わないで……これが上手くいったら、この学園の男の人は全員貴女のものになるはずだから…」
 先程までの邪悪な笑みを隠し、再び清純という名の仮面を被った『悠美』は、相手を包むような優しい声で彼女の背中を押してやる。その言葉にもう一つ溜息をついた麗魔は、出席したくない舞踏会へいく淑女のような、ただ詰らなさそうに表情を崩しながら教会の門を開けた。
 そして彼女が出て行った後、後に一人残された『悠美』は、まるで祈るとも、媚びるとも言えるような悲哀の表情で、境界にある十字架に両手を合わせて膝真付いた。
「あぁ…神様……『私』はどんなに辱められても構いません。ですから、どうか恵理子には……恵理子には祝福を…皆を幸せに出来る祝福を…」
 それは端から見れば親友を心から思う慈愛の懺悔だろう。しかしそこに願うのは人々の願う神ではなく、彼女たちの上に立つ影魔達の神。そしてその祝福は人を導くことではなく、人を貶めること。そして『彼女』が願うのは人としての幸せは…ない。
 …途端に、彼女の口元が笑みに歪む。それが次第に壊れた玩具のように歪み……狂気と優越感に満たされた邪悪な影魔のそれへと変貌を遂げる。
「………………くっくっくっ……………あハッ、アハハ…アハハハハハハハハハッ!」
 今この場にいるもの達が皆、自分の描いた舞台の脚本どおりに動く。多少手違いはあったが、その結末に代わりはない。これから演じられるその『舞台』を前に、一人の女優はその滑稽を嘲笑わずに入られなかった…

 
  *  *  * 

「遂に来たね…この時が……」
 体育館の中心にある舞台場…その裏側とも言える場所で、記子はただ呟くように話しかけていた。
 そこは今日、生徒会の役員となるために立候補した者達とそれを推薦したものたちが待機する場所であり、始まりと共に全員が舞台へと移動する。
 今回は生徒会長に立候補する者は一人もいなかったために、多少は数か少ないが、それでも例年並の人数は集まったのだそうだ。
 刑人は本来はこの場には呼ばれていないのだが、何らかの根回しをしたらしく、今日はこちらの方で特別に待機することになっているらしい。
 そんな状況の中で、記子はふと恵理子が姿を現していないことに気が付く。何があったのかは分からないが、彼女が一番最後になっているようだ。だが今はそのほうがいい。
 この数日間で得た事実だけでなくとも、刑人が恵理子達を憎んでいることも分かっているのだから。今は少しでも離し、刑人君の心を揺さぶらせない方がいい。
「……刑人君…あのね……やっぱりここは――」
「そろそろ戻った方がいい…始まる」
 何かを言おうとした所を、刑人が別方向に指をさして止める。その指の先には…一番最後に入ってきた恵理子の姿があった。その姿を見ていよいよ総会が始まることに気付いた記子は、不安を残しながらも仕方なくその場を去ろうとする。
「記子」
「えっ、何…?」
「このことは俺が全部やらなければいけないことだ。………心配せずとも、最後まで己を保ってみせる」
 その言葉を聞いて、記子は多少安堵したように表情を崩した。どうやら記子の言わんとしたことは分かっていたようだ。
 記子は、刑人の奥にある憤怒の感情が暴発してこの場を崩さないかと心配だったのだ。だから前日、代わりに自分がその場に立つことを提案していたのだ……無論刑人はそれを受け入れられることなく、予定通りの流れになったのだが。
 だがその言葉を聞いて刑人のことは安心する。それと共に、自分はまだまだ刑人のことを信用していないんだなとただただ恥じ入る外なかった。
「……頑張って…っ!」
 この数日の交流の間に、ある程度の心の繋がりが出来た二人に必要以上の言葉は要らない。ただ一言…そう告げた記子は、恵理子が入ってきた扉から外に出て、自分のクラスの場へと戻っていった。
 そしてその後ろ姿をドアが閉まるまで見届けた刑人は、そのまま恵理子の方をチラッと見る。

(遂に来た、この時が……この時を何度悪夢の中で見たことか…っ!)
 この場で彼女を…そしてあの純真な少女の尊厳を破壊したあの無価値を断罪する機会をようやく掴んだ。ようやくあの少女の汚名を晴らすときが来た。
 何度怒りに任して、この女共を消してやろうかと思っただろう。憎しみが止まらなくて、すぐにでもあの子が受けた仕打ち以上の苦痛と絶望を叩きつけ、魂すらもこの世から消してしまおうと思ったとこも一度二度ではない。
 それだけここの生徒達の愚行を、そしてその中心人物達を許すことが出来ないし、その顔を見るだけでも叩き潰してやりたいほどに怒りが湧き上がってくる。
 それでもこんな(自分から見て)落ち着いた方法をとったのは、ひとえに彼女の『明日』が紡げる可能性がまだ僅かに残っているから。…そして今は自分に協力し、それでも皆を助けようとする少女の願いも含まれているから。

 ……あの映像を見てしまった今、あるいはこれらの想いも全て無意味かもしれない。そもそも、この断罪自体が独りよがりなものであることも分かっている。
 それでも、あの子の未来の幸せにつながるのであれば…そして奴隷として蹂躙される絶望から解き放たれるのであれば……そして彼女の壊された尊厳を戻してあげられるならどんな詭弁でも構わない。
 これは自分達影魔が…否人間達が彼女にしたことへのせめてもの贖い。彼女の信じていたもの全てを壊し、存在意義を否定し、最後の最後まで自分の幸せに浸りきっている連中に当然与えられるべき責務。
 そして同時に、これは嘗てのあの子が望んだ「皆が幸せになる」為に必要な架け橋。あの子が「心」を取り戻し「本当に望む幸せ」を見つけるために必要なこと。そして現在存在する影魔王を倒すための重要なヒント。
 ……そんな様々な願いが篭められたこの戦い、絶対に負けられない。目の前にいる糞蛆達にも、そしてここに来ている影魔達にも。そして、自分自身にも。
 もちろん今日までに可能な限りの手は打った。あの影魔達にも好き勝手になどさせるものか。
 確かに今の状況はあの子に対して最悪なもの…けれど大丈夫。ここまで体勢が整ったのだ…整えてくれた記子の願いのためにも…自分自身のためにも……絶対にここの連中の悪事を曝け出してやるっ!
 そして、何があっても……


「……たとえ何があっても、あの子の尊厳と未来を取り戻す…何があってもだ…ッ!!」
 誰にも聞こえぬほどの小さな声で、しかし決意と想いの篭った、戦いの狼煙を上げる宣言が…今、ここに紡がれた――

 

 

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