てんしはふしぎでした。
森でくらすのはとてもたいへんそうなのに、姉妹はそういわなかったからです。
「もしかしたらこの人たちといっしょにいればしあわせとはなにかわかるかもしれない」
てんしはすこしのあいだいっしょにいてもいいかと姉妹にたずねました。
姉妹もそれをこころよくうけいれたのでした。
森での三人のくらしがはじまりました。
姉妹はときどきけんかもしたけれど、すぐになかなおりしました。
てんしも姉妹のおてつだいをいっしょうけんめいにしました。
三人は森のなかでなかよくくらしました。
「わたしはもうお空にはかえれない。だったらこの姉妹たちとずっといっしょにいよう」
てんしはそうおもうようになりました。
ところがある日、この森にもあくまはやってきたのでした。
真夜中の白昼夢は続く。
可哀想な姉と愚かな妹が辿った過去。
わたし――鍬原彩から見ればそれは最悪の悲劇であり、同時に最低の喜劇であった。
*
*
泣きじゃくる針生奈々をなだめながら痛む身体を引きずる。ほんの僅かの道のりが遠かった。
それでも矢桐早紀は冷静だった。
裏口から屋敷に入り、奈々にシャワーを浴びさせている間に着替えを取りに行き、使い物にならなくなった二人分の制服をゴミ袋に投げ入れた。奈々と入れ替わるようにシャワーを浴びて、何食わぬ顔でいつもの家事に移る――一連の流れをまるで日課のようにこなした。
「今日はもう休んで。小母様たちには私から言っておくから」
「でも、早紀ちゃんは……? 早紀ちゃんも一緒に寝よう、ね?」
姉の不安と優しさを感じながらも早紀は首を横に振る。
「私は平気だよ。姉様こそゆっくり寝なきゃ」
奈々を半ば強引に部屋に押し込めて、夕食の準備に入る。暢気にも自室で寝ていた奈々の母には『奈々は学校で体調を崩した』とだけ伝えた。
すべての仕事を終えたのもいつも通り日付が変わった後。こうして一日がようやく終わった。
終わってみればいつもと何の変わりもなかった。屋根裏の自室、月明かりもない部屋で彼女の一日は終わりを迎える。
「…………」
ベッドに身体を預けたまま、かざした掌に視線を移す。つい数時間前に切り落とされた手は、しかし剣を握ってそのバケモノを両断した手でもある。
眼を閉じてしまえばそれで明日が来るというのに、早紀にはそれができなかった。
あの時の感触が、あの時の断末魔が、あの時の昂揚が未だに残る身でどうして眠ることができようか。
「そう、できるなら……」
もう一度、あの感覚を味わいたい――そう思っていることに気づき、早紀は自分に嫌悪する。
「私、おかしくなってる……」
そんな感覚は間違っている。意味もなく殺すのが愉しいと認めてしまえば、その瞬間に自分はあの化物と同じものに成り下がる。
冷静なのではない。冷静なふりでもしなければ、自らの衝動に押し流されてしまいそうなだけだった。
「だめだ、だめだ、だめだ……」
ベッドの中で身をよじる。湧き上がる衝動を封殺するたびに身体が火照っていく。
「こんな、の……っ」
紛らわさなければ――そう思ってショーツの内に右手を滑り込ませ……
「早紀、ちゃん……」
その瞬間、ガチャリと開く扉の音が心臓を鷲?みにした。
「な、ね、姉様!?」
慌てて手を引っ込める。半分だけ開いた扉から見えるのは、間違いなく奈々の姿だった。パジャマ姿のまま、俯き加減にこちらを見ている。
「ごめんね、眠るところだった?」
「え、ううん。寝付けなくて……姉様も?」
その姉の姿が、遠く霞んだ記憶と重なった。
「よかったらこっちにくる? 狭いけど」
「うん」
奈々は一直線にベッドに潜り込んでくる。一人用のベッドでは手狭で、二人は互いの身体を密着させなければならなかった。
「ん……っ」
触れようとしていた部分が、その感触と体温を帯びて疼いた。最初の衝動が思惑通りにまったく別のものへとすり替わってしまっている。
早紀は何も言うことができなかった。
自身の恥ずべき欲望を抑えることよりも、姉の身体が小刻みに震えていることに気づいたのだ。
「あのね、早紀ちゃんにこんなこと言ってもしょうがないって……わかっているんだけど」
「うん……」
声も震えていた。奈々は早紀の肩に首を預け……いや、埋めるようにしながら言った。
「私ね、初めてだったのよ?」
「え?……あ」
『はじめて』――その意味するところが何か、早紀にはすぐに理解できた。
「最初は一番好きな人とするんだって決めてた。クラスには許婚とか政略婚とかでもうしちゃったなんて子もいたけど……私は自分で、大切な人を必ず見つけてキスするんだって決めていたの」
子供っぽいかな、と寂しく笑う奈々に早紀は簡単に頷けなかった。彼女がその想いを遂げることは永遠できない。それはおろか、彼女はもう処女ですらないのだ。
「なのに、キスだけじゃなくて……から、だ、まで……っ!」
もう声ではなかった。嗚咽だけが喉の奥から漏れている。
「怖いよ、早紀ちゃん……眠って忘れようって思って……眼を瞑るんだけど、すぐにさっきのこと思い出しちゃって……!」
「姉様……」
太陽のように明るく、自分をいつも守って支えてくれていた強い姉が、自分の胸の中で泣いている。そして早紀はそれを慰める手段を持ちえない。
「神さまもひどいよね……どうして私たちだったのかな」
消え入るような嗚咽が早紀の胸を突き刺す。
怒りと後悔と劣情と――幾多の感情がグチャグチャに溶けあい、早紀の身体を支配していく。
「違うよ、姉様」
神様なんかに任せていいはずがないと、どこかでそんな言葉を聞いた気がする。
「私、何か悪いことしてたのかなぁ……だから」
そうだ、目の前の姉を守れるのは他の誰でもなく――
「姉様っ!」
姉の小さな身体を、早紀は力いっぱい抱きしめた。
「忘れて。全部夢だったって」
「できないよ……」
「明日からはまたいつも通りになるから」
「だって寝れないもの。眼を閉じるだけでまた……」
「なら、あんなこと――私が最初からなかったことにしてみせる」
既に過去となった事実を変えることなどできようはずもない。
それでも愛しい人から涙を拭うには――
「だから、私が姉様の『はじめて』になる」
「え……早紀ちゃん……?」
「姉様の『はじめて』は、私がもらうの」
奈々の驚きはもっともだ。それではあの化物と変わらない。傷口に付け込み、愛しい姉を陵辱するだけの口実に過ぎない。
しかし早紀には迸る己の感情を止められなかった。愛しい人が泣いているのを見過ごすことはできない。その涙を消し去るためなら手段を問わない。
それが単なる詭弁の自己満足であったとしても、いつもの眩しい彼女に戻るのなら誰に蔑まれようと構わない。
「姉様は……私とは、いや?」
この歪んだ愛欲が堕ちた身体の代償だとしても、たった一つ確実なこと。
彼女を愛しているのは、間違いなく矢桐早紀だ。今この場で針生奈々を抱いているのは、堕ちた影魔の腕ではなく、彼女の妹の腕なのだ。
その証拠に、早紀の心は死にも勝る恐怖に支配されている。彼女がどれだけ想っても決定権は奈々にある。
他の誰から誹謗されようと構わないが、ただ一人――針生奈々から拒絶の言葉が紡がれれば、その瞬間に彼女の生きる意味は失われてしまう。
奈々の唇が答えを紡ぐまでほんの五秒。その間が、全身を切り刻まれるよりも苦痛だった。
「嫌なことなんて、あるわけないじゃない」
すべて杞憂に終わった。
強く抱く早紀を、もっと強く奈々は抱きしめる。
奈々が顔を上げる。涙でぐしゃぐしゃの顔は、嬉しいと笑っていた。
「そっか……こんなに近くにいたんだ」
そして奈々の方から、早紀の薄い唇にキスをした。
早紀にとっても初めてだった。
暖かくやわらかい感触が、直に触れた粘膜越しに伝わってくる。
やり方など知らない不器用なキスは、けれども長く、互いの息が詰まるまで続いた。
「ぁ……」
静かに別れる。急に照れくさくなって、思わず二人して俯いてしまう。
次に眼が合ったとき、彼女たちは二度目の口付けをしていた。
それでわずかばかりの羞恥も消え去った。姉妹はそれが自然であるように何度もキスを繰り返した。
「――……も」
「え……?」
「続きも……しようよ」
「早紀、ちゃん」
「姉様のはじめてになるって言ったでしょう」
「……うん、でも私そういうのわからないよ?」
「大丈夫、その……私もよくわからない」
「もう! それじゃダメじゃない」
そうして、二人は身体も重ねた。
決して繋がることのできない同性の身で、貪るようにお互いを求め合った。
時には舞い散る花びらのように可憐に、時には蠢く芋虫のように醜く。
ベッドを軋ませ熱く喘ぎながら、お互いを愛撫し嬲りあった。
未知の快感と快楽に溺れながら、早紀は想う。
今度こそ守らなければならない、と。
姉を泣かせるものがあらば、それが天使だろうと悪魔だろうとこの手と剣で斬り裂き殺す。
その果てに針生奈々の平穏と幸せがあるのなら、矢桐早紀は血塗られた道でさえ笑顔で踏み越えることができる。
「早紀……?」
すべては私を愛してくれた、私が愛する人のため。
「大丈夫、すぐに安心して眠れるようになるから。私が姉様を守るんだから……」
歯車が致命的に狂い始めていた。
偽りの姉妹の運命は、崩壊と破滅に向かって最後の坂道を転がりだしていたのだ。
早紀の変貌に気づくのに時間はかからなかった。
あれからひと月――あの日以来、奈々は自室を抜け出して早紀の部屋で眠るようになっていたが、妹が夜中にどこかへ出かけるのにも知っていた。
「姉様、ちょっと先に帰っていて。私もすぐ帰るから」
下校の途中にそう言ってふらりと何処かへ行ってしまうことも多くなった。
早紀の帰宅時刻は少しずつ遅くなり、同時に起床の時刻も遅れていった。それは使用人としての仕事にも影響を与え始めていた。
「奈々さん、早紀はどうしたの。まだ戻ってこないの?」
今日も既に八時を過ぎようとしているのに、早紀は帰ってこない。痺れを切らした母の小言を聞く回数も増えた。
「……部活で遅くまで残っているんです。早紀の作品は少し進行が遅れていますから」
苦しい言い訳だった。奈々にとっての苦痛は嘘をつくことではなく、嘘をつかざるをえないことだった。早紀に問いただしてもはぐらかされるばかり。そのうちに彼女は追及をやめてしまった。
だから彼女は妹が何をしているのか知らない。いや、知ろうとしていないのだ。
「まったく。学校にいくだけでは飽き足らず、部活動だなんて図々しい。ましてや本来の仕事をおろそかにするなんて」
実のところ、早紀が何をしているのか想像はついていた。
ただ真実を知ってしまうのが怖かった。だって、そこまで早紀を追い詰めていているのは、自分の存在に他ならないのだから――
「早紀を美術部に誘ったのは私です。お母様、責めなら私が受けます」
助けて、と。
救いの手を伸ばしたのは自分。早紀はそれに応えているだけ。
彼女は今も、奈々のためにあの姿で剣を振るっているに違いないのだ。
「なら今後こういうことがないよう、早紀に言っておきなさい。だから私は嫌だったのです、他人の子供などアテにできないと……」
だから耐えるしかなかった。
そしてこれ以上眼を背けることはできないと思っていた。
未だに奈々は暗闇が怖い。家の中でさえ物陰に怯えているというのに、外の夜など気絶しそうになる。
それでも覚悟を決めた。アテなどないが、今日は早紀の首に縄をつけても連れて帰る。
意を決して屋敷の外へと飛び出した。
『同族』になったからか、早紀にはエクリプスの存在を感知することができた。この街が異常なのかこれが世界の真の姿のなのか、街のいたるところに連中の影はあった。
だから探すのなんて手間は要らない。彼女のセンサーに引っかかったものがあれば、その闇へと飛び込み斬り捨てるだけ。
それが人を襲っているか否かなど基準にならない。早紀にとってエクリプスは存在自体が万死に値する。
「は、っは、ぁ……」
鹿だかレイヨウだかわからないが、逃げ足の速い敵だった。追いかけるのに骨が折れたが、それだけの獲物だった。
そういうヤツはまず脚から。
抵抗力を奪うために次に腕を。
絶望を与えるように腹を裂き。
死を実感させるために脳を抉って。
堪能したら命を刈り取る。
「……狂っテル! 狂ッテルヨ、てめェ!」
それが今日の獲物の断末魔だった。
エクリプスは死ににくくていい。最期の最後まで悲鳴を聞かせてくれる。
「はは、くくっ……く、く」
戦いを繰り返すたび、自分の技術が向上していくのがわかる。それも楽しみの一つだった。
今日まで戦った影魔の中には、あの日早紀を瀕死にまで追いやったヤツ以上の相手もいた。だがそれさえも今は手玉に取る自身がある。押し殺しても笑いがこみ上げるもの当然だ。
「……嗤うな、私は」
足元のエクリプスの残骸が風化するように消え、周囲の闇が正常な世界の夜に還る。
早紀は元の人間としての姿に戻るや、膝から崩れ落ちた。日常と化した戦闘に酷使された身体が悲鳴を上げている。内臓が痙攣し、胃の中のものをすべてぶちまけたい衝動をどうにか堪える。
「姉様が……安心して、眠れるよう、に……っ」
――なんという矛盾だろう。戦い方が向上するに比例して、戦闘時間も長引いていく。 今の早紀は『どうすれば殺せるか』で悩むことなどない。『どうやって殺そうか』とだけ考えてその剣を振るっている。
「違う……ちが、う」
故に戦いは長引く。彼女は愉しんでいるからだ。
すべては姉を守るため。そのためなら幾らでもエクリプスを殺してもかまわない。
だから、殺すのが愉しいと思っていても、おかしくなんか、ない――
「私は姉様を守りたいだけ……姉さまを……」
ビルとビルの間、薄汚い世界の狭間で彼女は必死で自分を否定し、自我を保つ。
ガクガクと震える身体を壁に預けて立ち上がろうとしたとき、背中に突き刺さる視線を感じた。
見られていたのか――早紀は身体を強張らせる。
だが影の領域は展開していた。エクリプスの狩猟場を知覚できる人間がいるとは思えない。いるとすれば同じエクリプスか、あるいは――……!
振り返ればそこには。
「だれ……?」
街の光を背に、一人の少女がこちらを見ている。
逆光が視認を遮る。ただ輪郭で頭にリボンらしきものをつけていることだけがわかった。
小柄な身体、華奢な手足。
今にも掻き消えそうな儚い影絵、しかし圧倒的な聖の気配――それがこの上もなく不吉だった。
どこか懐かしいような気もした。
それ故に、これはよくない。
その小さな手に握られた眩い輝き――あの十字は、あれは。
あれは、まるで。
「う、あぁぁ……っ!」
近づいてはいけない。
近づかせてはいけない。
なら?
なら――これも殺さなくては……!
「え……」
跳びかかろうとして、自分が虚空を睨みつけていることに気づいた。
目の前の少女の姿は消えていた。見えるのは切り取られた繁華街の灯りだけ。
いや、はじめからそんな少女はいなかった。
いなかったのだ。
「は、はは……」
エクリプスと対峙するとき以上の緊迫から開放され、早紀は乾いた笑いを漏らした。
気が緩んだせいか、堪えていた嘔吐感が一気に駆け上がる。激しい運動のせいで内臓がダメージを受けているせいだろう、吐瀉物は殆どが自分の血だった。
「戻らなきゃ……」
血に塗れた口元を気にする余裕もなく、早紀は遅い帰路に着いた。
「――……早紀ちゃんっ!」
幻覚の次は幻聴か。
こんな場所にいるはずのない姉の声が鼓膜を揺さぶる。
「ねえ、さ……?」
「大丈夫、しっかりして!」
幻ではなかった。奈々が自分の肩を揺さぶっている。
「どうして、こんな所に……あ、れ?」
ここは屋敷に繋がるあの坂道。自分が歩いてきたにも関わらず、突然空間が跳んだように思えて、早紀は思わず辺りを見回した。
「これ……血? 嘘でしょ、こんなの……」
部屋着のままの姉が外の闇の中にいるのは不自然だ。
そうか、姉の不安を払拭させるために戦ったのに、かえって心配させてしまっていたのか――やはりもっと上手く、もっときれいに殺せるようにならなければ。
「だめ、じゃない……外は、あぶな……」
これでは本末転倒だ。謝りたいのに、気分が悪くて言葉が紡げない。
「もうやめて。私はもう平気だから! ほら、一人でここまできたのよ? だから」
笑わなきゃ。
――に笑顔でいてもらうには、私が笑わなきゃ。
「心配しないで」
笑え。
こんなの全然つらくない。
殺すべき敵はまだ沢山いる。
でも――のためならつらいことなんて何もない。
だから笑え。
笑顔で、笑って、笑いながら、殺せ。
「アイツらを殺すのなんて簡単なの。私は強いもの。私の心配なんてしなくていいのよ」
そう言って、早紀はわらってみせた。
「だから、わらって?」
きっと上手くわらえている。
なのに。
「さ、き……っ!?」
『この人』は、笑ってくれなかった。
狂い始めていると、わかっていた。
まるで月食のように静かに、しかし劇的に奈々の周囲は変わり始めていた。
『ねぇ、知ってる? 奈々さんの妹さんの話』
『矢桐さんのこと? 最近素行が悪いとか……夜の街に出ているんですって』
『まぁ……如何わしいことでもしているのかしら』
クラスメイト同士のそんな会話も耳に入ってくる。
『矢桐さんは捨て子? わたしは親戚の子だって聞いたけど』
『どちらにしても、わたしたちと同じ教室にいられる人ではないわよねぇ』
以前からの噂に尾ひれがつき、そんな風評も立ち始めた。
『我々の学校の制服を着た女子が深夜の街中を歩いていたという連絡が警察からあった。本人は否定したが……どうなんだ針生』
『別な話では風俗街に出入りしているのを見たという証言もあるわ。針生さん、心当たりはない?』
もちろん奈々は否定した。
『そう、ならいいのだけど……でも針生さんがちゃんと見ていてあげてね? 彼女はほら、あなた達とは違う生まれの人なのだから』
もはや学校に早紀の居場所はなくなりかけていた。それどころか、早紀自身が学校から遠ざかり始めている。
毎日の授業には出ているものの、部活に顔を出すことは稀になった。結局早紀の絵は文化祭に間に合わず、顧問からは退部を言い渡される始末だ。
しかし早紀がそれを気にすることはなく、今日も彼女は奈々を置いて何処かへと消えてしまった。
「早紀ちゃん、今日は一緒に帰ろう、ね?」
そう懇願する奈々に彼女は笑って言った。
「もう少しだと思うから。だから、今はごめんね」
あまりにも気軽に発せられた答えは、まるで『補習で遅くなるから』と言っているようにさえ聞こえてしまう。
「うん……それじゃあ仕方ないね」
知らない振りをして笑顔でかえす。
そして姉妹は別れた。
彼女の言葉に偽りはないのだと信じたい。
でも、本当にそうなのか。
すべてが終わったとして、早紀はもう一度自分の下に戻ってくるのか。
「……帰ろう」
雑念を捨て、奈々は足早に誰もいない屋敷に戻る。
日が落ちるより早く、夜に追われながら、奈々は自分の部屋に飛び込む。
部屋に鍵をかけ、すべての窓のカーテンを閉め、部屋中のライトをつける。
早紀がいないと屋敷の中も怖い。
着替えもせずにベッドにうつぶせ、眼を閉じて自分の身体を抱く。
「傍にいてくれるだけでいいのに……!」
いない者に何を言っても無駄。独り言は虚しく響くのみ。
やがて聞こえてきたのは、いつ戻ってきたのか、自分を呼ぶ母の声だった。
「今月いっぱいで、早紀にはこの家から出てもらいます」
開口一番、母は得意げにそう言った。
「……え?」
その意味がわからなかった。
「なぜです、お母様」
「決まっているでしょう。最近のあの娘の行動は眼に余るものがあります。これは親族会議で決まったことだから変えられませんよ」
「親族会議……そんなものをいつ……」
「今日です。朝に言ったでしょう」
親族会議――だから父も母も家にいなかったのか。そういえば朝にそんなことを言っていた気がする……奈々は努めて冷静に事態を整理しようとした。
「でも、その、待ってください。早紀は、その……」
有力銀行の頭取でもある針生の本家を頂点とし、その分家へと上位下達の命令を発する身内組織。時代錯誤の身内経営においてその決定に背くことは、一族からの追放と現在の地位さえも失うことを意味する。
奈々の父が役員という身分にあるのも、その会議において本家の機嫌を取って与えられたものだということを奈々は知っている。
つまりこの家において親族会議は絶対だ。逆らうことはできない。
「早紀はいるの?いるならここに連れてきなさい」
身体を震わせたまま黙した奈々を見て、母はこれ見よがしにため息をついてみせた。
「もしかしたら早紀もわかっているのかしら。もうここに自分の居場所がないと。ねぇ、あなた」
「あ……あぁ、そうだな。そういうわけだ、奈々。早紀にはお前の方からよく言っておいてくれ」
「そんな……そんなの、待ってお父様。早紀は……早紀は、違うんです!」
「違うも何も、早紀の噂は本家まで届いていたのですよ。母様たちがどれだけの叱責を受けたか……奈々さんもそれくらい察しなさい」
「もう一度だけ機会を! 早紀には私からよく言って聞かせますから!」
「悪いな、親族会議で決まったことなんだ。もう変えられないんだ」
「わたしの言った通りだったでしょう、あなた。所詮は他人の子、わたしたちへの感謝など持ち合わせるわけがないのです」
「そうだったな。まったく、仮にも兄貴の娘だからって情けをかけてやれば、仇で返すなんて」
「えぇ。正式に戸籍に入れていないことだけが救いでしたね」
二人は早紀を罵倒し続ける。
「やめて……」
聞くに堪えない罵詈雑言に奈々は耳を塞いだ。
「新しい家政婦を雇わなくてはなりませんね。今度はとびきり優秀な人にしなければ」
「そうだな。でももう勝手に解雇したりしないでくれよ」
「それは相手次第です」
もう二人には早紀がこの屋敷から去ったも同然らしい。
「やめてよ……」
耐えられない。
「あぁ、奈々さん。今日は外食にしましょう。急いで準備をなさい」
「そうだな、たまには外で食事をするのもいいな」
「えぇ、親子水入らずでね」
「やめてっ!」
奈々は髪を振り乱してその場から逃げ出した。
二階の自室に飛び込むとベッドに倒れこむ。
早紀がいなくなる。
早紀と会えなくなる。
それに耐えれるはずがない。
『如何わしいことでもしているのかしら』
クラスメイトの言葉が脳裏を掠める。
「やめて!」
早紀は自分のために戦ってくれているのだ。そんなことも知らないくせに。
『あなた達とは違う生まれの人なのだから』
先生の言葉に神経が疼く。
「やめて、やめて!」
二人は姉妹なのだ。心だけでなく身体さえ重ねあった真の姉妹なのだ。
『所詮は他人の子、わたしたちへの感謝など持ち合わせるわけがないのです』
『情けをかけてやれば、仇で返すなんて』
両親の言葉が心臓を抉る。
「やめて、やめてよ、やめてってば!」
早紀が感謝する必要が何処にある。感謝するのは自分たちだ。早紀がいなければ今この場に自分はいない。
なのに出て行けなど、恩を仇で返しているのはどちらだというのか。
「早紀ちゃんは、私のためにおかしくなっちゃったのに……」
でも一番、許せないのは。
許せないのは。
「悪いのはぜんぶ、私なのに……っ!」
赦せないのは。
ゆるせないことは。
「うそつきぃ」
耳もとで誰かが囁いた。
「……っ!?」
慌てて振り返るが誰もいるはずがない。
電気をつけっぱなしにした部屋の中には惨めに泣く自分だけがいる。
なのに、声が聞こえる。
「そんなこと、少しも思ってないくせに」
誰もいない。
誰もいないのに声だけが聞こえる。
「ひっ、いぃぃ……!」
全身がガタガタと震え、ベッドから転げ落ちる。無様に這い蹲って出口のドアに逃げようとする。
「彼女が勝手に堕ちただけ。全部悪いのは彼女。私は悪くない。なのに私を置いて。私を見捨てて」
これ以上ここにいてはいけない。これ以上あの声を聞いてはいけない。
声がするのが怖いのではない。
声が語る真実が彼女を脅かす。
「さ、早紀……さき、ちゃぁん……」
姿見に掴まってどうにか身体を起こす。なんとか、なんとか早くここから……
「た、たすけ――」
鏡に映る自分。
その顔が、自分の顔が、顔が。
「わかっているくせに。早紀ちゃんは、もう私なんか見ていない」
真っ赤な瞳で嘲笑っていた。
唇が動いていた。
封じて禁じた疑念を、音にのせて言葉にしていた。
「あんなに大切に想ってあげていたのに、早紀は私をあっさり見捨てたの」
――それは奈々の心にあった小さな、しかし消し去ることのできない本心だった。
『アイツらを殺すのなんて簡単なの』
『だからあなたも、わらって?』
そう言った早紀の眼にもう奈々は映っていない。
「あの日以来、早紀は私を呼んでくれた?」
早紀は奈々を必要としていない。
「あの日以来、早紀は私を抱いてくれた?」
奈々が求めても戻ってこない。
「……あはっ」
信じたくなかった。
信じていたかった。
信じている振りでもしていたかった。
なのに、この影はすべてを暴いた。
すべてを暴いて曝け出した。
早紀への不信。
早紀への不安。
そして、早紀への絶望。
「ほら、私ってば……」
それを認めてしまった。
ツギハギの心を固めていた唯一の支えを、自らの手で壊してしまった。
「――馬鹿みたい」
真っ白い角砂糖が真っ黒い珈琲にとけていくように。
あっけなく、針生奈々は、こわれた。
階段を降りてくる音に針生夫妻は気づいた。
先ほどは少し言い過ぎたかと思って声をかけようとした。
「奈々、さっきは」
そこに針生奈々はいなかった。
その代わりに、虚ろな眼で二人を睥睨する異形がいた。
「な、奈々さん……?」
宙を彷徨っていた眼が、真っ赤に染まっていく。
「……お腹、すいたな」
虚空を見たまま言った。
それが、生まれ堕ちた彼女の第一声となった。
「おかしい」
最後の一匹に剣を突き刺しながら、早紀は呟いた。
今日の獲物はこれですべて。一度に五匹を同時に相手にしたのは早紀も初めてだった。
しかし斃した。物足りないくらいだった。
向かってくるものも、逃げようとするものも、見物を決め込んだものも、一人残らず彼女は切り裂き殺した。
「おかしいよ、こんなの」
なのに、減らない。無くならない。
もうひと月以上、毎日殺し続けてきたのに。
「なんでこんなにいるの、なんでいなくならないのよ」
このままでは約束が果たせない。
今日、もう少しだと言ってしまった。このままでは今日中なんて無理。
「ちが、う……そうじゃな、くて」
それは些細なこと。
そう……もっと大切な約束があった。
「確か、あれは――」
ざくざくざくざく。
骸と化した肉塊に何度も何度も剣を突き刺す。
飽きるくらいに刺す。
自然に口の端が吊りあがる。
「そうだ、姉様……」
でもやっぱりおもしろくない。
死体は殺せない。
だからつまらない。
「姉様。ねえ、さま?」
そう、姉様。
針生奈々。
知っている。わかっている。憶えている。
たしか、その人のために……?
ふらふら、ゆらゆら。
早紀は屋敷に戻る。
すっかり灯りの落ちた住宅地を抜け、長い坂を越えて――
「っ!?」
その感覚に、全身が総毛立った。
これまでに感じたこともない濃密な影の気配。
いや、それはもはや気配ではない。影が実体をもった汚濁なって屋敷を呑み込んでいた。
「これは……!」
確実にエクリプスがいる。
それも今までのやつらなど比べようもないほど強力なヤツが。
早紀は走った。
どうして走っているのか自分でもわからない。
「は、はっ、はっ、はっ――」
焦燥か。遅れてしまえば取り返しのつかないことになるという焦燥なのか。
後悔か。すでに遅く取り返しのつかないことになったという後悔なのか。
思考がまとまらないまま、坂を駆けのぼり門を蹴り飛ばした。
屋敷は静かだった。
それも当然、ここはもう現実ではない。この世界に人間は存在できない。
屋敷の扉がゆっくりと開いた。
「あ――」
言葉が出なかった。目の前にいる者が、信じられなかった。
「あぁ、お帰りなさい。早紀ちゃん」
「姉様……」
夜風に翻る濃紺のセーラー服。
微笑む針生奈々。その両脇には――
「早紀ちゃんがあまり遅いから、夕飯食べちゃってたの」
巨大な触手に喰らいつかれた彼女の両親の骸があった。
「ほら、私って料理できないからこのままガブッとだけど……あ、早紀ちゃんも食べる?」
触手が死体を早紀の前に放り投げる。
半分になっていた針生憲介の顔がこちらを恨めしそうに見ていた。絶命後間もない身体は既に硬直し始めていた。
唇から上がない妻はだらりと舌を垂らし、丸見えの喉奥からごぼごぼと血の泡を吹き出していた。
「小父様、小母様……」
早紀には死体など見慣れている。だが、この状況を呑み込めない。
眩暈がする。
「あれ、食べないの?」
奈々が庭まで歩いてくる。二人は死体を挟んで庭の中央で対峙した。
頭痛が酷くなる。
「じゃあ、私がもらうね」
足元から伸びた大量の触手が一斉に死体に群がる。貌のない竜にも見えるそれは、我先にと獲物に噛み付き噛み砕く。
返り血がその全身を染めても、目の前の少女はうっとりとその様子を眺めていた。
「姉様、どうして……」
意識が遠のく。
「うん? だって、これ美味しそうだったんだもん」
そうじゃない。そういうことが訊きたいんじゃない。
これではまるで――
「や……こんなの嫌だよ、姉様……」
触手を下がらせ、姉は妹を見つめた。その瞳が早紀を貫いた。
赤い瞳が濁るように紫に変わったとき、屋敷は外界から完全に隔絶された。
周囲の景色はそのままに月と星が消え、足元には泥のような闇が拡がる。
「そうだよ。私もね、早紀ちゃんと同じになったの。だから今なら早紀ちゃんの気持ちがわかる」
少女の身体が影に崩れる。
「こんなに愉しいんだもの。私のことなんて、どうでもよくなるよね」
瑞々しい肉体を侵食した影が鱗となって身体を覆う。
「でもいいの。私は別に怒ってないから」
誘うように伸ばされた細腕が醜悪で巨大な竜の頭へと変化している。
「逆に嬉しいのよ。これでまた早紀ちゃんは私を見てくれるでしょう?」
叩きつけられるのは質量さえ持った影。
そこに月食の名を持つ異形がいた。
「だから……」
アレは、なんだ。
アレは、姉だ。
アレは、奈々だ。
アレは、アレは、アレは――
「ほら、あそぼう早紀ちゃん」
アレは、紛う事なきエクリプスだ。
しかも今まで出会ったこともないほど強力なエクリプス。
なら、早紀はアレを殺さなくてはならない。
「違う、ちがうの……っ!」
今の自分の存在意義は、即ちエクリプスを殺すこと。
それはすべて彼女が愛する……
「ちが、う……そうじゃない、私は、ただ――」
ただ?
「……あれ?」
誰のために?
何のために?
どうしたいんだっけ?
――喪った。
自然のうちに身体を一歩と半分だけ後ろに下げる。
恐怖による後退ではない。
自身にとって最適な距離を保つための攻勢だ。
エクリプスは殺す。
だからこのエクリプスも殺す。
――影魔の彼女を人間たらしめていた最後の約束さえ彼女はついに忘却した。
「あぁ……そうだった」
成すべきことはエクリプスを殺すこと。
姉様のためにエクリプスは殺さなければならない。
そして、この姉様はエクリプスだ。
「――姉様のためだ。このエクリプスも殺さなきゃ」
ならば。
例え姉様でも、姉様のためなら、姉様だって殺していい!
「ふ――」
ガソリン代わりの血流をエンジンとなる心臓へ。
――殺せ!
影でその身を覆い、両の眼を血色に染め。
――斬り、裂き、殺せ!
鎧を纏い、剣を手に。
――エクリプスを、殺せ殺せ殺せ!
欲望に任せて、矢桐早紀は真の影魔となった。
「アアァァァアアーッ!」
恐怖を飛び越し、歓喜と狂喜でアクセルを踏み抜き疾走する。
対する奈々は少しだけ目を細めた。
そこに感情はない。少なくとも早紀には読み取れなかった。
つい、と右手を振ると二本の触手が砲弾もかくや、というスピードで早紀に襲い掛かった。
「!」
確かに速い。だが早紀にとってはかわせない速度ではない。
剣線一閃、まったく同時に襲いかかってきた触手は、それ故にまったく同時に斬り捨てられた。
敵は無防備。早紀は剣を再度振りかぶる。
あと五歩でその切っ先が敵に届く――
「っ!?」
目論見は突如足元がら現れた第三の触手によって失敗に終わる。
感覚のみでブレーキをかけたことで命拾いした。
思わず後方に跳ぶが、それは当然のように追撃してくる。
崩れた体勢でその鎌首を斬り飛ばす。左手で肩の投擲刃を手にして本体の影魔を狙うが。
「!!」
さらにもう一匹が直接頭を狙ってきた。首を捻って寸前で避けるも。
「あっ!?」
彼女の長い髪がその顎に絡まった。早紀は地面に引き摺られる。
「邪魔、だっ!」
鬱陶しい。なんでこんなになるまで伸ばしてしまったのか。
早紀は左手の投擲刃で、姉とお揃いにしてきた長髪を、何の躊躇いもなく切り落とした。
ハラハラと舞う髪を払いのけ、自由になった早紀は態勢を立て直す。
「ちっ……!」
触手はすべて退けるも、早紀は振り出しに戻された。
「――」
「――」
今の激突が嘘のように互いが止まる。
沸騰したように滾る全身を抑えながら早紀は状況を分析する。
今の攻防でわかったことは二つ。
あの敵は、単純な攻撃だけみれば早紀よりも遥かに格上である。触手の突撃でさえ直撃すれば無事では済まない。
しかしもう一つ、敵はその触手を完全に操りきれていない。出来るのならば初撃も追撃もさらに多い数を繰り出したはずだ。そして隙を見せた早紀を前にこんな思考の時間を与えるはずがない。
あの敵は戦い慣れていない。他にも武器はあるのかもしれないが、あの様子では使いこなせまい。
両者の間に横たわる影魔としてのスペック差は歴然、だがその経験差もまた絶対だ。
なら勝てる。矢桐早紀はあの敵にも勝てる。
いや、早紀が勝てるのは今しかない……!
「!」
早紀は再度走る。
迎撃のために再び二本の触腕が現れる。
だが早紀は敵へと直接向かわない。大きく弧を描くように廻り、屋敷を目指す。
襲い来る触手の一つを斬り飛ばして屋敷の壁面へと跳ぶ。
「……!?」
敵もこちらの狙いを看破するが、遅い。
早紀は石の壁面を蹴り大きく跳躍する。手の剣を投げつけもう一匹の触手を始末したときには、すでに敵の頭上を飛び越えていた。
「これで!」
完全に狙い通り。着地は敵の真後ろ、約一メートル。同時に足元からもう一本の剣を引きずり出す。
二人の距離は既に剣の間合い。今から新たな触手を呼び出しても、早紀が首を刎ねる方が遥かに早い。そも、敵はまだ振り返りさえしていない。
お終いだ。
早紀の剣は敵の首を速やかに切断するだろう。
今更振り返ったところで間に合わない。
殺す者と殺されるモノの視線が交錯する。
その時、早紀は改めて――いや、初めて自分が剣を向けた相手の貌を凝視した。
それは、紛れも無く。
「ねぇ、さま?」
瞳を潤ませた、彼女の愛しい姉だった。
「!!」
剣を振り切る直前で早紀は自分を取り戻した。
「やめろぉぉぉぉぉぉぉっ!!」
奈々の首の皮に微かな血の筋をつくり、剣は止まった。
「はぁ、はぁ、はぁっ……ハ」
自分は何をしていたのか。
何故姉に剣を振り下ろそうとしたのか。
自分のしたことの恐ろしさに身体中がガタガタと震えだす。
剣を取り落とし、彼女は救いを求めるように姉を見た。
「ね、ねえさ――」
幸運であるはずのそれは、この場においては最悪でしかなかったが。
「早紀ちゃん」
次の瞬間、早紀は骨が砕ける音と内臓が破裂する音を同時に聞きながら宙を舞っていた。
「げっ……ぁ?」
屋敷の壁に背中から叩きつけられる。肺も潰れたのか、大量の血が口から吐き出された。
壁にめり込んだ身体を引きずり出すのが限界だった。
地面に倒れ臥したときには既にエクリプスとしての姿も失っていた。
こちらに近づいてくる奈々の姿が見える。歪なまでに巨大化した右腕の龍を見て、あれで殴られたのだと理解した。
「どうして?」
身体ほどもあった龍腕が元の大きさに、そして小さな五指を取り戻す。
「どうして、今殺さなかったの?」
細い指が早紀の喉に食い込み、軽々とその身体を持ち上げる。
「がっ……?」
息が詰まる。
ボロボロの身体に呼吸さえ閉ざされ、早紀の意識を死の重力が引き摺り落とす。
「私、ね……やだよ、こんなの」
それでも姉の声はしっかりと耳に届く。
そう、それは彼女の知る針生奈々の声だった。
赤く濁った視界の中で、奈々が泣いている。
「がんばってみたけど、もう無理かな……だんだん、おかしくなってくるのがわかる」
それで気づいた。
先の緩い攻撃は経験不足によるものだけではなかった。影に呑まれた針生奈々の意識がそれをやめさせようと必死で足掻いていた結果なのだ。
影魔がその欲望を押さえ込むのがどれほど困難か、それは早紀がよくわかる。
奈々の正の意識が残っていたことが奇跡なら、負の意識を抑えつけた奈々こそが奇跡、そして針生奈々として言葉を話していることもまた、奇跡に他ならない。
「お父様もお母様も殺しちゃって、早紀ちゃんもこんなにして……こんなのが私なんて思いたくない……」
なのに。
「でも……これも、私が望んだことなのだし……だから、早紀ちゃんを殺す前に」
早紀にはその奇跡に応えるだけの力は、ない。
「私を守るって言ってくれた早紀ちゃんに、殺してほしかったな」
奈々は精一杯微笑んだ。
それが、彼女の愛した針生奈々の最期の笑顔だった。
「あ、ああ、ああぁぁあ」
失われていく奈々の表情。
更に力が込められていく指。
「……なさい――」
『姉さまが私を守ってくれるなら、私も姉さまを守る』
そう言ったのは自分だった。
「……んなさい――」
なのに、彼女から笑顔を奪い、魔道に墜としたのも自分だった。
一番身近にいたはずの自分さえ、奈々の気持ちをわかってあげられなかった。
「……めんなさい――」
何処で狂ってしまっていたのか。
どうすればよかったのか。
いや、初めから正しいことなどなかったのか。
「ごめんなさい……姉さま、ねえさま、ごめんなさい、ごめんなさい、ごめんなさい……」
無意味で無価値な謝罪と後悔。
思考は螺旋を成し、意識は失望に塗れて、絶望へと転落していく。
プツリと何かが千切れた音がした。
「あ……ぁ」
それは銀の鎖だった。
姉からもらった大切なチェーンが首から滑り落ちる。
母の形見のロザリオと共に血と泥で汚れた地に落ちた。
それと同じく、早紀の命も――
「――……?」
落ちたのは自分の身体だった。
「だれ……」
怒気を孕んだ姉の声が微かに聞こえる。
ごうごうと唸るような耳鳴りが聴覚を妨げる。
遠くに誰か見える。屋敷の門の前に誰か立っている。
おかしい、ここは既に人間の認識の外の世界のはずなのに。
それは――少女の影だった。
「だれよ……」
姉が遠ざかっていく。
自らの領域に踏みこんだ邪魔者を消去するつもりだ。
(あぁ、ああ……)
止めなきゃ。
止めなければ。
「だれなのよ……!」
叫びたいのに声が出ない。
このままでは、間違いなく。
(逃げて……)
おそらくあっという間に。
慈悲もなく。
(逃げて、早く)
殺される。
殺されるに決まっている。
(だから、逃げて……!)
無理だ。
もう逃げられない。
それでもようやく搾り出した掠れた声で、彼女は。
「姉様、逃げて……!!」
この場における最強であるはずの姉へ、逃げろと絶叫した。
「だれなのよ、オマエ――!」
その声も届かなかった。
奈々が大量の触手を呼び出す。
それらが少女へと牙を向く。
奈々も気づいたはずだ。
あの少女が彼女の、いや彼女たちの『天敵』であることに。
だからこそ全力をもって排除にかかったのだ。
少女が動く。
小さな手に輝く白銀のロザリオ。
艶やかな唇が紡ぐ破邪の聖句。
――聖なる光よ――
半ば聴覚を失った早紀に声は聞こえない。
しかし心と脳髄に、その言葉が反響する。
それは人間を祝福する祝詞であり、邪悪を断罪する宣告である。
「あ――」
知っている。
この言葉を早紀は確かに聞いたことがある。
――わたしに、希望の翼を――
それは幼い時分、この屋敷に来るより前、彼女にとって一番近しい者が……
瞬間、
闇が消えた。
光に眩んだ眼を開ける――
舞うは翼。
散るは光。
白き姿は百合の如く。
燐光を纏い少女が翔ぶ。
竜の影魔は触手を使役しそれを追う。
だが届かない。
少女の速度と軌道は影魔の攻撃と理解を凌駕している。
切り刻まれていく触手。
膨れ上がる恐怖と焦燥。
影魔は喚く、何故だと。
影魔は叫ぶ、お前は何だと。
応えるように少女は告げた。
守護者としての彼女の名。
母より受け継いだ、誇り貴きその名を。
そう――ここに、天使は光臨した。
展開されていたのは聖画の如き悪夢だった。
黒い天蓋を舞台に繰り広げられる死の曲芸にも似る。
奈々の攻撃は宙を舞う天使に掠りもしない。
それは天を舞う者と地に這う者の決定的な違いでもあった。
いかに自在に触手を呼び出せようとも、それらはすべて地面から発生する。
ならば空中という場に身をおけば不意をつかれることはありえない。
半狂乱の奈々はそこにさえ気づいていない。
敵を叩き落そうと一つでも多くの触手で必死の攻勢を続ける。
天使はそれを避け、ときに裂く。
その技量は斬断のエクリプスたる早紀にも鮮やかに写った。
しかし真に輝くのは、その瞳。
快楽に狂った影魔のものでも、恐怖に怯える人間の眼でもない。
悲壮な信念と決意に満ちた天使の眼。
「……め、ろ……っ」
いつか見た少女は幻覚ではなかった。
感じた不吉さもそのままに彼女たちの前に現れた。
影魔に死を告げるためだけの天使。
ならそれは彼女たちにとって死神に他ならない。
そうだ、あれは天使の姿をした死神だ。
「やめ……て」
潰れた喉からはゴボゴボと血が溢れるばかりで言葉にならない。
奈々は完全に追い詰められている。
天使に一撃も当てることができずに、徒に力を消耗してしまっている。
攻撃の手がとうとう途切れる。
その瞬間を見逃さすことなく、天使が急降下する。
だが奈々も最後の力を振り絞る。
正確なコントロールができない触手を逆に暴走させたのだ。
絶叫とともに触手たちが一斉に滅茶苦茶に暴れだす。
その数、三十。狙いはつけられていない分、その数が脅威となる。
天使の急回避も間に合わず、ついに一つの無貌の竜頭がその輝く羽を掠める。
バランスを失した天使は錐揉みしながら落下する。
しかし早紀にはその姿を追う余裕はなかった。
主の制御から解放された触手が、この場の最も手近な獲物――早紀に殺到していた。
「あ……」
顎の外れた大量の大口を前に早紀は一切の感情を持たなかった。
それらが彼女の身体を引き裂こうとする寸前、白い影が間に入った。
小さな背中には光の翼。プラチナブロンドの長い髪が激しく揺れていた。
その細い肩と両腕に龍の顎が喰らいつく。
天使の羽が痛みを堪えるように戦慄いた。しかし姿と意志は揺るがなかった。
「―――!!!」
天使の叫びに合わせたように視界が白く塗りつぶされた。
それはまるで光輝の爆裂。
次に眼を開けたとき、戦いは既に決着していた。
「ぁ」
向こうに見えるのは、まるで巨大な槍で撃ち抜かれたかように、身体の半分を風穴で奪われた、姉の姿だった。
ぼんやりと虚空を見たままだった顔がゴトリ、と落ちた。
力をなくした両脚がつんのめるように倒れ、やがて消えた。
「ぁ……あ、ぁ」
それとともに早紀の精神も砕けた。
潰れたはずの喉が、血を撒き散らしながら慟哭していた。
そして血染めの視界には、舞い散る光の羽根の中、近づいてくる天使だけが――――
*
*
「嫌ぁぁあぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁっ!!」
早紀さんの悲鳴であたしは我にかえった。
目の前に映っている光景は楯岡錫子の瞳が見ている現実に違いない。
「なら、今のは……」
頭痛と吐き気が止まらない。
今のがそうなのか。あれが、早紀さんが失った記憶なのか。
崩れた両膝を地につけたまま、自分の身体を抱いて早紀さんはガタガタ震えている。その様子が、今の白昼夢が真実であったことの何よりの証であった。
三年前に起きた丘の上の猟奇殺人事件の真実。そして早紀さんが探していたお義姉さんの行方。全ては過去、全ては終わっていたことだった。
しかし、その義姉、針生奈々は目の前にいる。
「おもいだしてくれた? わすれなかった、さきちゃん?」
その声に早紀さんが大きく震える。
「ね、ねぇさん……姉様……」
「ふるえているの?こわいの、さきちゃん」
無邪気な子供の声にも聞こえる。しかしその眼は、決して笑ってなどいない。
一歩踏み出すと、足元から黒い何かが立ち上った。
セーラーが溶けて消える。白い肌を黒い龍のようにそれが駆け上がる。
「ちがうね。かなしいのね、さきちゃん。でもね――」
白い肌に黒い鱗。身体と同じくらい巨大な竜の頭を模した腕。紫色に光る瞳と裂けたように赤い口。
そこに一度は葬られたはずの黒竜の影魔がいた。
「……にげろ」
俯いたまま早紀さんが呟いた。
わかっている。
ここにいたらあたしは殺される。あんなものを前に人間が生きていられるわけがない。
でも何処へ?
もうここに逃げ場などない。
世界が暗転した。教会は一瞬で闇に呑まれ、暗闇の処刑場となった。
早紀さんももう逃げられないとわかっているはずだ。
だから震えを堪えながら彼女は立ち上がったのだ。
「――私はもっと、かなしかった」
その小さな呟きが合図だった。それが恨みなのか、嫉みなのか、怒りなのか、失望なのか、あたしにはわからなかった。
一斉に竜の触手が襲い掛かる。
早紀さんはあたしを突き飛ばし、戦闘が始まった。
長身が一瞬で影に覆われ、早紀さんは騎士となる。
大蛇のようにうねり群がる触手に剣一つで立ち向かう。素人のあたしが見ても戦力差は歴然、防戦一方……いや、幾ら切り裂いても現れる触手を前にしては追い詰められていくだけだ。
わたしはそれを見ているしかな――
「楯岡さん」
不意にかけられた場違いな声。あたしは思わず振り返り、
「ひっ!?」
目の前を掠めたカッターナイフに慄いた。尻餅をついたまま凶器の持ち主を見上げる。
「鍬原、さん…!?」
鍬原彩。うちの学校きっての優等生。その彼女が、どうしてこんな場所に、あんな刃物を持って、なんで?
「やっぱり、あなただったんだ」
「え……?」
「あなたがあの女を連れてきた」
話が見えない。何のことだ。あの女――早紀さんのことか?
「いったい、どうし」
「やっぱり殺すわ、あなた」
会話が成立しない。
あたしは手足をめちゃくちゃに動かして彼女から逃れる。
「じ、冗談……っ!?」
何でいきなり彼女に殺されなければならないのか。だいたい今はこんなことしていられる状況じゃないのに!
「待って、落ち着いて鍬原さん!」
「私は冷静よ」
見ればわかる。彼女は冷静だ。狂おしいほど冷静だ。
それがおかしい。彼女はこの状況に巻き込まれたわけではないのか。
「ナナのことなら心配いらない。彼女が勝つもの。それに――」
眼鏡の奥の瞳がほんの少しだけ揺れた。
「どうせ、私たちのことは見ていないのだから」
再びカッターが振り上げられる。あたしももう自棄だ。逆に彼女に抱きついて押し倒す。
「こんな時になんのつもりなの!話は後で聞くから今は」
「その必要はないわ。私は望んでここにいるのだから」
それは彼女があのエクリプス――針生奈々と関係があるということなのか。まさかアレをここに連れてきたのは彼女……?
「ここにいれば、あなたはナナに殺される」
「は……え?」
「そしてナナは、きっとあなたを食べる」
「……た、べる?」
食べる? あたしを?
そうか、さっきの過去の残像でも針生奈々は人間を食べていた。あたしが見たエクリプスもそうだった。つまり……
「でもダメ。いくらナナのおなかが減っていても、あなたみたいなのを食べさせるわけにはいかない」
まるでペットに餌を与える飼い主のようだった。
それがどういう意味をもつのか、ある結論に至ってあたしは寒気を感じた。
「あなた、まさかあのエクリプスに人を襲わせて……」
「エクリプス……ナナのこと?」
彼女は少し逡巡してから答えた。
「うん、何かおかしい?」
「何か……って」
言葉が続かない。彼女は否定しなかった。これはむしろ、肯定だ。
「人間、を」
「えぇ、だってナナは人間しか食べないもの」
当然のように言った。
そこに隙ができたのか、押さえ方が不十分だったのか、彼女のカッターがあたしの左手を薄く切っていた。
「痛っ……!」
思わず飛び退いてしまった。自由になった鍬原さんはゆっくりと立ち上がって制服の汚れをはたいた。
「どうして驚くの? 人間だって動物を食べるわ――」
そして本当にわからない、と首を傾げて。
「――なのに、彼女が人間を食べてはいけないの?」
その素朴さに震えがこみ上げた。
凶器を手にして鍬原彩が迫る。
それは早紀さんの持つ剣に比べれば玩具みたいなもの。あんなもので人は簡単には殺せない。
でも、彼女は違う。カッターで人は殺せなくても、鍬原彩は当たり前のように人を殺せる。
「鍬原さん……」
彼女は狂っているのか?
きっと違う。
彼女にとってはそれが当然。それが常識。
初めから狂っているのなら、それは正常と変わりない。
「でもあなたは例外。あなたにそんな贅沢は許さない。楯岡錫子はわたしにみっともなく殺されて」
やはり理由がわからない。わかるくらいならこんなことにもならない。
確実なのは何もしなければ、あたしは彼女に殺されるということ。
狂気を眼に宿して鍬原彩が迫る。
逃げられない。
逃げ場もない。
この状況で早紀さんに助けを求めることもできない。
でも、だからって。
「誰、が……っ」
震える唇を血が出るまで噛み締める。
無造作に突き出されるナイフ。
刃があたしに刺さる寸前で、あたしの手がその手首を捉えた。
「そうですかって、言うか!」
震える声に怒気を込める。
この人の相手はあたしだ。
鍬原彩があたしを殺そうとするなら、楯岡錫子はそれに全力で抵抗するしかない。
もう簡単に逃げたりしない――あたしは早紀さんにそう言ったんだ。
「……!」
鍬原さんが眼を細める。空いていた左手があたしの顔目掛けて飛んできた。
「この……!」
元々腕力はないのだろう。痛いけれど十分堪えられる。今彼女の右手を離すわけにはいかない。
「驚いた。強いのね、あなた」
次の瞬間、彼女の手はあたしの顔ではなく首を掴んでいた。
「は、っ!?」
変な息が漏れる。
「でもわたしは殺したいの。いいわよね?」
大丈夫、耐えられる。
大丈夫、これくらいなら眼球の毛細血管が切れるくらい。
苦しくない、苦しくない、くるしくない!
今彼女の右手を離したら今度はカッターがここに突き立てられる。それに比べたら、こんなの全く苦しくないはずだ。
あたしは必死に空いた手で首を絞める手に抵抗する。
「………っ!」
キーン、という耳鳴り。
「わたしね、あなたが嫌いなわけじゃないのよ」
音がよく聞こえない。
「ただ、仕返しがしたいだけ。だから……」
鍬原さんが左手により力を込めるのがわかった。これじゃ、まずい。
そうだ、あし。あしで、ければ。ければ。
「きゃっ!」
首が楽になると同時に、鍬原さんの悲鳴が聞こえた。
彼女にもの凄い勢いで何かがぶつかってきたためだ。彼女は大きく跳ね飛ばされて地面に転がっていた。
「さ、早紀さん!」
それは早紀さんだった。鎧もボロボロで身体のいたるところから血が流れていた。
やはり彼女ではあのエクリプスに勝てない……!
「す、錫子……いけない」
起こそうとしたあたしを早紀さんは突き飛ばす。震える脚で立ち上がり剣を構える視線の先、そこに大口をあけた竜の顎門があった。
「あ、ぁぁ……!」
両腕の竜が溶け合い、一つの巨大な口となっていたのだ。
その中にチカ、と闇が光るのをあたしは確かに見た。
それは、先ほどの首の痛みも苦しみも忘れてしまうほどの、圧倒的な……
「伏せろぉっ!」
早紀さんの怒号。
黒い炎――自然界にはありえない色の暴力が、早紀さんとあたしを呑み込んだ。
まるで壁に叩きつけられるような風圧と煉獄で焼かれるかの如き熱量。
あたしの前に立つ早紀さんは剣を盾に必死に抵抗する。
だが拮抗さえ許されない。
剣は一瞬で蒸発し、あたしたちもまた――
吹き飛ばされて地面に転がった視界の隅で、楯岡さんとあの女がナナの放った炎で焼かれるのを見た。炎が消えたとき、そこにはまるで炭みたいな塊があっただけだった。
――もう少しでわたし自身が彼女を殺せるはずだったのに。
戦いの終わりを告げるように、空間がもとの教会に戻る。ナナはその場から動こうとせず、ただじっとその塊を見ていた。
「ナ……」
声をかけようとした時に、変化は起こった。塊から突然紅い羽が生えたのだ。
生きていた――そう気づいたときには、あの女はナナとは反対の方向へと教会の壁をぶち抜いて跳び去ってしまった。
その腕に楯岡錫子を抱えたまま。
「あ……」
終わった、と思う。
なんだか何もかも。
濃紺のセーラーが翻る。ナナはわたしを一瞥することさえなく、その穴へと歩む。
わたしを置いて。
わたしを残して。
「待って……」
わかりきった結果。未練などない。
ないはずなのに、涙が止まらない。
「待って、ナナ!」
言葉は届かない。
だからわたしは動いた。
すがるように追いついて、彼女の前に立ちはだかる。
ナナの瞳が不機嫌そうに細められた。
あぁ……怒らせてしまった。ごめんねナナ。でも、わたしは――わたしは、やっぱりあなたがいないと駄目になってしまったんだ。
少し前に図書館で騒いでいた男女がいた。あの時はどうでもいい耳障りな会話だった。
でも今なら、彼らの気持ちが少しだけわかる気がする。
恋が人間を狂わせるんじゃない。
狂って、他の全てがどうでもよくなってしまって、それでも一緒にいたいと思うことが恋なんだ。
千の言葉を紡ごうが万の行動を示そうが、きっとわたしの気持ちは誰にも理解してもらえない。ここにきて、わたしはとうとう狂ってしまったのだから。
でも、一緒にいたい。
地球が太陽に呑まれても、彼女が灰に還るその瞬間まで、わたしはナナと一緒にいたい。
そのためには、その方法は。
「ねぇ、ナナ。お腹空かない?」
彼女は食事の時いつも嬉しそうだった。そんなナナを見るのが、わたしの一番の楽しみだった。
だから、彼女が笑顔でいられるように、わたしもいつものように笑った。
「あんなに動いたんだもの、疲れたでしょう? お腹も空いて当然だわ。だから――」
そうして、わたしは。
「ほら、ここに夕食があるわ」
自分の胸を指した。
ナナは表情を変えなかった。
黒い瞳が赤く染まって揺れていた。
「おねがい……」
シン、とした教会に、わたしの震えた声が響いた。
ナナはこたえてくれない。
私の息遣いだけが唯一の物音だった。
唐突にカツンという音。
それは彼女が一歩を踏み出した音だった。
その瞬間、わたしの身体はすさまじい力で彼女のもとへと引っ張られていた。
腕に噛み付いたのは彼女の触手だった。焼けるような痛みの後、ずっと憬れていた彼女の身体の感触がそこにあった。
「え……」
わたしよりずっと華奢な身体で、ナナはわたしを抱いてくれたのだ。
「 」
彼女の唇が動いた。
それは、ナナがわたしのためだけにかけてくれた初めての言葉。
そして――わたしの身体はナナから強引に引き離された。
『未練がないと言えば嘘になる。
だが恐れはなく、ましてや後悔もない。
どんな結末であれ、わたしが望んだ結果だから。』
あまりの勢いに眼鏡がはずれて転がった。
触手が首に噛み付き、枯れ枝を折るように簡単にへし折った。
真っ赤になった視界が次々と群がる触手の牙を映し出す。
地面に引き倒された身体が喰いちぎられていく。
腕が、脚が、あ、今おっぱいが持っていかれた。
これは、痛いなんてものじゃなかった。
今や、脳と身体は文字通り首の皮一枚で繋がっている。
感覚を伝える神経は死んでいるはずなのにこれだけ感じる。
『たった一人で、立ち尽くしていた血まみれの少女――
彼女と出逢えたことは、わたしの人生で最大の幸福なのだから。』
それが、たまらなく、嬉しかった。
今ナナはわたしだけを見てくれている。
これでわたしはナナの一部になっていく。
この痛みはその証拠、何よりも確かな約束。
でも残念、それももうお終いらしい。
もう眼球は何も映さない。さっき食べられてしまったのだから当然だ。
そしてこの脳も、もう、そろそろ――
でも。
ナナ、は。
ど して、あ な、 とを言っ う。
彼女が、 こと、なんて、ない に。
わたしは、嬉し だけ に。
ぁ
ナナ、ずっと。愛してる ――。
『そう、何のことはない。
これは、わたしの初恋だったのだ。』
触手の群れはいつものように食事を終え、影の中へと戻っていく。
そこにあった人間の死体は赤いシミだけとなった。その色さえも絨毯の色と混じり判別さえつかなくなった。そこには初めから肉体などなかったかのように。
それは彼女の普段の『食事』と何ら変わらなかった。
彼女は無言で教会を後にする。足元で何かがパキン、と音を立てても関わりのないことだった。
月明かりの下へ去っていく少女。
伽藍洞の朽ちた聖堂には、踏み砕かれた眼鏡だけが残っていた。
「はぁ、あっ――」
抱きかかえた少女を地に降ろして早紀はがくり、と膝をついた。
教会からどうにか脱出し、この場所まで全速力で駆け抜けたのだ。
「それにしても」
彼女は自身の業の深さを思った。
早紀が逃げ込んだのは丘の上の廃洋館、幽霊屋敷の噂さえ立っている針生邸だった。
奈々は必ず追ってくる。決着をつけるのならここしかないと思った。
しかし、彼女を連れてくる必要はどこにもなかったはずだ。
「ごめんね、錫子」
強烈な熱波を浴びて昏倒した少女を、彼女はもう一度持ち上げる。
今からここは再度戦場となる。それなのにわざわざ彼女をここに運んでしまった。
ここまで巻き込んでしまった責任もある。どこかで放り出すことは危険にも思えた。
でも本当は――
「私は、あなたに甘えたいだけだったのかもしれない」
奈々から送りつけられた思念波によって錫子もすべてを見ていたはずだ。
姉のためと言いながら己の欲望に負け、あげく彼女を追い詰めた愚かな過去。
それさえ忘れ、無為な三年間を過ごしてきた滑稽な道化。
昨日、楯岡錫子はそんな自分を好きだと言ってくれた。
だからそれを知ってなお、彼女なら私を赦してくれる――そんな期待があったのだ。
「だけど、それもおしまい……」
ドアノブごと鍵を壊し、屋敷の中に入って錫子を寝かせる。埃まみれの玄関は二夜を過ごした教会より酷かったが、我慢してもらうしかない。
「ん……ぅぅ……」
苦しそうに呻く少女の意識はまだ戻らない。
それでよかった。今眼を開けられては、半分が焼けて崩れた早紀の顔を見てまた失神させてしまうだろうから。
顔だけではない。鎧は原形を留めないほど融解し、腕に至っては殆ど炭化していた。ここまで錫子を運んでこれたことは幸運か、もしくはただの執念だったのか。
「ごめんね、錫子。やっぱりあなたの傍にはいれない」
相打つにしろ生き残るにしろ、早紀はもうこの少女の顔を見ることはない。
そう決めた。この少女は、やはり影魔とは無関係に生きていくべきなのだと。
「でも嬉しかったのよ?これは、本当……」
そのためには、あの影魔を倒さなければならない。
針生奈々の亡霊を、この手で――
「姉様を、私が」
本当にできるのか?
生きているはずだと捜し求め、生きていてほしいと願っていた姉に剣を振り下ろせるのか?
「……来た」
気配を感じて早紀はゆっくりと腰を上げる。
「錫子、あなたの物語――」
言いかけてやめた。
それを眠っている彼女に言うのは卑怯に思えた。
そして今の自分には、その続きを言う資格もないはずだ。
脚を引き摺り、掠れた息使いで、迷いを断ち切れないまま。
早紀は黙って最後の戦場への扉を開けた。
エクリプスとしての再生能力が徐々に身体を復元していく。しかし素体である早紀自身の再生が限界だった。鎧は朽ちたまま、全ての再生は諦めて失った剣だけをどうにか作り出す。
生命力を削る矛盾した再生が、矢桐早紀の意識吹き飛ばし影魔を表面化させていく。
もう一度大きく息を吸い込んで見据えた先には、すでに姉の姿をした悪魔がいた。
早紀は屋敷を隔離するように庭だけを自分の影に取り込んだ。
「姉様」
それ以上かける言葉はない。
言葉をかけてしまえば、迷いが膨らむばかり。今度ばかりは己の影魔に従い、ただの獲物として目の前の敵を狩る。
合図などない。早紀が動いた。
「ファランクス!」
自らの触手を呼び出す。槍の名を付けた斬殺器官がエクリプスへの変化を終えていない奈々へと一斉に突っ込む。
「あは」
影に呑まれながら奈々は笑った。
「また、あそぶんだね」
矛先が届くより、奈々の対応の方が早かった。数多の触手がその行く手を遮る。
竜の牙は槍に貫かれながらそれらを食らっていく。
「ちっ……!」
絡み合う触手の間を縫うように早紀は再び駆ける。だか触手の動きは的確だった。彼女の進行方向を常に遮り、休む間を与えず攻撃を仕掛ける。
三年前とは違う。あの影魔は狩りを重ねて、戦い方を知ってしまった。
唯一のアドバンテージであった経験の差はないに等しい。
「わかって、いたんだ」
姉への距離は縮まらない。
せめて間合いに、せめて一太刀を。
「わかっていたのに……!」
完全に脚は止められ包囲される。
全方向からの一斉攻撃に剣と四肢を限界まで使って対応するしかない。
「は、ぁ、ぁっ――」
終わりが近い。
殺せ、という影魔の声さえ聞こえなくなった。
意識が沈む。
身体が静む。
苦し紛れに振るった剣が竜の顎に捉えられる。
「っ、っく!」
牙が刃を噛み砕いた。
柄から離した右手にも触手は食らいついた。
結果は見えていた。
奈々の前に立った時点で既に限界だった。
最初の一撃が届かなかった以上勝機もなかった。
残された可能性があるとすれば。
(あの、天使みたいに……)
空を翔ぶしかない。
だが彼女の羽は比翼、羽ばたくことはかなわない骨の翼だ。
いや、そもそも。
矢桐早紀が針生奈々を殺すことなど、できるわけがなかった。
「やっぱり、無理だよ……姉様」
その言葉を口にした瞬間、彼女の剣は折れた。
右手に続いて左手が、そして両脚を牙で穿たれて早紀は悲鳴を上げた。
そのまま宙に持ち上げられた身体に、触手が一斉に襲い掛かった。
生きながらの鳥葬にも似ていた。あるいは魔女の処刑か。
竜頭がエクリプスの鎧を剥ぎ取っていく。片翼も途中から手折られ、触手たちによって咀嚼されていた。
「あ、が、あぁああ、ぁあぁぁぁぁーっ!?」
細胞レベルで同化しているエクリプスの鎧を引き剥がされるのは生皮を剥がれるようなものだった。絶叫する獲物を意に介することもなく、やがて悲鳴が途切れても触手の陵辱は続いた。
「ごめんね、いたかったね、さきちゃん」
鎧はおろか、黒いインナーまで引き剥がされ無惨な姿を晒した早紀に、姉は微笑みながら擦り寄った。
「いたいよね、いたいよね、さきちゃん」
「ねえ、さ……」
むき出しになった臍をちろ、と奈々が舌で舐めて触れた。
「わたしがわるいのかな? それとも、さきちゃん?」
「ね、ぇ……」
意識が判然としない。まるで夢の中にいるよう。
でも夢にまで見た姉はすぐそこにいるはず。
手を伸ばせば届くはず。
なのに牙の楔で穿たれた彼女の腕は動かない。
「でもね、わたしはね」
「……ね……」
全て徒労だった。
早紀が捜し求めていた姉も、取り戻したかった日々も。
ぞぶ、という不快な音が身体中に響いた。
一本の触手が守るものを失った身体を食い破ったのが見えた。
視界が暗く潰されていく。
心臓は鼓動するのをやめていた。
「でも、私はね――」
あとはただ、姉の囁くような声だけが。
すごく静かで、目を覚ました。
眼に映ったのは高い天井と大きなシャンデリア。
「あれ……えっと……」
生きている。
あの教会で、あたしは炎に焼かれたはずではなかったのか。
しかし静かだ。
「早紀さん?」
ならその理由は一つしかない。早紀さんがまたあたしを助け、ここまで運んでくれたのだろう。
でも、その早紀さんがいない。
それにしても静かだ。
「早紀、さん?」
絞められた首が痛む。でも今はそんなことどうでもいい。
とにかく静かだ。
「さき……さん」
わかっている。早紀さんはこの建物の中にはいない。
だから静かなんだ。
「……」
入り口の扉は壊れていた。外には簡単に出ることができた。
目の前に広がっていたのは広い庭。街を一望できる景色はここが小高い丘のような場所であることを示していた。振り仰げば古い洋館が星もない夜空にそびえていた。
それであたしはここが何処なのかようやくわかった。
でも、やっぱり静かだった。
そして。
「あ――」
あたしの眼は、ようやくソレを見つけた。
パッと見てもよくわからなかった。
流行らない美術館の意味不明なオブジェのようでもあった。
そのオブジェが人であることに気づくと、あたしの眼球はそれから離れなくなった。
手足に牙を突き立てられ、空中で大の字に拘束され、腹は太い触手によって突き破られていた。
微かに開いた口からはタラタラと赤いものが流れ続けている。
虚空にさえ焦点が合っていない瞳はもう景色を映してはいないだろう。
腹から流れる血を触手たちは群がって舐めていた。
辺りに散らばる金属状の欠片。
無造作に転がった折れた剣。
答えは明白だった。
何より、生きているはずがなかった。
あたしはまったく知らない声で叫んでいた。
|