ナイトエンジェルVSデスパイア
序章
(……一体、どうしたものでしょう……) メイは困惑していた。黒髪を繕いながら、はぁっと嘆息をつく。大人びて理知的な美貌に相応しからぬ、まるで子供のように無垢な仕草だった。 だが彼女の周囲は、そんな印象とはまるでかけ離れた状況に陥っていた。 地獄――美女の周囲を取り巻く状況は、そう呼ぶ他になかった。 壁と床は血の赤に染まり、獣匂と性臭の混じりあったおぞましい空気が渦巻いている。部屋の全てに、濃厚な死と絶望が澱となって染み付いていた。 そこは、エンジェルとデスパイアの戦場跡だった。 時間は数刻ほど遡る。 人間界に潜む魔物を滅ぼすのは、魔法界の天使の使命だ。潜伏するデスパイアを追い、メイはこの地に降り立った。 「朝倉」の看板のかかった、何の変哲もない家だった。父母と一人の息子が暮らす、平和そのものの家庭だ。だが彼女が一歩を踏み込んだとき、すでにそこは地獄と化していた。 この家の主婦だろう。まだ若い女が一人、腹を破られて死んでいた。穴と言う穴は無惨に拡張され、血と混じりあった白濁が全身を汚している。その惨態から、デスパイアに弄ばれた後に殺されたことは明白だった。魔物による壮絶な陵辱は、女性にとってこれ以上ないほどの地獄だっただろう。その美貌は、死してなお絶望の表情をこびりつけていた。 女の死体に寄り添うように、一人の男性が転がっていた。否、男性だったものと言うべきか。一家の主だった肉塊だ。恐らくは妻を守ろうとしたのだろう、へし折られた腕は未だにゴルフクラブを握っていた。首から上は、そこから数メートルも離れた場所に転がっている。 (……酷い、ですね) こんな光景など、もう数え切れないほど見てきた。それでも、やはり慙愧に耐えない。 メイはぎゅっと唇を噛み締め苦悩した。自分がもう少し早く来ていれば、二人の命を救えたかもしれないのだ。そう考えると、心臓がキリキリと締め上げられる。やるせない感情は、凶行の主を屠っても晴れることはなかった。 部屋の隅には、原形を止めない肉塊が倒れている。ズタズタにされた触手に、魔法で黒焦げにされた腸、そして真っ二つに断たれた怪物の頭骨。天使によって速やかな断罪の刃を下ろされた、デスパイアの成れの果てだった。 メイは、怪物を狩る使命を追う正義のヒロイン――エンジェルだ。絶望の魔物から人々を守る、それが彼女に与えられた任務。だが、敵は邪悪にして狡猾なデスパイアだ。必ずしも正義が勝利できるとは限らない。 現実は残酷だ。アニメや漫画のような都合のいい夢物語とは違う。エンジェルは万能のヒーローではないし、奇跡の救世主でもない。こうして、惨たらしい犠牲者を出してしまうことも多々あった。 そして、それが更なる傷跡の呼び水となってしまうことも。 「ひっく、ひっく……。ママ、パパ……ぁ」 部屋の中に響く悲痛な声。それこそが、メイを悩ませている原因だった。 涙の主は、十に届くかどうかの幼い少年だ。彼の名は朝倉祐樹。惨劇のただ唯一の生き残りだった。 「ママぁ、パパあぁ……」 両親――いや、両親だったモノを見つめる祐樹の瞳は、半ば光を失いかけていた。発狂していないのは、恐らく彼が幼すぎるゆえだろう。現実を受け止めきれていないのか、それとも幼さゆえの適応力で耐え忍げたのか。なんとか壊れずに正気を保てている。それは、小さな奇跡と言ってもよかった。だが。 (不幸中の幸い……いえ。これを、幸せなんて呼んで言いはずがないですね……) メイは、やりきれない気持ちで少年を見つめていた。 この幼さで両親を失った――しかも、自身の目の前で、おぞましい怪物に尊厳の全てを奪われて。 彼はこれから、その闇を胸に刻んだまま生きていかなければならないのだ。これ以上残酷なことがあるだろうか? 「うわああん……うっっ、うぅうぅ……」 時間は何も癒さない。啜り泣きは、いつまでも止まない。 (やっぱり……記憶を操作するしかありませんね) 鎮痛な面持ちを浮かべながらも、白衣の天使はその一方で恐ろしく冷静だった。 こんなケースは、今までいくらでもあった。そして、その対処法は決まっている、魔法界によって定められた、マニュアルどおりの「処置」を行うだけ――真性天使としてのメイの頭脳は、恐ろしく無感情な思考を進めていた。 魔法界の使命は絶対だ。私情を挟む余地もないし、そうしようとも思わなかった。 だって、無駄だから。デスパイアを倒し人間を守る、そこに意味などない。 自分は正義の英雄などではないのだ。ただ与えられた任務に盲目的に従う、それだけがエンジェルの存在意義――少なくとも彼女にとっては、それだけがすべてだった。 美しきヒロインの魂は、凍えるほどに虚ろなものだった。 (魔法で作られた記憶で、別人としての人生を歩ませる……か) 記憶操作のための魔力を練りながら、彼女は一人思索した。 (祐樹くん……と言いましたか。このまま死んでいたほうが、この子のためだったのかもしれませんね……) 皮肉でなく、メイはそう思った。 誰かから与えられた、作られた運命に従って生きる。そんな人生に、何の意味があるだろうか? 本当の親に甘えることもできない。本当の理解者もいない。封印された過去から怯えるように逃げ回り、ひとりぽっちで生きていかなければならない。 誰かに敷かれたレールの上を、自分の意思など関係なく歩んでいく――絶望からは救われるかもしれないが、そこには幸福もありえない。 (……わたしと、同じですね……) ふっと。 黒髪の美女は、疲れたように息を吐いた。 ナイトエンジェルである彼女には、使命しかない。 デスパイアとの戦いは恐ろしいものだ。今日は勝てた。だが、常に勝利が約束されているわけではない。もし敗北すれば、そこで倒れている女性のように淫虐の限りを尽くされ、そこで壊れている男性のようにすべてを失うことになる。 ならば、なぜ戦うのか? 簡単だ。それは、そのように命じられたからだ。それ以上の理由など存在しない。 命じられたから戦うだけの毎日――そこに彼女の意志はない。自分自身さえ偽りで、なにも正しいことなどない。 そう。他者から与えられた人生になど、僅かな価値も存在しないのだ。 それがどれだけ哀しく虚しいことなのか、メイは知っていた。 (でも、仕方ないんですよ。恨まないでくださいね……) この少年の未来は、きっと自分と同じ、哀しく虚しいものになる。 だが、仕方ない。 これも任務なのだ。メイはいつもどおり、そう自分に言い聞かせた。 悩むだけ無駄だ。使命に従えばいい。 天使は、無意味な思考に鍵をかけようとした。駒である自分が悩んでも、レールが変わるわけでもない。今までどおり、偽りの安寧にすべてを任せていれば、じきに終わりが来るだろう――絶望も希望もない、終わりが。 「ねぇ……おねえ、ちゃん……」 「!?」 瞬間。語りかけられた声に、メイは驚愕した。 (この子……もう自我を取り戻しているんですか? そんなことって……) 正気が残っているだけでも奇跡的だったのだ。なのに、祐樹はもう自分の意志で言葉を紡いでいた。 驚く美女に、少年は虚ろな口調で語りかける。 「おねえちゃん……てんしなんでしょ? それとも、あくま?」 「え……あ。わ、わたしは……」 返答に窮するメイ。泣き腫らした少年の目は、真っ直ぐにエンジェルを見詰めていた。そこに込められた哀しい意志を感じ、メイは言葉を出せなくなっていた。 「わ、わたしは……その〜……」 エンジェルだ。 だが、メイには言えなかった。無論、真性天使が人間に自分の正体を名乗るなど許されない。だがそれ以前に、彼女は声を出すことができないでいた。 美しいほどに純粋な瞳の前で、自分が天使だなどと言えるはずがない――こんな、虚ろな人形の自分が。 絶望を滅ぼすことは出来ても、希望を与えることなんかできるはずもない自分なんかが。 「いいよ。どっちでもいいや……。だからさ、お願い……」 煩悶する天使に、少年は語りかける。 「おねえちゃん、ボクも殺してよ……。こんなところ、もういたくない。ボク、ママと同じ場所にいきたいよ……」 「――!」 メイは絶句した。 あまりに痛い言葉。年端も行かない子供の語る言葉ではない。 だがだからこそ、それはこの少年の本心に違いなかった。 (この子は、絶望している……!) メイは、一瞬で理解していた。 絶望。 それは自分たちエンジェルが戦い、滅ぼすべきモノだ。 なのに、自分は……。 (わたしは……エンジェルなのに、この子の絶望を消してあげることもできないんですね……) メイは、胸を引き裂かれる思いだった。 この少年は、本能的に理解しているのだ。これから歩む、いや歩まされる人生に僅かの希望もありえないと言うことを。そこには、緩やかな絶望しかないことを。だからこそ、死と言う、絶望も希望もない終わりを望んでいるのだ。 存在意義のない天使と、同じように。 (こんな……こんなに幼くて小さなこの子が、こんなことって……) エンジェルは、小さく身体を震わせていた。心に去来するのは、いつも気付かないように視線を反らしていた、しかしとっくに気付いていた自分の罪。 絶望を滅ぼしている? 人間の希望を守っている? 自分が? そんなの、嘘だ。 メイは、本当はわかっていた。 エンジェルが滅ぼしているのは、デスパイアと言う怪物だけだ。誰も救っていない。誰かを絶望から救えたことなんて、一度たりともない。 (わたしは……。わ、わたしは、本当は……!) この幼い少年の、希望に満ちた明日を奪った。そして今、絶望しかない未来を与えようとしている。子供だましで目の前の絶望を誤魔化して、なんの希望もない未来を強制しようとしている。 自分と同じ――辛すぎるとわかっている道を、歩ませようとしているのだ。 「ね、お願いだよ……おねえちゃん。ボクを、ママのところに送ってよ……」 (この子を殺す……? そうすれば、この子は絶望の明日を進まなくてもよくなります。それに、この子もそれを望んでいます。けれど、けれど……!) 虚しすぎる哀願が、天使の心を締め上げた。 胸が苦しい。メキメキと音を立てて、心の中で何かが軋んでいる。 何がおかしいのかもわからないけれど……それは、絶対におかしい。 「祐樹くん……ごめんなさいです。そ、それは……できませんよ……」 「どうして? だって、ボク……生きてても辛いだけだよ……」 「え、ええ……。生きてても辛いだけ……そう、そうですね……」 苦しげに応えるメイ。搾り出した声は、信じられないくらいに震えていた。 なぜならば、少年の言うことは完全に正しかったからだ。 生きているなど辛いだけだ。それは、先ほどまでメイが考えていたことと同じだった。反論する余地などありえない。 だが―― (本当に、そうです。でも、だったらどうして……) メイはそこではじめて――生まれてはじめて、疑問に思った。 だったら、どうして自分は今生きている? そうしろと命じられたから? ――確かにそれはある。死んでしまっては、デスパイアを倒すと言う使命を果たせない。 だが、本当にそれだけか? だったらどうして、こんなに―― 「だめです……。ママがいないから、キミまで死んじゃうなんて。そんなの、絶対だめですよ……!」 こんなに胸が苦しい……こんなに、この子の事を思ってしまう? (わたし……な、なにを言っているんでしょう。こんな、わたしに……こんな……) メイは、自分で自分の言葉に驚いていた。 自分の中に、こんなに理屈で割り切れない感情があるなんて。 虚ろなはずの戦士の心に、こんな魂が残っていたなんて。 この憐れな少年に、情が移ってしまったのだろうか? それとも、二人の人間を救えなかったから自罰的になっているだけだろうか? らしくもない――自分は使命のことしか考えられないナイトエンジェルのはずだ。 だが、けれど、しかし。 (わたしの生きる意味……わたしは、本当は……本当は……!) 自分の心が制御できない。 何かが壊れそうだ――今まで自分を縛っていた何かが壊れて、溜め込んでいた何かが溢れてきてしまいそうだった。 「あ、あの……あのね、祐樹くん……聞いてください」 気付いたとき、メイはもう、自分で何を言っているのかまるでわからなかった。 だが、その思いは――紛れもなく、彼女自身のものだった。 (わたしは、ただ言われて生きていただけです。そんなのわかってました。でも、わたしはそこから逃げようともしなかった。悪いのはわたし……わたしは、苦しんで生きるのが当然です。でも、この子は違う……!) 愛する母親と、父親と。幼い少年は、必死で幸せになろうとしていたのだ。なのに、その希望は今日、無惨に奪われたのだ。 デスパイアのせいで。そして、無力な自分のせいで。 なのに自分はその責任から目を背け、この子に静かな絶望を押し付けようとしている。 自分は「使命」の名の下に、デスパイア以上に残酷な未来を強制しているのだ。 (そんなの……間違ってます。わたしなんかが言えることじゃありません。でも……それでも……わたしは……!) この子には、自分とは違う道を歩んでもらいたい。 容易ではないかもしれない。不可能かもしれない。それは、いま以上の大いなる絶望を植えつけることになるのかもしれない。 けれど……この純粋な瞳に、本来の光を取り戻してあげたい。 凍てつかせたはずの魂の奥底で、天使の心がらそう叫んでいた。 「祐樹くん、あなたの言うとおりです。世の中は辛いことばかりです。でもお願い……こんな事を言うわたしは、残酷だと思います。けれど……」 あなたには……わたしと同じになって欲しくないんです。 わたしの分まで……幸せになって欲しいんです。 「わたしも頑張ります。辛いけれど、わたしも一緒に生きます。だから、祐樹くんも生きて。絶望なんかに負けないで……自分だけの道を、生きてください……!」 想いを込めて。優しく、厳しく。 ぎゅっと、メイは祐樹を抱きしめた。泣きはらしていた少年の顔を、豊満な胸房が柔らかく包み込む。 「あ……てんしさま……」 まるでうわ言のように、祐樹は呟いた。 愛する父と母を失った哀しみは、いまも胸を絶望で苛んでいる。そして、それは未来永劫消えることはないだろう。けれど、美しい天使が、その絶望を必死で埋めようとしてくれていた。 希望を与えてくれる抱擁の中、胸を打つ暖かさが伝わってくる。 「てんしさまって、柔らかい……。それに、いいにおい……」 夢のような優しさに包まれ、傷跡が愛で癒される。少年は、もう涙を止めていた。 「え……あ、や……。そ、そんなこと、言わないで下さいよ〜……」 思わぬ言葉に、メイは美貌を赤く染める。デスパイアどもに汚され、夥しい返り血に濡れた身体だ。忌まわしくこそそあれ、少年の憧憬を引くようなものではありえない。 けれど、祐樹の言葉は嫌なものではなかった。 (あ……わたし……) はじめてだった。 誰かに、こんな事を言われたのも。 誰かに、こんな想いを抱いたのも。 守ってあげたい――自分の手で。 この子の希望を、もう壊させはしない。 「てんしさま……ボク……」 「祐樹くん……わたしは、天使なんかじゃありませんよ〜……」 いつまでも胸にしがみついたままの少年の頭を撫でながら、メイは優しく語りかけた。 「わたしはメイ……芽衣です。ね、祐樹くん……わたし、キミのママの代わりになっても……いいですか?」 「え……」 二人の空っぽが癒えていく。見上げる少年の瞳にも、抱きしめる美女の瞳にも、もう絶望はなかった。 「うん……芽衣……おねえさん……」 「ふふ……はい。祐樹くん……よろしくです〜……」 メイはその日、はじめて。 自分の生きる意味を、エンジェルの使命の本当の存在意義を。 絶望を滅ぼすのではなく、人々の希望を守るということを知ったのだった。 ※ (祐樹くん……わたしは、絶対に負けません……) その日から――ナイトエンジェルの戦いは変わった。 使命だから戦うのではない。 絶望を滅ぼすためだけに戦うのでもない。 (キミのためにも、わたしのためにも。メイは負けません……勝って、キミと一緒に生きていきます……!) 生きるため、そして生かすため。 希望を守るための、朝倉芽衣の本当の戦いがはじまったのだ――。 |