聖天使ユミエルアナザーストーリー
影魔騎士団編
第一話 ルイン・オーバーチュア 前編

 御座市の空に遠雷が轟く。天空を覆った黒雲から一つ、二つと水滴が落ちたと思うと、天の底が抜けたかと思うほどの豪雨が降り注いだ。
 街の復興作業に携わっていた人々はたちまち手を止め、雨をしのげる所まで散っていく。街の大半が瓦礫と変わってしまったために、軒下に逃げることなどは出来ずそのほとんどは仮設テントの中だ。おそらく中では冷えた身体を温めるために、コーヒーなどを淹れてのんびりとしていることだろう。
 けれど少女にはそんなものは無かった。雨を防ぐ場所も、暖かいコーヒーも。吹きさらしの瓦礫の上に横たわり、ただ凍るような雨に打たれていた。
 十代の前半頃だろうか。壊れそうに華奢な身体に黒のボブカット。細い輪郭の幼顔は人形のような可憐さだ。 しかしその赤い瞳に力は無く、血色もずいぶんと悪い。その身体を包むのは、かつてとても綺麗なワンピースだったモノトーンの布切れのみ。
 露出した肌には無数の擦り傷や切り傷があり、その薄い胸が上下していなければ死んでいると勘違いしてもおかしくない。
 この瀕死の哀れな少女が御座市の大破壊を招いた張本人――オメガエクリプスだと誰が信じるだろうか。
 無慈悲にも雨足は一層強くなり、少女に残された最後の熱を奪おうとする。
――寒い。
 朦朧とした意識の中で言語化できたのはそれだけだった。すでに思考する力も失われている。せめて身を縮めて暖を取りたいが指一本動かすことができない。
 見上げた空は暗く低く、無数の雨粒が落ちてくるのが良く見えた。
――あはは、あたしってば惨めすぎるじゃん。
 柄にも無くそう思った。全てを破壊せんとした自分に天が怒り、こうして惨めな死を与えようとしているのだ。
 瞼が重くなってくる。たぶん次に意識を失う時が自分が死ぬときだ。なんとなく感覚でわかる。生命力はとうに底をつき、ただ残り時間を消費しているだけだ。
――もっとお姉ちゃんのこと……いじめたかったなぁ。
 何が間違っていたのか。どこでこうなってしまったのか。自分は完全に勝利したはずなのに、なぜここで死を待っているのか。
 疑問や後悔ももはや浮かばない。
 ゆっくりと少女は目を閉じた。
「こんな所におられましたか、姫様」
 不意に優しげな男の声がして、少女の身体に降り注ぐ雨がやんだ。何事だろうと目を開けると黒い大きな翼が少女の上に覆いかぶさっていた。
 翼の持ち主は端正な顔立ちをしていた。雪のように白い肌とさらさらとした金色の髪。切れ長の黒い瞳は夏の夜空よりも複雑な陰影を持ち、鋭角に引かれた顎のラインはうっとりするほど崩れが無かった。相反する二つの魅力が合わさり、角度によっては十代の少年にもまた円熟した男のようにも見える。
 一九〇に届こうかという長身を覆うのは、病的なまでに黒でコーディネートされた服だった。
 身体の半分以上はあるだろう細長い足が皮パンツで一層強調されている。斜めに付けたチェーン上のベルトからは無数のシルバーアクセサリーが垂れ下がり、いずれも髑髏や薔薇など退廃的なデザインで統一されていた。
 薄手のシャツにはクリフォトの樹が金糸と銀糸で浮き織りされており、その上に鴉の羽毛で出来たコートを纏っている。
 ゴシック、あるいは悪魔的イメージのヴィジュアル系バンドを髣髴とさせるその出で立ちは、男の絵画的なまでの美貌によって、滑稽どころか幻想的な雰囲気をその場に齎していた。
――こいつ、まさか天使?
 不意に敗北の記憶が蘇る。大きな白と黒の翼を持つ天使に自分は敗れさったのだ。となればこの翼の持ち主もまた天使なのだろうか。
 もしもそうならば自分に止めを刺しに来たに違いない。このまま放っておいても死ぬのに、わざわざ弱ったところを狙うなんて、天使の癖に卑怯なやつだ。
 そんなことを考えている自分がおかしくて少し笑った。
――そっかぁ……地獄行きの天使は黒い翼なんだぁ。もう一人のお姉ちゃんと一緒だ。
 黒翼の天使が影魔の姫に向かって腕を伸ばす。陶器で作られたような白い指は節くれ一つ無くまるでピアニストのようだ。
 その手が少女の首に添えられれば僅かな力で絶命するだろう。心臓を一突きにするのも悪くない。病的に白い肌には鮮血の紅がよく似合う。
 しかし黒翼の天使はそのどちらも選ぶことは無かった。優しく少女の身体を胸に抱きかかえると、その大きな翼で包み込む。
 伝わる人肌の温もりが冷え切った身体に心地よい。だがそれに素直に甘えてしまう影魔姫ではない。
「ちょっと、なに勝手に抱きついてるの? もしかしてロリコン? だったら他を当たったら。お姉ちゃんなんか、けっこういいんじゃない」
 得意の面罵も疲労のせいでいまいち切れが悪い。声も掠れ気味にしか出ず、仕方が無いので全力の殺意を込めて睨み付ける。
 だがそれを正面から受けて男はたじろぐ様子も見せず、悠然と笑みを浮かべていた。
「思っていたよりお元気そうで何よりです。このレイヴンエクリプス、心から安堵いたしました」
 自らを影魔だと名乗ったその男はしかし、態度こそ恭しいものの影魔の姫を前にして所謂服従の様を見せてはいない。余程の人物眼がある者でしかわからないが、嘲弄するかの如き悪意が瞳の奥にぎらついていた。
 もちろんそれを見逃すオメガエクリプスではない。
「ふうん。欲しいんだ、私の力が。元は人間のクセに何を勘違いしているのやら。さっさとその馬鹿みたいな笑顔止めたらどう?」
 射抜くかのように紅眼が細められ、少女の顔が邪悪に歪んだ。くくく、と低く喉で笑いレイヴンの頬にその小さな手を当てる。
「精一杯外見を取り繕っているようだけど、その醜悪な中身は隠し切れてないよ。頑張ってるんだね〜、お兄ちゃん」
 オメガエクリプスがその言葉を口にした瞬間、レイヴンの顔色が明らかに変化した。驚愕、怖れ、怒り。それらの感情が目まぐるしく入れ替わり、やがて元の笑顔に戻る。
 いや、元の、という言い方は正しくない。引き攣った口元を無理やり歪めた表情で、そこから感じ取れるのは明確な敵意のみ。
「下手に出ていれば調子に乗って。今の貴女は人間の子供以下の力しか持っていないのですよ。無様にも天使に敗れた影魔姫オメガエクリプス様」
「んふふ、それで? 殺したかったら殺せば? 別にわたしはあなたの目的なんか知ったことじゃないし〜。ねぇ、嘘つきで自信過剰なレイヴンエクリプスお兄ちゃん」
 両者の間で激しい視殺戦が交わされる。常人ならば本当に殺されてしまうようなそれは五分もの長きに亘って続けられた。
 先に視線をそらしたのは意外なことに影魔姫のほうだった。
「や〜めた。今回は譲ってあげるよ。あなた、結構面白そうだから少しくらいなら付き合ってあげる。どうせたくさんろくでもないこと考えているんでしょ?」
 見た目だけなら可愛らしい上目遣いで魔性の少女が言った。
 黒翼の影魔は渋面になりながらも右手を掲げると指を打ち鳴らした。
 突如、場の空気が歪んだかと思うと一瞬にして風景が入れ替わった。無機質な瓦礫の山は消え去り、代わりに現れたのは脈動する暗緑色の空間。
「へぇ〜、面白い所だね。これ、あなたがデザインしたの?」
 オメガエクリプスが顔を綻ばせたその場所はドーム上の空間だった。高い天井には一個が一平方メートルを超える大きさの眼球が無数に張り付いている。それらがランダムに淡い光を発しそれが照明となっていた。
 壁面にはルネサンス期を髣髴とさせる写実的な油絵がいくつもかけられている。そのモチーフはいずれも殺人であったり、強姦であったり、しかも対象となるのが天使であったりと背徳的なものばかり。しかも眼の錯覚ではなくその絵画群は動いていた。何度も天使の胸にナイフが突き刺さり、あるいは幼いキューピッドが醜悪な獣の抽挿に喘ぐ。
 それは悪魔の展覧会と呼ぶに相応しい。
 床は一面のガラス張りで、その下には闇色をした粘体が餌をねだる鯉のように激しく波打ってはガラスを叩いていた。
 その上で何百数の影魔が少女と青年のほうに頭を垂れて跪いている。彼らの中にはあのアポカリプス4の姿も見えた。
 二人がいる場所は彼らよりも数段以上高い場所で、まるで演劇の舞台のように左右に控えの間があった。
 その中央に蝶の羽を模った玉座が鎮座している。
 そう、ここは紛れも無く謁見の間だった。
「気に入っていただけたのなら幸いです。このゴモラエクリプスは我々影魔騎士団が意匠を凝らして創りました影魔の都。その全ては姫様に捧げられております」
「影魔騎士団? 何それ?」
 耳慣れない単語に魔性の姫君は小首をかしげる。
「実を言いますと、姫様がかの煌翼天使ユミエルに敗れて以降、各地のエクリプス達の中に叛旗を翻したり、好き勝手に行動するものが多々現れております」
 オメガエクリプスの力が弱まったことで、その支配力もまた微弱なものになってしまったのだろう。
 何せ眼前のエクリプスですら服従させられないのだ。
 不甲斐ない己を呪って、かつての破壊神は小さく舌打ちをした。
「ですが、ただ闇雲に戦うだけでは光翼天使、あるいはエンジェルエクリプス、ましてや煌翼天使に勝つなど遠い話。しかも姫様のお力が戻るのはいつかわからない。このままでは我々はただ狩られてしまうだけの存在になってしまう」
 レイヴンの声量が次第に増してドーム全体に響き渡る。右手でオメガエクリプスを掻き抱いたまま、左手を大仰に動かして演劇的な見栄を切った。
「ならばどうすればいいのでしょう? 一対一では勝てない。ならば二対一では? 三対、四対、百対一なら望みがあるのでは? いずれにせよ、一体のエクリプスで出来ることなどたかが知れている。だからこそ我々は団結せねばならない。我々が生きるために、欲望のままに在るために、光翼天使は必ず倒さねばならない」
 それは最早説明ではなかった。演説の形を借りた洗脳というのが最も的確な表現だろう。レイヴンは巧みに抑揚を使い分け、時に感極まり、時に断言し、その身振り手振りで聴衆を己の話の中に引き込んでいた。
「幸いにして影魔姫オメガエクリプス様はこのようにご無事で在られる。我らが主の生還を貴公らは単なる偶然と見るか。それとも運命と見るか。私はこれを運命と見る。いかに天使達が強力でも我々の象徴たる姫様を滅ぼすことは叶わなかった。すなわち終末は未だ終わりを告げず、むしろこれより始まるのだ。大いなる闇に選ばれし影魔の騎士達よ! 終末の刻は来た! 影魔姫オメガエクリプス様の名の下に悪徳の限りを尽くせ!」
 影魔達の咆哮が腐肉のドームを揺るがした。オメガエクリプスへの賛辞、光翼天使達への呪詛、そしてレイヴンエクリプスへの拍手が巻き起こり、その狂騒は一向に静まる気配を見せなかった。
「んふふ、何これ。弱いものが群れて悪の組織ごっこ? しかもわたしを山車に使うなんていい度胸してるじゃない」
「他人を操って事を成すのもこれはこれで面白いものなのですよ。どうです? 彼らが如何にしてユミエルとマリエルの二人を相手取るのか。楽しみになってきたでしょう?」
「そうねぇ、あなた結構好きになれそうかもよ」
 どちらからとも無く昏い笑いが漏れ出し、やがて高笑いへと変化していく。
 邪悪なる破滅の序曲はその第一楽章がゆっくりと奏でられ始めた。

「――――っくちゅん」
 可愛らしい小さなくしゃみを一つして少女――鈴鳴美央は目覚めた。まだ昼間は暑いからと油断していたら、昨日の雨で随分と気温が下がってしまったらしい。
 傍らで寝ていたシェパードのクロがそっと身を寄せてきた。その毛皮に身をうずめると冷えた身体が温まっていく。
五分ほどそうした後、美央は大きく伸びをして起き上がった。
 のろのろと四つん這いでダンボールハウスを出ると、秋晴れの空から陽光が降り注ぐ。朝の公園は人気も無く静かで雀達の声だけでなく、遠くのカッコウの声も良く聞こえた。
 少女の見た目は随分と幼かった。身長は一四〇あるかないか。手足は肉付きが無く華奢で、胸も尻もその隆起はなだらかだ。
 黒目勝ちの大きな瞳とぷっくりとした丸顔は、十代前半にしか見えない。
 肩口まで伸びた髪は少しクセが強く、手櫛程度ではなかなか直らない。
 面倒なのでもう今日はこのままにしておこう。そう考えたらもう一度くしゃみがでた。
 美央の格好を考えれば無理も無い。上半身にLサイズの男物ワイシャツを羽織り、下半身は肌にぴったりとフィットした黒いスパッツ。
 真夏でも涼しいくらいなのに、季節も移り変わる九月にこの格好は無謀というものだ。それは美央も良くわかっている。けれど出来る限りこの格好を続けていたい理由が彼女には有った。
 このワイシャツは今は亡き彼女の父親のものだった。唯一残された父の遺品を身に付けていたいという娘心が、美央にこの格好にさせている。
 指先が完全に隠れた袖を顔に近づけその匂いを嗅ぐ。さすがに適度に洗濯をしているために父の残り香など嗅ぎ取れるわけも無いが、それでも脳は記憶を元に懐かしき日々の香りをそこに見出した。
(おはよう、おとーさん)
 返事の無い挨拶も今ではもう慣れっこだ。
 家も財産も、両親すら失って、この公園でのホームレス生活も三年目。最初は途方にくれていたものの、美央は一人ではない。共に苦労を分かち合う仲間がいるのだ。
「美央、そろそろ朝ごはんの時間だぞ」
 不意に足元から声がした。男らしい低いバリトン。だがそこには人の姿は無く、先ほどまで一緒に寝ていたクロがいるだけだった。
 だが美央に訝る様子はない。
「ん……わかった。クロは皆を呼んできて」
 そう言ってクロの頭を撫でると、ダンボールハウスの中に戻っていく。ドッグフードとキャットフードの袋を一つずつ。それからサバ缶と瓶の牛乳を持って出てくると、何十匹という犬猫が公園に集まっていた。
「……チビにミケにモモにマル……ん、ちゃんと皆いる」
 『仲間』が全員いるのを確認すると美央はドッグフードとキャットフード、それぞれの袋を開けた。
 だが彼らが一斉にがっつくことはない。まずは身体の小さい子供や病気や怪我をしているものが袋へと顔を突っ込む。
 元気な成犬成猫が餌にありつくのはその後だ。いずれも野に生きるもの達でありながら、弱肉強食とはかけ離れた光景。
 それを満足そうに見ながら、美央はサバ缶を開けて牛乳で流し込んだ。
「……クロ、早く食べないとなくなっちゃうよ」
 クロは食事の仲間に加わらず、美央が腰掛けるベンチの足元に座っている。心配そうな美央に、クロは明確な人間の言葉で答えた。
「俺は最後でいいと言ってるだろう。弱いもののために強いものが我慢する。それが俺達のルールだ」
 人語を操る犬。そして人間も驚きの仲間意識をもつ動物達。彼らと共にある少女は一体何者なのか。
「でも、最後だとクロの分ほとんど残ってない」
「あれだけあれば充分だ。飯が少ないからといって音を上げるほど俺はやわではないぞ」
 目の前ではキャットフードの袋が空になった所だった。ドッグフードも残りは後僅か。それでもクロは動く様子は無い。
 クロは間違いなく仲間の中で一番強い。どの犬猫達も彼に尊敬の念を抱き、彼のためならば喜んで餌を譲るだろう。
だが、そうする事をクロは望まない。それは結局強いものが弱いものの上に立っているのだから。
 美央を含め仲間は皆平等であり、互いに助け合う。今までも、そしてこれからも彼らはそうして生きていくのだ。
 そうしたクロの思いは美央も分かっている。けれどやっぱり自分達だけが食べて、クロが我慢しているのも違うと思うのだ。
 だから美央は半分ほど残っていたサバを摘むとクロの前に差し出す。
「……はい、あーん」
「ちゃんと話を聞いていたのか? それは美央の分だから美央が食べろ」
「美央、今日からダイエットする。残すのもったいないからクロが食べて」
 ダイエットする肉がどこにあるのだ、とか、成長期に食べないのは良くない、とか野暮な突っ込みはいくつも出来た。
 しかし美央の気持ちを察して、クロはあーんと口を開けた。美央の指が離れサバが口内に落される。油ぎった魚肉は好みではなかったが、それでもゆっくり味わって食べた。
「クロ、おいしい?」
「魚肉は苦手だ。次はコンビーフにしてくれ」
「……ん、そうする」
 そうしたやりとりをしているうち、ドッグフードは全てなくなった。後には満腹になった動物達が毛繕いをしていた。
 手を洗いゴミを片付ける。
 朝ごはんの時間は終わり、後は各自自由行動だ。お昼寝するも良し、昼ごはんや夕ごはんを取りにいくも良し。
「美央、今日はどうするんだ?」
「お昼にきょーかいで炊き出しがあるって聞いた。だからそこに行く」
「そうか。人間、特にオスは油断がならん。くれぐれも気をつけるんだぞ」
「ん……わかってる」
 美央が路頭に迷ったばかりの頃、行く当ても無く震えていた彼女に浮浪者の男が声をかけてきた。すがる思いで付いていくと、暖かいスープを振舞われた。人懐こい笑みに安心した美央がそのまま毛布で寝ようとしたと途端、男は獣性を剥き出しにして今よりもっと幼かった彼女に襲い掛かった。
 もし、あの時クロが助けに来なかったら、取り返しの付かないことになっていたに違いない。
 人間は信用できない。これが美央とクロの共通見解だった。それから人と交わることなく動物達と共に野に生きてきた。
 あの御座市を襲った大破壊も彼女達にはほとんど関係ない。街の行く末など知ったことではなかった。ただ今日の糧のみを案じる毎日だ。
 それでいいと思ってきたし、それでいいはずなのだ。
 ただ、ほんの少しだけそれは寂しいことのような気がした。

 天恵学園の礼拝堂の前に長蛇の列が出来ている。いずれも先の大破壊によって家を失い、今は体育館に避難している人々だ。
 新たに礼拝堂に居を構えた悠美と真理は、彼らを元気付けようと炊き出しを行うことに決めた。
 真理の作った豚汁と悠美の作ったクッキー。ささやかだがこうした思いやりこそが、傷つき疲れた人たちにとって何よりも嬉しいものなのだ。
 最も百人近い人たちを二人だけで捌くのは無理なので、恵理子に助っ人を頼んである。
 恵理子しか頼める相手がいなかったことが悠美は少し寂しかったが。
「おーい、悠美〜。来たよ〜」
 よく通る快活な声が悠美を呼ぶ。見ればポニーテールの少女――件の恵理子が、手を振りながらこちらにやってきた。
 その傍らには見慣れない少女が一人、周囲の注目を浴びて少しだけ気恥ずかしげに身を竦めていた。
 天恵学園の制服であるセーラー服を着ているが、リボンタイの色が恵理子とは違っていた。恐らくは下級生だろうか。
息を飲むほどの恐ろしく美しい少女だ。
 背中まであるブロンドの髪は一つもクセがなく、それをピンク色のリボンで可愛いらしくツインテールにしていた。眉は細く優美な弧を描き、彼女の育ちの良さをうかがわせる。長い睫の下にはラピスラズリの如き青があり、それはまるで北欧の湖水のようだった。小さな鼻梁は顔の中心線を正確に通り、人形のような造形を彼女に与え、形の良い桜色の唇は少女の純粋さと可憐さを表していた。
 無論、彼女の美しさは顔だけに留まらない。
 痩身優美。彼女の肢体を形容するのにこれ以上の表現は無いだろう。
 一六〇に僅かに届かないが手足は長くスラリと伸び、特に黒タイツを穿いた脚はその折れそうな華奢さが一層強調されている。
 形良く制服の胸元を押し上げる乳丘はCカップほどで、女性性を主張しながらも淫靡さは無く、むしろ清楚で高潔な印象を少女に与えていた。
 コルセットでもしているのかと疑いたくなるような柳腰は、その下の小さく引き締まったお尻を引き立てる。
(うわぁ、まるで天使みたい)
 自分が何者かであることも忘れて、悠美は心の底からそう思った。事実、その少女の容姿は妖精や天使といった空想上の美として語るに相応しいものだった。
「あの、何か私の顔についてますの?」
 悠美の視線に気付いた少女が顔をあちこち触りながら訊いてきた。
「あ、いえ。そんなんじゃなくて……」
「アリスが綺麗だから見惚れちゃったんだよね」
 生来の内気さゆえに口篭ってしまう悠美の言葉を恵理子が代弁する。
「そうなんですの? ありがとうございます」
 アリスと呼ばれた少女はお礼を述べてにっこり笑った。そうすると華やかな美貌が一層輝きを増して、同性にも関わらず頬が熱くなってしまう。
「この髪でこの眼ですから、小さい頃から色々からかわれたりして。最初から変な目で見ないでくれたのは貴女で三人目ですわ」
「三人目?」
「はい、二人目は一之瀬先輩で、一人目は……」
 そこでアリスの口が重くなった。表情に翳りが差してそのまま俯いてしまう。一瞬、目元に見えたのは涙だろうか。
「あ、そうだ。自己紹介がまだだったね。アリス、この娘が前に言ってた悠美よ」
 空気を察した恵理子が話題を変えた。悠美も少女の気持ちを思いやり、何事も無かったかのように振舞うことにした。
「え……と、その。はじめまして、2―Aの羽連悠美です。よろしくね、アリスさん」
 二人の気持ちが伝わったのかアリスは顔を上げて悠美を見た。潤んだ瞳を擦ると、再び笑顔を作る。
「1―Cの天宮アリスです。一之瀬先輩から羽連先輩のことはよく聞かされていますわ。今日はよろしくお願いしますね」
「おやぁ、それだけ? もっとさ色々言うことあるんじゃない? 期末テストで全教科満点、スポーツをやれば国体クラス。文武両道のスーパーガールにして、未来の風紀委員長さん」
「それは先輩が勝手に決めたことですわ。そうやって既成事実にしようとしないでくださいませ。後、私のことを大げさに触れ回るのもやめてくださいますか?」
 恵理子のからかいをアリスは呆れた様子で軽くいなす。どうやら二人は委員会での知り合いらしい。
 快活で押しの強い恵理子に対して、冷静で懐の深いアリスはとても良い相方のように思えた。そう、かつて彼女の側にいた哀しきエクリプスのような。
(……新野さん)
 己が手にかけた少女の事を思うと寂寞と懺悔が去来する。
 と、不意に後ろから妙齢の女性の声がかけられた。
「あらあら、まあまあ。若い子達で盛り上がってるわね。悠美、ママのことは紹介してくれないの」
「マ、ママっ!」
 ちょっと拗ねた顔の真理がそこにいた。普段はたおやかで大人の魅力溢れる彼女だが、そうしていると十代の少女のようだ。
 ただあまりにも艶やかに過ぎるが。
「別にいいのよ。年の近い娘達のほうが何かと話も合うでしょうし。その方が悠美にとっていいに決まっているもの。何かにつけて一之瀬さんの事を楽しげに話されるのが、ママは全然寂しかったりしないわよ」
「ちょっとママ。みんなの前でそんな恥ずかしいこと言わないでよぉ。ママのことも紹介するから。ね、ね」
 つーんと横を向いてしまった母の意外な稚気に、悠美は恥ずかしさで紅潮する。
「あうぅ……わ、わたしのママです」
「あらあら、まあまあ。ママが紹介に預かってもいいのかしら。はじめまして、一之瀬さんに天宮さん。悠美の母の真理です。この教会でシスターをしているの。何かお悩みのことがあったら気軽に相談に来るといいわ」
 先ほどまでの態度はどこへやら。ちゃっかり、娘に無理やり紹介されちゃいました感を醸し出しながら、大人の包容力を見せることも忘れない。
 しかも普段よりオクターブは声が高くなっている。
 順調に人並みの親になっていく聖母を見て、娘はげんなりと溜息をつくのだった。
 その様子を見ていたアリスの口元が綻ぶ。
「くすっ。羽連先輩のお母様って楽しい方ですわね。仲が良さそうで正直羨ましいですわ」
「あれ? アリスのお母さんってまだ日本にいるんでしょ」
「まあ、そうですけど。でもほとんど東京のオフィスに篭りっきりで、最近は電話で声を聞くこともありませんわ。父に至っては海外を飛び回っていて。最後に会ったのは小学校の卒業式ですのよ」
 そう語るアリスの顔に寂しさは見えない。実の親に捨てられ、そして最愛の母と死に別れた悠美にはわかる。
 本当に寂しいのは寂しいとすら思わなくなることだと。
「……もしかして天宮さんのお父様って、あの天宮財閥の社長さんかしら? この天恵学園にもたくさん寄付してくださっている」
「さすがシスター。大正解です。アリスはね、天宮財閥のお嬢様なのよ」
 天宮財閥といえば御座市に本社を置く世界でも有数の総合商社だ。あらゆる分野の製造業を傘下に収め、近年では金融や証券取引でも莫大な利益を上げている。一部では米国の軍産複合体にも強いパイプを持つとの黒い噂もあるが、日本を代表する企業といってもいい超巨大カンパニーだ。
 だとすればアリスは、本来なら悠美達とは住む世界が違う、本物のお嬢様ということになる。
「つまりお兄さんはあの天宮クロウよ。ほら、悠美もテレビで見たことあるでしょ」
 世事に疎い悠美でもその名前は聞いたことがあった。
 天宮財閥の御曹司にして、本社の常務取締役を務める経済界の若き新星。学生時代、留学先で起業した会社が僅か一年で年商一億ドルに達し、世間の注目を集めた。卒業後は天宮財閥本社に入り株取引を中心に業績を伸ばす。
時代を担う若者としてテレビ出演するやいなや、その甘いマスクと謙虚で爽やかな人柄で女性層を中心に爆発的な人気を得た、いわば時の人である。
「御座市の復興支援に私費で莫大なお金を出したんだって。単なるお金持ちじゃないって所がカッコイイよね」
「お金だけじゃないですわ。お兄様は御座市復興のためにプロジェクトを立ち上げて、傘下の会社だけじゃなく取引のある企業からも人や物資を集めていますの。一日も早く御座市が元の姿に戻るために寝る間も惜しんで働いて……」
 クロウの事を語るアリスの表情は誇らしげだ。興奮気味に話す様子からも、彼女がどれほど兄を敬愛しているのかが良くわかる。
「それで私にも何か出来ないかと思いまして、こうしてお二人のお手伝いに来ましたの」
「と、ゆーわけでたっぷりこき使っていいわよ、悠美」
「そ、そんなことしないよぉ。アリスさん、一緒に頑張ろうね」
 人見知りしてしまう悠美だったが、このアリスという少女はとても好ましく思えた。初対面だというのに緊張することなく、同年代の女の子たちと同じように普通に接することが出来る。きっと恵理子のように気の置けない友達になれるだろう。そんな確信にも似た思いが悠美の中に芽生えていた。

 少女達による炊き出しをじっとみる小さな影があった。物陰に隠れた美央は慎重に機を窺っていた。
 最初は何食わぬ顔で行列に並ぼうかと思ったが、予想以上の人数と豚汁一杯にクッキー一袋という量に計画の変更を余儀なくされた。
 自分一人ならそれでいいが、クロや他の仲間の分も手に入れたい。そのためには豚汁は端から捨てて狙いをクッキーに絞る。一袋に五個ずつ入っているから、十袋取れば仲間に行き渡る計算だ。
 今いる位置は少女達の右斜め後方の死角。しかも前方の行列に気を取られているから成功する確率は極めて高い。
「……だいじょーぶ。いける」
 己を鼓舞すると美央は身を屈めて走り出す。一気に距離を縮めると、クッキーの袋へ手を伸ばす。少女達も、そして行列の人々も気付いていない。
 成功だ。
 そう美央が思ったとき、
「あらあら、まあまあ。いけない子ね」
「――――っ!」
 真理の左手が美央の右手を掴んでいた。美央は驚きのあまり声も出せない。
 真理の立ち位置からは美央の姿を見ることは不可能。完全に死角を突いたはずだった。
 それなのに聖母は泥棒子猫の悪戯を完全に防いでいた。
 何とかその手を振りほどこうとするが、真理の力は存外強く緩む気配は全くない。
「クッキーが欲しいのはわかるけどちゃんと列に並ばないと。大丈夫よ、順番を守っていればあなたの分まであるから」
 少女が怖がらないように、真理は慈母の笑みを浮かべ美央の頭を撫でた。
 が、
「痛っ!」
 美央の左手が真理の手の甲を引っ掻いた。余りの痛みに真理の手が緩む。その気を逃さず美央は素早く逃走した。 まさに猫顔負けの行動。
「今の子……まさか美央ちゃん」
 その後姿を見たアリスが呟く。見覚えのある顔だったのか、明らかな動揺が表情に浮かんでいた。
「一之瀬先輩! 後お願いします!」
 有無を言わさぬ勢いで恵理子に後事を託すと、少女を追って駆け出した。
「あ、アリスさん! 待って!」
 クッキーの袋を一つ掴んで、悠美もその後を追った。
 突然のことに恵理子や行列は唖然と見送るだけ。
「行っちゃいましたね、シスター」
「そうね、二人だけになっちゃったわね」
「まだまだたくさん列についてるのに、どうしましょうか」
「……誰もわたしの怪我を心配してくれないのね、くすん」
 血の滲む手の甲を擦りながら、傷よりも心が痛んで涙する真理だった。

 逃げる美央と追うアリス。二人の距離は離れるどころかぐんぐんと縮まっている。無理もない。
 美央の走るスピードも同年代の少女達と比べると驚異的だったが、アリスのそれは次元が違う。
 天恵学園の陸上部顧問が土下座をしてまで入部を懇願したアリスの身体能力は、運動部の男子並といってもいい。
恵理子のアリスへの評価は決して過大なものではないのだ。
 たちまち美央に追い付き、その肩に手をかけて強引に振り向かせた。
「ア、アリスお姉ちゃんっ!」
 追っ手の顔を見て美央が絶句する。
「やっぱり。やっぱり美央ちゃんでしたのね」
 アリスは勘違いでなかったことに安堵し、同時に居た堪れない思いになった。
 最後に美央と会ったのは三年前。
 女の子が変わるには充分の年月だ。だが、その変わり様はあんまりだった。
 世の中の光のみを映すようだった純真無垢な瞳は怯えと猜疑心で満たされている。女の子らしくぷにっと柔らかだった身体は哀しいほどに痩せ衰えて、掴んだ肩は骨と皮しかないのではと思うほどだ。
 手入れの行き届いていない髪は何本かキューティクルが削げ落ち、着ている物も薄汚れて解れが目立つ。
 それでもようやく再会した喜びは抑えきれない。
「……この三年間、ずっと美央ちゃんに会いたかったですわ。今まで本当に辛かったでしょ――――」
「離してっ!」
 アリスの言葉を美央は強い口調で遮った。友好的に接しようとするお嬢様を浮浪少女は敵意を持って睨み付ける。
「た、確かにお父様達がしたことは許されないですわ。ですから私はせめての償いにと」
「やだやだやだやだっ! 聞きたくない聞きたくないっ! 離して離して離してえっ!」
 必死に歩み寄ろうとするアリスだったが美央は聞く耳を持たなかった。駄々っ子じみた動作で全身を激しく動かして逃れようとする。
「アリスお姉ちゃんなんか大っ嫌い! クロ、助けてえっ!」
 その叫びと共に黒い影が両者の間に割り込んできた。物凄い力で突き飛ばされて、アリスは無様に尻餅をつく。
「きゃんっ!」
 その隙に美央は影を壁にしてアリスから距離をとった。
 と、同時に悠美がようやく二人に追い付いた。倒れたアリスを見て、すぐさま駆け寄り助け起こす。
「大丈夫ですか、アリスさん」
「ええ、ちょっとお尻が痛いですけど」
 起き上がったアリスは影の形を確認する。
 それは見覚えのある犬だった。子犬の頃からずっと美央と一緒に育ってきたシェパード。
「あなた、クロですのね。まさかあなたまでいるなんて」
 またしても現れた懐かしき顔に親愛の情を見せるアリスだったが、クロは牙を剥き低く唸って威嚇する。
 脚を開いた戦闘体勢で足止めされて、アリスと悠美は動けない。
 美央はじりじりと後ずさると、踵を返し後ろも見ずに逃走した。その姿がどんどんと小さくなりやがて見えなくなると、クロも威嚇するのを止めた。
「あなた、まだあの子のナイトを気取っていましたのね」
 アリスの口が小さくありがとうと動く。それが見えたかどうかはわからないが、クロもまた背を向け立ち去ろうとした。
「待って、ワンちゃん」
 悠美が呼びとめクッキーの袋を足元に置く。
「これ、あの子と一緒に食べて」
 クロは暫く警戒の眼差しで悠美を見ていたが、やがて袋を口に咥えるとそのまま走り去っていった。
「……すみません、羽連先輩。勝手だと思いますけど私、このまま帰らせてもらいます」
 アリスの声は搾り出すような哀切に満ちていた。震えながら自身を掻き抱く姿は、最初の印象と違ってあまりにも弱弱しい。
「いつか……いつか、今日の事を……先輩とシスターにちゃんと聞いてもらいたいですわ」
「いいよ、アリスさん。今日は本当にありがとう」
 我儘を咎めることなく悠美はアリスを残して天恵学園へと戻っていた。悠美は優しい。そしておそらくその母である真理も。
 だからこそアリスは彼女達の前で自らの過ちを告白しようと思った。
 重たい足取りで帰路に着く。
 高台にある高級住宅街。そこにアリスの家がある。天宮家の家ではない。アリス個人の持ち家だ。
 子供専用の家があるなど金持ちの贅沢といってしまえばそれまでだが、どうしてもそうしなければならない理由が彼女にはあった。
 住宅街を奥へ奥へと歩いていくと、一際大きな赤い屋根が視界に入る。白い壁と緑の芝生が美しい。
 ここがアリスの自宅だ。
 主の帰宅に気付き、住み込みの家政婦が邸内から出てきた。
「お帰りなさいませ、お嬢様……お顔の色が優れませんがご気分でも?」
「梢さん、しばらく一人にしてもらえるかしら? 夕食も遠慮しておきますわ」
 そう言って自室のある二階へと上がった。
 しかし、アリスは自室には戻らずその隣の部屋のノブに手をかけた。一瞬の躊躇いの後そっと押し開く。
 そこはパステルカラーに彩られた女の子らしい部屋だった。三年前、美央が自室として使用していた頃と同じ内装のまま、今日まで変わらずにある。
 そう、この家はかつて鈴鳴家の邸宅だった。天宮財閥と鈴鳴物産は商売上の付き合いが長く、家族間の交流も盛んだった。
 アリスと美央も幼い頃から実の姉妹のような関係で、クロはアリスが美央の誕生日にプレゼントとして贈った犬だ。
 美央の両親も優しい人柄で、アリスは天宮と鈴鳴は一つの家族だと思っていた。
 しかしアリスの両親はそう思っていなかったらしい。
 三年前、鈴鳴物産の投機が失敗に終わり大きな赤字を出した。筆頭株主だった天宮財閥は美央の父親に辞任を要求。代わりに息のかかった幹部を社長に据えて、吸収合併してしまう。
 更に会社の損失の全責任を押し付け破産に追い込んだ。身包み全て剥がされて絶望した美央の両親は、幼い一人娘を残して首を吊ってしまう。
 その後の美央の行方は杳として知れず、アリスは両親に泣きついてこの家を人手に渡さないようにした。
  いつか美央に会うことが出来たら、彼女の帰る場所として残しておきたかったからだ。大人の都合で翻弄される中、少女にできた精一杯の償い。
 机の上に立てかけられた一葉の写真。
 まだ子犬だったクロを抱きかかえる幼い美央と、その後ろに写るアリス。フリルをふんだんに使ったワンピースを着てはにかむ美央の姿に涙が止まらない。
 アリスはその写真を抱きしめてごめんなさい、ごめんなさいと咽び泣くのだった。

 公園のブランコを小さく揺らすと、錆付いた鎖が軋んだ音を立てた。忘れようと努力していた過去に思いがけない形で出会ってしまった。
 優しくて綺麗で大好きだったアリスお姉ちゃん。美央の一番の友達も彼女がいなければ出会えなかった。
 だけど三年前、彼女は助けてくれなかった。周りの大人たちが美央を見捨てる中で、アリスだけはきっと手を差し伸べてくれると信じていた。
 けれど、結局アリスは何もしてくれなかった。少女の儚い望みは脆くも崩れ去った。
 人間は誰も助けてくれなかった。だけど動物であるクロは自分を助けてくれる。だから美央は動物になりたかった。
 そのクロが何かを咥えて公園の中に入ってくるのが見えた。駆け寄ってきたその頭を優しく撫でてやる。
「クロ、咥えてるの何?」
 美央が聞くとクロは膝の上にその袋を落した。
「……クッキー?」
「アリスの連れの女が寄越したものだ。せっかくだから貰っておけ」
「毒とか……入ってない?」
 恐る恐る袋を開けると甘い香りが鼻腔をくすぐる。バター味が三つにショコラ味が二つ。美味しそうな狐色の星が並んでいた。
「匂いを嗅いだ限りでは問題はない。どうする? 嫌だったら捨ててもいいんだぞ」
 暫し逡巡の後、美央は思い切ってバター味を口に運んだ。
「……甘くておいしい」
 素朴な味わいのクッキーを食べながら、もう少し人間でいてもいいかな、と思った。

 月明かりすらない無明の夜。御座市郊外のスーパーマーケットにその男はやってきた。先の大破壊で半壊した建物は当然ことながら営業しておらず、漆黒の闇をその中に湛えていた。
 普通ならばそんな所に用のあるものはいない。しかし、経営者ならば話は別だ。自分の店を放っておく馬鹿などいない。
 懐中電灯片手に店主は崩れかけの廃墟へと入っていった。用心のためもう右の手には金属バットが握られている。
 災害時には人心が荒廃する。いつどこで誰が暴徒と化し、他人に危害を加えるかわからない。ましてここには食料品を始めとした物資がある。店主の備えは当然のことだ。
 懐中電灯で中を照らすと案の定、何者かによって荒らされた跡があった。保存が利く缶詰やお菓子の場所が中心だが、奇妙なことにペットフードの棚も同じような状態だった。
「まあ、ペットと一緒に避難したやつもいるよな」
 店主がそう独り言を言ったときだった。棚の上で猫がみゃあと鳴いた。うまい所を住処にしたな、と思う間も無く周囲から犬猫の鳴き声が木霊した。
 いつの間にか店主の周囲を十数匹の犬猫が取り巻いていた。犬は唸り、猫は毛を逆立て店主を威嚇する。
「な、なんだお前ら! ここは俺の店だぞ。まさかペットフードもお前らか?」
 懐中電灯を床に置き金属バットを構える。学生時代、剣道一筋に打ち込み三段の腕前を持つだけあって、その佇まいには隙がない。
 動物達も飛びかかれずに膠着状態になった。
 だが均衡はいつも未熟なものによって破られる。焦れた一匹の犬が店主の足を狙った。バットが逆袈裟を描いて犬を弾き飛ばす。
 今度は棚上の猫が襲い掛かってきたがこれも簡単に打ち払われた。次々と動物達が店主に立ち向かっては叩きのめされる。
 勿論殺す気はないので手加減はしているが、それでも鈍器は鈍器。中には気を失ってしまうものまでいた。
あらかた蹴散らして店主は一息つく。人間の物に手を出すなどなんと性悪な獣どもだ。保健所に連絡して始末してもらおうか。そんなことまで考えた。
 この時、店主は奇妙に感じるべきだった。動物達が連携して襲ってきたことを。いや、そもそもこれ程の数の犬猫が、まるで一つの群れのように振舞っていたことが奇妙だったのだ。
 不意に、店主の視界にこちらへ飛んでくる何かが眼に入った。慌てて叩き落すと、それは拳ほどもある瓦礫だった。当たり所が悪ければ死んでもおかしくない。
「誰だっ!」
 飛んできた方向に大声で怒鳴りつけ、懐中電灯を向けた。そこにいたのは怒気を露わした幼い女の子だった。Lサイズのワイシャツにスパッツという涼しげな格好。傍らにはシェパードが牙を剥いて唸っている。
 なるほど暗闇の中でバットを振り回し、犬猫を叩いていれば危ないやつと思われても仕方がない。
 あんな幼い子には自分が悪魔か何かのように見えるだろう。
「ははっ。ごめんよ、お嬢ちゃん。おじさんは悪い人じゃないんだ。この動物さんたちが泥棒しようとしていたからちょっとお仕置きしていたんだよ。大丈夫、君に何かしたりはしないよ」
 自分でも気味が悪いほどの猫撫で声を出し、少女の警戒を解こうとする。だが、少女の顔はますます敵意を強め、犬は少女を守るように立ちはだかる。
「……美央の仲間虐めてる……やっぱり人間は美央たちの敵」
 少女の口から漏れる低い呟き。それが意味する所に気付いて店主は声を荒げた。
「この糞餓鬼っ! この畜生どもはてめえの仕業か! その年で火事場泥棒働くとはいい根性だ! その尻、百発叩いて性根を入れ替えてやる!」
 少女に向かって踏み出そうとした店主の動きが止まった。お仕置きを思い直したからではない。得体の知れない異質な気配が少女から吹き出ていたのだ。
「……敵を放っておくと美央の仲間……どんどん殺される。だから敵は……殺す!」
 少女の影から闇のヴェールが競り上がりその身体に纏わり付く。闇は頭部と臀部にそれぞれ分かれ、頭部の闇は更に二つ分かれると頭の両端で小山を作った。それは次第に形を明らかにしていき、最終的に大きな黒猫の耳と化す。臀部に向かった闇は円筒状を形作り毛並みの良い尾となった。
 両手の爪が大きく鋭く変形し、懐中電灯の光を受けて不吉なぎらつきを見せた。
「な、なんだよ、そのコスプレ。何のアニメのキャラだ」
 そんな可愛いものではないと本能が告げている。だが、そう笑い飛ばさないと今にも腰が抜けてしまいそうだ。
 あれはネコミミをつけた少女ではない。何か別の……もっと邪悪な影の悪魔。
 エクリプスと呼ばれる異形の姿。
「シィッ!」
 鋭い呼気と共に少女が襲い掛かってきた。
「うおあああああっ!」
 無我夢中でバットを横薙ぎに払う。かつて全国にその名を轟かせた胴薙ぎだ。間合いもタイミングも完璧な一撃。だが、剣速より速く少女は飛び上がった。
 まるで重力など無いかのように軽やかに天上に両足を着けると、一気に蹴り落ちる。そのとき店主がバットで頭を庇えたのは日頃の訓練の賜物だろう。
 凄まじい勢いで黒猫の爪が振り下ろされた。
 手応えは無かった。金属バットが中ほどから切断され、軽い音を立てて床に落ちる。
 店主は戦慄した。
 どれほど切れ味の良い刃物でどれだけ柔らかいものを切っても抵抗はある。そこに物が存在するからだ。
 だが今、バットを握る両腕に何の力も感じることは無かった。少女の爪がバットを通り抜けたとしか思えない。しかし、現にバットは見事に切断されている。
 恐ろしい仮説が脳をよぎった。
 少女の爪は空間ごと切り裂いているのではないか。故にそこにある物質が何であろうと関係なく切断可能なのではないのか。実質防御不可能な無敵の攻撃。
 彼にできることは逃げることだけだった。
「ひぃいいいいいっ!」
 情けない悲鳴を上げて店主は出口に向かって駆け出す。そこに何がいるのかということは完全に失念していた。
 店主の眼前にシェパードが立ち塞がる。店主が押し退けようとするより速くズボンに噛み付くと、強靭な首の力でその身体を瓦礫の中へ放り投げた。
 音と後頭部に焼けるような痛み。店主の意識は完全に闇に沈んだ。

 クロの見事な投げで店主は昏倒した。後は美央の爪で喉を掻き切れば全ては終わる。しかし、肝心の美央は喉元に爪を突きつけたまま一向に切り裂く様子が無い。
「どうした? 何を躊躇っている。早くそいつを殺せ」
「…………ん」
 クロの急かしに小さく頷くも、やはりその手は止まったままだ。
 敵は殺す。仲間内での掟はそういうことになっている。
 が、やはり同族を殺すことには強い抵抗があるのだろうか。美央は今まで人間を傷つけたことはあっても殺したことはない。
「今殺さなければ、そいつはここを取り戻そうと仲間を引き連れてやってくる。そうなれば折角見つけた食料が奪われ、また仲間が飢えるのだぞ。美央! 仲間のためにそいつを殺せ!」
 さっきより強い口調で美央を叱咤する。それでも美央は動かない。手先が震え始め、瞳には涙が浮かんでいる。
 エクリプスとしての力を持っていてもその本質はまだ幼い少女なのだ。人を殺すという大罪を犯すことなどできるはずも無かった。
「ええいっ! 埒が明かん。ここは俺が止めを……」
「そんなことは絶対にさせない!」
 澄んだ美声がクロの動きを制止する。
 声のした場所に眼を向けると、そこには清艶な天使が舞い降りていた。
 金色の髪と光の翼、フェティッシュな白色のコスチューム。可憐な幼顔と瑞々しく熟れた肉体。
 清楚且つ肉感的な美少女が光り輝く十字剣を手にしてこちらを見据えていた。
「光翼天使ユミエル、ここに光臨!」
 その姿を視認した瞬間、美央の全身の毛が逆立った。影魔の本能があれは危険だと告げている。
「美央、油断するなよ。奴は強い。バーストエクリプスの力を最大限に出さねば、こちらがやられるぞ」
「……ん、わかってる」
 クロもまた眼前の敵が単なる少女でないと察知していた。そして自慢の嗅覚が知らせるその正体も。
(アリスの連れか。またやっかいなものと交流があるのだな)
 昼間クッキーをくれた少女と同じ匂い。見た目の印象は随分と変わっているが、どうやら自分達と同じような変身能力の持ち主らしい。
「なら、遠慮する必要は無いな」
 猛犬の影が主の身体を包み込む。漆黒の体積はどんどん増大し、ライオンほどの大きさへと変貌させた。
 体毛は血のような紅に変色し、長く硬質なものへと変化した。犬歯も5センチほどに伸び、触れただけで切れてしまいそうな鋭さだ。
「まさか貴方達がエクリプスだったなんて……動物のエクリプスなんて初めて見る」
「ふふ、光翼天使とやら。どうやらお前は俺達と相容れない存在らしい。だが、このガルムエクリプスとバーストエクリプスに手を出したのが――――運の尽きだっ!」
 ガルムとバーストが同時にユミエルへと襲いかかった。一歩早くバーストが己の間合いに入り込む。
 空間を断つ魔性の爪が天使目掛けて振り下ろされる。それをバックステップでかわすユミエル。
 バーストの攻撃は虚しく空を切った。
 一分の隙も無い華麗な身のこなし。豊富な戦闘経験と戦士としての高い技量があってこそだ。
 しかし次の瞬間、天使の表情が驚愕へと変わる。
「そんな……消えた?」
 全く前触れ無く忽然とバーストがその姿を視界から消した。高速移動や目眩ましといった類のものではない。
 その気配ごと完全にこの空間から消失したのだ。
 あまりの驚きに聖天使に大きな隙ができる。そこへ全体重をかけてガルムが突進する。
「ぐぅっ、くうぅうううう!」
 避けることができずまともに食らう形になったユミエルだが、足を踏ん張り何とか両腕で受け止めることに成功した。
「馬鹿めっ! 狙い通りだ!」
 刹那、突如として背後にバーストが現れてその爪刃を振るう。鮮血の中、舞い散るのは優美な金髪と輝く白翼。
「あぐぅっ!」
 苦悶の呻きを上げてユミエルは膝を突く。辛うじて空中に羽ばたいて逃れたものの、背中に大きな傷を負ってしまった。
 バーストの能力は脅威の一言だ。
 最初の攻撃は文字通り『空を斬った』のだ。空間を引き裂き、次元の隙間にその身を潜り込ませてユミエルの視界から消え失せたのだ。
 そして異空間を通じて死角からの攻撃。
 しかもその間ガルムが相手の機動力を封じていた。飛翔能力がある天使だったからなんとかかわせたが、そうでなかったら足を殺されそのまま魔爪の餌食になっていただろう。
 勿論、敵に反撃の機会を与えはしない。敵が消耗しているのなら一気に畳み掛けるのが常道だ。
 またしてもバーストが先に仕掛ける。手負いの天使はよほど傷が深いのか、間合いに入っても避けるそぶりを見せない。代わりに翼を折り畳み両手で光剣を構えた。
「……影を滅ぼす奇跡の剣よ」
 好機とばかりバーストがユミエルの首を目掛けて踊りかかる。だが、これは天使の誘いだった。
「いかんっ! 美央、避けろっ!」
「――ドミニオン・ランサー!」
 ユミエルの身体が光のフィールドで包まれ、光の槍と化した天使は全力で影魔に突きかかる。
 完璧なタイミングでのカウンター。攻撃の瞬間であるために回避行動を取ることができない。バーストの小さな身体が無残にも貫かれる……はずだった。
「なっ!」
 またしても影魔のポテンシャルに天使は驚かされた。
 ドミニオン・ランサーが当たる直前、バーストは一八〇度近く上体を反らしたのだ。背骨が存在しないかのような信じ難い柔軟性。そのまま床に両手を着くと、今度は両足を跳ね上げユミエルの両腕に絡ませる。
 そして下半身を捻って飛翔しかけた天使を投げ飛ばした。
 ドミニオン・ランサーは全身の力で突きかかる技で、攻撃の最中は両足が地面に着いていない。
 つまりもし途中で別の力が加われば、途端に軌道制御ができなくなってしまうのだ。
 カウンターのカウンター。コンマ一秒にも満たない僅かな時間で、幼いエクリプスは歴戦の勇士相手にこれだけのことをやってのけた。
 自らの技の勢いで派手に吹っ飛ぶユミエル。日用品の棚へと派手な音を立てて叩きつけられた。
「かはあっ!」
 受身を取れず内臓に直接衝撃が伝わる。肺の空気が全て搾り出されて一時的な呼吸困難に陥る。できることならこのまま意識を失ってしまいたいぐらいだ。
 だがそれを許す道理はない。
 すぐさまガルムはユミエルに圧し掛かると、その巨大な口を開けて天使の頭蓋に齧り付こうとした。咄嗟にユミエルは壊れたアルミ棚の破片をつっかえ棒にする。
 魔犬の顎は薄皮一枚のところで押し留められ、牙に接触した天使の頬は真紅の線が一筋流れた。
 仕留めそこなったガルムだが別段それは気にしていない。逆にユミエルの表情には焦りの色が浮かんだ。
「し、しまった! またあの子がいない!」
 バーストがまたしても姿を消したのだ。どこから来るかわからない穏形の爪撃。
 必死にあたりを見回すユミエルを嘲笑うかのように、彼女が倒れている床に裂け目が生まれた。
 そう。空間を断つ能力に障害物という概念は無い。もし死角を無くそうと背中を何かに預けたならば、そこが最大の死角となる。
 バーストがユミエルを投げ飛ばした瞬間、二人の間でこの作戦でいくことが決定したのだ。
「どこ? どこなの? 一体どこから来るの?」
 ユミエルはまだバーストの姿を見つけられず、見るからにパニック状態となっていた。
 その無様な様子を見下ろしてガルムは勝利を確信した。
 両者の視線が交錯する。
 そしてバーストが勢いよく裂け目から身を躍らせた。
 この時、潜り抜けた修羅場の差を二人は痛感させられた。
 絶体絶命の天使の取った行動は二人の予想を遥かに超えていた。ユミエルはガルムの口内のつっかえ棒を思いっきり引き寄せたのだ。
「せぇやあああああっ!」
 ユミエルを押さえつけるため、ガルムは前に体重を預けている。そこへ頭を下へ引っ張られる形となれば当然抵抗しようが無い。
 バーストの瞳が丸く見開かれた。なぜ、こんなにも美央の顔が近いのか。クロが疑問に思う前に視界が紅く染まった。
「ぐぎゃおおおおおっ!」
 バーストと正面衝突したガルムの額が裂け、大量の鮮血が噴出した。
「クロっ! クロっ!」
 あってはならない同士討ちにバーストが半狂乱で魔犬の首に縋り付き、小さな手でその傷口を押さえようとする。
「……なぜだ? なぜ美央が攻撃するタイミングがわかったのだ?」
 姿はおろか、音も匂いも気配すら感じ取れないはず。それなのにユミエルは美央が見えているかのようにガルムの身体は誘導した。
「そうね……確かにわたしにはわからなかった。でも、あなたの目にはその子の姿が見えていたはずよ」
「くくく、そうか。そういうことか。俺の眼に映った美央を見ていたのか。とんでもない奴だな。……が、次はないぞ」
 ガルムが再び戦闘体勢を取ると、筋肉が収縮し傷口が塞がった。一触即発の緊張が場を支配する。
「…………クロ、だめ」
 静かな、そして哀しげな声で美央がクロを引きとめた。反論する暇を与えず、魔猫の爪が空間を引き裂く。
「…………今日は帰る……でも」
 クロの身体を引きずり時空の裂け目に身を滑り込ませながら、美央はユミエルを見据えて言った。
「絶対に……おまえのことは忘れない」
 そして二体の影魔はその場から消え去った。

 人影の見当たらぬ夜の公園を、常夜燈の煌々とした白色光が無機質に照らし出す。
 その空間に裂け目ができたかと思うと、犬を抱えた少女が姿を現した。美央とクロの二人だ。
「……なぜ止めた? あのままやれば勝っていたのは俺たちだぞ」
 不機嫌も露わにクロが問う。これであの餌場はもう利用できない。野良生活をする上で確実に食料があるところを失うのは死活問題だ。
 それがわからない美央ではないだろう。だからあそこでの退却は到底承服しかねるものだった。
「……ん、わかってる。でも……クロが怪我をするのは嫌」
 けれど少女にとっては苦楽を共にする友のほうが心配だった。
 確かに戦えば勝てたかもしれない。しかし、一筋縄でいけるような相手ではなかった。相当な場数を踏み、経験と実力に溢れた強敵だ。
 当然、無傷ではすまないだろう。現にクロの額には深い切傷がついている。
「……ごめんね、クロ。美央のせいで怪我させて」
 両手でクロの頭を抱えると、美央は未だ血の滲む傷跡を舐めた。口中に広がる錆びた苦味は、かけがえの無い友を自分が傷つけてしまったことの苦味。
「み、美央っ! 何をしている?」
 クロが慌てふためいて美央から離れようとするが、見た目に似合わぬ強い力で頭を固定されてしまう。
「むー……しょーどくしてるから動いたらだめ」
「いっ、いますぐやめんか。下手に傷口を舐めたらお前に黴菌がうつるぞ」
「だいじょーぶ……クロのなら汚くない」
 ちろちろと小さな舌が傷口を這う。唾液が沁みた痛み。表皮をなぞられるくすぐったさ。そんなのものは気にならない。
ただ、美央の舌が帯びる熱と至近距離で香る彼女の体臭がクロの理性を脅かす。特に先程の戦闘で汗をかいたために、悩ましい牝臭が立ち昇っていた。
 いくら幼いといっても来るべき日のために身体は徐々に成長していく。ミルクのようなただ甘いだけの匂いは薄れゆき、南国の花、あるいは熟した果実のような香りが混ざり始めていた。
 しかも密着状態の上に美央が膝立ちをするものだから、クロの鼻は自然と彼女の下腹部に当たってしまう。クロは初めて己が嗅覚の鋭さを恨んだ。
 誘っているわけではない。美央の幼さではそもそも男女のことすら知らないだろう。だからこそ、その無防備で無垢な色香は禁断の芳香を放つのだ。
 静かな夜は、美央の唾液の僅かな水音もクロの耳朶に響かせる。
 己の獣欲を押さえつけ行為の終わりを待ちながら、同時にいつまでもこうしていたいと望む。
「……ん、しょーどく終わり」
 満足がいったのかようやく美央がクロから離れた。そう思ったのもつかの間、今度は首に抱きついて頬を摺り寄せてきた。
「もう危ないことしたらだめ。美央と約束して」
 耳元で囁かれ、かかる吐息の甘やかさが狂おしい。
「あ、ああ。約束しよう。だから少し離れてくれないか」
「ん、わかった」
 今度こそ密着状態から解放されクロは安堵した。
「…………クロ、息が荒い。怪我が痛いの?」
 美央に指摘され自分の呼吸が激しくなっていることに気付く。自分ではわからないほどに猛る劣情。一歩間違えば取り返しのつかないことになってしまう。
「別に何でもない……今夜は別々に寝るとしようか」
「? 何で?」
 突然の提案に不思議そうな顔の美央。昨日までは一緒だったのになぜ突然にという思いだろう。
 だが、今夜に限ってはそうしなければならない。美央のために、一人の男として。
「男にはそうせねばならない時がある。美央のような子供には分からんだろうがな」
「むー。いいもん、美央一人で寝られるもん」
 子ども扱いされたことに拗ねて、膨れっ面でダンボールハウスへと入っていく美央。
 これでいい。
 何故かということはできればずっとわかって欲しくない。妹が穢れぬことを望むのは兄として当然だろう。
「ははっ。情けないな、俺は」
 自嘲してクロは一声高く遠吠えする。
 許されぬ欲望を抱いた男の悲しき慟哭は、無明の夜空にいつまでも響いた。

 

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