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被害者女性を安全なところ──誰にも気づかれないよう、こっそりと警察交番前に置いてきた二人は、人気のない屋上ビルに昇る(空が飛べるユミエルと違い、このエクリプスは空が飛べないのか、ビルからでている僅かなとっかかりを足がかりにして、昇ってきた)
屋上のど真ん中で、対峙する二人。
「あなたいったい、何者? 何故、わたしを助けたの?」
先に口を開いたのはユミエル。彼女は一番の疑問を尋ねた。
下級とはいえ、エクリプス同士。本来なら仲間である。
そして、光翼天使は影を狩るもの。本来なら敵である。
よって獲物を奪うにしても、わざわざ仲間を殺す必要はない。むしろ獲物が敵なのだから、一緒に嬲ってもいはず。なのに何故、自分を助けたのか。ユミエルは不思議に思った。
それに対し、
「俺の名はウルフヘジンエクリプス。貴様を助けたのは、聞きたい事があるからだ」
彼は簡潔に答えたあと、
「貴様ら羽根つきの仲間に、金髪で四枚の翼を持つ紅い女の奴がいるはずだ。探しているんだが知らないか? 名前は……」
尋ねてきた。
(それってもしかして……)
彼のいった天使の特徴に覚えがあった。
「名前は光翼天使マリエル」
そう真理が変身した姿、光翼天使マリエルの姿に他ならない。
ユミエルは返事に戸惑い、少しだけ考えると、
「……それを知って、どうするつもり?」
明確な返事をせず逆に尋ねた。
「お前には関係のない事だ。知っているのなら、どこにいるのか教えてくれ」
その言葉に対し、
「何を考えているのか分からない相手に、喋ると思っているの? 目的をいいなさい!」
彼は面倒そうに舌打ちすると、
「目的か……そうだな。借りた貸しを返してやるつもりだ。たっぷりと利子をつけてな!」
ウルフヘジンエクリプスの口調には、マリエルに対する押さえ切れない殺意と濁った感情が混ざっていた。
「悪いけど、あなたに教えるわけにはいかないわね」
それを感じとったユミエルは、光の剣を構える。このエクリプスの能力は未知数。しかし、だからといって自分の母親の命を狙う相手を見逃すわけにはいかない。それにエクリプスなら倒すのみ。
「そうか……」
彼はやれやれと溜息をついたあと、背中の剣を手にして、
「まあいい。どうせ貴様ら羽根つきは嫌いだしな。いわないのなら力尽くと聞きだすまでだ」
そういって構えると、襲ってきた。
(はっ、早い!)
巨体であるにも関わらず、一瞬で自分の間合いまで詰めてきた。
ユミエルは直感的に後ろに飛び、初太刀を避ける。本能的に一撃を受け止められないと感じたからだ。
後ろに下がった彼女に、追撃の攻撃をしかけるウルフヘジン。黒き魔剣は不気味な甲高い悲鳴を上げながら、彼女に襲いかかる。
(ま、まずい、このままでは……)
彼の嵐のような猛攻に、後ろに下がりながら必死に対応するユミエル。しかし、このままではまずい。後ろに下がっていては、防御には専念できても、攻撃に転じられない。攻撃ができなければ相手を倒す事もできない。
ユミエルの背中が屋上のフェンスに当たる。
これ以上、下がる事ができなくなった。追い詰められてしまった。
「どうだ? 少しは話す気になったか?」
彼は一足一刀の間合いで、攻撃の手を止め、見下すように尋ねてくる。彼はまだ実力をだしていない。現に声は少しの疲れを帯びておらず、余裕すら感じられる。
彼女は無言で睨む。それに対し、
「とりあえず全部、防いだのは褒めておく。しかし……」
瞬間、ウルフヘジンエクリプスは剣を振った。ユミエルは動かなかった。否、動けなかった。下手に動いたら切られる。直感がそう告げていた。
緊張で極度に集中力が高まった眼は、はっきりとその刀身の動きを捉えた。正中線に沿って真っ直ぐと振り下ろされる刀身の姿を。
剣風が彼女の髪を揺らす。それと同時に、ハイネックの黒いボディスーツと純白のショーツだけを残して、天使の服がパラパラと細切れになってしまった。
先程の猛攻はこれを狙っていたのだ。服に切れ込みを入れ、先の正中線への一閃で、細切れになるように。
残ったボディースーツもヘソ上から首元にかけて伝線した。薄っすらと切込みが入っていたのだろう。胸の二つの柔肉が僅かに顔をだし、隠されていた白い素肌が月明かりに曝けだされる。
その気になればいつでも殺せるぞという無言の脅し。自身の技量を誇示する為か、ユミエルの柔肌には、傷一つつけていない。
両手剣という大型武器でこんな離れ業をやってのけた彼に、一瞬戦意を失いかけるが、
(恐るべき剣さばき……でも……)
キッと心を持ち直す。強い敵だからこそ、なお、マリエルの事を話すわけにはいかない。愛する母親を守る為にも、この強敵を倒さねば。
「まだ、話す気にはなっていないようだな」
彼女の覚悟を読みとったのか、彼は油断なく、剣を構えた。
(どうする。どうすれば、こいつに勝てる?)
ユミエルは頭を巡らす。
敵は本気をだしていないとはいえ、今のままでは勝つのは難しい。
だが、もう一つの力なら対抗できる。
しかし、彼女はその力をだすのを惜しむ。
まだ、手段はあるはず。あの力をだすには早いと。
彼女は光の剣を構えながら、神経を研ぎ澄ませ、
「やああああッ──!」
今度は自分から攻撃をしかけた。防御に回れば、勝てないと踏んだからだ。数々の戦いの中で刻んだ経験と戦士としての本能が、ユミエルを攻撃に突き動かした。
ウルフヘジンエクリプスは、彼女の初太刀を斜め前にでるように動いてさばくと、逆袈裟に剣を振る。
魔剣が甲高い声を上げながら、斜め下から天使に迫る。
(これだ!)
ユミエルはその攻撃を光の防御結界で防ぐと同時に、その力を利用して、上空に飛び上がった。
「チィッ!」
彼は自分の力を利用された事に、激しく舌打ちする。
上空に飛び上がったユミエルは体勢を整えると、
「影を滅ぼす奇跡の剣よ!」
剣を真っ直ぐと構え、一気に力を解放。光のフィールドに包まれた彼女は、羽をたたみ、
「ドミニオン・ランサー!」
光の槍と化して、突撃した。
ウルフヘジンは自身の力と技量に絶対の自信があるのか、その攻撃を打ち落とそうと、剣を担ぐように構え、
「シイイィィッ──!」
歯を噛み締め、袈裟切りで、迎撃しようとした。
しかし、それこそ天使の企んだ通りであった。
ユミエルは刀身が迫りくるタイミングにあわせて、自身を包んでいる光のフィールドを強制解除。そのエネルギーを飛翔エネルギーに回して急加速。袈裟切りを回避。着地すると同時に剣のエネルギーを爆発。急制動をかけると同時に、爆発を利用し、無防備状態の彼の背中に切りかかる。
豊富な戦闘経験と高い戦士としての技量を示す、まさに必殺の一撃であったが……
「あ……あああッ……」
彼女は思わず声を漏らす。
ウルフヘジンエクリプスは、魔剣を引いて、長い柄で必殺の一撃を防いだからだ。
ユミエルは彼が持つ両手剣の性質を知らなかった。それが災いした。
普通の剣よりも長い刀身と柄を持つ両手剣。柄が長い分、普通の剣よりも力が入れやすく、攻撃範囲も長い。しかしそれだけではない。この長い柄は防御の際にも活躍する。手への攻撃を避けやすくするだけでなく、相手の攻撃をさばくのにも活用できるのだ。
ウルフヘジンは彼女が漏らしてしまった声に対し、満足そうにニヤリと笑う。
瞬間、ユミエルに向かって拳が飛ぶ。
必殺を期した攻撃が破られた事に動揺した彼女は、僅かに対応が遅れ、殴り飛ばされる。
(くっ……ここまで強いとは……)
ここにきて、彼女は自分の目算が甘かった事に気づく。
よろよろと立ち上がりながら、剣を構える。だが、あの攻撃で天使としての力を使い過ぎた。膨大な力を使用した高速突撃と光のフィールドを強制解除。急加速と急停止という複雑な行為は、想像以上に体力を削り、精神力を消費した。
(あんな雑魚にルミナス・エクスプロードを使うんじゃなかった……)
アングイラエクリプスに必殺技を使った事を後悔した。胴体を真っ二つにした程度では相棒は倒せなかったから、念を入れて爆散消滅させたのだが、少々勿体なかった。しかし、後悔先に立たず。
連戦の疲労もでてきたのか、全身に倦怠感がまとわりつき、身体が鉛のように重い。光翼が力なく震え、明滅する。
「……何故、そこまでして戦う」
そんな彼女に、ウルフヘジンは言葉をかける。
「マリエルの事を話せば、見逃してやるぞ。貴様ら羽根つきは嫌いだが、約束は守る主義なんでね」
その言葉に、
「……確かに話せば、あなたはわたしを見逃してくれるかもしれない……」
彼女は苦々しい顔でいう。彼の言葉には嘘をついている感じはしない。いえば、確かに見逃してくれるだろう。しかし……
「だけど……いえば、代わりにママが……自分の大切な人が……危険な目にあう。そんな事をさせるわけにはいかないわ!」
ユミエルはウルフヘジンエクリプスを睨みつけながらそう叫んだ。
自分が助かる為に、自分の大切な人間が危害にあわせるなどできない。そして何より、真理が再び、影魔によって失われるなど、想像もしたくなかった。
彼女はもう一つの力を使う覚悟を決めた。禁じている自身の影魔・エンジェルエクリプスの力を使う覚悟を。
エンジェルエクリプスは、エクリプス達と同じく、自身の欲望を根源とする。
かつて、自分が人質になったせいで、マリエルは影魔王アルファエクリプスと配下のエクリプス達に敗北。輪姦陵辱地獄を受ける母と、絶望した心からこのエクリプスは誕生した。影魔王とその配下達のみならず、彼女まで巻き込んで殺してしまった強大な影。
その力の強大さと、母親を殺してしまった後悔、そして何より醜い自分の感情として、忌み嫌い、憎んでいた。
だが、御座市で起きたとある事件──御座市で大災害を引き起こした『あるもの』アルファエクリプスとマリエルとの間に生まれた、悠美の義理の妹にして、真理の実子・新生影魔王オメガエクリプスとの戦いで、自身のエクリプスを受け入れた彼女は、現在、エンジェルエクリプスが持つ闇の力を忌んではいない。
しかし、だからといって安易に使っていい力ではなく、普段は心の中で眠らせているが、大切なものを守る為、ユミエルは影魔の力を解放した。
「影翼開放(ダスク・リベレーション)!」
そう高々に宣言すると、闇のヴェールが彼女を包み、足元から黒い光が放たれ、無数の黒い羽根が噴出する。
黒い光を受けて、光翼が変化する。純白の光翼が結晶化したのち、無数のヒビが入り、輝きを放ちながら砕け散る。その下から鋭い刃を重ね合わせたかのような黒い異形の羽根が姿を現す。身体に張りついた黒い羽根は、黒い粘液と化し、白い身体に触手を伸ばして広がっていき、僅かに残っている聖衣の残骸、ボディースーツや純白のショーツ、長手袋とニーソックスを黒く蝕んでいく。
(うぁ……くっ、ふぁ……アん!)
エクリプスに蝕まれる感触に、彼女は心の中で甘い悶声を上げる。自身の欲望に塗れる快感。何もかも破壊し尽くしたくなる暴力的な衝動。ドス黒い欲望が心の中に広がりだす。
以前はそれらを無理やりに押さえつけ、力のみを引きださせていた。
しかし、今は違う。
彼女は深く息をついて、心を落ち着かせ、それらの感覚や感情全て飲み込むように、心でエンジェルエクリプスを受け止める。真摯に己の心を向き合い、上手く自身の心と同調させる。
すると、蝕むように広がっていた粘液は、身体を包んだのち、凍るように固まり、黒い羽根を飛ばしながら砕け散る。
固まった粘体の下からは、暗黒天使の戦闘衣装が姿を現す。
「影翼天使ユミエル、光臨(ブレイク・ドゥーン)!」
変身完了と同時に暗黒の翼を広げ、闇のヴェールを吹き飛ばした。
漆黒の帽子を被り、胸峰の中心には罪を象徴する逆十字。漆黒のボンデージに身を包み、タイトなスカートは、際どい黒いショーツを不完全にしか隠していない。
漆黒のケープは邪悪な威圧感を放ち、悪魔の翼を連想させる、背中に生えた黒翼は、刃のように鋭く尖っている。
白い蜜肉を飾る漆黒のビスチェは、白いお腹とヘソが丸だしで、破廉恥なまでに開いている部分からは、柔らかく実ったおっぱいが、媚肉を寄せているのが見える。
太腿は黒いタイツが覆われ、ガーターベルトでつながれている。足には鋭いデザインのハイヒールを履いていた。
戦闘服の上には、毒々しい拘束具がつけられており、革ベルトできつく引き締められた華奢な身体は、より細くもろく、そして妖美だ。
首筋には巨大な首輪をし、足元まで届く長い鎖が垂れている。虚空からも、彼女を覆うように、無数の鎖が現れた。使い魔とでもいうべき黒い鎖は、あたかも触手のように蠢く。両手には黒いエメナル質の長手袋をしており、左手の指先に力を入れると、かつて母親を殺した五本の刃が姿を現す。
その姿はあたかも、枷をまとい、鎖を生やした堕天使であった。
彼女は、剣爪のない右手を軽く前に伸ばし、彼に向かって手を広げた。すると、周囲の鎖が、ウルフヘジンエクリプスに襲いかかる。
彼は後ろに引きながら、襲いかかってきた鎖の群れを、魔剣で受け流す。
彼女は後ろに引かせた事に、ニッと軽い笑みを浮かべる。
ウルフヘジンエクリプスは風音を鳴らすような独特の呼吸で、深く息をし始める。彼から余裕の気配が消えた。手強い相手だと分かっているが、彼は逃げない。鋭い視線を彼女に送ってくる。
彼から余裕の気配が消えた事で、彼女も笑みを消した。
お互いに睨み合い、攻撃の隙を狙う。
ウルフヘジンは独特の呼吸をしながら、奇妙な構えをとった。
一見するとただの蹲踞。しかし、普通の蹲踞とは違い、やや右足を前にだし、前傾姿勢気味だ。
(構えから判断するなら、被弾する場所を極力小さくした防御中心の構え……しかし……)
ユミエルはこの構えに対し、不気味なものを感じた。
「シイイイィィッッ──!」
彼は鋭く息を吐くと、低い態勢のまま、一気に間合いを詰めてきた。凄まじい腰と脚の強さだ。
ユミエルは周囲に漂う鎖群を操り、迎撃。唸りを上げて牙を剥く鉄蛇の群れに対し、ウルフヘジンは剣でそれらを弾き飛ばしながら接近し、下からの斬撃。
彼女は動物的な勘で上に跳び避ける。が、彼は一気に立ち上がり追撃の切り返し。
ユミエルは左手の爪剣で魔剣を防ぐと同時にハイヒール・キック。しかし紙一重でウルフヘジンはそれを避け、逆に彼女を切り落とそうとする。ユミエルは攻撃と防御を兼ねて、彼の後ろから無数の鎖をだす。ウルフヘジンは彼女への攻撃を中断。現れた鎖を剣で弾く。
その隙をついて、ユミエルは上空に飛び上がり、間合いを大きく開けながら、
「ギルティック・サーキュラー!」
絶叫と共に大きく黒翼を広げ、彼に向かって、羽ばたく。すると、翼から刃の羽が舞い、それを包み込むように旋回する鉄鎖の群れが放たれた。
それらは重々しい暴風音を立て、黒い竜巻となってウルフヘジンに襲いかかる。
鉄鎖と短剣の竜巻を、彼は真横に大きく飛んで避けた──直後、足元から無数の鎖が出現し、ウルフヘジンを縛った。
(今だ!)
ギルティック・サーキュラーは、このチャンスを作る為の囮。真の狙いは……
「ジェノサイド・イレイザー!」
この一撃であった。
暗黒彗星と化して急降下した彼女は、母を守る為、影魔を倒す為、渾身の力を込めた剣爪を振り下ろす。
が……
彼女の一撃が届くかと思われた一瞬、彼は鎖を引きちぎり、転がるようにそれを避けた。
素早く体勢を整える彼を見て、暗黒天使は残心をとりながら、仕留め損ねた事に舌打ち。着地すると、
「やるわねェ……」
空を切った爪を舐めながら、言葉を投げる。鎖が切られるのは予測していたが、まさか一瞬で引きちぎり、更に回避行動までとるとは思っていなかった。
「もう諦めたらどう? なんなら見逃して上げるわよ」
動揺を相手に悟られないように、ユミエルは挑発するようにいう。
「フンッ……先の言葉のお返しか……」
彼は苦笑しながら呟く。
「だが……そうはいかねえな。特に貴様があの羽根つきの娘なら、尚更だ!」
ウルフヘジンは魔剣から左手を離し、左半身を引いて、右手をやや伸ばすように構えた。
「そう……じゃあ、次で決めてあげるわッ!」
平常心をとり戻した彼女は、宣言するようにそういった。
「やってみなッ!」
二人は再び睨みあう。
お互いに警戒と同時に攻撃のタイミングを図る。
少しずつ緊張が高まり、距離を縮めていく。そして……
「たああああぁぁぁ──ッ!」
「ぬうおおおぉぉぉ──ッ!」
お互いほぼ同時に攻撃をしかけた。
ユミエルは彼の影から無数の鎖を召喚して。
ウルフヘジンは空いてる左手で予備装備の大型ナイフを投擲して。
攻撃と同時に、互いの攻撃を紙一重で避けたあと、一気に間合いを詰める。
(もらったあッ!)
僅かな差でユミエルの方が攻撃に転じる速度が勝った。
彼女は左手の剣爪を急速旋回させて彼に放つ。触れるもの全てを切り刻む破壊の渦スパイラル・レクイエム!
放たれたタイミングは完璧だった。ユミエル自身、完全に相手を捉えたと思った。しかし──
ウルフヘジンは大きく足を踏みつけて急制動。更に足の反動を利用して、弧を描くように動き、革ベルトと毛皮を盛大に抉られながらも、スパイラル・レクイエムを回避。同時にユミエルの後ろに回り込んだ。
回避された事に、彼女は戸惑いながらも、とっさに背中の刃翼を伸ばし攻撃。だが──
彼の黒き魔剣は翼諸共、彼女の背中を切り裂いた。鮮血と共に、プラチナブロンドの髪が月光に舞う。
「キャアアアアアッ!」
ユミエルは叫び声を上げた。
無意識に張っている力の防御壁と、切られた翼が盾の役割を果たしてくれたおかげで、傷はそこまで深くはない。だが、
(何? この痛みは……)
肉体の痛みと同時に心が痛んだ。まるで何かに魂が傷つけられたように。
更に彼は傷口に追撃の蹴りを入れ、彼女を蹴り飛ばした。
重たい一撃を傷口に受けたユミエルは、骨まで響く激痛に顔をしかめながらも、防御には回らず、攻撃と追撃を避ける牽制を兼ねて、鎖を飛ばす。
彼女がフェンスにぶつかる音と、ウルフヘジンが剣で鎖を防いだ音が、同時に響く。
ユミエルは背中の傷に顔をしかめながら立ち上がり、彼を睨む。
先の一撃で、革ベルトと毛皮が破れた為、ウルフヘジンの上半身は裸だ。極限にまで鍛え抜かれた密度の高い筋肉と必要最低限度の脂肪が織り成すダマスカス鋼のような肉体。逞しい胸板には大きく×を描く二つの傷痕がついていた。
「どうだ。俺のストームブリンガーの刃の味は」
ボロボロになった革ベルトと毛皮を一度黒い液体状にし、新たに再構築した彼は、彼女に言葉を投げた。
「ストームブリンガー?」
ユミエルは傷と翼を再生しながら、聞き返す。
「ああ。マイケル・ムアコック著のエルリック・サーガにでてくる黒き魔剣からとってつけた名前だ」
主人公エルリックが使用し、敵のみならず、親友や恋人、挙句の果てには使い手であるエルリック自身まで殺した、呪われた魔剣である。自身の武器にそんな縁起の悪い名前をつけているとは。彼の趣味なのだろうか。
「俺の魔剣は切ったものに魂があれば、有象無象の区別なくそれを喰らい、力にする。これの意味が分かるか?」
彼女は理解した。そして、自身の魂の一部が、この男の魔剣に喰われた事に憤る。同時に大山椒魚が叫んでいた、『喰われる』の言葉を思い返す。あれは魔剣に魂が喰われていたのだ。
生きながらにして食べられる。それだけでも恐怖なのに、更に魂まで喰われるだ。教会育ちの彼女にとって、それは非常に恐ろしく、同時に忌むべきものに思えた。魂がなければ、生まれ変わりはおろかあの世にいく事すらできない。即ち、救われずにこの世から完全消滅するという事だ。ここにきて、ユミエルの彼への嫌悪感は決定的なものとなった。
「あなたがエクリプスを狩るのは、その為ね」
彼女は苦々しく言葉を紡ぐ。こんな奴と戦ってるのかと思うと、ぞっとする。
「フンッ、人間よりも影魔の方が、強い力と魂を持つからな。人間を襲うよりも、あいつらを襲った方が、効率よく力を手に入れる事ができる」
「……魂を奪いとるなんて……幾ら相手がエクリプスだからって、非道もいいところだわ」
ユミエルは吐き捨てるように言葉を口にする。
彼女とてこれまでに幾度となくエクリプス達を倒してきた。しかしそれは、より多くの人を守る為、これ以上の被害者をださない為にだ。
説得や話し合いなど、綺麗事が通じず、またエクリプスが犯した罪は、人の法では裁けないし、口だしする事もできない。故に倒す以外の方法はなかった。
同じ影を狩るものだが、ユミエルは彼とは違う。
ユミエルはもし救えるなら、例え、エクリプスであっても救いたいと考えている。だが、ウルフヘジンエクリプスはそんな事、考えていない。上級というだけで、ただのエクリプスと何も変わらない。彼女はそう思った。
「バカか、貴様は。非道だからこそ影魔なんだろ。むしろ、感謝して欲しいな。自分の命と魂が有効利用される事に。生と死に意味を持たしてもらえる事を!」
ユミエルはその言葉に対し、
「開き直りにしか聞こえないわ……最低ね。人の命と魂を何だと思ってるの」
「悪いが、お前と死生観について語るつもりはない。さっさと喋りやがれ」
ウルフヘジンは彼女に嘲笑の視線を送ると、
「この……小便臭い小娘め」
笑いを噛み殺しながら言葉を投げた。
(み、見られてたの……)
自分の失態が目撃されていた事にユミエルは、羞恥心で顔だけではなく、耳まで真紅に染める。だが首を振り、この戦いに集中する事でそれを忘れようとする。
傷と翼を再生し終えた彼女は、このエクリプスに勝つ為に頭を巡らす。敵の回避力は異常だ。このまま接近戦を続けていても埒が明かない。
考えていると不意にある事に気づいた。
(……一か八か……)
一か八か気づいたそれに賭けてみる事に決めた。
ユミエルは再び、大きく羽根を広げると、ウルフヘジンエクリプスの四方に球状に渦巻く鉄鎖を出現。同時に自身の黒翼からも無数の刃羽根を飛ばし、五方向からの同時攻撃。
彼は四方から襲いかかってくる鎖球を、恐るべき体さばきで避け、飛来する刃羽根に対しては自分に命中するのだけを選んで弾いた──瞬間、
「はああああああ──ッ!」
上空高くに舞い上がった彼女が、逆十字を描く巨大な黒い閃光を放った。
この攻撃を避けられないと判断したのか、ウルフヘジンは、大型ナイフを逆手に抜いて、黒い光の防護盾を作り、それを防ぐ。
ユミエルが気づいたある事。
それは彼がこれまで接近戦しかしてこなかった事だ。攻撃の全てが黒き魔剣か大型ナイフ。これらを投げるぐらいで、これといった遠距離攻撃をだしていない。
敵には遠距離を攻撃する手段がないのではと考えた彼女は、何とかウルフヘジンに隙を作り、上空高くに舞い上がってみた。
彼女の予測が当たったのか、上空にいるユミエルを見て、
「地の利は敵にあり、か」
彼は舌打ちすると大きく後ろに跳躍し、フェンスに飛び乗る。
「今日のところは、とりあえず引いてやる。ここにはしばらくいる予定だし、エクリプスを狩るもの同士、否が応でも顔をあわせるだろうしな」
ウルフヘジンエクリプスはそういうとフェンスから飛び降り、ビル陰に消えた。
「待てッ!」
それを上空から追いかけるユミエル。
だが、ビル陰に消えた彼の姿は見つからない。
(逃げた……)
気配を探ってみても、全く分からない。
とりあえず、敵を無事に退けた事に、彼女はほっとため息をつき、マンション近くの公園まで飛ぶ。
そこで変身を解除した彼女は、彼に追跡されていないか、注意を払って、もう一度、気配を探り、あとをつけられていない事が分かると、自宅に戻った。
2
次の日。
学校の教室で悠美は大きなあくびをした。
少しはしたないが、戦いが長引いたせいで満足に眠る事ができなかったからだ。
それにしても、あの影魔──ウルフヘジンエクリプスは何ものなのか。
何故、マリエルを探しているのかが気になった。一応、真理にはこの事を尋ねてみたが、しかし、彼のようなエクリプスと過去に関わった憶えはないといっていた。
彼が人間の時にであっていたとしても、人間の彼が覚えているはずがない。
エクリプス達は常に活動する際、通常空間とは異なる独特の領域を作り、そこに獲物を引きずり込んで捕らえる。昨日の戦いにしてもそうだ。エクリプスの領域内であったからこそ、爆発が起きても、騒ぎにすらなっていないのだ。
領域に入らない限り、影魔と関わる事も、光翼天使と関わる事も、基本的にありえない。そして、影魔と関わった──直接・間接問わず──人間は、天使の奇跡の力で、全てその記憶を消してきた。よって人間が光翼天使の事を覚えているはずがないのだ。
よって導きだされる答えはただ一つ。直接的ではなく間接的にマリエルと関わったのだろうと推測される……しかし……
(眠いな〜……)
疲労と睡眠不足で思考力が鈍った頭を必死に働かせると、彼女は呆然としながら机にうつ伏せる。すると、
「なあ、ちょっとノート貸してくれねぇか? 数学の課題、今日までだろ。オレまだ終わってねえんだよお〜」
「しょうがねえな〜、ほら」
同級生の会話が耳に飛び込んできた。その会話を聞いて、
(えっ、今日、数学課題って今日まで?)
悠美は驚く。今日締め切りの課題は全て済ませたつもりだったが、数学の課題は次の授業までだと思い、やり損ねていた。
(……どうしよう……)
転校してきた早々に課題を忘れてきたなどあってはならない事だ。今時、珍しい真面目な彼女はそう考えてしまう。時間的に考えて、真面目にやったのでは到底、間に合わない。かといってノートを借りる事ができるような友人もいない。
どうしようかと考えていると、自席でに座っている鈴の姿が飛び込んできた。
(……どうしよう……)
今のところ、借りられる相手としたら、彼女ぐらいだろう。昨日、話した感じではそんなに悪いものではなかった。互いに大人しいもの同士な為、遠慮がちな会話であったが、まずまずの好感触。彼女に頼めば、貸してくれるかもしれない。しかし……
(でも……借りちゃ悪いよね……)
昨日、少し会話しただけの仲で、そういう事をお願いするのは厚かましいと彼女は思い、その考えを却下しようとしたその時、
「……どうかしたの……?」
困っている空気を読んだのか、鈴の方から話しかけてきた。
「えっ……うん……」
向こうから話しかけられた事に対し、悠美は少し慌てながらも曖昧に返事をする。
ノートを貸してもらうか、もらわないか。二つの選択に彼女は戸惑う。
「あの……羽張さん……」
悠美は高まる緊張を必死に抑えながら、
「……今日の……数学の課題やってきた?」
尋ねた。
「うん。やってきたけど……?」
きょとんとした顔で答える鈴。
「あの……もしよかったら貸して……欲しいんだけど……」
緊張しながら、悠美は必死に言葉を紡ぐ。
「うん、いいよ」
彼女は自分の席に戻り、鞄から数学のノートを持ってくると、
「はい」
渡してくれた。
「ありがとう、羽張さん」
悠美はノートを受け取ると、感謝の気持ちを込めながら、言葉を述べる。
「……鈴でいいよ、悠美」
鈴は、はにかんだ笑みを浮かべた。
(わあ……)
彼女の笑みを見て、悠美は素直に可愛いと思った。普段、無表情な大人しい娘が不意に見せてくれた笑み。儚げで、どこか気恥かしげで、何とも愛らしい。
思わず見惚れてしまった悠美を、きょとんとした顔で不思議そうに見つめる鈴。
その視線に気づいた彼女は大慌てで、
「う、うん。ありがとう。鈴ちゃん」
そういった。
昼休み。
鈴からノートを借りられた事で、何とか課題を済ませた悠美は、
「鈴ちゃん。貸してくれてありがとう」
借りたノートを彼女に返す。
黙ってそれを受けとる鈴。
(えっと……)
ノートを返した彼女は会話に詰まり困る。以前より明るくなったとはいえ、やはり、まだ会話を紡ぐのには慣れていない。こういう時どういう言葉をかけたらいいのか考えてしまう。
「そ……その〜……ご飯済んでる?」
頭に浮かんだ適当な言葉を口にする。
「……うぅん……まだ……」
それに対し、首を振って返事をする鈴。
「あっ、そうなの……じゃあ……もっ、もしよかったら……一緒に食べない?」
誘ってみる。
「うん……いいけど……」
鈴は教室に設置されている時計を見る。恐らく、売店が混むのを避ける為、時間を置いているのだろう。
「あ、時間なら、気にしなくていいよ。わたしも飲み物が欲しいから、買いにいくなら、一緒にいこう」
悠美がそういうと、彼女はよかったという風に溜息をつき、コクコクとうなずく。
飲み物を買ってきた二人は、教室で一緒に食べる。
「……それ美味しそう……」
鈴が悠美のお弁当のおかずを見て呟く。
「一ついる?」
鈴はその言葉に甘え頂戴する。すると、
「……お返し……」
そういって、自分のお弁当を差しだす。
断るのも悪いと思い、彼女は一つだけ頂戴した。
(あ、これ。美味しい)
貰ったおかずは美味だった。自身も料理が趣味だから分かる事だが、作った人はかなりの腕の持ち主である。
「鈴ちゃんところのお母さん、料理上手いね」
何気なく言葉をかける。
「作ったの……お母さんじゃない」
その言葉を、首を横に振る鈴。
「え、じゃあ……他の家族の人?……もしかして、鈴ちゃん自身?」
「うぅん……時告さんが……作ってくれた」
「時告さん?」
「うん。あたしの保護責任者……正式には未成年後見人……」
未成年後見人。民法の制度の一つで、未成年者に対して親権を行使するものがいない場合、または親権を行なうものに管理権(財産に関する権限)を有しない場合、法定代理人になる人の事を指す。
複雑な事情と聞いてはいけない事を聞いたのではと思った悠美は、
「その……ごめんなさい……聞いちゃ悪かったよね?」
謝る。それに対し、
「うぅん。悠美は悪くないよ。それに……」
鈴は首を横に振り、幸せを隠すようにうつむくと、
「……今の方が……ずっといいから」
何を思ったのか、頬を紅潮させ、小さな笑みを浮かべながら呟く。
その小さな笑みを見て、幸せなんだな〜と悠美は心を癒されると同時に、エクリプスとの戦いの意義──人々を守る価値や意義を感じとり、静かに微笑む。
「……悠美のお弁当も美味しね……お母さんに作ってもらってるの?」
彼女が話しかける。
「うん。ママお手製のお弁当。うちのママ料理が得意だから」
自慢するようで、悠美は気恥ずかしげだ。
「……仲いいんだね……」
そんな彼女を微笑みながら鈴はいう。
「……うん……」
指摘された事に照れながら悠美はうなずくと、
「わたしも……お母さんとは血はつながっていないんだ……」
自分は養子で、母親とは血のつながりがない事を語りだす。昨日今日知り合ったばかりの人間に話す内容ではない。ただ何となく、鈴に自分と同じ境遇を感じとり、彼女となら分かり合えるような気がした。きっといい友人になれると。それに……
(何だか可愛いな〜……この娘)
悠美は愛でるような視線を彼女に送る。自分よりも小さいこの娘が何となく気に入った。
「……そうなんだ……なんだか似てるね、あたし達……」
それは鈴もまた共通感を覚えたのか、親しみがこもった視線を送ってくる。緊張していた空気が緩み、お互いに黙って見詰め合う。そして、二人は恥かしそうに視線を逸らすと、
「食べよう」
そういって食事を続けた。
放課後。
帰る準備をしていると、
「……ねえ……」
鈴が悠美に話しかけてきた。
「うん。何?」
「あの……もしよかったら……途中まで……一緒に帰らない?……」
折角の誘いを断るのも悪いと思い、
「いいよ」
悠美はうなずく。
上履きから下靴へと履き替えると、二人は校門をでる。
「鈴ちゃんってどっち方面に住んでるの?」
「山切方面……」
「へえ。鈴ちゃんの家って結構近くなんだ」
彼女の住所を聞いて、悠美は答えた。山切方面は悠美の住んでいるマンションがある碧ヶ丘方面のすぐ隣の地区である。
「……寄ってく?」
「う〜ん……どうしようかな〜」
悠美は考える。現在の時刻は四時を少し過ぎたぐらい。少しぐらい帰るのが遅くなっても問題ないだろう。
「うん、折角だから。ちょっとだけ寄らせてもらうわね」
二人は鈴の家に向かう。
彼女の住んでいるところは市有数の高級マンションだった。
「……時告さんって何をやっている人なの?」
いったい、何をやっている人なのか不思議に思い尋ねる悠美。その質問に対し、
「えっと……一度説明された事があるけど……確か……情報関係のお仕事してるみたい」
鈴はどう説明すればいいのか分からないといった感じで答えた。
二人はマンションの大きな自動ドアをくぐり、エントランスホールを抜けて、もう一つあるオートロック式の自動ドアを抜ける。その先には吹き抜けのロビーが待ち構えていた。ヨーロピアンリゾート的な雰囲気を匂わせるロビーだ。閉鎖的な空間であるにも関わらず、それを感じさせないよう随所に渡り様々な工夫……暖色系で模様で統一された壁や照明、外を見渡せる大きな窓、様々な観葉植物やオブジェクトが置かれていた。
エレベーターに乗ると、鈴はボタンの下にある鍵穴に鍵を差し込む。
「……それは?」
「……階に止まる為の鍵……ないと止まらない」
厳重なセキュリティーだ。
階につき、エレベーターを降りた二人は、幅広く重厚な廊下を歩く。高級ならではの特権意識や優越感をくすぐるよう施された設計に対し、悠美はどこか居心地の悪さを感じてしまう。
「……ついたよ……」
気がついたら、彼女の住む一室の前までやってきていた。
「……ただいま……」
鈴がそういって玄関に上がる。
「あ……あの〜……お邪魔します……」
その後ろに続いて悠美が上がる。
リビングと思わしき部屋に案内されると、
「……着替えてくるから……ちょっと待ってて……」
悠美を置いて、鈴は自室に戻る。
(……しかし……凄いな〜)
彼女は広いリビングを見渡す。部屋はとにかく広かった。その中に大型の液晶TVや高級そうな家具などの生活道具が目に入る。それらの調度品の多くは、品のいいモダンな印象を与えるものが多く、どこか落ち着いた感じを与えさせてくれた。
ふと壁に吊るされたフォトフレームに目がいく。大会か何かの集合写真なのだろう、道着姿の男性達が列を作って写っていた。人数は五十人ぐらい。二十代後半から三十代くらいが最も多く、続いては三十代後半から五十代くらい。そして、その次は六十代以上の男性で、十代以下は殆ど見当たらない。普通なら対して気にならない凡庸な集合写真だが、悠美は何故かこの写真に惹きつけられた。
特に目を引くのは四人。その内の三人は見ただけでは年齢は分からない。ただ三人ともに年輪を重ねているにも関わらず、少しの衰えを感じさせなかった。
三人の中でも目を引くのは、写真中央に写っている小柄な男性だ。他の男性達と違い、道着ではなく和服姿で、その顔には激闘の時代を乗り越えてきた事に対する自信と威厳があり、実に貫禄を感じさせた。一目見ただけで、この中で一番偉い人だというのが分かる。
次に目を引いたのは満面の笑みを浮かべている男性。右腕はなく、その顔の左半分は醜く焼け爛れ、左目は失明しているのか白く濁っていた。先の老人よりは幾分か若そうだが、やはり数々の苦難や困難を乗り越えてきた人間ならではの凄みが感じられる。
その次に目を引いたのは極道風の強面の老人だ。筋肉を誇示するように、袖をめくって見せびらかしている。筋骨逞しい肉体は、なるほど少しの衰えも感じさせない見事なものだ。しかし、顔と肉体のギャップよりもこの男性の場合、他の部分に目がいってしまう。彼の目は三つあった。その口の下顎は二つに分かれていた。その左腕は常人よりも一本多かった。目と口と腕が常人よりも一つずつ多い重度の奇形。その事で様々な苦労をしてきたのだろう。その顔や覗かせる肌には多くの傷痕がついていた。
目を引いた四人の最後は、数少ない十代の中の一人。恐らく十代になったばかり少年だ。上の三人とは違い、十代であるにも関わらず酷く老けているように感じさせた。その目は何かに飢え、焦燥感で鋭く、少しの余裕もない。余りにも張りつめた空気を漂わせているので、見ていて痛ましくなるほどだ。何故、この子はこんなにも硬い表情をしているのだろう。この子の過去にいったい何があったのか。
この四人。何故か人間離れしたイメージを悠美に与えさせた。
「……好みの男性でも写ってた?」
不意に後ろから声をかけられて、彼女は驚きながら振り返る。振り返った先には、身長百七十センチを超える妙齢の女性が立っていた。
黒い絹のように滑らかな髪を一つに結び、下から上へと折り曲げるように後頭部にくっつけ、クリップで留めている。潤いのある玉のような肌は粉雪のように白く均一で、百七十センチを超えるスレンダーな身体は細身ながらもセクシャルな妖気を漂わせていた。
理知的で冷たい理性を湛えた端整な顔には軽い化粧が施されており、青色のアイシャドウを塗ったその切れ長の目には深淵の如き深い知性が、紫色の口紅を塗ったその口元には波のように揺らめく好奇心が、浮かんでいる。間違いなく美人に部類される女性だ。
「え、えっと……あの……」
他人の写真をじろじろと見た事に対し、悪い事したかなと、しどろもどろになる悠美。そんな彼女を見て相手の女性はくすりと顔を綻ばせると、
「別に私のじゃないから気にする事はないわよ」
彼女を和ませるようにそういう。
「はあ……そうですか」
悠美が罰が悪そうな声で曖昧な返事をすると、
「……お待たせ……」
カジュアルワンピースに着替えた鈴がリビングに現れた。
「あ、時告さん……ただいま……」
彼女は女性に向かって挨拶をした。
(……この人が……)
今喋っている人が、鈴の後見人だと悠美は知る。
「お帰り。珍しいわね、あなたが人を連れてくるなんて」
鈴は恥かしげにうつむく。そんな彼女に好ましげな視線を送ると、
「じゃ、お茶でも炒れてくるわね。ごゆっくり〜♪」
そういって台所に向かおうとする。
「……あの……大上さんは?」
「京郎? 彼ならちょっと使いにでてるわよ。寄り道するそうだから、多分遅くなるわね」
時告は足を止めて振り返りながらそういったあと、
「……紹介したかった?」
からかうような意地悪そうな笑みを浮かべ、尋ねる。
「…………」
顔を真っ赤にして、返答に窮する鈴。
「さあさあ、どうなの? うん?」
けらけらと笑いながら言葉を促す時告。追い詰められ、ますます口ごもる彼女を見て、楽しんでいるようだ。
だが、呆気にとられてその様子を見つめている悠美に気づき、
「おっと、お茶の用意するんだった。失礼。ま、気楽にしていって〜♪」
台所に向かった。
(何か明るいな人だな〜)
悠美は息をつかせながらそう思う。
「ところで大上さんって……?」
「時告さんの部下で、一緒に暮らしている人……」
鈴は気恥ずかしげに照れながら大上京朗の事を喋る。その口調には相手に対する思慕の情が込められ、その表情は熱っぽいものが浮かんでいた。昼休みの時は気づかなかったが、まさに恋する乙女という言葉がぴったりな表情だ。今の方がずっといいといったのは彼を含んでの事だろう。
「……大切な人なんだね」
彼に対する鈴の思いを感じとった悠美はそういう。
「……うん……」
鈴はうっかり惚気てしまった自分に気恥かしくなったのか、小さな照れ笑いを浮かべながら、うなずいた。
「いいかしら?」
そこに時告がトレーに紅茶と茶菓子を乗せて持ってくる。
「粗茶だけどどうぞ。熱いから気をつけてね」
二人に紅茶をだした。
「ありがとうございます」
悠美は礼儀正しくお礼をいう。そんな彼女ににっこりと笑みを浮かべながら、
「どういたしまして。それで何の話してたの?」
彼女が会話に入ってきた。
「あの……その……」
予期せぬ乱入者に戸惑う鈴。
「……大上さんの事を……」
彼女は小さくそういうと、
「ああ、彼ね」
時告はうんうんとうなずくように相槌を打つ。
少しの間、彼を話の肴にして、三人は談笑する。
時告の会話は上手かった。話し上手であり、聞き上手だ。上手に相手のペースに合わせ、言葉の意図を読みとり、分かりやすい言葉を使って魅力的に話してくれる。実に喋りやすく、楽しかった。
「時告さんって普段、どのようなお仕事をなされているのですか?」
悠美はここまで思っていた疑問を尋ねる。
「仕事? どんな仕事かは一言で説明するのは難しいわ。まあ、情報関係とでもいっておこうかしら?」
「はあ、情報……ですか。ジャーナリストとか?」
「う〜んと、もうちょっと抽象的なものね。確かにそういうのもとり扱ってはいるけど。メインは市場ディーラーへの売込みよ。有望的な商品や証券などを予測して、裏づけをとってディーラー達に売り込むの。その次が企業からの依頼による調査や観察。これはちょっとした探偵業みたいなものかしら。社内内部に産業スパイとか不正を行なっている人間がいないかを調べる仕事。本来なら自分ところの会社で内部調査するのが筋なんだけど、内部の人間が完全に信用できないから、私のところに依頼してくるのよ。この二つが殆どで、マスメディアへの情報の売り込みは余りお金にならないわ。あそこは特定の枠組みができ上がっているから、枠に入りきれていない人間は組織に組み込ませてもらえないし、売り込みにいっても足元を見られるだけ。それに色々と問題もあるからね」
「はあ、問題ですか」
「セクハラとかパワハラの類よ。買って欲しければ、一晩付き合えとかいってくるのよ。呆れてものもいえないわ。他人を非難しておきながら、自分達は平然と非難した行為を行なうのだから。オマケにどんな特ダネも二束三文の値段だし、精確な情報ではなく、会社の好みに合わせて意図的に歪曲させた情報じゃないと買いとってくれない。マスメディアは腐っているわ。バカバカしくなって今じゃ殆どとり扱っていないのよ」
紅茶に口づけながら彼女は答える。
(何だか……大変そうだな〜……)
社会人は大変だなと悠美は思う。そしてそれをいうと彼女は微笑みながら、
「でも中々やり甲斐のある仕事ではあるわよ。多くのコネクションも作れたし」
そのコネクションのおかげで、こんな贅沢な暮らしができるのだろう。
「はあ……どうして、自身で投資家にならないのですか?」
「株式で儲けると簡単にいうけど、そう上手くはいかないからよ。相場というのはある程度、操作されたものなの。つまり、上がるものが分かっているからといって、それに資金投入しても、逆に潰される危険性がある。その株を一気に暴落させるとかしてね。それなら、投資家になるよりも、投資家に情報を売った方が確実にお金になるわ。まあ、裏づけをとるのが面倒といえば面倒だけど……ま、楽して稼げる仕事なんてないものよ」
そういうと彼女は紅茶をテーブルに置き、う〜んと天井に向かって両手と背筋を伸ばし、
「じゃあ、ゆっくりしていって頂戴♪」
悠美に向かってウィンクすると、彼女は飲み終えた食器を片づけ、自室に戻った。
「……何だか凄い人だね。時告さんって」
悠美は彼女の背中を見送ると、鈴に話しかける。
「……うん」
紅茶を飲み終えると、鈴は悠美を自室に招き入れた。
最近、引っ越してきたというのに綺麗に片付いた部屋だ。埃やゴミなど少しもなく部屋全体に清潔感が漂っている。大きなぬいぐるみ達がやや子供っぽい印象を与えるが、女の子らしいインテリアが施された部屋だ。ベッドは大きめで、人間二人が楽に横になれるサイズ。大きめの枕が何故か二つ置いてある。
(へえ〜可愛いな)
部屋を見回していると、大きなぬいぐるみと目が合った。
「……ゲームでもする?」
鈴はおずおずと尋ねてくる。
「えっと……どんなのがあるの」
「色々とあるよ」
鈴はそういうと棚からそれらをとりだす。各種のTVゲーム機やカードゲーム、麻雀や将棋・チェスなど豊富に揃っている。
「へえ〜こんなにあるんだ」
「大上さんや時告さんと……時々やってるから……」
鈴は持っている理由をいう。
悠美は進められるまま、色んな種類のゲームを試しにやってみる。
最初は中々要領を掴めず、間違いや失敗を繰り返すものの、幾度も繰り返している内に、悠美はコツを掴む。
「……あ、負けちゃった……」
悠美は初めて勝つ事ができた。
「今のわたしの勝ちだね」
初めて勝てた事にはしゃぐ悠美。余りゲームはやった事はない彼女だが、なるほどゲームとは楽しいものだ。そう思った。
しかし、ふと時間が気になり時計を見る。夜七時に近い。特定の門限は定められてはいないが、母親に心配かけたくないと思う悠美は、
「じゃあ、そろそろ帰らなきゃ……」
勝ち逃げをするようで悪いなと思いながらも切りだす。
「うん……そうだね」
鈴は彼女の言葉にうなずくと、遊んだものを簡単に片づけると、悠美を見送ろうと彼女のあとを追う。
「あら、もう帰るの?」
リビングにきた時、ちょうど夕食の準備をしていた時告が声をかけてくる。
「はい。どうもお邪魔しました」
「またきて頂戴♪」
「……また明日ね、悠美」
二人は悠美に声をかける。
「はい、紅茶ありがとうございました。鈴ちゃんまた明日ね。じゃあ、お邪魔しました」
悠美はそういうと、玄関のドアを閉めた。
「……また会いましょうね。天使さん」
完全に閉じたドアに向かって、時告は小さな声で呟いた。
(……いいな〜鈴ちゃん)
夕食を済ませた悠美は湯船に浸かりながら、鈴の事を考える。別に豪華な家とか優しそうな保護者に対して、羨ましいと思っているわけではない。
悠美が羨ましがったのは、鈴が抱く恋心についてだ。
まだ異性に対して、特別な感情を抱いた事のない彼女であるが、青春を謳歌する年頃である以上、そういった感情に対し憧れを持たないわけではない。
ただ幾度となくその身を影魔達に汚され、また何人もの男性達に陵辱されてきた悠美にとって、異性の存在は怖いものであった。エクリプスとの戦いは人間の欲望、それも最も醜く汚い部分と対峙する戦いである。幾度となく激しい肉欲をぶつけられ、膨大な性汁で汚され、身も心も穢されてきた。そのせいで、一之瀬恵理子とであう前まではある意味、人間不信だったと言っても過言ではなかろう。
それでも戦い続けたのは、幼き日に死んだと思っていた真理との約束があったからだ。
自分が犯した過ちに対する贖罪と真理との約束の為に、心と身体を穢し、傷つけながらも戦ってきた。
あの頃の自分はそれこそが正しいと思っていた。自分を殺し、人々の為、影魔を倒す為に戦い続けてきた。
そして、その事を理由に人と関わらないようにしてきた。自分は幸せになる価値はない。自分と関われば、関わった相手が不幸になると思って。
今思えば、それはただのいい訳にしか過ぎなかったかも知れない。自身の中にある人間そのものに対する不信感──影魔という醜いものを生みだす、人間という存在自体に嫌悪感があったのだろう。
それが人間の全てではないと思いながらも、意識していないところでは思っていたのかも知れない。そして、そういうった醜い感情は全て、自身の影魔・エンジェルエクリプスに押しつけ、醜い己の心を見ようともせず、考えようともしなかった。
(……ごめんなさい……もう一人のわたし……)
悠美はエンジェルエクリプスの事を考え、もう一人の自分に謝る。今は安らかに眠っているもう一人の自分。もっと彼女と分かり合いたい。例えそれが辛いものだとしても。いつかは一つにならなければ。
そう考えると同時に、恵理子の事が頭に浮かぶ。自分のような人間を友人にしてくれた少女。明るく誰よりも優しく、そして強い人。天使としての自分を初めて受け入れてくれた人。
(……恵理子……)
彼女の事を思うと、何故か胸が苦しくなる。今どうしているのだろう。天恵学園での事が頭に浮かぶ。
殺してしまったもう一人の友人新野瞳もといヴジャドエクリプスとの戦いの事。初めて自らの意思で影を開放し、影翼天使になった事。そして……
(あれ……気持ちよかったな……)
影翼天使を開放させるきっかけとなった時の事を思いだす。
(って……わたし……なに考えてるんだろ……)
悠美は一人顔を赤く染めると、それらの雑念を洗い流そうと、湯船からでて、シャワーを浴びる。
温かな湯気と共に強くだされた水流は、桃色に染まった玉のような柔らかい肌を伝っていく。
(でも……あれ……本当によかったな〜……)
あの日。幾度となく彼女と肌を交せ合わせた。彼女の柔らかな胸に抱かれ、絶え間なく親友から送り込まれていく快感。昨日の鰻影魔にされたような無理やりなものではない。完全に身も心も任せられる安心感と信用しているが故に受け入れられる快楽。愛するもの同士が行なう性行為は、あんなにもいいものなのか。
(あれ……少しのぼせたかな……? 何だかドキドキする……)
そんな事を考えていると、身体の方が少しずつ反応し始める。乳首が勃ち、下腹部がじんじんと熱い。痺れにも似た切ないものが溢れだしてくる。
もどかしい想いを前に、悠美の手はついついいけないところに伸びてしまう。殆ど生え揃っていない薄い若毛の恥丘を超え、その下にある小さな突起に軽く触れる。
「んんっ……」
可憐な声が浴槽内に響く。恵理子の肌の感触を思いだしながら、繊細な動きで突起を弄くり、もう片方の手で胸を刺激し始める。
(や……だ、駄目よ……恵理子で……こんな事しちゃ……)
悠美は悪い事だと思い止めようとする。親友を使って、肉欲の発散などしたくない。こんな事をするのは、恵理子への侮辱だ。溢れてくる情念を鎮めようと、目を瞑り、別の事に意識を集中させようとする。
しかし、一度溢れた欲望は止まらない。悪い事だと思いながらも、情欲は高まってしまう。声を誤魔化す為にシャワーのお湯を流しっ放し、悠美はいけない自涜に熱中する。
悠美は痛みを感じない程度に乳房を揉み解し、親指と人差し指で乳首を刷り上げる。その動きに合わせるように、下の突起に触れていた手も動かし、ぴたりと閉じた肉門を幾度となく弄る。
「ふあ……ううぅん……ん」
声を必死に噛み殺そうとするも、僅かに声が漏れてしまう。悠美は胸を弄くっているのを止め、急いで口を防ぐ。こんな事は母親にも気づかれたくない。
「……くッ……ひゅっ……うっ」
必死に手で口を押さえながら、幼口を弄くる。少しずつ膝の力が抜け、タイルに引き寄せられるように、うつむけに横たえる。シャワーのお湯が背中に降り注ぐ。
湯煙と快楽に顔を真っ赤にし、指を激しく動かす。それに同調させるようにくねくねと腰も動かすが、しかし、片手だけではもの足りなくなり、口を押さえている手を離し、両手で弄くる。
片手でクリトリスを弄くり、秘部を弄くる指は、ついにその膣内へと侵入する。
「はあ……はうっ……うん、う、うあッ……」
熱っぽい息を吐きながら、膣内に入れた指を、肉壁をなぞるように動かす。お湯とは違う別の液体が、お湯と混ざりながら排水口へと流れていく。
(……恵理子……恵理子……)
過去の記憶に浸りながらも、それとは別の、恵理子との行為を夢想しながら指を動かす。仰向けに寝返り、シャワーを正面から浴びる。心地よい水流が肌を叩く。
悠美は溢れでる愛液でぬるぬるになった肉芽を捏ね繰り回し、膣中を指腹で掻き回し、気持ちいい部分を探す。
「はう……ふああ──ッ!」
指先はその部分を見つけた。思考力が飛びそうになるほどの快楽。悠美の身体は一痙攣するように震える。
(……恵理子……ダメ……そこは感じ過ぎちゃう……ひぎイぃ──ッ)
自身の指を愛する親友の指に置き換え、女性の最も弱い部分Gスポットを刺激する。指の腹で円を描くように擦り動かし、つんつんと強弱をつけながら押す。
「うああっ……うう〜……ああああッ……んあッ!」
声を殺す事も忘れてよがる悠美。身体中の熱が一箇所に集中していき、
(もう……ダメッ!……きちゃう……!)
一際深くなぞり上げた瞬間、
「ああああ──!」
頂点へと達した。タイルの上で大きく仰け反り、身体中をびくんびくんと痙攣させる。
「はあはあ……うああ……ふあ〜」
荒い息をしながら、余韻に浸りながら、
(……ごめんね……恵理子……)
心の中で親友に謝った。
3
(……もう……やだあ〜……)
悠美は小走りしながら心の中で泣き、こんなところに領域を作った影魔に憤る。
その日、悠美はエクリプスを探して夜の街をさ迷っていた。
ウルフヘジンエクリプスの件から一人での行動は危険。だから一緒に行動すべきだと真理は提案したが、彼女はそれに反対した。
あのエクリプスの狙いはこの市にいるエクリプス達と光翼天使マリエル。
標的になっているのに、一緒に行動を共にして、危険な目にあわせるわけにはいかない。また目の前で大切な母親が殺される思いなど、悠美はしたくなかった。
それにあのエクリプスには遠距離戦闘ができないという欠点を把握している。だから、自分一人でも十分に勝てると悠美は考えた。また彼は自分から真理の情報を引きだすまで殺さないだろうと考えたからでもある。多少手強いがその隙をつけばどうにかできる。
故に今回も単独活動を行なう事を決めたのだが……
「へいッ! そこの君ィ! 可愛いね。俺達と遊ばない?」
「ちょっといいかね? うちでバイトしないかい。たった一度で三万円以上も稼げるバイトだよ。そうだな、あんたなら、もっとだしてやってもいいが。どうだね?」
「はあはあ……ちょちょちょっ、ちょっと、おじさんについてこない? ついてきてくれたら、おおっ、お小遣いあげるよぉ〜?」
と、次々と怪しげな声をかけられる。
悠美は影魔の気配を追っている内に、怪しげな歓楽街に入ってきてしまったのだ。
夜遅くに少女……それも気の弱そうな美少女が一人歩いているのだ。家出少女か何かと思い、飢えた男達が声をかけてくるのは、当然の事である。
悠美はそれらから逃げるように人気のない路地の裏に入ると、そのまま進んでいき、影魔の領域となった場所を見つけた。
そこは閉鎖されたショッピングセンターであった。
立ち入り禁止の看板がでており、自動ドアが固く閉じている。だが、どこからか入る事のできる場所があるのだろう。しかし入り口を探すのは面倒なので、
「聖なる光よ、わたしに希望の翼をッ!」
誰もいない事を利用して、この場で変身。ユミエルに変身を遂げた彼女は、大きく翼を広げ、割れた窓から中に侵入する。
中に侵入すると翼を折りたたんで、できるだけ気配を隠しながらエクリプス達を探す。
「て、テメエ。よくも狸親父をッ!」
すると下のフロアから、怒鳴り声が聞こえてきた。
(なっ、何?)
彼女は音のした方向にいく。
中にいる連中にばれないように、注意を払いながら下に向かう。
下のフロアからは、
「太鼓持ちのおっさんは面白い人だったんだぞ!……畜生……おれたちのムードメーカーを!」
「人間社会の不幸を一身に背負いしものを殺すなんて! 絶対ェに許せねえ!」
「彼は競争社会の哀れな犠牲者だったのよ!」
と、数々の怒声が飛び惑う。
(何なのいったい)
その会話内容を聞いて、いったいどういう事なのか理解できず、ユミエルは首を傾げる。
フロアに辿り着いた彼女は、目立たないように物陰に隠れながら、エクリプス達がいるスペースを捜しだす。
エクリプス達にばれないよう、物陰に隠れながらそこを覗いた。
そこには三十数匹ほどのエクリプス達の群れがいた。気配から察するなら、全員が下級。上級らしきものはいない。
(あ、あいつは……)
ウルフヘジンエクリプスも見つけた。
自分よりも先にこの場所にやってきたのだろう。彼の傍らには、狸のようなエクリプスがいた。その身体には黒き魔剣が突き刺さっている。このエクリプスこそ今騒がれているラクーンドッグエクリプスその人だ。
「……ラクーンドッグエクリプス……必ず仇を討ってみせる!」
この場のリーダー格だと思われる、虎と人間が融合したような姿のエクリプスが彼に襲いかかった。
(は、早い!)
虎影魔は、遠めで見ているユミエルでもはっきりと捉えきれないほどの敏捷性を持っていた。
「ぐらあああああッ!」
虎影魔は無数の分身を作りフェイントをかけると、鋭い爪で急所を狙う。
ウルフヘジンエクリプスは虎影魔の一撃を後ろに下がりながら避けた。
相手は追撃の為、足を踏み込もうとした。が、突如として膝から下が切断。その場に倒れる。ウルフヘジンエクリプスは後ろに下がりながらも、膝下を攻撃していたのだ。
「半端な動きだ。あの世からやり直せ!」
激痛に呻く虎影魔に止めを刺そうとしたその時、彼の周囲の空間に無数の穴が空き、そこから無数の触手──棘や吸盤、爪や刃が生えている──が包囲するように現れ、怒涛の勢いで襲いかかる。
しかし、その不意打ちを予測していたかのように、ウルフヘジンは左手で大型ナイフを抜くと、それらを避け、あかたも竜巻のように切り払う。そして隙を見て魔剣で虎影魔に止めを刺した。
それから先は一方的な虐殺であった。
大型ナイフと黒き魔剣を駆使し、エクリプス達を虐殺するウルフヘジン。返り血で汚れる事も気にせず、盛大に血飛沫を上げ、内臓をばら撒き散らし、死体を踏みつける。
必死に抗おうとするも、攻撃も特殊能力も全て防がれ、避けられ、成す術なく殺されていくエクリプス達。自分の魂が魔剣に喰われていく感覚に涙し、痛哭の叫び、絶望の声、悲嘆の音吐が木霊する。
フロア内に虐殺の歌声が響く。
(酷い……酷過ぎる……)
余りにも惨たらしい光景に、彼女は不快感を隠せず、思わず口元を片手でふさいだ。
欲望に落ちた人間達の成れの果てとはいえ、エクリプスは曲がりなりにも人間だった存在。何故、ここまで惨たらしく殺されなければいけいないのか。どうして魂まで奪われなければいけないのか。彼に彼らの魂を奪う権利があるのか。彼のしている事は余りにも惨たらし過ぎる。
「たっ、助けて……助けてください。お願いします……何でも、何でもしますからあぁ。見逃してくださいぃぃい──!」
三十数匹もいたエクリプスだが、遂に残り一匹になってしまった。命乞いをしているのは、薔薇と高校生ぐらいの少女が融合したような姿のエクリプス。彼女は涙を流しながら、必死に助けを乞う。
ウルフヘジンエクリプスはそれに薄笑い──仮面で顔を隠しているから、はっきりとは分からないが、ユミエルの目には、口元が緩んでいるように見えた──を上げると、刃を向けた。
「止めてえぇッ!」
ついに堪えていた不愉快感が爆発。止めに入ろうとしたが、
「遅かったな」
彼は皮肉気に呟くと、薔薇影魔の頭部に魔剣を突き刺した。悲鳴を上げる暇もなく死ぬ薔薇影魔。
「……なんで……なんでこんな酷い事ができるの!」
「質問の意図が分からんな。酷いとはいったい何に対していっているんだ? 命乞いをしたこいつを殺した事か。それともここにいた連中を鏖殺した事か。それとも、殺した上に魂まで奪いとっている事に対してか」
ウルフヘジンエクリプスは魔剣を引き抜くと、彼女の方に振り向きながら尋ねる。
ユミエルは質問に対し、光剣を持ってして答えた。
「フン、これもまた一つの答えか……」
彼は魔剣で受け止めると、彼女の腹部を蹴る。
「ぐはッ!」
軽々と蹴り飛ばされるユミエル。
「だが、その姿で俺に勝てると思ってんのか? 黒い奴で来い!」
挑発するようにウルフヘジンエクリプスがそういうと、
「……いわれなくたって……ッ!」
ユミエルは激痛に顔を歪ませ、片手でお腹を押さえながら立ち上がると、光翼天使から影翼天使の姿に変身した。
影翼天使になった彼女は、大きく間合いを開けながら、彼の周囲の空間から無数の鎖を出現させ襲わせる。
「ワンパターンな奴だ」
鎖嵐に対し、彼は建物の柱を利用しながら体術で避け、どうしても避けられないものだけナイフと魔剣で弾く。
その隙をついて、左手を振りかぶって飛びかかるユミエルだが、
「甘い!」
その一撃を魔剣で防ぎ、ナイフによる切り上げ。とっさに後ろに跳んでそれを回避するユミエル。だが、完全には避け切れず首輪が切れ落ちる。
(やっぱり、近接戦じゃ駄目ね)
彼女は後ろに飛びながら、右手を伸ばし鎖をまとめて放つ。ウルフヘジンはそれを流し受けると、間合いを詰めようとする。ユミエルは彼の前に鎖と刃の壁を作りそれを阻止。更にフロア内を高速で飛んで大きく間合いを開け、物陰に隠れると、周囲に無数の鎖を這わせる。鎖を這わせた理由は三つ。一つは鎖を通して相手の位置や動きを探知する為。二つ目はトラップとして用いる為。そして、三つ目は大量の鎖を這わせる事で、力の発生源である本体を見つけ難くする為だ。
(さあ、どうする……)
このフロアの床の全てに鎖を這わせ、柱や天井などにも念入りに鎖を通している。ウルフヘジンの位置も動きも手にとるように分かる。
壁の前で立ち止まっている彼は、周囲を見渡したあと、注意深く足を動かし、足元を調べる。足が鎖の一部に触れる。
ウルフヘジンエクリプスは足元の鎖を鼻で笑うと、
「それで隠れたつもりか?」
壁を迂回し、彼女のいる方に向かって真っ直ぐ最短距離を駆ける。
ユミエルは無数の鎖で迎撃しようとするが、
「半端な攻撃で俺が止められるかあッ!」
彼はナイフと魔剣でそれらを弾き返し猛進。あっという間に彼女の元に辿り着き、魔剣で喉下に横一閃。
ユミエルはとっさに頭を下げて回避。瞬間、彼のナイフが迫りくる。左手の剣爪でそれを防御。バックステップを踏みながら、足元から鎖を出現させ攻撃。彼はそれを後ろに跳んで避ける。
「何でわたしの居場所が分かるのよ」
気配は完全に隠せていたはず。更に周囲を鎖のせいで力の発生源も分かり難いはずだ。なのに彼は少しも迷わず、はっきりと自分の居場所が分かった。彼女はその事が不思議に思った。それに……
(何で攻撃が当たらないのよ)
ウルフヘジンは確実に攻撃を回避したり防御してくる。動きが特別速いというわけではない。確かに速いといえば速いが、単純な速度なら、影翼天使となったユミエルの方が速い。しかし、彼はまるで相手の動きが分かっているかのように先手をとって行動してくる。
「一々説明してやるいわれはない!」
彼は彼女の言葉を無視して切りかかる。
ユミエルはウルフヘジンの猛攻をいなしながらも、チャンスをうかがう。この建物はかなり大きく、フロアは広い。これを活かさねば。そして、何とかして彼の回避能力の高さの秘密を暴かなければ。でないと勝てない。
攻撃をいなす事に集中していた彼女は後ろにきた柱を蹴ると、今度は攻勢にでた。無数の鎖や刃羽根で攻撃し、接近しようとした場合は刃翼や剣爪で牽制。
戦いながら、彼女は必死に考える。何故、彼がこうまで回避する事ができのかを。
(この攻撃で見抜いてみせる!)
間合いが開いた瞬間、彼女は大きく黒翼を広げ、禍々しい刃状の羽根を逆立たせると、
「穿て! ヘルストームスラッシャーッ!」
彼のいる方向に向かって刃翼弾の雨を降らせた。
ウルフヘジンは自身に向かって飛んでくる刃羽根の雨を睨むと、一番近くまで飛んできた幾つかの刃を弾いた。弾かれた刃は他の刃を巻き込んで弾き、それが次々と連鎖。紙一重で彼に当たらない。
(なんて奴なの。しかし……)
彼女は連鎖されないよう、翼弾の幾つかを操作する。だが、彼はそうくる事が分かっていたように魔剣を前に立て、身体全体を覆う漆黒の盾を作り、確実に当たるそれを防いだ。
「み、見抜いたわよ……」
ユミエルはそう呟くと攻撃を止めて、彼から逃げるように距離をとる。彼女はこの攻撃で、彼の回避能力の高さの秘密を見抜いた。
「何を見抜いたというのだ?」
彼は彼女の呟きが気になったのか声をかけてくる。
「あなたの驚異的な回避能力についてよ。高い集中力と直観力。この二つを使ってわたしの行動を事前に予測、回避していたのね」
ウルフヘジンは無数の刃弾の中から確実に自分に当たるものだけを選び、連鎖させて弾いた。これをするにはまず飛んでくるそれを見極める為の高い集中力が必要である。更に操作された弾を飛ばした時、避ける事はせず、防護盾を作り防いだ。これは相手が次にどうくるかを予測できなければ無理だ。行動を予測するには、鋭い直感力が必要不可欠。故にそう結論した。
「フン、なるほど。しかし、少し足りんな」
「何?」
自分の答えが足りないといわれ、彼女は戸惑う。
「精確には高い集中力と直観力を活かし、貴様の意を読み状況の流れに沿って行動していたといったところか。意を読む故にどういう風に攻撃がくるのか分かるし、状況や様々な流れを読む故にどこに隠れているのかを当てる事ができる」
(簡単にいわないで頂戴)
事もなげにいって見せるウルフヘジンエクリプスに彼女は思わず突っ込んだ。
意を読み流れを読む。単純に聞こえるがこれほど難しいものは他にない。相手が自分ではない以上、考えを読み間違える事など多々としてある事だし、また、考えとは流動的なもので常に同じものではない。更に流れを読むとなると相手や自分以外の多くのもの──周囲の状況や環境その他膨大な情報を計算し結果を導きだし、無数の選択肢の中からできるだけ正しい判断をしなければならない。そんなバカげた事ができる人間などそうはいない。欲望に流れやすい影魔なら尚更だ。
「何なのあなた。いったい……」
彼の言動と行動から、ウルフヘジンエクリプスが何らかの武術か何かを習っていた事が予測できる。それも精神・肉体両方でかなり高レベルのものだ。何故そのような人間が影魔などに落ちたのか、不思議に感じた。そして同時に、
「それだけの力を持ちながら……どうして、それを他人の為に使おうとしないのよ!」
力を自分の為にしか使わない彼に義憤を感じた。自分と同じエクリプスを狩るものであり、これだけの力と技量を持つ人間が、何故、自分の為だけにその力を振るうのか。非常に勿体なく彼女には思えた。
「貴様はバカか? 俺の力は俺のもの。俺がどのように使おうが、俺の勝手だろうが」
「違う! 力は弱者を守ってこそ、価値と意義がある。自分の為だけじゃない! 強者の力は大勢の人のものよ!」
「違うな。強者の力は強者のもの。強者がその力をどう使おうとそれは強者の自由だ。奪う事に使おうが、守る事に使おうがな。間違っても弱者のものではない!」
「あなたのいっている事は強者の理屈よ。強くなれない可哀想な人の事を考えていないわ。この卑怯者!」
「お前のいっている事は弱者の理屈だ。強くなろうともしない卑劣な人間の事を考えていない。この愚者め!」
見事なまでに相反する主張をする二人。
「あなたはいったい……何の為に力を求めるのよ!」
「力だ! 神にも、悪魔にも、何者にも勝る力だ! それこそ俺が渇望して成らぬもの。力の為に力を振るって何が悪い」
「力の為に力を求めるなんて……力だけが全てじゃないわ!」
「しかし、力がなければ困るのもまた事実だ。違うか?」
「うう……」
確かにその通りかも知れないが、だからといってそれだけを求めるのは間違いである。力の果てにあるものは、更に巨大な力であり、どこかで満足しない限り、無限に続いていくものである。それはただの虚無であり、無意味なものだ。そもそも力は力にしか過ぎず、それそのものには何の意味も価値もない。武器がただ武器としての価値しかないように、力もただ力としての価値しかなく、それに何らかの意義や意味を持たせるには、何かに対して力を使うかが重要であると、彼女は思った。しかし、口下手なユミエルは、彼の勢いに押され、その事を言葉にして紡ぐ事ができず、詰まってしまう。
その隙をついて、
「かつて、強者は正義だった。強者が正義だったが故に、誰もが強者になろうと、もがき、足掻き、力を求めた。その結果、強者は弱者を見下し、弱者は強者を羨んだ。そして、強者になりたい弱者は無条件で強者を尊敬した。どのような強者……例え卑劣極悪な人間でも──それに見合う力を有していればだが──な。しかし、現在はどうだ。お前みたいなバカな事をほざく連中のせいで、この理屈は通じなくなった。弱者のままでいい、弱者にも価値があるとかいってな。結果的に強くなる必要性というものをなくしてしまった。それに強くなったところで自分のものになるわけではない、むしろ今度は自分が弱者の為に手に入れた力を使わなければいけない。ならば強者に助けてもらえる弱者の方が割が合う、誰にも助けてもらえない強者よりも助けてもらえる弱者の方がいいなんて考えるのが普通だ。強者の力は弱者のものだと考えられるようになったせいで、弱者は弱者の癖に分を弁えず、偉そうに強者に対して威張り散らし、弱者である事を理由に強者にたかるようになった。そして、矮小な己を見つめる事もできず、自らの醜さを忌み嫌い、他人の美徳を羨み憎み嫉妬し、誰も彼もが醜く互いに足を引っ張り、貶めるようになった。それもこれも強者と弱者の関係が崩れてしまったせいだ。強者が偉いのは当たり前。野生に生きる多くの動物ですら、強くなろうと必死に努力する。弱ければ生きていけないし、子孫が残せないからな。しかし、弱者共はまるで家畜か何かのように保護を求め、当たり前のように権利を貪ろうとする。恥知らずにな。卑劣な敗北主義を平和主義などという言葉で誤魔化し、自分達がいざ困れば子供のような知能で喚き騒ぐ。そんなバカ共の為に力を振るえだと? 笑わせるなッ!」
ここぞとばかりにまくし立てるウルフヘジン。
(ぐうぅッ!)
圧倒的な言葉数に押されてしまうユミエル。膨大な言葉数に思考が追いつかない。ただ、
「じゃあ、どうして、あの女性は助けたの?」
ふと疑問が浮かび、尋ねてみた。
すると彼は舌打ちしたあと、
「別に助けたつもりはねえよ。エクリプスを狩りにきたら偶然いたんで、とりあえず適当なところところに置いた。ただそれだけの事だ。放っておくのは問題だしな。それに聞きたい事もあったし、あの場所でうだうだ話して、もし意識が戻られてみろ。あとが何かと面倒……」
ぐだぐたといい訳をしていると、不意に彼は頭を振り、
「……ええい。黙れェい! お前とあれこれ語るつもりはない! さっさと喋れ! 今、あれはどこにいる。この市にいるのか? それとも別行動しているのか?」
強引に話を変えた。
「悪いけど……その質問に答えるつもりはないわ!」
彼女はそっけなく答えると、ウルフヘジンエクリプスの周囲に黒壁を形成。彼を一時的に閉じ込め、その間に大きく距離を開ける。満足な距離まで開けたら黒壁を消し、
「中途半端な攻撃では止められないといったわね……」
フロア内に張り巡らせた鎖を掴み、膨大な力を送り込む。膨大な魔力を送られた鎖達は金属音を立てて震え、黒いオーラが漂う。
「なら、これはどうかしらあッ!」
ユミエルはそういうと送り込んだ魔力を開放。刃と鎖による嵐を引き起こした。
激しく渦巻く鎖とそれに合わせて激しく踊る刃。鉄の嵐が廃墟ビルのフロアに吹き荒れる。刃鉄の風を受けた廃墟ビルの残骸は無惨に切り刻まれ、粉々に打ち砕かれ、フロアを支える天井や柱に爪痕を刻む。逃げ道はない。天井も床も彼女の鎖で封じられている。
ウルフヘジンエクリプスは、破壊の檻に閉じ込められた一匹の狼にしか過ぎなかった。
「ぐがあああああッ!」
激しい金属音と共に彼の絶叫がフロアに響く。膨大な量の鎖と刃のせいで見えないが、回避不可能な量の鉄鎖と刃がウルフヘジンの肉体を破壊しているのだろう。だが、ユミエルは不思議と哀れだとは感じなかった。彼が殺した連中に比べれば、遥かに綺麗な殺し方だ。ただ殺されるだけで、魂までは奪われないのだから。そう思ってしまうせいか、いつもなら感じる罪の意識が湧いてこなかった。そんな自分に少し戸惑いを感じたその時、
「ガブリエルハウンド(冥界犬)の咆哮を聞きやがれえッ!」
ウルフヘジンエクリプスが叫んだ。
「わおおぉぉぉおおんッ!」
すると彼とは違う別の雄叫び声がフロア内に響く。
(この声……犬?)
そう思った瞬間、暴虐の檻の中から数匹のそれが彼女の前に姿を現した。
ギラギラとした目を持つ、半透明なマットブラックの猟犬。その口は鉄鎖や刃を喜々として噛んでいる。
(何、これ……)
そう思い身構える彼女を嘲笑うかのように、魔犬達は身をひるがえすと、大きく口を開き、吠え立てながら破壊嵐の中を駆け巡り、嵐を吸い込んでいく。
この犬達が彼の能力だと判断したユミエルは、嵐を吸い込むのを止めさせようと、走り回る魔犬の身体に左手の剣爪を突き刺す。しかし、この世のものではないのか、幾ら突き刺し引っかいても、それが犬達を傷つける事ができない。まるで空気のように攻撃が通り抜けてしまう。
(くッ……こんな能力を持っていたのね)
嵐の勢いが弱まり、彼の姿がぼんやりと見え始める。
「ちょっと……勿体ないけど仕方ないわね!」
ユミエルは左手の剣爪に力を込めると、
「ジェノサイド・イレイザー!」
必殺技の一つを魔犬に向かって放つ。ジェノサイド・イレイザーは魔力を込めた斬撃で相手を空間ごと消滅させる技。これなら通じるだろうと思って放つがしかし、それすら通り抜けてしまう。どうやら魔犬達にはいかなる攻撃も無駄なようだ。
ユミエルは舌打ちすると、彼の方に目を向ける。とりあえず、犬達は自分に攻撃をしかける意思はないようだから無視。それよりもこれを放ったウルフヘジンの方が重要だ。
犬達によって喰われたのか、地面や天井に張り巡らせておいた鎖の感覚はない。また犬達に喰われていくせいか、嵐の勢いが弱まり、彼を閉じ込めている破壊の檻はその力を弱めていく。またウルフヘジン自身、嵐の中を走っているのか、影はどんどん大きくなってくる。
(まずい、今の内に何とかしないと)
遠距離戦では自分も傷つかない代わりに彼を倒す事もできない。狼を倒すべく、彼女は嵐の中に突撃する。
「はああぁぁああッ!」
翼を折りたたみ、暗黒彗星と化したユミエルは、自身がつくりだした刃鎖の嵐の中を超高速で掻い潜る。
「ドラアアァァッッ!」
彼女の気配を察したのか、迎え撃つように彼も吼えた。
鎖と刃の嵐の中、二人の咆哮と気合が激しくぶつかり、見えない火花が飛び散る。
ユミエルの意識が離れたせいなのか、それとも魔犬に嵐そのものが喰われてしまったのかは分からないが、ちょうどタイミングよく嵐が消滅。お互いがお互いを肉眼で確認。
ウルフヘジンエクリプスの身体には無数の魔犬の顔がくっついていた。普段は毛皮に覆われている場所だ。あそこからあの魔犬達を召喚し、自身も嵐から身を守ったのだろう。
ユミエルは猛禽類の如く左手の指を広げると力を込める。防御の事は考えない。魔犬達がいる以上、遠距離攻撃は無駄。ならば、全力全霊を込めて、この一撃にかける!
それを迎え撃つウルフヘジン。ユミエルの気迫に押されたのか足を止め、迎撃ではなく、短剣と魔剣を逆手に持って十字に構え防御に集中。黒光の防護盾を作り、受けて立つ!
全身全霊をかけた力がぶつかった。
互いに一歩も譲らず押し合う。少しでも気を抜けば一気に押される。
拮抗する巨大な魔力が周囲に蓄積され、二人の周辺の空間が陽炎のように揺らめきだす。彼の身体にくっついている魔犬達が蓄積された魔力を吸い込み飲み込んでいくが、陽炎はどんどん揺れを激しくする。
「やああああああ──ッ!」
ユミエルが吼えた。伸ばした左手と共に身体全体を急速回転! 彼の防護盾をドリルのように削っていく。それに必死に耐える防御盾だが、少しずつ亀裂が生じ、燐光が飛び散る。そして──
彼女の剣爪はウルフヘジンエクリプスの防御を強引に捻じ伏せ、左の腹部に到達。血飛沫が飛び散り、肉や内臓・肋骨が粉になって盛大に散っていく。
「ぐがあああああッッ!」
余りの激痛に彼は悲鳴を上げた。
破壊の回転弾はウルフヘジンの肉体を少しずつ引き寄せ、破壊していく。
「ああああああッッ!」
ウルフヘジンは気力を振り絞って叫び声を上げると、ストームブリンガーを地面に突き刺し、引き込まれる力に抗う。だが、破壊の化身となった暗黒天使は無情にもウルフヘジンの身体を削っていく。
彼は少しでも削られる軌道を変えさせようと、突き刺した剣を彼女に向かって動かす。ユミエルと黒き魔剣が盛大な火花を跳び散らし、周囲に漂っていた魔力は、再び起きた激突により、大爆発を引き起こした。
ビルの床に大きな穴が開き、コンクリートの柱が数本へし折れ、もうもうとした粉煙が出口となる隙間を求めフロア内に漂う。
(……領域は何とか持ったようね)
噴煙の中からユミエルが姿を現した。闇の防御結界のおかげでその身には、噴煙の汚れすらついていない。
凄まじい力のぶつかり合いと爆発だったが、ウルフヘジンエクリプスの放った魔犬達のおかげか、領域は何とか壊れずに済んでくれた。また、この領域そのものが通常のものよりも頑丈だったのだろう。
(この領域……彼が張ったものだとするなら、まだ生きているわね)
ユミエルは大穴に近づき、下を覗き込む。コンクリートや鉄筋でできた瓦礫の中にウルフヘジンエクリプスが倒れていた。爆発の影響なのか、それとも召喚を維持する為の意識──魔力を供給し続ける事で、魔犬達はこの世界に存在できたのだろう──を失ったのか、その身にまとっていた魔犬達も駆け回っていた魔犬達も完全に消えていた。
彼の左上半身ほぼ三分の一が粉々に砕け散り消滅。心臓を始めとする内臓器官の多くが破壊されている。残っている部分といえば、頭と僅かに残った右上半身と下半身──爆発の影響なのか、それとも落下した時の影響なのか、左膝から下は完全にちぎれている──のみ。
ユミエルは相手が重症を負っているとはいえ油断しない。まだ、戦いが終わったわけではない。ウルフヘジンがどう動くか、じっと見つめる。
「ぐぱあああぁぁッ!」
彼の口が開いた。何か喋ろうとしたようだが、残っている右肺や喉に血が溜まっているのか、言葉にならない。
瓦礫に埋もれた絶好のチャンスではあるものの、手負いは危険だと承知している為、ユミエルは下手な攻撃はしかけず、じっと出方をうかがう。
ウルフヘジンエクリプスは自身の上に乗っている瓦礫をどけると、魔剣を支えにして幽鬼の如く立ち上がり、彼女を睨みつける。
「ごぷぁごぱあああぁぁッ!」
彼は肺から血を抜く為、頭を下げると、盛大に血反吐をぶちまける。
「ああぁぁ〜いいぃぃ〜ううぅぅ……」
肺の中に溜まった血反吐をぶちまけたあと、声の調子を調べる。肺が一つなくなったせいか、掠れ気味の声。
「大ぃしたものだぁ。もし『夜ヲイク猟犬ノ群レ』を使っていなければぁ、負けていたところだったぁ……」
掠れ掠れの声で言葉を紡ぐウルフヘジン。拮抗状態が崩れたあの時、もし猟犬達を身にまとっていなければ、蓄積された力をまともに受け、確実に倒されていただろう。また、爆発で死んでいたかも知れない。
「しかしィ……! 俺はァ凌ひぃだ。そしてェ、貴様の攻撃も見切ったぁ! 俺ェの勝ちだあ!」
魔剣に寄りかかりながら、口周りの血を拭うと、彼は高々と勝利宣言した。
(その姿で何をいっているの?)
半死半生の分際で何をいっているのだ。喋る事すらままならない癖に。
ユミエルは止めを刺すべく跳躍した。狙うは口。
文字通り減らず口を叩けなくしてやるといわんばかりに、彼女のしなやかな足は伸び、鋭いハイヒール底がウルフヘジンの顔を狙う。迫りくるヒールを彼は咬みついて防ぎ、追撃を避けようと魔剣を軸に後ろへ跳ぶ。
が、彼の後ろを遮るように柱がそびえていた。背中を強く痛打。柱を背にして座り込むように倒れ、魔剣が手からこぼれる。
(もらったあッ!)
この絶好のチャンスに彼女は左手の剣爪を構え、ウルフヘジンに襲いかかる。狙うは喉下。勝負に結着をつけるべく、一気に止めを刺そうとした瞬間!
彼の目が輝いたのを見て、何かあると本能的に感じたユミエルは急制動をかける。それと同時に落とした魔剣の切っ先が彼女の行く手を遮るように立ち上がった。
(あ、危なかった……)
ウルフヘジンエクリプスの足が魔剣の柄を踏んでいた。落とした魔剣の柄を踏みつける事で、切っ先を立たせたのだ。急制動をかけた為、刺さらずに済んだが、あのまま止めを刺しにいっていたら、確実に魔剣が突き刺さっていただろう。
(少し勝負を急ぎ過ぎてたかも。もっと慎重にいかなきゃ……)
ユミエルは後ろに跳んで間合いを開けると、鎖と刃翼で攻撃。ウルフヘジンエクリプスは荒い息をしながら魔剣を拾い上げると、必死に猛打から身を守る。しかし、片手では防御し切れず、鉄鎖の一本が顔面に命中。仮面にヒビが入り、片目が潰されてしまう。そこで彼は片足で這い、柱の陰に隠れた。
(そんなので凌げると思っているの!)
彼女が柱の陰に回りこんだ瞬間、何かを感じとり、とっさに黒翼を折り畳み暗黒の力場を形成。防御結界を張る。飛んできたそれは結界にぶつかり、粉々に砕けた。
(これは……瓦礫?)
飛んできたそれはコンクリートの破片だった。高速で投げられた瓦礫は、普通に受ければ、間違いなく致命的な威力を秘めていただろう。
ウルフヘジンは次々と落ちている破片や鉄筋を投げてくる。
(無駄な足掻きをッ!)
確かにまともに受ければ、絶大な威力だ。だが、暗黒天使の防御結界はこんなもので打ち抜けはしない。時間稼ぎにもならない。無駄な足掻きだ。せいぜい、苛立たせるぐらいしか効果はない。
ユミエルは死角となっている方から回り込むと、ウルフヘジンエクリプスの右半身に刃翼による集中攻撃。彼は避けようと身をひるがえすも、半身を失った事による重心の狂いと激痛のせいで攻撃を避け切れず、右半身を貫かれ、柱に突き刺さる。
(これで終わりよ──ッ!)
ユミエルは確実に止めを刺すべく、左手の剣爪を揃え、長大な両刃剣にすると、彼の頭目がけて切りかかった。刹那──
ウルフヘジンエクリプスはなくなったはずの左半身に向かって魔剣を投げ、失われた半身を瞬間再生し、投げられた魔剣を逆手に掴んだ。
ユミエルはとっさに一撃をキャンセル。大きく後ろに跳びながら、避けようと必死に半身を反らす。しかし、間に合わず、鋼色の魔刃は横腹から胸にかけて切り裂いた。
余りの激痛に悲鳴を上げる事もできないユミエル。とっさに半身を反らしたおかげで、致命傷は免れたものの、決して浅くない。
「い、いつでも瞬間再生できたのね……化け物めッ」
彼女は彼から距離をとると、傷口を押さえ込み、膝を屈する。ウルフヘジンエクリプスはいつでも傷を瞬間的に再生できた。しかし、少しでも彼女に隙を作らせる為、あえて重症を負っているように見せかけていたのだ。
「少し強引だが。ああでもしないと、隙ができないんでね」
彼は悪びれる事なくそういうと、身体に突き刺さっている刃翼をへし折り引き抜く。そして黒い霧のようなもので自身の身体を覆った。傷や失った肉体部分を治療しているのだろう。治療を終えると、霧はスライム状になり失った衣類を再形成。完全回復したウルフヘジンはユミエルを蹴り倒し、
「これが最終勧告だ。マリエルの居場所を話せ。でないと……」
彼女を足で押さえつけ、首下に剣を切っ先を突きつける。
「クッ……何故なの? 何故、ママを狙う!」
「…………」
ウルフヘジンエクリプスは考えるように少しだけ黙り込むが……
「……昔、俺はあいつに助けられた」
喋った方が話してくれる可能性が高いと考えたのか、語りだす。
「俺がガキの頃の話だ……今から十五か十六年前ぐらいだな。だが助けた際、あいつは俺の記憶からエクリプスに関わる部分と影魔自身を封印しやがった。そのせいで俺がどれだけ苦しまされたか。それだけじゃねえ。封印のせいで俺は……」
歯軋りしながら、自身が口にだしかけたものに気づき、急いで片手でふさぐ。そして、いいかけていた言葉を飲み込んだあと、
「とにかく……あれが施した封印のせいで、俺は十年近くも苦しまされた挙句、何もかも失ったんだ。助けてくれた事には感謝しよう。しかし、余計な事までしやがって。これが俺が奴を狙う理由だ。さて俺が喋った以上、喋ってもらおうか」
そういい、言葉を促す。
「今から三つ数える内に喋れ。でないとその首を切り落とす」
ウルフヘジンはそういってカウントしだす。
「一つ……二つ……三つ!」
ユミエルは力いっぱい口をつぐみ、まぶたを閉じたその時、
「そこまでよ!」
その声と共に一つの火球が彼に襲いかかった。ウルフヘジンエクリプスは飛んできたそれをナイフで防ぎ、それを放った相手を睨む。
(この声は……)
そして、ユミエルもまた声のした方向に視線を向けた。
二人の視線の先には四枚の翼を持つ紅い天使がいた。
金髪の頭にシスターのものに酷似した紅いヴェールを被り、修道服を思わせるワンピースドレスで身を包んでいる。ドレスの生地は薄くぴったりと肌に張りついているせいで、彼女の豊満なボディーラインはいっそう強調されていた。ドレスは双球の中心から臍下の辺りまで十字状の切れ込みが入っており、胸の谷間や臍下が大胆なまでにさらけだされている。赤い前垂れは足の付け根付近しか覆っていない為、むっちりとした太ももが殆ど見え、躍動感に溢れた長い脚を包むのは膝下までのブーツだけだ。後ろの生地は長く垂れ下がりマント状になっている。しかし、布地を浮かばせる肉付き豊かなヒップは少しも形を崩さず、扇情的な肉感は全く隠れていない。その手には自身の身長よりも長い錫杖が握られ、先端にある神々しい大十字架部分を彼の方に突きつけている。
「……マリエル」
「ママ!」
ウルフヘジンエクリプスは鋭い視線を送りながら呻くように呟き、ユミエルはこれ以上ないタイミングで助けに現れた、光翼天使マリエルの姿に目を輝かせながら口にした。
「悠美……間に合ったようね」
聖母はほっと溜息をつくように呟いたあと、彼をキッと睨みつけ、
「あなたね。わたしを探しているというエクリプスは……いったい何者なの?」
尋ねる。
彼は軽く舌打ちすると、ナイフを鞘に収めて仮面を外し、ユミエルから素顔を隠すようにマリエルの方へと顔を向けた。
ウルフヘジンエクリプスの素顔を見たマリエルだが、
「覚えのない顔ね」
そう答える。
「フン、十数年前だからな。覚えていないのも無理ないか。それに……テメエが助けた一人一人の人間が、その後、どういう人生を歩む事になったのか、考えた事もねえんだろう」
彼は外した仮面を戻すとユミエルから切っ先を離し横に蹴り飛ばす。
「……お前はもう用済みだ。逃げてもいいし、母親と一緒に戦いたいのなら、二人まとめて相手にしてやる」
そういうと、ウルフヘジンは八相・大上段の構えをとる。
「随分と余裕ね」
天使親娘に一人で立ち向かうとは。自信家ねとマリエルは思う。横に蹴られたユミエルは動ける程度に傷を回復させると、傍により、
「……気をつけて、ママ。かなり手強いわよ」
予備知識のない母親に彼の能力を説明し、注意を促すユミエル。それに黙ってうなずくマリエル。
「お喋りは終わりだ……」
彼は甲高い風音を鳴らすような呼吸をしだし、
「いくぞッ!」
神速の速さで二人に襲いかかってきた。
親娘は素早く左右に飛んで、初太刀を回避。互いに柱を蹴って同時攻撃。ウルフヘジンは左右から迫る攻撃を魔剣とナイフで防御。ユミエルを蹴り飛ばし、マリエルと鍔迫り合う。彼女は上手に力の流れに合わせて動く為、単純に押しただけでは通じない。
そこで彼は軽く後ろに引く。それに合わせてマリエルは彼の体勢を崩そうと引く力に合わせて強く押した。ウルフヘジンは彼女の力と長い柄によるテコの原理を利用した、柄頭による左アッパー。
上半身を反らしてそれを避けたマリエルだが、追撃の右フックと左フックを避け切れず、まともに受けてしまう。彼女の体勢が完全に崩れたところを狙って、彼は後ろに下がりながら頭部へ一閃。
しかし漆黒の刀身が振り下ろされた瞬間、ユミエルの鎖が刀身に絡みつき、それをカット。ウルフヘジンは軽く舌打ちすると、動きながら強引に鎖を引きちぎり、二人から間合いを開ける。
「……女性の顔に手を上げるなんて最低ね……」
マリエルは片手で殴られた顔を押さえ、恨めしげに呟く。殴られた部分が真紅に腫れていた。
だが彼は彼女の言葉を無視して、切りかかる。戦いに男も女も関係あるかといわんばかり。容赦ない。
マリエルはそれを錫杖の十字架部分で受け止めると、石突部分で足払い。彼の体勢が崩れたところを狙って、錫杖を光の十文字槍に変化させ一閃。それをナイフで防ぐウルフヘジンだが、その隙をついてユミエルの剣爪が彼の背中を狙う。彼は両手剣を逆手に握り返し、後ろのユミエルを牽制。同時に横に飛んで、二人から間合いをとる。その瞬間──
「やああああ──!」
「たあああああッ!」
天使親娘は阿吽の呼吸で全く同時に攻撃を放つ。暗闇をまとった漆黒の羽根と火炎をまとった真紅の羽根が、暴風の如く彼に襲いかかる。
「羽根つきがあああぁぁ──ッ!」
ウルフヘジンエクリプスは正中線を守るよう正面に魔剣を突き刺し、両手でナイフを引き抜くと、
「舐・め・る・なああああ──ッ!」
次々と襲いかかってくる羽根弾を叩き落す。
天使親娘は羽根弾を使い切ると、全く同時に彼に襲いかかる。
「羽根つきがああぁぁあッ!」
ウルフヘジンエクリプスは両手のナイフを鞘に収めると、魔剣を掴み、ユミエルを薙ぎ払い、マリエルを床に叩きつけた。
「くうッ……」
床に叩きつけられたマリエルは激痛に声を上げる。そこに彼の追撃の踏みつけがくる。マリエルは間一髪でそれを避けた。ウルフヘジンの猛撃を転がりながら避け続け、勢いがついたところで跳ね起き、間合いを開ける。ちょうど、傍らにユミエルが飛びやってくる。
「確かに手強いわね……」
二人がかりであるにも関わらず、苦戦気味だ。
「……それにタフだわ……」
ユミエルは切られた傷口を押さえながら喋る。一応、戦える程度の再生はしたものの、まだ完全に治癒できていない。現にうっすらと傷痕からは血がにじみ流れている。
(……なんで疲れないのよ)
下級とはいえ三十数匹のエクリプス達と戦った上、更に自分やマリエルと連戦しているというのに、ウルフヘジンの動きには少しの疲れも生じていない。再生能力があるとはいえ、集中力が切れたり、体力が尽きたりしてもいいはずなのに。
その事をいうと、
「……何かおかしいわね……」
真理は奇妙な違和感を覚えた。全身から感じられる魔力はそこまで強くない。確かに威圧感は凄いが、しかし、感じられる力の絶対量はユミエルや自分の方が上だ。上手に力を隠しているのだとしても、ここまでてこずるのは納得できない。戦い方や身体性能・武器の相性などを入れてもだ。
マリエルは過去の経験から、何故、苦戦しているのかを考え、頭を巡らす。
「前回と戦った時と何か変わった点はないかしら?」
「前回と戦った時と?」
何故、そんな事を尋ねてくるのか、悠美は不思議に感じながらも思い返す。
前回と今回の違い。前回の時は力を喰らう魔犬を召喚しなかった。恐らく召喚しても空中に逃げる事ができる為、意味がないと判断したからだろう。あとは強力な再生能力。前回ではそこまで損傷を与えられなかったのだから、使う必要がない。それ以外では……
(あれ? おかしい)
思い返してみておかしなところに気づく。
彼は、自身の持つ剣は魂さえあれば、有象無象の関係なしにそれを喰らい力に変えるといっていた。なのに彼の力は特に変わった様子がない。三十数匹分の下級エクリプスを殺し、喰らったにも関わらず。下級とはいえ、あれだけの数のエクリプスを喰らったのなら、もっと強くなっていてもおかしくない。なのに彼の強さは殆どの変化もきたしていない。それに……
(……なんで互角なの?)
マリエルと二人がかりで互角とは。影翼天使ユミエルといい勝負だったにも関わらず、二人がかりになっても互角とはおかし過ぎる。無論、先程の戦いで手加減していた可能性は充分にある。自分を殺さないように気を使っていたのだろう。しかし、それにしても何か変だ。
奇妙な違和感に包まれる二人。
(この違和感……どこかで……)
違和感に覚えのあるユミエルは、その違和感について考え込もうとする。
しかし、それを邪魔するかのようにウルフヘジンエクリプスが切りかかる。
二人はとっさに左右に跳んでその攻撃をいなし、素早く切り返す。その攻撃を器用に魔剣を操り防ぐウルフヘジン。
天使親娘は勢いを殺さず上手に連携をとりながら彼と渡り合う。これ以上ないまでの連携のとれた親娘に対し、ナイフと魔剣で立ち向かうウルフヘジンエクリプス。幾閃もの刃が火花を散らし、虚空を断ち切る。
幾合と刃を交えていると、天使達の猛攻に耐え切れなくなった大型ナイフが、金属音を立ててへし折れた。
(もらった──!)
防御の要の一角が崩れた、絶好のチャンス! 天使親子はこのチャンスを逃さず、彼がもう一振りのナイフを引き抜くよりも先に、左右から切りかかる。
右のマリエルの錫杖を魔剣の長い柄で防ぐウルフヘジンエクリプス。マリエルの攻撃は相手を引きつける為の囮。真の狙いはユミエルの一撃だ。
ユミエルは必殺を期して、両刃剣の左手を振る。彼は歯を噛み締めると、魔剣の刀身を掴み、天使の一撃を防ぐ。
「ぬううう……ッ」
彼は刃が食い込む痛みに顔をしかめる。両手剣を使う際、刀身自体を掴むのは珍しい事ではない。そういった使い方も存在するし、資料にも残っている。しかし、普通の両手剣と違い、鋭い切れ味を持たせていたのが災いした。刃は骨まで食い込んでいる。
「どらあああッ!」
完全に受け止める事は不可能だと判断したウルフヘジンは、握り締める指が切れ落ちるよりも先に、全身の力を使って魔剣を横に振るい、二人を吹き飛ばす。
圧倒的な力に吹き飛ばされる二人だが、空中と速やかに体勢を立て直し、華麗に着地。反撃にでようとした──その瞬間、
「ぬぅんッ!」
彼は自らの身体を守る革ベルトを掴み外すと、鞭のように片手で操り、ユミエルの首に絡ませた。締めつけられるのを防ぐ為、ユミエルは腰を落として、両手でベルトを掴む。
(……くっ……なんて力なの)
少しでも気を抜けば、首の骨がへし折れる。これでは刃翼も鎖も使えない。
「悠美ッ!」
娘の窮地にマリエルはつい本名で呼んでしまう。
助けだそうとウルフヘジンに飛びかかる聖母。しかし、そうくる事を見越していたウルフヘジンは彼女の一撃を魔剣で受け流し、鍔迫り合いを持ち込む。下手な動きをさせないよう片足を彼女の足に絡め、激しく鎬を削る。
(……ママ……)
締めつける革ベルトに顔を真っ赤に充血させながらも、ユミエルは必死に聖母の援護をしようと、一本の鎖を出現させ、彼に向かって放つ。
鋭い刃を持つ鎖の一撃。いつものような鋭さも重さも感じさせない一撃であったが、動けない彼に対しては充分過ぎる。まさに起死回生の一撃だ。
鈍足ながらも迫りくる鎖に睨むウルフヘジン。両手はふさがっているし、下手に体勢を変えればマリエルの追撃がくる。
放たれた鎖は彼の顔に命中した。
少なくともユミエルとマリエルの二人にはそう見えた。
(……やった?)
マリエルは彼の顔を覗き込む
聖母の顔が青ざめた。
鎖はウルフヘジンを仕留めていなかった。
彼は首を反らし、刃に咬みつく事で一撃を防いだのだ。
ウルフヘジンエクリプスは鋭く息を吐き、ベルトごとユミエルを投げ飛ばし、更にマリエルに肘打ち。
彼女はそれを錫杖で受け、彼の力を利用して後ろに跳び、間合いを開ける。
「……ゴホッゴホッ……」
投げ飛ばされたユミエルは激しく咳込む。投げ飛ばされたショックで全身が痛い。
「しっかりして、悠美」
油断なく身構えながら、娘に声をかけるマリエル。戦闘中である事を考えれば甘いかも知れないが、その甘さこそが彼女らしさでもある。
「……うん……ごほっ……だいじょうぶ……」
ユミエルはそんな母親の気遣いに感謝しながら立ち上がる。
「見抜いたわよ」
マリエルは呟く。
「何を?」
「彼の能力よ。喰らった力をどうしているのかを見抜いたわ。恐らくはとり込んだ力を全てあの剣に溜め込み、必要に応じて引きだし、使用しているのだわ」
マリエルは時折、彼が見せる異常な力──突発的に増大する力に気づき説明する。
「でも……だったら、最初から使えば……」
「そこは分からないわね。何か条件があるのかも知れない。それともただ単なるだし惜しみなのか。いや多分どちらも違うわね。恐らく敵を撹乱させる為に普段からはしていないのよ。最初から強くしていれば戦っている内にその強さに慣れてしまう。しかし、強さに緩急をつける事で、どの程度の実力なのかを分かり難くできるわ。そのせいよ。ここまで苦戦しているのは。あとは……変身状態での魔力の消耗を減らす事かしら? 無駄な浪費を減らす事で燃費を上げているのよ、きっと」
意を読み流れを読むだけでなく、物理的な強さを増す相手。なるほど戦い難いわけだ。ユミエルはマリエルの説明に納得する。
「とにかく。彼が強敵なのは変わらない。だから、わたし達の最大の技でいくわよ。それしか方法はないわ」
ユミエルはその言葉にうなずく。
二人は構えると一緒に彼に飛びかかる。
(……これで決めなきゃッ!)
ユミエルの魔力は底を尽きかけていた。このままだらだらと戦っていても勝ち目はない。ならば残りの魔力全てを込めて、マリエルの提案にかける。
「ジェノサイド・イレイザー!」
「セラフィック・ジャッジメントー!」
二人の天使は各々の力を最大限に込め、ウルフヘジンエクリプスに襲いかかる。
彼はそれを迎え撃つように正面から突撃。
激突の衝撃でウルフヘジンエクリプスの被っていた仮面が吹き飛ぶ。
(あれは……!)
一瞬の事ながらもユミエルは、はっきりと彼の素顔を見た。どこかで見た覚えのある顔だ。あの飢えと焦燥感で鋭く少しの余裕もない目つきには覚えがある。
しかし、どこで見たのか思いだす暇はなく、三つの巨大な魔力の激突は爆発を引き起こし、閃光は彼女の視界を覆い、爆風は三人を吹き飛ばした。
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