渇望の狼

第四章「影魔」

     1

 朝の日差しを感じ、悠美はゆっくりと目を覚ました。
 そして、見知らぬ天井を見て、
(えっ……何?)
ここはどこだろうと起き上がる。
「うぅん……どうしたの悠美……?」
 同じように目を覚ました鈴が急に起き上がった悠美に声をかけた。
(あ、そうか……昨日……わたし……)
 鈴の声と周囲を見渡して、昨日、自分が鈴の家に泊まった事を思いだし、
「うぅん……何でもないよ」
 悠美は気恥ずかしさに照れ笑いを浮かべながら、適当に誤魔化す。それと同時に、
(着替え……どうしよう……)
 自分の置かれている状況について考え込む。
 歯磨きはコンビニで歯ブラシと歯磨き粉を購入すればいいとして問題は……
(服……どうしよう)
 昨日、着ていた服・下着は全て洗濯中。服はともかく下着まで借りるわけにはいかない。乾燥機か何かがあればいいのだが。でないと、外にでる事もできない。
「……あの〜……鈴ちゃん家って衣類の乾燥機とかある?」
「うん……あるよ」
 鈴は彼女の言葉にうなずくと、
「服、持ってこようか?」
「うん……お願い」
 彼女に頼んで、服を持ってきてもらう。
 鈴が消え、一人きりになった悠美は、
(……ママ、大丈夫かな……)
 大切な母親の安否を気遣い、これからどうするか途方に暮れたその時、
「あ、時告さん。おはようございます。そちらの方は……?」
 鈴の声が耳に届いてくる。自分達が寝ている間に帰ってきたのか、リビングで時告と鉢合わせたのだろう。それと他に誰かいるみたいだ。
「初めまして。わたしは悠美の母親・羽連真理といいます」
(えっ! ママ? 何でここに?)
 その声を聞いて、悠美は勢いよくドアを開け、
「ママ……無事だったの?」
 よその家だというのも忘れて、つい大声を上げてしまう。
「あら、悠美。起きたの? おはよう」
 真理は彼女に微笑みながら挨拶する。悠美に無用な心配かけまいとする真理なりの気遣いだろう。
「よかった……無事だったんだ……よかったよ〜……」
 悠美はそんな聖母の胸に飛び込んだ。安堵の涙を流しながら、彼女の身体に手を回し、きつく抱きしめる。
「あらあら。悠美」
 真理は小さな子供をあやすように、優しく彼女を抱きしめ、ゆっくりと頭を撫でる。
「朝から、仲いいわねえ〜」
 ニヤニヤと笑みを浮かべながら茶々を入れる時告。
「……羽張鈴です。初めまして」
 彼女は簡単に自己紹介すると、邪魔をするのも悪いと思ったのか、そそくさとその場から離れていく。
「……でも、どうして、ここに?」
 悠美は涙を拭いながら顔を挙げ、尋ねた。どうして、ここに母親がいるのか、事情を知らない彼女には不思議で堪らなかった。
「時告さんに助けられたのよ」
 真理は昨夜の出来事を喋り、彼女が組織から派遣された人間で、助けてもらった事を説明する。
「そうだったんだ……時告さん……本当にありがとうございます」
 悠美は真理から離れると、時告に向かって深々と頭を下げ、大切な人を助けてくれた事に深く礼をいう。
「って事は、やっぱり鈴ちゃんも組織から送られてきた人なんですか?」
 大上京郎がパートナーである事を知らない彼女はそう尋ねた。それに対して、
「まあ、そこら辺はあとにして、今は朝食をとりましょう」
 時告はウルフヘジンの事を話したくないのか、あとに回させる。
「一応、昨夜の内に泊まるのに必要なもの、持ってきておいたわよ」
 彼女の思考を読んだのか、真理が横から口を入れた。彼女も今話すのは適切ではないと判断したのだろう。
「え、本当? よかったあ〜」
 真理は昨夜の話し合いのあと、泊まるのに何も持ってきていない事に気づき、いったん自宅に戻り、着替えの服やその他、細々としたものを持ってきた。
 悠美は洗面所を借り、顔を洗い、歯を磨く。その間に朝食が用意されたのか、コーヒーのいい匂いがしてきた。
「朝食の用意できたから、ダイニングにきなさ〜い」
 時告が部屋越しに声をかけてくる。
「は〜い」
 悠美は素直に返事をすると、服を着替え、ダイニングに向かう。
 テーブルには五人分の食器が並び、サラダやパンケーキなど、食事が用意されていた。
(そういえば、大上さんってどうしたのだろう)
 この場にいない彼の事をふと思った。彼も帰ってきているのだろうか? その事を尋ねると、
「そういえば、まだ、帰ってきていないわね。どこで油売っているのかしら?」
 時告は大上京郎が帰ってこない事に、顔をしかめるも、
「まあ、いいじゃない。今、ここにいない人の事なんて。それよりも早く食べましょう」
 悠美に席につくように進める。
 彼女がいわれるがままに席につくと、
「いただきます」
 和やかな雰囲気の中、四人は朝食をとり始めた。
 いつも真理と二人っきり……真理と生き別れてから、ずっと一人っきりの食事をしてきた悠美は、ついつい嬉しくなり顔がほころばせてしまう。
(これで……影魔さえなければな〜……)
 そんな事を彼女は思ってしまう。影魔の件さえなければ、この幸せを、温かみを、充実感を存分に楽しめるのに。
「食事が終わったら、ブリーフィングするからね」
 時告が会話の途中で、そうきりだしてきた。悠美はそれにうなずくと、
「そういえば、学校は……」
 今日は休日ではない事を思いだし、学校をどうするか、頭を悩ませる。悩む理由は彼女が真面目であるのだけが理由ではない。これまで光翼天使としての使命のせいで、まともに授業を受ける事ができず、ろくに勉強をする事ができなかった。
 それでも毎日宿題を済ませ、ある程度は予習や復習をやっているので、辛うじて授業についていけているが、このままでは厳しい。それに来年になれば、進路を決めなければいけない。なのに、悠美はろくに進路の方向を決めていない。これまで将来の事を考えているような余裕はなかった。漠然と真理のようなシスターになりたいとは思っていたが、憧れに似たものである。はっきりとした目標とはいえない。
「悪いけど、休んでもらうわよ。本格的なブリーフィングをしたいし、多分、長引くでしょうからね」
 時告は事もなげに答える。長くなる理由……ウルフヘジンの件を考慮しての事だろう。
「それに場合によっては、今日、戦う事になるでしょうからね。最低、敵地の下見ぐらいにはいきたいし」
 下準備はもう完了している事を彼女は告げる。
「何か心配事でも?」
 浮かない顔をした悠美に、時告が声をかける。
「……その……授業の事が……」
 それを聞いて、彼女は納得する。学生の本分は勉強である。それを疎かにしてはならない。そこで、
「それなら今度、私が勉強を見てあげるわよ?」
 彼女はそう提案してきた。
「えっ……でも……」
 高校生レベルの授業内容であって、小・中学生レベルではない。かなり厳しいのではと、悠美がいおうとするも、
「大丈夫よ。高校生レベルくらい余裕だから」
 余裕有り気に時告は答える。
「それに時々、鈴の勉強も見てあげてるし。何なら、今度一緒にどう?」
「はあ……考えてみます」
 悠美は彼女の勢いに押され、曖昧な答えをいう。
「その時は、わたしも誘ってください」
 横から真理が口をだした。
「ええ。そうですね。二人で一緒に勉強を見てあげましょう」
 時告は微笑みながら言葉を返す。その様子を見て、頼もしくも恐ろしいものを感じた悠美は少しだけその顔を引きつらせた。

   ※    ※    ※

 
 食事を終え食器を片づけると、時告の進行の元、打ち合わせが行なわれる。
「では、改めて自己紹介から始めるわね。私は時告華羅子。エクリプス時はクレーエエクリプスと名乗っているわ」
 時告は昨日マリエルに伝えたように、悠美にも自分がエクリプスである事を伝え、改めて名乗る。そして、自身の影から一匹の半透明な鴉を作り、
「クレーエエクリプスの時の能力はこのように影魔の力で鴉を生みだし、情報を収集・解析するぐらいの能力しかないわね」
 能力の説明をしながら腕に止まらせた。
「ま、この能力のおかげで今のような暮らしができるのだけど」
 彼女は腕に止めた鴉を消すと、
「そして、クレーエエクリプスとは別にもう一つ姿──昨日、真理さんに見せた姿の時はラーベエクリプスと名乗っているわ。この時の私は創造の能力を有している」
 彼女はそういうと、何もない空間に向かって軽く手を伸ばす。すると、魔力の光が集まり、小さなビー玉を作りだす。
「ふう、やっぱ変身しないとこの程度かぁ」
 悠美に向かって作りだしたビー玉を投げ渡した。
「これは……本物なの?」
 ビー玉を受けとり、しげしげと見つめる悠美。
「ええ。限りなく本物よ。ただ私の力で作りだされたものだから、私の意志で自由に消す事ができる。そういった意味では本物に限りなく近い偽物といってもいいわね」
 時告はそう答えたあと、
「創造できる範囲は私の力を超えないものであり、私の許容範囲を超えるものは作れないし、力の強いもの、構造・原理が複雑なものほど創るのに時間がかかるわ。私の知らないものは無論、創る事はできない。また、理論上は可能なものでも、実在していないものや、実在していてもそれを創る為の技術が失われている場合も駄目。私からはこんなところよ」
 味方である事をアピールする為か、自分のエクリプスの能力の弱点を教えた。
(やっぱり、時告さんもエクリプスだったんだ……)
 鈴が影魔だったのだから、彼女がエクリプスであってもおかしくはない。一通りの紹介を聞き終えた悠美は単純にそう考えた。
「……あたしも自己紹介……した方がいいかな?」
 鈴が遠慮がちな声で尋ねてくる。
「ええ。そうね」
 時告はそれにうなずく。
「……あたしは羽張鈴。エクリプス時はフェアリーエクリプスと呼ばれてます……」
 今度は鈴が羽連親娘に向かって自己紹介する。
「フェアリーエクリプスの能力は、自分の存在概念を消し、認識させなくするハイド・アンド・シーク(かくれんぼの意)を使う事ができます……えっと……?」
 時告がしたように自分も能力の片鱗を見せるべきかどうか迷っているのか、時告の方に視線を向ける。
「ま、分かり難いから実践しなくていいんじゃない?」
 それを感じとったのか、時告はそう口にし、天使親娘もそれに同意する。
 ほっと胸を撫で下ろした鈴は、
「これとは別のもう一つの姿……四枚の羽根をなくした時の姿はバンシーエクリプスって命名されてます」
 自己紹介を続ける。
「能力はフェアリーの時と大して変わってないけど……ハイド・アンド・シーク以外にも、相手を悲しませる泣き声バンシー・ウェイルって技が使えます……この技はある程度の指向性があるから……味方は効果から外す事ができます。普段はフェアリーエクリプスで通しているので、バンシーエクリプスの時もそちらで呼んで構いません……あたしからは……以上です」
 そういって自己紹介を終えた。
(あ〜、だからなんだ。唐突に現れたのは)
 鈴の能力説明──ハイド・アンド・シークを聞いて、悠美は何故いきなり現れたのか、どうしてあそこまで接近されるまで気づかなかったのかを納得し、彼女の悲鳴を聞いて敵が取り乱し、泣きだした訳を理解する。
 同時にウルフヘジンエクリプスが二人の仲間である事を知らない悠美は、引っかかるものを感じた。それは……
(どうやって、戦ってきたの?)
 時告の能力はどちらかというと援護向けだし、鈴にいたっては戦闘が可能かどうかも疑わしい。暗殺向けの可能性もあるが、それにしては相手を倒す為の武器や能力を有していない。明らかにおかしい。
「どうやって、これまで戦ってきたのか不思議って顔ね」
 悠美が小首を傾げると、それを見透かすように時告は呟いた。
「いえ……あの……その…………すみません」
 悠美はいい訳しようとするも、上手く言葉が見つからず謝る。
「いいのよ。あなたは恐らく鈴が私のパートナーだと思ってるんでしょう?」
「えっ? 鈴ちゃんがパートナーなのでは?」
 時告は軽く息をつくと、
「鈴はある人の頼みで、私が後見人として預かっている娘。私のパートナーは別にいるわ」
 彼女はウルフヘジンエクリプスの事を喋るのに、ちょうどいい機会だと話を進める。
「私のパートナーはこの場にはいない人……つまり、大上京郎よ」
 まず彼の人間時の名前をだし、悠美の反応をうかがう。
(まあ、そうだよね。他にいるよね)
 彼女は少しだけ驚くも、なるほどと納得した様子だ。その様子から時告は話しても問題ないだろうと判断したのか、
「そして、彼はエクリプス時こう名乗っている……ウルフヘジンエクリプスと」
 あっさりと大上京郎がウルフヘジンエクリプスである事を話す。
 ウルフヘジンと聞いて悠美は、一瞬何をいったのか分からないと呆気にとられるも、
「えぇっ──!」
 昨日、マリエルがそうだったように驚きの声を上げる。
「はいはい、落ち着いてね」
 時告はそういうと、昨日と同じように、ウルフヘジンエクリプスが何故、マリエルを仇にし、狙っているのか、その経緯を説明する。
(そっか……だからか……)
 ウルフヘジンエクリプスの素顔。どこかで見た事があると思ったら、リビングに飾られていた写真の少年とそっくりだった事に悠美は気づいた。あの少年こそウルフヘジンエクリプスがまだ人間だった頃の写真なのだ。
(力を求めているのは……そのせいなのかな?)
 家族を失った怒りや悲しみから影魔を倒すべく力を求め、自身もまた影魔へとなった。聖母に封印されるも、再び襲われた際にその欲望をとり戻した──話としては不自然ではない。
(わたしと同じように……)
 そして、彼の過去を断片とはいえ知った悠美は、自身の持つ影魔の事を振り返り、彼に同情を覚えた。
(でも……だからといって……)
 ここで彼の行動を認める訳にはいかなかった。ウルフヘジンエクリプスにとって真理は仇かも知れないが、自分にとっては真理は大切な母親である。自分が殺した、死に別れたとずっと思っていた大切な母親だ。それを害しようとする彼の行動を認める訳にはいかない。例え、そこにどんな理由があったとしても。
(……方向性が違えばよかったのに……)
 自分の為ではなく、自分以外の人達の為に力を求め、奮えばよかったのにと思う。そしたら、対峙する事もなかっただろうに。
 その事をいうと、
「そうね。彼のやっている事は間違っているわ」
 時告は簡単に悠美の言葉に同意した。
「そして、あなたのいう事は正しいわ。特に真理さんの事は。その事は恐らく彼も理解している。でなければ昨日の戦いで、あなたが真理さんと一緒に戦うのを許可したりせず、さっさと殺していたはずだからね」
 昨日の戦い……ユミエルを足で押さえつけ、切先を向けたあの状態なら、殺す事は容易かったはずだ。むしろ娘を殺害する事で、マリエルを動揺させ、冷静さをなくさせる方が理にあっている。殺さないにしても、ユミエルを人質にとってもよかっただろう。どちらも有効な手段だ。
 なのに彼は、ユミエルを蹴り飛ばした。見方によっては解放したとも思える行動である。いったい何故か?
 人質を解放する事で、天使親娘の動きを把握しやすくするという考えがあったのかも知れない。しかし、それだけとは到底思えない。解放すれば二人がかりで襲われる事になるのだから。またウルフヘジンエクリプスはユミエルを解放した時に『母親と一緒に戦いたいのなら、二人まとめて相手にしてやる』といっていた。
 この事から時告は、ウルフヘジンエクリプスがユミエルを解放した理由は、彼女にもマリエルと共に戦う権利を有しているから解放したのだと時告は判断した。
「でも、後者に限っていわせてもらうなら、安易に非難する事はできないわよ。自分の為に戦って何が悪いのかしら? 私からいわせてもらうなら、正義の為だの、平和の為だの、皆の幸福の為だの、そんな抽象的かつあやふやな目的で戦う人間の方がどうかしているわね。具体的な理由じゃないのだから。人の行動は最終的には自己満足に行き着く。例え、どのような行動でも。問題なのは、行動目的ではなく、その行動が与える他者への影響でしょう。その方がよっぽど重要だわ」
 エゴもまた立派な行動目的である。そして、利己主義というものは人間誰しも持ち合わせているものであって、決して問題あるものではない。問題なのは、どれだけ幅広い視点で物事を判断できるかだ。彼女はそう彼を弁護する。
「あとは品位と美意識の問題ね。彼は病人から布団を剥ぎとるような趣味は持ち合わせていないわ。それに助けるのが容易な時は、普通に助けるわよ」
 確かに彼は悠美と最初遭遇した時、襲われていた女性をほったらかしにはせず、わざわざ、警察交番前まで運んでいる。ユミエルを助けたのは、マリエルの事を聞く為だからと考えればいいが、女性の方をわざわざ交番前まで運ぶ理由はない。
 彼はぐだぐだといい訳していたが、時告のいう通り、簡単に助ける事ができるから、助けたのだと考える方が自然だろう。
(でも……)
 そう説明されても、悠美は釈然としない。昨日まで戦っていたのだから無理もない。しかし、それとは別に、何故かウルフヘジンエクリプスに敵意を持ってしまう。
(何でだろう……?)
 悠美自身、何故、彼に敵意を感じてしまうのか不思議に思う。
 時告はそんな悠美の様子に軽く息をつくと、
「ま、この事はとりあえず、置いておきましょう。この場に彼がいないのに、あれこれいってもしょうがないしね。そんな事よりも、もっと話さなければいけないものがあるわ」
 強引に話を変え、今回の元凶・ディアブロエクリプスの存在を切りだした。
「そんなエクリプスが……」
 ディアブロエクリプスの説明を受け、悠美は思わずそう呟く。
「正直、あなた達では勝つのは正直、難しいわよ」
 時告ははっきりとそういった。その言葉に、
「……どうして?」
 悠美が不思議に思い尋ねた。
「あなたは守る為に力を奮う人間だからよ」
 時告ははっきりとそういった。
「何かを守る為に戦うというのは、非常に素晴らしい事だし、守るべきものの為に自分の限界を超えた力をも発揮する事ができる。だけど……だけど、それじゃあ、ディアブロには勝てない。何故なら、守る為に闘う人間というのは、守るべき対象を失った時、その力を失ってしまうからよ。恐怖を操るディアブロエクリプスとあなた達とでは相性が悪過ぎるのよ」
「恐怖に負けると?」
 真理が横から口を挟んでくる。
「ええ。先もいったでしょう? あなた達とディアブロとでは相性が悪過ぎると。例えば、悠美ちゃんは真理さんを簡単に見捨てられる? 真理さんは?」
「……そんな……ママを見捨てるなんて……絶対にできないよぉ……」
 悠美は思わず涙声で呟いた。
「わたしも……同じですわ。悠美を見捨てるぐらいでしたら、自分が犠牲になった方がマシですわ」
 真理は真剣な表情でそう答えた。
「ディアブロはそういう感情を逆手にとって戦うわよ。自分が最も恐れるものこそディアブロエクリプスにとって強力な武器。守るべきもの、かけがえのないものというのは強みでもあり、弱みでもある諸刃の剣。だから、あなた達ではディアブロに勝つのは難しいのよ」
「ウルフヘジンエクリプスなら勝てると?」
「ええ。ウルフヘジンエクリプスはあなた達とは真逆……力を手に入れる為に戦い、その為なら何でも犠牲にできる人間。そういった人間だからこそ、ディアブロのような影魔と戦う事ができるのよ」
 ただし一つだけ不安要素はあるが、と彼女は小さな声で言葉をつけ足した。
 彼女の言葉を聞いて、悠美は嫌なものを感じる。それは……
(それって正しい事なの?)
 悠美は天恵学園──ヴィジャドエクリプスとの戦いで、自分の戦いに対して、はっきりと意味を見いだした。自分の大切な人──恵理子を守る為、彼女が生きる世界を守る為、自分の力を使う、と。力は大勢の人の為のものだと教わってきたし、何故、大勢の人の為なのかも、あの戦いから学びとる事ができた。
 それ故に、ウルフヘジンエクリプスのような影魔を受け入れる事ができなかった。余りにも反対過ぎる考え方故に、どうしても、反発する部分が生じてしまう。その反発を飲み込むには、悠美はまだ余りにも若過ぎた。
「……何だか、それっておかしいよ……」
 たどたどしく、言葉足らずながらも自分の気持ちを必死に伝えようとする悠美。しかし、
「ふむ、要は人類は崇高な意識と偉大な力によって守られるべきっていいたいのね。ま、考えは人それぞれだから、あれこれいわないでおくわ。それと彼にその手の話題は振らない方が賢明よ。あなたじゃあ不愉快な思いしかしないでしょうからね〜♪」
 時告は軽い笑みを浮かべながら、さらりと流した。
「それに確かに不利とはいったけど、絶対に負けるとはいってないわ。あくまでも相性が悪いだけだからね。上手に戦えば、勝てるでしょうよ。かなり分が悪い戦いだけど。ま、メフィストエクリプスに比べれば遥かにマシよ」
 憎悪の副王メフィストエクリプス。悪魔メフィスト・フェレスの名前がつけられた影魔で、その名前『光を憎むもの』の意味通り、全ての光翼天使を憎み、天使の聖なる力を完全に無効化する能力と、天使が強ければ強いほどその力を高める事から、影魔達の間でエンジェルキラーの異名を持っていたエクリプスだ。更にそれだけではない。憎悪を力の糧にし、あらゆる感情から憎悪を生みだし、それを自在に操る能力を有していた。こいつに比べれば遥かにマシだと彼女は説明する。
「もうよろしいでしょうか。少々脱線し過ぎているのでは?」
 真理が話しを元に戻そうとそう促す。
「とにかく、彼が戻ってくるまで待てないかしら?」
 時告は真理のいう通り、話を元に戻す。
「確かに彼がくれば、事態はより複雑化し、こじれるかも知れない。しかし、私達がいるから、彼がすぐにあなた達に襲いかかるという事はないはずよ。少なくとも話し合いぐらいには持ち込めるわ。その方が戦うよりもずっといいでしょうし、ディアブロに備える事もできるわ」
 そういった。
「…………」
 それに対し、沈黙する羽連親娘。果たして、彼を無難に説得する事ができるかどうか自信がないのだろう。
「……彼はいつ戻ってくるのかしら?」
 真理が閉ざした口を開く。その言葉に、
「……そういえば、確かに遅いわね。どうしたのかしら?」
 遅くなる時は連絡を入れるはずなのだが、と時告は小声で呟いたその時、一羽の鴉が突如、窓の影を通じて部屋の中に現れた。
「これは……ウルフヘジンエクリプスにつけていた鴉……いったい、彼の身に何が……」
 時告は鴉をその腕に止まらせると、その鴉から情報を聞きだす。
「…………ちょっと予測外な事が起きたわ」
 悠美や真理、鈴に向かって、彼女はそういった。
「何がございましたの?」
「……彼が……ウルフヘジンエクリプスが……ディアブロの手に落ちたわ」
 時告は顔を真っ青にしながらそう伝えた。


     2

「……本当に大丈夫ですの?」
 補助席に座っている真理は、車を運転する時告に向かって、不安そうに尋ねた。
「ええ。先程いった通り、既にディアブロと戦う為の下準備はできているから大丈夫よ」
 真理の質問に時告は自信満々に答える。
 ウルフヘジンエクリプスがディアブロエクリプスの手に落ちたと知った時告は今日、ディアブロと戦う事を決定。天使親娘に協力を求めた。天使親娘はそれを了承し、一緒に行動する事を決め、現在、ディアブロエクリプスがその身を隠している福場市博物館に向かっている。その為、後部座席には悠美と鈴の二人も乗っている。
 真理が感じた不安は平日の真昼故に自分達と副王との戦いで、無関係の一般市民が巻き沿いになるのではないのかと不安を感じたからだ。また、領域を作り、結界を張るにしても、強力なものでなければ破られてしまう。果たしてどのくらい頑丈なものが用意できているのか、不安があった。
 一応、打ち合わせではディアブロの居場所を捕捉して以降、博物館を中心に半径一キロ以内に渡って頑丈な領域と強靭な結界を張る準備をしてきた事を聞いているが、それでも彼女と行動するのは初めてであるが為、どうしても不安がつきまとってしまう。
「しかし……あなたはついてこなくてもよかったのよ?」
 時告はバッグミラー越しに後部座席にいる鈴に視線を送った。
 鈴の能力──フェアリーエクリプスの能力は隠れるだけ。バンシーエクリプスにしても精々敵の動きを悲しみで鈍らせるくらい。戦闘の役に殆ど立たない。故にこれまで彼女には影魔との戦いには参加させてこなかった。
「……大上さんが……心配だから……」
 それに対し、そう答える鈴。ウルフヘジンエクリプスを想ういじらしい心遣いだ。
 時告は軽く息をつくと、
「いい。状況が悪くなったら、あなただけでも逃げるのよ。その為に彼からバンシーエクリプスになる為の力を与えられているのだから」
 彼女に向かってそういう。その言葉に、
「え、あれって鈴ちゃん特有の能力じゃないの?」
 悠美が不思議そうな顔で尋ねる。
「ええ。私のラーベエクリプスやバンシーエクリプスはウルフヘジンによって強化された姿なの。自然状態から成り立ったものじゃないわ」
 その言葉に、悠美はどこか引っかかるものを感じとる。
 上級エクリプスが従属させているエクリプスに自身の力を分け与え、強化する事自体は珍しい事ではない。普通なら特に引っかかるものではない。
 引っかかる理由は、力を与えているのがウルフヘジンエクリプスだからだ。力を求め、エクリプスになった彼がわざわざフェアリーエクリプスを強化するのはどうしてだろう。クレーエエクリプスは取引の条件かなんかで与えたのだろうと想像できたが、フェアリーエクリプスの方はどうしてなのか、ユミエルは不思議に感じた。
「……しかし、ウルフヘジンエクリプスが負けるとは思っていなかったわ」
 時告が呟くように喋る。
「……確かに……」
 真理がそれにうなずく。自分と影翼天使ユミエルの二人がかりでも倒せなかったというのに。ディアブロはそれだけ強いという事なのかと、彼女は考える。
「……実力的には負けるはずがないのに……やはり不安要素が的中したようね。恐らくはクサビが原因よ」
「クサビ?」
 悠美は不思議そうに彼女の言葉を鸚鵡返しする。
「ええ。クサビよ。二年前、とある少女のエクリプスとの戦いで、彼は心にクサビを打ち込まれたといっていたわ」
 影魔になれば、本来なら失われてしまう善的人間性。しかし、ウルフヘジンエクリプスは少女の影魔──ロリータエクリプスとの戦いで、それを回復させるきっかけとなる感情を打ち込まれた事を説明する。
「あなた達はそれ以前の彼を知らないから、分からないでしょうけど、あれでも随分とマシになった方よ。それまでは……もっと酷かったのだから」
 ロリータエクリプスとの戦う前の彼はもっと荒んでいた。上級・下級問わず、自然消滅するレベルの影魔ですら、その魔剣の贄としていた。その事から狂戦士と呼ばれ、エクリプス達の間で同属殺しの影魔として忌み嫌われていた。
「彼の名前……ウルフヘジンはその頃の名残ね」
 ウルフヘジンはベルセルクと同義の存在である。違いといえば、ベルセルクは熊の皮で、ウルフヘジンは狼の皮ぐらいだ。
「彼ったらベルセルクじゃ漫画っぽいからって、ウルフヘジンの方を名乗ってるのよ。子供っぽいというか、意地っ張りというか……ふふっ」
 時告は何かを思いだしたかのように顔をほころばせ、寂しく笑う。
「でも、ロリータエクリプスとの戦いのあとから彼は変わったわ。すぐにとはいかなかったけど……少しずつだけど穏やかになったわ……」
 彼の事を語り続ける彼女の姿を見て、
(……時告さんも……大上さんの事が好きなんだ……)
 悠美は時告から京郎への好意を肌で感じとる。ただ鈴と違って恋愛感ではない。友情に近いものだ。
「鈴を拾ってきたのもちょうどその頃よ。ある日、いきなり引きとってくれとかいってきたのよ。驚いたわよ、本当に……」
 それを聞いて悠美は驚いた。彼が時告に引きとるように頼んだ事など知らなかったし、またそのような事を頼むような人間にも思えなかったからだ。
「……だから、彼が負けた理由は他には考えられないわ……彼は三年前にヨーロッパにおいて、もう一人の副王メフィストエクリプスとそれが設立した影魔組織『全盲の殉教者』と戦い、メフィストエクリプスを倒しているのだから……」
「随分と詳しいんですね」
 悠美が話しかける。
「当たり前よ……彼とはかれこれ……え〜と、影魔になってかなり早くに知り合ったから、かれこれ五年以上も一緒に暮らしてきたわ。だから、否が応でも詳しくなってしまうわよ」
 時告は大上京郎がウルフヘジンエクリプスになって直ぐに知り合いになった事を話す。
「はあ、五年くらいなんですか」
 エクリプスと戦ってきた年数だけをいうなら、自分や真理よりも短い。年数だけならもっと長い年数を誇る天使や影魔だっているだろう。なのに何故、彼はあんなにも強いのだろうか、と悠美は不思議に感じる。
(……それだけ、激しい戦いをしてきたって事か……)
 戦ってきた年数が短くとも、それを上回る密度の高い戦闘を経験してきたのなら、あれほどの強さがあってもおかしくはない。また、影魔になる以前から、武術か何かをやっていたのだろう。
「そろそろ見えてくる頃よ。福場市博物館」
 道に案内の看板が見え始め、時告は三人のそう告げる。
「そのようですね」
 真理がその言葉に相槌を打つ。
 今日は休館日なのか、博物館駐車場はガラガラに空いていた。時告は博物館に近い場所に駐車し、車から降りると、
「じゃあ、領域と結界を張るから、少し離れていて」
 そういって、地面に手を触れた。すると、紫色の燐光に輝く幾何学模様とルーン文字が描かれた陣形が浮かび上がる。陣形は送られてくる魔力の波動に同調して不気味に鳴動、少しずつその大きさを広げていく。そして……
 甲高い音と共に陣形が周囲をとり囲むように大きくなると、陽炎のように揺らめきながら、消失した。
「ふう。領域と結界を張ったわ。これで元の場所と無関係の人間には被害はでないわよ」
 彼女はそういうと、博物館の見取図を魔力で中空に描き、
「来月行なわれる中世ヨーロッパ博覧会の出展物の一つとして、ディアブロエクリプスはこの中に紛れている。博物館二階……彫像群が置かれている場所に奴はいるわ」
 居場所を説明する。
「私が領域と結界を張った事は敵にもばれていると思うから、最短距離でいくわよ。途中、敵が待ち構えていると思うから、気をつけてね」
 その言葉を悠美と真理はうなずく。
「じゃあ、早速、変身するわ」
 彼女はそういうと、
「世界の全てを知るものよ。私に勝利の翼を!」
 力強く叫ぶ。すると、時告の身体から魔力が溢れ、その身を包む衣類は、全て漆黒の羽根となって、スレンダーな身体から舞い散っていく。髪を留めていたピンは弾け飛び、腰まで伸びたストレートな漆黒の髪へと変化する。飛び散っていた漆黒の羽根は再び彼女の身体に張りついていき、品のある黒いノースリーブのドレスを形成し、麗顔を覆う鴉の仮面を作りだす。
 彼女が左右に両手を広げると、それに合わせて二枚の漆黒の翼が背中から生えてき、
「クレーエエクリプス。変身完了っと」
 クレーエエクリプスは変身を完了を告げる。
「……光の陰に隠れしものよ。あたしに幻想の羽を!」
 歌曲を口ずさむかのように、声を震わせる。すると、全身から魔力が溢れだし、虹色に輝くオーロラが彼女の身体を包み込む。身につけている衣類が光の霧となって消失、生まれた時の姿になる。ピンで留められていた短めの髪は一気に足首まで伸び、衣類の代わりにオーロラが身体へと張りつき、清楚な白いレーススリーブのワンピースを形成し、その背中には蜻蛉のような半透明で美しい二対四枚の羽を作りだす。
 彼女の目から涙が溢れだし、その涙を片手で拭うと、
「……フェアリーエクリプス……変身しました」
 真っ赤な目でフェアリーエクリプスは変身した事を告げた。
「じゃあ、わたし達も続くわよ」
 真理がそういうと、悠美はうなずき、
『聖なる光よ! わたしに、希望の翼を!』
 二人は全く同時にロザリオを掲げ、力強く叫ぶ。すると、二つロザリオから白と赤の二つの光が溢れ、二人の身体を包み込む。
 渦巻く炎の中、真理のきている紺色の修道服が炭となって消滅。露わになった聖母の豊満な肉体に、炎が絡みつき、緋色の戦闘服を形成。喉下から光の筋が走り、窮屈そうに張りだしている巨乳を貫き、臍下部分で止まり、十字型の光を灯す。すると、十字架の形そのままに服の布地が消滅し、胸の谷間から臍下までさらけだす際どい切れ込みを作りだす。
 亜麻色の髪が輝くような金髪に変化し、その背中からは二対四本の光筋が放たれ、赤い燐光に輝く二対四枚の翼が広げられる。
「光翼天使マリエル! ここに光臨(ブレイク・ドゥーン)!」
「同じく光翼天使ユミエル! ここに光臨(ブレイク・ドゥーン)!」
 同時に変身を完了させた天使親娘は同時にそう宣言した。
「じゃあ、いくわよ」
 変身を完了した四人は、博物館へと侵入する。


 正面の入り口から侵入した四人は、打ち合わせ通り、最短距離で博物館内を駆ける。
「おかしいわね」
 最初に異変に気づいたのは、マリエルだった。
「敵は私達の侵入に気づいているはず。なのに、どうして何もしかけてこないのかしら?」
 てっきり、敵が待ち伏せているだろうと思っていたのに、今のところ何もしかけてこない。拍子抜けもいいところだ。
「……確かに。何かあるわね。これは」
 時告は彼女の言葉にうなずき、博物館内を偵察させる為に数匹の鴉を飛ばし、周囲を探らせる。しかし……
「博物館には何もしかけていないようね。私達が相手ではそんな事をする必要がないとでも思っているのかしら?」
 一階には敵も罠もいない事にクレーエエクリプスは顔をしかめる。そして、次は二階を調べようと、鴉達を飛ばすも……
「クッ……鴉達が何者かによって殺されてしまったわ。どうやら……ディアブロがいる二階には何かあるみたいね」
 偵察に送った鴉が殺され、調べる事ができない。
 四人は周囲を警戒しながら、二階フロアへとつながる階段を駆け上ろうとしたその時、雄叫びと共にあるものが四人の前に立ちふさがった。
「そ、そんな……」
 フェアリーエクリプスが思わず声を上げる。
「グオォォオォーオォン!」
 四人の行く手を遮ったのはウルフヘジンエクリプスだった。彼は二階への階段を登り詰めたところで待ち構えていた。
「様子がおかしいわ。ディアブロエクリプスの手に落ちた際、何かされたようね」
 クレーエエクリプスは彼の立ち振る舞いと死んだような目つきをしている事から、速やかにウルフヘジンエクリプスが正気でない事を見抜く。
「それで……どうするのかしら?」
 マリエルがクレーエに話しかける。このまま彼と戦うのか、それともいったん引いて、何か作戦を立てるのか。
「作戦を立てたいから……いったん引くわよ。って大人しく逃がしてくれればいいのだけど……」
 クレーエはそういい彼の追撃を警戒する。
「とりあえず、駄目元で試してみるから、私の合図と共に一斉に逃げて頂戴」
 クレーエはしんがりを自分が引き受ける事を告げ、何か作戦があるのだろうとそれに三人はうなずく。
 クレーエエクリプスは仮面を外し、ラーベエクリプスに変身すると、
「……いくわよ」
 彼女は僅かに顔に緊張の色を浮かべながらも、
「ミラージュ・ミスト!」
 濃厚な霧を作り、周囲を霧で埋め尽くし、無数のラーベエクリプスやマリエル、フェアリーやユミエルの幻影を作りだす。ウルフヘジンエクリプスはそれに気づかないのか、幻影に向かって剣を振り回す。それを見て、
「今よ!」
 ラーベはそう叫び、合図として光り輝く白鴉を送る。煌々と輝く白鴉は霧を切り裂いて飛び、四人を博物館の出口まで導く。
「……何とか無事に逃げる事ができたわね」
 ラーベエクリプスが口を開く。
「ええ。それでこれからどうするのかしら?」
 マリエルが尋ねた。
「私としては何としても彼をとり戻したいところね。あんな無様な戦い方をしたところをみると、ディアブロは単純に彼の精神を封印し、身体を操っているだけ。それなら、助けだす事はできるわ」
 無闇やたらと幻影に切りかかっていた事から彼女は、ディアブロエクリプスに操られているだけだと判断する。確かに普段の彼なら意読みや流れを読んで、幻影などに切りかからず、むしろ、逆に霧による視界の悪さを利用して、各個撃破……確実に四人を仕留めにきただろう。それがなかった事と正気でない事からの判断である。
「それで、あなた達はどうすべきと思うの?」
 自分の意見を述べると、ラーベエクリプスはユミエル達に尋ねる。
 その言葉にユミエルは少しだけ戸惑いを覚えた。
(どうして……? どうして……わたしは……)
 自分の中の何かが彼を倒せと叫んでいる。ここで彼を倒せ。今後、このようなチャンスはない。相手が強い以上、倒せる時に倒さなければ……
 そんな想いが心の中から湧き上がってくる。
(……でも……)
 もしウルフヘジンエクリプスがフェアリー達の仲間だと知らなければ、何も考えずにその想いに身を委ねていたかも知れない。だが、
(……どうしよう……)
 彼女達の仲間だと知ってしまった以上は、そう簡単にその想いに委ねはしなかった。
 彼がフェアリーエクリプス達の仲間である以上、昨日までのように敵として接する訳にはいかない。しかし、だからといって、はい、そうですかという気にもなれない。それに助ければ、聖母を狙うかも知れないと考えてしまう。
「……ママはどう思う?」
 自分一人で答えがだせなかったユミエルはマリエルに尋ねる。自分よりも人生経験豊富な母親なら、自分よりもいい答えがだせると思ったからだ。
「……助けましょう。彼との決着は……まだついていないわ」
 マリエルは落ち着いた口調でそう告げた。
「でも、ママ……」
 何かいおうとするユミエルを制して、
「敵に対する慈悲も教えの一つよ。ユミエル」
 諭すように聖母は告げる。
(でも……)
 感情を上手くまとめられず、戸惑っている彼女に、
「悠美……お願い……協力して」
 フェアリーエクリプスが話しに割り入ってきた。
「……鈴ちゃん……どうして? どうして、そんなに彼の事が……」
 どうして、彼女みたいな娘がウルフヘジンエクリプスみたいな男を好きなのだろう。ユミエルは不思議に思った。
「……あの人はあたしを助けてくれた……誰からも見捨てられ、気にも止められなかったあたしを……」
 フェアリーエクリプスは少しずつ語りだす。
 二年前、エクリプスの力のみという、不完全な形で影魔に覚醒した事。不完全な覚醒故にその力を操る事ができず、常時ハイド・アンド・シークを使っている状態になり、文字通り、この世界から居場所を失ってしまった事を。
 そして、当てもなく彷徨している際に、ウルフヘジンエクリプスと出会い、そこから今日に至るまで一緒に暮らし、力の使い方や力そのものを与えてもらっている事を話す。
「あの人のおかげで今のあたしがいる……あの人がいなければ……あたしは……ずっと、ずっと独りぼっちで……誰とも知り合う事なんてなかった……だから……だから、お願い。悠美、いいや光翼天使ユミエル。大上さんを……京郎さんを……助けて!」
 必死に言葉を紡ぎ、嘆願するフェアリーエクリプス。友達にここまでいわれては断る事などできない。
「分かったよ、鈴ちゃん……ウルフヘジンエクリプスを助けよう」
 ユミエルはフェアリーエクリプスの為にも、彼を助ける方に協力する事を決めた。
「じゃあ、具体的にどうやって助けるかを話しましょうか」
 ラーベエクリプスはそういって、話を切りだしてきた。

 
「じゃあ、作戦通りにいくわよ」
 作戦を簡単に打ち合わせた四人は、再びウルフヘジンエクリプスがいる階段のところまでいく。
 他の三人はその言葉に、黙ってうなずくのを確認すると、
「じゃあ、いくわよ。鈴……お願いね」
 フェアリーエクリプスの顔を見つめながら話しかける。
「……うん」
 彼女は緊張気味に顔を強張らせながらも、それにうなずくと、フェアリーエクリプスからバンシーエクリプスへと変身を遂げる。
「じゃあ、いくわよ」
 ラーベエクリプスは指で軽くリズムをとると、
「ミラージュ・ミスト!」
 再び、幻影の帷を作りだす。霧がウルフヘジンエクリプスの視界を閉ざしたのを見計らって、
「バンシー・ウェイル!」
 バンシーがバンシー・ウェイルを放つ。彼女の泣き声で動きが鈍ったところを、
「チリング・ブリザード!」
 ラーベは極寒の嵐を起こした。
 四人が考えた作戦というのは、非常に単純なものであった。
 ウルフヘジンエクリプスが正気ではない事から、これといった技は使ってこないと予想。この事から夜をいく猟犬の群れによる防御はなされないと判断。そこでまずミラージュ・ミストで彼の視界を隠し、その隙をついてバンシー・ウェイルで彼の心を動揺させ、その隙を突いてチリング・ブリザードで凍らせ、動けなくするといったものだ。
 とりあえず動けなくすれば、そこからは対処は簡単である。一時的にどこか安全な場所に避難し、そこで彼の精神世界に入り彼の心を封じ込めているディアブロエクリプスの魔力を消せばいい。
 極寒の嵐が消えると、凍りついたウルフヘジンエクリプスが姿を現す。とりあえず、作戦は成功したようだ。
 そう思い、ユミエルがほっと息をついた瞬間、
「ぐおぉぉぉぉおおッ!」
 ウルフヘジンエクリプスは咆哮と共に凍りついている氷を内側から砕き、その姿を現した。着装している毛皮と強靭な生命力のおかげで内側まで凍りつかなかったのだろう。
 ラーベエクリプスは舌打ちすると、再び、霧を作りだし、もう一度凍らせようとする。しかし、それよりも早くに彼は神速の速さで急接近。黒き魔剣を彼女に向かって一閃。
 甲高い金属音がフロアに鳴り響く。魔剣の剣先が彼女に届く一歩手前でマリエルが錫杖で受け止めてくれた。しかし……
「キャアアアア!」
 彼の腕力によって、マリエルとラーベは一緒に壁に叩きつけられる。
「ママ! クレーエさん!」
 思わず、二人の方に目をやってしまうユミエル。その隙を逃さず、ウルフヘジンは彼女を蹴り飛ばす。蹴り飛ばされた先はちょうど倒れている二人。三人の悲鳴がフロアに木霊する。
(……しまった……鈴ちゃんが……)
 ウルフヘジンエクリプスはバンシーエクリプスのすぐ傍まできていた。戦闘能力のない彼女では、彼の攻撃を受ける事も避ける事もできない。
 そう思って顔を上げるユミエルだが、バンシーエクリプスの姿は消えていた。自身の存在を消す能力ハイド・アンド・シークを使ったのだろう。その事を彼女はつい忘れていた。
(とりあえず、鈴ちゃんは安全……問題は……)
 ウルフヘジンエクリプスが三人に向かって容赦なく襲いかかってくる。三人は急いで散開すると、空中に舞いながら、彼の攻撃をいなす。元々天井の高い作りであるが、二階へと続く階段付近は特にそれを強調するかのように高くなっている。そのおかげである程度とはいえ、自由に飛び舞う事ができた。
「……どうする……このままじゃ……」
 ハイド・アンド・シークを解除したバンシーがユミエルに話しかける。このままでは埒が開かない。逃げているだけでは、戦いにならないし、決着がつかない。
「こうなったら……もう一つの手段しかないわね」
 ラーベが緊張した面持ちで二人の話に入ってくる。
「もう一つの手段ですか……しかし、あれは……」
 マリエルもまた緊張した口調で話しに入ってきた。
 もう一つの手段。それはもしウルフヘジンエクリプスに遠距離攻撃が通じず、動きを封じる事ができなかった場合、何とかして一時的に動きを止めさせ、その隙に直接彼の身体に触れ、彼の精神世界へと入るやり方だ。
 しかし、このやり方の場合、彼と肉薄しなければいけない為、非常に危険が伴う。それだけではない。ウルフヘジンエクリプスの精神と関わる為、天使親娘には任せたくないし、また精神世界においてディアブロの魔力と対峙しなければいけない為、実戦闘能力が低いバンシーエクリプスでは無理だろう。それにバンシーには彼の動きを止めるという重大な役目がある。
 消去法で考えれば、適任者はラーベエクリプスしかいない。しかし、ここは敵地である。ディアブロエクリプスが黙っているとも思えない。もしディアブロエクリプスが何かしかけてきた時の事を考慮すると、ラーベエクリプスを彼の精神世界に送り込むのは、リスクがある。
「仕方がないわよ。このまま指を咥えて待っている訳にもいかないのだから」
 彼女は軽く肩をすくめながら、口にする。
「じゃあ、とりあえず、クレーエさんを……」
 マリエルが言葉を紡いでいる途中、彼女は建物の奥から何かが自分達に向かってきているのを感じとった。
「気をつけて! 新手の影魔よ! 大勢いるわ!」
 マリエルは急いで三人に警戒を促す。
 ラーベエクリプスは舌打ちすると、
「まずいわね。こうも早くに動いてくるとは……」
 ウルフヘジンエクリプスを助ける為に後手になっていたかと、彼女は舌打ちする。
 新手のエクリプス達が廊下の向こうから現れた。何百もの数の影魔達が四人に向かって襲いかかってくる。
「フェアリー!」
 ラーベエクリプスはバンシーエクリプスに技を使うように呼びかける。彼女はその声がかかるのとほぼ同時に、バンシー・ウェイルを使い、ウルフヘジンエクリプスや新手の敵エクリプスの動きを鈍らせる。その隙をついて、
「フレイム・テンペスト!」
「ライトウィンドスラッシャー!」
 天使親娘が同時に技を放つ。
 白い光の羽根を舞い散らす真紅の火炎の竜巻は敵影魔達に直撃。集合していた事もあって、一撃でかなりの数の影魔達を炎上させるも、敵は次から次へと沸きでてくる。
「アイス・コフィン!」
 燃え上がる影魔達に向かって、ラーベは冷気の魔力を放ち、炎と死体を凍りつかせ、通路をふさぐ。
「これで少しは時間が稼げるはず……それより……」
 今の状況を考慮すると離れるわけにはいかない。彼女の頭の中に三つの選択が浮かぶ。
 一つ。状況を無視して予定通り、自分がウルフヘジンエクリプスの精神世界に入る。
 二つ。足止めをなくす危険は覚悟で、バンシーエクリプスを精神世界に送り込む。
 三つ。戦力は減るが、天使親娘のどちらかを精神世界に送り込む。
 ラーベはこの三択の中でできるだけいい選択を考える。そして……
「……ユミエル……あなたに任せるわ」
 ユミエルを指名した。その理由は、まずこの状況下、自分が離れるのは危険だ。故に一つ目は駄目。ウルフヘジンエクリプスが解放されてしまう二つ目も駄目だ。消去法で三つ目になるが、この状況では遠距離戦闘能力と制圧能力が必要。故にユミエルよりもマリエルが残っている方が有り難い。だから、ユミエルを指名したのだ。
「えっ、わたし……?」
 自分が指名されるとは思っていなかったのか、ユミエルは戸惑う。
「ええ。あなたが一番適任だからよ」
 またユミエルを選択したのは、何も戦闘面からだけではない。忌み嫌っているマリエルがいくよりも、娘のユミエルがいく方が彼にとってもマシだろうと判断したからだ。
「……でも……わたしじゃあ……」
 ユミエルは彼の精神世界に入る事をためらうも、
(……お願い……光翼天使ユミエル)
 必死に彼の助けを嘆願してきた鈴の言葉を思いだし、
「分かりました。任せてください」
 覚悟を決め、ラーベの言葉にうなずいた。
「……悠美……頼んだよ」
 バンシーエクリプスは彼女に向かって、そういうと、全力全開でバンシー・ウェイルを使う。その名前の由来となった死を告げに現れる女妖精の如く、真紅に充血した眼を見開き、泣き叫び、聞くもの全てを悲しませる声が周囲に響き渡る。
「ぐうううぅぅうう」
 声はウルフヘジンエクリプスや氷の壁を破壊して現れた新手のエクリプス達の心をかき乱し、動きを鈍らせる。しかし、それでも彼は戦意を喪失せず、雄叫び声を上げながら、周囲に向かって剣を振って暴れ狂い、ユミエル達を近づかせない。
「クッ、大人しくしなさい!」
 このままでは作戦が実行できないと判断したマリエルは四枚の翼から炎を放出し収縮させ、灼熱の縄を形成し、彼の身体を縛る。
「今よ! クレーエ! ユミエル!」
 ウルフヘジンエクリプスは聖母を振り解こうと身体を激しく振り回すも、バンシー・ウェイルの効果で本来の力が抑えられているのか、マリエルを振り解けない。
「ユミエル、任せたわよ!」
 ラーベエクリプスはそういうと、意識を集中させ、紫色で輝く陣形を足元に作り、片方の手をユミエルに、もう片方の手をウルフヘジンに伸ばし触れると、ユミエルの魂をウルフヘジンエクリプスの精神世界へと送り込んだ。


     3

 一瞬、視界が眩い閃光で包まれたかと思うと、目の前には先程までにいた博物館とは違う、灰色の大地が広がっていた。
 無事、彼の精神世界の中に入る事ができたようだとユミエルはほっと息をつく。
(ここが彼の精神世界か……)
 ユミエルは御座市にいた頃、オメガエクリプスとの戦いで、自分の精神世界に中に封印された事があるが、他人の心を覗くのは初めてである。
(……とりあえず、どこへいけばいいのかな?)
 彼女は何か手がかりになるものはないかと、周囲を見渡す。
 大きく広がる灰色の不毛な大地は平坦ではなく、行く手を遮るように巨大な岩が転がり、亀裂が走っている。真っ黒な空には炎のような紅い雲が渦巻き、雷が大地へと降り注ぐ。実に殺風景な荒地だ。
 ユミエルは上空から手がかりを探そうと飛ぼうと軽くジャンプするも、重たい空気がそれを許さない。光翼は風を掴む事ができず、彼女は地面に落ちた。どうやら天使の力はここではある程度制限されるみたいだ。血のように赤く湿った泥で白い靴が汚れる。
(って事は歩いてか……)
 だが、これといった目印もない場所でどうやって手がかりを探せばいいのかと途方に暮れていると、
「ほう。これはこれは……」
 岩陰から声が聞こえてきた。
「だ、誰! 姿を見せなさい!」
 彼女は思わず、声の方向へと剣先を向ける。
「懐かしい気配を感じたので、やってきただけなのに。刃を向けられるとは、とんだご挨拶だな」
 声の主はやれやれといわんばかりの口調でそういうと、岩陰から姿を現した。
 それは灰色の毛皮を持つ一匹の狼だった。
「あ、あなたは……」
 戸惑うユミエルを無視して、
「私の名はアルフレート。またの名はヴェアヴォルフエクリプス」
 狼は自己紹介する。
「エクリプス……! しかし名前が……?」
 ウルフヘジンエクリプスとは名前が違うエクリプスが現れた事に、ユミエルは困惑してしまう。
「困惑しているようだね。まあ、無理ならぬものか」
 アルフレートは笑みを噛み殺すと、
「ウルフヘジンエクリプスとは本体である大上京郎を軸に、私ともう一つの影魔が合体してなった姿なのだよ」
 自分の存在を説明する。
「まあ、それよりも……ディアブロエクリプスの魔力から大上京郎を助けにきたのだろう。私も手伝おう。光翼天使よ」
 狼は見透かすような口調で話を促す。
「……わたしが何をしにきたのか、分かっているようね。それなら、話が早いわ。彼の居場所まで案内してくれる?」
 自分よりもこの世界の住人であるアルフレートの方が詳しいだろう。敵対意識も感じられないので、ユミエルは素直に案内を頼む。
「元よりそのつもりで君の前に姿を現した。ついてきたまえ」
 狼はそういうと尻尾をピンと立てると、フリフリと振りながら歩き始める。
「ディアブロエクリプスの魔力で随分と荒廃してしまったものだ。まあ、この程度は簡単に直せるがね」
 アルフレートは道を案内しながらも、彼女に話しかける。
「さっき、懐かしい力とかいっていたよね。それってどういう事なの?」
 ユミエルはそこで質問する。先程、懐かしいといっていたが、どういう事なのだろう。
「どうもこうもない。私と君達──君の母親とは昔、直接あっているのだよ。大上京郎が幼い頃に影魔に襲われた事は知っているかね? 何なら、少しだけ過去を見せてあげよう。君の母親・光翼天使マリエルと我々の因縁を。君には知る権利がある」
 狼は立ち止まり、真っ直ぐに鋭い視線を送る。
 その視線に射当てられたのか、ユミエルは僅かに後ろにたじろぐも……
「え、ええ。見せてくれるのなら見せて頂戴……いったい、過去に何があったのかを」
 勇気をだして、そういった。狼はニヤリとした笑みを浮かべると、
「では、私の頭に手を乗せたまえ」
 そういって、耳を伏せた。
 彼女はいわれるがまま、アルフレートの頭に手を乗せる。すると、次々とユミエルの頭の中に映像が流れ込んできた。


 不幸というのはいつでも突然であり、理不尽である。大上京郎の家族は突然現れた影魔の襲来によって、その平穏を奪われた。
 父親は必死に迫りくる絶望に抗うも殺され、母親は彼をキッチンの流し台下の収納庫に隠したあと、影魔に襲われ、散々に陵辱されたあと、夫のあとを追った。
 誰もいなくなったと思い油断したのか、影魔は殺したばかりの母親を音を立てて貪り喰らう。
 大上京郎は僅かに開いていた隙間から、事の終始を全て見ていた。大きく目を見開いて涙を流しながらも、溢れだしそうになる激情を必死に噛み殺す。
 ここで下手に動けば殺される。自分が殺されれば、自分を守ろうとして死んだ父親や隠して死んだ母親の死が無駄になる。故に彼は湧き上がる激情を噛み殺し、必死に自分の感情を抑え、そして、何もできない自分、自分の生き死にもままならない自分に絶望し、助かる為に力を求めた。
 力への渇望がピークにまで達しようとしたその時、
「光翼天使マリエル。光臨(ブレイク・ドゥーン)!」
 若き日のマリエルが現れ、影魔を呆気なく倒した。
 それを見た京郎が感じたのは、助かったという実感ではなかった。余りにも呆気ない幕切れ。彼が感じたものは無力感と惨めさだった。
 隠れるまでの時間を稼いだ父親、自分を隠してくれた母親、そして、敵を倒した天使……なのに、自分は何もできなかった。
 子供心ながら、否、純粋な子供心故に、その事が彼にはそれが耐えられなかった。ピークにまで達していた力への渇望は一気に爆発。ドス黒く邪悪なそれは彼の創造力を解して少しずつ形を成していく。
「ぐうぅぅ……」
 京郎は鈍いうめき声を上げながら、ゆっくりと外へでる。
 マリエルが彼の姿を見て、驚きの声を上げたが、その声は彼の耳には届かない。京郎が思う事はただ一つ。自分の中から湧き上がるある衝動。
『力が欲しい』
 それだけだった。そして、どうすれば、力を手に入れられるのか。どうすれば、この身を焦がす欲望を、心の底から湧き上がる渇望が止められるのか、彼は必死に考える。
 じっと倒された影魔を見つめ続けていると、倒されたはずの影魔がピクリと動き、一気にマリエルへ飛びかかった。だが……
「ぐおぉぉぉぉ!」
 カウンターをとる形で彼が影魔へと襲いかかる。別にマリエルを助ける為ではない。影魔の意識が彼女の方に向いていた為、その隙をついただけだ。彼の腕は大きく伸び、獣のように毛で覆われ、その指先には刃物のように鋭い爪が生えてくる。八歳児とは思えない力で飛んでいる影魔を床に叩きつけ、馬乗りになると、無我夢中でその鋭い爪で皮膚を切り裂き、内臓を掴みだし、骨を抉りとる。
「グオォォォォッ!」
 大きく仰け反ると、彼の口は裂け、大きな耳が生えてくる。人の顔から狼の顔へと変形した。力を得る為にこの影魔を喰い殺せ、と本能が告げていた。顔を完全に狼のものにした彼は、本能の赴くままに大きく口を開き、獲物である影魔に咬みつこうとしたその時、
「止めなさい!」
 彼の行動を見かねたのか、マリエルが錫杖の石突で京郎の延髄を強打。不意を突いたおかげか、彼は呆気なく昏倒した。
 まだ完全なエクリプスになっていなかったからか、マリエルは光の力で彼の影魔を封印し、そして奇跡の羽根の力で記憶を消すと、その場から立ち去った。
 だが……
「忘れたくない……」
 天使が立ち去った直後、途切れ途切れながらも意識をとり戻した彼は、最後の力を振り絞って指に鋭い爪を生やさせ、胸に大きな斜めの傷をつけ、再び意識を失った。


「この時に封印された影魔こそ私だ」
映像を中断させ、アルフレートは彼女に話しかける。 
(胸の傷の片方はこの時に負ったものなんだ)
 彼の胸に刻まれた×の字の傷の由来の一部を知る事ができた。影魔の事を忘れない為に、自分の身体を傷つけるとは。
(何だか……似ているかも……)
 ユミエルは自分の中に眠るエンジェルエクリプスの事が頭に浮かぶ。自分も彼も影魔に襲われ、その絶望からエクリプスになった。故に奇妙な共通意識のようなものを感じてしまう。
(もし少しでも出会い方が違っていたら……戦わずに済んだのかも……)
 彼女はふとそんな事を考えてしまう自分に気がつき、思わず戸惑う。ウルフヘジンエクリプスはマリエルの命を狙っているというのに。彼が諦めない限り戦わずに済むはずがないのに。
 戸惑うユミエルを尻目に、
「では、続きを見せよう」
 狼はそういって、続きを見せる。


 病室で意識をとり戻した京郎に、大人達は次々と質問を投げた。最初は医者や看護婦によるものだったが、やがて事件を捜査する警察関係者にとって代わられる。
 いったい、何があったのかという警察の質問に対して、彼が答える事ができたのは、
『化け物に襲われ、両親は自分を庇って死んだ』
 たったこれだけだった。良識的な大人は『ああ、小さい子からすれば、襲ってきたものが化け物に見えてもしょうがないな』と解釈し、そうではない大人は『何をふざけた事を』と聞く耳を持たない。
 有力な手がかりがつかめない為、警察の捜査は難航。そうしている間に京郎は親戚に引きとられ、事件は未解決のまま闇へと消えた。
 だが、影魔に襲われ、自身も影魔に成りかけた事による影響は非常に大きかった。特に精神に対しては顕著なまでに現れていた。
 常に何かに怯え、ちょっとした事でヒステリーになり、引きとられた先で次々と問題を起こした。また神経が過敏なのか眠る事ができず、そのせいで更にヒステリーを起こしやすくなるという悪循環。そして何より『自分は何かを求めている。なのに、何を求めているのか分からない』という不安は彼を苦しめ苛ませた。
 結果、京郎は事件から半年足らずで廃人寸前まで追い詰められてしまった。最初そんな彼を立ち直らせようとしたその親戚達だが、一向に症状が改善されない彼に嫌気が差し、京郎をたらい回しにした挙句、養護施設に引きとらせた。
 施設にて、施設指導員の挨拶や施設での規則をうつむき聞き流していた彼だが、
「初めまして大上君。私は深山義隆。この神威養育院院長を務めている」
 最後に院長が現れた時、驚きで目を丸くした。
 視線の先に待っていたものは、右腕がなく顔の左側半分が醜く焼け爛れた老人だった。左目は失明しているのか白く、左耳は見えない。
「どうした? そんな驚いた顔をして。何かおかしなものでもあったのか?」
 深山院長は自分の容姿を少しも気にかけていない、むしろ彼の反応を楽しむかのように、軽い笑みを浮かべ話しかける。
「い……いえ、あの……」
 白い眼に見つめられ、京郎は思わずたじろいでしまう。その様子を見て深山院長は満足気にニンマリとした笑みを浮かべたあと、笑いを消す。そして、
「私からお前にいう事はただ一言。それはお前に強くなって欲しい事だ」
 真剣な口調でそういった。
 強くなれという言葉を聞いて、京郎は忘れている『何か』が反応する。忘れている何かを思いだすヒントになるのではと、彼は先程とは打って変わって真剣に彼の言葉に耳を傾ける。
「この世は残酷だ。苦労して作り築き上げたものも、何かによって簡単に奪われ破壊される。それに対抗するには、それを防ぐ力を持つ以外に他はない」
 院長はここで一息つくと、
「暴力に抗う力、戈を止める力……即ち武力を持つ事だ」
 はっきりと断言した。
「世間はお前を不幸というだろう、哀れだというだろう。しかし、私はそうは思わない。何故なら、お前は普通に生きる人間よりも先に、この世界の本質というものを知る事ができたからだ。
 世界は残酷だ。だからこそ強くなれ。
 この世界では、無知は罪であり、無能は罪であり、無力は罪なのだ。
 個人の権利はその個人による不断の努力によってのみ守られるものなのだ。警察は民衆を統治するべく社会の治安を取り締まり、裁判所は社会的な秩序と道徳を守るべく法律に基づいて裁く事こそできるが、個人の問題には決して関与できない。よってこの世のあらゆる危険を防ぐには、常に最大限の努力をし続けねばならない。
 故に強くなるしかないのだ。世界は弱者には甘くない。弱者はただ利用され、捨てられるのみ。弱者は己の命も意思も守られない。己の意思も命も守れぬ人間は、他人にも何もしてやれない。守る事もできなければ、まして助ける事など絶対にできない。それが嫌なら強くなるしかないのだ」
 声に抑揚をつけながら、延々と喋り続ける。
「決して他人に救いを求めるな。私はお前を救う事はできないし、誰だってそうだ。他人は他人を救えない。絶対的な救いというのは、結局のところ、その人個人で導くしかない。
 ただし、私は救う為のきっかけを与える事はできる。誰だってそうだ。他人は他人に救いのきっかけを与える事はできる。ここにいる間、私はお前の生活と権利を法的に保護する人間になり、最大限の教育を施す事を約束しよう。あとはお前次第だ。機会を存分に活かせェい!」
 院長からの言葉はここで終わった。およそ子供向けとは思えない内容の言葉。だが、その言葉は京郎の心の奥深くにまで響き渡った。
 その夜。
 施設のベッドで、彼は何度も寝返りを打ち、思考を巡らせる。
 この世界は残酷で恐ろしく理不尽だ。生きるのは恐ろしい。しかし、だからといって死にたくはない。死ぬのが嫌な以上、生きるしかない。だが、こんな恐ろしい世界でどうやって生きていけばいいのか分からなかった。故に怯えていた。
 だが、深山院長はそれに対する答えを教えてくれた。
『強くなればいい』
 確かにその通りだと、幼い彼は思った。
 この世が残酷で恐ろしいのなら、それを打ち破るだけの力を持てばいい。それに耐えられるほど強くなればいい。全く持って簡単な答えだ。
(強くなってやる……)
 この施設にいる間に、これから生きていくだけの力を身につけてやる。世界の残酷さを打ち破り、運命に打ち勝つ力を手にしてやる。
 彼は闇夜の中で一人そう誓った。


「彼は……人間に戻ったあとも力を求める事は止めなかった。私を封印したところで、結局は無意味なものだったのだよ」
 生きていくにはそれ相応の力が必要である。精神に障害を残し、親戚にも見捨てられた彼が、これからを生きていく為に力を求めたとしても仕方ない。
「皮肉な結果だとは思わないかね?」
 力を求めたが故に影魔になり、影魔になったが故にマリエルによって影魔と記憶を封印された。しかし、生きていくには力が必要であり、結局、力を求める事は変わらなかった。
「でも、彼が影魔になったのは……」
 影魔に襲われた絶望と恐怖、そして自分には何もできないという無力感からエクリプスへと変貌した。しかし、その欲望の根底にあるものは家族を殺された怒りや悲しみだとユミエルは思っていた。
「母親と同じ間違いをしているようだね。しかし、残念だが違うのだよ」
 アルフレートはもの哀しげな口調で答えた。
「あの時……確かに家族を殺された悲しみや怒りはあったし、影魔への恐怖や絶望もあった。だが、それ以上に彼は自分の無力感を痛感していたのだよ。考えても見たまえ。彼が私を生みだしたのは、君の母親に助けられてからだ。君のいうものならもっと早く影魔になっていたはずだろう?」
 思い返してみれば、確かにその通りだ。でなければ、マリエルに助けられた直後に、何故、彼が影魔になったのかの説明がつかない。
「自己の生存もままならず、安易に奇跡を求めたり、他人の救いを期待したりするような人間になりたいとは彼は思わなかった。例え他人を犠牲にしても……自分の力で立ち上がり、自分の力で生きる存在になりたかった。故に求めたのだよ、狼の力をな」
 それを聞いて、ユミエルはもの悲しくなる。
 自分の命を大切にできるのなら、何故、その気持ちと同じくらいに他人の命を思う事ができなかったのだろう。少しでもいいから、自分の命に対する思いを他人にも分け与えればよかったのに。
(……命の尊さを知っているのだから……)
「そして、このあと……また影魔に襲われ……ウルフヘジンエクリプスになった……」
 それを耳にしたアルフレートは、
「その通りだ。ふむ……どうやら、クレーエエクリプスからそれなりの経緯を聞いたようだね。では、その際に彼が捨て去ったものの話は聞いているかね?」
 尋ねてきた。
「うぅん。それは聞いてないよ」
 いったい、何を捨て去ったというのだろうかと、ユミエルは首を傾げた。
「ふむ。そうかね。では、間を少し飛ばして、そこをお見せしよう」


 力を求めて止まない京郎に、深山院長は神威養育院に出資している地元の旧家が行なっている道場『神威流武術』への入門を勧める。そこでであった多くの人間……神威流の創始者にして、日清・日露戦争にも参加した元帝国海軍軍人・御嶽神威(本名は宗芳。神威は号である)、敗戦直後の日本において、GHQの協力の下、自警団を率いて地元の治安を守ったヤクザ組織元幹部・三つの目を持ち、口の下顎は二つに分かれ、三つの腕を持つ重度の奇形者・三鬼仁、そして、硫黄島守備隊の生き残り、元帝国陸軍軍人・深山院長やその他に、養育院や道場の人間と深く関わり合う。
 特に深山院長は、京郎が戦死した部下の孫だったのもあって、何かと気をかけてくれた。
 多くの人々との関わり合いによって、彼は影魔によって受けた深い心の傷……崩れかけていた自我の基盤を少しずつ安定させ、一人の人間として成長していった。
 中学を卒業した彼は、自衛隊の道に進む。深山院長や担当指導員は進学高に進み、そこで他の道を探したり考えたりしてから、改めて防衛大学を受けた方がいい、京郎には他にも様々な可能性があるのだから、と引き止めてくれたが、少しでも早く自立したかった彼はそれを拒否。
 施設を離れ、遠くにある少年工科学校に入学。そして、それから三年目……一等陸士に昇任した年の冬。
 彼に初めて恋人ができた。
 喫茶店でバイトしていた彼女がガラの悪い連中に絡まれ、見かねた彼が止めに入ったのがきっかけである。
 恋人の存在で傷ついた心が完全に癒されるはずだった。彼女と付き合っていた頃の彼もそう信じていた。
 しかし……
 彼女の存在が、彼を影魔への道へと導く事になる。
 恋人ができてから、三ヶ月目。ウルフヘジンエクリプスになる運命の日。
 その日はクリスマスであり、運よく休日とも重なっていた。
 二人はデートを兼ねた買い物として、デパートに足を運ぶ。
 だが、そのデパートが影魔に占拠された。
 影魔達はデパートに影の領域を作り、中の人間を閉じ込めると、客や店員を一番広いフロアに集めさせ、
「ゲームをしよう」
 一方的にそう宣言した。
 大きな建物見取図を魔力で中空に描くと、
「このデパートにある各階二ヶ所の避難口から外へと逃げる事ができる。今から俺達がお前らを襲うから、逃げ惑え。もし外にでられたのなら、お前らの勝ちだ。外にでていけた人間は見逃してやる。でないと……」
 パチンと指を鳴らした。すると、建物の影から顎と歯を持つ触手が現れ、無作為に人々に襲いかかる。
「いやああ〜ッ! 放してェ!」
「何だ! 何なんだよ、これはあッ!」
「ひっく……助けてぇ……パパ〜ママ〜助けてよおぉ」
 触手は捕まえた獲物を上空高くに掲げると、
「こうなるからな」
 その言葉が合図だったのか、棘を持ち激しく回転する触手や無数の眼球が並べられた触手、うねうねと動く毛の生えた触手が捕まった人に襲いかかる。
「ひぎぃいいいい! やへぇてえ! な、なかで暴れないでえッ!」
「らめぇ……こへ以上……ひぃぎたぐない……死ぃんじゃう〜」
「入らない……これ以上……入らない……もう入れないでぇ!」
 捕まった女性や少女達は陵辱されている。およそ人間には不可能な陵辱。砕岩用ドリルのような触手に内臓を破壊されながら犯される女性。媚薬か何かを注射されているのか嬌声を上げながら命を散らす女性。無数の触手を穴という穴に打ち込まれ全身を風船のように膨らませている女性。
「放せ! 放せよ、ひぎゃああああああ!」
「痛げええぇ!……止めろ止めろ止めろやめろヤメロロロロロオォォォ!」
「やだやだやだやだやだヤヴァアア! ヴァパ……マハ……ひゃふへて……」
 捕まった男性達や少年達は食いつかれ、切り刻まれ、叩き潰され、焼かれ、砕かれ、溶かされ、蝕まれ、殺されていく。
 その光景を見て、人々は恐怖よりもまず呆気にとられてしまう。余りにも非現実的な光景故に誰も彼もが目の前で起きているものを信じる事ができなかった。人々は漠然と陵辱され殺されていくのを見つめていた。ただ一人を除いて。
「どうしたの? 大上さん?」
 恋人が彼に話しかけてくる。彼は歯を食い縛って、胸を押さえていた。
(俺は……知っている……こいつらが何なのかを……俺は知っている!)
 化け物達を見て『何か』が反応した。胸の傷が疼いて仕方がない。だが、思いだすには至らない。
「分かったな。俺達は容赦しないからな」
 影魔の一人がくすくすと笑いながらそういった。
 それを聞いて、
「ふ、ふざけんな! そんなお遊びに付き合えるか! さっさと俺達を解放しろ!」
 持ち前の正義感からかそれとも恐慌状態の精神が暴発したのか、男性の一人が影魔達に向かって叫んだ。
 影魔達はお互いの顔を見合わせ、下品にそれを嘲笑うと、男性の影の中から顎と歯を持つ触手を無数に生やし、食いつかせる。
 男性は絶叫を上げ、もがきながら食い殺された。
「他に何かいいたい事がある奴は?」
 影魔の一人がニヤニヤとした笑みを浮かべ、尋ねる。その笑みには絶対的優位に立つ人間特有の傲慢さ、無力な相手を一方的にいたぶる事への残酷な喜びが浮かんでいた。
「何もないのなら、五分後に開始する。せいぜい足掻くんだな」
 開始の秒読みをし始めた。
 その秒読みと死体から漂ってきたおぞましいまでの悪臭に人々は我をとり戻したのか、誰も彼もが一目散に逃げる。
 我をとり戻した京郎もまた恋人を連れて、急いでこの場から離れる。今は昔を思いだしている場合ではない。少しでも安全なところに逃げなければ。
 相手は人間ではない。また普段なら外出する際に様々な道具を持ち歩いているが、今日はデートだった為、何の道具も持っていない。これでは何もできない。今の状況では逃げる以外の選択はなかった。
 周囲の人々と同じくパニック状態になりかけている恋人を背負い、彼は一番近い一階の避難口を目指す。しかし……
(やばい! 何かがいる!)
 何かを感じとった彼は、人々から離れ、通路の脇による。
「何で、何で逃げないの!」
 背中の恋人が尋ねてくる。
「何か……待ち伏せている」
「え、それなら他の人にも教えなきゃ……」
「シッ! いいから、黙ってろ」
 京郎は恋人の言葉を制する。避難口には何かが待ち伏せている。しかし、何が待ち伏せているのかは分からない。故に彼は、逃げ惑う人々を制止せず、捨石代わりに先へと進ませた。
 すると、しばらくして通路の先から悲鳴がこだましてくる。恐らく避難口に逃げた人々のものだろう。彼の思った通り、何かが待ち伏せていたのだ。
「やはり、いたか……ちょっと待ってろ。様子を見てくる」
 彼は恋人を下ろすと、何があるのか偵察に向かう。
 何人かの生き残りと擦れ違い、物陰に隠れながら避難口の様子を伺う。避難口にはコオロギと人間が融合したような影魔が待ち構え、
「どうだい! どうだい! 俺の歌はッ!」
 クリケットエクリプスはそういうと羽根を擦って不気味な音を奏でた。その音を聞いた周囲の人間は悲鳴を上げながら、床を転げ回る。
 京郎は不快な音に顔を歪ませながらも、独特の音波を奏でる事で身体に悪影響を与えているのだろうと判断。そして、敵が待ち伏せていた事から、影魔達は自分達を外へ逃がす気がないと考え、他の避難口も同じように待ち伏せているだろうと予測する。
 恋人のところに戻った彼は、その事を彼女に告げ、自分の考えをいう。
 一つ。強引に切り抜ける。
 二つ。どこかに隠れている。
 三つ。諦めて自殺する。
 以上が彼が自分達にできる事だと、提案したものである。
 三つ目は論外だから、残るは切り抜けるか隠れるかだ。
 だが、こんなバカげた事をしでかす輩に、隠れるのが通じるとは思えない。少なくとも、デパートにいる人間全員を皆殺しにできる自信があるからこんな事をやっているのだろう。そう考えた彼は隠れる提案を退け、強引に切り抜けるのが一番現実的だと告げる。
 強引に切り抜けるのが一番現実的だと判断した理由は、単なる消去法の結果からだけではない。他にも相手が自分達に対し油断している事も挙げられる。絶対的有利な猟師の立場故に油断している。故にそこを突けばどうにかできるだろう。また影魔達が悪ふざけた感覚であるのも見逃さなかった。獲物が一匹二匹逃げたところで、
『お前、バカだな〜』
 と、待ち伏せしている影魔を茶化して、見逃してくれる可能性があると踏んだからだ。それに遊び感覚、悪ふざけ故に自分達が痛い目に合う事など考慮していない。少しでも痛い目に合わせれば、腰を抜かし隙ができるだろうと考えたからだ。
 だが、恋人はそれに反対した。危険だからといって。しかし、このままじっとしていても危険であるのは変わらない。それなら、どうすればいいのかと尋ねる彼に対し、彼女は何も答える事ができなかった。
 恋人に止められたのもあって彼はとりあえず他の手段を考えてみた。
 とりあえず、他の脱出方法を試してみる事に決めた。屋上への移動は時間がかかるから却下。そこで窓から逃げてみようとするも、何故か窓は開かない。叩き割ろうとするが、まるで鉄板か何かのようで、道具を使っても叩き割る事ができなかった。
 それを見て、再び彼の中で『何か』が今の状況に反応した。これは……『あの時』とそっくりだと。
 しかし、京郎は頭を振って、再びそれを捻じ伏せる。今は昔の事など考えている場合ではない。他にいい方法が考えつかない為、彼は切り抜けるしか手段がない事を説明し、恋人を必死に説得する。
 やがて熱弁が通じたのか、恋人は渋々ながらも彼の言葉に同意した。
 恋人の説得した彼は、適当に武器になりそうなものを探す。
 神威流は素手を始めるとするあらゆる武器……およそ個人で所持できるあらゆる武器全てを使いこなし、更に極日常的なものも武器にする。武の本懐とは自身の身を守る事。ならばあらゆる状況を想定しなければならない。そうなると、ただ一つの武器が使えればいいというものでは済まない。状況に合わせてあらゆるものを武器としてを使いこなす必要がある。それにある程度使いこなせれば、あとはそれを最大限に発揮できる戦い方をすればいい。
 戦いにおいては肉体も重要だが、同じように知能も重要だ。肉体というハードと知能というソフトその両方が戦闘には求められるのだから。どちらかしかない人間は戦場ではまず生き延びる事はできない。特に古代の戦場においては。
 この思想から神威流は一般的な普及は行なわれていないが、日本においては自衛隊や警察、アメリカ支部においては、アメリカ陸軍および海兵隊などに用いられている。
 運よく、近くに日用雑貨店を見つけた彼は、主力武器としてシャベルを選び、防具としての鎖を身体と手足に巻きつけ、予備装備として鉈を腰に装着する。更に消火栓──液状のものと粉状のものが二種類あった──を脇に抱えて、先程の場所──クリケットエクリプスがいる避難口のところに戻った。
 彼は戻りながら、恋人に話しかける。
「いいか、絶対に周りの人間を助けようとはするな」と。
 それに対し、他人を見捨てる事などできないという恋人に対し、
「今の自分達では、何もできない。むしろ、周りを助けようとして、自分達まで死んでしまったのでは意味がない。外にでて助けを求めた方が絶対にいい」
 見捨てろという理由を説明する。そして、続けざまに、
「あそこにいた奴は俺が足止めする。その隙に逃げてくれ」
 そう告げた。
 それに対し、できない、京郎を捨てて逃げるのは嫌だと首を振る恋人。だが、そうでもしなければ、逃げる事はできない。自分なら大丈夫だからと、彼女を説得しながら、彼は腕時計を見る。始まりまで残り二分ほどだ。
(多分、無理だろうな……)
 自分が逃げる分の時間は稼げないだろうと思いながらも、彼は覚悟を決める。
 他人を見捨てる以上、自分も見捨てられる覚悟を持たなければいけない。これは戦場に赴く戦士ならば当然の事である。戦場では助けている暇はないし、助けていたのではそこを敵に突かれ、余計に被害を広げてしまうからだ。
 二人は先程いた場所まで戻ってくると、
「合図を送るから。その合図と共に全力で逃げろ。決して後ろを振り返るな」
 彼はクリケットエクリプスの隙をうかがう。
 周りにいた人間は既に死んでいるのか、少しも動かず、ただクリケットだけが、一人の女性の上に乗ってカクカクと腰を振っていた。時折、女性の身体から鋭い針が飛びだす。どうやら、鋭い針は彼の性器のようだ。女性が動かないのは、針で内臓を掻き回され、死んだからだろう。
「くうぅ〜あ、堪んねえ。イクうッ!」
 死体の山の中、クリケットエクリプスは声をだしながら、絶頂する。射精した隙を見つけるや否やコオロギの影魔に向かって彼は二種類の消火栓を放ち、視界を奪うと同時に音を操る能力──音をだす際に羽根を動かしていた為、羽根で音を操っているのだろうと予測した──を潰し、
「オラアッ!」
 容赦なくその手に持つシャベルで襲いかかった。
 甲高い金属音が鳴り響き、クリケットの顔はコンクリートの床に叩きつけられる。
「今だ!」
 敵が倒れるや否や恋人を避難口へと逃す。
「痛ってぇだろ! この野郎おぉッ!」
 人間なら一撃で死んだであろうそれをまともに受けながらもクリケットエクリプスは死なず、怒りの反撃をしようとした……が、そうはさせじと、京郎は頭上で構えたシャベルを、無言で振り下ろした。彼は心を目的の為に凍りつかせていた。戦いに感情は必要ない。必要なのは冷徹な目的意識と冷血な思考力、そして冷酷な実行力だ。
 シャベルはコオロギ男の首に命中。深く切り込む。
 普通なら致命傷。だが、彼は油断しない。食い込んでいるシャベルを力いっぱいに蹴って、クリケットの首を切断した。それと同時に、
「さあ、ゲームの始まりだ! せいぜい、足掻くんだなあッ!」
 フロア全てに始まりの声が響いた。
 それに反応し京郎は思わず攻撃の手を緩める。首を切断した事から死んだと思ったのだろう。
 しかし、それを待っていたかのようにクリケットエクリプスの身体が動いた。女性の身体は突き破っていた鋭い針が彼の心臓目がけて襲いかかる。
 完璧に虚を突いたと思われた攻撃であったが、そうくる事を予測していた彼はシャベルで針を流し受けた。
 シャベルは第一次世界大戦の時代、塹壕戦で活躍した道具の一つだ。塹壕を掘る事もできれば、不意に遭遇した敵兵に対して、武器の代用として使われている。また曲面を利用して機関銃の弾を防いだという記録も存在する。
 攻撃を受け流した彼は、クリケットエクリプスを蹴飛ばし、足で抑えると、シャベルを突き刺し、コオロギ影魔の身体を地面のように掘り始める。JISマークのついたシャベルは外骨格を砕き、その中の内臓や筋肉を切り裂き抉りとる。
 通路の向こうから、次々と新たな影魔が姿を現す。牛や豚、ノミやダニ、カエルやトカゲ……様々な姿をした影魔達が。
 京郎は深く息を吸い、吐きだすと、
「かかってこいッ! 雑魚共があッ!」
 京郎はシャベルを構え、敵を迎え撃つ様に大声で吼えた。
 ここで逃げるわけにはいかない。避難口に向かって逃げれば、こいつらは自分を追いかけてくる。そうなれば、先に逃げた恋人も襲われる。一秒でも彼女が逃げる時間を稼ぐ為に、彼は逃げずにその場に留まり、悪鬼羅刹となって戦い続けた。
 それは正に獅子奮迅といってもよかっただろう。
 生身の人間でありながら、下級とはいえ人間を超越した存在であるエクリプスを十数体も倒したのだから。
 無論、彼とてただで済んではいない。今日の為にコーディネイトした服はボロボロになり、全身に傷を負い、血を流す。
 眼前の敵を全て倒した彼は倒した影魔に腰を下ろし一息つく。
(……充分に時間を稼いだよな……)
 彼は腕時計を見る。中学入学の時に養育院からお祝いとして送られた腕時計。大切にしていた品物だが、ベルト部分は血で汚れ、文字板のガラスには細かいヒビが入っていた。
(……十数分……か)
 養育院に引きとられてから十年間、今日までずっと身体を鍛え、技術を磨き、知識を学び、戦う為に己の牙を研ぎ続けてきた。
 それなのに、僅か十数分しか持たないとは。
 ペース配分ができるような相手ではなかった。最初から全力で当たらなければ、殺されていただろう。しかし……
(たったの十数分かよ……チクショウ……)
 彼はそれが無性に悲しかった。十年もの月日をかけて積み重ねてきたものが、僅か十数分の時間稼ぎにしかならないとは。
 そして、この時、京郎ははっきりと自覚していた。自分が殺されるという事を。倒した連中に命令していた奴らはもっと強い。なのに自分には大した武器も、頼むべく味方もない。唯一自分が助かるとしたら、逃げた恋人が外で助けを求める事だが、恐らくは救助は間に合わないだろう。故に自分は助からない。
(せめてまともな武器さえあれば……)
 彼は真っ赤に血に染まったシャベルを見つめながらそう思った。血に汚れ、ボロボロに刃が欠けたシャベル。幾ら武器として代用できるとはいえ、所詮は代用品である。これを主力武器として戦い続けるのには、限界があった。
(無念だ……無念だよ……)
 彼は声を噛み殺して嗚咽する。これから訪れる死の恐怖に怯え、何故こんな目に合うんだという怒り、そして自分の無力さを嘆く。
 敵の気配を感じるや否や彼は嘆くのを止め、敵の方に意識を向ける。
「ほう……雑魚とはいえ我々エクリプスを倒すとは……人間にしてはやるじゃないか」
 人型の影魔が手を叩きながら、話しかけてきた。先程フロアでゲームの説明をしていた影魔達の中にいた一人。このバカげたゲームの首謀者の一人だと思われる。
(……こいつ……強ぇ……)
 自分が倒した雑魚達とは力の桁が違う。圧倒的な強者がだす重圧を全身で感じ、京郎はいよいよ自分の最後が迫ったきた事を自覚する。
(……それでいい……)
 だが、彼の心は絶望していない。圧倒的な強者の前に立ち、己が死ぬ事に嘆きながらも、彼は絶望していなかった。
 幼い頃、神威先生に尋ねた事がある。
 戦いにおける勝利とは? 神威先生いわく、
『戦いにおける勝利の定義とは、己が目的を成したか、成せなかったかだ』
 戦いの根底には常に目的があり、目標がある。いかなる犠牲を支払おうとそれを成し遂げれば勝利であり、成し遂げられなければ敗北である。
 それは彼は納得させるに充分過ぎる答えであった。
 今、京郎は恋人を逃がす為に戦っている。彼女が無事に逃げ切れば、自分の勝ちだ。例え、死ぬ事になろうとも、自分が勝利した事実は変わらない。あとは……
(……時々でいいから想いだしてくれれば、それでいい……)
 自分に助けられた事を思いだし、自分の犠牲に相応しい人生を送ってくれればそれでいいと、彼は思った。
 そして、一切の雑念を捨てると、眼前の敵に意識を集中させ、
「シイイイィィッッ──!」
 鋭く息を吐きながら、敵に襲いかかる。
 逃げるよりも進んだ方が心は折れ難い。『葉隠』にも生きるか死ぬかで迷った時は死ぬ方を選べと書かれている。生に逃げるよりも、死と対決した方が生き残れるし、また潔い死に様を迎え、名誉を失わないからだ。
「フンッ! 全く面白い奴だ」
 影魔はそういって、軽く後ろに跳躍して間合いを開けると、自身の影を伸ばし、無数の顎と歯のついた触手を京郎に襲わせる。
 だが、彼はまるでそうくる事が分かっていたかのように回避し、間合いを詰める。
 京郎が人間でありながらエクリプスを倒せた理由。それは敵が油断していた事や戦闘能力や特殊能力を持たない最下級の影魔ばかりだったのもあるが、それ以上に彼に高い戦闘技術があったからだ。
 神威流には『意読』、『流読』、『合気』、『悟心』の四つの極意がある。彼はその極意の内、『意読』と『流読』を十八の若さで極めていた。敵の意を読み、力や物事の流れを読む事で、攻撃がどうくるかを察知し、今のように対処したからである。 
 武術は対人用のものだから、それ以外には使えないという事は決してない。何故ならこの地球上で最も多彩かつ複雑な戦い方をするのは人間だからである。人間に比べれば、猛獣も昆虫も動きそのものは単純。要は使い手次第だ。
「イイィ──ッ!」
 そして、もう一つ理由があった。神威流奥義の一つ『犬神憑き』の存在である。エンドルフィンやアドレナリンなど脳内麻薬を操って錯乱状態になり、普通なら制御されている筋肉を、一時的に百パーセントの力で動かす事ができる。
 敵の懐に潜り込んだ彼はその喉下目がけてシャベルを突きだす。文字通り全力の一撃。タイミングは完璧であった。彼自身も仕留めたと思っていた。だが……
「バカな……」
 シャベルは影魔の首下すれすれで停止した。
「魔力による障壁だ。残念だったな」
 その影魔はそういうと、彼に向かって影の波動をだした。
 京郎はそれを避けようとするも、身体が追いつかず、まともに受けてしまう。
 とっさに盾にしたシャベルの柄はへし折れ、彼は壁に叩きつけられる。
「惜しかったな。俺達、影魔は常に魔力で身を守っているのだ。雑魚なら大した事はないが、強いものになればなるほど、障壁の防御力は増す。上級クラスになれば、普通の人間や並みの武器では、かすり傷一つつけれない」
 影魔はべらべらと自慢するように話したあと、
「つまりお前が勝てる可能性は万に一つもないのだ。ハハハハハハ!」
(……ざけるな……)
 敵影魔の嘲り笑いを聞きながら、彼は幽鬼のように立ち上がる。
 一見、派手に吹き飛んだが、力の波動を受ける瞬間、シャベルを盾にした事、波動の流れに沿って動いた為、ダメージはあるが、まだまだ戦闘不能ではない。
 元より勝ち目がないのは承知の上。自分は所詮は時間稼ぎの捨石なのだ。ならば少しでも時間を稼ぐのみ。
 立ち上がった彼は、全身の力を抜き、風切り音をだすような独特の息吹をし、体力を回復させようとした。
 しかし、疲労は全く回復しない。何回も『犬神憑き』をした事による弊害だ。
『犬神憑き』は本来なら一回やっただけでその日は疲労で満足に身体を動かせなくなるほどの技。精神・肉体両方に激しい負荷をかける技なのだ。それを今日一日だけで何回もやっているのだ。当たり前の話である。
「フン、諦めないか」
 相手は笑顔を浮かべながら呟いた。
 彼は壊れたシャベルの代わりに腰の鉈を抜き、やや右足を前にだし、大きく伏せるような構えをとる。神威流地伏の構え。蹲踞した体勢から右足を軽く前にだし、少し前傾姿勢をとるこの構えは、一見すると防御を中心にした構えに見えるが、実体は攻撃を優先にした構えである。
 影魔が彼に向かって波動を放ち、無数の触手で攻撃してくる。京郎はそれを必死に意を読んで避けたり、鉈で触手を薙ぎ払ったりしながら間合いを詰め一閃するも、
「ははは! 無駄だ! 無意味だ!」
 やはり障壁に阻まれ、ダメージを与えられない。
「ほら! 喰らいな!」
 相手は無数の触手を放つ。必死に触手がどこから襲いかかるか意読して回避するも、その隙をついて影魔が蹴りを炸裂する。疲労限界まで達していた肉体と精神はその攻撃を避け損ね、まともに受けてしまう。
「これで左は死んだな」
 影魔のいう通り、左の上腕骨がへし折れた。動かす事ができない。更に……
「ぐぼぉああッ!」
 肉体に限界が訪れた。彼は吐血し、鼻血と血の涙を流す。脳内麻薬の分泌が止まったのか、血管が千切れ、神経が焼かれるように頭が痛む。それに伴い、忘れていた疲労が湧きでて、全身の筋肉や関節が痛い。戦闘不能。完全に終りである。
「どうした? たかが一撃受けただけで終りか?」
 影魔は京郎をボールのように蹴飛ばした。彼は成されるままに壁に叩きつけられる。その衝撃で腕時計のベルトがちぎれた。腕時計は勢いよく床に叩きつけられ、割れた文字盤ガラスの破片が散らばる。
「おーい、そっち終わったかあッ?」
 分が悪い事に他に散らばっていた他の影魔達も姿を現す。
「こいつで一階のフロアの奴は最後だ」
 仲間の影魔に向かって、相手はそういった。
「そうか。思ったよりも手間取ったようだな。他の連中はもう終わっていたぞ」
「ふん、奴さんが中々に頑張ったからな」
 京郎を指差しながら戦っていた影魔はそういった。
「チッ、なんだ、野郎かよ。女ならよかったのに……」
「ああ全くだぜ。俺達に耐えられる女なんざそうはいねえからな」
「全く、もう少し楽しめるかと思ったのに。さっさと殺っちまいな。そんな奴」
 影魔達は口々に好き勝手喚く。戦っていた影魔は、
「まあ、何故かこいつは逃げずに踏み止まっていたからな。面白そうだから相手にしていただけだ。これ以上、動けないようだし、さっさと殺すとするか」
 そういって、触手をだすと、彼の襲いかからせようとした。
 触手を見た彼は完全に諦観していた。だが、全ての力をだして目的を成したと考えていた彼は、その結果を受け入れていた。色々と不満はあるが、しかし、それでも自分は恋人を守り抜く事ができた。それだけで満足である。今、笑っている影魔達はただの人間に負けたのだから、破滅がくる日も近いだろう。それが来る日を、恋人を守り抜いた事を誇りにして、あの世で待ち続けてやる。
 触手が彼の右目に襲いかかる。眼球が喰われ、少しずつ奥へと侵入してきた。激痛に大声を上げたその時、
「止めてえぇぇ──!」
 予想もしていなかった声が彼の耳に届いた。
 彼の頭は真っ白になり、声のしてきた方に顔を向ける。
(ナンデ、オ前ガココニイル)
 京郎の左目に映ったのは逃げたはずの恋人の姿だった。
 彼女は逃げたはず。なのに、どうしてここにいるのだ。避難口から外へ逃げられるというのは嘘だったのか? それとも別の影魔が待ち伏せていたのか? 彼は動揺しながらも、
「逃ゲロオォォ──ッ!」
 恋人が襲われるのを防ぐ為、最後の息を絞って、『犬神憑き』を行なう。
 眼球と一緒に触手を引き抜くと、全身からの傷口から血を噴きだしながら影魔に襲いかかろうとした。
「死に損ないは大人しくしていろ!」
 しかし、呆気なく迎撃されてしまう。胸に大きな裂傷を負う。新たな傷と古傷が彼の分厚い胸の上で×の字を描く。別の影魔が触手を伸ばし、邪魔できないように彼の身体を縛り上げる。
「止めてえッ! それ以上、彼を傷つけないでッ!」
 影魔達はそれを聞いて、ニヤニヤとしながら、
「それなら俺達に奉仕しろ、そしたら考えてやる」
 ありきたりな言葉で脅す。恋人はそれに対し彼の方に目を向けると決したように、
「……分かりました。だから、だからお願いです。彼を……彼を……」
 震える声でそういった。それを聞いた彼は、
(何ヲイッテイルンダ、コイツハ……)
 恋人の答えが信じられなかった。命がけで守ろうとしてくれた人間の目の前でそのような台詞をいうとは。彼の中に怒りではなく、冷たく黒いもの──絶望的なまでの虚無感が心の中に拡がっていく。
 そして始まった陵辱劇。笑いながら恋人を陵辱する影魔達とそれに応える恋人。陵辱は少しずつ激しさが増し、非人間さが目立ち始め、やがて人間では耐えられない責めへと成り果てる。
 最初、それを屈辱と怒りで見ていた彼であるが、熱は少しずつ下がり始め、淡々としたものになってくる。そして、何故、こうなってしまったのかを冷静に考えている自分がいる事に彼は気づいた。
 片や理不尽に暴力を撒き散らす化け物達。片や十分に逃げる時間を持ちながら、逃げる事をせず、安易に陵辱される道を選んだ恋人。陵辱を行なうものと行なわれるもの両方に、彼は反吐がでた。
(コンナ連中ニヨッテ俺は死ヌノカ……)
 自分の人生はいったいなんだったのか。これまで積み重ねてきた努力はなんだったのか。全てが理不尽である。そして同時に、
(……俺ハ……マタ何モデキナイノカ……)
 そのような感情が湧き上がってくる。自分が忘れている過去につながる記憶。何ものかによって封印された感情が溢れだしてくる。身体の中から途方もない焦燥感が湧き上がり、何かを求め、心が飢え渇く。いったい、何を求めているのか。渇きに心をかき乱された彼は恋人の事も忘れて自分の渇望するものを考え、やがて……
(……力ダ……力ガ欲シイッ!……神ニモ悪魔ニモ何者ニモ勝サル力ガッ!)
 幼い頃から自分が求めていたものを思いだした。何者かによって封印された欲望を思いだした。ただ状況が違う為か、それとも歳をとったせいか、同じ力への渇望でありながら、その方向性は僅かに違っていた。
 しかし、彼の意思とは裏腹に身体の力は抜け、体温は下がっていく。目の前は暗くなり、心臓の鼓動が緩やかになる。指一つ動かす事ができず、呼吸する事すら難しくなる。全身の感覚が遠のき、意識がぼやけていく。
 やがて、完全な闇によって全てが閉ざされる。
 生きているのか、死んでいるのかも分からない闇の中、彼はあるものを見た。それは黄金に輝く天秤であり、片方には八方向に広がる矢の印を乗せ、片方には一方のみに向かって伸びる矢の印を乗せている。そこに何者かが魔剣を持って現れ、魔剣と共にそれを打ち砕いた。
(コレハ確カ……)
 その光景には覚えがあった。愛読している小説エターナルチャンピオンシリーズの一部に似たシーンがあったからだ。何故これが……
 だが、彼はそんな事どうでもいいと思った。むしろ、もし手に入るのなら、あの魔剣が欲しい。メルニボネの帝国を滅ぼし、地獄の公爵を皆殺しにし、世界に不幸をばら撒き破滅へと導いた漆黒の魔剣──
(ストームブリンガーが欲しい!)
 彼は砕け散る破片に向かってその手を伸ばす。無数に散らばる破片の一つが彼の手に触れた。すると、バラバラに散っていたはずの破片が彼の身体目がけて集まり──
 胸を割ってそれは現れた。一振りの黒き魔剣が。
 その瞬間、彼の中で何かが切れる音がした。鎖か何かが切れる音が。
 すると失われていた記憶が溢れだす。京郎は自分が何を忘れていたのか、何故、力を求めていたのかをはっきりと思いだした。
 形を成したそれは京郎を隷属させようと、少しずつ侵食してくる。それは心地よいものであったが、
(止めろ! 俺の精神に、魂に介入するな!)
 彼は自身をも喰らおうとするそれに抵抗した。このままそれを受け入れれば、自分が自分でいられなくなる。例え化け物になったとしても、自分は自分でありたい。元ヤクザの三鬼仁のように……
 三つの目と三つに分かれた口、そして三本の腕を持つ重度の奇形故にゴミとして捨てられ、誰にも拾われず死のうとしていたところをヤクザによって助けられた男。化け物、ヤクザものと忌み嫌われながらも、義を持って己を貫き続け、やがて地元の信頼を勝ちとり、敗戦直後の日本において、地元の治安維持に貢献した。その生き様には京郎も感動を覚えたほどの人物だ。
(力は欲しい! その為なら人間じゃないものになっても構わない! しかし、あいつらみたいな下種にはなりたくない! あんなゴミ共に!)
 侵食してきたそれに彼は必死に抵抗する。
(それに……俺は……俺はあんなバカ共の仲間になるわけにはいかんのだ!)
 死んだ両親の事が頭に浮かぶ。
 両親は自分を庇って死んだ。その事だけは決して忘れなかった。それ故に彼はデパートを占拠した影魔達と同じような存在になるのを嫌った。あんな連中と同じ存在に成り果てたのでは死んだ両親に申し訳が立たない。それに……
(何より、ただの化け物は早く死ぬ! お前が主では駄目なんだよ! 一時的な快楽で終わる! 刹那的な力しか手に入らん! 俺に従え!)
 浸食してくる影魔のやり方を非難した。多くの力を手に入るには影魔ではなく、自分の方がいいのだ、と。
 するとどうだろう。思い通りにならない使い手など不要だといわんばかりに、魔剣は彼の手から離れ、京郎に似た影を作って襲いかかってきた。
「止めろ!」
 京郎は振り下ろされた柄に受け止め、握り締めると、必死に抵抗する。
「俺と貴様の目的は同じだ! ただお前のやり方が悪いだけだ! 俺に任せろ!」
 彼は声を荒げ、必死に魔剣を説得する。
 だが、そんな説得を無視して魔剣と影人は彼を襲い続ける。
「この分からず屋め!」
 隙を見つけるや否や影人を投げ飛ばし、無理やりに魔剣を奪いとって、魔剣が暴れるよりも先に影人に突き刺した。
「どうだ? 分かったか? お前のやり方では呆気なく終わっちまうんだよ。俺に任せろ。俺は力が欲しい。お前も同じだ。つまり俺達は同志だというわけだ。そして俺には優れた武器が必要で、お前には優れた使い手が必要だ。目的が同じで、お互いがお互いに必要とするものを持っているのなら、手を組むのが一番だ。俺に従え。そうすれば、貴様の欲望は自然に満たされる!」
 影人を倒された事と彼の説得に納得したのか、魔剣は影人を消し、彼の手の中で大人しくなった。どうやら京郎が主であるのを認めたようだ。
「そうだ、それでいい。それでな。あとは……」
 魔剣を手にした彼は暗闇の中を歩き回り、かつてマリエルによって封印された自身の影魔を探す。
「見つけたぞ」
 そして、光の檻に閉じ込められたそれを見つけた彼は、檻の錠になっている十字架を引きちぎり、踏み躙ると、
「さあ、でてこい。今こそお前が必要だ!」
 封じ込められていたヴェアヴォルフエクリプスに向かって話しかけた。
「待っていたよ。君がくるのをな」
 横になっていた灰色の毛皮を持つ狼はそういって立ち上がると、
「君が望むものは何だね?」
 京郎に向かって質問した。
「力だ! 神にも悪魔にも何ものにも勝る力だ!」
 彼ははっきりとそういった。
 狼はその答えに満足するかのように笑みを浮かべ、
「よかろう。ならば力だ!」
 返事をすると、彼に向かって飛びついた。
 闇が少しずつ晴れていく。
 全身を襲っていたはずの痛みは完全になくなり、冷え切っていた身体はまるで溶岩か何かがたぎっているかのように熱い。溢れだしそうなほどに力を感じる。視野がはっきりとし、鉛のように重たく疲労していた頭がすっきりとしていた。
「グオオオォォ!」
 彼は雄叫びを上げて自分を縛る触手を引きちぎると、
「渇望の狼よ! 俺に闘争の牙を!」
 そう叫んだ。すると京郎の影から灰色の人狼が現れ、後ろから抱きつくように身体を合わせる。人狼はその身体を溶かし、あたかも彼の身体に張りつくかのように、身体を覆っていく。
 一通り身体を覆った狼は、口を開き、彼の頭に噛みつくようにその顔を覆った。
「そして、嵐を呼ぶ魔剣よ! 世界に災厄の嵐を引き起こせ!」
 身体の上に赤い炎が浮かび上がり、胸の傷と同じ×の字を描く。影魔達によって負わされた新たな傷と忘れないようにと自分で傷つけた古傷。×の字を描く二つの傷の中心は彼の心臓の真上だった。それが影響してなのか、炎の中に鼓動する心臓が見え、そこから剣の柄が生えてくる。
 彼は柄を握ると、
「ぬぅおおおおおッ!」
 一気に引き抜いた。鮮血のような火花を撒き散らしながら、禍々しい漆黒の魔剣が姿を現す。
 影魔への変身を完了させた彼を見て、
「おい、こいつ。俺達と同じエクリプスになりやがったぜ」
「へっ、いっちょ前に武器なんか持ちやがって。どうせ力の使い方なんぞ分かってねえだろ。粋がってんじゃねえぞ、バーカ!」
「相手になってやるぜ、ルーキー! ヒャハハハハハハ!」
「阿呆が! この人数の影魔に勝てると思うなよ!」
 周囲にいた影魔達は、エクリプスになった彼に襲いかかった。
 これから死にゆく彼らには知る由もなかった。自分達が挑んだ相手が、後に影魔達の間で狂戦士と呼ばれ恐れられる事を。二年後、ヨーロッパにおいて、『全盲の殉教者』を率いし三大副王の一柱メフィストエクリプスを打ち倒す事を。そして、五年後、自分達の天敵である影を狩る天使親娘・ユミエルとマリエルの二人と対峙する事を。
 一匹として逃さず、自分以外の全ての影魔を倒した彼は死にかけている恋人の前に立つ。
 自分の犠牲を無駄にした恋人。自分のいう事を無視し逃げなかった恋人。敵のいう事を愚かにも鵜呑みにした恋人。自分に決定的な敗北をもたらした恋人……
「……何故、逃げなかった……?」
 彼は冷たく尋ねた。
「…………」
「俺は大丈夫だといったはずだ。なのに何故、戻ってきた!」
「……あ、なたが……心配……だった……か……ら…………」
 恋人は息絶え絶えの声でそう答えた。
 それを聞いた彼は、込み上げてくる吐き気を堪えながら魔剣を構えると、
「…………愚か者……」
 小さな声でそう呟き、彼女の心臓に魔剣を突き刺した。


「愚かな恋人の命とそれに連なる感情……これが彼が捨て去ったものだ」
 流れてくる映像が止まり、狼はそう呟いた。
「……して」
 ユミエルは両手で口を押さえながら、震える声で尋ねる。
「どうして、彼は……」
 言葉を続けようとするも、上手くつながらない。何をいえばいいのか分からないのだ。ユミエルは溢れだした感情を抑えきれず、ただひたすらに涙する。
「何故、泣くのかね? 我々は君達の敵であろう」
 アルフレートは不思議そうな顔で尋ねた。
「……分かってる……そうだけど……でも……」
 ウルフヘジンエクリプス──大上京郎は影魔であり、マリエルを憎み、命を狙っている。マリエルは自分にとって大切な母親だ。見逃すわけにはいかない。だが……
 だからといって、割り切る事は彼女にはできなかった。彼の過去……ウルフヘジンエクリプスになるまでの詳しい経緯を知った事で、ユミエル──いや、悠美の持つ本来の優しさがそれをさせなかった。
「他に……ほっ、方法はなかったの? 影魔に……なる以外の方法は……」
「それは……君達と同じ天使になるという事かね?」
 ユミエルはその言葉に同意するかのようにうなずく。
「それは無理というものだよ……彼の本質は天使のそれではないのだから……」
 狼はそれは無理だと首を振る。確かに彼は恋人を守る為に自分を犠牲にして戦った。しかし、その背景には多くの人間を意図的に見捨てている。また結果論にはなるが、京郎は守るべき存在としていた恋人を自分の手で殺している。
「自分にとってかけがえのないものすら犠牲にする事ができる人間……そういった人間だからこそ影魔になる……違うかね?」
(確かに……確かに……その通りだけど……)
 その言葉にユミエルはきゅっと強く唇を噛んだ。自身もまたエクリプスを持つ故にその事を理解していた。
(……恵理子……)
 親友の顔が頭に浮かび上がり、天恵学園での戦いの事が頭を過ぎる。ヴジャドエクリプスの洗脳に必死に抵抗し、自分の為に死を選ぼうとした恵理子。彼女を助ける為に、力のリミッターであり、マリエルの形見でもあったロザリオを壊して、禁じていたエンジェルエクリプスの力を解放した。
 もしエンジェルエクリプスの力を自分ではなく、他人によって強制的に封印されていたら、最も力を必要としたあの時に力を発揮する事ができなかったら、果たして封印した人物を恨まずにいられただろうか?
 もし少しでも歯車が違っていたら、自分が彼のようになっていたかもしれない。ユミエルはそう思った。
 そして同時に、ここにきて彼女はある事に気がついた。何故、これまで中々彼に同情的になれなかったのかを。何かとあると彼に反発してしまったのかを。
(……わたしは……影魔に支配されてしまった自分の姿と……重ねていた……)
 ユミエルは自身の影であるエンジェルエクリプスを受け入れている。影魔王オメガエクリプスとの戦いにて、自分の精神世界に閉じ込められた際に、エンジェルエクリプスと直接対面し、お互いの存在を認め合い、全てを赦しあったからだ。
 その結果、人々を救いたいという想いが救済の光を放ち、元凶であるオメガエクリプスを倒さなければいけないという想いが運命すら破壊する災厄を影魔の王にもたらした。
 だが、もし受け入れる方向性が間違っていたらどうなっていただろう。
 彼のように敵を、影魔を殺すべく自身の影魔を受け入れていたら? 欲望に苦しむ人々の事も、嬲られる聖母の事も忘れ、戦う為だけにその力を奮おうとしていたら? 
 戦う為だけの、殺す為だけの力を求め、歪んだ形でエンジェルエクリプスを受け入れる事など自分には絶対にないなどと、どうしていえるだろうか。
 無意識になりたくなかった自分の姿と重ねて、彼を見ていた事に気づいた彼女は、
(ごめんなさい……ごめんなさい大上さん……)
 心の中で幾度となく彼に謝った。その声を聞いたかのように、
「君はいい娘だな……」
 アルフレートが声をかけた。
「えっ……」
「普通、他人の為に泣ける人間などそうはいない。特に自分の敵に対してはな。何故、そんな事ができるのだね?」
「他人事じゃないから……」
 ユミエルは自身の中に眠るエンジェルエクリプスの事を話し、自分が犯した母殺しの罪の事を告げる。
「なるほど。自分と似ているというわけか……」
 それを聞いて、アルフレートは納得したかのように、感慨にふけるように呟く。
「しかし、やはり違うよ。君の話から判断させてもらうなら、君が母親を殺したのは、一種の事故といえるだろう。明確な殺意を持って行なったわけではないのだからな。だが、彼は……京郎は違う。彼はあの時、冷静だったのだよ」
(……そんな……)
 ユミエルはその言葉を聞いて、愕然とする。
「かつて愛した一人の女性。エクリプス達から必死に逃がしたはずの恋人が、自分の意思を裏切ってのこのこと戻ってきた事に対する突発的な怒り、自分の犠牲を無視し、安易に陵辱される道を選んだ事に対する抑え難い怒り、そして、それらが混ざった衝動的な殺人……そんな感傷的な物語は彼に対する最大の侮辱だ」
 アルフレートは断言する。
「……あの時……影魔の力を使えば、死にかけの恋人を助ける事はできたかも知れない。しかし、彼はそれをしなかった。恋人は公然と京郎によって殺される必要があった。あれは彼から影魔達への警告なのだよ。自分の闘争の邪魔になるものは、いかなるもの──例え己が恋人だろうと容赦なくこれを咬み殺す、と。彼の心情を知らなくても、事の真相を知るものは、その真意を受けとったはずだ」
 彼女の脳裏にふと時告や鈴の姿が思い浮かんだ。
(二人は……この事を知ってるのかな……?)
 狼は軽く息をつくと、
「これが大まかな恋人殺しの真相だ。これでも彼に天使になる資格があるといえるかね?」
 その言葉にユミエルは何もいえず黙り込む。
「……後悔は……してないの……?」
「……後悔はしているようだ。本当に殺す必要があったのかどうかでな。もっともらしい理由をつけているだけで、実は感情的に殺したのではないかというジレンマを抱えている。だから、君の母親を憎んでいるのだよ。私を封印さえしなければ恋人を殺す必要もなかったし、ジレンマを抱えずに済んだ」
 アルフレートは彼が抱くマリエルに対する憎しみの根底にあるものを説明し、
「そして、彼とて人間だ。今後、自分に対して人質をとるような敵がいなくなるようにする為という合理的な判断だけで殺したわけではないし、実行するまでの短い時間だが、殺すべきか殺さぬべきかでの葛藤も無論あった。彼は……京郎は殺す道を選んだ。人間としての自分を捨てる為、影魔としての人生を歩む為、今後の人生の覚悟を決める為に、恋人を殺すという道を選択したのだ。恋人を自ら手にかけ、その命を利用するという、最も卑劣で非情なものをな」
 彼の心情の一部を漏らした。
「ところで、そろそろ見えてきたよ。あそこに京郎は封じ込められている。ディアブロの魔力によってな」
 アルフレートは前足を挙げて、それを指す。その先には、あたかもアスガルドにあるとされるヴァルハラ宮殿の如く、剣と槍そして盾で作られた城が待ち構え、巨大な枯れ木が城に影を落としていた。
「待って! まだ話が……」
 まだ聞きたい事はある。だが、
「君はここに何しにきたのか忘れたのかね? 外ではクレーエ達が戦っているのだよ。これ以上の話は無用だ。さっさと済ませようではないか」
 アルフレートは強引に話を切る。
「中央の玉座の間に敵が待ち構えている。気をつけてかかりたまえ」
「うっ……うん……」
 しこりはまだ残ってはいるが、確かにアルフレートのいう通り、外では聖母達が戦っている。のんびりとしている場合ではない。
「私も力添えしたいところだが、ディアブロの魔力のせいで介入できない。だから魔力を消すか、もしくは弱めてくれたまえ。そうすればあとはなんとかなる」
 狼はそういったあと、
「任せたよ」
 真剣な口調でユミエルに頼む。
「……分かったわ」
 ユミエルは頭を切り替える。まだ色々と聞きたい事が、話したい事が山ほどあるが、今は自らの任務を最優先にしなければ。ユミエルは諍いを捨てて、彼を助ける事を優先した。
 建物まできた天使と狼は門を潜り抜け、二匹の狼──片方は口を閉じ唸るように地に伏せ、片方は大きく口を開け天に吼えている──狼が掘り込まれた金属製の重厚な玄関扉を開ける。
 扉は重厚そうな音を立てて、ゆっくりと身重たく開いた。
 ユミエルはアルフレートに案内されるがまま歩き、やがて玉座の間の前まで辿り着く。
 玉座の間に続く通路には様々な彫像が並び立っている。その像の中には件の三人組……深山院長、神威先生、三鬼氏は含まれているが、鈴や時告の姿は見当たらない。この事から、ここに並ぶ彫像達は彼の人格形成に当たって強く影響を当てた人物達だと思われる。玉座の間へと扉に近い人物ほど強く影響を与えているのだろう。現に扉に近いものほど、全身の姿が大きく彫られ、遠ざかるにつれ簡略的に小さく彫られていた。
「ここが玉座の間だ。気をつけたまえ」
 アルフレートはそういって前足で扉に軽く触れた。すると、自動的に扉が開く。
 玉座の間は床に赤を基調とした絨毯が敷かれ、壁や天井には多数の扉を模した大きなステンドグラスで装飾されている。その中の二つ……左右の壁にはステンドグラスではない、本物の扉が備えられていた。
 高座には、右に太陽を模した飾りが、左に月を模した飾りが、真上に地球を模した飾りが施され、中心部に大きく口を開いた狼の顔を模した玉座が置かれ、その上には両手剣と狼そして麦の穂先が描かれた旗が掲げられていた。玉座の真上には件の魔剣ストームブリンガーが髪の毛ほどの大きさしかない極細の糸で吊るされている。
 そして、魔剣と並んで本来この城の持ち主であるはずの大上京郎が黒い半透明な結晶の中に封じ込まれ、鎖で縛られ吊るされていた。
 本来、彼が座るべき玉座には別の人物……一本の角を生やし、背中に蝙蝠の羽を生やした、猿のような顔と身体つきをした影魔が座っている。恐らく彼を操っているディアブロの魔力が彼の精神世界で具現化なされたものだろう。
「クキキキィッ!」
 猿のようなそれはユミエルの姿を見るなり、いきなり飛びかかってきた。
 ユミエルは攻撃を避けながら、ロザリオを聖剣化。胴体に一閃。真っ二つに切り裂く。
「クキャあぁッ!」
 魔力は笑っているような叫び声を上げ、床に倒れる。
(おかしい……呆気なさ過ぎる)
 ユミエルは油断なく身構えながら、真っ二つにしたそれに剣先を向ける。
 真っ二つにされた有翼の角猿はドロドロに融けたかと思うと、合体。先程の姿に戻る。
(再生能力……普通の攻撃じゃ時間がかかりそう……それなら!)
 ユミエルは後ろの壁に向かって跳び上がると、
「ドミニオン・ランサー!」
 壁を蹴って、有翼の角猿に向かって必殺技を放つ。
 光の槍と貸した天使の一撃は見事に命中。光が奔流しディアブロの魔力を粉砕した。粉々に砕けた肉片は周囲に散らばり、頭に生えていた角は勢いよく回転しながら床に落ちた。
(これなら……)
 魔力を粉砕し、確実に倒しただろうと思いながら着地するも、
「クキャキャキャキャアッ!」
 光の力で浄化されたはずの魔力は、ユミエルを嘲笑うかのような奇声を上げ、床に落ちた角へと集合していく。
(……そんなどうして……?)
 彼の精神世界のせいで天使の力が落ちていた事を思いだす。飛行できないだけではなく、天使が持つ光の浄化力も落ちているのだろう。
(くっ……ならどうすれば……)
 自分の持つ必殺技の中でも攻撃力の高いドミニオン・ランサーですら致命傷を与える事ができない相手。より攻撃力の高い技はルミナス・エクスプロードしかないが、もしこれで倒せなかった時の事を考えると、おいそれと使える類の技ではない。
(ならどうすれば……)
 ユミエルが考えていると、集合した魔力は、違う姿で再生した。蝙蝠の翼が消え、代わりに巨大な豪腕が現れ、全身の体毛も全て抜け落ち、下から鎧のような鱗が現れる。
「くっ、迷っている暇はなさそうね」
 ユミエルは姿を変えた敵を見て、ルミナス・エクスプロードを使う事を決めた。
(何とかして、隙を見つけなくては……)
 ルミナス・エクスプロードは肉薄接近用の技。少しでも距離が開くと威力が激減する。何とかして肉薄接近せねば……
 その為の手段を考えていると、
「どうしたのかね?」
 いつの間にか傍に近づいてきていたアルフレートが話しかけてくる。
「う、うん。ちょっと……」
 彼女は技を使いたいのだが、どうやって接近すればいいかを考えている事を喋る。
「ドミニオン・ランサーからルミナス・エクスプロードの連携は無理なのかね?」
 技の性質を知らない狼は、それを聞いて不思議そうに尋ねた。突進技のドミニオン・ランサーを利用して敵には張りつき、そこからルミナス・エクスプロードを放てば簡単に勝負がつけられるだろうと思ったのだろう。
「……やった事はないけど……多分、無理だと思う」
 彼女は技の性質を話し、無理だと説明する。ドミニオン・ランサーは高速飛行と展開したバリアに多大な力の消費を強いられ、ルミナス・エクスプロードに至っては、全ての力を爆発させ敵にぶつける技。どうやっても、二つの技を連携させるには天使の力が足りない。これまでの戦いの経験上、そう予測できた為、二つの技の連携はやらなかった。
(……でも、もしかしたら……)
 ふとビル屋上での戦いの事を思いだす。あの時、ウルフヘジンエクリプスと戦うの前にルミナス・エクスプロードを使っておきながらも、彼と戦う事ができたし、ドミニオン・ランサーも使う事ができた。以前より力が増えているのだとしたら、今までできなかった事もできるかも知れない。
「やってみるわ」
 彼女は成長した自分の力を信じ、二つの技の連携に挑戦する事を決めた。
「くるぞ!」
 翼の代わりに現れた豪腕の一撃をユミエルは避けると、適切な間合いを図りながら、攻撃のタイミングをうかがう。
 角猿は四本の腕を振り回して暴れ狂い、攻撃のタイミングを与えない。
(それなら……)
 天使は冷静に敵の攻撃を分析し、敵の間合いを把握する。そして、
(これだ!)
 三本同時の攻撃を回避したあと、一瞬だけ立ち止まる。その隙をついて、豪腕の一撃を放つ角猿。この攻撃こそ天使が待ち望んでいたものだった。ユミエルは紙一重で避けながら地面を蹴り、カウンターする形でドミニオン・ランサーを放つ。そして、敵に命中するや否や、
「ルミナス・エクスプロード!」
 持っている光の力を全て爆発させた。
 ドミニオン・ランサーとルミナス・エクスプロードの二つの光が同時に炸裂し、眩いばかりの光が周囲に放たれる。一本の突撃槍と化した天使は敵の身体を貫き、炸裂した光は敵を内外から包み込む。
「キキキイィィィッ!」
 内外両方からの光の炸裂に、角猿の肉体は完全に消滅。唯一残っていた角も、無数のヒビが入ったかと思うと、バラバラに砕け、灰になって散っていく。
 光が収束すると、京郎を捕らえていた結晶が音を立てて割れ、吊るしていた鎖が引きちぎれた。結晶の破片や鎖の残骸と共に彼の身体は玉座に落ち、ぐったりと寄りかかる。
 ディアブロの魔力が消えた影響なのか、それとも彼が解放されたからなのか、扉を模したステンドグラスを通じて部屋の中に光が差し込んでくる。天使は眩しげに眼を細め、光を見つめていると、ステンドグラスの一つが本物の扉のように開き、彼女に向かって光を射し入れる。
「無事に解放されたようだ。ありがとう、光翼天使よ。彼を助けてくれてな」
 アルフレートがお座りの姿勢でペコリと頭を下げた。
「ええ……」
 ユミエルはそれに静かにうなずく。
「私の権限で制限されていた能力の一部を解除した。よって、あそこから飛んで現実世界に帰れるはずだ」
「えっ、本当?」
 それを聞いて、天使は光翼を広げ、軽く飛んでみる。なるほど、確かに翼が空気を掴み、浮遊する事ができる。
「ああ、彼が意識をとり戻すと色々とうるさいから、早く戻るがいい」
「う、うん……」
 ユミエルは部屋を見渡したあと、力なく玉座に寄りかかっている京郎を見つめる。意識のない彼の姿を見て、彼女の中に様々な思いが交錯する。
「……私は……どうすればいいんだろう……」
 溢れてきた思いに、天使はぼそりと呟いた。マリエルを守る為には、彼と戦わなければいけない。しかし、自分の中にあった彼への嫌悪感の正体を知った彼女は、彼とは戦いたいとは思わない。戦って京郎を倒せば、自分の中の大切な何かが失われるような気がしたからだ。なら、どうすればいいだろうか。
「それは私が答えるものではない」
 彼女の問いに対し、欲望の本質である狼の答えはただ一つである。己が守りたいものの為に戦えばいい。しかし、若き天使が求めているものはそんなものではない。アルフレートは彼女の求めている答えに気づきながらも、あえて答えなかった。
「答えは自分で導きたまえ」
「……うん、分かってるよ……」
 しかし、真剣に悩んでいる彼女を見て、
「ただ君への感謝の気持ちとしてヒントだけ与えよう。彼の言動には一つの矛盾点がある。それは強者がその力をどう使おうと強者の自由だというのなら、君の母親がした事もまた認められてしかるべきだという事実だ」
 狼は京郎の矛盾を指摘したあと、
「そして、これはサービスだ。私は君の母親を恨んではいない。そして、私は彼の一部である。これがどういう事か、よく考えたまえ」
「……うん。分かったよ……色々とありがとう」
 天使はゆっくりとアルフレートの頭を一撫ですると、もう一度、京郎を見つめる。
(…………)
 そして、様々な思いを胸の中に抱きながらも、彼女はそれを振り切って地面を強く蹴り飛翔。そして、そのまま上昇し続けて現実世界へと帰還した。
「グッドラック。光翼天使」
 それをアルフレートは見送ると、狼の姿から人間の姿に変身した。
 天使とも影魔とも関わる前の、幼い頃の京郎の姿に。


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