寓話の守人


 二年生の廊下に人だかりが出来ている。県内でも上位の進学校と呼ばれるこの高校は、歴史も長い。様々な風習や校則、そして全国学力テストの校内順位の張り出しも恒例だった。
「みなよー錫子(すずこ)、あんた17位じゃん!」
「あらま、ほんとだ……」
 友人に急かされて掲示板を見上げた少女は気の抜けた声を上げた。たった今張り出された二十人の名前が書かれた表。その上から十七番目に『』という名前があった。
「我ながらびっくりだわ」
 彼女は信じられないといったように目を丸くした。その人懐っこい目、肩までのボブカット、平均並みの伸長体格。これといった特徴もなく、美少女というわけでもない。
「いいよね、楯岡さん。いつも本とか読んでるのに勉強できるんだもんな」
「何よそれ。あたしは家で勉強してるの。部活してないんだし」
 隣り合った同じクラスの男子生徒に茶化されて彼女は口を尖らせた。すかさず別の女生徒が彼女の援護に入る。
「そうそう、すずちゃんをアンタみたいな筋肉だけの部活馬鹿と一緒にしちゃ失礼よ。ボール追いかけるしか能がないくせに」
「うわ、ひでぇ」
「いや……メグ、そこまで言わなくても」
「でも、錫子は夢追い人だから、いい大学には興味ないんだよねー」
 その呼ばれ方は彼女にとって不服なものだったのか。まるで本気にされていないと、感じ取ったのか。少しじと、とした眼で級友を見据える。
「……何よ、文句ある?」
「ないない。全然ない。でもいいよね、そういうのある人はさー」
「春美、あんた今日随分絡むわね…」
「別にー」
 男子にも女子にも友達はそこそこ。運動力は平均、勉強は若干人並み以上。委員や部活をしているわけでもない。ある一点を除き、楯岡錫子は普通を地で行く少女だ。
「それより、トップはやっぱり鍬原さんなんだね。二組だっけ」
「あぁ、あいつね…」
 錫子がその名前を口にすると、周囲のクラスメイトたちは露骨に嫌悪感を表した。
「あいつ、なんか嫌だよねー。さも優等生ですって顔してさ」
「わかるぜ、お高くとまってるっていうか、ツンケンしてるっていうか」
「そうなの? あたしはそう思わないけど」
「すずちゃん、そういう話題に疎いもんね……でもね、あの人とだけは関わらないほうがいいよ」
 級友――恵の深刻そうな声に錫子は首を傾げる。
「だからメグ、あんたは言いすぎ……」
「ほら、最近見かけない三年生の不良の人たちいたじゃない。あの人たちと……」
「おい!」
 突然男子が恵の頭を叩いた。
「何すんのよ!」
「バカ、見ろ」
 彼があごで示す先に一人の女子生徒がいた。墨を垂らしたような黒髪。うなじを隠すように切り揃えられている後ろ髪。整った顔立ちは理知的だが、そこに張り付いているのは冷たい無表情だった。小さな縁無し眼鏡が冷たさしか認めることのできない印象を、さらに確かなものとしていた。
 彼女は自身のクラスである二組から、ノートや参考書を携えて出てきたところだった。掲示板の前の喧騒がその瞬間静まり返る。その場の誰もが、彼女――を注視していた。だが彩本人の目には彼らなど入っていない。人だかりの最も外周にいた錫子たちが彼女の道を塞いでいなければ、無言のまま掲示板の前を通り過ぎただろう。
「どいてもらえますか」
 抑揚のない声で、彼女は錫子に言った。
「え……あぁ、ごめん」
 錫子が素直に道を開けると、彩は軽く会釈を返した。能面のように変化しない表情だった。
 沈黙は彩が廊下の途中で左に曲がってからもしばらく続いた。おそらく図書室に入ったのだろう。扉の開く音が聞こえたくらい、廊下は静まり返っていたのだ。
「鍬原さん、掲示板見なかったな」
「なんだかねー。勝者の余裕ってやつ?」
「やな感じよね、すずちゃん」
 錫子は首を捻らざるを得なかった。昨年彩と同じクラスだった錫子は、彼女がそんな偏見を持たれるような人ではなかったと記憶していた。
「みんな、鍬原さんのこと嫌いなの?」
 では錫子自身はどうなのかと尋ねられれば、さしたる印象もない。友達として親しく話したことがあるわけでもない。頭がいい人だ、くらいにしか思っていなかった。
「いや……嫌いっていうか苦手っていうか、なぁ」
「うん、近寄りがたいよねー、市松人形みたいで」
 比喩に相槌をうって、友人たちが頷く。
「ふぅん……」
 錫子はぼんやりと彼女の消えた方向を眺めていたが、
「あ、あたしも図書室行かなきゃ。返却日、今日までだからさ」
 用事を思い出して教室へと戻る。
「なに、また借りてたの。今月何冊目よ?」
 鞄とともに携えてきた本を見て春美が呆れた。
「今月はそんなに読んでないよ。六冊くらい」
 最近入庫したばかり『新訳ギリシア神話全集(2)』の表紙は輝いて見えた。
「こういうのを読むのも、勉強だからね」
 錫子はその場で級友たちと別れた。返却と同時に新たな知識を物色するため、彼女が図書館に入ると時間がかかるのだ。
「それじゃ、また明日」
 その後、図書室で本を返却し、さしたる興味を惹かれる本を見つけることが出来なかった錫子は、何事もなく帰宅するのだった。 

 

 

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