童話の守人

幕間1 〜the saber〜

本来暗くあらねばならない夜においても、駅前のネオンはその闇を照らし続ける。人工の灯りの中で人々はそれを当然と思うし、事実それは現在では当然のことなのだ。
 だが、造られた光は人々の道を照らすことはできても、結局夜に日の光をあてたことにはならない。半端な光は、かえって闇を色濃くさせる。
 それが、影。誰の足元にも影はあり、その女の足元にも無論影はあった。
 彼女は三年ぶりにこの街に立った。一息つく間もなく、電車から降りた瞬間から人の波が彼女を押し出そうとする。
 歳は二十代前半くらいか。だのに、どう贔屓目に見ても手入れがしてあるとは思えない艶のない黒髪。肩にかからない程度に短いが、所々妙な角度ではねているのは彼女が自分で適当に切ったからであろう。歳相応の女性らしからぬ頭髪だ。
 そこだけを見ればだらしない女性なのだろうが、彼女の表情がそんな邪推を否定する。細く、まっすぐに伸びた眉の下、つり気味の眼は暗い色の真珠のような輝きを放っている。すらりと通った鼻筋と真一文字に結ばれた薄い唇が相まって、美人というより、獰猛な猛禽類のような危険さを感じさせる面立ちだった。
 深緑色のタンクトップの上から直に羽織っているのは着古した焦げ茶色の革ジャケット。細く長い脚を覆うのは、右膝をはじめ所々がほつれたジーンズ。女性としては上背で百七十センチはある。胸もそれほど豊かではないため、遠目どころか一見しただけでは男性に見えるだろう。だが、そんな彼女もこの人ごみの中では舞い落ちた木の葉でしかない。彼女もそれに逆らおうとはせず改札口まで流れていく。
 自動改札に切符を差し込むと、彼女はようやく開放された。古びたナップザックを右肩に引っ掛け、駅の階段を下りる。
聞こえるのは行きかう人々同士のたわいもない会話と、車のエンジン音にクラクション、そして大型ビジョンが映し出す大音響のコマーシャル。どれも、彼女には無縁だった。
あてもない彼女は、やはり人の波に従っていたが――
「……」
 不意にその脚を止めた。ちょうど真後ろにいた男は急に立ち止まった彼女に小さく悪態をついたが、川底に突き刺さった枝が流れを断ち切るように、人は彼女を避けて通った。
 ただ立ち止まったのではない。彼女は見ていたのだ。
 ビルとビルの間。注視すべきものなど何もない。ただ暗い闇が口を開けているばかりだ。
 だが、そこにわだかまる闇は。
「―――」
 少しだけ眼を細める。躊躇もなく、その中に踏み込んでいく。姿はすぐに黒色に溶けていった。
 その後の姿を見た者はおらず、見ることのできる者もまた、存在しなかった。
 人々は傍らで息づく異世界に気づくことのないまま、変わらない一日の終わりを迎えるのだった。

 散々に犯された身体が、ごみのように宙を舞った。十メートル近くは転がっただろう。受身を取ることなどできない少女は地面を転がるたびに噎せ返った。胃から逆流した汚液が粘液まみれの身体を更に汚す。
 少女の姿は無惨であった。セーラー服はカラーの部分を残しズタズタに破かれ、むき出しの幼い秘裂からは白濁した液体が溢れている。何をされたかは一目瞭然だ。
「おまえ、あきたわ」
 そいつは言った。
「ガキはつまんね、やっぱ」
 闇に包まれ、その声の主の姿ははっきりと視認することはできない。ぼんやりとしたシェルエットが、その異形を伝えるのみだ。
「ま、ころしてからくってやるから、ありがたくおもえよ」
 その化け物――形だけ見れば、それは人間に近い。尤も、人間など、いるわけがない。少女にはわかっていた。あの触手の一本ずつが意志をもつミミズであり、怖気がするようにのたうつことを。それが全身を這いずり、彼女の身体の中と外を同時に犯したのだ。
「テわけでさ、死ねヨ」
 ようやく咳きの止まった少女はそのうちの一本、右手の人差し指に当たる触手が鎌首をもたげるのをみた。
「ひっ…ひぃっ!?」
 暗闇の中でも少女はようやく目が利くようになっていた。それだけの間、犯され続けていたということなのだが、それが妬ましかった。そうでなければ、彼女を犯したもの、そして今彼女を殺そうとする触手のおぞましさを知ることはなかったのだから。
「ジゃ、さいなラ」
 投げやりな言葉とともに、触手が動いた。弾丸もかくや、というスピードで少女に迫ってくる。無論、何ができるわけもない。彼女は眼を閉じることさえ、出来なかった。
「え…っ」
 だから、突然自分に覆いかぶさった者の顔を、間近で見ることができた。
 ずぼ、という聞いたこともないような音がした。
「くぁ…っ!」
 それから聞こえたのは苦悶を押しつぶしたような呻き声。少女は顔に暖かい液体が落ちてきたのを感じた。ようやく視界が脳に届く。
 目の前には額に脂汗を滲ませながら顔を歪める女の人。両の目には涙が滲んでいる。左肩からは、先ほどの触手の先端が見えた。つまり、貫通していた。
「……ナんだ、てめぇ。どこから入ってきタ?」
 不機嫌そうな声とともに、女性の肩から触手が引き抜かれる。
「ぐあ……っ」
 彼女は悲鳴をあげて、傷を押さえた。血が指の隙間から溢れ出している。少女はこの人が自分を庇ったのだと、ようやく理解するできた。
「ぐっ、はぁっ!はぁ……」
 荒い息を強引に整えている。額の汗を拭うこともなく、彼女はそれだけに努めていた。
「なんだかよくわからねぇが…てめぇ、女か」
 声に値踏みするような下品な響きが混じった。先ほどまでの陵辱を思い出し、すくみ上がる少女とは対照的に、乱入者は未だに短い呼吸を繰り返している。
「はぁ……ハァっ……ハ――」
 呼吸が一定に戻ったとき、初めて彼女は後ろを振り返り、立ち上がった。
「ぃっ……!?」
 おそらく、少女はその横顔を一生忘れないだろう。彼女の貌は、まるで――
「―――」
 彼女は無言で敵を睨みつけ、よろよろと数歩前進する。
 瞬間、彼女の足元から影が吹き上がった。
「え……」
 暗黒の中にあって、それははっきりと『影』と認識できた。影は彼女の姿を覆い、暴風の如くに荒れ狂う。その間はおよそ二秒にも満たなかった。
「ふ……っ!」
 短い呼吸とともに右手が一閃、黒い霧が晴れる。千切れた影は周囲と混じり、そこには彼女の姿だけがあった。
「け、けけ、ははははっ!」
 化け物が哂った。
「ナんだ。てめえ、同類かヨ!」
 同類――その意味は倒れたままの少女には理解できなかった。今目の前に立っているものが、何かさえ彼女の頭は理解することを拒んでいた。
 今の彼女を形容するに、『騎士』という言葉は正しいのだろうか。
 彼女が纏うは鎧。その姿は、邪悪な竜から囚われの姫君を救い出す御伽噺の主人公のそれではない。全身を覆うのは鈍い光を湛えるくすんだ鉄色。閉じられたままの瞳の上、頭部を飾るのは不吉な竜の髑髏をあしらったヘルム。その全体には、冒涜的な文様が薄く彫られている。まさに魔王の尖兵として恐怖をもたらす異形の兵士そのものだ。
 だがそれだけをもって異形とはよばない。異形の異形たる最大の由縁は全身にあった。両の肩当てから生える三日月状の刃、両腕にも分厚い鎌にも似た刃、そして両足のつま先にまで天を向いて反り返る刃――そう、何より異彩を放つは全身にあしらわれた『刃』。鎧の色に逆らうかのように、研ぎ澄まされた刃は銀の色をもつ。
 そして少女が直接見ることの出来た彼女の背には、まるで羽根が抜け落ちたような、左の肩甲骨から生える朽ちた翼がある。それは折りたたまれた骨格であり、鋭い片翼だった。
 まさに――狂人の纏う、強靭なる、凶刃の鎧。
「オこぼれにあずかろうってカ! ナらいいゼ、ソいつにはもうあきたシ、女同士なかよくやれヨ!」
 耳障りな声など意に介さず、女騎士はゆっくりと瞼を上げる。血の色の瞳が、『敵』を見据えた。
「デもエクリプスになってモ、ソういうシュミのやつはいるもんだナ! テっきりおれは」
 怪物の声はそこで悲鳴に変わった。
 騎士の右手が一閃し、投げつけられた左肩のカッターが、夥しい触手を生やした左腕の肘から先を切断していたのだ。
「テ、てめめめぇぇ!?」
 左腕が地面に落ちてからようやく事体を悟った怪物は激昂した。右手の触手を騎士へと伸ばす。その数は5本、だが既に臨戦態勢をとっていた騎士と、今ようやく敵を認識した怪物とでは、すでに差が生じていた。
 彼女が無言で右腕を振るう。
 粘つく触手の先端は彼女にたどり着く前に、右腕のレザーで全て切り払われていた。
「まさか……お前……? ひゃアアア!?」
 恐怖に駆られた化け物が全身のミミズに指令を送る。それまで無意味な動きを繰り返していた触手たちは、明確な意思をもって女騎士へと襲い掛かる。
「ヒぃ、ひひぃぃっ!」
 触手の速度は遅くない。常人の肉眼で追っては対処どころではないだろう。陵辱のための手段は、ここにあって脅威を排除するための武器となった。その威力は先ほど、この女の肩をやすやすと貫いたことが証明している。
 だが、女騎士は赤い瞳を僅かに細め。
「っ!」
 その行動は迅速で、かつ冷静だった。
 両腕のレザーと両脚のつま先のエッジが伸長し、より鋭利な凶器となる。騎士はそれらを縦横に振るう。
 敵の腕からの攻撃は両腕で、敵の脚から伸びる触手は蹴るように両脚で。両手で防ぎきれないときは、脚を高々と跳ね上げて迫る触手を斬り飛ばす。触手の動きを目ではなく、感覚で追う。驚異的な動体視力と運動能力といわざるを得ない。女はその場から一歩も後ろに退くことなく、迫る不浄を片端から切り捨てる。
 まるで舞を舞うかのような華麗さ。しかし無機質に攻撃を捌き続けるそれは、機械の如き正確さ――これは、騎士にあるまじき、矛盾を孕んだ舞踏だった。
 それを目の前で繰り広げられた少女には、もはや言葉もなかった。耳に届くのは短い呼吸音と触手を切り裂く斬撃の音。眼に映るのは激しく躍動する鎧の背中と激しく乱れる短い黒髪。
 それもやがて終わる。騎士は右肩の刃を取り外し、最後の触手を回し蹴りで断ち切った勢いをそのままに投擲した。
「ギぁやっ!」
 銀の三日月は怪物の右肩に深々と突き刺さっていた。
「ちっ…!」
 少女は騎士の舌打ちを聞いた。おそらく今の一撃は、先のように残ったもう一方の腕を切断するつもりだったのだろう。だが、狙いは反れた。それは彼女が左手で投げた為だ。
 少女は今の今まで失念していた。彼女は左肩を貫かれていたのだ。いや、それ以前にこの騎士が先ほどの女性と同じ人物だとは、どうしても思えなかったのだが。
「……はっ、はぁっ、うぅ――」
 演舞を終えた騎士の肩が激しく上下していた。
 それでも次の瞬間に酸素を求める喘ぎと、何かに追い立てられるような焦燥は――
「うおおあああぁぁぁぁっ!」
 血に餓えた獣の咆哮に変わっていた。
 騎士が地を蹴る。
 その先には肩に食い込んだ刃を抜こうと、片腕をやっきになって動かしている化け物がいる。だがその手には指がなく、本来自在に蠢かせることのできるはずの触手もすべて失われてしまっている。故にその行動はまったくの無駄であった。怪物にとって、戦いは終わっていたのだ。
 だが駆ける女は容赦しない。十メートルあった二者の距離は、この一秒足らずで彼女の間合いとなっていた。
 その両手が、己の影から伸びる何かを掴み、一息に刀身を引きずり出す。
 太刀筋は左下から右上にかけて。自らの命を断つ一撃が、神速の居合だと怪物は気づいただろうか。
「へ……?」
 叫びの残響が消えると同時に、斬られた身体がスライドする。ずるり、と地に落ちた怪物の半身は、急速に腐敗するように闇に溶けていった。
 とたんに空間が現実に引き戻される。闇は霧散し、ビルの隙間へと少女と女騎士は戻ってきたのだ。
 騎士は刃渡り一メートル以上あろうかという刃を振り上げたまま。
 幾何的な刀身が冷酷な銀色を輝かせている。それは無骨な、それでいて鋭利な斬ることのみを目的とした刃の窮極の形――『剣』だった。そんなものを生まれて初めて眼にした少女は、どこか三角定規に似ているな、などと麻痺した頭で思った。
 敵の消滅を確認した騎士は、ようやく振り返り剣を降ろした。器用に手元で回転させて逆手に持つと地面に、いや自らの影に突き刺す。すると剣は泥沼に沈んでいくように姿を消した。
 少女にもようやく、事体が終わったことがわかった。あの化け物は倒されたのだ――目の前にいる、更なる化け物が殺したのだ。
「ぐ……」
 騎士が糸の切れた人形のようにがくり、と膝をつく。鎧が溶け、粘液状になって彼女の身体から流れ落ちる。鉄の戒めから解かれた彼女は、もはや騎士ではなかった。
「はぁっ…はぁっ……ぐ、はぁっ……っ」
 まるで咳き込むような激しい呼吸を繰り返す。痛むのは左肩だけではないのか、身体を震わせながらも女性は立ち上がる。
「ひぃ……っ!」
 幽鬼のごとく立つ彼女の姿は、少女にとって新たな恐怖以外の何ものでもなかった。そしてその女は、自分へと向けてゆらりゆらいと歩いてくるではないか。
「ひ、た、助け…いやぁぁっ!」
 恐れから自由を手にした少女は、全身を覆う痛みと汚れにも構わず、脱兎の如く逃げ出した。彼女の背後には、普段と何も変わらない街の明るい夜があったのだ。非常識な闇の世界から九死に一生を得て帰還した彼女が、一秒でも早くそこに戻ろうとすることを、誰が責めることができようか。
 それに何より、騎士の姿となる前、怪物と対峙しようとした彼女の、その怒りと愉悦が混ぜ合わさったような横顔を少女は一生忘れることができないだろう。
 目は眦が裂けるほどに見開かれ、額には血管さえ浮かび、口元は狂気に犯されたように釣りあがっていた――鬼の貌だった。あんな貌、人間にできるわけがない。
 やはりあの女も、化け物に違いなかった。おぼろげな輪郭しか捉えることのできなかった怪物などより、間近で見てしまった鬼女の形相が、少女には恐ろしくてたまらなかった。


 四つん這いになりながら表通りに駆けてゆく少女。彼女はそれを追うことも声をかけることもなかった。左肩を押さえたまま、覚束ない足取りで少女の倒れていた場所まで歩く。用があったのは少女ではなく、その傍らに落としてしまった自分のナップザックだった。 拾い上げてから右肩にかけると、少女とは反対の方向へと歩きだす。
 急がなければ、先の少女が人を連れて戻ってくるかもしれない。それはなくとも、異常を知った人々がここを覗き込むかもしれない。現に、表通りでは少しずつ喧騒が大きくなりつつある。
「どうして――」
 彼女はふと、ビルに切り取られた空を見上げた。月も星もない暗い空には暗鬱たる雲だけがひろがっていた。
 一雨くる――
 ビルの壁面に右手をつきながら、人工の光が溢れる夜に背を向ける。彼女が向かうのはその真逆…彼女にふさわしい、本来の夜を湛える裏路地だった。

「こんなことしてるんだろう、私は……」

 

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