童話の守人

W ナイトグレー・ブラッディナイト(1)

 てんしはなんにちもまっくらな森のなかをあるきました。
「ああ、かみさま。もうだめです。わたしはつかれてしまいました」
 やがてつかれたてんしはばたりとたおれてしまいました。
「あら、たいへん。こんなところに人がたおれているわ」
 かわいいおんなのこのこえでした。
「ねえさま、この人つかれているみたい。おうちにはこびましょう」
 もうひとつこえがしました。やはりおんなのこでした。
 てんしをたすけたのはこの森にすむ姉妹でした。
 ふたりはいっしょうけんめいに、てんしをおうちにはこびました。
 そしてけがのてあてをして、パンをあげました。
「ありがとうございます。なんてしんせつなひとたちなんでしょう」
 てんしはなんどもおれいをいいました。
 でもてんしはふしぎでした。
 いままでであった人たちは、てんしの羽をみるととてもおどろきました。
 そしててんしがねがいごとをかなえられないとしると、とてもつめたくしたのです。
 それなのに姉妹はすこしもおどろかず、やさしくしてくれたからです。
 てんしはききました。
「ふたりはわたしをみてもおどろかないのですか。わたしにおねがいごとをしたりしないのですか」
 すると髪のながいおねえさんはいいました。
「あなたはけがをしていたわ。おどろくよりもたすけるのがとうぜんなのよ」
 髪のみじかいいもうともいいました。
「わたしたちにほしいものなんてないのよ。ねえさまといっしょにいれればいいの」
 おどろくてんしに、ふたりはこえをそろえていいました。
「だってわたしたち、とってもしあわせなんだもの」

 

 


 懐かしい夢を最後まで見損ねた気がして、矢桐早紀は目を覚ました。
 時刻は午前六時半、彼女にしては遅めの起床だ。
 隣では楯岡錫子が平和な寝顔を見せている。
 その様子にくすりと笑い、物音を立てないように静かにベッドから抜け出す。
 昨日はこのまま何も言わずにここを立ち去った。
 当然、戻るつもりなどなかったのだ。
 それなのに、こうしてまた二度目の夜を同じベッドで過ごしてしまった。
 たった二日、実質一日程度の時間しか過ぎていないはずなのに、彼女にとって楯岡錫子という少女の存在が無視できないものになっている。
「……おかしいよね」
 この少女は影魔から狙われている可能性がある。巻き込んだのが自分である以上、見捨てておくわけにはいかない―――間違いないが、そんなのは言い訳だ。
 彼女が今も錫子とここにいる理由……それは彼女が錫子に居心地の良さを感じているからに相違ない。
 夢を追いかけるその姿がきれいだから。
 けっして諦めず、ただ走り続ける彼女がきれいだから。
 ずっと見ていたい、その夢を見届けたいとそう思ったのだ。
 どれも今の自分にはもう遠い景色。
 この少女と三年前の自分は違いすぎるけれど、それでも大切に想うものは確かにあった。
 
 楯岡錫子にとって、それは叶えるべき夢であり、
 矢桐早紀にとって、それは守るべき姉だったのだ。
 
 彼女にとって姉がすべてだった。
 一人ぼっちになってしまった彼女が、冷たい針生の家で生きてこられたのは、姉がいたからだ。
 だが、その姉は。
 なんの確証もないが、もう、すでに。
「姉、さん」
 いい加減に認めなければいけない。そして決めなければいけない。
 姉は、この世にはいないのだということを。
 人生を賭しても守り、生涯を通して傍にいたいと想った人を、すでに喪ってしまったのだと。
 昨夜の問いの答えは未だ出ていない。
 三年間の旅は姉の生存を信じることがただの夢想であり、化け物のような自分だけが取り残されたという現実のみを突きつけていた。
 ならば選択の余地など、初めからないのではないか?
「う、ぅうん……」
 背後で錫子の寝息が聞こえる。
 その安らぎが、彼女に現実を思い出させた。
「そうだ、決まっている……選ぶ資格なんて、私には最初からない」
 光と影。
 人間と怪物。
 常識と不条理。
 この少女と自分とでは住む世界が違う。
 姉のことなど抜きにしても、楯岡錫子と矢桐早紀の世界は相容れない。いや、相容れてはいけないのだ。
 彼女をこれ以上、影の世界に引きずり込むわけにはいかない。
「今だけ、私は錫子を守る……それでいいんだ」
 刻み込むように、自分に言い聞かせる。
 おそらくすぐに二人は別れ、それきりになる。早紀は姉の幻を追い求め、錫子は己の夢を追いかける――それが最良なのだ、と。
「それだけで、いいんだ」
 もうこんな些細なことに迷う必要はない。
 いや、最初から必要などなかったはずのに。
 錫子もそろそろ目を覚ますだろう。
 そのときはまず、昨日言えなかった『おはよう』を言う。
「姉さんも朝は苦手だったな……」
 寝起きの遅い姉を、いつも起こしてきたように。

 それにしても、前から思っていたのだが。
『姉さん』という響きが、自分にはどうにも馴染まない気がするのは何故なのだろう?


 朝がきた。
 瞼をこすりながら腕時計を見ると、針は七時五分前をさしていた。あたしは身体を起こして大きく背伸びをする。そしてベッドが広いことに気づいた。
「あれ、早紀さん……?」
 昨夜はあたしが先に眠ってしまった。隣にいるはずの彼女の姿を求めてキョロキョロしていると、
「おはよう、錫子」
 そんな当たり前の、だけども新鮮な言葉がかけられた。
 着替えの最中だったのだろうか。上半身裸のまま彼女はあたしを振り返った。
 小さな窓から差し込む光に照らされたその姿。
「あ……」
 その背中にはたくさんの傷があるだけなのだけれど、あたしは違うものを見た気がして、思考が一時完全にストップしてしまった。
「あ、その、えっと……おはよう、ございます、早紀さん」
 あまりにも不意打ちめいていて、返す挨拶がぎこちない。
 すごくおもしろい顔をしているだろうあたしに無言で微笑み、早紀さんは器用に胸に晒しかわりの包帯を巻いていく。
「朝ごはんはどうしようか。私は普段あまり食べないんだけど、錫子は必要でしょう?」
「え、えぇ。まぁ……」
 いけない、せっかく気を遣ってくれたのに生返事なんて失礼すぎる。
「そ、そうですね。コンビニからおにぎりでも買ってきましょう!」
「うん、それじゃ錫子も支度して」
 早紀さんはもうシャツを着てジャンパーを羽織っている。あたしも慌ててようやく乾いた着替えに袖を通した。
「あ、ごめん。そこのザックから定期入れ取ってくれないかな?」
 準備も整いでかけようとした矢先、早紀さんがあたしの足元のナップザックを指差した。
「はいはい……これ、かな?」
 手の感触で探り当てたそれは、使い込んである革製の定期入れだった。他人の物なのに、何気なくあけてしまったのがいけなかった。気になるものをみつけてしまったのだ。
「あぁ、それ」
 本来なら定期を差し込むための透明ビニールの部分に一枚のプリクラみたいなのが張ってあった。慣れていなかったのか。セーラー服の少女たちは、二人とも少し慌てていたようだ。
 少し横向きになっている方は間違いなく早紀さんだ。今は短い髪もこの頃はポニーテールにしていたらしい。スポーティーな印象は変わらないが、今よりどことなく幼い感じがする。
 そしてもう一人。
 早紀さんより頭ひとつくらい小さい女の子。これだけではわかりづらいが、きっと流れるようなロングヘアだろう。背は低くとも、その顔立ちは端整で確かに『お嬢様』の雰囲気をもっている……なのに、ちょっと下向きになっているのはシャッターが下りる寸前にパネルとかをいじろうとしたせいだろうか。
 プリクラとしては微妙な出来だけれども、写っている二人の笑い声が聞こえそうなほど、それは楽しそうに見えた。
「高校のとき一回だけ撮ったの」
 食い入るように見るあたしを咎めることもなく、
「もしかして、この人が……」
「うん。わたしの姉さんだよ」
 まるで懐かしい景色を見るように、早紀さんは呟いた。
「針生、奈々さん」
 早紀さんが三年間探し続けているお義姉さん。
 イメージしていた人とは少し違うけれど、世話焼きそうで、きっとすごく優しそうな感じがする。
「学校帰りに寄ったはいいけど、二人とも初めてで操作とかわからなくてね。なんだか変な感じに写っちゃったの」
 あたしから定期入れを受け取ると、早紀さんはそこから一万円札を抜き出してすぐにナップザックにしまった。
「さ、いこう。私もお腹すいたし」
 それが思い出を振り切ろうとしているように見えて、少し不安になった。
 早紀さんは、今でもあんなふうに笑えるのだろうか。


                   *


 朝がきた。
 不鮮明だけれど、今まで見たこともないような不快な夢を見た気がする。まぁ、思いだせないのならちょうどいい。この気だるい感じは間違いなく最悪の夢だったはずだ。
 ともかく時間は経って、こなくてもいい今日を迎えてしまった。
 わたしは疲れの残る身体を床から起こし、ベッドの中の彼女を確かめる。
「あぁ、そういえば――」
 結局、同じベッドで寝られなかったな。ナナをベッドに寝かせた時点で、精魂尽き果ててしまったのだろう。気づくといつも通りに床に毛布を敷いていた。
 まぁ……仕方がない。
「ナナ……」
 おはようは言わない。彼女はまだ眠っているのだ。起こす必要はない。
 朝の支度を手早く済ませ、わたしは部屋に戻ってきた。
 この穏やかな顔が、もう見納めになるのか。
 目を覚ましたら、ナナはきっと昨日の女を捜しにいくだろう。ナナが必要としているのは、あの女であってわたしではないのだから。
 でも、それがどうした。そんな感傷に浸るために早起きしたんじゃない。
 わたしは最後までナナの役に立ちたい。その為にもあの医者が言った教会の場所を把握しなければならない。
 本当にいるかどうかも含めて、今のところの手がかりはそこしかない。目覚めたナナがすぐにそこに辿り着けるには、事前に知っている先達が必要だ。
 ひっぱり出してきたこの街の地図帳を拡げてみると、郊外にぽつりと教会はあった。周囲にはほとんど何もなく、その辺り一帯は林になっている。
 そういえば、何年か前に新しい分譲住宅地ができるとか聞いたことがあったが、もしかするとここなのだろうか。この教会はそれに先駆けて建てられた、とか。
 まぁ、そんなことはどうでもいい。
 おおよその場所はわかった。あとは実際に行ってみるほかない。それで諸々の決着がつけば理想的なのだが。
「それじゃ、ちょっと出かけてくるからね」
 地図をバックに詰め込み、更に机の上にあった『ソレ』も迷わずポケットに突っ込んだ。普段使ったことがないけれど、ちゃんと使えるのだろうか。
 小声でいってきますを告げて部屋を後に――
「う、あ」
 声を聞いてわたしは慌てて振り返った。ナナが突然跳ね起き、ベッドから転げ落ちたからだ。
「な、ナナ!」
 あの医者の姿の怪人物は半日すれば目を覚ますといっていた。おそらくナナの身体だけを調べた結論だったのろうが、彼女の執念はその予想を覆してしまったのだ。
「しっかり、ほら」
 肩を貸してもう一度ベッドへ寝かせる。よかった、もう少し早く出かけていれば、またナナを見失うところだった……!
「あ、ああ、ぁぁあ」
 ナナはまた起きようとする。だが、本気になれば人間など軽く引き裂くはずのその腕が、わたし一人さえ振りほどけない。やはり身体のダメージが回復していない証拠だった。
「大丈夫、大丈夫よナナ。わたしが傍にいる。独りになんてさせないから……!」
 あぁ。わたしは何を焦っていたのだろう。
 一人で決着をつけようなど思う必要など、どこにもないではないか。
 ナナの役に立ちたいことに変わりはない。だが、あの二人に用があるのは『わたしたち』なのだから。
「――えぇ、一緒にいきましょう。わたしはずっと、ずっとナナといっしょ」
 暴れる彼女をきつく抱く。
 そうとも。ずっと、一緒。
 わたしは、ずっとナナと一緒だ。


                    *


「私は昨日のエクリプスを探す。錫子はどうするの?」
 駅近くの牛丼店で四百八十円の朝定食を食べているとき、あたしは唸ってしまった。ちなみにお会計は別々、早紀さんは二百九十円のおにぎりセットを食べていたりする。
「一緒に……いてはダメですか?」
 小声で言うと早紀さんは軽く頷いて答えてくれた。
 言葉だけだとなんだか別な意味にとれてしまうが、他意はない……たぶん。
 しかし、そろそろハッキリさせなければいけない。何故、自分と早紀さんの身を危険に晒してまで彼女と一緒にいたいと思うのか。彼女の何に、これほどまで惹かれているのか。
 栄養を十分にとって店を出ても、あたしの頭の靄は晴れてくれない。
 早紀さんが好きだ。昨日は勢いで言ってしまったが、それは嘘じゃない。
 人間同士の合う合わないは理屈じゃないとは思うのだけれど、根拠はどこかにあるはずなのだ。
 初めは好奇心だったはず。現実離れした出会い方をした不思議な女の人に惹かれただけだった。
 彼女の正体を知ってからは、それが同情めいたものに変わっていた。傷を負いながらもあたしを助けてくれた彼女を一人にしておくなんてできなかった。
 早紀さんは強いけれど、とても危うい。けど、彼女のつらさ、恐怖、孤独、どれもあたしが解るようなものじゃないし、解るなんて思ってはいけない。
 あたしが傍にいても、してやれることなんて何もない。
 だから迷惑なだけかもしれない。でも彼女は放っておくと夢の中の天使みたく、跡形も残さず消えてしまうみたいな気がして、それが堪らなく嫌で――
「あ……」
 なんとなく、わかった。
 断っておくが、あたしは予知夢とかデジャブとかとは一切無縁な人間だ。
 それでも、この人は。
 矢桐早紀はもう長くはないと、どこかで感じていたのではないか。
 思い返せ、片方だけの赤い羽根を散らせて疾走した彼女の姿を。あんなものを見せられて、不吉なものを感じないほうがどうかしている。
 身体を捨て、心を擦りきらせ、命を削って戦う剣士。しかし自身の魂は刻一刻とヴァルハラに近づいていく。
 そして最期には、報われることもなく、一人きりで――
「バカか、あたしは」
 何度も頭をゆすった。
 そんなバカな結論になんで辿り着くのか。
 早紀さんがそんな簡単に死ぬなんてあり得ない。
 妄想の肥大化は作家志望の悪い癖。現にピンピンしている早紀さんに失礼千万というものだ。
「どうかした?」
 妙な独り言を不振に思ったのだろう、前を歩く早紀さんが振り返った。
「いいえ何も!……それよりも何処に向かっているんですか?」
「あぁ、それを訊かれると弱いんだけど」
 早紀さん曰く、頼れるのは彼女の感覚だけ。ぶらつきながら昨夜のようにそのセンサーにひっかかるのを待つか、あいつの隠れ家になりそうな場所を虱潰しにあたるか。そのどちらかしかないのだそうだ。
「だから錫子はどこか人気の多い場所で待っていてくれても……」
「いいえ、一緒に行きます。早紀さんがあたしの為に歩いてくれるのに、あたしだけ待っているなんて嫌です」
 そう、そういう理由でいいじゃないか。
 難しく考える必要なんてない。妙なことを夢想する意味もない。
「錫子、私は――」
 早紀さんは言いよどんで、立ち止まった。
「……ううん。なんでもない。あなたに釣られてノコノコでてきてくれれば、手間も省ける」
 いこう、と彼女はまた歩き出す。
「そうですよ」
 あたしも後を追いかけた。
 なんて気楽に言うのだろう、あたしは。エクリプスと戦うのは早紀さんなのに。
 でも――そうでも軽口を叩かなければ、一度思い描いた不吉な幻想を拭い去ることができなかった。


                    *


 正午の時報を聞く頃、わたしとナナは家を出た。
 わたしは予備の制服、ナナもいつもの濃紺のセーラー。傍目からみても学生同士にしかみえまい。もっとも、そんな格好で廃墟の教会の周りをうろつけば怪しまれるが、二人とも服はこれしかないのだからしかたがない。わたしはろくな私服などないし、ナナはあのセーラー以外着ようとしないからだ。
 道のりはそう長くない。自宅からハイヤーに乗って件の教会の少し手前で降ろしてもらい、あとは地図を頼りに歩くだけだ。
 ナナがハイヤーの運転手を食べてしまわないかだけが心配だったが、そういうこともなく、拍子抜けするほど呆気なく目的地に到着してしまった。
「これは、酷いわね」
 そこは想像以上の荒地だった。周囲に宅地どころか何もないのにも驚いたが、教会のあまりの寂れぶりも無残だった。
「あ、ああぁ」
 やはり何かを感じるのか、ナナは吸い寄せられるように教会へと近づいてく。
 伸び放題の草を踏み分け、わたしも後を追う。ナナは扉に体当たりするように中へと転がりこんでた。
「いるの……いない?」
 ガランドウの教会は物音一つが不気味に反響した。だが気配がない。
 割れたガラス窓から差し込む光が、捨てられた聖堂を虚しく照らす。
 だがナナは赤い絨毯を踏みしめながら、迷うことなく奥へ歩む。どうやらその先に部屋があるようだった。
 あぁ、やはりナナの感覚に狂いはなかった。
 そこは確かについさっきまでここに人間がいたことを証明するものだった。
 閑散と同時に散乱した部屋にはベッドがあり、バックが二つほど無造作に置いてある。埃だらけの室内で、ランプだけが小奇麗なのは最近火が入った証拠。
 間違いない。ここに、いた。
 わたしの『敵』がここにいたんだ。
 足元の小さなバックを拾い上げ、中身をぶちまける。着替えやら生活用品に混じって、古臭い定期入れがあった。
「あ、はぁぁあ……」
 ナナがどさ、とベッドに倒れこんだ。
「どうしたの、疲れちゃった……」
 違う。
 ナナは薄汚れたベッドのシーツに何度も頬を擦りつけていた。
 彼女にはわかるんだ、ここにあの女が寝ていたことが。
 その匂いが、感触が、彼女をここまで呼び寄せたのだ!
「み、つ、け、た、ぁ――」
 ナナが、喋った。
 わたしが初めて耳にした、愛しい彼女の『言葉』は、しかし。
「みつけたぁ、みつけたぁ……」
 わたしに向けられたものでは、なかった。
「そうよね、わかっていたもの」
 定期入れに貼り付けてあったものを見ても、もう驚かなかった。
 置き去りにされたもう一つのバックも同じようにひっくり返してみる。目を引いたのは一冊のノートだった。裏表紙には丁寧に名前まで入っている。
「そう。やっぱり一緒にいたのね、楯岡さん」
 水溜りにでも落としたのか、半乾きのページ同士がくっついている。読もうと思えば読めるそれには、細かい文字で色々と走り書きがしてあった。流し読みしてみると何かの下書きにも見えるが、正直そんなことはどうでもいい。
 たまたま開いたページにはこれも楯岡さんによるものか、天使みたいなものが描いてあった。
「あなたの邪魔はしないわ、ナナ。だけど――」
 ナナはベッドにうつ伏せたまま眠ってしまっていた。その顔はわたしが今まで見たどんな表情よりも幸せそうだった。
 大きなベッドだ、これならわたしも一緒に寝られるだろう。
 でも、それだけは死んでも嫌。たとえナナに頼まれても、ここに横になる気はない。
 握ったノートが歪む。
「わたし達の邪魔をした奴は、わたしも一緒に殺すんだからね」
 人間なら、誰だってそう思うでしょう?


                     *


 結局、成果らしい成果はなかった。
 丸一日歩いても、あたし達は昨日のエクリプスの影を捉えることはできなかった。
 その間に早紀さんがお義姉さんと行ったことのあるケーキ屋さんだとか、お義姉さんがアルバイトしたことのある花屋さんだとかを案内してくれた。
「なんだか、デートしているみたいですね」
「あ、な、何を……本当に、何を言うのよ、あなたは……」
 率直な感想をいってみると、早紀さんは顔を赤くしてそっぽを向いてしまった。
 そんなこんなでこの一日は無為に終わってしまうようだ。いや、あたしにとってはすごく有意義だったのだが。
 ……あぁ、影というならほんの僅かだけ。
 ある公園を通りかかったときに、不意に早紀さんが脚を止めた。夕暮れ時の公園は普段からそうなのか、たまたまなのか、人っ子一人いない寂しい場所になっていた。
 寂しいというよりかは、どこか不気味にさえ思えた。
 そこを見つめる早紀さんの表情は声をかけるのも躊躇うほど険しかった。
「違う? いや、でも似ている……」
 独り言のあと、早紀さんはふぅと息を吐いた。
「昨日の奴の感じがここに残っている。でも薄すぎて……いや、それより強い何かに掻き消されているのか……?」
 つまりよくわからない、と早紀さんは解説してくれた。でも、
「……もしかすると、アイツはもういないのかもしれない」
 そう呟いたのをあたしは聞き逃さなかった。


 夕飯も安いラーメンで済ませ、昨日の銭湯に入って一日の疲れを落とす。あとはすっかり馴染みつつある教会で眠ってしまえば今日は終わる。
 なんだかあたしの普段の休日と大差ない一日だった。
 それなのに、こんなにも充実していたように感じるのはやはり彼女がずっと近くにいたいからなのか。
「見つからなかったですね」
 何となく間がもたなくて、そんなことを言ってみる。
「うん。でも油断はできない」
 早紀さんは振り向くこともなく、低い声で言った。
 どうも腑に落ちないらしい彼女は、あの公園からずっとこんな調子だった。
「でも今日は楽しかったです。早紀さんに色々連れて行ってもらって」
「あぁ……私も懐かしかったよ」
「ケーキ、美味しかったですよね。その……ワサビムースケーキっていうのが無いのは残念でしたけど」
「そうだね、もう一回食べたかった」
 解っている。
 あたしはこんな会話がしたいんじゃない。
「あの、ですね、早紀さん……」
 でも駄目だ。
 言ってはいけない。
「もし……よかったら何ですけど」
 言うな。
 それ以上言ったら取り返しがつかない。
「うん、何?」
「……明日、あたしの家に来ませんか?」
 だからやめろ。
 それは今の早紀さんを否定する言葉に他ならないのだから。
「錫子の、家に?」
 早紀さんが足を止めた。
「きっと母さんも歓迎してくれます。だからその、もし早紀さんさえよければ、そのまま」
 ――一緒に暮らしましょう、と。
「錫子、それはできない」
 まるでその言葉を言わせないかのように、早紀さんは言いはなった。
 当然の答えだ。
 早紀さんの歩いてきた三年間を無にするようなことできるはずないし、あたしだってしたくない。
 でも、それでも今彼女の手を掴んでおかなければ、このまま……!
「今更人並みの生活に戻れる身体じゃないよ。私が近くにいては、また錫子を傷つける」
 彼女はあたしを咎めるでもなく、だけどどこか寂しそうだった。
「言ったはずよ、これ以上エクリプスには関わるなって」
 矢桐早紀はエクリプス。だからもう関わるなと、彼女は自分を含めて言っていた。
「だから、そんなこと」
「私が何か忘れたわけではないでしょう……バケモノと一緒にいたら、いいお話が書けなくなる」
 『バケモノ』と、彼女は本気で自分のことをそう断言した。
「そんな……そんなこと、言わないでください」
 それ以上、言葉が紡げない。
 早紀さんの言うことを認めたわけじゃなくて、ただそう言った早紀さんがすごくつらそうに見えたから。何か言ってしまえば、それだけで早紀さんを傷つける気がしたから。
 誰にわかるだろう。自分の身体が知らぬ間に変貌し、心まで変わっていくことの苦悩と恐怖が。
「私には私の目的があるし、あなたにはあなたの夢がある。一緒には歩けないよ」
 早紀さんが歩みを再開した。
 あたしがどうにか脚を進めることができたのは、彼女の姿が見えなくなった後だった。
 一緒には歩けない――決定的な言葉だった。逃げだしたい衝動を押さえ、重い脚を引きずった。


                       *


 既に深夜だ。
 あれからわたしは埃だらけの壁に背を預けたまま、片時もナナから目を離すことはなかった。
 理由など決まっている――次にナナが目を開けた時、それが即ち決着だ。
「あ、は、ぁっ……」
 そのときにはナナの目にわたしがとまることはなく、ナナの頭からわたしの存在は欠片も残さず消えうせるだろう。
「は、っは、いっ……か、ぁっ……!」
 だからわたしは彼女を記憶する。彼女の姿、彼女の声、彼女の香り、彼女の感触――すべてをわたしの最期の瞬間までわたしだけのものにするために。
「う、ひぃ……っ、だぃ…あぁ、ん!」
 でも決して奈々には触れない。
 彼女の美しさは、神聖さは完成されている。わたしの体液で彼女を汚してしまうことなど考えられない。
 だからわたしは自分で自分を慰めるしかない。
「……き、か……はっ、なの……」
 彼女はわたしの手に入らず、わたしは彼女に触れることもできない。
 それを虚しいとは思わない。むしろ、それでこそ彼女なのだ。
「きた……イ、く……あっ、ああ」
 性器を嬲る手が止まらない。ナナを心に刻む度にわたしは絶頂を迎えた。それでも決して、ナナだけは見失わず――
「だい、すき……ナ、ナ……あ、わた、し……っ!」
 その瞬間がやってきた。
「……」
 ナナは既に目を開けていた。


                    *


 早紀さんに追いついたのは教会のすぐ手前だった。手を伸ばせば入り口の扉に手が掛かる距離で、彼女はその向こうを睨みつけていた。
「早紀さ……」
 呼びかけた声が途中で詰まった。
 半開きになっている入り口の扉が、沈黙の意味を物語っていた。重いこの扉が勝手に開くはずがない。つまり――
「離れていて」
 早紀さんが扉に手を掛ける。
 あたしは無言で頷き一歩下がった。
 目で小さく合図して、早紀さんが扉を開けた。

                    *

 ナナはふらつくこともなく、まっすぐに礼拝堂の方へと向かっていく。
 この瞬間から、彼女はもうわたしの知るナナではない。
 わたしは壁から背を離し、一度大きく背伸びした。愛液まみれの手をベッドのシーツに擦りつけてから後に続いた。
 向こうで扉の開く音がした。

                     *

 早紀さんに続いて中に入る。
 祭壇まで続く赤い絨毯、カビと埃の臭い。
 何も変わらない礼拝堂。
 だがたった一つ、決定的な違い。
 足音が、する……!

                  *

 確かな足取りでナナが進む。
 その先に待っているものを、彼女は知っている。
 その果てに待つものを、わたしは受け入れる。
 だから、これが最後。
 わたしはナナの髪に触れて、その美しさを永遠に記憶した。

               *

 かつん、カツン、と足音は二つ。
 この空間が既に死地であると、あたしにもわかった。
 もう逃げられない。
 自分の命が大切なら、楯岡錫子はこんな場所にくるべきではなかった。
 あたしは無意識に早紀さんジャンパーを握り締めていた。

           *

 そして、ナナは堪えきれない笑みを浮かべて――

         *

 そして、早紀さんは驚愕に眼を見開いて――


 ――ここに。出会ってはならない姉妹が再会を果たした。


                    *
 幻ではなかった。
 確かな実体として、その少女はあたしたちの前に姿を現した。
 小柄なその少女の顔を、あたしは今朝知ったばかりだ。
 見間違うはずがない。間違えることなどできない。彼女の姿は、写真に切り取られた三年前の姿そのままなのだから。
 針生奈々――早紀さんの義理の姉であり、当てのない旅の目的。
 それが、なんの前触れもなく、あっけなく、唐突に、彼女の前に現れた。
「どう、して」
 その呟きはもはや問いかけでもなかった。今の早紀さんには、その余裕さえなかっただろう。
「またあった。ようやくあえたね、さきちゃん」
 祭壇の前に立つ少女が、満面の笑みを浮かべたまま彼女の名を呼んだ。
「あ、あぁあ、ああ……!」
 早紀さんがよろめきながら、祭壇の少女へと向かう。
「おぼえてる。おもいだしたよ、さきちゃん」
 まずい。
「ね、えさん……奈々姉、さん」
 何がまずいのかわからないが、あの少女はまずい。
 そもそも三年間たっても見た目が変わらない女子高生なんているわけがない……!
「わすれないよ。わすれるわけないよ、さきちゃん」
「……生きていたのね、姉さん……!」
 まるで墓場から甦った死者のようだった。
 早紀さんはふらふらと針生奈々に手を伸ばす。遠く離れている二人の距離を、少しでも早く縮めようとするかのように。
「だめ……早紀さん、だめぇ!」
 あたしの声は届かない。
 でも、あたしの手が早紀さんを掴む前に。
 早紀さんが針生奈々に辿り着く前に。

「だって――わたしをころそうとしたでしょ、さきちゃん?」
 教会の空気が、凍って砕けた。

「……え……?」
 驚きはあたしだけではなかった。
 早紀さんは止まっていた。
 脚だけでなく、その瞬間、たぶん呼吸も鼓動も止まっていた。
「ね、ねえさん……? あ、あは、何を……」
 少女は濃紺色のセーラー服を翻し、祭壇を降りる。
 それに圧されるように早紀さんが後ずさる。
「なつかしいね、さきちゃん」
 少女の瞳が血の色に濁っていく。
 真っ赤な双眸が早紀さんを貫いていた。
「あ、ね……ねえさ――」
「なつかしいよね、さきちゃん」
 嗤っている。
 怯える獲物を前にした、肉食獣の鬼笑だった。
「だってね、でもね、わたしは――」
「ひっ……っ!?」
 早紀さんの小さな悲鳴が合図だった。
 強烈な頭痛。
 まるで脳みその中に熱湯を流し込まれるような感覚。
「あ、が……っ」
 あたしの記憶が、誰かの情報で塗りつぶされていく。
 早紀さんも同じだった。頭を押さえながら、膝をついてうずくまってしまった。
「く、あ、何よ、これ……!?」
 こんなこと、知りたくない、のに……!

――わたしは、もうしんじゃったのよ――

 少女の声を聞きながら、あたしの意識は記憶の渦へと落ち込んでいく。
 それは、ある姉妹の破滅へと至る過程だった――


                  *
                  *


 早朝、四時半。
「あ、まず……」
 やや遅めの起床に焦りながら、矢桐早紀は眠い目を擦って支度を始める。
 寝巻きを脱ぎ捨て飾り気のない部屋着へ、枕元にいつも置いてある銀のチェーンを首にかければひとまず身支度は十分だ。
 屋根裏の自室を後にして洗面所で顔を洗う。鏡を見ながらゴムバンドで長い髪を後ろで結う。パン、と一度頬を叩いて向かうはキッチン。
 今では彼女たった一人がこの屋敷の使用人。まごついていられない。
 季節は眩しい初夏、水を触るのも苦にならないのが幸いだ。この家では朝は洋食ときまっているために下ごしらえが楽でいい。
 あとは二人分の弁当を手早く済ませて屋敷全体のモップがけ。それが終わるころには時計の針は六時を回ろうとしていた。
 この屋敷の主人である針生夫妻を起こしたあと、二階の姉の部屋へ。
「もう、まったく」
 案の定、姉は未だベッドでまどろんでいる最中だった。しっかり者の姉だが、どうにも朝だけは弱いらしい。
「起きて、姉様。六時を過ぎてるよ」
 カーテンを開け、窓も開けると部屋いっぱいに爽やかな朝が流れ込んでくる。
「うぅん……あと五分だけ」
 なのに姉はなかなかベッドからでてこない。
「だめ。遅刻するから」
「うぅ、早紀ちゃんのケチ……さっきもイチゴ……分けてくれなかったし……」
 先ほどまで見ていた夢の話だろうか、ブツブツ言いながら針生奈々は目を開けた。
「いい天気だよ、もう真夏と大差ないね」
「うーん……そっかー」
 奈々が寝ぼけたまま着替えを始めた。
 小柄でも自分より遥かに女性らしい姉の身体……早紀はベッドを整えながらもチラチラと眺めてため息をつく。
「どしたの、早紀ちゃん?」
「なんでもないよ。それじゃ、下で朝ごはんの用意しているからね」
「うん、すぐいく……」
 いつものように夢うつつの姉に彼女は苦笑いしつつ、いつものように朝の言葉をかける。
「おはよう、姉様」
「うん……今日も一日いい日になりますように……ね」
 奈々もとろんとしたまま、朝の挨拶を返す。
 いつもと同じように、いつもと同じ一日が始まった。


 奈々がキッチンに入ったとき既に早紀の姿はなく、彼女の両親が何事かを話しながら食事を取っている最中だった。
「おはようございます、お父様、お母様」
 先ほどまでの夢うつつの少女ではない。ここからは針生家の令嬢としての針生奈々だ。
 挨拶もそこそこに彼女も食卓につく。トーストにベーコンエッグ、サラダなど純洋風の朝食がテーブルを彩っていた。
「……奈々、ちょっと話があるんだが」
 ジャムに手を伸ばしたとき、父が言いづらそうにそう切り出した。
「何の話でしょうか」
「そのな、早紀のことなんだが」
「……またそれですか」
 奈々は露骨に不快感を露にする。
 大手銀行の役員でもある父を前にしても、娘は一向にひるまない。奈々は滅多に見せることのない冷淡さで父を一蹴する。
「早紀は私付きの使用人、彼女についての扱いは私に一任する……そう認めてくれたのはお父様ではありませんか。高校に入学する際にお父様が書いた約定書、もう一度お見せしましょうか?」
 彼女の父にとって早紀は不出来な兄と、どこぞの神社の娘との間にできただけの子供に過ぎなかった。しかし向こうの家が早々と娘と縁を切っていたため、放っておくには体裁が悪すぎた。
 養子に迎える形で引き取りながら実際には籍に入れなかったのも、ほとぼりが冷めて、義務教育も終わった時点で放り出すつもりでいたからだ。
 実際、奈々が『自分専属の使用人』として擁護しなければそうなっていただろう。
「そう、なんだがな……」
 昨年あたりから早紀をどうするかで、彼女の両親が色めきだしていた。高校にまで進学させてしまったが、大学にも行きたいなどと言い出しはしまいかと懸念していたのだ。
「あなた、この際はっきりと言わないと駄目でしょう。もうあの娘をこの家に置く気はないと」
 母の言葉に奈々の表情は険しくなる。
「奈々さん、あの娘にかかった養育費がいくらかご存知? すべてお父様の働いたお金で養ってきたのですよ」
「その分早紀はよく働いています。この朝食だって、お母様は用意できないでしょう?」
 一応は専業主婦であるが、箱入り娘だった母が家事など何一つできないことは幼いころから知っていた。それなのに人の好みだけは激しいので、何か気に入らないことがあるとすぐに使用人を解雇してしまう。それゆえ屋敷の使用人の数はどんどん減っていき、今では募集しても誰もこない有様だ。ひと月前に最後の一人が解雇されてから、使用人としての早紀の負担は増す一方だった。
「奈々、あなた……!」
「これ以上朝から不愉快にさせないでください」
 激昂しかかる母を一瞥して、奈々は食事に専念する。
 本当なら早紀を使用人扱いすることなど、奈々には耐えられないことだった。それでもそうあることを、早紀自身が望んでいるのもまた事実だった。
「わかりました……ですが奈々さん、わたしたちがあの娘の面倒を見る必要などこれっぽっちもないということを、重々忘れないでくださいね!」
「……結構ですとも」
 それきり会話は途切れた。
「お嬢様、そろそろお時間です」
 制服に着替えた早紀が登校の時間を告げにキッチンに入ってくる。屋敷の中の早紀は徹底して使用人をこなしている。
「えぇ、今いくわ。それではお父様お母様、行ってまいります」
 それに応えるように、奈々も針生家の一人娘として振舞うしかなかったのだ。


 人に押されるようにしてバスから降りた二人は、ため息をつきながら通学路を歩く。屋敷を発ってからバス、電車、バスと乗り継ぐとさすがに疲れてしまう。こればかりは何度やっても慣れることがないだろう、というのが二人の共通の認識だった。
「そういえば早紀ちゃん、進路志望の用紙きたでしょ? あれ、提出今日までだよね?」
 屋敷を出ればもう二人に主従の関係はない。二人は姉妹としてありふれた会話ができるのだ。
「あ……うん」
「なんて書いた?」
「……姉様は? やっぱり大学進学よね?」
 質問を質問で返すあたり、早紀らしくない態度だった。不振に思いつつ奈々は問いに答える。
「そのつもり。美術学校もいいけど、お父様たちにあまり心配かけれないしね」
 彼女たちの通う学園は有名女子大の付属高校である。学生の殆どが形ばかりの入学試験を経て、順当にその女子大に入学する。あぶれるのは学費を払えなくなった者くらいだといわれているほどだ。
「まだ完全に決めたわけでもないけどね。それで早紀ちゃんは?」
「うん……私は……」
 彼女が答えを出すより、二人が校門をくぐる方が早かった。それぞれの級友たちと挨拶を交わしているうちに自然と二人の距離は開いていく。いつものように昼食を食堂でとることを決めて、そのまま自分の教室へと入っていった。


 早紀にとって、学校という所は少々息苦しい。
 有名私立女子大の付属高校というだけで堅苦しいのに、周りは付属小学校からのエスカレータ式で入学してきた純粋培養のお嬢様ばかり。早紀自身も身分上そうなのだが、ここの生徒のように育ちがいいわけではない。
 豪奢な屋敷に住まわせてもらってはいても、そこで働く年上の使用人たちと共にいた時間のほうが圧倒的に長かった。酒もタバコも幼いころから知っているし、ここのお嬢様方が耳にすれば卒倒しかねない男女の猥談など聞きたくなくても耳に入ってきた。
 育ちがいいどころか、むしろその逆――早紀はクラスメイトたちから見れば卑しい下働きの分際である。
 それでも彼女はそれを悟られまいと必死で針生家の義理の次女を装ってきた。彼女をここまで連れてきてくれた姉、針生奈々の顔に泥を塗るまいと。
 彼女自身、それが苦痛かといえばそうではなかった。クラスは違えど同じ校舎で学び、昼休みには同じ席で昼食をとり、放課には同じ道を帰る――それができるだけで早紀は幸せだった。屋敷に戻れば顔を合わせることなど殆どないだけに、学校は唯一お互いが共有できる時間だったのだ。
「それでね、その新堂って人の絵がすごくてね……」
 今日もこうして肩を並べながら来た道を戻る。とりとめもない会話をしながら、今日の一日を振り返って笑いながら。
「私もああいう絵を描いてみたいわ。今度の絵も、実はちょっと意識しているの」
 幸せな時間を早紀は噛み締めながら歩く。
「ちゃんと文化祭に間に合わせなきゃね。私も姉様もだいぶ遅れてるし」
 ――幸せすぎたのだ。いつまでも続くはずがないとわかっていた。
 針生の両親が、ひいてはその親族たちが彼女を疎ましく思っていることは知っていた。そして、奈々がたった一人で彼らから庇い続けてくれているのもわかっていた。
「そうね。よし、明日から頑張ろう!」
 ならばせめて使用人としての役目も完璧にこなし、自分への批判も減らさなければならないと今日まで働いてきたが、これもいい区切りかもしれない。
「姉様……朝の話の続きなんだけど、ね」
 会話の切れ間に早紀はようやく切り出した。
「私、大学には行かないよ」
「え、どうして……」
 それまで快活に喋っていた姉が、押し黙る。
 橙色の景色の中、屋敷へと誘う坂の真ん中で二人の少女は向かい合った。
「お父様たちに、また変なことを言われたのね!」
「違うよ、針生の小父様と小母様には本当に感謝してる。身寄りのない私を引き取ってくれて、いい学校にも行かせてくれた。それに何より……姉様と一緒にいさせてくれた」
 それは偽りない早紀の本心だった。
「一緒に学校に通って一緒に下校して……本当に楽しかった。だから……もう十分だよ」
「十分って……早紀ちゃん出て行く気なの?」
「姉様がそう言えばね。でも許してもらえるなら――」
 奈々の血の気が引いた顔を優しく撫でて、早紀は首を振った。
「ずっと姉様の傍にいたい。いつまでも姉様を守れるように一番近くいたい。だから正式に針生の家で働かせてもらいたいの」
 大学には行かず、針生の屋敷で本当の一使用人として働く――それなら奈々が針生の親族から孤立しないで済むと思った。それが早紀の出した結論だった。
「そんな……早紀ちゃんはそれでいいの?」
 今にも泣き出しそうな眼の奈々に見つめられ、早紀の涙腺も緩む。だが泣くわけにはいかない。それでは今の言葉が嘘になる。
「もちろん。姉様と一緒なら、地獄だってかまわない」
 精一杯の笑みで言った。
 とうとう奈々の眼からぽろぽろと涙がこぼれた。
 長く、嗚咽だけが夕焼けに消えていく。
「私、地獄は嫌だなぁ……」
 しゃくりあげながらも、奈々は微笑んだ。
「勘違いしないでね、悲しくて泣いてるんじゃないのだから」
「うん、わかってる」
 さぁ、帰ろう――早紀が奈々の肩を押して坂を上りだす。
 ここを上れば屋敷はすぐだ。
 門をくぐれば二人は主従の関係に戻り、また朝になれば姉妹になる。薄氷の上だけれども幸せな日々を繰り返し続ける。
 なのに。
「あれ……?」
 ソレは――破滅の二文字となって二人の前に現れた。
「……人?」
 電柱の後ろからふらりと出てきた人影があった。
 雨も降っていないのに、そいつは黒いレインコートを着ていた。
 目深に被ったフードのせいで顔がわからない。痩せた身体が夕焼けに浮かんでいるようだった。
「姉様、下がって」
 不吉なものを感じた早紀は庇うように奈々の前にでた。
「早紀、ちゃん……」
 怪人は動かず、早紀たちも動けなかった。対峙したまま微動だにせず――
「け、けけけ、けけけけけけけ!」
 静寂は奇声で破られた。
「っ!」
 奈々が身を竦め、早紀が身構える。
 フードの男が猛然と走り寄ってきた。できの悪いパラパラ漫画のような、釣り糸で操られた人形のような、異常な動きだった。
「こい、つっ!」
 躊躇いなどない。躊躇うことなどできない。早紀も恐怖していたのだから。
 我流のハイキックがフードごと男の顔を叩きのめした。
「……っ!?」
 声も出なかった。
 男の貌が嗤っているのを早紀は見てしまった。
 次の瞬間、男の身体が内側から爆ぜ――早紀の意識も途切れた。


 たすけて。
「う、く……」
 そう聞こえた。
 全身が痛い。無理もない、彼女の身体は五メートルも放り出され、地面に叩きつけられたのだ。
「ねえ、さま?」
 声は姉のはずだ。早紀は自分の身体よりも姉の姿を確認しようとした。
 いつの間に夜になってしまったのか、眼を開けても何も見えない。
 暗い。
 真っ暗。
「姉様」
 あぁ、見つけた。姉の白い肌は暗闇の中に浮かび上がるようだった。
 何をしているの?
 こんなところで服を脱いでいたら風邪をひいちゃうよ。
 ほら、寝転がってないで帰ろう。
 小父さんも小母さんも心配するから――
「痛い、痛いの!やめて……お願い、だからぁっ……ああぁっ!」
 最初から聞こえていた。
 針生奈々の泣き叫ぶ声。
「姉……様」
 はじめから見えていた。
 最愛の姉が得体の知れないバケモノに蹂躙されている姿。
「たまんねぇな、オイぃい!」
 何のことはない。
 彼女の意識が、全身全霊をかけて目の前で起こっていることを認めようとしないだけだった。
 制服を引き裂かれ、すでに全身を白く汚された姉も。
 おぞましい肉塊を彼女の膣内に挿し込み嗤う怪物も。
 そして、それをただ眺めていただけの自分も。
 すべて、悪い夢にしてしまいたかった。
「オレ、気に入っちまったのよアンタのこと。一目惚れってやつだ、わかるよなぁオレの気持ち! わかるよなぁ!」
「ひっ、ぐぅ……いや、いやぁ嫌いやぁ!」
 圧し掛かっているのは虎に見えた。
 斑の獣毛が蠢くたびに、姉の悲痛な声が響く。
 鋭い爪に押さえつけられた細腕は傷つき、血の線となって白い肌を赤く染めている。
「そろそろ出すから! 今度は中でだすから、楽しみだよねぇええ?!」
「あ、え、やだ……やだやだやだ! 助けて、たすけて早紀ちゃん……!」
 奈々は自由の利かない手を必死に早紀に伸ばす。
 たった五メートル。その距離のなんと遠いことか。
「ほらほらほら! いくぞいくぞぉお!」
「え、ぐ、あっ、はぁあ!」
 怪物がおぞましい歓喜の声をあげ、奈々が痛々しい悲鳴をあげる。
「早紀ちゃん、助けて……早紀――あ」
 手がぱたり、と地に落ち、奈々の顔から表情が抜け落ちた。
 化物が下卑た声で喚いている。
 肉塊が引き抜かれると、ごぼごぼと白い汚濁が姉の秘裂から溢れてくる。
「まだ出るまだ出るぅう」
 巨大なペニスから迸る液体が、放心した奈々を更に白く塗りつぶしていく。
「足りねえなぁ。オレの思いはこんなもんじゃねえんだからよぉお!」
 マネキンのようになった身体を、再度剛直が引き裂く。
 姉は弱々しく声をあげるばかりで成すがままになっていた。
 それでも。
 たすけて、と姉の唇が動いていた。
「あ、あぁぁ……!」
 それで早紀の心に火が戻った。目の前のバケモノを憎み、傍観していた己を憎んだ。
「はなれろ……」
 恐怖に震える脚で怒りに任せて地面を蹴った。
「姉様から離れろ、バケモノーっ!」
 腕を振り上げる。
 そのまま無防備な毛むくじゃらの背に、その拳を――
「何勘違いしてんだ、てめぇえ?」
「――え?」
 事態を呑み込めないまま、彼女は目の前でクルクルと回って落ちていくものを見ていた。
「てめぇが生きてるのはオレが殺さなかったからだぜぇえ」
 ソレが肘から切断された『自分の右腕』だと気づいたとき、噴水のように鮮血が舞った。
「オレは、てめぇみてぇなぁあ」
 怪物は誇示するように、伸ばした爪をみせつけた。悲鳴をあげるより先に、今度は腹が獣人のそれによって裂かれていた。
「デカくてゴツい女には興味ねぇんだよぉお」
 蹴り倒された早紀には声もなかった。
 まだ痛みはやってこない。血と一緒にブヨブヨした腸が裂け目からこぼれ落ちているのがわかった。
 拾って詰め直さなければ拙いのではないか、など間抜けな考えが頭を過ぎった。
「あ、さ、さきちゃ……」
 奈々の声を聞き、ようやく痛覚が活動しだした。
 いや、もはやそれは痛覚などではない。『死』に至る過程そのものだった。
「が、ごふっ……っ!?」
 胃から逆流した血を吐きながら呻く。視界が点滅し、意識が遠のく。
「興ざめしたじゃねぇかよ、どうしてくれんだぁあ?」
 仰向けになった腹、ぱっくりと裂けた傷に獣人の爪が抉りこまれる。
「ぎ、ぎぃやぁああああ! ぁああ、が、ががぁぁああ……」
 素人のバイオリンでももっとまともな音をだすだろうに、早紀は血を吐きながら絶叫した。
「まぁいいや。こうなった責任とらせりゃ済む話だもんな。エクリプス怒らせるとどうなるか、わかってんだろうなぁあ!」
「え、エク、リプ……?」
『エクリプス』――その単語の真の意味を早紀が初めて理解した瞬間だった。もっとも、脳はひたすら激痛に耐えて正気を保つのに精一杯だったが。
「あ、げ、っぎぎ、ぎ、ああぁがぁがが……!」
 爪が内臓を掻き回すたびに潰れた悲鳴があげる。
「ほら、いい声で鳴けよ。てめぇみたいな女、それしか使い道ねぇんだからよぉお」
「がっ……か、はっ、ひ――」
 眼球が裏返り、喉も涸れる。
 身体の内側から破壊され、早紀はとうとう声も失った。
 全身の痙攣が始まり、血液を失った身体の末端から神経が死んでいく。
「もう黙っちまいやがった……お、おい見ろよおい。これがそうじゃねぇのか、えぇ?」
 できそこないの虎の顔は、嬉しそうに早紀の体内からを引きずり出したものをベロリ、と一舐めした。
「これだよなぁ――って。どれ、どんな味がすんだぁあ」
 その赤い物体が何なのか、瀕死の早紀にも直感で理解できた。身体の中にできた空白がなによりもそれを証明していた。
 壊れたテレビのような視界で、早紀は自分の生殖器官が食われるのを見た。
「あはあはは、血の味だ血の味! 当然だよなぁあ」
「あ、ああぁ……ああぁ……やめて……」
 声は早紀のものではない。
 奈々が犯された身体をおこして、渾身の力で叫んでいた。
「お願いだから……もうやめてぇ! 早紀ちゃんが死んじゃう、死んじゃうよぉ!」
「あぁ? もう死んでるよ。ほら、ケッサクだ。白目剥いて赤い泡噴いてやがるぜぇえ」
「あぁ……早紀、ちゃん……わ、私のせいで……あぁぁぁ!」
 とうに何も見えないはずの眼が、泣きじゃくる姉の姿を見つけた。それが我慢できなくて、失ったはずの声がでていた。
「あ……た、す」
「お、生きてた。なんだってぇえ?」
「――けて……たす、けて」
「命乞いかぁ? 遅いんじゃねぇのぉお」
 破壊された肉体も消えていく意識も関係なかった。
 逆様の視界には、もう姉の姿しか見えなかった。
「だれ、か……ねぇ、さまを……た、すけ……」
「……なんだこいつ、シケるわぁあ」
 思っていたような命乞いが聞けなかったのが勘に触ったのか、虎のエクリプスは最後に彼女を蹴り上げ、奈々へと向かう。
「早紀ちゃん、早紀ちゃん、早紀、さきぃっ! 嫌ぁぁあぁあ!」
「心配すんなよ、せっかく生きてたんだから殺さねぇ。冥土の土産だ、オネエサマが犯されるのをしっかり見とけよぉお」
 エクリプスが再び奈々に圧し掛かる。
 奈々は最後まで嬌声を上げることはなかった。汚辱と苦痛の中で早紀の名を呼び続けていた。
「た……ぇ、さ……」
 声も止まる。
 そして、死にゆく早紀は――


 ショック死しなかったのが不思議なくらいの痛みは、しかし今はもうどうでもよかった。
(守れなかった……さっき、言ったばかりなのに)
 ずっと姉様の傍にいたい――そう言ったばかりなのに。
 いつまでも姉様を守れるように一番近くいたい――そう言ったばかりなのに!
 赤く染まった視界には、犯される姉の姿がおぼろげに映っている。
 傷は致命傷、出血は致死量、意識があるのが奇跡に近い。しかし、それが見えなくなる時こそ、矢桐早紀が生命活動を終える時だ。
(やだ……)
 それだけはできない。
 犯されている姉を置いて、一人で死ぬなんてできない。
 彼女を煉獄に置いたまま、一人だけ地獄に逃げることなんてできない。
(だれか……だれかぁ……)
 だがそれも叶わぬまま、彼女は確実に死んでいく。
 自分にはできないなら、他の誰かに任せるしかなかった。あり得ない奇跡にすがるしかなかった。
 一つになってしまった手が胸元のロザリオを握る。
(神様、姉様を助けてよぉ……!)
 無理だと、無駄だとわかっている。
 想いは霧散し、願いは荼毘に臥す。
 失意と後悔のまま、早紀の意識はようやく死を迎え――
「かみさま?」
 聞こえたのは、嘲笑を含んだ蔑みの声だった。
 心底可笑しいと哂って、そいつが彼女の前に現れた。
「どうかしてる。一番頼りがいのないものにすがるなんて」
 死にゆく意識が引き戻される。それくらい、目の前に現れたものは現実感に乏しかった。
 虚像を映し出す道具を用いなければ絶対に出逢うはずのない貌が、彼女を覗き込んでいたからだ。
「第一、守る守ると大口叩いて、いざ事が起これば神頼み……情けないにもほどがあるんじゃない?」
 亀裂のように裂けた笑み。
 血の色そのものの真っ赤な眼。
 別人のようなそれは、確かに矢桐早紀の顔だった。
(あ、あああぁ……)
 幻に違いない。なのに、その幻影から目を離せなかった。
「状況がわかっているの? 奇跡なんかじゃ間に合わない。ましてや――」
 赤い瞳はすべてを見抜いている。当然だ、矢桐早紀の前に現れたのもまた、矢桐早紀に相違ないのだから。
「大切な姉様を、母さんを見捨てた神様になんて任せていいわけがない」
 自分も忘れた遠い記憶――神の僕だったはずの母は、最期に神に見捨てられて殺された。
 そんな大切なことも忘れていたのかと、目の前の早紀は死にかけの早紀を嘲笑っている。
「私の願い、私の欲望、叶えるのは私しかいない。なら、姉様を助けることができるのも私しかいない。そうでなければ私の約束は嘘になる」
 守るといった。でも守れなかった。
 守りたかった。でも守れなかった。
 矢桐早紀では、いや人の身ではあの異形を屠れない。なら――
「私も、堕ちればいい――」
 その代償が自分の身体なら安いもの。払うものなど、もとよりそれしか持ち合わせていない。
 ニタリ、と早紀は哂っていた。どちらが哂っていたのか判らなかった。
(そうだ、私は)
あの敵を殺したくて
 あの敵を殺してやりたくて
殺したくて殺してやりたくて
殺したくて殺してやりたくて殺したくて
殺したくて殺してやりたくて殺したくて殺してやりたくて
殺したくて殺してやりたくて殺したくて殺してやりたくて殺したくて
殺したくて殺してやりたくて殺したくて殺してやりたくて殺したくて
殺したくて殺してやりたくて殺したくて殺してやりたくて殺したくて
殺したくて殺してやりたくて殺したくて殺してやりたくて殺したくて
殺したくて殺してやりたくて殺したくて殺してやりたくて殺したくて
殺したくて殺してやりたくて殺したくて殺してやりたくて殺したくて
殺したくて殺してやりたくて殺したくて殺してやりたくて殺したくて
殺したくて殺してやりたくて殺したくて殺してやりたくて殺したくて
殺したくて殺してやりたくて殺したくて殺してやりたくて殺したくて
殺したくて殺してやりたくて殺したくて殺してやりたくて殺したくて
殺したくて殺してやりたくて殺したくて殺してやりたくて殺したくて
殺したくて殺してやりたくて殺したくて殺してやりたくて殺したくて
殺したくて殺してやりたくて殺したくて殺してやりたくて殺したくて
殺したくて殺してやりたくて殺したくて殺してやりたくて殺したくて
殺したくて殺してやりたくて殺したくて殺してやりたくて殺したくて
殺したくて殺してやりたくて殺したくて殺してやりたくて殺したくて
殺したくて殺してやりたくて殺したくて殺してやりたくて殺したくて
殺したくて殺してやりたくて殺したくて殺してやりたくて殺したくて
殺したくて殺してやりたくて殺したくて殺してやりたくて殺したくて
殺したくて殺してやりたくて殺したくて殺してやりたくて殺したくて
殺したくて殺してやりたくて殺したくて殺してやりたくて殺したくて
殺したくて殺してやりたくて殺したくて殺してやりたくて殺したくて
殺したくて殺してやりたくて殺したくて殺してやりたくて殺したくて
殺したくて殺してやりたくて殺したくて殺してやりたくて殺したくて
殺したくて殺してやりたくて殺したくて殺してやりたくて殺したくて
殺したくて殺してやりたくて殺したくて殺してやりたくて殺したくて
殺したくて殺してやりたくて殺したくて殺してやりたくて殺したくて
殺したくて殺してやりたくて殺したくて殺してやりたくて殺したくて
殺したくて殺してやりたくて殺したくて殺してやりたくて殺したくて
殺したくて殺してやりたくて殺したくて殺してやりたくて殺したくて
 殺したくて殺してやりたくて――どうしても、姉様を救いたかった。
 守ることができなかったのならせめて、この手で救いたかった。
「あ―――。」
 その瞬間、矢桐早紀は堕ちた。
「そうだ、姉様を救えるのなら。私の影の一かけらまで、全部悪魔にくれてやる」
 それが堕ちる者皆が見る幻なのか。
 山羊の仮面を被った神の如き巨人と、
 その傍らで踊る、未だ存在しない暗黒の少女の姿を視た。
 それが最後。
 早紀は自らの影の胎内へと落下していく。
 欠けた身体が再生し始める。形だけを取り繕ったまったくの別物へと変貌していく。
 五体を取り戻した早紀の身体を影が覆う。影は彼女の意をうけて個体となり、冷徹なる霊鉄として結実する。
 幼い日に聞いた寓話のように、たった一人のためにすべてを投げ打つ騎士の如く。
 まずは剣を――立ちふさがるもの、姉を脅かすものすべてを斬り裂く強靭な剣を。
 そして鎧を――己を守るためではなく、一つでも多くの刃を纏うための凶刃の鎧を。
「あ、あぁ、ふ――」
 正気を侵す快感。意識を覆す衝動。
 真紅なる異常の殺意。
(その肉ごと……その概念まで)
 異形を斬り裂くのに人間の感情などいらない。
(バラバラに……影さえ残さず)
 身体だけでなく心まで彼女は異形に成り果てる。
(エクリプスを殺す……私が、殺せ)
 矢桐早紀が壊れていくのを実感しながら、母の形見が眩い光を放っているのを見た。
(あ……かあ、さん……?)
 母のロザリオが彼女の心を呼び戻し、姉のチェーンがそれを引きとどめた。
(姉様……!)
 輝きを失ったロザリオは鎧の奥に消え、彼女の背中から一対の羽が生えた。紅く淡く光る美しいそれは、しかし殺意と刃で彩られた姿には不相応なものでしかなかった。
 光翼は見る間に光を失い朽ちていく。残ったのは無様な骨格となった右翼のみ。
 変化した身体のスペック、持ち得るすべての武装とその使い方、自身に最適化されていく戦闘方法。次々と流れ込んでくる未知の情報。乏しい経験を補うべく、一つも漏らすことなく脳髄にインストールしていく。
 こうして新生と変化は完了し――


「ああああああああああああああああああああああああああ!!」
 ――泣いていた。
 それは赤ん坊の泣き声だった。
 闇より暗い影の揺り篭に抱かれて。
 真っ赤な両目から真紅の涙を流して。
 一体のエクリプスが咆哮(うぶごえ)をあげていた。
「な、なんだぁあ」
「え、早紀ちゃん……?」
 目の前で起こった事態をどちらも正しく認識することができなかった。
「あぁ、あ……」
 奈々は犯されていることを忘れ、変わり果てた妹の姿を凝視した。
 禍々しい鎧を纏い、冷たく光る剣を持って吼えているのは、間違いなく彼女の妹だった。
 なのに恐ろしい。
 震えが止まらない。
 解ってしまった、早紀はもう引き返すことのできない魔道に堕ちたことが。
 そして、彼女をそこまで堕としたのは、もちろん――
「そうかよ、てめぇもエクリプスになったってわけだぁあ?」
 虎のエクリプスは奈々を引き剥がすと、見せびらかすように爪を伸ばした。
「いいぜぇ、殺し合いは望むところだからよぉお」
 敵のエクリプスの言葉に反応したのか、早紀の叫びが止まった。
「オラ、さっきよりは愉しませろよぉお!」
 哄笑とともに迫る敵を紅い瞳で敵を射抜く。
「おぉ……おっ!?」
 猛獣の姿の影魔が止まる。いや、視線だけで止められていた。
「……殺し合い?」
 それは未来に存在する魔眼の影魔のものとはまったくの別物。それ自体は外敵になんの影響も与えることはない。だが彼女の眼は、外部の映像を取り込むだけでなく己の感情を相手へと叩きつける器官へと変貌している。故に。
 ――殺す、と。
 ただそれだけを、真紅の水晶体は告げていた。
「いいだろう、ただし――」
 真の殺し合いとは対等の関係だ。相対するどちらにも、殺し殺される権利がある。
 だが、果たしてこの場合はそう言えるのか。
「斬られて死ぬのが、お前の役目だ」
 早紀がゆっくりと剣を持ち上げる。両手を柄に、地面と水平に凶器を構える。
「う、うううううるせぇえぇ!?」
 恐怖に支配され、錯乱したエクリプスが攻撃を再開する。
 怪力によって力任せに振られた鋭い爪は、先ほどの再現のように早紀を引き裂くだろう。
 もっとも――それが彼女に届けば。
「ハ――」
 嘲笑える。
 手にしている得物の本質的な違いがわからないのか。彼女が持つのは斬殺のための窮極の道具、原始的な獣の爪など比べるべくもないというのに。
 振り下ろした爪を逆袈裟に根元から寸断し、
 地を蹴り脇をすり抜け腕を斬り飛し、
 背中合わせのまま左膝を突き刺す。
「ぃい!?」
 転がる獲物を前に、天へ向けて剣を掲げる。
 脳裏に浮かぶ言葉は一つ。
「ヴァーミリオン・オーヴァーキル……」
 言霊を紡ぐ。紅い殺意が空間を鳴動させ、手にした剣が紅く沸騰していく。
「うそだ、いやだぁあ……」
 そもそも、戦う相手にその方法まで間違えた。
 彼女は斬断のエクリプス。こと斬り合いにおいて、獣ごときが勝てる道理など、万に一つもありはしない……!
「――斬り裂け」
 紅い光が斬り裂いた箇所は世界から抹殺され、『なかったこと』にまで貶められる。彼女は無様にのたうつ雑魚の頭へ、存在否定の剣を振り下ろした。
 淫惨な陵辱劇はあっけなく打ち切られ、生存者の二人は現実世界へと引き戻される。
 夕日は沈み本当の夜になろうとしているが、ここは間違いなくあの坂の途中だった。
 剣は風化し、彼女はじっと己の手を見る。たった今、バケモノを斬った自分の手――
「ぐっ……!」
 感傷を断ち切るように、鎧が液状化して身体から剥離していく。残されたのは血だらけになった襤褸切れの制服が張り付いた、五体満足の身体だった。
 感じたこともない不快感が早紀を襲う。脳から脚の指先まで痛まない箇所がない。人間の限界を超える代償――そんなものは、今の彼女には些細なことだった。
 倒れたままの姉へと走る。
 奈々の視線は中をさまよっている。制服は破られ全身に精液をぶちまけられた姿は、早紀にとって正視に耐えるものではなかった。
「大丈夫、姉様……?」
 耐え切れずに手を伸ばす。
 途端に、奈々の身体が痙攣するように動いた――いや、無意識に早紀から逃れようとした。
「あ……」
 疑いようもなく、奈々は怯えていた。無論、目の前の妹に。
「さき、ちゃん……だよ、ね?」
 震える眼が、震える指が、恐れながらも早紀を求める。
 恐くない、怖くない、こわくないと自分に言い聞かせるように。
「……うん、私だよ。早紀だよ」
 それに答えて早紀も笑顔で迎える。
 変貌した身体。一瞬でも確かな姉の拒絶。
 恐怖していたのは早紀も同じだった。いや、恐怖はしていたが……
「早紀ちゃん……わ、私……!」
 泣き出すのは姉の方が早かった。
 白く穢された姉は、赤く血塗られた妹の胸に飛び込んできた。
「……姉様を守ってあげれなかった」
 姉妹は互いの身体を抱く。
「そんなことない! 私のせいで、早紀ちゃんがあんな目に……」
 もう離すまいと、奈々は妹の身体をきつく抱く。
「私は平気だから……もう心配しないで姉様」
 だが早紀は――
 一つの命を奪った感覚が鮮明に残る両手。
 そこから湧き上がるのは嫌悪と、それ以上の愉悦と恍惚。
「……きっと姉様を守るから」
 姉ではなく、その味を抱きながら。
「たとえあいつらを皆殺しにしても……守ってみせるから」
 唇は、亀裂のように歪んで笑みを形作っていた。

                                     (続)


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