童話の守人

T ヴァーミリオン・オーヴァーキル


 これは今もかわらないおはなしです。

 わたしたちのお空のずっとずっとうえには、かみさまがすんでいます。
 そしてそこには、うつくしい羽をもったてんしたちもすんでいます。
 ある日、ひとりてんしがかみさまからおしごとをさずかりました。
「おまえはちじょうのひとたちに、しあわせをあたえなさい」
 まだこどものてんしは、びっくりしていいました。
「かみさま、かみさま。しあわせとはなんでしょうか」
 まだこどものてんしは『しあわせ』とはどういうものなのか、わからなかったのです。
 てんしはつづけていいました。
「にんげんたちのなかでくらして、まなぶことをおゆるしくださいませんか」
 てんしがちじょうにおりることは、ほとんどありません。
 かみさまは、たいそうなやみました。
「わかった。でもけっして、てんしであることをしられてはならないよ」
 かみさまは、白いつばさをかくす首かざりをてんしにあたえました。
 こうしてにんげんのすがたになったてんしは、ちじょうへとおりてきたのです。

 

 

 一度だけ、天使をみたことがある。
 他のことは何も憶えていない。
 でもそれは確かなことだ。
 誰も信じてくれなかったから、せめてあたしだけは信じている。
 天使はいるのだと、今でも信じている。

 あたしは今、自宅から五駅ほど先の大きな街に来ている。
 随分前に友達と一緒になら何度か遊びに来たことがある。でもこうして一人で駅から出ると、夜の繁華街などは昼間とはまったく違う印象を受ける。帰宅ラッシュからは逃れたみたいだったのは幸いだった。
 そういえば、ここの街は三年ほど前に、一時期だけ全国区の有名地区になったことがある。というのも、郊外の小高い丘にある幽霊屋敷みたいな家で一家惨殺事件があったのだ。 確か一家の夫婦が死亡、姉妹が重症と行方不明で、このいなくなった方が犯人か……なんていうセンセーショナルな事件だったはず。結局真犯人はどうなったんだっけ。
 今思い出したくらいなので記憶はとっくに風化していた。あの時は母さんが『危ないから絶対に行くんじゃありません』なんて大げさに心配して、そのせいでこことは疎遠になっていたのだが……
「ああ、もう…あんな人はどうでもいいの!」
 それにしても、これからどうしようとか、そういう考えはあたしの頭の中にはまったく存在しなかったらしい。近くのコンビニでメロンパンとコーヒーを買ったあと、途方にくれた。
 何やら駅前はやたら騒がしく、ビル街の一角に大勢の人だかりが出来ている。事件でもあったのかもしれないが、野次馬になる気はなかった。ポツポツと雨も降り出していたので、私はバッグから折りたたみ傘を取り出した。歩いていれば、何かいい案が見つかると楽観しながらあたしは夜の街の徘徊を始めるのだった。

 要するに、あたし――楯岡錫子は家出した。どうしてかといえば、母と喧嘩したから。
 ことは二時間ほど前に遡る。


 あたしは両親との三人暮らしである。父さんは県内でも有名な病院の外科医で、ほとんど家にいない。よって家で過ごす時間の殆どは母と一緒ということになる。父が医者なんていう職業のせいで、母も周囲からは色眼鏡で見られることがあるが、あたしからしてみれば特に変わったところもない普通の専業主婦だ。
 問題は今日の夕食で起きた。
「錫子、試験の成績はどうだったの?」
 八宝菜を皿によそいながら、母はそう切り出した。
「どうって…まぁそれなりに」
「それなりじゃなくて、具体的には? 順位わかったんでしょう?」
 む、とあたしは口を閉ざす。結果を言えば、次に母が何をいうのかも大体わかっているのだ。かといって母は真剣にあたしを見ているし、ごまかすのは少々気が引けた。どの道自宅に結果通知が届いて、いずれは知れることだ。
「十七番……」
「そう、すごいじゃない」
 理系クラス百六十人中十七番なのだから、母が喜ぶのも当然だ。あたしだって、友人たちの前ではクールにしてみせたが、それなりに嬉しかった。
 でも。
「ねぇ、これなら一ランク上の大学も狙えるんじゃない? きっとお父さんの入った医学部だって」
 正直、これが嫌なのだ。
「お母さん、あたしの志望は言ったでしょ」
「それは、そうなんだけど……」
 あたしの志望校は隣県の県立大学、その文学部だった。文理のクラス分けで言えば、あたしは理系のクラスなのだが、志望校は文系という変り種なのだ。
「正直に言うとね、お母さん不安なのよ…その、小説家なんて」
 小説家と母は言うが、少し違う。でも結局は物書きには違いない。あたしは童話作家になりたかったりする。なんで、と問われるとあたしの幼児体験に根ざしているのではないか思うが、そもそも憧れに理由などないのではないだろうか。
「何よ、中学のときは頑張れっていってくれたじゃない……!」
 まずい、と自分でも感じた。すごく感情的になっている。
 母が不安がるのは、一時期自分も小説家を目指したことがあったからだという。結局、物書きとして芽が出ることはなく、父さんと結婚してからは主婦業に専念している。『お父さんとお見合いしてなかったら、大変なことになっていたでしょうねぇ』などと、冗談めかして言うこともあった……遠まわしにあたしに忠告していたのかもしれないが。
「でもね、もう高校二年だし、そろそろ本気で将来のことを考えたほうが」
「あたしは本気よ!」
 こうなるとあたしは自分を止められない。
「何回もコンクールにだって応募してるし、あたしは本気なの! 次のやつだって今書いている途中で……」
 大手出版社主催の童話コンクールには中学二年から応募し続けている常連だ……常連なのだが、入選どころか一次審査を通ったこともない。
 ……そう、あたしが腹を立てている理由なんて明白だ。何のことはない、自分の限界を知りつつあるのだ。結果を出せないまま、人生の重要な選択の一つ目が迫ってきている。
 このままでは母と同じ道を辿りかねない。
 だから焦っているのだ、あたしは。
「それなんだけど、ね…」
 母が言いづらそうに目を逸らした。
「今日、あなたの書いているの読ませてもらったけど……」
 その気まずそうな目が、全てを物語っていた。勝手に読まれた、という怒りよりも、その目に耐え切れなかった。
 ――あなた……あれじゃ、無理よ。
 次の瞬間、あたしはテーブルを叩いて、椅子を蹴飛ばし、台所を飛び出していた。

 思い返すと、なんだか情けない。言い返すこともできずに、家を飛び出すなんて負けを認めたも同然ではないか。
 少し後悔しているが、ここまできたら一晩くらい帰らないとカッコウがつかないし。学校もずる休み決定だ。あぁ、変な意地を張っている……しかも。
「まぁ……わかってたことよね」
 一人で呟いてみる。衝動的な家出なのだから計画なんてものはない。見知らぬ街を歩き回って何とかなるわけがないのだ。
 ここ一ヶ月ほど、県内ニュースで『行方不明者が何人を超えた』……などという話を耳したことを思い出した。特にこの街に多く、うちの学校からも何人かでているらしい。流行っているのだろうか、家出。そして帰ってこないということは、あたしのように突発的に家出する人はいないのか。ちゃんと生活できているということなのか……それはないか。
 そもそも歩き回れば何とかなるなど、何故そんなことを思ったのだか。これで制服を着ていたらすぐにでも補導されるだろうが、私服に着替えてカーディガンを羽織るくらいの冷静さは残っていたのが幸いだった。
「やっぱり動転してたのかなぁ……」
 初めて第三者から突きつけられた客観的な視点。それが肉親なら、尚のことか。後悔してもとき既に遅し。
 雨はいよいよ本降りの土砂降りとなり、折り畳み傘では防ぎきれないほど激しく叩きつけてくる。加えてあたしは自分が今どこにいるのかがわからない状態だ。
つまり、迷子。
「郊外なんだろうけど」
 例の惨殺事件の屋敷に近づいているのかと思うと、さすがに心細くなって、自然と独り言の回数が増える。こんなことなら思い出さなきゃよかったのに。
 今やあたしの周囲には人どころか民家さえまばらで、さながら迷いの森といった感じだ。 まさかこれだけ大きな街にこんな林があるなんて思っても見なかった。道が舗装されているのは助かるのだが。
 時計をみればもう午後九時をまわっている。それでも引き返すにはまだ間に合う時間…
「……冗談」
 誰が引き返すものか。これは家出なのだから、家に戻るわけにはいかないのだ、断じて。では駅前に戻って寝床を探すかといえば、それも却下だ。何しろお金がない。ホテルなんかに泊まったら二日で財布が空になる。駅で野宿は初めから選択肢にない。
 また雨が強くなってきた。ここまでくると傘の存在などあってないようなもの。
「あぁ、今日は厄日だ……」
 仏滅なあたしの前にその建物は唐突に現れた。いや、勿論あたしが見つけたのだが。
「教会…よね」
 林の中に佇む夜の教会、というだけで不気味なのに、おまけに庭は荒れ放題だった。手入れなんてここ数年されてないぜ、と自己主張するように伸びまくった雑草が雨に叩かれて揺れている。膝くらいの高さまであるそれらを踏み越えないと、教会には辿り着けない寸法だ。
「これは、また……」
 どうにか近づいて、更に息を呑む。何故って、庭も庭なら教会も教会。とにかく神様のおわすところとは思えないくらいに朽ち果てていたからだ。窓のガラスは当然のように割れているし、壁はちょっと触るだけでぽろっと崩れたし。もはや倒壊寸前、放っておいた管理責任が問われるレベルだろう。
 もっとも、たとえ倒壊しようが底が抜けようが、わざわざその中に入ろうとするあたしに酌量の余地はないかもしれない。でも仕方ないじゃないか。そりゃあ色々な意味で怖いけど、これ以上外で雨に濡れるのも嫌だし……
 よし、と決心して入り口の扉を開く。蝶番もいかれていたらしく、『ギギィ…!』なんて雰囲気たっぷりの音を奏でてくれた。
 入った瞬間にカビと埃の臭いが鼻をつく。中は外観よりも酷かった。テレビで見る教会のような長椅子は一つもなく、まさに閑散としている。薄暗い室内に浮かぶのは一本道のように敷かれた赤い絨毯だが、おそらくはこれが先の臭いの原因だろう。そしてその道の行き着く先の一段高いところには祭壇が―――
「え」
 間抜けな声が口から漏れた。眼も口もまん丸に開いていた。
 たぶん、幽霊にあったらこんな声でこんな顔をするという見本のようになっているだろう。
 だって、赤い絨毯の先、祭壇にもたれかかって、だれか……誰か、いる。
「う、うそ……!」
 恐怖は遅れてやってきた。教会の中には雨のゴウゴウという音だけが反響している。その中にあって、あたしとソレは無言で対峙した。
 暗闇に慣れていた目がソレの姿を認める。向こうも同じようにこっちを見ている。
「……あれ……?」
 それだけだった。ゆらゆらと襲ってくるとか、いきなりグロテスクな姿になるとか、そういうことはなかった。
 要するに、普通の人だった。ジャンパーを羽織って、ジーンズを履いているのはわかった。男みたいな格好だが、たぶん女性だ。五、六メートルくらい離れたここからではそれ以上はわからない。だからあたしはゆっくりと一歩ずつ近づいてみた。いや、一番恐ろしいのは人間だっていう言葉もあるから、そこは慎重に……
 あぁ、やっぱり。
 それは幽霊でも化け物でもない、ただの女の人だった。背中を祭壇に預け、苦しそうに肩で息をしている。少しきつそうな眼だが、そんな様子だからか、捨て猫みたいだな、と失礼な第一印象を持ってしまった。
「あ、あの……苦しそうだけど、大丈夫?」
 恐る恐る声をかけてみる。いきなり飛び掛られたらどうしようと思ったが、そんなことはなかった。
「あなたは?」
 あたしの問いに答えず、彼女は質問で返してきた。
「えっと…あたしはなんていうか、通りすがりのもので、偶然ここで雨宿りを……」
 我ながら怪しさ満点。だのに彼女は、
「そう、雨宿りね」
 なんて納得してしまった。
「あ、いや、そんなことより大丈夫? なんか苦しそうに見えるんだけど」
 あたしは彼女の隣に跪いて様子を伺おうとした。
「…平気よ」
 あたしの視線から逃れるように、彼女は身をよじった。明らかに具合が悪そうなくせに、その態度は少し癪に障った。
「ちょっと見せてみてよ。手当てできるかも……」
 そして安易に彼女の身体に触れた瞬間、
「触るな!」
 彼女の怒号が教会を震わせた。
「ご、ごめん……」
 考える間でもなく、悪いのはあたしだ。どのような怪我でも病気でも、今会ったばかりの他人に見せるなんて選択は常識的にはない。彼女は平気といったのだから尚更だった。 第一、あたしのバックの中には絆創膏くらいしか入ってない。まともな手当てなどできるはずもないのだ。
「あ…いや……」
 彼女も口ごもった。
「そういうつもりじゃなかった……本当に平気だから」
 しかもなぜか謝った。
 居づらい。
 気まずい沈黙だった。
 教会に反響する雨の音だけ。
「あなたは、家はどこ?」
 彼女が聞いてきた。この沈黙は彼女も気まずかったのだろうか。
「あ、あたしはここから少し離れた所。この街じゃないの」
「なぜ、こんな所に?」
「う」
 至極まっとうな疑問だろう。ここは夜間に女子高生が来る場所ではないのだし。
「その……家出、してさ」
 何となく言いづらかった。自分がすごく馬鹿なことをしている、という実感があるからだろうか。
 彼女は驚いた様子もなかった。
「じゃあ、今日はここに泊まるの?」
 それは…他に行くところもないし、そうなるだろう。でもここには彼女という先客がいたのだし、無理なら仕方ない。
「そうしたいけど…あなたが先にいたんだし、駄目なら断ってくれてもいいよ」
「そう……」
 彼女は呟くと身体を起こした。そのまま立ち上がって、少しだけふらついた。やはり辛そうだ。私の前を通り、さらに奥の扉へと向かう。
 扉の向こうに消えた彼女は、五分くらいで戻ってきた。
「この奥にベッドがある。きれいとは言えないけど使えるわ」
 ……それはあたしも泊まっていい、ということだろうか。
 判断に迷って動かないあたしに彼女は少しだけ、その細い眉を上げた。
「どうしたの」
「い、いや…いいのかなぁ…って。あなたの方が先にいたのに」
「気にしないで」
 一緒に寝ましょう、という意味だとばかり思った。それなのに、彼女はふらつく足取りで、あたしの横を通り過ぎて……
「それじゃ」
 引き止めるのに骨が折れた。

 すぐに『いやあなたが寝てください』とか『いいから気にしないで』とか『あなたが先にいたんですから』などの押し問答がはじまり、
「もう大丈夫……かな」
などと呟いた彼女が折れて現在に至る。
「煙草、吸っていい?」
 渋々といった感じで彼女はベッドに腰掛けて、そう訊いてきた。家では父がたまに吸っていたし、あたしも気にする方ではない。
「どうぞ」
 その間にバッグからタオルを取り出し、濡れた身体を拭いたりしていた。実はバッグの中身も水浸しで、まともなものは底に入れておいた何枚かの下着とこのタオルだけだった。代えの服とかノートとかは雨水でぐちゃぐちゃだった。
 それでもさっきまで着ていた服よりは幾分ましだった。
 あ、ノート乾かさなくちゃ…
 一通り拭き終わって、あたしも彼女の隣に腰を降ろす。具合の悪そうなスプリングの軋む音がした。
 一息ついてから部屋を見渡す。礼拝堂もだったが、ここも見事に何もない。八畳ほどの部屋にあるのはこのベッドだけだった。いや、あと古びたランプが転がっていて、それに彼女がライターで火を灯したから、こうして部屋の内情を知ることができたのだ。床には木屑やごみや虫の死骸なんかが転がっていてお世辞にもきれいとは言えない環境だが、今はそれ以上望むことが贅沢だ。さもなくば、いまだ降り続いている土砂降りの中で彷徨うことになるのだから。
「元は神父さんとかの部屋だったんでしょうかね」
 どうでもいいことを口にした。丁寧語になっているのは、やはり間借りしているような負い目のせい…かな。
「どうだろうね。たまに泊まるくらいじゃなかったかな」
 彼女は口から煙を吐き出しながら答えてくれた。ランプの淡い灯りに照らされながら、虚空をぼんやりと眺めていた。そして右手の人差し指と中指に挟んだタバコを、もう一度くわえる。
 その仕草がこの上もなく似合っていた。何というか、こう…アウトローな魅力全開。捨て猫云々の感想は抹消、『一匹狼』にしよう。
「どうしたの?」
 彼女が怪訝な目であたしを見ていた。あたしがじっと見ていたせいだろう。こちらは『見ていた』ではなくて『見とれていた』のだが。
「ん?」
 差し出された箱からはタバコが一本飛び出していた。彼女はあたしの視線の意味を勘違いしていたのだ。
「い、いえ、あたし未成年ですから!」
 そう、と呟いて彼女はそれを引っ込める。
 ……そういうことだ。あたしにはこの人が大人だとわかってしまった。家出してきた小娘とは違いすぎる、大人の女性なのだ。自然と口調も丁寧語になるだろう。
「あ、あの!自己紹介とかしませんか」
 突然の素っ頓狂な声に、彼女はタバコを口から離して向き直った。もしかしたら、彼女は名乗るつもりはなかったのかもしれない。でもいつまでも『彼女』ではやりづらい。少なくとも、今晩は一緒なわけだし、それに初対面なんだからそれが普通だし、会話のきっかけになるかもしれなくて――
「矢桐早紀」
 あっさりと彼女は言った。あたしが名乗る暇もなかった。
「ヤキリ…サキ」
 彼女――早紀さんが目で『あなたは?』と促しているようにも見えた。
「あたしは楯岡錫子。錫子のスズはあの金属の錫のほうで」
「錫子、ね」
 早紀さんは軽く頷いたあと、ジャンパーの胸ポケットから携帯灰皿を取り出した。ワイルドに踏み消すイメージが勝手出来上がっていたので、少々意外だった。
「それじゃ、錫子。寝ましょう」
 腕時計を見ればまだ午後十時前。
 ぶった切られるように、会話はあっという間に終わってしまった。


 こんなに早く布団に入るのは何年ぶりだろうか。
 普通サイズのベッドなので、二人も入ると流石にきつかったが文句を言える立場ではない。あたしと早紀さんは互いの背中を合わせるようにして、若干埃っぽいベッドに横になった。
 当然、会話なんてあるはずもない。そもそも必要ないのだ。あたしと早紀さんがこうしているのは偶然以上の意味はない。明日になれば赤の他人に戻るのだろうから。
 でも、それはそれで何か寂しい。袖刷りあうも他生の縁――そんな言葉があるではないか。
それにこんな人気のない教会に、若い女性が一人きり……なんて状況はどう考えても訳ありだし、興味がなくもなくて……
「おきてる?」
 唐突に声がかけられた。意外だった。
「は、はい!?」
 おかげで声がかなり上ずっている。
「言いたくないなら、いいけど……どうして家出なんかしたの?」
 単刀直入だ、この人。いや、変に気を遣われるよりいいけど。
「実は母と喧嘩して」
 少しだけ、間があった。
「そう…ごめんなさい」
 彼女はそれだけ呟く。きっとこれ以上は何も聞いてこないだろう。
「あの、よかったら聞いてもらえます?あたしの家出の理由……」
 言った瞬間に胸の痞えが取れたような気がした。何のことはない、あたしは誰かに愚痴と弱音を聞いて欲しかったのだ。
「私でよければ」
 そんな一方的な声を早紀さんは静かに聴いてくれた。
「――童話作家……」
 あたしが家出の顛末を話し終えると、早紀さんはポツリと呟いた。
「私は素敵だと思う」
「でも自分でもわかるんです。いまいち才能ないかなぁ、って」
 あたしの口からはどこまでも弱気な言葉しか出てこなかった。
「今はその書きかけ、持っていなんだ」
 データは全て自宅のパソコンのハードディスクの中。いつも持ち歩いているネタ帳みたいなものはあるが、先ほどまでの雨でずぶ濡れだ。とても読めるものではないし、読めたとしても何となく恥ずかしい。
「今は、ちょっと」
「どんな話なの?」
 早紀さん、意外にのりのりだ。
「えっ、と……一応、天使のお話なんですけど」
「天、使……」
 一瞬言葉に詰まったようだった……うーん、やっぱりメルヘンすぎるのかな。
「そう……読んでみたかった。童話なら、私も小さいころ読んだから」
 単なる相槌とか社交辞令とか、そんなものでもあたしは嬉しかった。小さいころならいざ知らず、母は渋い顔をするだけだし、クラスの友達は本気にしていない。だから他人に読んでみたい、なんて言われたのは初めてだ。
たったその一言が、こんなに嬉しいなんて思わなかった。恥ずかしがっていたことが、逆に恥ずかしい。
「なんていう本でした?」
 うれしくなって少し深く訊いてみる。
「題名は憶えてないけど、悪い竜に捕まったお姫様を勇者が救いに行く――みたいな。姉さんが……よく話してくれた」
「ファンタジーですね、あたしも大好きです!今書いているのもそんな感じなんですよ」
 なんていうお話だろう? これでも結構な数を読んだのだが、さすがにそれだけではタイトルは浮かんでこなかった。割とポピュラーな題材だし……って。
「早紀さん、お姉さんがいるんですか」
「――えぇ」
「そうなんですか。いいなぁ、あたしもそんな風に読んでもらえる本が書きたいんだけどなぁ……」
「……あなたならいいお話を書ける。そんな気がする」
「そうですか? でもあたしなんて、何回も落選してるし、似たような話しか書けないし……」
「でもね――」
 早紀さんの背中が、ほんの少しだけあたしの背中に触れた。
「お母さんとか、家族の人のことも大切にしてあげたほうがいい」
 火照った脳みそが一気にクールダウンした。
「気づくと、いなくなっていたりするから」
 静かで、深く、どこか寂しい言葉だった。
「……おこしてごめん。おやすみ、錫子」
 それきり、自然と会話はなくなった。
 やがて聞こえてきた早紀さんの寝息につられるように、あたしの意識も眠りに落ちていった。


 ――もう、大丈夫よ。
 その声はどこまでも優しい。
 久しぶりに見る、茫洋としたこの夢。
 あたしも、風景も、そして声の主の姿さえない、へんな夢。
 いったい何処で、何故経験したかさえわからない、正体不明の記憶。
 あたしが童話作家なんていうちょっと変わった将来を目指すことにした原風景だ。
 ――もう、大丈夫よ。
 それは、天使の夢。
 響くのは優しい女の人の声。
 目に映るのは、はらはらと舞う綺麗な羽根。
 ただそれだけの、へんな夢。
 でもこれは夢ではなく、実際にあたしが体験した記憶。
 誰がなんと言おうと、あたしは天使を見たのだ。
 子供のころ、色々な人に『てんしをみたのよ』と言ってまわったことを覚えている。
 お父さんもお母さんも大人は一様に困った顔をして曖昧に笑い、同い年の友達からはうそつき呼ばわりされた。
 次第にあたしはその話をしなくなって、思い出として自分の内に秘めたのだ。
 天使はいるのだと、いつかみんなに知って欲しい――そう思いながら。
 だからだろう。あたしの童話は、いつも天使のお話だ。
 ――もう大丈夫よ。
 あたしに、そう言ってくれた天使へ、それがせめてもの恩返しになれば。


 時計を見れば朝の六時半。雨はすっかり止んでいた。
 隣で寝ていたはずの早紀さんの姿は、既になかった。
 何となく、そんな気はしていた。


                  *


 これも帰郷、といえるのだろうか。この街が彼女の故郷ではないのだが、今の矢桐早紀はここから始まっている。どちらにせよ、彼女がここに立ち寄ったのは気まぐれに近かったのだが。
 洋館は郊外の丘にひっそりと建っている。石造りの古風な外観は、威圧するような大きさはなくとも、日本家屋では決して醸し出すことのできない不気味さがある。戦前からあるというこの二階建ての建物は、人の接近を阻む異様な雰囲気を纏わりつかせている。門の表札は取り外されていた。
 彼女が最後に見たこの屋敷の印象と現在のそれは、ほぼ合致するものであった。三年前のあの日まで、ここに家族が住んでいたのだ。
 門の錆びた格子を押す。立ち入り禁止のロープもあったが当然無視した。バスケットボールができそうなほどの庭も荒れ放題だった。それは昨夜を明かした教会に似ていた。管理者の不動産会社もあまりの買い手のつかなさに手入れを放棄してしまったらしい。買い手がつかないのも無理はない。ここで凄惨な殺人事件があったことくらい、この街の人間なら誰でも知っている。幽霊屋敷の噂もたつというものだ。
 ドアノブに手を掛けようとして思いとどまった。
 ここにあるのは曖昧な郷愁だ。それ以外、何もない。
 屋敷に背を向ける。彼女はそれきり振り返らなかった。
 無駄な帰郷だったが僅かな収穫もあった。この街は『奴ら』の気配で満ちている。おぼろげな違和感を辿っていくだけで、奴らと遭遇できるだろう。今や、それを刈り取ることだけが、彼女が生きている実感をかみ締めることの出来るときだ。もっとも、それで彼女の空虚が埋まるのかといえば、一度も充実感を得たことなどない。命を賭した戦闘の果てには、常に虚無のみがある。
 三年前にここで何が起こったのか、おそらく矢桐早紀という人間を根本から変えてしまう出来事だったのだろう。
 街外れの廃病院――あの辺りには確実にいるのがわかる。虚しいことと知りつつも、とりあえず向かおうと不鮮明な思い出の場所を去る。
「――」
 手が自然とタンクトップの内に忍ばせていたものに伸びていた。
首にかかる鎖は錆びかかり、十字は下と左側が欠けている。それは既に聖印を成していない、くすんだ銀色のロザリオだった。

                  *


 携帯が壊れていた。
 服は生乾きだった。
 そしてあたしは一人だった。
 禍福はあざなえる縄の如し、などという諺があったが、今のあたしに福は皆無だった。せいぜい昨夜の大雨が嘘のような快晴ということくらいだろうが、それさえもどこかあてつけに思える。
 今日の起床は午前六時。普段よりも一時間もはやく起きたあたしは、どうやっても電源の付かない携帯と、絞ればまだ水が滲むような服に見切りをつけた。仕方なくこのままの服で朝食をとるべく近くのコンビニに向かったのだが、元々この辺りの地理に明るくない。 一向にそれらしい店がないためほとほと参ってしまった。
 結果として駅まで戻ってきた有様だ。朝の通勤通学ラッシュを第三者の視点で眺めることができたのは妙な優越感があって楽しかった……まぁ、学校をサボってしまった何よりの証明なんだけど。友達と面と向かって出くわさなかっただけでも幸運か。
 昨日と同じコンビニで適当な朝食を買ったあと、天日干しで服を乾かした。要は時間を潰しただけだったが、そこでふと思いついて現在に至る。
 早紀さんを探してみよう――とか、思ったわけで。
 あんな廃墟に身を寄せていた早紀さんのことだから、同じような廃墟にいるかも――とか、思ったわけで。
 そして、バスや徒歩を駆使して結局道に迷って日が暮れて、やめときゃよかった……とか、思っているわけで。
「あぁ、もう!なんでこうなのよ!」
 文句をいうくらいなら、やらなければいい。まったくその通り――
「あ……」
 見つけてしまった。早紀さんではなく、廃墟のほうを、だが。
 あの教会なんて、この病院に比べればかわいいものだ……病院? なんで?
 よかった。
                        行かないと。
                      病院。
 あれ?身体、勝手に。
 あそこに。
 なんで?からだ。
                 だって。
 あそこは。
 あし、とまらない。
            いかないと。
 まず、い。
          いかないと。
 いや、なの、に。
        行かないと。
 いかないと。
  イかないと。

「ちょっと、カノジョ」
 唐突に肩を叩かれた。
「それ以上近づくと危ねーよ?」
 そこに居たのは小柄な男子だった。あたしよりも若干小さい。
 ストリートファッション、というのだろうか。フードつきの迷彩色トレーナーを、ファンキーな感じで着崩している。薄暗いせいで顔がよく見えないが、反対に被った野球帽の下の表情は、どこか……は虫類に似ていた。
 ところで、何が危ないのだろう。
「あ、あの……危ないって、何がですか?」
 そもそも何してたんだっけ。こんな病院の前に、なんで立っているのだろう?あたしは噂の。
「んー? キミ、かわいいから、あんな奴にくれてやるのもったいないなーって、オレ思ったワケ。だからこうして声かけたワケ。わかる?」
 ……ナンパっていうの?これ。
 困った。どうしたものか。
「いや、あの、あたしは……」
「そんな恥ずかしがらないでサ。いいことしよーよ?」
 腕を掴まれる。なんなんだ、こいつ!
「ちょ、ちょっと…!」
「アニキ、あとヨロシク」
 兄貴?
 誰に言っているのだろう、と思った瞬間、あたしの意識は暗転した。
 もう一人、大柄な男が私の背後にいたことを知ったのは、その時だった。

 首の辺りがジンジンする。ドラマみたいに首筋をトン、と叩くと相手が気絶……なんていうのとは違う。あれはただ思いっきり殴りつけただけだ。
「あ、あはっ……ぁ……いやぁ……」
 それはこっちの台詞だ。
 目覚めは最悪。
「んあ……あぁぁっ!……い、あ、う……」
 さっきからうるさいな。
 あたしは低血圧なんだから、朝は苦手、な、のに……?
「いやぁ、あぁぁ、あああぁ、ああっ!」
 なに、あれ――?
 薄暗い空間に響いているのは、若い女性の嬌声だった。
 こういうのを生で見るのは、初めて、だけど……そんなことよりも、彼女に圧し掛かっているのは……あれは、まるで、
「よっ。カノジョ、目が覚めた?」
 どこかで声がした。あの小柄な男だった。
「あ、あんた……?」
 ことここに至って、あたしはようやく自分の置かれた状況を理解した。あの病院の前で拉致られて、こんな暗い部屋につれてこられたのだ。しりもちをついたまま後ずさりすると、ジャリ、という小石が転がる音がする。
「あ、ああぁぁぁぁあ!」
 犯されている女性の苦痛の喘ぎが一段と大きくなって、途切れた。
「勝手にイキヤガッテ。もっとナケヨ」
 次に聞こえたのは耳障りな声。人間以外の喉が無理やり言葉を発しているのだから当然だ。そもそも、蟹が言葉を喋れるはずがないのだ。
 そう、蟹。蟹と人間の中間。女性の上に圧し掛かっているアレを、他にどう言えばいいのか。左手は普通なのに右腕は不釣合いに巨大な鋏だし、甲羅も背負っているし、腕と脚の間にもう二対の鋭い節足がある。まるでシオマネキを縦に細くして直立させた感じ。そんな真っ当なものじゃないのは誰が見てもわかるだろうけど、あたしの貧困な語彙ではそれ以上の比喩が見当たらない。バラエティで見る着ぐるみなんかじゃない。あれは、生きている。その証拠に、グロテスクな内部を覗かせた腹から、二本の蛇みたいなものが出ていて、それが女性を股から貫いている。
「つまんねえ」
 反応のない女性に悪態をつくと、右腕の鋏を女性の額にあてがい、
「しゃあない、クッチマウか」
 ぐちゃっ、と。
 その鋏で、女性の頭を、切断、した。
「……ぃっ!?」
 それはあたしの悲鳴か、女性の悲鳴だったのか。どちらにしろ、あたしの脳裏にその光景は鮮明に焼きついた。
 女性の頭部は眉毛の上から切り離された。水風船を割ったように血がはじけ、たった今まで活動していた脳が床にこぼれた。
「まぁ、ヤッパ、みそからダヨナ。みそ」
 蟹は鋏で器用に頭蓋をつまむと、実に美味しそうに、中身を啜った。よく見ると、蟹の目に当たる目柄の間に小さな顔があり、そこから伸びた舌が、脳を舐め掬っていた。
 その音、光景、匂い、どれもが異常すぎる。
 耐えられるはずがない。あたしはその場に胃の中のものを全てぶちまけた。
「アニキ、だめだじゃん。カノジョの前なんだから、もっとスマートにしなきゃさ」
「しったことジャネえ」
 蟹の『アニキ』が答え、小柄な方が笑う。
「ヤレヤレ。さて、じゃあオレの番だね。楽しもうぜカノジョ。オレはぁ、アニキよりスマートだから安心しなよ」
 足音だけが近づいてくる。いくら薄暗くても、あの蟹の姿ははっきりと見えるのに、もう一つの姿がない。でも何となくわかってしまう。そいつもきっと化け物だ。
「い、いや……嫌、こないで、くるな、こないでったらぁ!」
 完全に腰が抜けていたあたしは、無様にズルズルと逃げ惑うしかなかった。こんなのすぐに捕まる。捕まって犯される。犯されて、殺される……!
「助けて、誰か……誰かぁ!なんで、なんでよ! こんなぁ……」
 なんでこんな目にあたしが。こんなの、あまりにも理不尽すぎる。
「ムダだって。ここはもうキミのいた世界じゃないんだからさ」
 もう駄目だ。脚の間を生暖かいものが流れていくのを感じた。
「アララ。その歳でお漏らしはないんじゃない?」
 見えない男の嘲笑はすぐ近くで、あたしは手や足をバタバタさせるばかりで、やがて姿の見えない何かが、私の服の後ろ襟を掴み……
「へ?」
 思い切り、後ろへと引っ張った。
「痛、いたた……っ」
 床と擦ったお尻が痛んだ。
「だ、誰だよあんた!?」
 あの声が狼狽していた。
「う、嘘――」
 あたしも驚いた。
「どうして、あなたが……」
 そしてたぶん、彼女も驚いていた。
「早紀、さん……」
 背の高い後ろ姿。ジャケットの左肩にだけ、大きな穴が開いている。
「さ、き……さぁん……」
 矢桐早紀があたしの目の前に立っていた。
こんなおかしな状況では、知っている顔に会っただけでこれほど安心するのか。涙腺が壊れたように涙が溢れ、世界が滲んだ。
 早紀さんはあたしと目の前の状況を見比べた。彼女はそれだけで状況を判断したのだろう。
「下がっていろ」
 冷たい声でそれだけ言うと、静かに、化け物へと歩み寄っていく。
 理解できなかった。どうして早紀さんがここにいるのか、とかよりも、あんな化け物を見ても眉一つ動かすことなく、ましてそれに向かっていく理由が、まるでわからなかった。
 そんなの、あの女性のように、殺されにいくようなものじゃない!
 止めなきゃ――叫ぼうとしたあたしの口は、そのまま固まってしまった。
「な……」
 早紀さんの脚元から、何かが吹き上がった。
 それは影。
 闇の中でさえ映える影。
 漆黒の竜巻となって早紀さんを覆う。そして――

                  *

 自らの影に呑み込まれた矢桐早紀は、暴風の中にその身を晒していた。黒風は刃となり、着衣は全て襤褸と化す。
 胸元のロザリオのみを残した裸身、歴戦を物語る傷が刻まれた白い身体に影が這い上がる。
 影は着実に彼女の全身を侵食する。何度経験しても慣れることのない異物感。
「あぁ……ぁ」
 犯されるように侵される。
もどかしい刺激の交代に、やがて彼女はある感覚を覚える。
 痛みには足りず、痒みには強すぎる。
 まるでカッターナイフで全身の薄皮一枚だけ裂かれているよう。
「きもち、い――」
 正気と狂気を曖昧にする快楽。もし屈すれば、おそらく彼女は二度と『矢桐早紀』には戻れない。
「……っ!」
 それはいつものこと。変化は常に意志の転落と隣り合わせだ。
 そして今回も彼女が勝つ。
 ――斬り、裂き、殺せ――
 侵略は彼女の首で止まる。影は早紀の全身を覆うボディスーツとして凝固し、脳髄の陥落は失敗する。際限なく吹き上がる影は彼女を包むが、刃向かう意思を折られた影は、従順に彼女の刃を形作るしかない。
 長い脚を、くびれた腰を、ロザリオの揺れる胸を、細い肩を、人間の弱さを、そして彼女の女を覆う。錬鉄を経ない刃たちが、鎧となって矢桐早紀を彩り、竜骨を象るヘルムの装着をもって変化は終了する。
 これらが何なのか、自分はどうなってしまったのか、彼女は知らない。
 彼女に、わかるはずもない。
 この瞬間から、影の支配を拒んだはずの彼女の思考は、一つの言葉に囚われる。
 ――エクリプスを、殺せ――
 拒否も拒絶もできない絶対命令が、必要のない戦闘を彼女に強いる。
 紅に染まった両目を見開き、闇の向こうの敵を睨む。
「ふっ!」
 右手が閃き、纏わりつく影を振り払う。
 汚泥のような空間に、虚ろな『騎士もどき』が立った。
 こうしてエクリプスとなった早紀は、何かに急きたてられるように戦場に赴くのだ。

「てめぇもエクリプスか」
 化け蟹が言った。相変わらず不快感を覚える声だった。
 対する早紀は無言。右手で巨大な剣を引きずり出しながら、敵へ歩く。
「もしかして……最近見境無く食いまわっているとかいうエクリプスはアンタかよ!?」
「……?」
 覚えのないことに早紀は眉をひそめる。彼女がこの街に帰ってきたのは昨日のことだ。思い返せば、昨日倒したエクリプスも何かに脅えていた気がした。
「なんでもイイ。ただの女をヤルノハ、飽きてたトコダ。エクリプスの女は初めてダシナ」
「あ、アニキ、やりあうのかよ!」
「あたりメェダ。エクリプスの女をヤレルなんて滅多にねぇダロウゼ!」
 蟹が跳びあがった。横にしか歩けないなどという間抜けさは、影魔にはない。
「何よりオレはこの力を存分に揮ってミタカッタのよ!」
「……っ!」
 交錯する鋏と剣。硬質な音を立てて一人と一匹は弾きあう。体格なら蟹のほうが圧倒的に大きいというのに、早紀は互角に弾きあったのだ。
 次の攻撃も弾く。次も、その次も、更に次も。
 ただでたらめに得物を振り回す化け物に、早紀は冷静に対処していく。時には剣で受け、時には避ける。力では不利な彼女は、剣を真正面からぶつかるのではなく、『受け流す』ことに徹している。
「やるじゃネェカ! よくも耐えるカヨ!」
 強がっているが、その声にどこか不安が感じられた。技量の差を理解し始めたのだろうか。その不安を打ち消すかのように、尚更強く両手の鋏をたたきつける。
 早紀はあくまで落ち着いている。まるで機械のように攻撃をかわし続け――
「っ!」
 蟹が体勢を崩した一瞬、その胴体を薙ぐ――が。
「アメェな、えぇ?」
 勝負を決したはずの一閃は、敵の固い外殻によって阻まれた。反動が振動となって剣を取りこぼしそうになる。
「ぐぅ……っ!」
 予期せぬ防御力に隙を見せてしまった早紀に、唸りをあげて鋏が迫る。どうにか防ぐものの、剣を文字通り挟まれてしまう。
「このフィドラークラブエクリプス、あんまりナメンナよ、あぁ?」
 蟹の怪物――フィドラークラブエクリプスは小さな顔を邪悪に歪めた。
「そんなナマクラ、へし折ってやらぁ!」
 剣は横方向からの力に非常に弱い。この状態で捻られれば、折れるか曲がるかのいずれかしかない。鋏がそのままソードブレイカーとなるのだ。
「っ!」
 早紀もそれはすぐに理解したのだろう。すばやくエクリプスの膝の裏に自らの脚を絡めた。バランスを失したエクリプスが転倒する。
「や、ヤロウ!」
 突然のことで鋏を放してしまった蟹から逃れ、早紀は少し距離をとる。エクリプスも器用に起き上がり、仕切りなおしだ。
「そんな細身で大したもんじゃネェカ。犯りがあるってもんダゼ」
 下賎な声も早紀は気にしない。鬼相のまま正眼に剣を構えている。
「カッコイイねぇ。だがよ、正義の味方を気取るんナラ、ちょっとは後ろも注意したほうがいいんじゃネェカ、えぇ?」
「……?」
 ちら、と背後に目を向ける。そこには呆然と座り込む錫子がいる。意識を向けたのはたった一瞬。しかし異形同士の戦闘行為においては、その一瞬が致命となりうるのだ。
「ヒャッハァッ!」
「っ!?」
 振り下ろされる鋏を寸前で受け止める。ハンマーのような一撃を受けた剣は刃毀れし、なおも支える彼女の両脚が地面へとめり込んだ。
「駄目だぜ、余所見は。まぁ、安心しろよ。せっかくもう一人いるんだ。向こうはあっちが面倒みてくれるだろぜ」
 もう一人――それを失念していた早紀はとっさにもう一度振り返った。へたり込んでいる錫子に、不可視の何者かが近づいているだろう。
「おっと、余所見すんなってイッタロ。てめぇもエクリプスなら多少は頑丈だろうガ……俺は荒っぽいカラナ、身体がどっかなくなっちまうゼ?」
「く……!」
 更なる負荷に四肢が軋みをあげる。らちが明かない――早紀は全身の力を抜いて身を翻し、圧壊から逃れる。しかし、もう一匹の正確な位置の特定は困難だった。
「逃がしゃシネェヨ」
 再度の猛攻が早紀を襲う。捌きながらも次第に冷静さを欠いていく。
 息が乱れる。手足が重い。胸が苦しい。
「どおした、勢いも力もなくなってきてイルゼ!」
 横殴りの一撃が腹を掠める。
「ちぃ!」
 そのとき、悲鳴をあげる錫子の姿が視界の隅に見えた。少女は尻餅をついたまま何かから逃げようとしている――それで大体の位置は把握できた。
「っ!」
 早紀は右肩の投擲刃を取り外した。

                  *

 有体に言えば、早紀さんは『変身』した。具体的に何が起こったのかなんて、わかるはずもない。たった数秒の間に、早紀さんの姿は変わってしまった。
 あの姿はまるで童話から抜け出した騎士のよう。鈍い鉛色の鎧は彼女の全身を覆っていた。プレートメイルやチェーンメイルとも違ったが、凛々しい早紀さんにはさぞ似合っているだろう。でも、あたしの目は不気味な文様の浮かぶ鎧や全身に生える刃よりも、その背中にあるものに釘付けとなっていた。
「あの、翼……」
 そうとしか見えなかった。
 羽根のない、朽ちた翼。比翼でなければ意味を成さないそれは、彼女の背中の右側にしかない。おそらく彼女の鎧の一部なのだろうが、まるで早紀さん自身を象徴しているようにも思えたのは、何故なのだろう。
 早紀さんは蟹の化け物と互角に戦っている。剣術なんてわからないが、あれは誰がどう見ても早紀さんが勝っていた。身のこなしも軽やかに蟹の攻撃を剣で的確に跳ね返していた。まるで踊っているようにも見える。
 モンスターと戦うナイト――まるでゲームか、童話のよう……あまりに現実感のなさ過ぎる光景にあたしの頭は追いついていなかった。
「あー、好きだなぁアニキも」
 突然あの透明人間の声がした。さっきよりも、近い。おそらく……あたしの正面に立っている!
「キミを人質にすればあいつの動きも鈍るのかなぁ。それってセオリーだよね。でもまぁアニキ楽しそうだし、そこまでする義理もないよね、オレあんなエクリプスの女に興味ないし。キモいし。つーわけでさ、オレらもオレらで楽しもうよ」
 ワケのわからないことを散々口走って、そいつはあたしに手を伸ばした。目には見えなくても、粘つく気配と体臭がそれを感じさせた。
 あたしは裏返った悲鳴をあげて、異様な臭いから後ずさると、
「うおわぁ!?」
 空気を切る音ともに、あたしの目の前を鋭い何かが横切っていった。飛来した方向には、蟹と戦っている早紀さんがいる。一瞬目があうと、早紀さんが怒鳴った。
「動くな!」
 早紀さんは剣を左手に持ち替え、左肩の三日月形のブレードを取り外し、あたしを睨みつけた。『動くな』ってあたしに言ったんだ――と理解したのは、投げつけられた刃があたしの足元すれすれに突き刺さったときだった。何事かと思っている間にブレードはヅブヅブと床に沈み、次の瞬間、
「ひっ!?」
 ジャコン!とあたしを取り囲むように巨大な刃が生えてきた。
「そこは私のテリトリーだ。ジッとしていろ!」
 早紀さんが言う。
「余裕かましてんじゃネェ!」
 次に蟹の怒号。
「は、はいっ!?」
 返事はしたが、動くも何も、四方八方取り囲まれて脱出だってできない。しゃがむのが精々だ。
「お、脅かしやがって……」
 最初の投擲であたしへの接近を阻まれた透明人間だ。一時離れたらしく、もう一度あたしの方へ近寄ろうとして、
「げ、ぎゃぁあ!?」
 更なる刃に襲われて、おぞましい悲鳴をあげた。どうやらあたしの一定範囲内に近寄ると、地面から刃が生えてくるらしい。早紀さんが『私のテリトリー』と言ったのはこのせいか。なるほど空でも飛ばない限り、これであたしに近寄ることはできなくなったのだ。
「何だよ、これ! 近寄れねぇじゃんか!くそ……あのクソアマ何度も邪魔しやがって!」
 どうもキレたらしい。理不尽な怒りが早紀さんへと向かいはじめていた。止めたくても、あたしにはその力も、勇気もなかった。
「ムカつくんだよ、てめぇ!」
「な、ぐっ……!?」
 早紀さんが何かに引っ張られるように体勢を崩した。
「ぐ、ぁ、かはっ……」
 苦しそうに首を押さえる……首?!
「ヒャッハァッ!」
 その隙を、蟹が見逃すはずがない。下から振り上げた鋏の一撃をまともに受けて、早紀さんは大きく跳ね飛ばされた。
「さ、早紀さん!」
「ぅ……」
 起き上がった早紀さんの胸の鎧は砕け、中の黒いウェットスーツのようなものも千切れていた。あらわになった胸には裂傷がはしり、赤い血が垂れている。
「か……ぁっ!?」
 傷に痛む間もなく、喉を掻き毟るように早紀さんは苦悶する。やはり、彼女の首に何かが巻きついているのだ。
「やわな鎧だなぁ、おい」
 蟹の攻撃にも、剣を取り落とした早紀さんにはなす術もない。
「もっと苦しめ! アニキ、やっちゃいなよ!」
 振り上げた鋏を防ごうと、どうにか上げた左腕が逆に挟まれてしまう。万力のような圧力が早紀さんの腕を装甲ごと押しつぶす。
「ぐ、あぁ、あああぁっ!」
 耳を覆いたくなるような悲鳴が木霊した。
「あぁ、言い忘れてたケドヨ、オレは手足の一本や二本、無くてもヤれるぜ?」
 自慢げに言うと蟹はそのまま早紀さんを投げ飛ばした。彼女はゴロゴロと転がってあたしの目と鼻の先まで転がってきた。
「はぁ、はぁ、あ、は、ぁ……」
 さっき透明人間を突き刺そうとした刃につかまり、何とか起き上がる。表情は見えなくとも、震える背中が痛々しい。
「早紀さん、もう……!」
 やめて、など言えるはずもない。戦うのをやめれば、きっと早紀さんは殺される。一度剣を振り上げた以上、どちらかが倒れるまで戦いが終わることはないのだ。
「まだ立つのカヨ。さすが頑丈だな、えぇ?」
 蟹がゆっくりと近づいてくる。
「アニキ、そろそろトドメ刺しちゃいなよ。ズブっとさぁ!」
 投げ飛ばされても首に絡み付いていた何かが、更に強烈な力で締め上げる。
「あ、が、あぁぁ……」
 暗がりでもわかるくらい、見る見るうちに早紀さんの顔が赤紫に変わっていく。このままでは蟹にやられるより先に絞殺されてしまう。
「あせんナヨ。両腕切り落としてからでも遅くねえダロ」
 哄笑と嘲笑が絶望的に反響する。
「あ、ああぁぁ……!」
 もう、駄目だ……
 歯の根がかみ合わず、情けない声が口の隙間から漏れた。この異常な殺し合いから一番遠いはずのあたしでさえ、これだけ怖い。ならば陵辱と死が間近に迫っている早紀さんの恐怖は――
「ぐ……ぁっ」
彼女は両手で、空中を掴んだ。それが何か、あたしには見えなかった。見えない何か。つまり、早紀さんの首を締め付けているもの……そうか、それが紐のようなもので、透明なヤツから伸びているのだとすれば……!
「……――」
 早紀さんが聞き取れないほど微かに、何事かを呟く。
 確かなことは二つ。見えない紐状のものの先には透明野郎がいて、早紀さんは微塵も諦めてなどいない!
「もらっ……たっ!」
 その足元から大量の槍のようなものが飛び出した。早紀さんを囲むように出現したそれは植物の蔦のようにうねりながら不可視の絞首鞭を逆行する。
「う、うそ……!」
 間抜けな悲鳴は柔らかいものを穿つ音が掻き消した。まるで中世の戦場で用いられたファランクスさながらに何本も突き刺さる。更に。
「ぎぁやややぁぁぁぁ!?」
 矛先が肉を引き裂きズタズタにする。刺された刃がすべて外側に向かって引かれたようなものだ。透明野郎は全身から血を噴出しその場に崩れた。その正体は鱗の肌を持ち、極端に突き出した両目がこめかみあたりについている――カメレオンに似た化け物だった。
「てめぇぇっ!」
 仲間がやられたことに逆上した蟹が喚きながら突っ込んでくる。戒めから解かれたとは言え、早紀さんは苦しそうに身を屈めたままだ。しかも彼女の剣は遠くに転がっている。丸腰の早紀さんは足元から伸びた何かを引きずり出し、え?
「げ、ぇぇぇっ!?」
 その手に握った剣で、甲殻に覆われていない右肘を切断した。唖然とする蟹を思い切り蹴り飛ばす。確かに先ほどの剣は向こうにある。今早紀さんの左手が握っているのは、別の新しい剣だ。
「バカなぁァァ!?」
 それについてなら、あたしも同意する……彼女はどれだけの武器を隠し持っているのだろう。
「くっ……」
 もう一本の剣を手繰り寄せて、鉄色の触手は早紀さんの影に収まった。足元のそれを蹴り上げ、彼女は相似形の二刀を手にする。どこかが痛むのか、少しだけ舌打ちのような苦悶を漏らした。
「はぁ、ハッ、ハッ、ハ――」
 荒い呼吸が聞こえる。早紀さんも既に満身創痍、剣を持った両手はだらりと垂れ下がり、肩は激しく上下している。
「あ、は……はは、ハハハッ……」
 そして、使うしかない――と呟いた気がした。
「てめぇおれの右腕よくも切ってころすころすぶったぎってころす!」
 狂ったように蟹が叫ぶ。失った右腕の代わりとでもいうのか、左手を鋏に変化させて喚いている。
「てめぇは死ね這いずり回って死ねズタズタに死ね切り殺してやる!」
「ぃ……っ」
 全身の毛が逆立つような憎悪。撒き散らされる憤怒にあたしは思わず身を縮める。
「私を、切り殺す?」
 それなのに早紀さんは、笑った。あまりに対照的な冷笑だった。
「やって見せろ。ただし――」
 乱れた息を隠すことも無く、初めて蟹の言葉に答え、
「斬られて死ぬのは、お前の役目だ」
 双剣を交叉させた――刹那、闇が紅く染まった。

「な――っ!?」
 血よりも濃く、炎より鮮やか。紅いとしか形容できない『あか』。
 それはけた二つの魔剣から放たれている。二つの剣は、比喩でなく、本当に。
「な、なにこれ……!?」
 立っていられない。暴風のように渦巻くものが、彼女の真後ろのあたしにも容赦なく叩きつけられる。それは決して風圧などではなく。
「あ、ぁぁぁあああ……」
 あたしに降りかかるのは、『殺される』という原始の恐怖。
 彼女がぶちまけているのは、『殺してやる』という純粋な殺意。
 真紅の殺意が、影さえ紅く染め上げる。深淵より放たれる、底なしの感情。蟹の憎悪など子供の癇癪にすぎない。
「な、なんだよ……なんだよこれ」
 狼狽した声が聞こえる。今まで理不尽の限りを尽くしてきたであろう怪物が、更なる理不尽に脅えている。
「なんで……なんでオレが殺されなきゃいけねぇんだよ、えぇ?!」
 かつての凌辱者は無様に震えて頼りない呪いを口にする。
「オレが悪カッタ! あやまるよ、お願いだ待ってクレ! オレは」
 この紅い光は、おそらく眼前の敵への感情ではない。もっと別な何かに対する、根源的な殺意のよう――蟹が無意味な言葉を羅列しているが、もう遅い。理不尽の刃は、既にあの獲物に向けられてしまったのだ。
 剣の交叉を解き、低く姿勢を落とす。
「ヴァーミリオン・オーヴァーキル……」
 彼女がその名を告げた途端、折りたたまれていた翼が開く。
 朽ち果てていた骨翼が、二剣と同じ光を湛えた羽根で覆われる。
「あ――」
 片方だけの紅い翼。
 その姿はまるで――
「切り裂けえぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇっ!」
 咆哮とともに、片翼の天使が疾走した!

                 *

 血の色の羽根が舞い散る。
 背中の翼の羽根はすでに失われている。比翼で無ければ、羽ばたくことはできない。故にその用途は、羽根の魔力そのものの開放によって爆発的推進力を得ること。それをもって彼女を高速足らしめる推進剤のようなものだ。しかも片方のみによるバランスの不安定さを考慮すれば、極々短距離用の瞬間加速にしか用いることはできない。
 紅い羽根を踊らせ、紅い軌跡を残しながら、紅い剣を手にした騎士が翔ける。
 能力、そして戦闘において彼女より優れたエクリプスは掃いて棄てるほどいるだろう。彼女自身は疑いようもなく『下級』のエクリプスである。それは二人がかりとはいえ、同じ『下級』のエクリプスたちに追い詰められたことが証明している。ならば何故、彼女は歴戦を勝利しこの瞬間まで存在しているのか――
 彼女の殺意を宿した得物は、もはや敵を斬るだけの道具ではない。喩えるなら、それは生物としての前提条件を紅く塗りつぶすインク、剣は塗りつぶす際に一緒に紙まで破いてしまうペンにも似る。
 つまり、紅い殺意は具現化された概念。概念が斬るものは物にあらず。同じ概念――すなわち、早紀の剣は敵の『存在』をこそ両断する。紅い剣が触れた悉くはその存在を否定され、世界から抹殺される。世界の理さえ覆す暴挙の前には、いかなる強度や硬度と云えども意味をなさない。
 一瞬で間合いに入る高速と、一切の存在事項を斬り裂く剣……この二つをもって、彼女は斬るためだけのエクリプスとなる……そう、下級エクリプスである矢桐早紀は――しかし『斬り殺す』というただ一点においてのみ、あらゆる影魔を凌駕する!

 ――つまり、これが答え。彼女が内包する、真紅の異常なる殺意。

 斬撃は二度。最大の加速で踏み込んだ左の剣で縦に、すれ違うように右の剣で横に薙ぐ。
 抵抗も悲鳴も懺悔も許さず、紅い残像がエクリプスを十字に捌く。
 四つのパーツに分割された身体が地面に散らばっても、影魔は死を認識することはなかっただろう。死んだことさえ気づかせない、完全な死――それが、存在の否定なのだから。
生死確認の必要はない。
 接地の摩擦で減速し、地面を抉りながら早紀は停止する。
 勝敗の決した後も血液は沸騰し続け、心臓は狂ったように脈動を早めたまま。
 すべての羽根を失い、もとの骸に戻った翼が折りたたまれる。
 静かに紅い光を失った双剣は、まるで木炭のように朽ちて彼女の手からこぼれ落ちた。
 戦闘の終了を告げるように、主を失った空間が元の世界へと復帰する。
「もう一匹は……」
 確認できない。仕留めきれていなかったはずだが、逃げたのか。あれだけの傷を負っての戦闘は勿論、迷彩機能は行使できないだろう。もっとも、それは早紀も同じなのだが。
「ぁ、は……――」
 大きく息を吐くと、鎧が溶解して彼女の身体から離れる。勝者でありながら、彼女は膝を折り苦悶する。戦闘はただでさえ消耗するというのに、切り札を使ったのでは致し方ないことだった。
 疲れきった犬のように、だらしなく舌を出して喘ぐ。身体と心を落ち着け、同時に襲いかかる吐き気と眩暈に耐える。視界は暗転寸前、気を許せばそのまま意識を失いそうだった。苛烈な必殺の太刀の反動は、彼女自身にも致死量となりうる。瞬間加速と音速の連撃により酷使された筋肉と神経。そして常軌を逸脱した出力を保つことによる精神の消耗。細胞の一片、心の一かけらまで悲鳴をあげている。万物を斬り裂く紅い剣は、担い手である彼女にも常に諸刃の刃を向けているのだ。
「く、うぇ……」
 血の混じった胃液を何度も吐き出す。ようやく静まってから、早紀は静かに振り返る。そして、へたり込んだままの少女の方へと歩き出した。

                *

 終わった、らしい。
 暗い空間も紅い光も化け物の姿もここにはない。
 あたしを囲んでいた刃も、それに合わせたかのように消滅してしまった。
 見えるのは割れた窓から差し込む夕日のみ。
 部屋にあるのは、あたしと早紀さんと、殺された女性の亡骸のみ。
 外の風景から察するに、どうもここは廃ビルかどこかの一フロアのようだ。もっと広い場所だとばかり思っていたが、こんなに狭かったなんて……それとも、実際に広くなっていたのだろうか。
 本当によくわからないことだらけだが、とにかく終わった。
 生きている実感がようやく戻ってきた。
 早紀さんがこちらに歩いてくる。鎧も剣も翼もない、昨日同じベッドで一緒に寝た早紀さんだ。
 左腕を押さえながら、フラフラとした足取りだった。まだ息が乱れていて、顔も真っ青だ。彼女はあたしの前に立つと小さな声で尋ねてきた。
「……怪我は?」
「あ、え、な、ない、です」
 間抜けな返事を聞くと、早紀さんは、
「そう」
 あたしを避けるように、横を通り過ぎていった。
「え……その、早紀さんは?」
「一匹逃がした。あなたは早く家に帰ったほうがいい」
 つまり、追いかける……と言っているのかこの人は。あんなにフラフラのボロボロなのに。
「む、無茶です早紀さん!すごく疲れているみたいだし、そ、それにこの女の人のことも警察にしらせなきゃいけないし、あ……でも警察なんかに言っても信じてくれるのかな……そ、それはいいけど、いやよくないけど……あぁ!とにかく無茶ですよ!やめてください!」
 思いついた言葉を整理もしないで喋るから支離滅裂だった。とにかくあんな状態の人を放っておくわけにはいかない。たった今命を救ってくれた人なら尚更!
「いや、私は、あいつらを倒さないと……」
 もしかしたら止めてはいけないのかもしれないけど、止めないで大変なことになるのは嫌だ。
「待って!」
 無造作に置き捨ててあったアップザックを拾い上げてから、彼女は入り口の扉を開けようとしていた。あたしは追いすがろうと立ち上がる。だが――
「……あいつらを、倒さない、と……」
 早紀さんの様子がおかしい。うわ言のように同じ言葉を呟いて……
「姉様が…安心して、眠れな――」
 扉を開けると、そのまま前にぶっ倒れた。
「さ、早紀さん!」
 思わず駆け寄る。抱き起こそうとした手の感触にぞっとする。
 早紀さんの身体は冷たく、それなのに全身から汗が噴出していた。
「しっかり……しっかりして!」
 あたしの声だけが虚しく反響する。
 彼女のタンクトップには、じんわりと紅い血が滲んでいた。 

 

 

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