童話の守人

幕間2 〜a memento〜

 女手一つで彼女を育てていた母――矢桐樹里(じゅり)が他界したのは、彼女が八歳のときだった。夫を早くに亡くし、昼夜を問わず働き詰めだった母は、夜明けとともに変死体となって発見された。
 詳しい死因は不明、『しいて言えば』極度の過労だという。
 それならば娘である彼女――矢桐早紀にも心当たりがあった。

『どうして、こんなことに』

 樹里は実家から縁を切られていた。その理由はおろか、神社であるということしか母は教えてくれなかった。
 父方の親戚からもほぼ同様の扱いだった。彼女たちが暮らしていたアパートに父の位牌はなかった。樹里は命日には毎年墓参りに行こうとしていたが、門前払いをうけるのが常だった。長男を婿にとったばかりか早死にさせた、というのがその理由らしい。
 樹里は夫の話を殆どしなかったし、早紀も父について積極的に知ろうとはしなかった。父の話なると、母は決まって機嫌を損ねたし、何より……これ以上辛そうな母の姿を見たくなかった。
 
『あの時、断っていれば――』

 それが母の口癖だった。
 面と向かって愚痴をこぼすような人ではなかったが、早紀が空腹でぐずる時、寒い部屋で布団に包まる時、そして一人で深夜に出かける時、そう呟くことがあった。歳を重ねるにつれ、それが何らかの後悔であることを感じ取ることができた。
 だから空腹も我慢したし、冬の寒さも耐えたし、夜に外出する母に笑顔で『いってらっしゃい』と言ってきた。
 何を断っていれば、どうだったというのか……早紀はついぞ知ることは無かった。知らずとも、いつか母の口からそんな独り言を消し去ってみせると、幼心に思っていた。
 いずれは自分が母を守ると、そう誓っていたのだ。
 あぁ、それなのに――
 あの寒い朝、目覚めれば流しで朝食を作っているはずの母の姿はなく、幾ら待っても戻って来なかった。
 校内放送で呼び出され、先生の車で病院に向かうことになったのは一時間目が始まる直前だった。病院で迎えたのは、冷たくなった母の遺体だった。
 幼い少女にとって、それがどれほどの傷痕だったのか。彼女は一時的に言葉を失った。葬式の日も、彼女は数少ない母の遺品である壊れたロザリオを握り締めて、ただ泣き続けるばかりだった。
 唐突に天涯孤独となった早紀は、一人で生きていくにはあまりに弱すぎた。
 彼女の引き取り手である母の実家は無関係を貫き通し、葬式にさえ顔を見せなかった。父方の親戚もほぼ同じだったのだが、彼女にとって幸か不幸か、一つの気まぐれがあった。
 大手銀行の役員だった叔父の針生憲介が、どんな下心で彼女を引き取ることにしたのかは定かでない。だが彼はささやかな葬式を執り行い、彼女を別の街の屋敷に招いた。それによって、彼女が路頭に迷うことはなくなったのである。
 
 果たして叔父の家で暮らすことになった彼女が順風満帆だったか。
 確かに彼女には部屋も食事も与えられ、学校にも通わせてもらえた。しかし叔父をはじめ、針生家の人間は一様に彼女に冷淡だった。彼女は所詮使用人であり、針生の家族ではなかったのだ。
 彼女がそれを不幸と見ることはなかった。赤貧に喘いでいた彼女にとって、暖かい家と三食が約束された生活は天国に等しかった。たとえ睡眠時間が三時間しかなくとも、理不尽な暴力を受けて血を流すとも、生活の対価として考えれば安いものだと、そう思っていた。
 それは麻痺に他ならない。母を喪った日から、彼女の神経はずっと麻痺していた。第三者から見れば過酷な環境でも正常を保っていられたのは、精神が既に異常をきたしていたからに他ならなかったのだ。
 人形のように日々を送っていた早紀が、自分を取り戻したのは一人の少女との出会いによるところが大きい。
「あなたがさきちゃん? 会いたかった!」
 少し背伸びをして、早紀に目線を合わせてから少女は言った。長く黒い髪をたなびかせ手を握る。目の前に現れた女の子はあまりに突然すぎて、早紀は目を白黒させるばかりだった。
 少女の名は針生奈々――隣市にある有名私立女子大の付属小学校に寮から通っていた、叔父自慢の箱入り娘だ。早紀の存在は知らされていなかったはずだが、どのような経路でか知るや否や寮を飛び出してきたという。
 とにかく表情のよく変わる子だった。早紀の境遇を知ってぐしゃぐしゃに泣いていたかと思えば、次の瞬間には湯気をたてて怒っていた。
「なんてかわいそう……いくらお父様でも、こんな仕打ちはゆるさないから!」
 それからの箱入り娘は早紀が呆れ果てるほど行動的だった。具体的には一日中駄々をこねた挙句、これからは自宅から通学すること、そして早紀を自分と同じ学校に入れることを父に認めさせてしまった。
 一人娘に叔父は非常に甘かったのだが、『そうしてくれなきゃ家出してむりしんじゅうしてやる』と静岡行きの切符を見せられては、どんな親も首を縦に振らざるをえないだろう。
「私のことは姉さまって呼んでね? 同じおとしでも、私のほうがおたんじょうび早いんだもの」
 小さな胸をそらして奈々は言った。静岡への切符といい、昨夜あたりに見たドラマの影響だったのだろうか。
 ともかくそれは、少女らしい可愛い傲慢さであり、幼い無邪気さであり、尊い健気さだった。
「もう大丈夫。さきちゃんは、私がぜったいまもってあげる。それがお姉さまの役目だからね!」
 最初こそ戸惑っていた早紀だが、打ち解けるのに時間は要らなかった。針生の屋敷の中で、彼女に気をかけてくれる『家族』のはこの『姉さま』だけだったのだから。

――姉さまが私をまもってくれるなら、私も姉さまを守る――
 
 母へ果たすことのできなかった約束を、少女は義姉へと誓う。
 それではアベコベだと、奈々は笑っていたが、早紀にとっては自らに科した誓約であり、破ることのあたわぬ聖約だった。
 
 
 二人は大人の目を気にすることもなく、姉妹であり続けた。
 本当の姉妹のように互いを思いやり、本当の姉妹以上に互いを愛していた。
 本来あるべき幸せの一つのかたち。母を喪った少女が取り戻した、幸福の道。
 しかし彼女たちは無垢であり、同時に無知であった。
 平穏と異状は表裏一体。彼女たちの日常は、誰かの非日常の上に成り立っていることを知らなかった。
 そして、影の世界を垣間見た者は無知であることを許されない。ソレに出遭いさえしなければ、そのままでいられただろうに。
 
 それから遠くない未来、
 背中合わせの異常に侵されて、
 理不尽なまでにあっけなく、
 聖約は踏みにじられ、
 彼女たちの幸せは、破綻した。
 
 
「本当に憶えてないの?」
 見知らぬ彼の言葉に、早紀は無言で頷く。額や胴に巻かれた包帯に違和感があった。
「そんなことはないだろう。君だって大怪我をしていたんだぜ」
 神経質そうな男は、コツコツとペンで手帳を叩いている。
「別に取り調べしてるわけじゃないんだからさ、正直に話してくれないかな」
 早紀は焦点のあわない視線を、宙にさまよわせた。病室にあと五つ置かれたベッドは無人で、白く広い空間の閑散とした印象を更に強めている。
「おい、キミ」
 苛立った声も届かない。自分は何故病院にいるのか……早紀はそれだけを考えていた。
「まぁ待てよ。この人は今日目覚めたばかりなんだから。順を追って説明しなけりゃ」
 壁際の椅子に座り、二人の不毛なやり取りと聞いていた年配の男が腰をあげた。
「矢桐さん、あんたは――」
 壮年の刑事は事細かに、事態の推移を説明してくれた。
 なんらかの事件に巻き込まれ、針生の養父と養母が死んだこと、彼女は大怪我を負って庭に転がっていたことなど――どれも早紀には現実感のない話だった。
「どう、やっぱり何も憶えてないの」
「はい」
「少しも?」
「学校から帰って……その後のことは何も」
「おい、いい加減に……」
 部下を制しながら、白髪の刑事は話を続けた。
「なら君の義理の姉さん、針生奈々さんについて何か心あたりは?」
 その言葉に、早紀は初めて反応らしいものを示した。
「姉、さん……? 姉さんがどうしたんです」
「いやね、彼女消えちまってね。遺体もないし、何か知らんかなと思ってね」
「……消えた? 姉さんが、きえた?」
 途端に身体がガタガタと震えだす。二人の刑事は脈があったと見たのか、更に問い詰める。
「どうだ、何か思い出したかい?一緒に下校したんじゃなかったの?」
「隠す必要なんてないんだから、正直に言ってよ」
「し、知らない……どうして……なんで憶えてないの? 私は姉さんと途中で別れて……あれ? こんなの、変だ。おかしい……っ」
 吐き気がこみ上げてきて、思わず口をおさえる。
「しっかりしてくれよ。針生奈々だけ見つからないんだ。次第によっては、手配しなけりゃいけないんだからね」
 その言葉に、早紀は目を剥いた。
「姉様は何もしてない!」
 若い刑事に掴みかかろうとして、ベッドから転げ落ちる。点滴の針が抜け、スタンドの倒れる音が大きく響いた。
「奈々を、悪く言うな……」
 身体を起こすことなく、早紀は呪詛を吐き出す。すぐに看護師たちが駆けつけて、刑事たちは退室されられることになった。
――大丈夫ですかね、あのコ。
――三日も寝ていたわけだから、混乱してんだろ。あいつもその姉貴も疑いかかってんだし、地道にいくしかねぇさ。
――でもあんな殺し方は、人間には……
 廊下の耳障りな会話から逃れようと耳を塞ぐ。
「なんで……? なんで、こんなことに――」
 母の嘆きが、彼女の口から漏れる。
「母さん……」
 枕元におかれていたロザリオを握り締める。壊れたロザリオは土で汚れ、銀の鎖は無残に千切られていた。

『これに通して、いつも身につけていたらいいよ。お母様の大切な形見なのだから』

 今年の誕生日に奈々からもらった、シンプルな純銀のチェーンだった。母の遺品は、同時に姉の形見となったのだ。
「姉……さん、奈々ねえさん……」
 二重の思い出を抱きしめ、泣き崩れるしかなかった。
 なぜだろう……どんなに否定しても、もう二度と姉に会うことはできない――それは早紀にとって、根拠のない、しかし拭いようのない実感だった。

 

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