童話の守人

U 〜モノクローム・フラッシュバック〜


 僅かな希望と欺瞞を胸に、矢桐早紀は今も暗闇の中を、生きている。

 ちじょうにおりていくてんしをジッ、と見つめているものがいました。
 それは悪いあくまでした。
「にんげんたちのてだすけをするきだな。そうはさせないぞ」
 黒いりゅうになって、てんしにおそいかかりました。
「あくまさん、なぜこんなことをするのですか」
 てんしはおどろき、おこりました。
 あくまはわらいました。
 かれはわるいことをするのがおしごとなのです。りゆうなんかないのです。
「わたしはにんげんのしあわせをしりたいのです。どうかとおしてください」
 てんしはあきらめず、なんどもおねがいしました。
「ばかめ、あくまがてんしのいうことなんかきくもんか」
 とうとう、てんしはかたほうの羽をうしなってしまいました。
「これはもらっておくぜ、あばよ」
 それどころか、たいせつな首かざりもとられてしまったのです。
「どうしよう。かみさまからいただいた首かざりをなくしてしまうなんて」
 てんしはこまってしまいました。
 首かざりがないと、てんしは羽をかくすことができません。
 てんしであることをしられてはならないとかみさまはいいました。
 そのいいつけを守れなくなってしまったのです。
 そして羽をなくしたてんしは、お空にかえることもできなくなってしまったのでした。

 

 

「ねえちゃん、本当にこんなところでいいの? 何があっても、おれは知らないからね」
 ドアが閉まると、タクシーは逃げるように来た道を帰っていく。どんな捨て台詞を言われても、こんな怪しい二人組みをこんな怪しい場所まで運んできてくれたのだから文句は言えない。
『あー、あたしの姉さん飲み過ぎちゃって! 困っちゃいますよ、本当にー……は、ははは』
 あたし、楯岡錫子は嘘が得意でない。顔と態度に直に出てしまう。乗車時に露骨に不振がられて、とっさのでまかせでそんなことを言ったが……ごめんなさいオジサン。わかっていたと思うけど、嘘です。
「早紀さん、もうすぐですからね!」
 あたしは肩に彼女の腕を回す。
「――て……すず……たし……へい、き――」
 うわ言を繰り返す彼女は矢桐早紀――昨夜この教会で出会った不思議な女の人であり、あたしの命の恩人だ。
「しっかりしてください、すぐ横になれますから!」
 彼女はたぶん『私は平気』と言いたいのだろうが、とてもそんな状態には見えない。現に支えていないとすぐに倒れてしまう。肩を貸しても脚はほとんど歩けていない。
 息は未だに乱れたまま、滝のような汗を流し、それでいて身体は冷たい――一昨年前触れた、棺桶で眠るお婆ちゃんの冷たさに似ていた。
「んなことは、どうでもいい!」
 早紀さんの額の汗をハンカチで拭き、自分の額も袖で拭う。はじめは嫌がってあたしの手をどけたりしていたのだが、そんな余裕もないのか。
「はやく休ませてあげないと」
 タクシーを見つけるまでずっとこうして歩いたせいか、肩と脚に相当疲れがきている。運動部でもやっていれば違ったのかもしれない。でもそれもあと少し。この草を掻き分けて扉を開ければひとまずゴールだ。
「いきますよ早紀さん、頑張ってください……ねっ!」
 足元に置いていたナップザックも手にしてあたしは歩き出す。
「……はな、れ……わたし……」
 早紀さんが何か言っているが今は無視だ。とにかく教会目指して前へ進む。


 早紀さんが倒れたあとのあたしはパニック状態だった。
「どうしよう……そうだ、医者! 待ってて、今すぐ医者呼んでくるから!」
 彼女の胸からは血がじわりと滲んでいる。どうしていいのかわからず、助けを呼ぼうとするあたしを早紀さんは制した。
「誰も、呼ばなくていい……あなたも、逃げて」
 弱い力であたしから逃れようとする。当然、あたしは首を横に振った。それでも早紀さんは同じことを繰り返すだけだった。
「だれも、いい。いないほうが……」
 いいわけない。あれだけの傷だ。放っておいたら命に関わるかもしれない。それなのに彼女は頑なに拒んだ。それは病院を避けているようにも、あたしを避けているようにも見えた。
「早紀さん……」
 ……無理も無いだろう。あたしがいなければ、早紀さんはもっと容易に勝てたのかもしれないのだから。あたしの顔なんて見たくないはずだ。
「でも、置いていくなんて」
 彼女の言うとおりにここを去るか、それとも――
 いよいよ混乱の極みに達したとき、外が騒がしいことに気づいた。割れた窓ガラスから恐る恐る覗いてみると、下にいる数人が何事かを話している。
「ま、まずっ!」
 あたしはすぐに顔を引っ込めた。そしてそのとき、窓枠にべったりとどす黒い血が付着していることに気づいたのだ。
 一匹逃がした、と早紀さんは言った。その一匹――カメレオンのようなヤツはここから飛び降りて逃走をはかったのではないか。どう見ても六、七メートル以上の高さがあるが、地面で潰れていない以上は平気だったのだろう。下にいる人たちはその光景を見た、あるいはそのときの音を聞いた人たちかもしれない。もし彼らがここに上ってきて、あたしたちと鉢合わせするようなことになれば、とにかく面倒なことになる。何しろここには女の人の死体があるのだから。
 もしあたしだけ逃げれば、あらぬ嫌疑はすべて早紀さんに降りかかる。
 冗談じゃない、命の恩人にそんなことさせられない。正義の味方になるつもりも無いが、持ちつ持たれつ、受けた恩は必ず返すのがまっとうな人間だ……自己満足と言われれば、それまでなんだけど。
 たとえ彼女を弁護しようにも、真実を証明する方法がない。蟹の化け物が殺しました……なんて、言い逃れどころかアタマを疑われるのがオチだ。なら、私に選択の余地はない。
「よし……!」
 覚悟は決まった。女の人の遺体をうち棄てておくのは耐えられないが――今あたしにできるのは、早紀さんを疑いから遠ざけることだけ。
 ここでない、人のいないところといえば思い当たるのはあの教会。そこまで運ぼうと決心した。
「早紀さん、つかまって。ここから離れましょう!」
 許可を待たずにあたしは早紀さんの身体を起こし、腕を肩にまわす。
「やめて。いいから……じきに、なおる……」
 あとで何を言われても、今早紀さんの助けになればそれでよかった。自己満足大いに結構、それで人を助けられるなら上等だ。
「このままじゃ、疑いをかけられるかもしれないんです!早く!」
 少し強く言うと、早紀さんも渋々といった感じで従ってくれた。彼女が倒れたドアの反対側に非常出口があるのを確認した。鍵が壊されていたので簡単に開いてくれたのが救い。他人に肩を貸しながら階段を下りるのは不安定で大変なうえに、なかなかの恐怖だったが、ヨロヨロしながらもビルの裏側に出ることができた。
 ビルの中からの叫び声を聞いたのは、ちょうどそのときだった。先ほどの人たちが女性の遺体をみつけたのだろう。心の中で名も知らない彼女に手を合わせて、その場を離れた。
「どこだろ、ここ……」
 あたしたちがいた空きビルは街の中心街から少し離れた場所にあったらしく、近くに見慣れた建物は無かった。大体、拉致されたあの廃病院の位置さえ曖昧だというのに、そこから更に知らない場所に連れて行かれたら完全にお手上げだ。
 とりあえず車の走りそうな道路を歩くしかなかった。それほど人とすれ違うことが無かったのがせめてもの幸いだった。
「すず、こ……もう、いい……離れ……」
 その間も早紀さんは苦しそうに息を切らしながら、熱に浮かされたように呟き続けていた。時間が経つにつれて声は小さくなり、とうとう脚も歩みをやめてしまった。
「じょう、だん……!」
 強がって気合を入れるのにも限度があった。
 人を引っ張るのがあんなに大変だとは思わなかった。いよいよ体力も限界に近づいたとき、運よく先のタクシーが通りかかり、あたしたちは道路に倒れこむのを逃れたわけである。とりあえず駅に戻ってもらい、そこから場所を教えながら教会を目指すことにした。その頃には日はすっかり落ち、家出二日目の夜を迎えることになっていた。
 
 
 そして現在に至る。
 軋みをあげる扉を蹴飛ばし、奥の部屋に向かった。部屋に着いても早紀さんをベッドに寝かせるのが更に一苦労だった。
「大丈夫ですか、傷が痛むんですか?」
 尋ねてみたが返事がない。呼吸も小さくなっている。
「そんな……あぁ、やっぱり病院に行ったほうがよかったのかな……」
 後悔しても誰も助けてはくれない。今はあたしが早紀さんを何とかしなきゃ……とりあえず、傷の確認をしないと――
「服、脱がしますよ」
 恥ずかしがってもいられない。傷の状態しだいでは、早紀さんがどんなに拒んでも病院に連れて行くことも考えなければ……こんなときだけ、医者になる勉強をしておけばよかったのかな、と思う。
 上半身を起こして、革のジャケットを取り去る。それから血で濡れたタンクトップを脱がせた。早紀さんが少しも動かないため、まるで等身大の着せ替え人形みたい。他人の身体を他人が動かすのはどれも大変な作業だった。
「う、わ……」
 まさかブラの代わりに『さらし』を巻いているとは思わなかった。しかも祭りなんかで見かける本物の晒ではなく、太い包帯をぐるぐると……いや、驚いたのはそういうことじゃなくて。
 まず目についたのはくすんだ輝き。
 それは隠すように首から提げていたロザリオだった。材質は銀のようだが、一部が欠けてLの字に近い形になっている。本来ロザリオは首から提げるものではないし、数珠ではなくてチェーンになっているあたりアクセサリーにも見えるが、おそらくこれは違う。霊感なんてないけど、形を崩しても尚失われない高潔さのようなものを感じる。早紀さんの大切なものなのだろう。
 そしてもう一つ。陸上選手のように引き締まった彼女の身体。無駄を一切省いた肉体は、同姓のあたしが見ても美しいと思う。
 問題はその身体のいたるところにある、大小様々な傷だ。殆ど目に見えないものから、つい最近刻まれたようなもの。鋭利な何かで切られたような傷や明らかに獣に噛まれた痕もある。一番新しいそうなものは左肩の、赤く変色している丸い痣だった……これらがすべて、彼女が異常な戦闘を何度と無く繰り返してきた証、なのだろうか。
「い、今はこっちの傷を……あれ?」
 問題の傷口はお臍のあたりからさらしで隠れた左胸にかけて、なのだが。
「治って、る?」
 生乾きの血で濡れてはいるが、傷自体は完全に塞がっていた。すぐに癒着するような軽い傷には見えなかったのだけど……
 ハンカチでなるべく優しく血を拭ってみる。
「熱っ!?」
 布越しでも焼けるような熱さを感じる。先ほどまでの身体の冷たさとは、まるで正反対だった。
「う……ぅ、ん……」
 早紀さんは身をよじって、薄っすらと目を開けた。息も整っていて、発汗も治まったようだ。傷口を除けば、体温も正常に戻りつつある。
「すずこ……?」
「大丈夫ですか、何かして欲しいこととか、食べたいものとかありますか?」
 タクシーの中でここに来るまでの道に何があるか、できる限り把握してきた。近くのコンビニまで三キロくらい。たぶんまだ走れるはず。
「ほしい……もの?」
 受け答えもできている。意識があるなら、少しは安心だ。彼女はとろん、とした目のままあたしを見上げている。
「……が、ほしい」
 彼女が何かを囁く。
 よく聞き取れなかったあたしは、彼女の口に耳を寄せた。
 コンビニで手に入るものならいいけど――
「すずこが……ほしい……」
 ――は?
「ちょ……」
 何が起こったのかわからなかった。
 気づくと、あたしと早紀さんの位置が逆転している。
 つまりあたしはいつの間にかベッドに押し倒されていて、だから早紀さんが覆いかぶさるようにこっちを見ていて、ようするにこれはもしかして。
「さ、き、さん……?」
 あたし、おそわれてる?
「あ、あれ、ちょっと……早紀さんこれはどういう――」
 唐突に、強引に、一瞬で、あたしの唇に早紀さんの唇が重ねられた。
「ん……んーっ!?」
 え、え、え、え?
「っ!? むーっ、む……う、ん……」
 唇を割って、早紀さんの舌が侵入してくる。口内をまさぐるように、あたしの舌と絡み合う。まるでこちらのことなど考えない、息苦しくなるほどの一方的な蹂躙。
「む……ぁ、ん……」
 あぁ……初めてなんだけどなぁ。
 ファーストキスが女の人だなんて知ったら、母さんどんな顔するだろ。
「は、はぁ……ん……」
 早紀さんの息が、先ほどとは明らかに別な調子で乱れている。貪るように柔らかい肉を押し付けて、あたしに唾液を流し込んでくる……なんだか、甘い感じがした。
 でも……そろそろ、本当に、息が……!
「む……っぷ、はぁ!」
 こちらの苦悶を悟ったのか、早紀さんがあたしを解放する。名残惜しむように、唾液が二人の間で、つう、と糸を引いた。
「さ、早紀さん! なんの、つもりで……なんですか、いったいっ!?」
 おかしい。
 早紀さんの様子がおかしすぎる。
 そりゃ、こんな細い身体で、あんな化け物を切り伏せたこともおかしいが、まったく違う意味で、今の、早紀さんは、おかしい。
「あ、はぁ……」
 あの凛々しい目が、完全に蕩けている。
 かっこよくタバコをくわえていた口元も、だらしない笑みを浮かべている。
「早紀、さん?」
 もう、間違いなく、早紀さんは、欲情していた。
「お、おかしいです、あたし女ですよ!? しっかりしてくだ……んむぅ!?」
 反論など許さないといった感じで、また唇が塞がれる。そればかりか、今度はその両手があたしの服に掛かり……
「……ーっ!?」
 一つずつ、器用にボタンを外していく。外気に直接触れた肌が、冷たさとそれ以外の恐怖と期待を伝える。
 それに連動するように、早紀さんの唇が徐々に下降していく。
「さ、あの、ちょっと、冗談きつ……」
 喉仏あたりを舐められると、くすぐったいやら気持ちいいやらでビクンと身体が震えた。
「あ、あぁ、ああ……」
 とうとう服の前がすべてはだけられた。下着だけを纏った、お世辞にもきれいとはいえない貧相な身体が、彼女の前に曝け出される。
「いや……嫌です、早紀さん。あたしこんなの……」
 舌は止まってくれない。もはや別人となった早紀さんは、容赦なく、ブラをずらしてしまう。
 同じく裸同然の早紀さんの体温をじかに感じる。
 熱い吐息と鼻にかかったような淫靡な声。
 唾液が媚薬のように、あたしの脳も侵食していく。
「さき、さん……」
 何かを期待している自分がいる。
 そうとも。
 現実から逃げ出した小娘が、謎めいた大人の女性に魅かれなかったと誓えるのか。彼女を一目見たときから、あたしはこういう展開を望んでいなかったと、自信をもって言えるのか。
 答えはノー。ゆえに抵抗は次第に弱まっていく。
 これは早紀さんの行為であり、あたしが望んだ行為でもある。
 だから乳首を口に含まれたとき、あたしは自慰でも上げないような嬌声をあげた。自分でも初めて耳にするはしたない声だった。
 まるで何かを吸い出されたよう。体中が気だるく、視界に靄がかかる。
 声に触発されたのか、早紀さんはとうとう、あたしの脚の間に手を潜らせた。慣れた手つきでズボンのジッパーを下げていく。
「ん……っぁ!」
 恐怖と期待の天秤は、快感の錘によって簡単に傾いた。
 自分でもロクに触ったことのない場所を、他人の手で弄られる昂揚感。
 秘所をショーツ越しに擦る彼女の手が、あたしに一線を越えさせようとする。
 それはきっと、今まで感じたことのない瞬間。
 まだ知らない高みにイクことができるはず。
 でも――
「あ、ん……早紀、さん……」
 もしかして、早紀さんには自分がこうなることがわかっていたのではないか。
 彼女が頑なに病院や人のいるところを拒んだ理由、あたしを遠ざけようとした理由――それらがすべて、今の彼女の状況に由来するものだとしたら。
 自分のこんな姿を、誰にも見られたくなかったのだとしたら。
 これは、早紀さんの望んでいることじゃない。
「さ、あっ! き、さ……ん! は、んっ」
 あたしが望んでも、早紀さんは望んでいない。
 あたしの快楽で、この人を汚しちゃいけない。
「やめ、て……早紀、さん……」
 ショーツの中に潜り込もうとしていた手を掴む。
「……っ!」
 一瞬、熔けた目に意志が戻る。でもそれだけ。彼女は意地になったように、強引にあたしのなかに、指を、突っ込んだ。
「あ!ああぁあぁ……っ!」
 たったそれだけなのに頭の中真っ白。このまますべて委ねてしまいたい快楽。
 中の指が這いずり回るように、引っ掻き回す。
「やめて……やめて、やめてやめてっ!」
 幻惑を断ち切るため、金切り声を上げて最後の抵抗をする。
 耐えなければいけない。一度イッたら、たぶん後はなし崩しだ。
「早紀さん、おねがい! もうやめて。こんなの早紀さんじゃない! だから……ひっ!?」
 だめ、げんかい――
「あ、あ、あ! だ、だめだめ!……やめ……助け、たすけて、早紀さん……早紀!」
 当人に助を求めても、仕方ないのに。
「っ!?」
 早紀さんは何かに驚いたように目を見開いて、あ――
「あ、あぁ……」
 ……手が、止まった。
 絶頂の一ミリ手前で止められた。
 早紀さんは身体を震わせている。
 顔を真っ赤にして、ぶるぶると震えている。
 まるで何かに耐えているみたい。
「う、ううう……!」
 突然、彼女はベッドから飛び退いた。獣のような俊敏さで壁に向かって走り出し……
「うわあああっ!」
 そのまま、額も砕けよと、自分の頭を壁に叩きつけた。
 それはもう、『ゴン!』とか『グシャッ!』とかいう擬音が出そうなくらいに。
 スローモーションのように、彼女がひっくり返った。
「あー……」
 とにかく早紀さんは正気を取り戻したのだろう。でも……何もそこまでしなくても。
「あ……ん。はは……どうしよ、これ」
 寸止めされた身体には、もやもやが溜まりっぱなし。気をしっかり持たないと、一人で続きをやりかねない。
「えー、と」
 とりあえず早紀さんをベッドに戻さないと……たぶん、さっきの倍の時間はかかると思うけど。
 
 
 一時間ほど後、早紀さんは無事に目を覚ました。額が割れたのではないかと心配だったが、たんこぶで済んだのも幸いだ。でも、彼女はあたしと一度も目を合わせようとしなかった。
「ごめんなさい、錫子……」
 俯いたまま、何度もそう繰り返した。
「いや、あたしは……ほら、大丈夫ですから」
 その度にあたしはそう答えた。でも早紀さんとは少し距離をとったまま。壁にもたれるようにして座っているのは、彼女がこれ以上近づかせてくれないからだ。
 そんなやり取りを何度か続けたあと、
「私が、怖くないの」
 早紀さんはポツリとそんなことを言った。
「だいたい、なんであなたがあそこにいたの」
 それは早紀さんを追いかけようとしたら、あいつらに捕まったからで……
「私を探してって、どうしてそんなことを」
「それは……もっと色々お話したかったですし……」
 ありのままを話すと早紀さんは少し呆れたように息を吐いた。
「そう……巻き込んでしまったのね」
「いえ、そんなことは」
「でも見たでしょう、私の本当の姿を。それなのに、あなた……」
 どちらのことを言っているのだろう。
 鎧を纏い、剣を手にした姿か、それとも先程のあられもない姿か……どちらにしても。
「早紀さんは怖くないですけど?」
「……どうして?」
 ようやく彼女はあたしを見てくれた。
「だって、早紀さんはあたしを助けてくれたじゃないですか。助けてくれた人を怖がるわけない」
 あの化け物のほうがよほど怖かったし。
「そりゃ、驚きましたけど……こうしてあたしと喋っているのは早紀さんですよね。さっきあたしを助けてくれたのも、昨日と同じ早紀さんですよね。なら、全然怖くないですよ」
 言葉で説明しようとすると難しい。こういうのは理屈ではないと思うのだ。
「……変わっているね、あなた」
 そして、あたしを背にしながら戦った彼女は、
「私は誰かの為に戦ったことなんか、一回もないのに」
 やはり目を逸らして、言い切った。
「私は自分の欲望を充たすために戦っている。今回だって、気配を逆探知していったらエクリプスがいて、そしてそこにあなたがいただけの話」
「エクリ、プス?」
 聞きなれない単語だった。
「そうでなかったら、あなたのこと、忘れたままだった」
 それはそうじゃないかと思っていた。昨日だってあたしが自己紹介をしようなんて言い出さなければ、名乗ることもなかったはず。あたしたちは元よりそういう関係だ。
 だがやはり、あたしは早紀さんに感謝しなければいけない。
 ただそれだけの関係のはずだったあたしを、命を賭した戦いの最中に彼女は気にかけてくれていた。結果として、あたしはあいつらに指一本触れられることはなかったのだ。
 本意はどうあれ、彼女はあたしを助けてくれた。
 それは間違いない。
「それでもあたしは無事だったんですから、やっぱり感謝されてください。助けてもらって、ありがとうございました」
「――」
 彼女が息を呑んだのがわかった。
あらゆる感情が抜け落ちたような顔であたしを見る。それなのに両方の瞳だけは、まるで母親に見つけられた迷子のようで――
「なにを……何をいうのよ」
 自分でも気づいたのだろう、彼女はすぐに顔を背ける。一瞬だけ見えた白い顔に、少しだけ赤みが戻っていた。
「あなた、本当に変わっているわ」
「実は時々言われます」
 将来の夢に関して、だけど。
 それよりも、早紀さんの表情が幾分柔らかくなっている。それが嬉しかった。
「あなたのことだけ訊いておいて、自分のことを話さないのは卑怯だったね」
 彼女はベッドに身体を預け、静かに語りだした。
「何から話せばいいのかな――」
 昨日と同じように私に許可を求めてから、早紀さんはタバコをくわえた。


「正直、昔にあまりいい印象はないよ……生活も楽じゃなかったし」
 早紀さんは八歳の時に母を亡くし、父はそれ以前に他界していたという。
 実家が神社だというお母さんだが、その写真は一枚もないそうだ。
「……無理、していたんだろうね」
 そして胸元のロザリオを見せてくれた。
 お母さんの唯一の遺品、それがあのロザリオだったのだ。大切に首から提げているのも頷ける。もしかして、実家が神社なのにクリスチャンであろうとしたから、縁を切られたのだろうか。
「それで、私はこの街にきたの」
 お葬式を行い、彼女を引き取ることになったのは父方の叔父だった。彼女が住むことになった針生家……それがあの、噂の幽霊屋敷だ。
「じゃあ、早紀さんは……」
 早紀さんは昨日お姉さんがいると言った。ならば、三年前の一家殺傷事件の当事者……生き残った姉妹の妹が、早紀さん……?!
「そう、私はあの事件の生き残りよ」
 どうでもないことのように、早紀さんは頷いた。
「でも、昨日お姉さんが……」
 気を失う前も『姉様が』と呟いていた。でも、事件があたしの記憶通りなら、姉妹の姉は――
「うん。だから私はこの三年間、姉さんを探してきたの」
 あぁ、そうなのか。
 彼女がこの街に住んでいるわけではないのは、薄々気づいていたけど……行方不明になったお姉さんを探して旅をしていたんだ。
 なのに、あたしは――

『早紀さん、お姉さんがいるんですか』

 なんて、軽率に尋ねてしまっていたんだ。
「その……昨日は、あたし余計なことを……」
「いいよ、気にしてない。教えなかったのは私の方だから」
 彼女の言葉は優しかった。タバコの煙がふわっと、漂う。
「奈々は本当の姉さんじゃなかったけど、すごく仲がよかったんだ。一緒におままごとしたり、鬼ごっこしたり、高校になっても一緒に登下校してたし……針生の家で、私と喋ってくれるのは姉さんだけだったから」
 引き取られた後の扱いは、早紀さんの苗字が未だに『矢桐』であることに顕著に顕れている。針生家は早紀さんを引き取っても、決して養子にはしなかったのだ。
 それにも関わらず、早紀さんがそれほどまでに慕っているお義姉さん、針生奈々さんは優しい人だったのだろう。
「姉さんはいつも私を守ってくれた……それなのに私は、何もできなかった」
 殺害された叔父夫婦は、何かに噛み千切られ、遺体の『一部』しか発見されていない。一時は野生動物の仕業とも疑われたほどだ。勿論この街には熊の住むような山はないし、サーカスの猛獣が逃げ出した話も聞いたことがない。
「結局、行方のわからない姉さんも容疑者の一人になった。絶対に違うって言っても信用してもらえなかった……仕方ないよね、私もその時の記憶がないんだから……」
 記憶が、ない?
「早紀さんも襲われたんですよね? 覚えて、ないんですか」
「うん、何があったのか少しも思い出せない。警察が来たときには庭に転がっていたらしくて……そのせいで疑われたりもしたけどね」
 殺人の現場に息のある者がいたら、警察は間違いなくその人を疑うだろう。それ以上のことを早紀さんは言わないけど、きっと激しい取調べとかがあったに違いない。
 それにしても記憶喪失とは……頭に強い衝撃を受けると記憶が失われることはあるし、脳が自らその部分の記憶を封印してしまうこともあると聞く。
 早紀さんの場合は、どちらなのか――もしかすると、両方なのか。
「退院して、警察からも開放されるまで一ヶ月くらいかかったかな。その間に針生の親族会議で私を施設に預けることに決まっていた。それを断って、私は……」
 そして、行方不明の姉を捜して現在に至る……というわけだ。
「私は自分の手で、姉さんの疑いを晴らしたかった。姉さんは何も悪いことはしていないって、証明したかった」
 彼女が今も旅を続けているということは、未だにその願いは叶えられていない。
「そして何より、姉さんは生きているって、信じたかった」
 そしておそらく、その日まで彼女は消えた姉を追い続けるのだろう。
「それに、今だから思えることだけど――」
 早紀さんがタバコを携帯灰皿で揉み消した。表情から憂いが消える。
「あれは、エクリプスがやった可能性もある」
 まさに、仇の名を呼ぶように、彼女は先ほどの不可解な単語を口にした。
 早紀さんの目は、剣を手にした時のそれだった。
「それはそうと……」
 途端に、早紀さんは表情を和らげた。
「長話になってしまったわね。お腹すかない?」
 そういえば朝ごはん以来何も口にいれていなかった。こちらも表情が緩むところだが、早紀さん劇的な表情の変化は、それ以上にあたしを不安にさせた。
 
 
 さて、突然だが今あたしは公衆電話の前に立っている。
 十円玉を何枚か入れてから大きく息を吸った。
 受話器を握る手がじっとりと汗ばんでいる。
「ううぅ……」
 視線だけで振り返れば、早紀さんが『がんばれ』とでも言いたげな目でこちらを見ている……やはりもう後には引けない。電話番号を押すたびに心臓の鼓動が早くなる。
 呼び出し音がもどかしい。このまま出ないで欲しい気持ちと、すぐに出て欲しい気持ち。その両方があるあたしとしては、この時間はいいようのない辛さだ。
 
「何か食べに行こうか」
 そう言ったのは早紀さんだった。
 彼女はまず、携帯電話はもっているかと尋ねた。持っているけれど壊れてしまった、と言うと、突然そんなことを言い出したのである。
 時間はまだ八時前、街まで歩いても店は十分に開いている時間だった。気がかりなのは早紀さんの怪我だったけれど、本人が行きたいという以上断る理由が無い……正直、あたしもお腹がすいていた。しかしながら早紀さんには別の目論見があったのだ。
 さすがに勝手知ったる街だけあって、早紀さんの案内ですぐに繁華街まで辿り着いた。駅前ともまた違う夜の街は、ネオンだけでなく人の顔も明るい。おじさんたちが居酒屋に消えていき、コンビニでは部活帰りの学生たちが寄り道がてらに軽食を取っていたりする。
 さてどんな店がいいのかとキョロキョロしていると、早紀さんはおもむろにコンビニの公衆電話を指差した。
「家の人に連絡してあげて。きっと心配しているわ」
 これまで家に連絡しなかったのは、携帯が壊れていたからだけではない。逃げるように家出をしたのが昨日の夜。それなのにたった一日で電話しては、格好がつかないどころかミジメにすら思える。
 だが早紀さんは、そんなものは些細なことだと言った。。
「なら、これから何日間は帰らない、って堂々と言えばいい。家族に心配をかけるための家出じゃないでしょう?」
 つくづく大人である。あたしにそんな考えはできない。でもその時のあたしは違うところに驚いていた。
「何日間って……あの、一緒にいていいんですか?」
「本当なら家に帰ってほしいよ。でも、あのとき逃がした一匹があなたを逆恨みしないとも限らない。だからヤツを仕留めるまで、私があなたを守る」
 あたしは早紀さんに何度もお礼を言った。照れているわけではないだろうが、彼女はその間ずっとそっぽを向いてタバコをくわえていた。
 あたしの家出は無駄ではなかった……いや、無駄にならなかった。
 だが、母さんたちを心配させるために飛び出したわけではないのも、確かなのだ。

『……はい、楯岡です』
 呼び出し音が切れ、一日ぶりの母さんの声が聞こえた。疲れているのがすぐにわかる声だった。あたしは一度唾を飲み込んでから、言った。
「お母さん、あたし」
『え……錫子!? どこ、今どこにいるの!? 無事なの!?』
 すごい慌てようだ。あたしはなるべく簡潔に現在地と現状を伝えた。早紀さんのことや怪物のことはありのまま伝えず、友達と一緒にいるとだけ言った。
『そ、そうなの……よかった。あれから携帯も繋がらないし、もしかして何か事故にでもあったのかと思って、今日帰ってこなかったら警察に連絡しなきゃとか……あ、お父さんには言ったんだけど』
 やっぱり、心配させてしまっていたんだ。
「うん、そういうのは大丈夫だから……その、お母さん」
 なら、言わなきゃ。
「心配かけて、ごめんなさい」
 後ろで早紀さんが小さく頷いたのがわかった。
『え、えぇ……でもお母さんもごめんなさい。あなたの書いたものを勝手に読んでしまって……それにあなたのことも』
「あ、あー、もういいから……それで、なんだけど」
 もうニ、三日外にいたいということを伝える。胸の痞えがとれたような感じで、幾分楽に言うことができた。
『そりゃ明日は土曜日だけど……』
 そう、ここからが本題。
 こんな電話をしている時点で、あたしの家出は終わっている。もともと明確な目的もなく、家を飛び出しただけ。はじめから家出なんて呼べない、衝動に任せただけの八つ当たりだった。
 でも今は違う。今のあたしには目的がある。
 世の中には、あたしの知らない――いや、誰も知らない影の世界があった。そしてそこには、我が物顔で暴虐を行う怪物と、身を削って戦う一人の女の人がいた。
 知ってしまった以上、知らないふりはできない。運命とか占いとか信じるほうじゃないけど、この出会いにはきっと意味がある。
『本当に危なくないのよね? 必ず帰ってくるのよね?』
 危なくないわけがない。早紀さんとともに行動すれば、また戦いになるかもしれないし、そうなれば命の保証はない。自分の命どころか、あたしという足かせをつけては早紀さんの命も危険に晒す。
 きっとあたしは最低だ。自分の都合で母さんに更に心配をかけ、早紀さんに迷惑をかける。でも、それでも。
「うん、大丈夫だから。きっと」
 早紀さんの背中で紅く輝いていた翼を見たとき、あたしは夢でしか逢えない天使に出逢えた気がした。もちろん彼女とは別人だろうけど、そんな気がしたのだ。
 翼があったから、だけじゃない。
 
 ――もう、大丈夫よ。
 
 そう言った天使はあたしを救ってくれたのだろう。それを覚えていないだけで、もしあの声の主がいなければ、あたしはこの場所にいないかもしれない。
 そしてまた、早紀さんもあたしを救ってくれた。その早紀さんのことを、もっと知りたい。暗闇の中を一人で戦い続けるこの人を、少しでも知らせてほしい。
 自分でも何を言いたいのかわからないけど、何もしてあげられないだろうけど、彼女のことを誰もわかってくれないなら、せめてあたしだけでも――
「お願い、お母さん」
『……わかった。言い出したら聞かないものね』
 ありがとう、母さん。
『お友達と一緒なんでしょ? 近くにいるなら代わってほしいのだけど』
 どうしようか迷いながら早紀さんに受話器を向けて合図する。出たくないなら断ってくれてもいいのに、彼女は少し困った顔をしながら電話に出てくれた。
「はい、代わりました……え、えぇ、いやこちらこそ……はい矢桐といいます。え? い、いえ、そうではありませんが……はい……はい、わかりました。はい……」
 どんな会話をしたのか気にしながら、早紀さんから受話器を受け取る。
『矢桐さんに迷惑かけちゃだめよ。後でお礼しなきゃ』
「そうだね」
『……気をつけてね。何かあったらすぐに連絡するのよ』
「うん、それじゃ……」
 受話器を置く。おつりは返ってこなかった。
「ごめんなさい、母さん何か変なこと言ってなかったですか?」
「いえ、何も。いいお母さんね」
 あ……
「さ、食べに行きましょう。何がいい?」
 ――やはり、あたしは最低だ。


 近場のファミリーレストランを出ると、時計の針は九時を回ったところだった。
「こんなのでよかったの?」
「とんでもない! ご馳走さまでした」
 晩御飯は全部早紀さんの奢り。どうしてもお金を払わせてくれなかったのだ。
「それに、せっかくのご飯時にあんな話させてしまって……」
「いえ、話そうと思っていたことだったし」
今は近場にあるという銭湯を目指しているところだ。昨日からお風呂には入ってないし、それにあたし……お漏らししたんだっけ。さすがに出かける前に着替えてはきたけれど。
 絶えない人ごみの中、早紀さんの背中を追いかけながら歩く。この背中に、片方だけの翼があったのだ。紅い羽根は血で濡れたようで、天使というにはあまりにも痛々しすぎた。
 たった今聞いたこと――エクリプスが、人の欲望のかたちだというのなら、早紀さんは何になりたかったのだろう……
「錫子」
 不意に早紀さんが歩みをやめ、あたしはその背中にぶつかりそうになる。
「なるべく人の多いところ、明るいところにいなさい」
 厳しい声が振り返ることなくかけられる。
 それは、彼女が『切り替わった』合図だった。
「そして十分経っても私が戻らなかったら、そのときはすぐに家に帰りなさい」
 有無を言わせない凄み。彼女はすばやくあたしから離れていく。
 彼女はまた、戦う気だ。さっきの傷だって完治したわけではないはずなのに。
「さ、早紀さん待って――」
「逃がしたヤツかもしれない。今度こそ仕留める」
 あたしの声も、早紀さんの姿も、あっという間に雑踏に掻き消されてしまう。
「そんな……」
 ここは人だらけの繁華街。人が歩き、車が走り、街自体がきらびやかな光を放っている、人間の場所だ。それなのに、あの怪物が……エクリプスがいるというのか。
 あたしは思い出す。さっきのレストランでの話。早紀さんが教えてくれた、エクリプスという異形の話の断片を。

「世の中には知らないほうがいいこともある……知らないまま何事も無ければ一番いいのだけど、あなたは見てしまった。なら、知らないのは危険だ」
 彼女の口から何度か出た単語の意味を尋ねると、早紀さんはそう答えた。
「あなたも見たでしょう。あの化け物、そして私がそうよ」
 エクリプス――あたしの知識が間違っていないなら、『eclipse』には日食とか失墜などの意味があったはず。化け物の名前には不釣合いな気もするが……って、え?
「早紀さん、も……?」
 彼女は静かに頷く。
「エクリプスは自分の欲望に何よりも忠実で、それを充たすためなら何でもする。そういう生き物」
 たとえば、女の人を壊すように犯し、飽きたら躊躇い無く殺す……確かにあの怪物たちはそうだった。
「で、でも早紀さんは」
 姿だって違いすぎるし、それに……
「同じよ」
 彼女はにべも無い。押し殺した声で事実のみを語る。
「殺したいからあのエクリプスを殺したし、犯したいからあなたを犯した……一緒よ、私も」
「違う、全然違います!」
 あたしを助けたのが結果論であっても、戦いが終わったあと、彼女はあたしを気遣ってくれた。あれが嘘だとは思えない。
「錫子、あなたは私を信用しすぎる」
 それらがすべて、あたしの都合のよい解釈だと彼女は切り捨てる。
「それともう少し静かに、ね?」
 まばらな客や店員が何事かとあたしを注視していた。
「す、すいません……」
 赤い顔をうつむけて椅子に座るのを見て、彼女は話しを続けた。
 曰く、エクリプスとは人間の変化したものである。何らかの理由で怪物の形に堕ちた人間、それがエクリプス。つまり、昼間の蟹もカメレオンももとは人間だったのだ。奴らが人間の姿をしているのは、そのほうが狩りをしやすいからに他ならない。
 早紀さんは理性を欲望と本能が上回った結果ではないかと言った。欲望に負けて、塗り潰された成れの果て――だとしたら、エクリプスという名称も言えて妙だ。誰かが名づけたものだとすれば、そいつは素晴らしい語彙の持ち主か、もしくはとんだ皮肉屋だろう。
「それ以上は私にもわからない。私は、自分がいつエクリプスになったのかもわからないのだから……」
 早紀さんは僅かに瞳を不安で曇らせる。
「気づいたのは針生の屋敷を出てすぐの頃だった。背筋が寒くなるような気配に誘われた先で、私は初めて奴らを見た」
 怖かった、と早紀さんは自分の肩に手を回した。
「でも、すぐに理解したよ。私はこいつらを殺したがっていて、私にはその力があると」
 以来、早紀さんはお義姉さんを探す旅の傍ら、各地のエクリプスを狩りつづけている。まるで――人知れず世界を守り続ける『正義の味方』のように……
「敵への恐怖も自分への違和感も、回数を重ねるほど希薄になっていく。異常を異常と感じなくなる……欲望に負けるって、そういうことなんだろうね」
 聖人ではないあたしたちは、少なからず暗くて黒い欲望を持っている。早紀さんの場合どういうわけか、それが『エクリプスを殺したい』というものだった。それゆえに早紀さんは戦うだけ。そこに正義も悪もない。
 それにしても、どうして早紀さんは『エクリプスを殺したい』などと思ったのだろうか。どんな欲望にも理由があるはず。
 いや、理由があるから欲望を――願うのではないか。
 早紀さんにはそれがないという。彼女は自分の欲望と言うが、その理由を彼女は知らない――もしかしたらその根源は、尊いものなのかもしれないのに。
「とにかく……これから先、エクリプスなんてものに関わろうとしないほうがいい。私と別れたら、そうしなさい」
 早紀さんの目は真剣で、あたしの不毛な空想を一瞬で断ち切ってしまった。
「でも忘れてもいけない。いつだって、あいつらは誰かを狙っているのだから」

「あ、あれ?」
 震えが止まらない。
 ガタガタガタと、全身で恐怖している。
「おかしいな――」
 寒くもないのに、鳥肌が立つ。
 襲われてからさっきまでは、とにかく無我夢中だったし、何よりどんな状態でも早紀さんが隣にいてくれた。でも今、あたしは一人……あぁ、そうか。だから、あたしはようやく恐怖しているんだ。
 こんなに人は大勢いるのに、こんなに明るいのに、この瞬間のあたしは無防備そのもの。
 この人ごみの中にいったいどれだけのエクリプスがいるのだろう。醜悪な姿を人間のかたちで隠し、平然と歩いているかもしれないのだ。
 とうとう耐え切れず、膝をついて身を小さくする。
 俯けた顔を上げるのが怖い――もし誰かがこちらを見下ろしていたら。
 誰かが背後に立つのが怖い――もし誰かがあたしの肩を叩いたなら。
 雑踏に耳を傾けるのが怖い――もし誰かが昼間のように声をかけてきたのなら。
 時間が経つのが怖い――もしこのまま灯りが消えたら。
 知らなかった。
 あたしの周りが、こんなに怖いものだらけなんて。
「でも……早紀さんは」
 異常を異常と感じなくなると彼女は言った。
 なら彼女はエクリプスと同時に、恐怖を恐怖と思わなくなる恐怖と戦っているのだ。
 おそらく決定的な違いはそこにある。
 本能を理性で抑え、衝動を感情で御しているからこそ、彼女は早紀さんでいられる。
 流されれば他の化け物と同じになる。エクリプスと人間を分ける彼岸で、彼女は必死にもがいているのだ。
「戦っているんだよね」
 あたしにその術はなく、彼女を救ってあげることもできないけど、それならせめて、顔くらい上げないと。
 どんなに怖くても、一人で逃げ出したりしない。もうすぐ戻ってくるはずの早紀さんを待っていないと。

                 *

 早紀が望むにしろ望まぬにしろ、状況は選択の余地を与えない。裏路地を覆う彼女の影の領域の中で、怯える命を背に剣を振るう。もっとも、『彼』が真におびえているのは、いったいどちらになのかは、定かではないが。
「ハッ、は、あ――」
 不規則な呼吸は、獣の喘ぎそのもの。だがそれは、苦悶の声ではなかった。
 ひとを超越した力をもって、ヒトを喰らう魔物を、人には過ぎた剣で斬る。彼女もまた、魔物に相違ない。
 証拠ならば、彼女の顔をこそ見るがいい。眦が裂けるほど見開かれた眼は血走り、唇は恍惚と狂悦で歪んでいるではないか。
 化生の心臓は狂ったように血流を廻し、異形の神経は踊るように身体を突き動かし、魔人の身体は筋肉の断裂も厭わず戦い続ける。後の痛みや虚脱など、この刹那の対価ならば安いものと、矢桐早紀は影魔としての真価を発揮していく。
 太刀筋は好調、斬るたびに絶頂。
 迫る標的を、より早くより速く斬り続けるだけ。
 飽くことの無い単純作業が、彼女にとっては何にも勝る自慰行為。
「う、ふっ……ふふ、は――」
 敵は一個ではない。数は十を下るまい。
 まるで幾重にも襲い来る荒波のように、何匹も何度も、その長い身体を駆使し彼女に喰らいつこうとする。大人の両手でも包みきれない太さの姿は、まるで蛇……いや、その全身を覆う鱗と頭長にいただく二本の角は、まさに西洋竜の首のようだ。
 足元に広がる影から強襲をかけ、早紀の剣で弾かれるたびに再び汚濁の沼に潜る……訂正しよう。目も鼻もないソレは、やはり神格などとは程遠い。こんなもの、単なる捕食器官に過ぎない。ただ感じるすべてを呑み込み、噛み砕こうとする下等な使い魔だ。
 早紀はステップを踏むように跳ね回り、どれも寸前で回避し続ける。ぬるい攻撃だと嘲笑う。
「ハ……!」
 重心を持たないそれらを斬るのは易しくない。宙を漂う紐を切ることが困難なように、これに対する切断作業も技術を要する。ただ剣を振り回すだけでは掠ることさえないだろう。
 だが、彼女は斬ることのみに精通したエクリプス、技量は十分に、方法は無限に持っている。ならば一見拮抗にも見えるこの現状の意味することは、たった一つ。
「は……はは、あ、はっ!」
 多くの影魔が牝の陵辱を好むのと同じく、彼女は何よりも『同族』の血を好む。
 エクリプスを切り裂くことこそ、彼女にとって最上の快楽。その命の略奪こそ、彼女にとって至上の陵辱。
 疑いようも無い。このエクリプス――矢桐早紀は、愉しんでいる。故にこの時を一瞬でも延ばそうと、弱い獲物を嬲って遊んでいる。

『だって、早紀さんはあたしを助けてくれたじゃないですか。助けてくれた人を怖がるわけない』

 楯岡錫子は早紀が自分を助けてくれたものと思い込んでいた。彼女を裏切るつもりはないが、それは美化が過ぎる。
 早紀はエクリプスだ。抑えつけている欲望を解き放つことに、躊躇も負い目もない。純粋な欲望の前にはどれだけ崇高な使命も矜持も、ガラスの防壁に等しい。
 気配を察した早紀がこの戦いに赴いたのは、確かに錫子のためだった。彼女を再度狙うかもしれない昼間のエクリプスを、一刻も早く仕留めたいという気持ちがあった。そうすれば錫子が襲われる憂いはなくなる――彼女としては珍しく、単純な衝動に駆られただけではなかった。
 ところが、蓋を開けてみれば、このザマ。
 ましてや、今の『矢桐早紀』は昼間の戦闘で消耗している。身体の修復に大量の生命力を要したことが、彼女の意識を磨耗させてしまっていた。強引に抑えられていた影魔が、燻り続けていた恨みを晴らすように、より強くその感情を発現させている。
 すぐに片付けることのできる敵だからこそ、歯ごたえのなさを感じてしまう。もう少しだけ長く、どうせ簡単に殺せるのだからあと少しだけ――惰眠をむさぼるごとく、約束の十分など、とっくにすぎてしまった。
 しかしながら、守るものなど初めから何も持たない彼女の、これが本来の姿。己の欲するまま戦う彼女を見ても、錫子は同じ想いを抱けるだろうか。
「……」
 昂揚しきった胸に、小さな違和感が生まれた。
 そんな些細なことを意識する間もなく、無貌の龍もどきの攻勢が激しさを増す。
 両手で握った剣の心地よい重さ。突っ込んでくる能無しに、体をさばいて剣のみをかざす。そいつは自分の速度も加わって、なぞるように口から裂けるように斬られていく。
 所詮、これらはエクリプスの触手に過ぎない。影魔に直接使役されてこそ、本来の力を発揮するのだ。本体から離れて行動する使い魔ごとき、何匹いようと相手にならない。
「……?」
 再び、違和感。
 一瞬だけ、ビジョンがぶれた。
 脚に噛み付こうとする一匹を爪先のエッジで軽く蹴り飛ばす。どす黒い体液を撒き散らし吹っ飛ぶ触手に追い討ちをかけるように投擲刃が輪切りにする。
 圧倒的な物量ならいざ知らず、少数の散発的な攻撃など意味を成さないとわかっているだろうに、触手たちは無謀にも挑みかかって――
「……!?」
 違和感が次第に実感に変わっていく。
 確かなノイズが、鼓膜を振るわせた。

『早紀ちゃん、眠れないの? なら姉様が物語を聞かせて――』

 こんなときに、そんなどうでもいいことを、思い出した。
 脳が痙攣し、筋肉が弛緩する。不愉快な衝動を、早紀は重たい剣に込めて叩きつけた。

『そうね、こんなお話はどう? きれいなお姫さまが、悪い竜にさらわれちゃう話でね――』

 大きく空振りをして体勢を崩してしまう。鈍った太刀筋では、この触手を斬ることはできない。もし、この場に本体のエクリプスがいたなら、今の一瞬であの時と同じ結末になって――『あの時』?
「どう、して」
 頭痛とともに結論に至る。違和感の正体は既知感だった。
 これまで遭遇した影魔ではありえない。こんな触手を持つエクリプスとやりあった記憶はない。そのはずなのに――
「なんで……っ」
 戦ったことがあるのに、知らない。知らないのに、識っている。奇妙な矛盾が彼女の均衡を脅かす。
 このエクリプスと遭ってはならないと、全身の細胞が警告している。

『怖がらないで。最後には勇敢な騎士さまが、ちゃんとお姫さまを――』

 だから、なぜ、これを思い出すのだ。
 どうして、いなくなった、姉との思い出を、今――
「こんなっ!」
 もはや雑魚をいたぶる快感はない。あるのは頭痛と吐き気のみ。
 この敵は要らないことを思い出させる。忘れたままでいいことを……彼女の罪を暴いて曝け出そうとする。
 ――せっかく、(誰かが)『忘れさせてくれた』というのに?

「早紀ちゃん、助けて……早紀――」

 白い汚辱にまみれた姉と、

「ほら、あそぼう早紀ちゃん――」

 紅い血に濡れた姉の姿なんか。

「ひぃっ!?」
 どんな醜悪な怪物にも怯まなかった彼女が、虚像に身を竦め、自ら剣を手放した。
 あるはずのない幻覚が、彼女の闘争心を消し去っていた。
 聞こえるはずのない幻聴が、彼女の戦意を奪い去っていた。
 弱肉強食の関係が瞬時に反転する。
 獲物に成り下がった彼女の腹に、一匹の竜状触手が喰らいついた。
「っっ!」
 装甲を破り体内に突き刺さらんと力を込める。引き剥がすこともできす、もたついている間に第二、第三の顎が彼女に狙いを定めていた。
「ファランクス……」
 もう余裕はない。早紀は自らの影から大量の触手槍を召喚する。触手は大抵のエクリプスが持つ陵辱器官だ。しかし彼女はそれさえも武器とし、敵を切り殺す。
 だがそのコントロールが安定しない。意識が混沌とし、思考が破線で乱れている。
 たった今見た幻が、未だに彼女の脳をかき回している。うねる槍は虚しく宙を彷徨うばかり。
「ぐ、あっ……ぁ!」
 鎧が貫通された。
 牙が皮膚を突き破り、口が肉を喰らう。殺到する触手が、彼女を喰いちぎろうと顎の外れた大口を開ける。
「……ぁぁあ」
 痛い、と神経が喚きたてる。
 殺される、と脳が絶望に叫ぶ。
 悔しい、と心が砕ける。
 また。
 大切なものはいつも、どこかへと消えていく。
 母も、姉も、このままでは、出逢ったばかりのあの少女も。
 それならば、いったい何のために――誰のために、こんな力をほしいと、思ったのか。
「やだ……」
 憶えていない。
 矢桐早紀は、何ゆえエクリプスに堕ちたのか。
 堕ちるほど強く、何を想い願ったのか。
 
『それでもあたしは無事だったんですから、やっぱり感謝されてください。助けてもらって、ありがとうございました』
 
 何故、あの言葉があんなに嬉しかったのか。
 憶えていない。核心の部分はすべて忘れてしまっている。だが――
「いやだ……」
 ――たった今。守る、と約束した。
 あの少女を守ると、いつか姉に誓ったように。
 死とは、その誓いを彼女自ら反故にすること。三度目の後悔にまみれたまま、矢桐早紀は消滅することになる。
「それはもう、嫌なんだ」
 憶えていなくとも、心に刻み付けられた聖約はいきている。影魔と人間を隔てる最後の境界で、彼女は意識を引き戻した。
「貫け――」
 血を吐きながら早紀が吼える。迷走していた槍の一つひとつに意志が宿り、猟犬の如く牙に牙を向く。
「そして、斬り裂け!」
 号令の元、内部から寸断。刃と変じた矛先が、竜紛いの触手を肉塊へと変え、穢れた飛沫を撒き散らす。
 まさに一瞬。獰猛な牙の群れは鋭利な刃の大群によって制圧された。
「く、はぁ、はァ……あ、ハァ……」
 早紀は息を上げ、膝をつき、身体を折り曲げる。
 それでも油断するとこなく、周囲の気配を探る。近くに本体の影魔がいる可能性は十分にあるからだ。
「どこだ……」
 気配を感じることができない。本体は遠くにいるのか、あるいは彼女が疲弊しすぎているのか。三分以上かけて警戒し続けるも、やはり何も感じることはできなかった。
 大きく息を吸い、気を落ち着ける。
 腹部をはじめ、全身の噛み付かれた箇所を、鎧から染み出した黒い粘液が覆い、蠢動する。これは早紀の意志だが、そうしなくともダメージはエクリプスが強制的に再生させてしまう。彼女の身体の主導権を奪えないとはいえ、本体ともいえる早紀の肉体の崩壊は影魔の消滅を意味するのだ。
 痛みだけを残し、傷が塞がっていく。役目を終えた液状の影はかさぶたのように剥離していく。しかし、治療の代価は彼女自身の生命力に他ならない。深い傷を癒せば彼女の意識が遠のき、今までのようにエクリプスによる意識の台頭を許すことになる。
「あ、あぁ……はぁ」
 膝をついたまま、両手を握り締め強く意志を保つ。神への祈りを持たずに、己の影を抑える。
 自ら展開した影の空間を解除する。暗い世界からドブ臭い現実空間へと戻ると、今度は身体全体からエクリプスが乖離し、粘液となって彼女の影へと戻っていく。
 異形から人間へと、一瞬時に肉体的な進化を逆行した早紀の身体を深い衰弱が襲う。その虚脱に彼女はしばらく自立さえ困難となる。
 限界を超えて酷使されていた身体が重く、痛い。しかし、それよりもたった今垣間見た幻の方が、彼女の心を深く抉る。
「今の、は」
 あり得ない幻聴とあってはならない幻覚。
 そう、あれは幻。彼女はあんな姿の姉は知らないし、憶えてもいない。昂揚しすぎた脳が見せた、悪い夢に違いなかった。
 忘れよう。
 傷がおおかた塞がっていることを確認して、早紀は身を起こした。ようやく『彼』の存在を思い出すだけの余裕ができた。
 彼女がここに着いたとき、仲間は既に食われてしまっていた。残されたのは小さな『彼』だけだった。異常事態の終了を敏感に察知したのか、縮めていた体で低く唸っている。
 普段の彼女ならば、決してしないだろう。彼女は自らが助けた小さな命に、恐るおそる手を伸ばしてみた。だが――
「……っ」
 『彼』はその指に強く噛み付く。思わず手を引っ込めた間に、斑模様の子猫はすばやく闇の中に駆けていった。夜の黒にとけていく白い尻尾と、指につけられた傷を交互に見比べる。
「ごめん……」
 自惚れていた。
 自分が助けたと思っていた。
 所詮、彼女は衝動に任せて戦うだけの影魔。たとえ誰かの命を救っても、自分も恐怖の対象であることに変わりは無い。
 本来の彼女には助ける気がないし、向こうも助けられたとは思わない。それでいいと、思っていた。
 それを当然と受け入れてきたのに、錫子の言葉が僅かに期待させてしまった。
「長く、居すぎた……」
 約束の十分はとうに過ぎ、錫子は帰ってしまったかもしれない。それならそれでかまわない。でももし――もし錫子が待っていたら、そのときは。
「ちゃんと、言わないと」
 錫子の存在が自分を人間に繋ぎとめていてくれると、早紀は思った。
 
                  * 
 
 早紀さんが消えてから十五分が過ぎた。シャッターを下ろしたショーウインドウに身体を預け、あたしは待ち続けていた。震えはまだ止まってくれないが、どうにかこうして立っている。
 時間が長い。でも灯りが消えていくのは早い。人の数も徐々に減り始めている。心細くてキョロキョロしながら待つあたしは、ふと隣を見て――かなり、驚いた。
「いつの間に」
 思わず独り言を呟いてしまう。
 それほど意外だった。塾だか予備校だかに行っているなら、この時間に外にいても別に不思議でもないが……近くで塾は見かけていないし、鞄の類を持っていないのも不思議だ。
 所在なげに、同じシャッターにもたれかかる女の子。あの制服はあたしの学校のものだし、市松人形とまで言われてしまった古風な髪形、理性の輝きを感じさせる秀麗な横顔は見間違えない――鍬原彩が、あたしのすぐ隣にいた。
 最後に会ったのは昨日の放課後の図書室だった。お互い親しいわけでもないし、あたしは私服だから尚更気づかないのだろう。
 鍬原さんは、ぼんやりと暗い空を見上げていた。時々ため息をつきながら、腕時計を気にしている。誰かを待っているのだろうか。
 声をかけようかどうか、迷いながらチラリと様子を覗き見ると――
「あ」
 ジャストタイミングで彼女と目があってしまった。
 向こうも結構、驚いている。
 こうなるとお互い知らない振りをすることもできない。
「あの、鍬原さん」
 言葉が口を出た瞬間、やっぱり後悔した。
 声をかけたところで、会話は続かないし、逆にお互い気まずいだけ。だいたい、あたしは今日学校をサボっているのだ。真面目な鍬原さんからしてみれば、立派な不良生徒の仲間入りだろう……って、あたしが家出したことなんて知るわけがないか。ただでさえ違うクラスなのだし。
「こ、こんばんは……意外だね、こんなところで会うなんて」
 月並みな挨拶をしてみる。
「昨日は、ありがとう……」
 鍬原さんが軽く会釈する。あたし何か特別なことしたっけ? 喋ったりはしてないはずだけど。
「もしかして、誰か待ってるの?」
 案の定会話が途切れてしまったので、なるべく自然に尋ねてみる。
「いえ、別に」
 即答だった。やはり会話は続かない。
 うう、居づらい……でも早紀さんと分かれた場所がここだから、あまり動くわけにはいかないのだ。
「楯岡さんは――」
 鍬原さんが口を開いた。彼女があたしの名前を覚えているとは思わず、そちらにも少し戸惑う。
「楯岡さんは、いいよね」
 あたしに視線を合わせることなく、地面を凝視したまま、彼女は言った。まるで、そこに何か汚らわしいものでもあるように。
「え……?」
 少なくとも、褒めてくれたわけではないはずだ。あの眼は、むしろ――いや、そんなこと、あるわけない。だってあたしと彼女には、それほどの接点はないのだから。
 彼女がそれ以上言葉を続けることはなかった。あたしもそれ以上会話をつなげることができず、更に五分が経った。
「錫子!」
 聴き慣れてきた声がかけられる。振り向くと早紀さんがいた。
 肩で息をしながら、額には汗を滲ませて、疲労の色がはっきりと見える。やはり、楽ではないのだろう。
 時間はかかったけれど、ともかく彼女はちゃんと帰ってきてくれた。
「待たせて、ごめん……」
「全然へいきです! それより、早紀さんの方こそ……」
「私は大丈夫……その、後ろの人は?」
 早紀さんがあたしの背後を注視している。鍬原さんも早紀さんを見ていた。
「あ、この人は学校の友達の――」
「楯岡さん、わたしはこれで」
 あたしにしたように小さく頭を下げ、彼女はくるりと背を向けた。
「ちょ、ちょっと」
 止める間もなく、彼女はずんずんと去っていく。
「友達?」
 早紀さんも訝しげにその背中を見送った。
「そんなに深い知り合いでもないんですけどね」
 あたしは頭を掻きながら、言いよどんだ。今の鍬原さんは、わからないことだらけだ。でも別に彼女に悪意があるわけではないだろうし。
「そう……行こうか」
 あたしたちは鍬原さんとは反対の方向に歩き出した。今度は二人並んで歩く。
「ごめん、違うヤツだった」
 すぐに早紀さんが頭を垂れた。
「そうですか……」
 なんて返事すればいいか、わからずにまごついていると――
「錫子、ありがとう」
 穏やかな声が、届いた。
 いきなりすぎて、尚更返事が思いつかなかった。
「私、途中からあなたのこと、どうでもよくなっていた。戦うことに夢中になっていた」
 彼女は隠すことなく、あたしに告げた。
 戦うことに酔っていたと。敵を殺す快感に震えていたと。
「だから……もう、いないかなって思っていた」
 そんなこと――
「でも、あなたは待っていてくれた。だから、ありがとう」
 そんなこと、当然じゃないの。
「……っ、錫子?」
 少し冷たい彼女の手を、あたしはぎゅっと握り締める。薬指に小さな傷があった。
「もう簡単に逃げたりしません」
 誰がなんと言おうと――たとえ彼女自身が否定しようと、あたしは言い切ってやる。
「きっと早紀さんが好きなんですよ、あたし」
 この人はエクリプスなんかじゃない。
 すごく暖かい、普通の人だ。
「な……何をいうのよ、あなたは」
「駄目ですか?」
「だめって……駄目じゃない、けど」
 からかうつもりは無いけど、ついつい――でも、少しでも笑ってほしいのだ。
 出会ってたった一日の人にこんなこと言うのもおかしいけど、やっぱり理屈ではないのだ、こういうのは。
「嫌いな人と一緒にいたいなんて思いませんから。そういうことです」
 あたしたちは夜の街を歩く。
 人の数が減っても、震えることはない。明かりが小さくなっても、恐れることもない。
「錫子……」
 早紀さんの手が、しっかりと握り返してくれる。
「ありがとう――あなたがいるから、私は今も人間でいられる」
 あぁ、何度でも言おう。
 この人は人間だ。
 だって、こんなに優しい声で、ありがとうって言えるのだから。

 早紀さんのお風呂は長かった。とにかく長かった。
 その身体は周囲のおばさん方の注目を一身に集めていたが、慣れているのかそんなこと何処吹く風と、彼女は置物のように湯船に浸かっていたのだ。
 あたしは先にのぼせ上がってしまい、脱衣所でフルーツ牛乳を飲んでいる有様だった。
 とにかく、ゆっくりさっぱりした後、教会に戻ってきたときには日付が変わろうとしていた。
「紙と鉛筆、貸してくれない?」
 あたしが寝る支度を終えると、早紀さんがそんなことを尋ねてきた。
「こんなのしかないですけど、いいですか?」
 例のノートの比較的無事なページとシャープペンを差し出すと――彼女の手が魔法のように動き始めた。
 シャッシャッ、とリズミカルに芯が紙を滑る。早紀さんは時々あたしを見ながら、何かを描いていく。
 十分もしないうちに、ソレはかたちになっていた。
「す、すごい……すごいです、早紀さん! どうしたんですかこれ!」
 どうしたもこうしたも、たった今早紀さんが描いたのだが、思わずそう言わずにいられない出来だった。
「これでも中学、高校は美術部だったから」
 少しはにかみながら早紀さんはペンを動かしていく。聞けば、お義姉さんに連れられるようにずっと美術部だったという。
 優雅に舞う長髪、風にたなびく衣、そして大きな二枚の翼――一人の天使が、彼女によって描かれていく。
「天使のお話を書いているんだよね? 少しでも、イメージの助けになればと思って」
 あたしのイメージなんか、遥かに超越している出来栄えだった。
「いまいちだね……好きになれないから、上手く描けないのかな」
 十分に上手だと思うのだが、早紀さんは納得がいかなそうだ。絵心が皆無なあたしから見れば贅沢な悩みである。
「好きになれないって、天使がですか?」
 だがそれよりも、そちらのほうが引っかかった。
「どうしてか知らないけどね」
 早紀さんのペンが止まる。そこには一つの芸術があった。とても即興で描いたとは思えない。しかし荘厳なたたずまいの天使は、どこか無機質な表情だった。
「……好きになれないんだ。たぶん、ずっと昔から」
 やっぱりだめだね、と彼女はそれを破り捨てようとする。
「ま、待ってください!」
 慌てて止めて、彼女の手からノートをひったくった。
「せっかく描いてくれたんですから!」
「でも、そんな絵じゃ」
「いいんです。あたしがいいから、いいんです!」
 強情にノートを抱え、抵抗するあたしに、早紀さんは呆れ顔でため息をついた。そのあと、こんなことを言ったのだ。
「ならいいよ。その代わり、錫子のお話が聴きたい」
 まるで、おやすみ前の御伽噺をせがむ子供のように。
「いや、でも……」
 あれは未完成だし、それを記したノートもご覧のとおり、よれよれの半乾きだ。
「さっきね……懐かしいことを思い出した」
 早紀さんは、幼いころにお義姉さんから聴いたという童話を教えてくれた。悪い竜に囚われたお姫様を救いに旅に出た騎士の話は、困難と試練を乗り越えることの大切さを説いた、シンプルな寓話だった。
「だからかな、錫子の創ったお話も聴いてみたくなったの」
 彼女は真剣だった。
「それに、錫子のお話の天使なら、好きになれる気がする。そうしたら、絵だってもっと上手く描いてあげられるでしょう?」
 真剣に、あたしのお話を聴いてくれようとしている。なら、物書きを目指すものの端くれとして引き下がるわけにはいかない。
「わかりました。できる限り……」
 早紀さんの話が騎士の物語なら、あたしのは天使の物語だ。

 ある天使が神様から、人間たちを幸せにするように仰せつかった。ところがその天使はまだ子供だから、人間幸せがわからなかったのだ。
 そこで神様から許しをもらって、人間界で人間について学ぶことにする。ところが人間界に降りる途中、悪い悪魔にそそのかされて天使はその素性を隠すためのペンダントを盗られてしまう。
 どうにか人間界に辿り着くものの、背中の大きな翼が目立ってしまい、天使は神の使いとして様々な人々の期待を背負うことになる。
 だが天使はまだ子供なので小さな奇跡も起こすことはできない。人々は落胆し、天使は天使としての自信を失っていく。
 傷心の天使は森を彷徨い、ある姉妹と出会う。姉妹は早くに両親を亡くし、二人でどうにか生活していた。
 天使は姉妹に迎え入れられ、共に生活し、少しずつ人間を学んでいく……というのが大まかな筋書きだ。
 
 早紀さんは熱心にあたしの目を見ながら聴いてくれたが、おかげで妙に緊張してしまった。
「……それで、その天使の子は最後にどうなるの?」
「えぇと、それなんですけどね」
 実はその先が、まだまとまらないのだ。
 その後も困難が続き、絶望して堕天使になってしまいした……では救いがなさ過ぎる。特に神話なんていうのは救いのない結末が用意されている場合が多いが、あたしが書きたいのは童話だ。
 あの天使から感じた優しさとか暖かさとか、そういうものを込めた物語にしたい。
「その姉妹と暮らすんです。そして人間を学んで、空に帰っていくんですよ」
 口をついてでたのは、我ながらありきたりなハッピーエンドだった。
 才能のなさを痛いほど感じる。物語である以上、何らかの意外性とか、仕掛けとかが必要なのかもしれない。
 でも、これはあたしの信念でもある。
「つらいことも、楽しいことも、悲しいことも、嬉しいことも……全部経験して、くじけそうになっても諦めないで、それでちゃんと立派な天使になるんです」
 物語のようにうまくいくはずないと、誰もが言う。だが、世の中うまくいかないことだらけだからこそ、せめてお話の中くらいうまくいってもらいたい。
「最後まで諦めなかった人が幸せにならなきゃ、嘘ですから」
 そうありたいと願うことは、逃げることとは違うはずだ……今のあたしには、耳が痛いことでもあるけど。
「――やっぱり、錫子はすごいよ」
 早紀さんが立ち上がって、あたしに背を向ける。
「ちょっと、外でタバコ吸ってくる」
 ここで吸ってもいいのに。
「じゃあね……おやすみ、錫子」
 でも、あたしは止めなかった。
 一人になった部屋で、ランプを消してベッドにもぐる。
 理由はわからない。でもあたしには見えてしまったから。
「おやすみなさい、早紀さん……」
 彼女は、泣いていた。


 教会の外に出て、星を見上げる。
 夜空を見ていると、早紀は時々不安になる。
 姉が生きているはずはないと悟りながら、その理由を知らず、生きているはずだと探し続ける――不毛な旅だと気づいていた。
 病院のベッドで目覚めたあの日――姉の死を直感してしまったあの日から、矢桐早紀は止まってしまった。記憶の欠けた身体は重たく、半身を欠いた心は冷たいまま。
 それでもツギハギの身体に鞭打って、ありもしない可能性にすがって、今日まで生きてきた。いや、エクリプスという異形の執念によって、ただ生かされているだけの傀儡といってもいい。
 自身には無益ともいえる戦いに喜悦する彼女は、どこまでが本来の『矢桐早紀』なのかもわからない。姉を捜すという目的さえ、その愉悦を求める手段と逆転してしまっていると、否定しきれない。
 もしそうなら、矢桐早紀は空っぽだ。
 それ故に、早紀は錫子に惹かれた。
 迷い、悩み、それでもなお、まっすぐ前を見て歩こうとする少女の姿に憬れた。
 諦めきれない夢に走る彼女が羨ましかった。
「私は、何を諦めてしまったんだろう――」
 それさえも、彼女にはわからない。だが今の彼女は、最初から諦めていた。錫子の言葉を借りるなら、諦めたものに幸せはこない。
 ならば彼女がこの街に戻ってきたのは、この三年間の清算をするためではないか。
 姉を喪った日から踏み出せなかった脚を一歩をでも進めるため。ここから始まった旅を、ここで終わりにするため。
 その想いが、彼女を無意識にこの街に引き寄せたのではないか。
「もう、終わりにしていいのかな……姉さん」
 答えをくれるものはいない。
 ロザリオを握り締め、もう一度夜天を仰ぐ。
 星の輝きが滲んで、消えた。

 

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