童話の守人

幕間3 〜the eater〜

 灯りの絶えた住宅地を一匹のケモノが徘徊する。深夜の闇につたない足取りの影が躍る。
「クソが……なんでオレがこんな目に、あわなきゃ、いけないんだよ……!」
 先刻、矢桐早紀の触手によって全身を串刺しにされたエクリプスの少年だ。
 呪いを吐き出す、その姿のおぞましさはどうだ。顔の右半分が人間のものに、緑色の腕や脚も皮膚が捲れかえって赤黒い肉を晒している。ダメージを受けすぎた身体が、再生しきれていないゆえの半端な姿だった。
「だいたいナンなんだよ、あの女……あいつが噂のエクリプスだとしたら……」
 それはひと月ほど前から、この街の影に息づく者たちの囁きに混じりだした。目に留まったものは皆食い尽くすという女の噂――自分と同じエクリプスだと彼は思っていたが、あの女がそうだったのか。どちらにしろ、関わるべきでなかったのは明白だ。
「それもこれも、全部……あの腐れ低脳が余計な喧嘩を吹っかけたりするから……あぁ、クソっ!」
 奇跡的に急所を外れていたため、戦闘が再開される前に逃げ出すことができた。それから現在に至るまで、人の目を盗むように暗がりに潜んで身体の再生を待っていたのだ。
 顔が歪むたびに爬虫類と人間の境目の部分にひびがはしり、黄色い膿がジワリと溢れだす。自慢の迷彩機能が再生しない限り、彼はいつまでもこの無様な姿を晒し続けることになる。
 それなのに、彼自身ではこれ以上の再生は望めない。そのためのエネルギーが絶対的に不足しているのだ。どんなモノでもかまわない、とにかく『養分』が必要だった。
「なのに……くそクソ糞っ!」
 今の彼は人間の皮を被ることができない。化け物の姿が本質である低級のエクリプスにとって、これは由々しき事態だ。
 姿が消せない以上、得物に近づくことは容易ではない。もともと彼の純粋な腕力は心もとない。影魔としての本分であるはずの『己の欲望を充たす』という行為にさえ、彼は別のエクリプスに取り入る必要があったのだ。その実力と度胸は言わずと知れたもの。ましてや、今の彼は手負いだ。
「ちくしょう畜生っ! こんなことなら、別の奴と組めば……ん?」
 見えてきたのは、住宅地の中には必ずといっていいほど存在する公園。砂場やジャングルジムなどが並べられている、子供が遊ぶための空間。勿論そんな遊具に彼は魅かれたのではない。
 欲望の化身たる影魔の感覚が、彼に告げたのだ。
 ――獲物をみつけた、と。
「おんな、だ……」
 誘蛾灯にぼんやりと照らし出されるその中、そいつはブランコに腰掛けている。遊具は公園の外側よりに設置されているにも関わらず、得物は彼に背を見せている。つまり、何の思惑か、彼女は公園の中心に背を向けているのだ。
 おかしな女――普通なら不気味にさえ思うだろう。
 だがこのエクリプスは『美味そう』としか感じることができない。まさに、極上の肉を用意された餓鬼そのものだ。
 息を殺して、植え込みの陰から観察する。
 地面につきそうなほど垂れた黒髪が印象的だった。更によく見れば、身につけているのは濃紺のセーラー服のようだ。顔はうかがえないが、この際好みはどうでも好かった。
「へ、へへ……ツイてる」
 幾ら影魔として弱くとも、素手の女子供に遅れをとることはない。うまくいけばヤリそこねた陵辱の続きが出来るかもしれない。舌なめずりすると苦い膿の味が口腔に広がった。
 姿を消すことはできないが、彼は隠密行動を得意とするエクリプスだ。足音を立てることなく得物に近づいていく。手が触れる距離まで接近する必要はない。最大の武器である舌の有効範囲――およそ五メートル以内に入ればいい。影に引きずり込みたいが、余分な力を使うわけにはいかない。夜の闇がその代わりをはたしてくれるだろう。
 あと一メートル……
 少女が気づいた様子はない。相変わらずブランコに腰掛けたまま、無防備な背中を晒している。
 あと、三十センチ……
 彼の舌に捕らえられれば、人間の力では抵抗はできない。矢桐早紀はエクリプスだったからこそ、どうにか抵抗することができたのだ。
 こういうのを、弱肉強食っていうワケだ――彼はほくそ笑んだ。
 立ち止まる……
 全身に舌を絡ませ、一気に引き寄せれば、あとはヤリ放題。単純だ。
 獲物に向けて大きく口を開けたその瞬間――
「ぇ……っ!?」
 女はバネ仕掛けのように身体を反らした。
 逆立つように長髪がひろがり、
 毒々しい赤い目は暗く濁り、
 亀裂のように裂けた口から滴る唾液が頬を濡らす。
 逆様の表情は、隠すことのない狂悦を湛えていた。
 ――エサを見つけた、と。
 少女は嗤っていた。
 弱者とはどちらだったのか……それを理解したとき、彼の脳は微細に噛み砕かれていた。
 
 
 自然の根幹を成す定理の下、速やかに屠殺は完了した。
 くちゃくちゃくちゃ。
 咀嚼する音は、少女の足元から生えた頭から聞こえる。
 鎌首をもたげたその頭に目は存在ない。鼻もなければ耳もない。必要なものは獲物を貪る口のみ。鰐にも似るが、二本の角を頂くそれらは、遥かに獰猛で貪欲な捕食器官だった。
 間抜けな表情を半分だけ残したまま、エクリプスの身体が倒れた。
 女の影が地面を覆う。
 汚泥の如き影から、それらは次々と長い首が持ち上がり――あとは貪るように喰らうのみ。
 僅かな食物に群がる深海の怪魚のように、大人の腿ほどもある太さの首がうねる。咀嚼音はいつしか破壊音に変わっていく。
 ゆらりと少女は立ち上がった。
 腰まで届くほどのストレートが揺られて踊る。平安貴族を髣髴とさせるような美しい黒髪だ。濃紺のセーラー服も、赤いタイと膝まで覆うスカートが古式ゆかしい気品を感じさせる。しかしながら、病的なまでに白い肌と、華奢な四肢は少女の瑞々しさと危うさそのもの。上背はなくとも、スラリと伸びた手足とタイを押し上げる胸元が、その麗姿を形作っている。彼女が一度微笑めば、男女を問わず多くの心を惹きつけるだろう。
 ……あぁ、しかしその表情の何たることか。彼女に僅かでも意志の欠片があるのなら、この美貌をここまで貶めることはなかっただろうに。
 だらしなく下がった細い眉の下、死魚のような赤い目が虚無を彷徨う。唾液を垂れ流す唇は薄い笑みの形まま、重力に引かれるままに首を傾げる。背後で鳴る地獄の合唱を聴く彼女の顔は――異常という言葉さえ生温い、こわれた人間の顔だった。
 公園に静寂が戻るまで、一分とかからなかった。まるで潮が引いていくように、影が彼女へと戻っていく。
 緩慢な動作で少女は宴の跡を振り返ると、そこには以前と変わることの無い公園の地面がある。血の一滴、染みの一つさえない。彼女を襲ったエクリプスなど、初めから存在しなかったように。
「ぁ」
 いや、たった一つ……少女は、遠く離れた砂場に転がる遺物を目ざとく発見した。ようやく意思らしきものを見せた彼女はそれに近づいていく。
「あは……ぁ」
 神経の束を指でつまみ、ゆっくりと舌を這わせて嘗め回す――先の暴食で眼窩から飛び出したであろう、エクリプスの眼球だった。
「……は、ぁ」
 淫蕩な声が漏れた。丹念に唾液で濡らしたあと、眼球を口に含む。角膜を突き破り、水晶体を噛み砕く――その寸前で、唯一の遺体も塵に返ってしまった。
「ぃ……ぇ……」
 デザートを食べ損ねた少女は、だらりと腕を下げた。憤るでもなく、口を開けたまま闇の中に佇む。その目に虚空を映したまま、少女はいつまでも立ち続けるだろう。
 たとえば、新たなエサでも見つけない限りは。
「――!」
 誰かが何かを叫んだ。少女は声の方向をゆっくりと振り向く。
 
 顔を真っ青にした鍬原彩が、そこに立っていた。


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