童話の守人

V 〜パープルアイズ・リビングファントム〜

きずをおったまま、てんしはまちにやってきました。
たくさんのにんげんのなかで、かたほうだけの白い羽はとてもよくめだちました。
人びとはてんしをみておどろき、「かみさまからのおつかいだ」と、おおさわぎになりました。そしてたくさんのひとがてんしのもとにつめかけたのです。
ある人はいいました。
「てんしさま、わたしの母がしにました。かわいそうなのでいきかえしてください」
 またある人はいいました。
「てんしさま、むすこがおもいびょうきをわずらっているのです。なおしてやってくださいませんか」
 さらにある人はいいました。
「てんしさま、わたしのいえはとてもびんぼうです。どうかおかねもちにしてください」
 たくさんの人がてんしをみておねがいごとしました。
 でもてんしはまだこどもなのです。
「みなさんごめんなさい。わたしはまだ小さいのできせきをおこすことはできないのです。ほんとうにごめんなさい」
 なんどもあやまるてんしをみて、人びとはがっかりしてしまいました。
「なぁんだ。とんだやくたたずだなぁ」
「羽がはえているだけのただのにんげんじゃないか」
 なにもできないとしって、人びとはてんしからさっていき、やがてだれもこえをかけなくなってしまいました。
「あぁ、かみさま。しあわせとはなんでしょうか。こんなにたくさんのねがいがあるのに、わたしはひとつもかなえることができません。わたしにはみなさんをしあわせになどできないのでしょうか」
 かみさまはこたえてくれません。
ちじょうで一人ぼっちになったてんしは、まちをはなれてふかい森のなかへときえていきました。

 

 未練がないと言えば嘘になる。
だが恐れはなく、ましてや後悔もない。
 どんな結末であれ、わたしが望んだ結果だから。
 たった一人で、立ち尽くしていた血まみれの少女――
 彼女と出逢えたことは、わたしの人生で最大の幸福なのだから。
 そう、何のことはない。
 これは、わたしの初恋だったのだ。

 ホームルームも終わり担任が去ると、教室はとたんに活気を帯びる。
 わたしは一番窓側の最後列の自分の席で少しだけ背伸びをした。
「ねー、掲示板にこの前のテスト結果張り出されてるって。見に行かない?いこ!」
「どうせあんた載ってないって」
 ひと月ほど前に行われた全国学力テストのことだろう。定期テストや模試における成績上位者の名前を張り出すのはこの学校の慣例だった。
「あれね、英語が超やばかったんだけど」
「俺も俺も。あの長文はありえないって」
 喧騒は止むことなく次第に廊下の方にも広まっていく。どうやら他のクラスもホームルームが終わったらしい。掲示板はこの教室のすぐ向かいにあるため、かなり騒々しい。
思わず帰りたくなるが、そこを堪えて席をたつ。机の上に出していた勉強道具一式を持って図書室へと向かうのだ。放課後に図書室で勉強するのはわたしの日課だった。
廊下に出た途端、あれだけ騒がしかった廊下が水を打ったように静かになる。掲示板の名前に一喜一憂していただろう視線が、一斉にわたしに降りかかる。
どれも須らく奇異の目だった。もっとも、気にするほどのことじゃない。そういう目で見られるもいい加減慣れてきた。
 わたし自身の結果は、お節介な担任の先生が事前に教えてくれたため見る必要が無い。
『すごいじゃないか。全国でもトップテンに入っているぞ。この調子でがんばれよ?』
……とか言っていた気がする。いきなり職員室に呼ばれたから少し緊張していたというのに、あれは拍子抜けだった。
 ただでさえ広いとは言いがたい廊下が人で完全に埋まってしまっている。図書室へ行くための道はここだけだ。仕方なく、道を塞いでいる人に声をかけるしかなかった。
「どいてもらえますか」
「え……あぁ、ごめん」
 彼女はすぐに道を開けてくれた。
この人は、憶えている。彼女は去年同じクラスだった。ほとんど会話したことはなかったけれど、医者の娘ということで結構な有名人だ。
 わたしは軽く会釈して彼女の前を通り過ぎ、図書室に入った。果たしてそこが満足できる沈黙を持ちえていたかといえばそうではなかった。
 最初こそ静かだったものの、五分もすれば掲示板から興味を失った生徒たちが入り込んでくる。
「で、何。おまえマジでコクったわけ?」
「……したよ。あ、あなたがやれって言ったんでしょ」
「マジありえねぇ!それでどうなった!?」
「う、どうでもいいじゃん……」
「うわ、バッカだコイツ!マジでウケるわ!」
「うるさい!今がねらい目って言ったのアンタじゃない!」
 すぐに、この騒がしさ。よりによってわたしの前の机で、一組の男女が大声で何かを喚きたてている。
 わたし以外にも何人かいるけど、全員見て見ぬふりを決め込んでいる。もっとも、わたしもその一人なので彼らを非難する気はない。
 どうでもいいことなのだ。少し耳障りなだけで。
「米澤うるさいって。喋るんなら外でしてきてよ」
 突然、誰かが彼らの会話に割って入った。
「お、楯岡。聞けよ、こいつ三年の嶋原さんにコクったんだってよ!」
「ち、ちが……すず、こいつがね嶋原先輩は今フリーだって……」
「斉藤さんも声でかいんだから。みんな迷惑しているから、続きは教室でどうぞ」
 それは、先ほどの――楯岡錫子だった。字面に比べて、その声には嗜める調子もなく、まるで会話に参加しているような気軽さがあった。
「はいはい。あとでゆっくり聞かせてやっからな、楯岡!」
「お、おいこら!待ちなさいよ!」
 二人は最後までやかましいまま、図書室を去っていく。それを見送って、楯岡さんはふうと息をはいた。
 それだけだった。彼女は何事もなかったかのように、書架に戻っていく。
 知らず、わたしはペンを止めて彼女の行動を目で追っていた。書架を一通り眺め、時々手にした本をパラパラと捲る。しかしすぐに棚に戻してまた物色を再開する……その繰り返しだった。
 三十分もそうして、結局一冊も借りることなく彼女は図書室を後にした。
 何がしたかったのだろうか。


 わたしが帰路についたのは、その更に三十分ほど後だ。最近は下校時刻の寸前まで学校にいることはなくなっていた。そこから更に図書館に行くこともよくあったので、帰りの電車は終電になることもあった程なのだが。
 電車に乗りながら、ぼんやりとさっきの楯岡錫子のことを考えている自分に気づいた。
 彼女は比較的記憶に残っている人物だ。わたしはよく図書室や図書館で勉強していたが、どういうわけか彼女もそこにいることが多かった。そのせいだろうか。
 彼女の周りには常に人がいた。友人が多いのだろう。先刻の図書室での一件も彼女の人徳の成せる業といったところか。
 電車から降りて、帰宅中の学生でごった返す駅の中を縫うように歩く。ここからはバスに乗り、わたしの家がある住宅街まで移動することになる。
 三年ほど前、この街である殺人事件が起きている。わたしの家はその現場のすぐ近くだった。丘の上にあるというその洋館には、歩いて十分もかからないだろう。あのときは報道関係者が大挙して押し寄せ、一種のお祭り騒ぎのようになっていた。
 今思えば。
 あの一連の騒動は、わたしにとって確かにお祭りのようだった。被害者はこの街の名士で、針生家の次男の針生憲介とその妻法子。娘はその夜から蒸発してしまい、五体満足で発見されたのは一人だけ。妹と報道されていたが、正確には世話になっていた居候らしい。
 もっとも、誰が殺されたかというのは瑣末なこと。問題はどうやって殺されたか、だった。
 殺された二人は遺体の一部しか発見されていない。それでも被害者が判別できたのはその『一部』が人体に一つしかないものだから。すなわち夫が顔の左半分、妻が右手首と左足の爪先。それらがまるで、獣に喰いちぎられたように庭に転がっていたという。何らかの目的で持ち去ったのか、それとも本当に食べたのか……どちらにしても人間業ではない。すぐに報道規制が敷かれ、それらの事実は伏せられてしまったが、わたしなりに色々と調べた結果だ。
 これらが事実だとすれば、この犯人が動物であるはずがない。ましてや人間でもない。獣でもヒトでもない、第三の超存在がそこにはいたはずなのだ。
 そう夢想したとき、わたしは全身を駆け巡る、えもいわれぬ感覚に身震いしていた。そして――ソイツと出逢いたいと、真剣に思ったりしていたのだ。
 まぁ、そんなこと、今となってはどうでもいいことなのだが。
 十五分ほどバスに揺られると家にはすぐ辿り着く。何の代わり映えもない、ごく普通の二階建てだ。両隣との距離が二メートルもないのが、今は少し不満だ。
――あぁ、今日もようやく帰ってきた。本当ならホームルームが終わった時点ですぐに教室を飛び出したかったが、放課後の勉強が習慣になっていたわたしがソレをやるといらぬ噂がたつ。変化を悟られぬように、なるべく普段どおりの生活をすると決めていた。
 わたしはもどかしい気持ちを抑えながら玄関の鍵を回す。靴を脱ぎ捨て、一目散に二階への階段を駆け上がった。一歩踏みあがるたびに心臓の鼓動も早くなる。
 どんな顔をしているだろう。もしいなかったらどうしよう――様々な思いがわたしを急きたてる。
心地よい焦燥だ。
果たして自室の部屋に辿り着いたわたしは、息もつかぬうちに扉を開けた。
「ナナ!」
 その名を呼ぶことのできる快感と、彼女がそこにいる幸せを噛み締める。
 光を閉ざした部屋の中、彼女はベッドの上に座っていた。
 濡れたように艶やかな長髪を散らし、静かに、ただそこに鎮座している。
 濃紺のセーラー服は別の市にある有名私立女子大の付属高校のもの。もっとも、一昨年からデザインが変わったらしいので型遅れ品ということになるが、黒に近いそれは彼女の透き通るような白い肌と見事なコントラストを成している。
 細い手足にふくよかな胸。『少女』でも『女』でもない、独特の雰囲気を内包する身体。わたしなんかとは比べるべくもない。美という字に血肉を与えることができるのなら、それはきっとこの姿となるだろう。
 そして、幼さを残す顔の可愛らしいこと。口元は常に笑みを浮かべ、黒い大きな瞳でわたしを見上げる。純真で無垢な眼はまるで黒い鏡のように、わたしの姿を映している。
――そう、わたしだけ。この鍬原彩(くわはらあや)だけを、いつも彼女は見てくれる。

 彼女と出逢ったのは一ヶ月ほど前。だがそもそもの始まりというならば、その更に前、去年の冬くらいに遡る。


 幼いころから、わたしの両親は仲が悪かった。後に離婚するのだから、当然といえば当然だ。
 仲が悪いといっても四六時中喧嘩をしていたわけではない。そもそも喧嘩するには両方が同じ場にいなければならない。わたしの両親はソレさえもしなかった。
 当時、父はまだ日本にいたが、家に戻ってくるのは一ヶ月に一度あるかないか。彼はある総合商社の社員で、現在はその海外支社に単身赴任中である。高校に入学してからはまだ一度も顔を見ていない。
 母はといえば、いつもわたしに当り散らしていた。父からの仕送りはあったので生活には困らないはずだが、それでも彼女は何かと不満だったのだろう。いつもヒステリックに喚いていることしか記憶に無い。
 結局わたしが小学校に上がると同時に二人は離婚した。母は既に別な男をつくっていたし、父はその一年後に再婚した。新しい母は職にも就かず家事をすることもなく、金を持ち出して遊ぶことしかしなかった。父があんな女のどこに惹かれたのか未だにわからない。
 そんな家だったから、裕福ではあるが恵まれてはいなかった、と思う。特に意識したことはないが。
 わたし本人は、幼いころから『真面目な優等生』で通っていた。結果として優等生ではあるだろうが、特に真面目にやっているつもりもない。わたしにはすることも、したいこともなかった。だから、勉強くらいしかしなかっただけのことだ。
 父はわたしの成績に概ね満足していたのか何も言わなかったし、新しい母は気にもかけなかった。わたしの立場は変わることなく、去年の冬を迎えた。
 わたしが生まれて初めて、異性から交際を申し込まれたのもそのころだ。
相手は一つ年上の男子で、いわゆる不良生徒だった。名前も顔も覚えていない。この学校では珍しい脱色された頭髪だったことだけをかろうじて記憶している。わたしの学校は県内でも指折りの進学校として有名だが、それゆえに落伍者も少なからず出る。彼もその一人だったのだろう。
「おれ、ずっと前からおまえのこと気になっててさ。つきあってくんないかな?」
 放課後の図書室で彼はそう言った。
 異性から告白されることなど、それが初めて……いや、他人からそんな親しげに声をかけられたことなんて、今までなかった。わたしは勉強ができたせいで注目されることはあっても、友達とか親友とか、そういうものとは無縁だった。
 理由はたぶんわたしにある。鍬原彩は、どうしても他人に関心がもてない。
 たとえ向こうから友達になろうとしてくれても、自然とわたしが拒絶してしまう。一人が好きなわけではない。くだらない話で笑ったりできる人が欲しかったし、昼食だって誰かと机をあわせて食べてみたかった。
 なのに、わたしは無意識的に、学校の生徒たちを避けていた。おかげでいつしか誰もわたしに近づこうとしなくなっていた。一番身近な他人であるはずの両親があんなのだから、 人間不信に陥っているのではないか……なんて、的外れなことを考えていたこともあった。
 それなのに、あの男子生徒はそんなわたしを、異性として気になると言った――あぁ、憶えている。その瞬間、頭は真っ白に冷めていた。
 たぶん長続きしないだろう、と。いつも通り向こうから離れていくだろう、と。
 結果、付き合うことになった三日後に、わたしたちの関係は破綻した。予想通りだったが、予想を上回っていたことも認めなければならない。
 具体的には人数だ。わたしはその男子生徒と、その仲間に輪姦された。彼はそれだけが目的だったのだ。
 だいたい十人くらいだったろうか。他校生もいたようだった。暗い倉庫に連れ込まれ、顔も知らない男たちにされるがまま、何度も犯された。膣は緩み、子宮がふやけるくらい。
 ビデオを撮られたり写真を撮られたり、とにかく『やられたい放題』だった。
「まさか今時こんなのにひっかかる奴がいたとは思わなかったよ、マジで」
 彼のそんな嘲笑を聞きながら、次々と覆いかぶさってくる男たちにただ耐えるしかなかった。
 苦痛だった。泣きたいほど苦痛だった。
 そして、死にたいくらい退屈だった。
 だって、三時間以上も犯されてやったというのに、男たちはわたしを一度も満足させてくれなかったのだから。
……そう。わたしと他人の決定的な違いがここにある。
 いつからか、わたしは傷つくことに快感を覚えていた。たとえば、ふとした拍子に刃物で指を切った時。たとえば、転んで膝を擦りむいた時。たとえば、母に殴られた時。
 普通なら泣き出しかねない状況でも、わたしは涙より先に笑みを浮かべていた。
 何故そうなってしまったのかは定かではないが、こればかりは性癖なのだから変えようが無い。そういうものなのだと、深く考えることもなかった。
 だから今回のことも、密かに期待していたのだ。性的な暴力はわたしが今まで体験したことのないものだったから。
と ころがどうだ。いざやられてみれば、全然大したことない。想像していた飛翔感も、期待していた嗜虐感もそこにはなかった。ただ出し入れされるだけで、一向に気持ちよくない。
「なんだよ、反応薄いな。ハツモノかと思ったらそうでもねえし。もしかしてかなり遊んでたんじゃねえの、コイツ」
 覚えはないのだが、わたしは処女ではなかったらしい。それを知った彼らはあからさまに落胆したが、だからといって手を緩めることは無かった。
そ れでも結果は同じだった。何度やられても同じだった。そのくせ、向こうだけ勝手に愉しんで盛り上がっているのだから始末が悪い。とにかく最低な気分だった。
 男たちは飽くことなくわたしの身体を玩び続けた。わたしの身体がそんなによかったのか、それとも他に捌け口がなかったのか。今となっては知る由もないが、ついこの間までわたしは輪姦され続けていたのだ。
 放課後呼び出されることもあれば、昼休みに強引に連れ出されることもあった。おかげで余計な噂はたつし、いいことなんてなかった。わたしも楽しめるなら話は別だが、彼らがもたらす快楽では、まるで満たされなかったのだ。
 まぁ、正直に告白すれば犯されることも悪くはなかった。組み伏せられ、強引にねじ入れられる感覚はこれまで体験したことのない未知の感覚だった。
 でも、こんなんじゃ足りない。
 こんな半端じゃ足りない。
 やるならもっと徹底的に。犯るならもっと倒錯的に。
 そう、殺すくらいにしてもらわないと――次々と果てていく男たちを、生臭い闇の中でいつも眺めているしかなかったのだ。

 ……少し焦ったのは生理が止まったときぐらいだったな。驚いただけだったけど。


「今日は何も変わったことはなかった?」
 抱きしめたい衝動を堪え、わたしはカーテンを開ける。
「……ぁ」
 小さく、彼女は息を吐き出す。それが肯定なのだと解する。
 彼女は言葉を話さない。話さないというより話せないのかもしれない。時折赤ん坊のような声を上げるきりだ。でも慣れればだいたい何を言いたいのかがわかってきた。
「お腹すいた? 食べに行こうか?」
 彼女は遠くを見たまま、動こうとしない。
「そっか。それじゃお風呂に入りましょう」
 わたしは彼女の手をとり、静かに立ち上がらせる。ゆらり、と長髪が踊る。ふっと漂う香りがわたしの脳を麻痺させる。
「……っ」
 まるで自制心を奪うアヘンの香。心臓が波打つように鼓動し、手足がじんと痺れた。
「さ、行きましょう」
 でも堪える。わたしは彼女をシャワーに連れて行くのだ。
 優しく手を引いて、脱衣所まで連れて行く。服を脱がせると、すぐにシャワーで彼女の身体を流す。
 髪、肩、腕、胸、腹、太腿、そして陰部まで。身体のどのパーツも、触れれば壊れてしまいそうな陶磁器のよう。彼女の身長はわたしとほぼ同じくらい、百六十センチに達していない。それでも彼女の体躯はわたしよりもさらに華奢だ。丹念に、繊細に、隅々まで洗ってあげる。
「ぃ、ぅ……」
 気持ちよさげに呻いて、彼女はわたしに寄りかかってくる。Dカップはあろうかという乳房がわたしの薄い胸に押し付けられて歪む。
「もう……しょうがないわね」
 わたしは彼女の身体を支えながら、石鹸を洗い流す。彼女はいつものようにわたしにすべてを任せてくれる。それが嬉しくて、ついつい長湯をしてしまうのも、いつものことだった。
 二階に戻り、髪を乾かしてあげている最中に、彼女は眠りに落ちてしまう。すばやくベッドをきれいにする。シングルベッドなので二人で寝られないのが残念でしかたない。今はわたしが床で寝ているが、いつかダブルベッドを買おうと本気で思っている。
「それじゃ、おやすみなさい」
 彼女は食事のとき以外は常に眠っている。いつもならベッドに横になっていたりしているのだが、今日は起きていた。わたしを迎えるために待っていてくれたのだろうか。
「なら……もう少し甘えてもよかった、かな」
 でも彼女が眠いのなら、それを阻む気は毛頭ない。毛布をかけてあげると、寝息はすぐに聞こえてきた。
 呼吸に合わせて睫毛が揺れる。こうして意識が落ちても、彼女の美しさは変わらない。声をかけるどころか、傍らで物音をたてることさえ躊躇われるような静かな眠り。必要最低限の活動しかしていない彼女は無防備そのものであり、同時にそれはわたしを信頼してくれているという証になるだろう。
 わたしは思い返す――彼女が出逢った日、間違いなく人生が一変した。


 いつのころからか、生きているという実感が少なくなっていた。
 もしかすると一度死んでいて、何かの手違いで生き返った死体なのかもしれない……などと本気で考えていたこともあったくらいだ。
 わたしに話しかけてくれる人など殆どおらず、わたしが話しかける人など稀にもいない。世界にたった一人になってしまったような錯覚。でもそれはやはり都合のいい幻覚だった。
 わたしは誰からも必要とされず、誰も必要だと思うこともなかった。
 だからあの男たちには感謝している面もあるのだ。欲望の捌け口とはいえ、誰かに必要とされるのは嫌な気分ではなかった……その方法が論外だっただけで。
 輪姦の果てに身篭ったらしい子供を、わたしは周囲に知られることなく、早期に中絶した。そのためにはこの街のもぐりの医者を虱潰しに調べあげ、相応の対価を払う必要があった。異常を悟られるとしたら、それが唯一だっただろう。
 少なくない額の金を持ち出したことに真っ先に気づいたのは、父が再婚した女だった。
 処置が終わってからしばらくしたある日、帰宅すると久しく見なかったその女に頬を張り飛ばされた。
「アンタ、何にこんなに使ったの。これはアタシの金なんだから、勝手につかうんじゃないよ!」
 幸いだったのは、わたしと十歳も違わないこの女の頭があまりよくなかったことだ。彼女はわたしがお金を何に使ったかなどに興味はなく、ただ通帳の残高が減っていることが気に食わなかったようだった。
「いい? アンタには小遣いやってんだから、それでやりくりしなさい。高校生のガキに何十万も必要ないでしょ」
 わたしをひとしきり罵倒すると、彼女はすぐにまた遊びに出かけてしまった。わたしが彼女に興味がないように、彼女もまたわたしになど興味はなかったのだ。
 それ以降、わたしの変化に気づく者は現れなかった。いや、単にわたしに変化がなかっただけだろう。相変わらず輪姦は続き、『優等生の鍬原彩は不良生徒たちと付き合いがある』という噂も消えることはなかったが、とりあえず平穏な日々だった。
 異常といえど、毎日続けば刺激を感じなくなるように。退屈で不快な陵辱の時間が、わたしの日課になっていたのだ。それを打破しようという考えも起きなかった。
 たぶん、どうでもいいと、わたしは諦めていたのだ。
 だから一ヶ月前のあの日も、わたしは希望も何も無く、犯された身体を引きずって家に戻ろうとしていた。
 いつもとは違う道を通ろうとしたのも、ほんの思いつきだった。わたしはバスから降りて、自宅までは遠回りになる寂しい裏道を歩いていた。人気もなく、灯りもない。一つ通りを変えただけで、住宅地はその様相を一変させていた。
 ただ……今になって思うと、なのだけれど。
 あの日は朝からどこか異状だった。朝から何かおかしかった。
 学校の生徒たちもまるで覇気がなく、教師たちもすれ違った街の人間も同じだった。そのくせ、わたしを犯した連中はいつも以上に強引で、さながら獣以下だった。
あれだけおかしかったのに、何でおかしいのかわからないのが、逆におかしかった。とにかく、そういう日だった。
 月も星もない空。暗い夜道を一人で歩く。
 聞こえるのは風の音と、自分の足音。そして――
「えっ?」
 クチャクチャシャクシャクという、咀嚼音だった。
 思わず足を止めた。異様な音が、確かにわたしの鼓膜を震わせたのだ。
 耳をすませて確認する。わたしの周りには人もなく、すぐ近くにはあの事件のあった丘がある。音はそちらから聞こえてきた。
「なに、この音……」
 心臓がバクバクと高鳴る。
 手が震え、脚が震え、心が震えた。
 確かにいる。この丘の先に、ありえない『何か』がいる。
 迷うことなんてなかった。考えるロスもなかった。わたしは自らの意志で、常識の階段を踏み外した。わたしは自らの意志で、非常識の世界へと飛び込んだ。
 身体が自然に丘を駆け上り、その途中でわたしはそれと遭遇した。果たして、そこに広がっていたものは異界だった。
 車がようやくすれ違える程度の狭い坂道に、池が出来上がっていた。そこにあったものは。
「あ、ぁ……」
 人間であったことを証明する事項を失った物体と。
「ああ、ぁぁ……!」
 夜でも尚、血の色で染まった少女の姿。
 濡れた長い黒髪が、夜風に舞っていた。
 鮮やかな赤に染まった肢体が、闇に照らされて輝いていた。
 アメジストのような紫色の瞳が、わたしを見ていた。
 その瞬間、わたしの脳の何かが焼ききれた。
 初めて自分に理性外の本能があることを知った。
 逃げろ。危険だ。殺される――身体の一かけらまで、そう警告していた。
 でもそれは些細なことで、どうでもよかった。
 だいたい、そんな必要はないのだ。
 逃げたがっているのは身体だけ。怖がっているのは生物としての自己防衛本能だけ。
『わたし自身』はそんなものを押しのけても、優先すべき行動がなんであるかわかっていた。
 彼女が少しでも動けば、わたしもたちまち肉の塊になって散らばってしまう。
 それが何秒後かはわからないが――それなら。
「なん、て」
 どうして、この美しいものから一瞬でも目を離すことができよう!
 その流れる髪、その美しい四肢、その爛々とした眼、そのすべてがわたしの心を捉えて離さない。
 いや、離したくない!
 死の一瞬前まで、わたしは目の前にいる彼女の姿を、己の網膜と記憶に焼き付けた。
 そして確信した。これは人ではない。こんなもの、人であってはならない――これこそが、わたしの出逢いたがっていたものなのだと。
 彼女こそが、わたしを充たしてくれるたった一人の存在なのだと。
「――ん、ぁ……」
 彼女が口を開いた。それは意味をもつ単語ではなかった。
 同時にゆっくりと、わたしの方へと歩み寄ってくる。
 目は遠くを見たまま、口元は微笑みを浮かべたまま。
「え……」
 ぴたぴた、と濡れた足音を立ててわたしの横を通り過ぎていく。
 まるで、わたしなんか眼中にないように。
 一秒間躊躇した。二秒後には声が出ていた。
「ま、待って!」
 少女は立ち止まり、反り返るようにして、逆様の顔でわたしをみた。
「ィ……ッ」
 魔眼に射抜かれ、心臓が停止し、血流が凍る。
 それでも頭だけはクリアにしていた。すばやく状況を把握する。
 まず彼女の服装。腕や脚の先を鱗のようなものがびっしりと覆っているが、もうこれは全裸である。おまけに血まみれ。これで街に下りれば騒ぎにならないはずがない。
 二つ目に彼女が殺した相手だ。人間として原形をとどめている部分は一切ない。『殺した』というより、『壊した』という表現のほうが近い。僅かに残る服の切れ端、そしてスクラップ同然の自転車から察すると、おそらく交番の警察官だ。その失踪と死は、遠からず知られるだろう。
 三つ目は彼女の目的。こればかりは察しようが無い。巡回中の警察官を全裸の少女が細切れになるまで殺した……この状況から行動理由を説明できる者がこの世にいるだろうか。
ともかく、このまま街へ出たとしたらどんな混乱を引き起こすか――
「……ちがう」
 ……そんなこと、本当はどうでもよかった。
 ただ、彼女がわたしを素通りしたことが、我慢できなかったのだ。
 こんな美しいものに、こんな破壊的なものに、二度と逢えるはずがない。
 これはわたしの人生で最大のチャンス。もし逃してしまえば、日常に戻り、平穏に老いていくだけ。
 それだけはどうしようもなく、嫌だった。
 だから命をチップに大博打に打って出た。
「ねぇ……わたしの家にこない?」
 意外にもすぐに反応し、少女はゆっくりとわたしへ身体を向けた。
「あなたをもっと知りたい」
 言葉を解しているのか否か、彼女は少しだけ首を傾げた。
 言葉で伝わるとは思っていなかったが、それでも正直にわたしは言った。
 少女は無言のまま、わたしに近づいてくる。その姿が一瞬揺らめき……どんな魔法か、濃い紺色のセーラー服を纏う可憐な少女となっていた。
「だってわたし……あなたのこと、好きになってしまったんだもの」
 彼女はじっ、とわたしを見つめてきた。丸い大きな目や、薄い唇。端整な顔のあらゆるパーツが、いちいち美しい。
「あ、はぁ……」
 途端に、彼女の細くしなやかな腕が、わたしの肩に絡みついた。さすがに身体が強張る。
「ん……」
 それだけだった。彼女はわたしを殺すことなく、夢魔の微笑をたたえ、受け入れてくれた。
 その瞬間のわたしの心境たるや、どう表現すればいいのか。
「わたしの名前は鍬原彩。あなたは?」
 少女はすぐには答えなかった。わたしの首に手をまわしたまま、小首をかしげていた。
「な……」
 それでもやがて、
「ナ、な――」
 初めて、意味のある単語を、わたしの耳元で囁いた。
「な、な……ナナでいいのね」
 それが嬉しかった。
 わたしと彼女の同棲生活はこうして始まった。天に昇る心地のまま、わたしは最高の地獄へと転がりだしたのだ。


 二度と目を覚まさないのではないかと思えるほど、安らかに静かに彼女は眠る。穢れを知らない彼女の寝顔を密かに堪能したあと、わたしは一階に降りていく。
 彼女のように食べないでいることはできないので、夕食をとらなければならないのだ。トーストを二枚と、ゆで卵を一個用意する。外国の朝食のようだが気にしない。晩御飯の役目なんて、夜中に空腹を感じなくすることだけなのだから。
 手早く夕飯を済ませて二階に戻ろうとすると、電話にメッセージが残っていることに気づいた。再生してみると案の定、父からだった。
『昨日仕送りした。今月は二十万だ。あとで口座を確認しておけ。それと母さんには』
 わたしは最後まで聞くことなくメモリーを消去した。
 仕送りは毎月してくれる。それで十分だ。
「かあさん、か」
 本当の母との離婚の原因は、彼があまりにも家を開けすぎていたせいだと思っているのだが、それにも懲りず父は再婚した。つまり彼の言う『かあさん』はその後妻なわけなのだが――
「あぁ、そうか。知らないんだっけ」
 忘れていた。その二人めのかあさんは、もうこの世にいないのだった。


 ナナが家にきたその日から生活は激変した。
 華やいだ、とでもいうのだろうか。何をするにしても新鮮だった。彼女は自ら外出しようとはせず、わたしの話を笑顔で聞いてくれたり、一緒にお風呂に入ったり。ただそれだけの何気ない彼女の仕草が、その度にわたしの胸を高鳴らせた。
 ただし、たった一つだけ。わたしと一緒にできないものがある。
 それが、彼女の『食事』だった。
 異常に気づいたのは、彼女を家に招いてから二日後のことだった。
 学校から帰宅すると、彼女はどうも不機嫌らしかった。昨夜までは笑顔を絶やすことはなかったというのに、彼女は窓の外を見たまま、低い声で唸ったりしていた。
「どうしたの、ナナ?」
 声をかけても応えてくれない。ただ時折わたしを見る目が、明らかに変わっていたことは確かだった。
「……っ」
 背筋を駆け上る不安と、別の何かに震える。わたしとは一言も口を利かぬまま、夕食時を迎えてしまった。
「ナナ、今日も食べないの?」
 返事はやはりない。わたしの家に来てから丸一日、彼女は食べ物どころか水にさえ口をつけなかった。パンやスープにも見向きもしなかったし、『食べない』というよりは食べたくない』といった様子だった。
「困ったな……」
 仕方なく彼女をおいて、いつも通り一人で夕食をとる。手早くすませて何か好みのものを聞きだしてみよう……そう思っていた矢先、珍しい人間が玄関をくぐった。
「あら、アンタいたの。ちょうどいいわ、なんか食べる物用意して」
 派手な赤い服に、アクセサリーをギラギラと光らせながらその女は言った。月の仕送りの半額以上を費やしている服装なのに、わたしにはみっともなく見えてしかたなかった。
「まったく、いつ見ても汚い家だったら。毎日掃除しなさいよね」
 姿を見るのは殴られたとき以来だから、二週間ぶりくらいだった。わたしが学校に行っている間に、たまに帰ってきたりしているらしいが、顔を合わせる機会がなかったのだ。
「アンタ、アタシをバカにしてんの? もっとマシなもの出しなさいよ!」
 言われたとおりにトーストを出したのだが気に入らなかったらしく、彼女はソレを床に投げ捨てた。
「アタシ着替えてるから。その間に何か別のもの作っておいて。あと、お風呂もお願い。当然、新しく入れなおすのよ」
 そう言って『母』は自分の部屋に消えた。流れから察するに、どうも今日はもう外出しないようだ。
 それはいいのだが、今はまずい。この家にいるのは、わたしだけではないのだから。
 彼女とともに暮らせる喜びが大きすぎて、わたしはこういった障害のことを失念してしまっていたのだ。
「どうしよう……」
 ナナがじっとしている分には、今日くらいならごまかせるかもしれない。でももしわたしがいない間に、あの女が二階のナナを見つけてしまったら……!
「どうしよう、どうしよう……」
 間違いなくナナは追い出される。もしかしたら警察沙汰になるかもしれない。それではもう二度と、彼女と会えないことも有りうる。
「どうしようどうしようどうしよう……!」
 頭の中がぐるぐると回っている。
 彼女と離れるなんて嫌。
 せっかく出逢えたのに別れるなんて嫌。
 もっと彼女といたいのにそれが叶わないなんて嫌――
「なにボーッとしてんのよ!」
 叩かれた頬の痛みで我を取り戻した。
「ご飯作っておけっていったでしょ、このグズ!」
 パジャマ姿の『母』は乱暴にわたしを突き飛ばした。
「こっちはお腹すいてるってのに。アンタみたいなのの顔見てるともっとイライラすんのよ!」
 たぶん。
 わたしはその瞬間ほど、この人に感謝したことは無かった。
「あぁ――そうしよう」
 だって、よやくナナの考えていることがわかったのだから。
「ちょっと、どこ行くのよ!?」
 急いで階段を駆け上がる。
 ナナはやっぱりお腹がすいているのだ。あの態度は彼女なりの空腹のサインだったのだ。
 問題は一つ。『何を食べたがっているか』ということだけだった。
「ナナ、こっちに来て」
 窓を開けようとしていたナナの腕を引く。おそらく我慢しきれずに外へ出て行くつもりだったのだろう。彼女は真っ赤な目でわたしを睨むが、
「……ん」
 こちらの意図を理解してくれたのか、素直に従ってくれた。
 彼女が何を食べたがっているかなど、出逢ったときの状況を思い出せば、考える間でもなかったのに。わたしを彼女のもとへと誘った音。それは、何かを食べている咀嚼音だったではないか。
 そして、あの時、彼女の足元に転がっていたのものは――
「だ、誰よ、ソイツ……!?」
 『母』はナナを見て当然のように驚いた。説明してあげる気はなかった。そんなことより、一刻も早く、ナナに食事をさせてあげたかった。
「ねぇ、ナナ――」
 誓って言えるが、別に彼女でなければならない理由はどこにもなかった。彼女に殺意をもっていたわけではなかった。嫌いではないと言えば嘘になるが、それでも殺すほどではなかったのだ。
 ただ、ナナに早く食事をさせてあげたかったのと――
「ソレ、食べていいよ」
 この人は要らないんじゃないか、そう思っただけだった。

 ナナの食事はあっという間に終わってしまった。彼女は名残惜しそうに、床に残った血を舐め取っている。
 一部始終を見ていたわたしは、これまでに無いくらい昂ぶっていた。
 あぁ……わたしが見たかったのは、こういう彼女だった。血に濡れても尚、いや血で濡れてこそ彼女の本質。
 圧倒的な力で生き物を蹂躙する彼女と、抵抗も許されずに凌辱される哀れな獲物。
 どちらもが、わたしにこれ以上ない快感をもたらしてくれた。
「あ……」
 下着の奥が濡れていることに気づいた。失禁ではない。わたしはこの殺戮に、どうしようもないくらい欲情していた。
「なんだか、いいな」
 自分で言ってみてぞくり、とした。
「それは、ともかく……」
 ナナはまだ床に残った血溜まりに舌を伸ばしている。わたしはその傍らに落ちているものを拾い上げ、静かに口に運んだ。
「これでようやく一緒に食事ができたね、ナナ」
 彼女は四つんばいのまま、血で染まった顔を上げて微笑んでくれた。その様子と仕草がおかしくて、わたしは久しぶりに声を上げて笑うことができた。
 血液を吸い込んで重くなったトーストは美味しいものではなかったけど、共に食事ができた事のほうがよっぽど重要だった。


 夕食を終えると、わたしのすることはなくなってしまう。前までは教科書を眺めたりしていたが、今はそんなこともしなくなった。勉強はすることがないからしていただけで、やりたいわけでもないのだ。
 時間は午後八時を少し過ぎたあたり。フローリングの床に布団を敷いて、電気を消す。ともかくこれでわたしの一日は終わり。
 外は大雨のようだ。屋根を叩く雨音に、ナナの寝息が掻き消されてしまうのが残念でならないが、今はともかく眠りに落ちる。
 明日の朝、一秒でも長く彼女と過ごすために。

 ――そうして夢を見る。

 今まで殆ど見たことなどなかったのに、ナナと出逢ってからは毎日のように見る。
 そう、これは夢。夢だからどれだけ支離滅裂でもかまわない。いきなり知らない女に微笑まれても全然不思議ではない。
 夜ごと現れるのは背の高い女だ。
 服装はナナと同じ高校のセーラー服。長い髪をポニーテールにした、たぶんわたしとそう変わらない歳の少女。鼻筋がすらっと通っていて一見美人のようなのだが、目つきがきつすぎてせっかくの美しさを台無しにしてしまっている。
 端的に言えば、目つきの悪い大女。でも彼女は、たぶん彼女にできる最高の笑顔をわたしへと向けてくる。
 いや、それはわたしに向けたものではないということはわかっているのだ。
 ただ、客観と主観が混同してしまっているから、そのように見えるのであって、要するに彼女はわたしではない誰かに微笑んでいて、これはその微笑まれている者が見ている夢なのであって、わたしはその夢の夢を見ているに過ぎないのであり、ただどういうわけかそれがたまらなく不快で、だって、この女の口元を見れば何を言っているかわかってしまうのだから仕方ないじゃない。

『ね え さ ま』

 この女はそう言っている。その呼び名を口にすることが何よりの幸せであるかのように。
それが、我慢ならなかった。
 だって、これはわたしの夢であって、そうではないのだ。これはきっと、あの子の見ている夢。あの子の心の中。
 確証はない。正直な話、あってほしくない。彼女がどんな意図でこの夢をわたしに送っているのか、あるいは彼女の意思とは関係なくわたしに流れ込んできているだけかもしれない。
 でも、どちらにしろナナの中心にいるのはこの女であり、わたしなんか何処にも――


これは夢。
 だから唐突に場面が変わっても全然不思議ではない。
 浮かんでくるのは飛ぶように流れていく景色。駆けていく二人の少女。
 はぁはぁという荒い息遣い。暗い森の中をひた走っている。
 いや、走っているという表現は正しくない。この状況は『一目散に逃げている』というのが相応しい。何故なら追跡者がすぐ後ろにいるのだから。
 少女は逃げる。幼い身体に鞭打ち、逃げて逃げて逃げ続け、最後に力尽きて躓いた。隣を走っていたはずのもう一人の少女の姿はすでになく、彼女は一人暗闇の森に取り残される。
 哄笑が嘲笑となり叫笑へ変わる。
 こんなものが追う者と追われる者の関係であるはずがない。お互いの体格差そして身体能力の差は歴然だ。すなわち、狩る者と狩られるモノ――狩猟という娯楽だったのだ。
 少女は泣き叫び、最後の抵抗をする。腕をめちゃくちゃに振り回し、スカートがめくれるのもかまわず脚をバタつかせる。
 それが火に油を注いだのか。
 追跡者は人間の姿をかなぐり捨てた。比喩でもなんでなく、化け物へとその身を変生させた。
 歪んだ顔の皮膚が、ミミズが這い回るように蠢動して更に歪む。
 ゴキ、ベキ、という音とともに骨格が変化し、身体が膨れ上がる。
 皮がはじけ、服が千切れ、おぞましい叫びが鼓膜をうつ。
「―――………」
 その光景を前に、少女の精神はたやすく崩壊した。助かりたいとする意志さえ奪われてしまった。
 簡単な話、諦めてしまったのだ。どんなことをしても助からない、抵抗は苦痛をもたらすだけ――なら、どうでもいい、と。
 もっとも、怪物の狙いは別にある。少女の生死など二の次だった。
 少女の服は包装紙のように破かれ、二次成長も向かえていない身体が暴かれ――その腕ほどもある肉塊が未成熟な身体に埋められた。
 耐えられるはずもなかった。そのとき確かに、少女は死んだのだ。身体よりも一足先に、心が死んだのだ。
 怪物は動きを止めた少女を犯し続ける。口も、尻も、膣も。粘液で白く塗り固められたその表情。何の感情も浮かんでいない人形の貌だ。
 でもその顔が、決まって幼い頃のわたしだというのは、どういうことなのか――

 夢を見た次の日の寝起きは最悪だ。
「おはよ、ナナ……」
 ベッドで眠るナナは相変わらずだ。この顔をもっと眺めていたいのだが、あいにくと時間がない。あれだけ早く寝たというのに、時間は登校時刻十分前を示していた。それまでに家を出ないとバスに間に合わない。
 わたしは気だるい身体を起こしてノソノソと台所へと向かう。コーンフレークと牛乳を取り出し、手早く胃に流し込む。着替えて身だしなみを整えて残り三分。
 最後にもう一度二階に上がり、彼女の顔を見ていくのが日課だ。
「こんな時間……それじゃ行ってくるね、ナナ」
 日課なのだが……バス停まで小走りにならざるを得ないのが悩みの種でもある。

 わたしにとって今の学校とはカモフラージュの場でしかない。来る必要もないのだが、突然やめたりすればいらない騒ぎになるから通っているだけ。放課後までの退屈な時間を苦痛に過ごすだけの場所だ。
 授業はほとんど聞いていないし、当然誰かと会話することもない。でも耳に蓋はできないので時折関係のない会話を拾うことがある。
「そういえば、四組の楯岡さん……なんか家出したみたい」
 昼休みに自分の席で購買のパンを齧っていると、近くで机を寄せ合っている三人の女子がそんな話をしていた。
「うそ、スズが!? なんでなんで?」
「今日の朝に職員室に行ったら結構騒ぎになってたの。お母さんから電話があったみたいで……」
「あ、それ知ってる。昨日錫子の家から電話きたって、恵が言ってた」
 どうも楯岡錫子が家出した、らしい。
「マジ!? なんでよ、理由はわかんないの?」
「そこまでは……でもまぁ色々あったんじゃないかな? 楯岡さん、理系なのに文系の大学行きたがってたし」
「あいつ医者の一人娘だもんね。そういうことで親とケンカでもしたんじゃねーの?」
「でも最近家出多いよね……ニュースでも言ってたし」
「家出っていうか、行方不明者が多いんじゃないっけ? サラリーマンとか主婦もいなくなってるって話じゃん」
「気づいたらいなくなっていたってヤツ?う わ、スズもそうなのかなぁ……」
「先生たちもかなり慌ててたよ、またかーって」
「あぁ、この前の三年の不良……」
「シッ!声でかいよ……」
 こちらを伺うように一瞬だけ振り返った三人は、ぼんやりと眺めていたわたしと目があってすぐに顔を逸らした。
「家出、か」
 この街では最近、蒸発事件が多発している。学校や会社などで確かに昨日までいたはずの人間が忽然と消える不可解な事件だ。
蒸発した者は未だに誰一人として発見されず、行方も知れない。中には消えたことに家族すら気づかず、事件の発生が明るみにでるまでかなりの時間が経ってしまったというケースもあるようだから、潜在的な件数は更に多いだろう。
 この学校でも例外ではなく、今年に入って四人の生徒が消えている。
 わたしも無関係ではない。おそらく事件の何分の一かはわたしがやったことなのだから。と言っても何のことはない、ナナに食事をさせてあげただけだ。
 具体的な数など憶えていないが、五十人は下るまい。今思い出したのだが、校内の行方不明者のうち一人は、確実にわたしが殺したようなものなのだった。


 ナナの食事は二日に一回。一回につき一人。
 それ以上は話が大きくなる恐れがあったため控えさせていた。多発する蒸発事件の陰にまぎれるようなかたちが理想的だった。
 ご飯になってもらう人は殆ど無作為に選ばれている。ナナと二人で夜の街を歩き、ナナが気に入ったものを見つければ、人気のない場所ですぐ夕飯となる。その場には必ずわたしも同伴している。そうしなければ彼女は見境なく喰らい続けるかもしれないし――何より、彼女のあの姿を見飽きるということはないのだから。
 幸い彼女は身を隠すのに最適な、不思議な能力を持っているので今まで誰かに目撃されたことは無いはずだ。まぁ、夜の街を徘徊するわたしの姿は、何度か目撃されてしまっているらしいが。
 そんな生活にも慣れてきたころ、図書室であの男が久しぶりに声をかけてきた。
「今日、いつものトコでヤルから。来いよ」
「……えぇ」
 普段なら交わす言葉はただそれだけ。あとは下校後に彼らの隠れ家に行くだけだ。だが、思うところがあったわたしはもう一言付け加えた。
「今日はどのくらい、いるの?」
「あ? さぁ、いつもより多いんじゃねぇの。なんか小林が初めてのヤツも連れてくるとか言ってたしな」
 だとしたら十人強だろう。それでは少し足りないかもしれない。
「もっと……呼んでいいよ」
「――は?」
 彼はその意味をすぐには理解できなかったらしい。三秒くらいの間をあけてから二ヤリと笑った。
「あ、そう。じゃあ期待してろよ。逃げんじゃねぇぞ? そんなことすっと、色々ばら撒くからな」
 逃げるなとはこっちの台詞なのだが。彼は携帯電話を取り出しながら図書室を出て行った。
 食事を終えたナナはいつもどこか不満そうだった。それが不憫でしかたがない。見ればわかるのだが、彼女は明らかに『足りていない』ようなのである。一人を平らげてもすぐ次を探そうとするし、止めるのに骨が折れる。
 一回につき一人、と決めたのはわたしだ。それ以上やれば騒ぎが大きくなりすぎる。そうなれば、わたしたちまで辿り着く者がでないとは限らないではないか。
 わたしの都合で彼女を満足させてやれないのは嫌だった。だから、一度くらい気の済むまで食べさせてあげようと思ったのだ。
 その点、彼らは一箇所に集めるのに効率がよかった。
 わたしは大急ぎで家に帰ると、眠っていたナナの手を引いて約束の場所へと向かった。
「今日はいっぱい食べていいからね」
 きょとん、と上目使いに見上げるナナに、わたしは微笑み返した。

「お、きたきた。今日は早かった……って」
 彼らのたまり場になっているのは、潰れて久しいというゲームセンターだった。立ち入り禁止のロープを越えて裏口から入ると、ガランドウの室内に見えるだけで二十人ほどの少年たちがたむろしていた。どれも同じような服装同じような顔で、とてもじゃないが覚えるなんてできない。
「おい、そっちのは?」
 室内には電気が通っていないため、彼らが独自に持ち込んだバッテリーでライトがつけられている。それも数が少ないため部屋全体を照らしきれない。もう少しいるのかもしれない。
 わたしの後ろにいるナナも見慣れない空間に少し戸惑っているようだ。
「おい、聞こえてんのか? そっちのは誰だってばよ?」
 えぇ、聞こえている。でも『食材』にお客様を紹介する必要なんかないじゃない。
「あ、もしかして俺たちの仲間になりに? さっすが優等生、気が利くじゃん!」
 誰かが言ったその言葉に薄暗い室内が沸き立った。
「いいじゃん! いい加減あいつに飽きてきたところだったしさ」
「ガバガバになっちまったもんなぁ」
「なぁ、あの制服……どっかのお嬢様校のじゃねぇっけ?」
「マジで!? サイコーじゃね!?」
 言いたい放題好き勝手、一斉に喋るものだからうるさくて仕様が無い。
「なぁ、そういうことでいいのか? ならもう始めようぜ」
 あぁ、はじめよう。そろそろナナの眼の色も変わりつつあるし。
 肩に馴れ馴れしく乗せられた彼の手を弾く。
「てめ……っ」
 毒づく男から視線を移し、ナナに眼で合図を送る。すると彼女はふわりふわり、と優雅な足取りで躍り出る。
「遠慮しないでナナ。今日は存分に食べていいから」
 そして、晩餐が始まった。

                 *

 夢遊病者のような足取りで、ナナは獲物の群れの前に立ちふさがる。
「遠慮しないでナナ。今日は存分に食べていいのだから」
 誰かの声。言葉は理解できずとも、その意図するところは十分に伝わっている。
 つまり、今日は我慢する必要がない。
「な、何言ってんだよ、てめぇ?」
 誰かの声。言葉は理解できずとも、その意図するところは十分に伝わっている。
 つまり、これを食べる。
「あ、ぁ――ぁぁあああ――」
 身体が痙攣を始める。被っている人間の殻を内から壊していく。
 僅かな光源に照らされた影が実体となって立ち上がる。
 濃紺のセーラー服が闇と溶け、影が裸身を螺旋に這い上がる。
 身体に巻きついた影は漆黒の鱗となって凝固する。両脚から這い登った鱗は乳房を覆い両腕までを完全に覆い尽くす。
 覆い尽くして喰らい尽くす。彼女の腕の組織は根本から再構築され、両手の五指が飴のように融合し、その形へと進化させていく。
「あ、ぇ、な、なに……なんだよ、これ」
 何かの押し殺した悲鳴。
 それもそのはず、二つの腕はもはや人間のものに非ず。彼女はそこに二頭の竜を飼っていた。
「何コレ、テレビ、撮影か何か……だよな、な!?」
 何かの怯える声。
 少女の歯は牙となり、瞳の色は既に紫――その姿を初めて目の当たりにした鍬原彩は、古の幻想生物『竜人』を連想した。故に彼女はドラゴニュートエクリプス。影魔としての意識さえ死んだ、暴食のエクリプスだ。
「ぁ、は、ぁ――っ」
 竜頭となった両腕をだらりとさげ、少女はゆら、と一歩を踏み出す。同時に彼女の影が室内を暗黒の狩猟場へと変貌させる。
「お、おい、やばいって……なんかやばいって!」
 足元に広がるのは影の浅瀬。空間の概念は書き換えられ、この場の支配者が獲物を睥睨する。
「ぁ………ひ……っ?」
 餓えた眼光が獲物どもの脳髄に己が結末を叩き込む。
 抵抗は無価値。
 逃走は無意味。
 食卓に並べられた料理は食われるためだけにある。
 ならば、この場における互いの関係は何よりも明白だった。
「あ、は」
 吐息を合図に汚泥から幾つもの首が持ち上がる。その数およそ三十あまり。
 盲目の竜頭は見えているはずの無い獲物に大きく口を開けて――
「い、た……ぁ」
 意味を成さない主の命令に呼応し、一斉に喰らい始めた。
 一人目は右腕と脇腹を噛み千切られた。
 二人目は一瞬で頭を噛み砕かれた。
 三人目は既に左脚がなかった。
 四人目は三つの頭に噛み付かれてショック死していた。
 五人目、六人目、七人目――
 裂けた腹から臓物を引きずり出し、割った頭蓋から脳漿を啜る。流れる血液を舐め取り、こぼれる悲鳴さえ咀嚼する。
 その様はまるでダンスだった。理性を失ったケモノと、理性をもたぬバケモノたちのダンスだった。
 弱いものは食われまいと踊り、強いものは喰らうために踊る。立ち止まったものは肉片となって舞台から引き摺り下ろされるだけ。恐怖に駆られて踊り続けるしかない終わり無き舞踏会だった。
 二十人以上の人間は二分で半分に減り、さらに一分でたった一人に減っていた。
 獲物の血も肉も恐怖も、触手を通じて彼女に流れている。獲物を文字通り一片まで喰らい尽くし、彼女は満足そうに壊れた笑みを浮かべる。
 主催者たる女王は一歩も動かず、死の匂いと血の香りの空間に恍惚とただ佇むだけ――

                   *

 血飛沫と肉片が舞い散る中、ナナは悠然と立っている。
 聞こえるのはあの日の咀嚼音だけ。
「く、ぁ……ん」
 堪えきれず喘ぎ声が漏れる。わたしはショーツの中に手をいれ、一心不乱に性器を弄る。
「あ、い……ぃい。いいよ、ナナぁ……」
 それでも眼と意識は血まみれの少女から離れない。離すことができない。
「い、イ……ナナ、わたしイクからぁ……わたし、見て……わたしを見てナナ……イ、ッ!」
 ガクン、と力が抜ける。立っていることも出来なくなり、わたしは床に尻をぶつけた。
「ハァ、あ、ハッ……」
 なんという飛翔感。犯されていてもついぞ感じることのなかったエクスタシーだった。
 自分の奥から噴出した体液に濡れた手と、その向こうのナナを交互にうっとりと眺めていたわたしは、直前までそのカタマリに気づかなかった。
「て、め……なん、で……」
 誰かがわたしの足にしがみついていた。たぶん、図書室でわたしに告白したあの男だろう。腰から下は無く、脚の代わりに腸が伸びているのが可笑しかった。
「……おれ、こんな目に……」
 未だ混乱しているのか、状況がつかめていないらしい。
「ナナ、こっちに食べ残しがあるわよ」
 未だ食事を続けるナナに呼びかけると、脚を掴む手に僅かに力が篭った。
「だいたいおまえ、なんで……おまえだって」
 身体が半分なくとも人間は言葉が喋れるとはじめて知った。
「おまえだって、たのしんでた、じゃ、ねえか、よ……!」
 そんな顔をしていたのだろうか、わたしは。
 そんなことはどうでもいいが、彼は何か誤解しているらしい。ナナにわたしの復讐をさせているとでも思ったのだろう。
 それは――心外だ。
「……勘違いしているみたいだけど。わたし、あなたたちのこと嫌いじゃなかったのよ」
 邪魔な手を振り払って立ち上がり彼を見下ろす。
「へ……な、なら」
 そんなことに彼女を巻き込むつもりなど毛頭ない。彼らを『ご飯』に選んだ理由なんて、たった一つ。
「うん、嫌いじゃなかった――別に好きでもなかっただけ」
 要するに、どうでもいい人間だったからに他ならない。
 彼の次の反応までは空白があった。
「……へ、あ?」
 痛みも忘れてポカンとして、ようやく狂った。
 残った両手をばたつかせ、血を吐きながらわけのわからないことを叫びだした。
 なんとも、素敵に無様だった。
「たすけて! たすけて! たすけて! たすけてなんでもするからたすけておねがいしますいたくてしにそうで死にたくない! 死にたくない! 死にたくないぃ!」
 そんなこと言われても。
 わたしは医者でないのだし、だいたい身体が半分無くなったら、いずれ死ぬに決まっている。
「おねがいしますおねがいしますおねが――」
 触手がその背後から彼の頭を言葉ごと飲み込んだ。シャクッ、という音がして首のなくなった身体が前のめりに倒れ、もう一本の触手に貪られていく。
 返り血がわたしにも跳ね、眼鏡や服が赤く汚れる。
 それを最後に、その日の食事は終わった。
 静寂を取り戻した廃墟に残ったのは、同じように血まみれのナナ。やはり彼女はこうでなくては。
「あ、わたしたちおそろいだね」
 ナナは、それまで見たことのなかった最高の笑顔で応えてくれた。


 その日に確信した。よく考えてみれば、何も遠慮することなんて無かった。
 たとえ多発する行方不明事件がわたしたちの仕業であると暴かれても、誰があのナナを止めることができるだろう。
 何人いようが、人間なんてナナのご馳走にすぎない。向こうから来てくれるなら、手間が省けるだけではないか。
 あの日からわたしはナナの食事に制限を加えなくなった。彼女の好きな場所で、好きなだけ、好きな量を食べさせてあげることにした。
 今日も夜の街に出かけよう。ナナを縛る必要はない。この街の人間を喰らい尽くしてしまうというのなら、違う街にいくだけだ。
 そもそも、わたしたちなんて彼女に食べられるために存在しているのだから。
 いつも通りに図書室で勉強し、いつも通りにバスに乗って、いつも通りに帰宅する。その道筋のなんて待ち遠しいことか。
 今日もわたしの帰りを待っているであろう、あの子の元へわたしは急いだ。

                  *

「……ぁ?」
 ベッドの上で少女――ナナはひとり目を覚ました。
 何を感じたのか、キョロキョロと辺りを見回し、それでも異常を確認できなかったため覚束ない動作でカーテンをあける。
「……っ」
 沈みかかった太陽の光に眼を細めて顔を背ける。
 そもそもここは二階、彼女の気を惹くようなものなどあるはずもない。これが気まぐれであるなら、彼女は再び眠りに落ちていただろう。
 だが、今日はそうではなかったらしい。
「……」
 ナナはやおら窓を叩き割り、地面目掛けて飛び降りた。獣のように四足で着地するとゆらりと上体を起こし、何かに誘われるように街へと向かう。
 名門高の制服を着ていながら、靴も履いておらず、足取りさえも覚束ない。行き交う人はみな、何事かと振り返る。それでも自身は一向に気にしない。気にしているほどの余裕がない。
 そう、彼女は誘われているのではなく、追いかけている。捜し求めるものが逃げないうちに、早く追いつかなければならない。
 自分が何を追いかけようとしているのか、彼女自身わかっていないだろう。ナナには自我などない。あるのはその身に張り付いた衝動だけ。行動に理由などなく、結果さえも求めていない――彼女はもう、壊れてしまっているのだから。
 駅前に着いたころには既に日は暮れ、それでも街は喧騒を保っていた。彼女は奇異の視線を一身に浴びながら、光を避けるように街の暗部へと潜り込んでいく。
「見つけた! ちょっと、君」
 誰か通報したのだろう、一人の警官が彼女を呼び止めた。ビルの谷間には街の光は届かず、彼の手持ちライトだけがナナの姿を浮かび上がらせている。
「こんなところで何してるの。靴もはかないで……とにかくちょっときなさい」
 生真面目そうな若い巡査だった。彼は振り向きもしない少女に手を伸ばし、
「さぁ、こんな所にいちゃ危ないか――」
 今日一人目の犠牲者となった。
「い、ぅ……」
 ナナの影から湧き出した竜の触手は警官を貪り尽くし、すぐにまた影に潜る。暗い沼は留まることなく、あっという間に地面を覆い尽くしていく。この沼はナナの影であり、触手の通り道である。半径一キロにわたって拡げられた影がそのまま彼女の索敵範囲となる。ナナは無意識のうちに触手を広範囲の偵察手段に利用したのだ。
 しかし白痴に近い彼女の思考では触手の細かなコントロールは不可能だった。偵察にだした端々で触手は彼女の思惑外の行動を起こし、生き物を食べつくすだろう。幸いなのは、その影が多くの人々のいる中心街まで伸びなかったことだ。薄く伸ばした影では街の明かりに掻き消えてしまう。それが『幻影』に近い彼女の力の限界であった。
 彼女は一時間近く待ち続けた。その間、何を思っていたのかは知るすべはない。ぼんやりと、ビルに切り取られた暗い空を眺めていただけだった。
 やがて触手の大半が何の成果を得ることもなく彼女に戻ってきたが、ごく一部――繁華街方面へと送り込んだ一群が帰ってくることは無かった。
「あ、あああぁ、ぁ」
 その表情、なんとおぞましい喜悦だろう。正体さえ知らぬ標的の影を捉えた彼女は、覚束ない脚のまま追跡を再開したのだった。

                  *

 消えたナナを探し始めてからそろそろ二時間が経とうとしている。一緒に行ったことのある場所は大体見てまわったのだが、一向に見つかる気配が無い。移動し続けているのか、それともわたしの知らない場所にいるのか。いよいよ焦りが募ってきた。
 学校から帰宅し、割られた窓ガラスと無人の自室を見たわたしは鞄を投げ捨て、すぐに外へ飛び出した。そのとき何を考えていたのかを思い出すことさえできないほどにパニックになっていた。今は幾分冷静さを取り戻したつもりでも、心がざわついて落ち着かない。
 どうして一人で外にでたのか。
 窓を叩き割るほど切迫した事態があったのか。
 何か不満があったのだろうか。
 それなら、なぜわたしが帰るまで待っていてくれなかったのか。
 何故――わたしを置いていってしまったのか。
 まさか、と最悪の結論に至った思考を振り払う。
「そんなはずない。ナナがわたしを捨てるなんてない」
 言葉にだして自分に言い聞かせる。そうでもしないと、気が変になりそうだった。
「そんなはず、ない……ナナが、わたしを捨てるなんて……」
 でも、思い返してみるがいい。
 彼女の瞳は、本当にわたしを見ていたのか。
 彼女の心に、わたしの居場所はあったのか。
 その証拠に、彼女は一度でも、わたしに話しかけてくれたか……
「そんな、はず……」
 彼女にとって、わたしはなんだったのか。
 彼女にとって、わたしとは―――
「あ――」
 急に力が抜けた。わたしは立ち止まり、背中を閉じたシャッターに預ける。重たい疲労感が全身を包み、動きたくなくなってくる。
 このまま、彼女を見つけることができなければ、そのときは、わたしは……
「意味、ないじゃない」
 せっかく見つけることができた大事な人なのに。ようやく乾ききった生活から抜け出せると思ったのに逆戻り。わたしはまた、生きている意味を見失ってしまう。
 時計を見ればもう九時になろうとしている。こんなところで休んでいる場合じゃないのに、わたしの身体は動こうとしない。
 諦めかけている。もう彼女は戻ってこない。もう彼女がわたしを見ることはない、と。
 虚空に彷徨わせていた視線を人ごみに移す。あの子のことだ、もしかしたら迷子になって困り果てているかもしれない……なんて都合のいい推測で自分の気持ちを奮い立たせて、わたしは預けていた背中を離した。
 ――それが視界に入ったのは、そのときだった。
「あ」
 少女はわたしを見て、『しまった』とでもいうような顔をした。わたしもなぜ彼女がここにいるのかわからず、眼を白黒させた。
「あー……」
 彼女――楯岡錫子は気まずそうに眼を泳がせて、
「あの、鍬原さん、こ、こんばんわ……意外だね、こんなところで会うなんて」
 何故か、わたしに挨拶をした。いままでこの夜の徘徊を誰かに見られることはあっても、直に声をかけてきたのは彼女が初めてだった。昼休みの雑談では彼女は家出したことになっていたが、そうなのだろうか。確かに制服は着ていない。
 突然の会話に、わたしは何をしゃべればいいかわからず、わたしは昨日の図書室での一件を思い出した。
「昨日は、ありがとう……」
 もちろん、うるさい二人組を図書室から追い出してくれたことに関してなのだが、彼女には覚えがないのか小首を傾げたりしている。わたしも喋ることがなかったから言っただけで、深い意味などないが。
「もしかして、誰かを待っているの?」
 お互いこれ以上話すことなんてないだろうに、なんでいちいち喋りかけてくるのだろうこの人は。
「いえ、別に」
 答えると今度はうう、とか眉間に皺を寄せて呻いている。
 本当に何なんだ、この人。
 のほほんと現れて。
 あんなにたくさんの友達がいるっていうのに、何が家出だ。
「楯岡さんは――」
 気づけば声が出ていた。止めようとも、止めようと思うこともなかった。
「楯岡さんは、いいよね」
 この人は、いい?
 どうして?
 いつも周囲に友達がいるから?
 わたしにそんなのはいらない。
 わたしにはナナがいるから。
 わたしには、ナナが――
「え……?」
 そうだ。
 今は、そのナナがいない。唯一無二のナナが、消えてしまった。
 だから、わたしは、この人が、羨ましいのか。
「……」
 雑踏の中にあって、わたしたちの間には重苦しい沈黙があった。どちらかがこの場を去ればいいのに、どちらもそうしなかった。
 それを破ったのは楯岡錫子を呼ぶ声だった。
「待たせて、ごめん……」
 息を切らせて走ってきたのは初めて見る女性だった。焦げ茶色の革製ジャンバーにジーンズという格好、更に背も高いため一見すると男性にも、見え――
「全然へいきです!それより早紀さんの方こそ……」
 ――――。
 待て。
「私は大丈夫……その、後ろの人は?」
 なんで。
 なんで、この人が、ここにいるのか。
 楯岡錫子がいるよりずっと不自然ではないか。
 この女は、夢の中にいないとおかしいじゃないか。
「あ、この人は学校の友達の――」
 髪型とか、たぶん歳とかは違うけれど、間違いない。
 ナナのことを『ねえさま』と呼んでいたこの女が、今、わたしの目の前にいる。
 そう、か。
 あぁ、これで繋がった。
 彼女が実在することで、繋がってはいけないものが繋がってしまった。
「楯岡さん、わたしはこれで」
 形だけの会釈をして、わたしは早足にこの場を離れた。
 唐突に消えたナナ。
 実在した夢中の女。
 この二つが偶然でないとしたら、導かれる推論は多くない。
 もう疲労など気にしている場合ではない。早くナナを見つけないといけない。
 ナナが、あの女を見つけてしまう前に。
 ナナをあの女に盗られないために。

 駅前や繁華街だけでなく、普段行かないような場所にまで脚をはこんだ。もう破れかぶれ、タクシーなども使って町中を虱潰しに捜してまわった。
 結局ナナを見つけることができたのは日付が変わった少し後だった。彼女はわたしの家からだいぶ離れた住宅地の中にある公園にポツンと立っていたのだ。
 公園の空気はどんよりと澱んでいるようで、胸が焼け付くようだった。この感覚にはなじみがある。ナナが食事をとった後はだいたいこんな感じだ。
「ナナ!」
 大声で呼びながら近づくと、彼女は暗い瞳でわたしを見た。
「さ、帰ろう。歩き回って疲れたでしょ」
 手をとっても彼女はまるで反応しない。
「ナナ、どうしたの。ほら……」
 やはり、そうなのか。
「……やっぱり、あの女を捜しているのね」
 ナナは答えなかった。
「あいつがなんなのか知らないけど、きっとあいつはナナのことなんか気にしてない。でって、全然関係ない人と楽しそうにしていたもの。だからあんな奴のこと忘れて……」
 その代わりわたしの手を解き、無言で歩き出す。わたしには離れていく小さな手を繋ぎとめることができなかった。
「ねぇ帰ろうよ、ナナ……」
 一度も振り返らず。脚を止めることもない。
 もうナナはわたしを見ない。いや、おそらく初めからわたしなんて見ていなかった。
 この一ヶ月間をわたしの家で過ごしたのも便利がよかったからだけかもしれないし、もしかすると鳥の刷り込みと同じで、最初に見た『ニンゲン』だったからついてきただけかもしれない。
 「ナナ……」
 それでも、わたしは彼女が好きなんだ。
 あの夜に感じた想いは未だに色褪せていない。
 そう……わたしは生まれて初めて、恋をしているのだ。
「まって、ナナ!」
 だから追いかけた。
 彼女にわたしが不要でも、わたしには彼女が必要なんだ。彼女がわたしの傍にいてくれないのなら、わたしが彼女の傍まで追いつく。
 追いついて、そして?
 そして、わたしはどうしたいのだろう……


 何かに惹かれるように歩くナナと、それを追うわたしが辿り着いたところ。それは、見たことも無い廃病院だった。
 かなり前につぶれたものなのだろうか。こんな裏通りに病院が建っていることなどまったく知らなかった。
「ナナ、こんなところに何か用があるの?」
 深夜の病院はそれだけで異様な雰囲気を放っている。ましてやこの建物は明らかに、違う。おそらく中に入ったらもう二度と戻ってこられない。ここ自体が罠であり、胃袋のような一種の捕食器官のようなものに思えた。
「な、ナナ!」
 そんなことナナは気にも留めない。彼女は何の躊躇いもなく敷地に脚を踏み入れ――
「こんな夜更けにどんな御用かね。急患だというなら診てやらんこともないが――」
 その、あるはずのない声に、呼び止められた。
「そうでないのなら不法侵入は控えて頂きたいな。これでも一応、病院なのでね」
 いつからそこにいたのか。
 一人の医者が病院の入り口に、さも当然のように立っていた。
「あなたは……」
 なんだか、危険な気がした。
 いや、危険というか不吉な……
「わたしはここの院長をしている者だ。見たところ病人でもなさそうだが……ほう?」
 白衣を纏った長身の青年の目がナナにとまる。
「意外だな。同胞とは」
 黒縁眼鏡の奥、鋭利な瞳に射抜かれてナナが震える。
 あのナナが、震えている。
「あ、あ、ぁぁ……」
 こんなナナは初めて見た。
 怯えているのか、怒っているのか。それとも――
「あ、あああぁぁぁ!」
 この医師を、『食事』ではなく『敵』として認識したのか。
 青年医師を睨みつけ、自らの影を開放しようとして、
「狼藉は控えたまえ。言っただろう、ここは病院だと」
 医師の足元から生えた何かによって、一瞬の間に全身を拘束されていた。腕、足、胸、そして首に巻きついているのは植物の蔦のようであった。
「う、ぐぁ、ぁ……」
「ナナ!」
 わたしは蔦に手を掛けるが、まるで大樹のような硬さのそれを解くことなど出来るはずもなかった。苦しそうに呻く彼女の声だけがわたしの心を切り裂いていく。
「ふむ、ただのエクリプスではないようだ。もう少し詳しく診察したいところだな……」
 クツクツと嗤う。まるでケースの中のモルモットを見るようなその眼。我慢できなかった。
「う、むっ、ぐぅ……っ!」
「苦しいかね? なに、内視鏡だとでも思いたまえ」
 ナナの唇を割って、蔦が口内へと侵入する。喉奥まで突き入れられたナナの両目に涙が滲んでいた。
「やめて……やめさない!」
 わたしの声など届かない。苦しげにもがくナナの声は次第に高くなり――
「むっ、うう、ぐ、あ、ぅえぁぁぁ……!」
 眼を見開き、身体がビクビクと痙攣した。そして糸の切れた操り人形のように、動かなく、なった。
「な……ナナ、ナナぁぁーっ!」
 わたしの叫びにもまったく反応しない。最悪のイメージがよぎる。
「くく、こんなところか。それにしても……」
 医師は満足な結果をだした実験動物に見せるような満足そうな笑みを浮かべて、
「これは驚いた。まさか一度『死んでいる』とは。それゆえ、ここの淫気に引寄せられたということか」
 と、わけのわからないことを、口にした。
「何、ですって……」
「言葉通りの意味だが、わからんのかね」
 言葉通り?
 何を、この人……いや、そんなことより!
「いいから……ナナを離しなさい!」
「ふむ?」
 だがそれが反抗といえたか否か。医師に掴みかかろうとしたわたしは、ナナと同じようにあっけなく捕縛されてしまっていた。粘液まみれの蔦がわたしの手首と脚をギリギリと締め付けていく。
「やれやれ、きみはもっと賢そうに見えたが……所詮は低脳の範疇か。せめて診察結果くらい落ち着いて聞いたらどうかね」
 彼はさも楽しそうに言う。その押し殺した笑いはやがて耳障りな哄笑となる。
「彼女は一度滅んでいる。失われた肉体を甦らせる影魔もいると聞くが、どうやら彼女はそうではないようだ。おおよそ見当がつくが……そうか、こんなところにもあのお方の影響が出始めているということか」
 意味不明の言葉を吐き続ける医師。
 だが、ふとその笑いをやめて言った。
「もしかすると、無差別に人を襲い続けているエクリプスとはきみのことかね」
「な……」
 脊髄に氷柱を打ち込まれたかのようだった。
「私は穏便に行っているというのに、随分と派手にやっているようだな……」
 ナナを止めることなど普通の人間がいくら集まってもできはしない。警察どころか自衛隊が来ても負けないだろう。
 だが……普通でないものがいるとしたら?
 ナナと同じような力を持つものが他にもいると、何故考えなかったのか……!
 ナナでさえ手も足もでない。わたしなど言うに及ばない。ナナの生命与奪の権利を握っている医師はにやりと哂って。
「ふふ、そんなに怯える必要はない。私はきみたちを咎める気などないのだからな」
 あっさりと手足の蔦を解いた。
 いきなり離されたせいで思わず前につんのめる。ナナの口からも触手が抜かれ、彼女はその場にがくりと倒れた。
「ナナ、ナナっ?!」
 抱き起こす身体に力がない。でも微かに動く細い眉に、それが気絶であると安堵した。
「我らが主の帰還……新たなる影魔王ご聖誕の日は近い。その日、人間の歴史は終わりを告げるのだ。ならば今多少減ったところで何の変わりもないだろう?」
「えいま、おう……?」
「そうとも、それこそ我が悲願! 喜ぶがいい! きみもこの街にいれば、そう遠くない日に目にすることができるだろう……この世を統べる絶対神のお姿を!」
 それまでの落ち着いた喋り方がまるで嘘のようだった。彼は熱に浮かされたように意味のわからないことを喋り続ける。
「ようやくだ……ようやくここまでこぎつけたのだ。もはや誰にも邪魔はさせん……もしきみたちがこの計画を阻もうというのなら話は別だ。我らが王に代わって私が今この場で処罰する。さぁ、どうするかね」
 訊かれてもわたしたちには関係もないことだ。そもそも何を言っているのか、まるで理解できない。
「別に何の邪魔をするつもりもないけど……それよりナナは」
「ならば結構。あぁ、そのエクリプスか。心配はいらん、神経から脳に少々介入して情報を読み取らせてもらっただけだ。半日もすれば意識を取り戻すだろう」
 神経から脳に? 情報を読み取る?
 そんなことが可能だというのか。可能だとしてそれがどのような行為なのか、わたしには検討もつかなかった。
「彼女は影魔というより亡霊に近いものがあるな。肉体の再構成が不十分だったために様々な部分が抜け落ちているようだが、それにしても貴重なサンプルだ。本来なら君ともども標本にしたいところだが……生憎と今の私にはその時間も惜しくてね」
「……ともども?」
 医師は愉悦をかみ殺している。相変わらず嫌な笑い方だった。
「あぁ。きみ自身も、ニンゲンにしては非常に特殊だ。まさかエクリプスと共存する者がいようとはね。普通ならば一日と持たず殺されるか発狂するだろうに」
 そんなことまで言い出した。わたしは何も答えず、ナナを背負う。ナナが意識を失っている以上、これ以上ここにいる理由はない。
「私に関してもそうだ。私は精神科医ではないが……きみは『自身の死への恐怖』が麻痺しているのではないかね。むしろそれを愉しんでいる節さえある」
 そんなことはない。死ぬのは怖いに決まっている。
 死んだらナナに会えないではないか。
 もう相手にしない。ナナの冷たい体温を感じながら、病院に背を向ける。
「それとも、壊されてしまったか? たとえば……幼いころにおぞましい化物と出遭ったとか」
 ぴたり、と勝手に脚が止まった。
「こわされた……?」
「おや、心あたりがあるのかね?」
 それは、あの夢の少女のように?
 まさか……まさか。
「知りません」
 そう、知らない。憶えてないのだから、知っているはずがない。
 あれは荒唐無稽な夢の話だ。
「ふむ……まぁ、きみのトラウマを暴いたところで私の益になるわけでもないがね。あぁ、では最後に一つだけ教えてあげよう」
 ……だが、もう一つの夢の女は実在したのだ。なら、本当に――?
 嫌な余韻だけを残し、背後で医師の気配が薄らいでいく。
「昨日あたりから、この街にネズミが紛れ込んでいる。郊外の捨てられた教会を根城にしているようだ。気になるのなら行ってみたまえ」
 今の私たちの目的を知っているかのように、驚くほど的確で予言めいた言葉だった。
「何故……それを?」
 振り返ることなく尋ねる。医師の気配は殆ど感じられなかった。
「約束の日は近い。言ったろう、取るに足らない小物にかまっている暇などないのだ。きみたちが駆除してくれるならそれでいいし、その価値もないと思ったのなら放っておきたまえ」
 声だけが闇夜に反響する。
「それだけで僅かではあるが王の再臨に貢献できるのだ。同じ影魔としてそれ以上の光栄もあるまい……あぁ、いや失礼。その狂犬に自我などないのだったな」
 あの哂いだけが、最後まで耳にこびりついていた。

 ナナを背負って暗い道を歩く。とにかく家に帰ることが先決だ。
「……っしょ、と」
 ずり落ちそうになるナナの体勢を直す。
 体力のないわたしでも十分に背負えてしまうくらい、ナナは本当に軽かった。背中越しに感じる冷たい体温もどこか心地好い。
 間近で聞こえる規則正しい寝息は、彼女が熟睡していることを示している。あの医師にやられたこともあるのだろうが、今日は動きすぎたのだろう。
「すぐにベッドで寝れるからね……そうしたら、また」
 また、なんだというのか。
 いままで通りの生活に戻れるとでも思っているのか。
 ナナはきっとまた一人で街に出る。見つけるまで何度でも、あの女を捜し続けるのだ。
 そして、もし見つけてしまえば、もう二度とわたしの元へは戻ってこない。
「また、わたしだけを――」 
 それは叶わない。
 もともと奇跡のような出逢いだった。わたしとナナが出逢う必然はどこにもなかった。
 なら、この時もまた泡沫の夢だったのか。
 あの医師はヒントを与えた。こちらの思惑を見透かしたような的確すぎるヒントだった。それが楯岡錫子と共にいた女の居場所なのかはわからないが、探す価値は十分にある。
 あとは、その情報をどう扱うかだけ。
 それだって、選択肢などないに等しい。
 崩れ落ちる橋の上に突っ立っていればただ落ちていくだけ。もう戻れないのだから、前にしか進めない。
 なら、答えは決まっている。
 ナナが喜ぶのならなんだってする。たとえそれが、わたしから離れていくことであっても、だ。
「大好きだよ、ナナ……こんなにも大好きなのに」
 わたしにも、あいつらを捜す理由ができた。黙って見逃すつもりはない。
 どんな経緯かは知らないが、楯岡錫子があんな女を連れていなければ、こんなことにはならなかったのだ。
「――さない」
 許せない。
 あいつらだけは許せない。
 わたしからナナを奪っていくものを、わたしは許すことができない。
「あぁ……なんだ」
 そこではっとした。
 他人に興味を持てないはずの鍬原彩は、あの二人を憎いと思っていた。
「く……く、くくくくっ」
 あぁ、愉快。
 なにが『他人に興味を持てない』だ。こんなにどす黒い感情がこの胸に渦巻いているじゃないか。
 よかった。わたしはどこもおかしくなんかない。
 大切に思う人がいて、その人と別れたくないと思っている……ほら、わたしはこんなにも正常な人間だ。
 そうとも。だからこそ。それ故に。
「必ず行くから……」
 人間らしく、憎らしい相手を殺しに行く。
「必ず、殺しに行くから……!」
 


 でも今は家に帰ろう。
 わたしとナナの二人だけの家へ。
 どうせ最後になるのなら、せめて一度くらいは同じベッドで寝てみたいな――


                                     (続)


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