童話の守人

幕間・4 〜Re‐Birth〜

 発端の日の話をしよう。


 今から遡ることひと月ほど前――日も昇らぬうち、異変は訪れた。
 眠りに落ちている者は、見たこともない悪夢にうなされた。
 目を開けている者は、唐突に震えだした自らの身体に怯えた。
 人々は理性ではなく本能で、まだ見ぬ恐怖を察知したのだ。
 誰もその恐怖の真の理由を知ることなどないまま太陽が昇り、それでも異常は止むことがなかった。
 昨夜まで健常だったにも関わらず目覚めることなく息絶えている者、連続して発生した暴力事件によって命を落とす者が相次いだ。
 ある小学校では写生の授業にも関わらず奇怪な怪物の絵を描く児童が後を絶たなかった。
 傷害事件や交通事故で病院に運ばれる者が続出する一方で、その日に行われた出産は一件の例外もなく死産となり医療関係者は天を仰ぐしかなかった。
 誰が知ろう、これらの異常事態が後の災厄の序章ですらなかったことに。
 そう、いわば蠢動だった。
 ほんの小さな鼓動だった。

 これは――終末の影の、胎動だったのだ。

 この混乱は、未だ聖母の胎内で眠る王がたった一瞬、その存在を垣間見せただけのことだった。その真の恐怖をここで述べる必要はない。つまるところ、これが彼女の復活の原因だった。
 もしや、誕生さえしていない次代影魔王の気まぐれだったのか。街に放たれた陰気は人々を侵すだけでは飽き足らず、絶対であるはずの生死の定理さえ覆してしまった。
 死して漂っていた影魔の中でも強力な魔力をもっていたものが、影魔王の加護を受けることにより肉体を再構成するだけの力を得たのだ。
 それが彼女、ナナと呼ばれるエクリプスだった。
 異常だらけの一日が終わろうとしていた寸前のころ。太陽の残光に照らされて、彼女はこの世に二度目の生を受けた。
 立っていたのは丘の上の幽霊屋敷、身につけているのは濃紺のセーラー服。
 彼女は自分がなぜこんな所にいるのか、考えることができなかった。
 当然だ。死人はものを想わない。そしてナナはすでに死んでいるのだから。
 再度現界した意味を彼女が知る道理はない。
 彼女でなければならない必然もなかった。
 あるのは、彼女がこの街に発生した影魔の中でも、飛びぬけて高い魔力を持っていたという事実だけだった。
 しかし、いかに再生を遂げようと、黄泉路から戻った彼女は以前の彼女ではなかった。
 肉体の再構成は完了したものの、所詮は仮初の身体を得ただけの亡者に過ぎない。身体のあちこちには綻びが生じ、身体機能はおろか脳に至っては常人の半分も活動していない。
 その結果が、まるで白痴のようなあの様だ。
 今の彼女は深い眠りのなかにいる。
 それは蹂躙された身体の再生のための眠りであるが、それ以上の意味を持つ。
 彼女は眠りのたびに脳内の記憶を反芻している。忘れてなどいない。ただ考えることができないだけ。だから彼女は夢という形で何度も何度もそれを思い描く。
 大切なものだと感じているのか。それとも生前の人格の破片が足掻いているのか。理解できずとも、そこに何度も手を伸ばす。
 決して埋めることのできないピースは、失った半身と対峙したときに当てはまるだろう。
 
 だからそれまでは――砕けた夢を、見ているようだ。
 
 
 
「だれ……?」
 部屋に響いた物音で彼女は目を覚ます。枕元の目覚まし時計は夜中の三時を指していた。
 恐る恐るベッドから身体を起こして様子を伺うと――
「なんだ、びっくりしたぁ……どうしたの?」
 ドア半分から身体を覗かせている少女は俯いたまま、何かを握り締めていた。ここまできたのはいいが、どうしようか迷っている……そう見えた。
 彼女がこの屋敷も戻ってきて二ヶ月が過ぎたが、こんな妹は初めて見た。
「いいよ、こっちに来て」
 見かねた彼女は優しく手招きした。ぱあっ、と顔を明るくし、小走りにベッドに潜り込んできた妹を強く抱きしめ、彼女を真似て伸ばし始めたという髪を撫でてやる。
「もしかして、またお父様たちに酷いこと言われたの? ぶたれたりしなかった?」
 妹は小さく首を横に振った。
 同じ小学校に通い同じ家に帰ってくるものの、帰宅すれば二人の距離は大きく隔てられてしまう。彼女は家に着くなりピアノのレッスンやら家庭教師による予習復習のせいでずっと自室に拘束され、妹の方は大人の使用人たちに混じって寝るまで家事をさせられている。
 彼女としても決して納得しているわけではないが、これだけはどうにもできなかった。
 親類とはいえ『余所者』である妹をこの家に住まわせ、尚且つ彼女と同じ学校に通わせてもらうにはこれが絶対の条件だったからだ。
「――ちゃん、眠れないの?」
「うん……」
 まだ幼い身体で日付が変わるまで家事をさせられて眠くないはずがない。それでも眠れないのだとしたら、それは不安か孤独か。
 だが妹はそれを決して口にしない。姉様と一緒ならそれだけで楽しい、といつも笑う。それが堪らなく痛々しく思えて、でも結局何もしてあげられない自分に憤る堂々巡りだ。
「なら姉様が物語を聞かせてあげる」
「……ものがたり?」
 だから自分の目の届く範囲では、いつも妹に優しくしてあげようと決めていた。
「そうねぇ、こんなお話はどう? きれいなお姫さまが悪い竜にさらわれちゃう話でね、すっごくおもしろいんだから。もしかしたら逆に眠れなくなっちゃうかも」
「わるい竜……?」
「怖がらないで。最後には勇敢な騎士さまが、ちゃんとお姫様を助けるんだから!その間の大冒険のお話なのよ?」
 必要以上に怯える妹に、彼女はやさしく語りだした。
「えっとね、ずっと昔のお話。外国の小さな国のお話……」
 話しながら筋書きを考える、とんだ即席童話だった。
「その国にはすごくきれいなお姫さまがいたの。でもね、ある日悪いドラゴンがやってきて、お姫さまをさらってしまった。
 ドラゴンはこう言うのよ。『この姫はおれさまの嫁にするからもらっていくぞー』って。
 お城の兵士たちは止めようとしたけれど、ドラゴンはとても強くて歯がたたなかったわ。
結局お姫さまはさらわれてしまって、困った王さまは国中の騎士たちにお姫さまを取り返すように命令したの。
 でもドラゴンはとても強いから誰も名乗り出なかった。王さまはますます困ってしまったけれど、とうとう一人の若い騎士が立ち上がったのよ」
 妹は興味津々に聞き入ってくれた。目を輝かせて、続きを聞き逃すまいとしている。
「その騎士はね、お姫さまの小さいころの遊び相手だったの。
 大きくなって騎士さまになってお城を守ることになったけど、お姫さまがさらわれた日はたまたまお仕事で遠くに出かけていたからお姫さまを守れなかったのね。
 だから彼は命を懸ける大冒険に出発するの」
 ここまで話して彼女はうーん、と少し考えた。
 勢いで話したはいいが、この先がまったく思いつかなかった。あまり本を読むわけでもないし、テレビを見る時間も少ない。彼女の想像力はあっという間に底をついてしまったのだ。
「それでね、んーと……騎士さまは一人でドラゴンのいる山まで旅をすることになるんだけど……えぇと」
「……ねぇ、姉さま」
 それまで聞き手だった妹が声を上げた。
「その竜はつよいんでしょう? その人はこわくないの?」
「え? うーん……そうかもね」
「でしょ? それなのに……どうしてお姫さまを助けにいこうなんて思うの?」
 私はこわいのは嫌、という呟きを聞いた気がした。
「うーん、でもね」
 なんだか話が逸れてきたようだが、それでもいいと思った。彼女は妹が安心して眠ってくれればいいのだ。そして気持ちよく朝を迎えて、笑いながら学校に行ければ、それでいいのだ。
「その騎士さまはお姫さまのことがすきだったのよ。すきな人のためなんだもの、怖いのだってがまんできるわ。姉さまだって――ちゃんのためならどんな怖いことだってがまんする。ぜったいにまもってあげるって、言ったでしょ?」
 二人が姉妹となった日の誓い。
 それは、彼女だけのものではなかった。
「……うん、私も」
 妹が彼女の手に手を重ねる。その中にあった冷たい輝き。初めて見る、壊れたロザリオだった。
「姉さまが私をまもってくれるなら、私も―――」
 彼女の妹も真剣な瞳で……


 なんて、言ったのだっけ?

 欠けた脳によるリピートはここまで。
 偽りの再生、仮初の身体、あり得ざる命。
 しかしそこに宿る記憶だけが、正真正銘。
 奇跡と冒涜と矛盾が混沌とする『現象』、それが彼女だ。
 物語の結末も、姉妹の誓いもすでに触れられないところにある。
 彼女がそれを知ることはないだろう。

 それが悔しいのか悲しいのかもわからぬまま、ナナは――針生奈々は夢を見る。
 
 砕けたゆめを、夢見ている。


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