次に、少し昔の話をしよう。
「早紀ちゃん、ちょっと来て」
一日の授業を終えて荷物を鞄に詰めているときだった。突然やってきた姉は強引に彼女の腕をとった。
百五十三センチの小柄な身体に、腰に届くほど長い髪。まるでフランス人形のように端整な顔は、あどけなさよりも気品を感じさせる美しさだった。
矢桐早紀の姉、隣のクラスの針生奈々だった。
「どうしたの姉様、まさか今日も部活をサボる気じゃ……」
もう二週間も美術室に顔をだしてないけど、といいかけた早紀をグイグイ引っ張って教室を飛び出した。
「いいから早くこっち!」
長い髪をなびかせて二人の少女は廊下を駆け抜けた。廊下にいる生徒たちが何事かと振り返る。教師に見つかれば指導室行きの校則違反なのだが、奈々はまるで気にも止めず息を切らせる。内心で冷や汗をかきながら、早紀もポニーテールを揺らして走った。
そう、この頃矢桐早紀の髪は長かったのだ。
「ハァ、はぁ……ここならいいかしら……」
辿り着いたのは体育館の裏、葉桜の下だった。
「姉様どうしたの、何か相談でもあるの」
普段から快活な姉であるが、ここまで取り乱すのは珍しい。よほど重大な話なのだろうと早紀は息を呑んだ。
「違う違う、そうじゃなくて……」
奈々は滲んだ汗を拭いながら、スカートのポケットから細長い包みを取り出した。
「はい、お誕生日おめでとう早紀ちゃん。ハッピーバースデー!」
「……え?」
ぽん、と掌に乗せられたそれを呆気にとられて見つめる早紀。
「今日に限って、ホームルームで風紀委員の持ち物検査が入るんだもの。慌てて飛び出してきちゃった」
不要物の持ち込みはやはり指導室直行コース。あれだけ焦っていた理由もわかるというものだった。
だが……
「私の為にわざわざ……?」
そんな危険を冒したのいうのか。
本人も忘れていたような、どうでもいい日の為に?
「いいから。ほら開けてみて!」
急かされながら丁寧に包装紙をとって蓋を開けると、パールのケースが現れた。その中にあったものは。
「姉様、これ……」
純銀のネックレス、いやシンプルな白銀のチェーンだった。
「本当は毎年ごとに何かあげたかったのだけど、時間がとれなくて」
奈々は照れながらそれを手にとり、少し背伸びして早紀の首にかけてくれた。
「あ、早紀ちゃんアレルギーとかないかな?私、何も考えずに買っちゃった」
「えぇ、それは大丈夫だと思うけど……こんな高そうなものどうして」
「チェーンだけだからそんなに高くないの。一万とちょっと……だったかしら」
それがアクセサリーとして高いのか安いのか、早紀には判断がつかなかった。
「そんなお金どこから……?」
奈々の両親は必要なものを言うと殆ど買ってくれるが、逆に言えば一切の金銭を持たせていない。彼女がこんなものを買うなど、不可能に近いことのはずだ。
「大丈夫、アルバイトして買ったんだから」
「アルバイト!?」
話をきけば、ここ二週間ほど部活の時間を近くの商店街でアルバイトしていたという。八百屋の店番から酒屋の棚卸まで、その日人手の足りない店の助っ人だとか。
今度こそ早紀は目眩を覚えた。アルバイトなど指導室どころか退学にもなりかねない。
「どうしてそんなことを! 姉様が退学にでもなったら私は……」
「黙っていてごめんね。でも決めてたの」
奈々は狼狽する早紀に優しく微笑んだ。
「早紀ちゃんの誕生日には、自分で働いて貯めたお金で贈り物するって」
「え……」
「正真正銘の私の気持ちだから」
その言葉に、胸が熱くなった。
「他にすごく可愛いのがあって最後まで迷ったの。でもこっちにしちゃった。ほら、早紀ちゃん大切にしているロザリオがあるでしょう」
「う、うん」
「これに通して、いつも身につけてたらいいよ。お母様の大切な形見なのだから」
普段は屋敷の彼女の部屋に置いている壊れたロザリオ。早紀にとって、たった一つの母の遺品。
奈々にもずっと前に一度だけ見せたことがあったが、彼女はちゃんと覚えていた。
「でも、校則でそういうのは……」
「平気よ。お母様の形見です、って言えば先生方も取り上げるなんてしないわ」
嘘じゃないしね、と奈々はウインクまでして見せた。
「うん、わかった……大切にする」
ぎゅっと握りしめた白銀がほのかに暖かい。
「ありがとう、奈々姉様」
その温もりを確かめるように、早紀は何度もチェーンに触れる。
そして、自分よりも嬉しそうな姉の顔を見て、心からの感謝を述べた。
静かな風が心地好い、春の終わりのことだった。
|